ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:マグダラの聖マリア日

2016-07-22 06:19:57 | 説教
断想:マグダラの聖マリア日

ゴードン・トーマス『イエスを愛した女、聖書外典:マグダラのマリア』(光文社)
この本は貴重な資料である。研究書というよりも「小説」に近い。しかし、決していかがわしい書ではない。その中から、一部を書き出しておく。


■ イエスとシモンの公開討論 (134~141頁)
シモンの家はナインの町の北側にあった。家をぐるりと囲む塀は、外から観かれないようにかなり高くしてあった。アーチ 型の門はよそ者か入り込まないよう~、いつも見張りがついていた。権力者や金持ちが他人の干渉を嫌うのは、いずこも同じ現象である。
しかし、その夜ばかりは門は開け放たれていた。ナインの人々が、イエスとシモンの公開討論を聞けるようにするためである。討諭は晩餐の席で行なわれる。こうした大事な議論は晩餐時に行なゎれるならわしだった。
中庭の中央におかれた座卓には、最高級の料理や酒が並べられた。家の隅ではシモンの妻が、宴会につきもののスープや肉や野菜を女中たちに料理させていた。今夜の宴会を記念すベきものにするためのお繕立ては、すベてそろっていた。
マグダラのマリアが到着するころには、テーブルのまわりは見物人でいっぱいになり、イエスとシモンのやりとりを熱心に聞き入っていた。話題はまず、あたりさわりのないものから始まったにちがいない。ローマやヘロデの最近の悪逆非道についてだ。自分たちの地位が危なくなると、決まって暴力に訴えたり、年貢と称して途方もない税金をかけたり、あらゆるユダヤ人から金を搾り取る彼らのやり方については、いくら話しても話したりなかった。だがそんな連中にも、いつかは滅びる時が来るはずである。
だがそれはいつ、どのようにして来るのだろうか。その質問を会話にもぐりこませたのは、おそらくシモンだったろう。あるいはシモンが慎重に選んだ客の一人だったかもしれない。この手の質問がそうであるょうに、さりげなく、イエスに向かって投げかけられたはずだ。
主賓だったイエスは、おそらくはシモンの向かい側に座っていて、弟子たちは見物人に混じって立っていたことだろう。
ペトロやアンデレもいた。ガリラヤ湖の上を舟で往来していた彼らは、体を揺さぶるような漁師特有の歩き方をする。ヤコブとヨハネは、ナザレの住民の多くがそうであるように、肩幅が広く、筋肉質だった。背の高いやせた男はタダイ。髭をたくわえた者たちのなかで最も美男のフィリポは、若さゆえの性急さが表情にあらわれていた。
イエスについていこうとマタイを誘ったのは、このフィリポだといわれる。だがその逆だという人もある。すでに弟子の群れに加わっていたマタイが、フィリボを誘ったのだという。バルトロマイは黒々とした見事な髭をたくわえ、それが彼の顔をいっそう青白く見せている。小ヤコブはその名のとおり小柄な男だった。トマスには、マタイがディディモ(双子)というあだ名をつけていた。
それらの弟子たちを傲然と見下ろすのは、ペトロやヨハネから頭半分抜きんでた長身の熱心党のシモンである。たとえはだしでも、シモンは皇帝のように堂々と見えた。そして最後に、みなと少し離れて、袖の短いキルプルと呼ばれる麻の上衣でケリオテの男とわかるのは、イスカリオテのユダであった。
イエスはこの人たちを、自分は仕えられるためではなく、仕えるために来たことを示すために選んだ。彼らをとおして、救いヘの一番の近道は、子供のような信仰をもつことだと教えたかったのだ。何はともあれ自分を信じること。そうした信仰がなければ、天の国に入ることはできない。だがイエスがまさに示そうとしていたように、信じるにはまず謙遜にならなければならなかった。
乾燥させた葦を束ねたかがり火や獣油のともし火のほのかな朗かりで、弟子たちはマグダラのマリアの姿を認めたことだろう。人々が好奇の目を向けたところから、彼女も自分たちと同じ「よそ者」であるこ と にも気づ いたはずである。
ナインの村人たちは、この地方の人特有の抜け目なさで、この女性がガリラヤの出身であることだけでなく、どのような商売で身を立てている女かまで見抜いてしまった。食卓のまわりで事のなりゆきを見守っている男たちのなかには、彼女のもとに通ったことのある者もいたかもしれない。平原の男たちにとって、妻が宗教的に「汚れて」いるあいだ、マググラのような町まで行って性的欲求を満たすのは珍しいことではなかった。マグダラのマリアと同様、彼らもイエスとシモンの白熱する議論に熱心に聞き入っていたのだ。
大祭司にも、あるいはユダヤに王がいるとしたらその王にも、「メシア」という称号を使ってよいとイエスは思っているのだろうか。ダビデが王になったとき、預言者サムエルは彼をメシアと呼んだではないか。その後の王たちも、みなそう呼ばれたではないか。ローマの手先である歴代の大祭司たちも、「祭司=メシア」として油を注がれたではないか。
メシアという言葉を、そこまで広い意味に使う必要はないのではないのか。カイアファのような堕落した大祭司にではなく、ユダヤ人を異教徒ローマヘの隷従から救う「解放者」に使われるベきなのではないか。
こうした質問も、やはりシモンはさりげない調子で尋ねたことだろう。向かい側に座った男の気性からして、どこまで踏み込んでよいのかどうか・・・・ それをさぐるための、いかにも法律家らしいやり方だったのだ。
イエスが挑発にのらないのを見て、シモンは話題をさらに進めた。くりかえし語られて、すっかり練り上げられている話題である。自尊心の強いファリサイ派なら、いつの日か神がイスラエルを救うと信じるのは当然すぎるほど当然のことだった。だが、メシアを神と考えることが冒涜あるのも事実ではなかろうが。モーセは人を崇めることを禁じたではないか。エジプトのファラオからローマの神々にいたるまで、古代の異教の神々を崇めることを拒み続けて来たからこそ、ユダヤ民族は苦難の歴史を強いられたのではないか。
ィエスの答えはじつに彼らしいものだった。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」。
シモンは法律家らしくにっこりほほえんだことだろう。イエスが言ったことの意味は何なのだろうか。それに対する答えに、マグダラのマリアは興奮に体を震わせたことだろう。「わたしが来たのは、正しい人を招くためでなく、罪人を招くためである」。
シモンは色めき立った。イエスは罪人を受け入れないファリサィ派の考え方を非難しているのだろうか。
イエスは狭量な厳格主義には賛成できないと答えた。それは神の国の到来に備えるための完全な自由の実現を阻むからである。
シモンはなおも食い下がった。「天の国を、あなたはいったいどのような祭司的権威によって呼びかけておられるのですか」。
「わたしが呼びかけているからだ」とイエスは落ちついた声で答えた。
「だれによってでしょう」。 シモンはしっぽをつかんだと思った。
だがイエスはその手にのらなかった。
シモンは出端をくじかれて、質問のほこ先を転じた。「わたしが呼びかけるからだ」という言葉は、どこかで聞いたことがある。洗礼者ヨハネはよくこの言葉を使っていた。この男は、人々に狂人と思われている人物、そして気の毒にもいまはヘロデの牢で苦しんでいる男の亜流にすぎないのではないか。
イエスはこの質問にも答えず、黙々と食事を続けた。
「先生、 答えてください」とシモンは言った。「ヨハネの弟子たちはしばしば断食をするのに、あなたがたはなぜ自由に飲んだり食ベたりするのですか」。
今度はイエスもためらいを捨てた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」。
その答えにシモンは驚きあきれた。神とイスラエルの関係が花嫁と花婿の関係にたとえられることは、ファリサイ派ならだれでも知っている。預言者ホセアは、イスラエルにこう語りかける神の声を聞いている。
「わたしはあなたととこしえの契りを結ぶ。わたしは、あなたと契りを結び、正義と公平を与え、慈しみ隣れむ。わたしはあなたとまことの契りを結ぶ。あなたは主を知るようになる」。
シモンは信じられないといった表情で、質問を続けた。
「あなたはご自分を神と言っておられるのか」。
だがイエスはこの挑発にものらなかった。
もくろみをくじかれたシモンだが、次の質問をするときは律法学者らしさを取り戻していた。「先生のお答えは、洗礼者ヨハネについて本音を明かすこと避けるための、便法だったのでありませんか」。
イエスは以前に問い詰められたときと同じ言葉で答えた。
「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国でもっと小さな者でも、彼よりは偉大である」。
「天」とは神と同義であることをシモンは知っていた。聖書の中の黙示的預言的な個所には、神が闇の力を打ち破り、新しい秩序を打ち立てる、ということが繰り返し語られている。だがその当時、こうした預言は異教徒ローマの破滅を意味するものともっぱら解釈されていた。
シモンはさらに追い打ちをかけた。イエスは反乱について語っているのか。彼の正体は熱心党なのか。

イエスの足元にひざまずいたマリア

質問への答えは、マグダラのマリアの出現にうやむやになった。彼女が見物人のあいだをすり抜けて、イエスの前に立ったからである。ナインの女たちにはとうていできない大胆な行動こそ、彼女がファリサイ派の人々が「堕落した女らと軽蔑している女の一 人であることの証しであった。
彼女の登場で、シモンの尋問はしり切れとんぼに終わった。
静寂を破ったのは、他の客たちのささやき声だった。この女はここで何をしているのか。あのナザレびとの以前からの知り合いだろうか。どうしてイエスは彼女を追い払わないのだろう。娼婦がラビに近寄るなど、とんでもないことなのに。
マグダラのマリアはぼろぼろと涙を流しながらイエスの足元にひざまずいた。そしてかさかさに乾いた彼の肌の上にその涙をこぼし、それを自分の長い髪でぬぐった彼女は懐ろから小さな雪花石膏の壺を取り出し、蓋を開けて中から乳液を取り出し、イエスの足に塗ッた。そして一方の足に、続いてもう一方の足に恭しく接吻した。
驚きに打たれた人々のささやき声が続いた。ナザレ人はなぜ、あの女に自分を触らせるのか。彼らのあいだでは、このような女に触れられるだけでも罪になるし、女の涙は悔い改めの涙ではなく、偽りの涙であるにちがいなかった。ユダヤの娼婦はみな、どこでどう泣けばいいかを心得ているものだ。
群衆の一人として一瞬たりともそこで起きたことのほんとうの意味を理解する者はいなかった。イェスの前にひざまずくという大胆な行動に出たのは、受け入れてもらいたいという必死の思いからだった。自分の持ち物のなかで最も高価な香油を使ったのは、イエスに受け入れてもらうためなら、これまでに大切にしてきたものをすベてささげるという意味である。マグダラのマリアはそれまでの生活をすベて投げ出す覚悟を示したのだ。
ショックを受けた見物人たちは、おおっぴらにささやきはじめた。そして、その女を追い出さなければ、あなたもあの女と同様に汚れていると見なされると、声高にイエスに迫りはじめた。
シモンが怒りに震える声で語った言葉は、後世まで伝えられることになる。「この女を知っているのですか。娼婦です。マグダラの娼婦です」。
一瞬、一座は凍りついたように動かなくなった。マグダラのマリアはますますイエスの足元にかがみこんだ。
その仕種のひとつひとつが、 彼女から罪をぬぐい去った。イエスは人々を見渡し、シモンはますます声を荒げた。シモンのまわりの人々は、その間も黙りこくっていた。弟子たちは不安げに目を見交わした。その瞬間のことは永遠にマリアの脳裏に焼きつけられた。シモンがさらに口を開こうとすると、イエスがそれを押しとどめた。
「シモン、あなたに言いたいことがある」。
主人としての礼儀から、シモンは言葉を差し控えた。
「ある金貸しから、2人の人が金を借りていた。1人はもう1人よりよけい借りていた。2人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった」。
イエスはここで言葉を止めた。人々はしだいに彼の言葉に釣りこまれていった。
「わたしの質問はこうだ。2人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」。
イエスはもういちど、周囲の人々の表情をさぐるように眺めわたした。人々は黙り込み、質問の威圧するような調子にとまどうように考え込んでいる。シモンの発言に含みがあるのはいまに始まったことではないが、今度ばかりは少し様子が違うと、彼らは気づいていた。
イエスのたとえ話は、最初の印象よりはるかに徴妙なものであることに気づいた者もいた。それは言外に、神は取り立てのときが来るまで、相手を信頼して財産を貸し与える金貸しのようなものだという事実を教えているのだ。犯した罪を考えれば、神に対する借りを返せる人間などひとりもいない。だが神は罪の大小にかかわらず心から救いを求める者には、あらゆる罪を帳消しにしてくれる金貸しでもある。
イエスは立ち上がってシモンの前に立ち、マグダラのマリアの方を指さした。
「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接物の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。
あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。
イエスはシモンに、マリアがもはやかつてのマリアではなく、新しい者に生まれ変わったことを少しでも理解できるかと、尋ねたのである。彼女のやさしさこそ、神が彼女を赦したもうたことの目に見えるあかしなのだ。
イエスはマグダラのマリアの方を向き、初めて彼女に声をかけた。「あなたの信抑があなたを救ったのだ」。
イエスはここで、彼の教えの核心である「愛」のもつ、まったく新たな一面を明らかにした。愛は理解と憐れみをとおしてでなければ実現されない。シモンや仲間のファリサイ派のように声高に自分の信仰を主張する者に愛があるなら、マリアのような娼婦のなかにも同じように愛はある。マグダラのマリアは立派な言葉で祈りを唱えることも決められたとおり礼拝を守ることもできないかもしれない。だが彼女は涙する者と共になき、嘆く者と共に嘆き、死を悼む者を慰めることができることを示した。しかもそれを、人に何かを強要したり 裁いたりせずに行なったのだ。彼女のような人々に 天国は手を差し延ベている。いつの世も変わらずに。
マグダラのマリアはイエスや弟子たちとともにシモンの家を出て行ったことだろう。一旦はマグダラに帰ったものの、一説にあるように、家財を売り払い、そうして得た利益を貧しい人びとに分け与えたかも知れない。
もっとたしかなことは 彼女がイエスの愛の積極的側面を示す、生きた実例になったことだ。その瞬間から、彼女はどの弟子にもましてイエスに忠実に従い、彼らの誰にも出来なかったようなやり方で、イエスに無限の愛を注ぐようになる。彼女は「イエスを愛した女」になったのである。

<後日談> (187頁)
だが弟子たちと行動をともにする時間が増えるにつれ、マグダラのマリアと他の弟子たちとの意見の隔たりはますます大きくなってった。そしてついに、マリアユダがぶつっかった。問題は、ファリサイ派のシモンの家の中庭で、マリアがイエスの足を洗ったときの残りの香油のことである。ユダは宜教のためにそれを売らせようとした。マリアは拒否した。他の弟子たちはユダの味方をした。貧乏人に着るものを与えたり、行く先々で見かける飢えた人々に食事を与えるなど、もっとよいことに使えるのに、わずかな香油にこだわって何の意味があるのかとマタイは尋ねた。それでもマリアが黙って香油の壺を放さないので、弟子たちはますますいらだった。そして彼女を自分勝手だとか、昔の生活に逆戻りする恐れがあるとか非雑しはじめた。
イエスは彼らのやりとりを熱心に聞いていたが、マググラのマリアがくじけないのを見て満足し、割って入ろうとはしなかった。だが弟子たちが口ぎたなくののしりはじめると、さすがのイエスも怒りだした。
「この人のするままにさせておきなさい」。
少々やりすぎたと気づいた弟子たちは、むっと黙り込んでしまった。イエスは噛んで含めるように説明した。
「貧しい人はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」。
弟子たちはこの言葉を聞いて不安にかられた。師は自分たちのもとを離れようとしているのだろうか。いったいいつまで、どこへ行かれるというのか。夜がふけるまで、答えの見つからない問いをめぐってささやきあう弟子たちの声が、マリアの耳にも届いた。彼女もまた、貴重な香油の残りをとっておいたわけを話そうとはしなかった。それは彼女と師だけの秘密だったのだ。

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