ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/1/7~1/13

2018-01-15 05:55:31 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/1/7~1/13

2018 日々の聖句 1月7日(日)
主はモーセに言われた。「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける」。

フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」。(ヨハネ1:45)

私の黙想:
新約聖書にも時々触れられている「モーセのような預言者」(ヨハネ1:21,25,7:40)預言の根拠。旧約聖書の時代においては、預言者についての一般論。現実的にはイスラエル史において初めて登場した預言者サムエルについては「あの預言者」との関係は一切触れられていない。
旧約聖書において「預言者」についての明確な定義、あるいは根拠は書かれていない。結局、王でもない、祭司でもないが民族ないにおいて重要な役割を果たす宗教家であるがその宗教的側面も希薄である。当然、いわゆる「偽預言者」が現れる。従って、ホンモノかニセモノかの判定は、民衆各自に委ねられている。
そこにイエスという存在の謎がある。結局、人々はイエスを「あの預言者」としてしか判定できなかった。

2018 日々の聖句 1月8日(月)
霊が人間を去れば、人間は自分の属する土に帰り、その日、彼の思いも滅びる。(詩146:4)

あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。(マタイ6:27)

私の黙想:
人間が人間であり続けておられるのは、その身体に霊が宿っている限りのことである。何と冷たい、切り捨てた言葉であろう。結局、人間とは、つまり自分が属している本質とは「土」であり、土に霊が宿っている限りにおいて人間である。そして、もっと厳しい現実とは人間が土に戻ったとき、「彼の思い」も消滅する。彼が経験したこと、考えたこと、楽しんだこと、悩んだこと、悲しんだこと、苦労したこと、学んだこと、書いたこと、そして愛したこと、そのすべてが一瞬に消滅するという。これほどの人間観が何処にあるのだろうか。結局、聖書における人間観を突き詰めたら、こういうことになる。
ところが、この詩の冒頭の言葉は、こうだ。「ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ」。ここに「私の魂」と「(私の)霊」との関係がある。口語訳では「霊」を「息」と訳している。私たちはほとんど無意識に「息をしている」。それと同じように、私たちはほとんど「(私の)霊」を意識していない。詩人はこの詩において「私の魂」に呼びかけている。人間が「自分の息(呼吸)」を意識するのは歌を歌うときである。

2018 日々の聖句 1月9日(火)
主は天上の宮から山々に水を注ぎ、御業の実りをもって地を満たされる。(詩104:13)

神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。(使徒14:17)

私の黙想:
古代人にとって「雨が降る」という現象は不思議の一つだったに違いない。水が上から下に降るということは経験から分かっていたし、水にはそれなりの重量があることも知っていた。そうすると、雨が降るという現象は、天上に水の溜まり場があったに違いないと考えるが、それが不思議であった。それにはもう一つの不思議も伴った。何故、天上の水は一気に落ちてこないのか。この二つの不思議の解釈は天上の貯水場から神が必要に応じて必要な場所に水を「注ぐ」ということであったろう。そうなると、雨による大地からの実りも神の采配によるに違いない。現代人から見ると、非常に馬鹿げた「解釈」に違いないが、古代人にとっては非常に重要な「理解」であった。神のご機嫌を損なうようなことがあったら、神に逆らったら、たちまちのうちに、飢饉となり、飢えることになる。
詩104にはそのような古代人の信仰が、実に美しい言葉で歌われている。現代人はこれを「笑える」か。むしろ古代人と共に神を頌え、自然の営みを感謝しようではないか。実は、現代人に欠けているいるものとは、このような素朴な信仰ではないだろうか。
国と国との争いも、金持ちと貧乏人との闘争も、豊かな家庭生活も、すべてこの点についての単純な事実の誤認から来ているのではないだろうか。人間が生み出した「価値」などは、たちまちの内に「枯れて」しまうのものに過ぎない。私たちにとって根源的に価値のあるモノ・コトは神から来ている。

2018 日々の聖句 1月10日(水)
主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが、その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。(イザヤ12:1)

神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。(1テサロニケ5:9)

私の黙想:
今日の聖句では「その怒りを翻して」という言葉が注目される。が、口語訳ではこの言葉はない。単に「その怒りはやんで」である。ついでにいうと、「怒りを燃やされた」も単に「怒られたが」で「燃やす」という言葉も見られない。新共同訳ではこの二つの言葉「燃やされる」と「翻す」によって、怒る神が「慰める神」への転換が殊更に強調されている。多分、その方がイザヤの時代に神の民には相応しいとされたのであろう。ただし、これは第1イザヤの時代で「神の怒り」はそれ程鮮明ではなかったであろう。原文ではどうなっているのか興味深いところである。
それはそれとして神にとって「翻し」をどう受けとめるのか。天地の創造者で、すべてを「良し」とされた、神が「反省し、悔い、翻す」、ということはいかにもなじまないが、それはそれとして、聖書の神の一つの性格でもあり、そこに神における「人格性」が秘められている。人格性とは相手に応じて自分の態度(スタンス)を変えることに他ならない。

2018 日々の聖句 1月11日(木)
彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。(イザヤ53:4)

罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。(2コリント5:21)

私の黙想:
知らないということはいい気なもんだ。私のために陰でいろいろ苦労をしている、あるいは支えてくれている人のことを知らないために、不信感に陥ったり、敵と味方とを見誤ったりする。その極みが、神の愛であり、キリストの犠牲であった。結局、突き詰めたところ、キリスト教における「贖罪信仰」とはそれである。
「であったのに、わたしたちは思っていた、」で前半の言葉と後半の言葉とが接続している。この接続こそが、私たちの現実認識の鍵である。この部分、口語訳ではこうなっている。「しかるに、われわれは思った」。この方がいい。はるかにいい。「しかるに」という言葉が挟まれることによって、前半と後半との逆転が明白になる。ここに「贖罪信仰」の鍵がある。前半は通常の歴史認識である。そして「信仰」はこの歴史認識を覆す。そこに「ああ、そうだったのか」という、新しい歴史観が生まれる。

2018 日々の聖句 1月12日(金)
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる。(イザヤ25:8)

希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。(ロマ12:12)

私の黙想:
今日の聖句、「涙をぬぐい」と「恥をぬぐい去る」とが共鳴している。同じ単語が用いられているのだろうか。口語訳では「涙をぬぐい」に対して「辱めを除かれる」となっている。ついでに、目をもう少し広げると7節と8節の始めとが「覆っていた布を滅ぼし」と「死を滅ぼしてくださる」とがペアになっている。ここも口語訳では「覆いを破る」と「死を滅ぼし」と訳し分けられている。
こういう文章においては著者と訳者との詩的センスの問題になってくる。これをテキストとして読む説教者にとっては説教を構成する上で非常に刺激的になる。
それにしても「涙をぬぐう」とか、「死を滅ぼす」という概念は聖書における「終末論」を考える場合の重要なキーワードだ。
「終わり良ければすべてよし」という西洋の諺のように、「終わり」に希望が持てるときには「涙はでない」ものだ。だから預言者は、涙を流している民に向かって「良い終わり」を告げる。預言者の言葉を信じた者には、もう既に「涙はぬぐわれている」。

2018 日々の聖句 1月13日(土)
天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。(イザヤ55:9)

わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。(1コリント13:12)

私の黙想:
今日の聖句を読んだとき、私たちは何を考えたらいいのだろう。あまりにも当然すぎることを言われたときの、とまどいを感じる。
「天が地を高く超えている」、それは当たり前すぎることである。むしろ私たちが立っている「地」を高く越えているから「天」という。「天と地」を並べたら、それは上下関係(優劣)を示している。例えば、どの面も同じように見える正方形の荷物の中に入っているものが壊れないようにする場合に、上にあるべき面に「天」という字を書く。これを書いておけば、この荷物を持つ人、運ぶ人、私自身だって間違えることはない。これが「天」である。つまり「天と地」とは動かしてはならない上下関係の秩序を示す言葉である。
もちろん、ここでは「神と人間(私たち)との関係」を語っている。しかも、動かしてはならない秩序として語っている。
それをわざわざ言葉にして語る以上、ここで主題になっている事柄は天と地とに共通するものがあることを示している。ここで、取り上げられている「共通するもの」とは、「神の道」と「私たち(人間)の道」であり、「神の思い」と「私の思い」である。もちろんここでの「道」とはそれが本来あるべきあり方を示しているが、「神の道」とはあえて説明すると「神によって考えられている私たちがあるべき道」であり、「神のありよう」ではない。「神のありよう(道)」など、私たちには「考え」られるものではない。「思い」についても同様である。
だとするとこの聖句は私が現在、そして本質的に「どうあるべきか」ということについて、私が思う以上にはるかに厳密に、神が考えているということである。そうなると、私たちの最も賢明な姿勢は、「神に聞く」ということである。(溜息:ああ、しんど)

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