ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/01/29~02/04

2017-02-04 11:08:00 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/01/29~02/04

2017 日々の聖句 1月29日(日)
神よ、わたしの若いときから、あなた御自身が常に教えてくださるので、今に至るまでわたしは、驚くべき御業を語り伝えて来ました。(詩71:17)

わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして(務めに就かせて)くださったからです。(1テモテ1:12)

私の黙想:
今日の聖句、旧約も新約も、嫌だな。こんなに露骨に言われたら「ハイ」と言うしかないではないか。でも、そうは言えませんね。結構、逆らっていますからね。それに、かなりさぼってきましたからね。もし私がもっと勤勉なら、もっと別な人生があったのではないだろうか、と時々思う。でも、もう全ては手遅れの夢ですね。まぁ、いいか。このまま、残り少ないこの道をとぼとぼ歩くしかないね。杖を片手に。

2017 日々の聖句 1月30日(月)
銀はわたしのもの、金もわたしのものと万軍の主は言われる。(ハガイ2:8)

擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。(ルカ12:33~34)

私の黙想:
今日の聖句は聖書では珍しく経済の話だ。ここでの「銀」も「金」、直接的に金銀だ。現在で言うとマネー。ヤハウェは世界経済を直接的に支配しているという。国民は「勇気を出して働け」(4節)という。エジプトを出たとき、貧乏はさせないと、主は「契約した」という(5節)。「まもなくもう一度天と地とを、海と陸地とを揺り動かす」(6節)とヤハウェは言う。世界経済を揺り動かすという。その上での「銀と金」だ。ヤハウェは世界経済を揺り動かしてマネーを神殿建築に集めるという。これが「壁」でないところがいい。その頃、ユダの民は貧乏のどん底にいたのであろう。神殿建築など望むことも出来ない状態であったのであろう。「カネがない」。人々はぼやく。そこで「万軍の主の言葉」が預言者に与えられた。「諸国の民をことごとく揺り動かし、諸国のすべての民の財宝をもたらしこの神殿を栄光で満たす」(7節)と。

2017 日々の聖句 1月31日(火)
神よ、あなたは変わることがありません。あなたの歳月は終わることがありません。(詩102:28)

神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである」。

私の黙想:
変わらないということは、完璧すぎて変わりようがないということである。アルファである神もオメガである神も全く同じ神である。それが完成体だからそれで良いのだが、「変化する」ということも良いことだ。変化の余地があるということは希望でもある。強くて、巨大で、世界に対して圧倒的な力をもつアメリカが大きく変化しつつある。アッシリアも、バビロンも、ペルシャも、ローマ帝国も崩壊した。人間の世界において形あるものはその巨大さの故に崩壊する。力を誇るものはその力によってその力の故に滅ぶ。しかも、皮肉なことに、その崩壊に希望がある。

2017 日々の聖句 2月1日(水)
慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。あなたはわたしの苦しみを御覧になり、わたしの魂の悩みを知ってくださいました。(詩31:8)

願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。(ヨハネ16:24)

私の黙想:
ここでの詩人の悩みとは、ただ状況はかなり深刻であるが、その原因はよく分からない。むしろ原因というよりもその状況の方が重要である。12節13節でこう嘆いている。「わたしの敵は皆、わたしを嘲り隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き、外で会えば避けて通ります。人の心はわたしを死者のように葬り去り、壊れた器と見なします」。ここまで人を追い込んでいいものか。まだ、そこに生きている人間を指さし「壊れた器」という。
実はここまで人を追い詰めるのは、教会である。この世の中に、教会ほど残酷な場所はない。

2017 日々の聖句 2月2日(木)
荒れ野に水が湧きいで荒れ地に川が流れる。(イザヤ35:6)

渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。(黙示録22:17)

私の黙想:
今日の聖句を読んですぐに思い出すのはカウマン夫人の『荒野の泉』という著作である。夫カウマン師は日本ホーリネス教団の設立に大きな影響を与えた方で、たぶん聖職者ではなく信徒であったと思う。そのご夫人の書かれたこの著は、いわば日々の黙想のための書で、多くの人々の霊的成長のために大きな影響を与えてきた。私の母もその一人である。
現在、日本ホーリネス教団の退職聖職である錦織博義先生がFBで毎日それを投稿しておおられる。是非一度は開いてお読みになるといい。アメリカにおける保守的キリスト教の最良の伝統を味わうことが出来る。(アマゾンで調べると中古本で1万円を超している。この著の現代語版で『潤った園のように』1999年版が新品で1冊出ており、4,104円、これの中古本になると69,800円)。弟たちよ、もしこれを持っていたら大切にしなさいよ。

2017 日々の聖句 2月3日(金)
わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。(詩34:3)

主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。(フィリピ4:4~5)

私の黙想:
いつものことながら、もう繰り返すのが嫌になる。なぜ、新共同訳はこんな変な訳をするのだろう。ここでの「貧しい人よ」は場違いだろう。口語訳では、「苦しむ者」、フランシスコ会訳でも「苦しむ人」、文語訳は「へりくだる者」。確かに原語では「貧しき者」なのだろう。新改訳「貧しい者」、岩波訳では「貧しき者たち」と訳している。しかし、この詩にはわざわざ「ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに」という場面設定がある。たとえそれを信じていなくても、そういう詩として訳さねばならないであろう。ここで「貧しい人よ」と呼ばれているのはダビデ王であり、そのときのダビデは確かに惨めな姿であったことには違いない。しかし、それは決して「貧しい人」ではない。強いていうならば文語訳のように「へりくだる者」「心の貧しい者」という意味であり、新改訳では「信仰の友」を指すというように特定の相手というよりも一般化している。あるいは岩波訳では「貧しき者たち」と複数形に解釈している。
信仰者にはどんな逆境におかれても、「共に讃美をしてくれる友がいる」、これがこの詩の趣旨である。

2017 日々の聖句 2月4日(土)
人は恐怖の罠にかかる。主を信頼する者は高い所に置かれる。(箴言29:24)

もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。(1ペトロ3:13~14)

私の黙想:
ヘブル来語の専門家に言わせると、「罠は人に恐怖を与える」という意味らしい。確かに、「罠」は見えないものである。見えたら「罠」にならない。その意味ではあるのか、ないのかも分からない。それが「罠」の本質である。しかし人間は「罠」があるかもしれないと言うことで恐怖を感じる。その恐怖の感覚は現実的だし確かである。そしてますます「罠」にはまる。そして場合によっては「存在しない『罠』にはまって、足が絡み倒れる。しかし、主は私たちを「高い所」に置かれる。そこでは「罠」のことは心配しないで済む。私たちが人間の世界に身を置いている限り、常に不安がある。しかし神の守りの中にある平安でおられる。神は必ず危ないときに「危ない」と知らせてくださる。だから安心できる。神は「罠」の在る所を知らせてくださる。だから私はそこを避けて通ることができる。今日の箴言は正にそのことを教えてくれる。

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