ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

観念と具体との不思議な統一

2008-10-02 17:20:15 | ときのまにまに
昨日の「みあれ祭」の続きです。確かに、みあれ祭は観光的にも魅力がありました。他では味わうことができない迫力もありました。博多どんたくや、祇園花笠や箱崎の放生会にも劣らない「おもしろさ」がありました。しかし、それ以上に、わたしにとって大きな問題が提起されたような気がします。
それは、宗教というか、信仰というか、そういう精神性の問題です。もっとも、今度の場合はどんたくや花笠や放生会と違って、中津宮における神事を見たということもありますが、それ以上に、この祭りを維持し、盛り立てている共同体の熱意と真面目さがありました。老人も若者も、子どもも、男も女も一つになって、祭りを盛り立てている姿は驚きでした。もちろんほかの祭りでも、そのような熱意を強く感じますが、ここでは漁業という彼らの「生業(なりわい)」に直結した熱意が、共同体としての一体感とともに感じられました。
漁業という職業が常に「命をかけた」仕事であり、また天候に左右され、自然環境に直結した仕事であるということと深く関係しているのはいうまでもありませんが、この「みあれ祭」においては、神話の世界と現実的な生活とが絡み合い、一種の幻想世界を構成しています。3人の女神が集まるという神話の世界を彼ら自身の生活手段である船を用いることによって現実化する精神、そこには観念と具体とが微妙に混じり合た不思議な世界が出現しています。これを彼らは楽しみながら、しかし、決して遊戯化にしない真剣さ、そこに「信仰(宗教)」という言葉を持ってしか表現できないものがあります。

       

もし、それを「信仰(宗教)」というならば、わたしたちの「キリスト教信仰」とは全く別の世界の「もう一つの信仰(宗教)」があるように思いました。逆に言うと、あれが「信仰(宗教)」なら、わたしたちの「信仰(キリスト教)」とは何なのかという問題でもあります。

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