ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 10/14 ラビ・ヨハナンのエピソード

2012-10-15 08:17:17 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。昨日は外出なし。『隣人愛のはじまり』と『初期ユダヤ教の実像』を平行読み。初期ユダヤ教に対する無理解の結果、キリスト教におけるイエス像とパウロ像が歪められている。旧約続編「マナセの祈り」を読む。夜は「梅ちゃん先生SP」(前)を見て10時に就寝。5時に起床。体調快調。チュン、チュン。
posted at 05:10:01

林 巌雄 おお、「梅ちゃん先生SP」・・・忘れていました。思い出させてくださり、ありがとうございます。さいわい、録画はしておりますので、今日の夕方にでも見ましょう。

#losungenj 10.14(sun)
稼ぎが多くても正義に反するよりは僅かなもので恵みの業をする方が幸い。(Pro16:8)
信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。(1Tim6:6)
posted at 05:21:40
#losungenj 私の黙想:
シェークスピアの戯曲「ベニスの商人」に登場する金貸しシャイロックは、キリスト教によるユダヤ人差別の結果である。この差別は今でも根強く生きている。「何よりも先ず、神の国と神の義を求めなさい」とはユダヤ人イエスの言葉であることを忘れてはならない。
posted at 05:45:24

今日の名言:RT @iQTQuotes:
思考の伴わない学びは労力の無駄で、学びの伴わない思考は危険だ。(孔子)
<一言>学びにおける思考は意識的であるが、学びの伴わない思考は偶発的である。読書における思考とテレビ等を見ているときに起こる思考。
posted at 06:10:35

門叶 国泰 「朋遠方より来るあり、また楽しからずや」とは、学んだ後の思考、これにより本当に自分のものとなる「時」が飛躍的に来る。「朋」とはこのことである。(安富歩:東大教授)文芸春秋2012-7月号より)

「昨日のツイート 10/13」をブログにアップしました。 http://t.co/z3zMn9CT
posted at 06:42:16

「『日々の聖句(ローズンゲン)』について」をブログにアップしました。 http://t.co/rMs67Ym4
posted at 14:29:07

<FBより>
1964年の今日(10月14日)、マルチン・ルーサー・キング牧師のノーベル平和賞 The Nobel Peace Prize 受賞が発表されました。それを覚えてキング牧師がワシントン大行進の時の演説を掲載します。

私には夢がある! Dr.Martin Luther King Jr.

友よ、私は今日皆さんに申し上げたい。今日も明日もいろいろな困難や挫折に直面しているが、それでもなお、私には夢がある。それはアメリカの夢に深く根ざした夢なのである。
私には夢がある。いつの日か この国が 立ち上がり、わが国の信条の次の言葉の真の意味を貫くようになるだろう。『私たちはこれらの真理を自明のことと考える。すなわち、全ての人間は平等に造られている』。
私には夢がある。いつの日かジョージア州の赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷主の子孫たちとが、共に兄弟愛のテーブルに着くことができるようになるだろう。
私には夢がある。いつの日かこのミシシッピ州も、このような不正義の暑さにうだっており、このような抑圧の暑さにうだっている、この地域でさえもいつの日か自由と正義のオアシスに変えられることであろう。
私には夢がある。いつの日か私の幼い四人の子どもたちが、彼らの肌の色によって評価されるのではなく、彼らの人格の深さによって評価される国に住めるようになることであろう。私には今日、夢がある。
私には夢がある。いつの日かこのアラバマでも、目下のところ悪意に満ちた民族主義者に牛耳られており、連邦の決定に対して知事の口から「干渉」とか「取消し」という言葉しか出てこない、このアラバマ州においても、いつの日か幼い黒人の少年たち、少女たちが、幼い白人の少年たち、少女たちと手をつなぎ、兄弟姉妹として歩けるようになることであろう。今日、私には夢がある。
私には夢がある。いつの日か谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る。(イザヤ書40:4-5)

これが私たちの希望なのである。こういう信仰を持って、私は南部に帰る。
こういう信仰があれば、私たちは絶望の山から、希望の石を切り出すことが出来る。
こういう信仰があれば、私たちはこの国の騒々しい不協和音を、兄弟愛の美しいシンフォニーに変えることが出来る。
こういう信仰があれば、私たちは共に働くことができる。共に祈ることができる。共に闘うことができる。共に監獄へ行くことができる。共に自由のために立ち上がることができる。
いつかは自由になると信じることができるのだ。その日こそ、神のすべての子どもたちが、あの歌を新しい意味を込めて歌うことができる日となるであろう。わが国、それは汝のもの、麗しき自由の国。われは汝を讃える。わが父祖たちの死せる国、巡礼父祖たちの誇れる国、すべての山腹から自由の鐘を鳴り響かせよ、もしアメリカが偉大な国になるべきなのであれば、このことが実現しなければならない。

だから、自由の鐘を鳴らそう!ニュー・ハンプシャーの大きな丘の上から!
自由の鐘を鳴らそう!ニューヨークのそびえ立つ山々から!
自由の鐘を鳴らそう!ペンシルヴァニアのひときわ高いアレゲニー山脈から!
自由の鐘を鳴らそう!コロラドの雪を頂くロッキー山脈から!
自由の鐘を鳴らそう! カリフォルニアの曲がりくねった坂道から!
それだけではない。
自由の鐘を鳴らそう!ジョージアのストーン・マウンテンから!
自由の鐘を鳴らそう!テネシーのルックアウトマウンテンから!
自由の鐘を鳴らそう!
自由の鐘を鳴らそう!ミシシッピのすべての丘やモグラ塚からも!
山腹のいたるところで自由の鐘を鳴らそうではないか!
私たちが自由の鐘を鳴らせば、その時にはすべての村という村で、すべての集落という集落で。すべての州という州、街という街において、神の子どもたちとなったすべての者らが、黒人も白人も、ユダヤ人も異邦人も、プロテスタントもカトリックも、 すべての者らが手に手を取って、あの古い黒人霊歌を口ずさむようになることであろう。
「自由だ!自由だ! 全能の神に感謝すべきかな。 私たちはついに自由になった!」(1963.8.28)

<補遺>
土岐健治『初期ユダヤ教の実像』は非常に面白い。神学生時代にこういう研究がなされていたら、私自身のキリスト教理解ももう少し深まっていたかも知れない。現在の神学生は幸せだ。この本で次のようなエピソードが紹介されている。
ラビ・ヨハナン(ヒレルの高弟)は、ガリラヤで18年問を過したが、ガリラヤ人たちが戒律を軽視して少しも守ろうとしないので、呆れてエルサレムに移住した。それが紀元30年頃の出来事でイエスの時代と重なる。60年頃ローマ軍がエルサレムを包囲すると、彼は市民たちにローマ軍ヘの降伏を勧告するが受け入れられない。それで自ら死者を装い棺に入り、2人の弟子に命じて城外ヘ連び出させ、ローマ軍の最高指令官ウェスパシアヌスの許ヘ運ばせる。 敵将の前に立ったヨハナンは彼が間もなく皇帝になるであろうと予言する。それを聞いて機嫌が良くなった敵将に、ヤムニアに祈りの家を建て、弟子たちに戒律を教え守りたいと願い出て、それが許される。実際にエルサレムが滅亡したとき、ヨハナンは衣を裂き涙を流して悲しむが、後に弟子の1人がエルサレムの廃墟を見て「かつて、ここにはイスラエルの罪を贖う場所〔神殿)があったのだ」と言って嘆くと、ヨハナンは「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではない」というホセア書6:6を引用して、「私たちにはこれと同じほど力ある贖いの手段がある。それは愛の行為である」と説いたという(前掲書61頁参照)。
このエピソードはイエスを理解する貴重な資料である。

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