ぶんやさんち

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『日々の聖句(ローズンゲン)』について

2012-10-14 14:16:46 | ローズンゲン
先日部屋を片付けておりましたとき、10年ほど前に日本版の発行責任者の深津文雄先生がお書きになった「日々の聖句(ローズンゲン)」が見つかりましたので、早速デジタル化して私のブログ「ぶんやさんち」に保存しておくことにしました。

『日々の聖句(ローズンゲン)』について
かにた教会牧師 深津文雄

「ベテスダ奉仕女母の家」で、「日々の聖句」を出すようになつてから、もう35年になります。
「本」というほどのものではありません。まことに小さな、うすっぺらな、変わり型の手帳にすぎないのですが、中身がかわりますので、毎年刷らねぱなりません。そ準備だけでも、原本からいうと、ゆうに4年の歳月を費やしているのです。
以前にも、この仕事を手がけたものは幾たりかありましたが、つづきませんでした。本屋も採算がとれないと、投げてしまつたのです。

ところが、この本にはふしぎな習慣性がありまして、いちど使いはじめるとやめられないのです。採算という点からだけいえば、とっくにやめていたはずですが、需要の切実さからいうと、やめるわけにもいかず、赤字を覚悟でつづけてきたのです。
まず奉仕女の朝夕の聖想のためには、なくてはならぬものですし、奉仕女のために日ごとに祈っていてくださる祈りの友にも贈りたいし、幾つかもつている施設の職員にも、またその家族たちにも……ということになりますと、ついつい何千冊ものものが出てしまうのです。
もうやめようとしてもやめられませんし、やめようと思つたこともありませんから、天地とともに続くのでしょう。

どこがそんなに便利なのか……といいますと、まず日ごとに新しいということです。朝ごとに載<、その日の聖句がまつたく思いがけないのです。こんな言葉が聖書のどこにあつたのだろうと、専門のはずの私が恥しくなるほどです。
おそらく、地上のなんびとも、このまねはできないと思います。じつは無心の機械がやったことなのです。

「籤(ローズング)」という機械的偶然が、いかにも意味ありげに、われわれの前に立ちはだかる。それは人間の配慮を拒否した断言として、われわれの前に突き付けられるのです。それも、ことごとくが2000年以上も古い、へブライ民族の知恵の形で…………。
無意味と言えば、これほど無意味なことはありますまい。ところが、そう感じるのは、まだ、あなたが既成の常識に捕えられているからなのです。朝ごとに新しくなりたいと思わないからなのです。昨日の翌日でしかない今日を永久に引きずってくらす、みじめな常識の奴隷だからなのです。
もちろん生きている限り、この常識のつながりを断ちきれるものではありません。無などといってみても、それは実在しないのですから。ようは何で何を駆逐するかで、常識で常識を駆逐してみたところで、なんにも生まれません。
朝ごとに、思いがけない聖句を突き付けられ、それを瞑想することの恵みは計り知れないものがあるのです。しかも、おなじ一つの聖句に世界中の数知れぬ兄弟姉妹がいつしかつながっているというのですからまったく壮観です。

ことの起こりは今から263年ほど遡ります。今は統合されたドイツの東南隅にベァテルスドルフという小さな村があります。そこのお城の若い殿様が受け入れた隣国からの難民と歌を歌って別れようとする、ある夕ベのことでした。あつい大きな紙に自分で書いた聖句をわたして、言ったのです……「この言葉をあした 一日のわれわれの生きる力にしよう」と。

そこには「かくも主は我らを愛された。われらはこれに何をむくいよう」というような意味のことばがあったというのです。これは聖書のなかには見つからない聖歌の一節か何かなのですが、その翌日からは旧約聖書からの一句を毎日えらんで渡したのです。それを兄弟たちは携えて、村じゆうを称えて回つたのです。それがいつしか一週間分、一月分と、まえもつて準備されるようになって、とうとう1731年からは、一年分まとめて印刷されるようになりました。『アイン・グーター・ムート(上機嫌)』という題をつけて…………。
それだけきいて、これは真似のできないことだと感心しました。驚くベき学識というか勤勉というか、真剣な生き方です。どうしてそんなことが、まだ30歳にもならない一人の貴族にできたのでしょう。それには深いわけがあるのです。

ニコラウス・ルードウィヒ・フオン・ツィンツエェドルフ(1700~1760)伯爵は、生まれて間もなく父を失っています。母も再婚してしまいましたので、一人さびしく、母方の祖母に育てられたのですが、この女性が有名な敬虔派の開祖フィリップ・ヤコブス・シュペーナーと親しい、たいへん信仰ぶかい人でした。少年ツィンツェンドルフはやがて敬虔派の中心地ハルレに送られて、そこで有名な牧師アウグスト・ヘルマン・フラーケの寄宿学校に預けられ、そこからウィテンベルク大学で法学を専攻するのですが、すでにその段階で友人たち7人で「エクレスィオラ(小教会)」という群れをつくっているのです。
それから、アムステルダム、パリー、シュトラスブルク、パーゼル、ツューリヒなどに遊学し、教派をこえた良い交わりを経験し、帰ってドレスデンの宮廷法務官になり、友人の妹エルドムート・ドロテア・フオン・ロイスと結婚したのですが、すでにこの時代に「週の聖句」というものを刊行しています。

そこへ転がり込んできたモラヴィアの難民というのが、ただものではなかった。30年もつづいた宗教戦争で、もうことごとく死に絶えたはずの改革者フス(1370~1415)の残党がボヘミヤの山奥にかくれて共同生活をしていたのですが、きびしい弾圧にたえかねてクリスティアン・ダヴィド(1690~1751)という大工をさきにたててザクセン国に移住して来たのです。
これをみて心うごかした若い裕福な伯爵は自分の持物すベてを与えて「ヘルンフート( 主の守り)」という村をつくり、一緒に生活し、ついには彼らの司教におされたのです。が、秩序を破ったという理由でザクセンから追放され西インド諸島から米国各地、スイス、リトアニア、オランダ、英国と集団で巡礼し、その先々にコロニーを作りました。メソジスト教会の開祖ジョン・ウェスレーなどもこの派の集会に出て回心を経験しました。その話はあまりにも有名です。また近代神学の開祖フリードリヒ・シュライヤマッハー(1768~1834)なども父親の代からの団員であり、この派の神学校出身です。

いま、この「ヘルンフート兄弟団」というものは世界中いたるところ、人の行かない辺鄙な場所に宣教師をおくり、165の教会と7万人ほどの会員をもっているといいますが、彼らは日ごと与えられる一つの聖句にもとづいて聖想を守っているのです。1728年5月3日以来一日もかかさずに…………。
そして、その聖句集は、27をこえる国語に毎年翻訳され、何百万人もの人に使われているのです。 そのなかには思いがけない指導者たちの名前まで含まれています。

この素晴らしい話を初めて私にきかせてくださったのは、リーマル・ヘンニツヒ(1909~1954)博士でありました。彼はハンブルグの有名な「ラウヘスハゥス」の施設長の子に生まれツューリヒ大学で、『ツィンツェンドルフに於ける教会観』という論文をまとめ、ドイツ東亜伝道会から派遣されて日本へ来て、富坂に住んだのですが、この国に毎朝聖書を読む習慣がとぼしいことを嘆き、とうとう1939年版から、ヘルンフート兄弟団の『ローズンゲン』を日本語にして出したのです。

私はそれを手にしてヨーロツパの教会の伝統の深さに脱帽しました。ことに、そこで初めて接した「教会暦」というものの木目のこまかさには感心しました。教会暦が力トリックや聖公会にあることはうすうす聞いていましたがプロテスタントでは使ってはならないもののように教えこまれていたからです。ところが、それはまったくさかさまで、むしろプロテスタントの側でこそ、熱心に研究され、熱心に使われていることを知ったのです。それ以来、私は教会暦のリズムに乗って教会を牧し、友達にも薦め、教団のもとめに応じて、その解説などもしばしば書いてきたのです。

教会暦というのは、ようするに、この世の生活に暦があるように、主の教会にも暦があらねばならぬということなのです。もちろん個々の教会でそれぞれの予定はありますでしようが教団全体として世界の教会と共通なものがなければならないと思っていたのです。が、それが使徒教父の昔から形成されてきていたのです。改革者たちの、それもごく僅かの人々がそれに反対しただけなのです。

教会暦とは古くからの「主日礼拝朗読箇所(ペリコーペ)」の形づくる波形のことです。
まず主の来臨にそなえる「降臨節」4週から始まり、年末年始をまたぐ「降誕節」12夜がつづきます。ですから、元旦も「命名祭」にすぎません。1月6日の「顕現祭」と、これにつづく1~6週間(年によつて変わる)は主の栄光をあおぐ「顕現節」です。それから主の十字架にむかって「受難前節」3週間と「受難節」6週間の克己がつづきます。「聖木曜」「聖金曜」はその至聖所です。そして「復活祭」と、これにつづく4週間「新生」、「慈悲」、「喜び」、「歌え」を 「復活節」と呼ぶことができます。つづく「祈れ」、「昇天」、「昇天後」、「聖霊降臨」、「三位一体」までを、ひとつにまとめて、「聖霊節」とよぶこともできるでしょう。「三位一体後」の27週間には祭日はありません。この期間を「教会の半年」とよんで、宣教、奉仕、救済、審判などに区分する試みもあります。
こういう教会暦は世界中の教会がみな一致して守ってきたものですから、それを変える場合には、なるベく全教会の同意がほしいものです。ある群れだけが独走しても歩調が乱れるだけです。
こういう歴史的なものにそって代々の説教者たちは説教をしてきたのですから、それが困難なときに、それを変更して使うことは自由ですけれどもこれを全く知らないということはどうでしょうか。

じつはヘルンフート兄弟団はほんらい霊感主義ですから、教会暦には馴じみにくい立場にあったのですが、ひろい世界にでるようになってこれを呑まねぱならなかったのだということです。
そればかりではなく「教会暦による週日の日課」まで取りいれたのです。これはルードルフ・シュピーカーほか36名の典礼学者があつまってながい研究討論のすえ、旧新約聖書全体から選んだ週日すベてのための朗読箇所なのです。このシユタウダ出版社から公刊されたものを、同意を得て、ローズンゲンが採用したということはたいヘんな勇気です。おかげで1年365日が1日ものこさず、教会暦の傘の下に納まった訳です。毎日の聖句が2つ書いてある、その下に数字だけで示してあるものの左のがそれです。
ついでに、その右にあるものは何かと言いますとオツト-・リートミュラーという青年指導者が1932年から提案した「聖書全巻通読運動表」なのです。

よく新年のはじめから創世記を読みはじめるなどということをききますが、それで黙示録までたどりついた話はきいたことがありません。そこを4年で新約の全体が終わり、8年で旧約のあらましが終わるよう四季の変化も考慮に入れて飽きないように工夫したのがこれなのです。まあ使ってごらんなさい。これなら、なんとか成功したという人はあんがいいますから…………。
しかし、それの出来ない人たちのために、この小冊子は生まれたのです。厚い、重い、旧新約聖書を持ち歩かな<ても、この小さなローズンゲン一冊ポケツトに潜ませていれぱ、まず退屈するということはありません。ちゃんと読める活字に組んで、旧約聖書の隅々から選びぬかれた一句が毎朝あなたを待っているのです。

この籤(ローズング)の母体は 1600 ちかくの前もって選ばれた聖句が入つている箱なのです。そこから何年何月何日のためといって抽くのです。
なぜ旧約聖書ばかり選ぶのか、これは永い習慣だからです。別に理由はありません。おそらく、これにはフランケの影響がありはしまいかというのが私の推測です。というのはツィンツェンドルフに大きな影響を与えた恩師フランケはユダヤ人の先生についてヘプル語を学習した旧約学者だったからです。友人を自宅にまねいて「コレギウム・フィロビブリクム(聖書愛好同志会)」を始めたほどの人ですから、旧約聖書をよけてとおるキリスト教会を叱っているのでしょう。

ですから、そのゆえにこそ「教育の聖句(レーァテキステ)」とよばれるものが早くから並行して掲げられるようになったのです。毎日のローズングのつぎに掲げられているのがそれです。これは、もう籤で抽かれたものではありません。かえって、その日のローズングによく合うように委員たちが新約聖書のなかから探しだしたものです。
ローズングが難解なときには、これに頼るようにという配慮からだといいますが、私はこれに頼らないことにしています。

またドイツには何万という「コラール」があって兄弟団も詩人ぞろいでしたから、毎日のローズングにそえる歌節に不自由しませんでした。原本には毎日2節ずつよく見付けたものだと驚くほど素晴らしい歌が祈るように解説するように添えられているのですが、これだけは訳す時間も才もなく、割愛せざるを得ませんでした。
せめて日本語に訳されて賛美歌に入っているもののうちから、週に一曲でも…………と探してみたのですがありませんでした。
なるほど近ごろの賛美歌にはずいぶんドイツのコラールが取りいれられたといいますが、よく見るとまともなものは半分もないのです。ブルンナー博士をお迎えしたときにも、うたえるものがな<てこまったものです。この不名誉を換回するために、ただいま全力をあげて『ドイツ聖歌集』を準備していますから、しばらくお待ちください。せめてぴつたりした週の歌ぐらい、ごらんいただける日は近いだろうと思います。

日本版ローズンゲンのアラばかりお話ししてしまいましたが、良い点もなくはありませんのでそれも幾つか列記してみましょう。
日本版の一番よいところはその形です。ドイツの原本はA6判140頁ですが、日本版はB6変形(165×90)114頁という手軽さです。私などはそとへ出るとき、聖書を携えないことはあっても ローズンゲンを手放すことはありません。
つぎに、その割付です。原本は、ぜんぶ追いこみになっていて繰りにくいのですが、日本版は一週間ごとの見開きにしていますからパッと開いていつも主日が頭にきます。その両頁にまたがって「週の聖句」を欄外の上部にとおしておきました。
また主日の欄は倍の面積をとって、そこに教会暦の「福音書」、「使徒書」、「詩編」、「賛美歌」を数字で掲げておきました。
なお欄外の余白をできるだけ広くして、 そこへ読者が自由に感想や出来事を書き込めるようにしました。これは時が経って出して見ると楽しいものです。
「月の聖句」と、「年の聖句」は、巻頭に集めました。「七曜の執成」は、巻末にまわしました。
表装も近ごろはビニールをやめて紙装いっぽんにしぽりました。紙も丈夫になって一年間使用にたえるものが出来たからです。

ただ一つ困つていることはこの日本版にどの訳を使うかということなのです。ずっと日本聖書協会の文語訳、口語訳、新共同訳などを使ってきたのですが苦情がたえないのです。一つには日本聖書協会の承諾を得ていなかったということ。二つには、その旨を明記していなかったということ。 三つには、引用の仕方が忠実でないということなどです。その都度、お記びして改めてきたつもりなのですが、第三の間題だけはまだ解決されたと言えません。
というのも、もともとドィツ語でかいてある一句を日本訳の同じ節でおきかえても、その霊感は逃げてしまうことがあるのです。そういうときには原語にちかづけるように訳し変える必要があります。また長すぎて入らないときには削ることもあります。明らかに誤訳であると解ったときには、直したくもなります。しかし、それらの改変はいっさい許されないというのです。弱り果てて独自の訳に帰ろうかと迷っているのです。ドィツ語の原本でさえ、よく見るといろいろな訳を使っているということですから……。何かよい考えがあったら教えてください。

(「礼拝と音楽」No.72,1992,winter)

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