ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 08/13 ワッツの「希望」について

2013-08-14 08:18:28 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。午前、1988~1991年代の説教の移動。午後から「八重の桜」(録画)を見る。昨日、朝日系で放映された「原発と原爆~日本の原子力とアメリカの影」のNET版を偶然発見し、見る。超超貴重な記録。夜、NHKスペシャル「知られざる脱出劇」、北朝鮮から38度線を命懸けで突破して帰国するドキュメントを見る。私自身の実体験と重なる部分が多い。平壌を脱出して米軍に保護されるまで1ヶ月かかったという。私たちの場合は約2週間で突破した。かなり強行軍だったのであろう。11時半就寝、5時半起床。体調快調、チュン、チュン。

加藤 治さん、金丸 勝彦さん、松井 守さん、他29人が「いいね!」と言っています。
posted at 05:33:31

今日の名言:RT @iQTQuotes:
自らを知れば、あらゆる戦いに勝てるでしょう。(孫子)
<一言>つまり、自他を比較して勝てる戦いしかしないということであろう。その意味で「奇跡的勝利」は過ちの原因になる。しかしどうしても戦わなければならないようなとき、戦わずして勝つ方法を見つけなけれならない。その作戦の一つが「平和外交」である。

金丸 勝彦さん、Yasutaka Nakamuraさん、宮脇 温子さん、他22人が「いいね!」と言っています。

「昨日のツイート 08/12 日米関係における根本資料」をブログにアップしました
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/3f922ffa876ff8c2854d6542e99d335…
posted at 06:57:43

日々の聖句2013 08月13日(火)
わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもない。(ヨシュア1:5)
神の約束は、ことごとくいえす・キリストにおいて「然り」となりました。(2コリント1:20)
私の黙想:
モーセの偉大さはヨシュアを後継者として育てたことである。神のご計画(=事業)においては、一人の人間ができることには限りがある。その意味で、神の事業に携わる者の重要な課題は、神から課せられた事業を受け継ぐ後継者を育てることである。例えば、教区主教がなすべき重要な任務の一つが次期主教となるべき人物を育てることである。現在の日本聖公会の問題点の一つが この点にあるように思われる。組織のトップに立つ者はその構成員の全てに対して平等でなければならないという民主主義の原理がそれを妨げているのかも知れない。あるいは目先の多忙さによって将来への展望にまで気が回らないのかも知れない。

金丸 勝彦さん、宮脇 温子さん、塩谷 常吉さん、他26人が「いいね!」と言っています。

増野 真美 シェアさせていただきました

お目覚めの花。「昔、ここは三井三池炭鉱(福岡県大牟田市)だったのですよ」「新しいエネルギー源を求めてヒマワリ油を思いついたんだって」「でもね、結局採算が合わなくて、今は市民の憩いの場になりました」。 (写真4枚)
写真

加藤 治さん、金丸 勝彦さん、松永 健治さん、他41人が「いいね!」と言っています。

細野 清明 文屋先生、Selamat pagi ! ヒマワリ・シリーズBagus! 今日も、頑張れます…(^_-) assalamu alaikum!

早乙女 実 大牟田ですか・・・。小学校から中学一年生まで過ごしました。三池争議の時代でした。その影響は少し今の仕事につながっています。懐かしいです。

文屋 善明
日々の聖句2013 08月02日(金)で<キリスト者はどんなに不条理な状況においても希望を棄てません。キリスト者の辞書には「絶望」という言葉はありません。何故なら「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません」(ロマ5:3-5)。これは非常に不思議なことです。でも、これが事実なのです。私にとっては、これがほとんど唯一と言っていいぐらい、キリスト者であって良かったと思うことです。>と書き、以下のような経験を添えました。
<子供の頃、父親が一枚の絵を見せてくれたがことがあります。その絵は暗い雰囲気の中で一人の盲目の女性が地球に座り、ギターを抱え、たった一本残った弦を弾きながら、その音色に耳を傾けている絵でした。この絵が誰の作品か知りませんが、その絵を示しながら、父は幼い私にこれが「希望」なのだと言ったことがあります。その時のことを今でも覚えています。>
この言葉を読んで下さった友人が、私もその絵のことが忘れられないとメールを下さり、さらに昨日、キリスト教書店で「売れ残りのカード」を見つけましたといって、5枚の栞を贈って下さいました。縦11センチ横5センチの小さな栞ですが、この栞は私にもまた私の友人にも宝のようなものです。
写真: 日々の聖句2013 08月02日(金)で<キリスト者はどんなに不条理な状況においても希望を棄てません。キリスト者の辞書には「絶望」という言葉はありません。何故なら「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません」(ロマ5:3-5)。これは非常に不思議なことです。でも、これが事実なのです。私にとっては、これがほとんど唯一と言っていいぐらい、キリスト者であって良かったと思うことです。>と書き、以下のような経験を添えました。
<子供の頃、父親が一枚の絵を見せてくれたがことがあります。その絵は暗い雰囲気の中で一人の盲目の女性が地球に座り、ギターを抱え、たった一本残った弦を弾きながら、その音色に耳を傾けている絵でした。この絵が誰の作品か知りませんが、その絵を示しながら、父は幼い私にこれが「希望」なのだと言ったことがあります。その時のことを今でも覚えています。>
この言葉を読んで下さった友人が、私もその絵のことが忘れられないとメールを下さり、さらに昨日、キリスト教書店で「売れ残りのカード」を見つけましたといって、5枚の栞を贈って下さいました。縦11センチ横5センチの小さな栞ですが、この栞は私にもまた私の友人にも宝のようなものです。

玉城 豊さん、小野 周一さん、金丸 勝彦さん、他36人が「いいね!」と言っています。

沼田 和也 ワッツの絵ですね。わたしもかつて、牧師にこの絵を教えてもらい、毎日眺めた日々がありました。希望を渇き求めた日々でした。

増野 真美 シェアしました。文屋先生の投稿、シェアばかりしてしまいます。し過ぎですね……

文屋 善明 この「いいね」はどんどん投稿、シェアして下さいという意味です。

大津 博子 ご存じない方のために、ワッツについてのWiki張っておきますね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジョージ・フレデリック・ワッツ

ジョージ - Wikipedia
ja.wikipedia.org
古典ギリシア語の人名「ゲオルギオス」(Γεώργιος)に起源を持つ。この名の本来の語義は「大地(geo)で働く(erg)人」、すなわち「農夫」を意味する。キリスト教の聖人ゲオルギオスを通して人名として広く使われる。

門叶 国泰 ワッツ、「良きサマリヤ人」なども知られていますね。

文屋 善明 大津さん、門叶さん、ありがとうございます。私は美術について疎いので、全く知りませんでした。

大津 博子 沼田 和也 先生もワッツとコメント下さっていますね^^

文屋 善明 ワッツの絵を集めたブログを見つけました。
http://island.geocities.jp/hisui_watanabe/art/artgallery/popular/watts/watts.html

「希望」 ジョージ・フレデリック・ワッツ
island.geocities.jp
注)受注制作による販売のため不良品以外のご返品は何卒ご容赦ください。

門叶 国泰 テートギャラリーと言えば、かの「幼きサムエル」がある美術館ですね。一度も行ったことがない!もうチャンスはありませんが!

糸原 由美子 ワッツだったのですね!

文屋 善明
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。(ロマ10:10)
私の同年の友人が喜寿を記念して一冊の本を出版されました。『日本基督教団信仰告白に聞く~~キリスト教入門講座~~』(岩波ブックセンター)。日本基督教団富士見町教会で2012年4月より12月まで、毎水曜日に行われた学びの成果とのこと。
昨夜、届けられたところなので、未だ内容は読んでいませんが、「~~~に聞く」という書名に著者の奥ゆかしさを感じます。使徒パウロのいうように、信仰は頭の中だけで理解するものではなく、口で告白されて完成するものです。パウロはこの言葉の直後に「宣教する者」、つまり「語る者」が居なくて誰が信じられるか、ということについて論じていますが、著者は「聞く者」として信仰を語ります。聞く者がいなくて、誰が信仰告白できるか。著者は長年富士見町教会の長老として新しく信徒に加わる人々の信仰告白の声を聞く人でしたし、今もその役割に徹しておられるます。その思いが「~~~を聞く」という言葉に表れていると思います。
思い返すと日本基督教団が成立したのは昭和16年(1941年)6月24,25日でした。その年の12月、松村克己(当時、京大文学部基督教学科助教授)は「思想」(岩波書店)で『日本基督教団成立の意義とその課題』を発表し、思想界にその意義を報告しています。その中で、これは「基督教団」であって「基督教会」ではないと論じ、「教団」が一つの共同体としての「教会」になるためには「信仰告白」が成立しなければならないと述べています。その時、彼の頭の中ではそれが成立するのは「少なく見積もっても一世代30年」はかかるであろうと考えていたようです。
しかし、実際に日本基督教団信仰告白が制定されたのは、成立以後わずかに13年の昭和29年です。
この度、著者の大変なご苦労によりその解説書が著されたことは大変意義があることだと思います。これによって日本キリスト教団が日本のキリスト教界を代表するものとして、内部的にも信仰の一致がますます深められることを願っています。
写真: 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。(ロマ10:10)
私の同年の友人が喜寿を記念して一冊の本を出版されました。『日本基督教団信仰告白に聞く~~キリスト教入門講座~~』(岩波ブックセンター)。日本基督教団富士見町教会で2012年4月より12月まで、毎水曜日に行われた学びの成果とのこと。
昨夜、届けられたところなので、未だ内容は読んでいませんが、「~~~に聞く」という書名に著者の奥ゆかしさを感じます。使徒パウロのいうように、信仰は頭の中だけで理解するものではなく、口で告白されて完成するものです。パウロはこの言葉の直後に「宣教する者」、つまり「語る者」が居なくて誰が信じられるか、ということについて論じていますが、著者は「聞く者」として信仰を語ります。聞く者がいなくて、誰が信仰告白できるか。著者は長年富士見町教会の長老として新しく信徒に加わる人々の信仰告白の声を聞く人でしたし、今もその役割に徹しておられるます。その思いが「~~~を聞く」という言葉に表れていると思います。
思い返すと日本基督教団が成立したのは昭和16年(1941年)6月24,25日でした。その年の12月、松村克己(当時、京大文学部基督教学科助教授)は「思想」(岩波書店)で『日本基督教団成立の意義とその課題』を発表し、思想界にその意義を報告しています。その中で、これは「基督教団」であって「基督教会」ではないと論じ、「教団」が一つの共同体としての「教会」になるためには「信仰告白」が成立しなければならないと述べています。その時、彼の頭の中ではそれが成立するのは「少なく見積もっても一世代30年」はかかるであろうと考えていたようです。
しかし、実際に日本基督教団信仰告白が制定されたのは、成立以後わずかに13年の昭和29年です。
この度、著者の大変なご苦労によりその解説書が著されたことは大変意義があることだと思います。これによって日本キリスト教団が日本のキリスト教界を代表するものとして、内部的にも信仰の一致がますます深められることを願っています。

小野 周一さん、郡山 千里さん、金丸 勝彦さん、他37人が「いいね!」と言っています。

沼田 和也 面白そうな本ですね!情報感謝申しあげます(^_^)

門叶 国泰 どうも!顔から汗が!冷房は十分に効いているのですが! 定価は「飾り」ですから、間違っても誤解なきよう願います。

牧山 佳永 · 共通の友達: 門叶 国泰さん、他5人(明日、FBに載せようとおもったのに・・・)

文屋 善明 牧山さん、お先に失礼いたしました。こちらは何しろ九州なので早く出さないと遅れると思い急ぎましたので。

門叶 国泰 牧山さん:これにてご容赦を!

牧山 佳永 · 2人の方から、そういわれると・・・( ̄Д ̄;;…(汗)タラー・・・ 明日、FBに控えめに乗せます。

門叶 国泰 牧山さん:売り物ではありませんので!宜しくご配慮ください。

牧山 佳永 · 書店では販売されてないですか。何冊か購入して知人にプレゼントしようと思っていました。

<補遺>昨日の午後はほとんどPCから離れていましたのでシェアが少ないです。

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