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断想:聖霊降臨後第10主日(T12)の福音書

2016-07-23 06:04:07 | 説教
断想:聖霊降臨後第10主日(T12)の福音書
「イエスの祈り」  ルカ11:1~13

1. 福音書におけるイエスの祈り
マルコ福音書においてはイエスが祈っている姿はほとんど取り上げられていない。ただ、パンの奇跡の場面(8:6、7)と食前の祈り(14:22,23)とそれ以外ではゲッセマネの祈りの場面(14:32-39)だけである。このうち食前の祈りは後に聖餐式の定式となった祈りのいわば原型である。この点ではマタイ福音書もほぼマルコと同様である。そのようないわば特殊な状況での祈り以外ではマルコは1:35で「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」という記録が目を惹く。この時は、早朝からイエスの姿が見えないので弟子たちは大騒ぎをしてイエスを捜し回ったということが付録として描かれている。ところが、この貴重は記録をマタイは美事に省いてしまっている。その他にマタイとマルコとでは「群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた」(マルコ6:45、マタイ14:23)という記事が残されている。これもいわばパンの奇跡の後でイエスがかなり疲労し、山に籠もったということが主眼のようである。まさかイエスが祈りということを軽視したとは思えないが、少なくともマタイとマルコとは祈っているイエスの姿にはあまり感心はなさそうである。
ところがルカによる福音書ではイエス自身の祈りがしばしば記録されている。マルコとマタイが取り上げているところ以外でも、受洗の場面(3:21)、人里離れた所での祈り(5:16)、12弟子を選出の際の徹夜の祈り(6:12)、弟子たちの信仰告白の直前(9:18)、弟子たちが祈りについて質問をしたとき(11:1)、弟子たちが信仰を無くさないようにという祈り(22:32)等が記録されている。
ヨハネ福音書では、パンの奇跡の場面だけが記録されている。ヨハネ17章は付録である。
<参考資料> イエスの祈りについてはヘブライ人への手紙5:7で次のように述べられている。
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」。

2. 「祈り」に関するイエスの発言
 祈りについての基本的な姿勢
      信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。マタイ21:22、マルコ11:24
      あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。マタイ6:7
      あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。マタイ6:8
      祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。マルコ11:25
      気を落とさずに絶えず祈らなければならない。ルカ18:1
 何ために祈るか
      敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。マタイ5:44
      悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。ルカ6:28
      この種のものは、祈りによらなければ・・・・マルコ9:29 、マタイ17:21
 いつどこで祈るか
      朝早くまだ暗いうちに、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。マルコ1:35
      群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。マルコ6:46
      奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、マタイ6:6
 間違った祈り
      人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。マタイ6:5
      見せかけの長い祈りをする。マタイ23:14、マルコ12:40、ルカ20:47
 ゲッセマネでの祈り
      少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。マタイ26:39
      地面にひれ伏し、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈った。マルコ14:35
      大祭司イエスの祈りヨハネ17章

3. 本日のテキスト(ルカ11:1-13)
本日のテキストは2つの部分に分けられる。1-4節はいわゆるルカ版「主の祈り」で5-13節は祈りに関するいくつかの断片が集められている。5-8節は「執拗な祈りの譬え」、9-10節は「求めよ」という格言、11-13節は「父親は子どもに良い物を与えるという譬え」である。5-8節の譬えはルカ独自の資料によるものであると思われるが、9-13節の格言と譬えはマタイ7:7-11と共通するのでおそらくQ資料によるのであろう。ただし、マタイ福音書では「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」という結びの言葉が付けられている。いかにもマタイらしい倫理である。それに対してルカでは「聖霊を求めよ」という祈りの勧めとなっている。この言葉が付加されることによって、最初の「執拗な祈りの譬え」も聖霊を求める祈りに限定されてしまう。イエスのもともとの言葉にはそのような「限定」はなかったと思われる。
本日は5節以下の部分は取り上げない。

4. ルカによる「イエスが教えた祈り」
本日のテキストには、ルカによる「主の祈り」が含まれている。福音書には「主の祈り」が2箇所出てくる。もう1箇所はマタイ6:9-13である。どちらかというと現在わたしたちが用いている主の祈りはマタイに近い。2っの主の祈りをめぐって、いろいろなことが議論されているが、それは専門家に任せて、ここではルカ福音書を中心にしてイエスが弟子に教えた祈りについて学びたい。その際に、これが後に「主の祈り」の原型になったということを忘れて、イエスが弟子に教えた祈りそのものを学びたいと思う。
本日のテキスト「イエスはある所で祈っておられた」という言葉で始まる。「ある所」という言い方は,イエスが祈るということが特別なことではなく、日常的なことであったことを示しているのであろう。「祈りが終わると」という言葉は、弟子たちはイエスが祈る間、イエスの祈りを妨げないように配慮していたことを示している。イエスにとって祈りの時間は特に重要で、弟子たちもそれを尊重していたのであろう。弟子たちも旧約聖書で育ったユダヤ人であるから、彼らなりに祈りというものを知っていた筈である。同時に、イエスがユダヤの指導者たちの祈りについてかなり批判的であったということもわきまえていた。つまり、この質問は祈りということを大切にしているイエスと、当時の宗教的指導者たちの祈りに対するイエスの批判とのギャップから生じる疑問である。

5. 祈りに対するイエスの批判
イエスの当時に人々の祈りに対する批判は次の2点にまとめられる。
       (1) 神は私たちが祈る前から、私たちの必要を全部知っておられるから、異邦人のようにくどくどと祈る必要なない。
       (2) 敬虔さを装う見せかけの長い祈りをするな。
イエスは長い祈りを批判した。勿論これは共同の祈りを意味していたのであろう。共同の祈りは短いほどいいい。山の中とか密室での個人的な祈りは「執拗に」、しかし公の共同の祈りは短く。これがイエスの祈りについての基本的な姿勢であったようである。

6. イエスが教えた祈りのモデル
資料的に見て、これが全てイエスが教えたままか疑問が残るが、取りあえず現行のルカ福音書に見られるイエスが教えられた祈りを読み直してみよう。
      父よ、
      御名が崇められますように。
      御国が来ますように。
      わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
      わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。
      わたしたちを誘惑に遭わせないでください
この祈りの最初の2行は、当時の最も短い祈りとして、一寸したときにユダヤ人が口にしたであろうと思われる「カディッシュ(聖なるかな)」という祈りを下敷きにしたものであろう。カディッシュの祈りは、かなり変形されているが、現在でも死者を追悼する祈りとしてユダヤ人社会において祈られている。参考に現在のカディッシュの祈りは以下の通りである。
      <神の偉大な名が、御自身の思いによって創られたこの世界で大きく崇められ、聖とされますように。願わくは、神の国が我々の生きているうちに、そしてイスラエル全家が存続している間に築かれますように。神の偉大な名が代々限りなく、永遠に祝されますように。あなたの聖(きよ)い名が栄光を受けて祝され、誉め称えられ、喜びで迎えられ、崇められますように。神は、(世人の)全ての祝福と賛美と誉れを持ってしてもそれ以上の存在です。その通りです。アーメン!
      平和と命が全ての者と共に、イスラエルと共にありますように。アーメン。>
この祈りの当時の原型は以下のような祈りであったであろう。
      <大いなる御名が崇められ、聖められんことを。御心のままに創造された世界にて。その御国が汝らの生涯と汝らの時代において、またイスラエルの全ての家の生命あるうちに、一刻も早く実現されんことを。(これに対して人々は)アーメン(と唱えよ)。>(田川建三『イエスという男』19頁)
イエスは当時の最も短い祈りを参照にして、さらに不要な部分を削除して、「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように」としたものと思われる。これで十分であろうが、ここでイエスはイエスらしい一言を付け加える。それが次の「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」。これはイエスをとりまく人々の切実な祈りであったであろう。
イエスはカディッシュの祈りのはじめの部分に手を入れ、イエスらしさを示している。それが「父よ、御名が崇められますように」という表現である。ここで「崇められますように」という言葉の原意は「聖とされますように」で、「神が神であるように」あるいは「父が父であるように」という意味である。イエスの本音からいうと人間の祈りはもうそれだけで十分で、それ以上付け加えることは何もない。神が神としてこの世で働いていたら、そしてそれを人間が信じていたら、それに何を加えるのだろうか。それに続く「御国来ますように」という言葉も、結局は神の支配がこの世界の隅々にまで及ぶようにという意味で、はじめの祈りとほとんど同じ意味である。
「神が神である」ということは同時に「人間は人間であること」という意味を内に含んでいる。むしろ表裏の関係である。
祈りという行為の核心は「願い」である。イエスが教えた祈りにおいては5つの願いがある。はじめの2つの「願い」は神に関することで、それは既に述べたとおりである。続いてイエスは「わたしたちの願い」を加える。基本的には神は私たちの必要を既に知っているのであるから、祈る必要がないと言えばその通りであるが、「私の願い」を言葉で言い表すということには情報の伝達ということ以上に関係の強化という意味もある。ここでは3つの願いが述べられる。
 (1)私たちに必要な糧を毎日与えてください。
 (2)私たちの罪を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。
 (3)私たちを誘惑に遭わせないでください
第1の願いの「必要な糧」については学者の間ではいろいろに議論されるが、その議論じたいが虚しい。要するに、今、私たちが生きていく上で基本的に必要なもので、これが私たちの生の基礎である。この願望は現在生きていることに意味を見出し、生きていることを喜ぶことなしには、こういう祈りは出てこない。「死にたい」人間には無用の祈りである。第2の願望も同様に「赦されている」という確信が精神生活の基礎である。ここで、「罪」という言葉と「負い目」という言葉とが用いられているが、もともとは両方とも「負い目」であったものと思われる。マタイでは両方とも「負い目」である。「負い目」を「罪」と変更したのはルカであろう。人間は負い目から解放されて自由な人間となる。第3の「誘惑」についての「遭わせないでください」という祈りの解釈は非常に難しい。「誘惑」という言葉の原意は「テスト」で、イエスが荒野で悪魔から受けたのも「誘惑(試み)」であり、人間が生きる際に必然的に伴うものなのかということも議論になる。と同時に「誰が誘惑する」のかということも問題になる。ゲッセマネでもイエスは弟子たちに「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」(マルコ14:38)と語る。マタイはこの祈りに対して「悪いものから救ってください」(マタイ6:13)という注釈的な言葉を添えている。この「悪い者」を迫害者であるとすると、この祈りは人間一般の願望というよりもキリスト者としての願いということになる。

7. 祈りは短ければ短いほどいい
教会の伝統が生み出した最も短い祈りは「キリエ・エレイソン(主よ、憐れみ給え)」。私自身はこの短い祈りが好きである。ところがせっかくのこの短い祈りを修道院などでは何10回も繰り返して祈る。それがロザリオの祈りである。人間はどうも祈りというものは長くないと効果がないと考えるらしい。そんなことを考えていて、フッと思ったことがある。生まれて未だ間がない乳児、まだ「ママ」も「パパ」も言えない頃の幼子が大人に何かしてもらいたいときどうするか。神はこの幼子に人類最強の武器を与えられた。それが泣くことと微笑むことである。乳児の微笑みは人間が最初に与えられた「祈り」ではないか。大人は幼子の微笑みを奪ってはならない。幼子が泣くことは緊急時における「執拗な祈り」の原型であろう。と同時に幼子の微笑みは普段の祈りの原型である。幼子が微笑みを失ったとき、大人はどんなことをしても、微笑みを取り戻すための労を惜しんではならない。幼子の微笑みは周囲を幸せにする。
聖書の中に、「絶えず祈りなさい」(1テサロニケ5:17)という言葉がある。私は若い頃この言葉に躓いた。そんなことできないと。しかし、絶えず微笑むことはできる。この微笑みこそ「最も短く、しかも最大の祈り」なのではないだろうか。

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