ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

たまには「純」もいかがですか

2008-11-10 11:26:04 | ときのまにまに
ブログ「ぶんやさんち」とブログ「落ち穂拾い」を読んでくれている知人から、数日前にお葉書をいただきました。文頭に「主の平和! たまには ”純” もいかがですか」と書かれていました。出だしが「主の平和」ですから、差出人はキリスト者であることには間違いありません。でも、この謎めいた「たまには・・・・・」が、どうしても理解できません。それ以後、ずっと考え続けています。
「”純”」と言えば、わたしには宝焼酎の「純」しか思い当たらりません。どうも、わたしが大の「芋焼酎派」だと言うことを、どこかで聞いて、わたしに「宝焼酎純」を薦めているのだろうか、と思ったりしています。
宝酒造の「純」は、わたしにとってとても思いで深い飲み物です。「純」発売され始めたのは1977年で、日本クリスチャンアカデミーでの仕事も波に乗っていました。その頃、わたしが最も力を入れていたのが労働組合のリーダーたちとの付き合いで、その関係で九州方面の労組の友人たちから焼酎の飲み方を教えられたところででしたが、どうしても焼酎についての先入観があり、なじむことが出来ませんでした。
宝酒造から新発売された「純」は一種の革命的な「お酒」で、それまでの焼酎のイメージを払拭しました。そのコマーシャルが実に斬新で、とくに、その飲み方がユニークで、朝コップに純を注ぎ、コップごと冷凍庫に入れておくと、夕食の時にはコップは真っ白に凍りますが、純は決して凍らず、「とろっ」とします。純にとってこの絶対に凍らないということが「売り」で、何かインテリジェンスを感じさせます。氷以上に冷たい純をストレートでグイと飲みますとと、喉から胃袋までさわやかな冷気がすーっと走ります。その清涼感はモダンで知的で実に格好いい。わたしはすっかり純ファンになってしまった。
しかし、なんといっても焼酎は焼酎で、飲み過ぎるとかなり体に悪いし、「純すぎて」味わいは希薄です。その内に、純よりも、もう少し個性のある「麦」や「米」に嗜好が移り、現在では、もっと個性的な「芋派」になりました。芋の持つ泥臭さが何とも言えない心の安定になります。芋には芋独自の個性はありますが、どこか遠慮深く自己主張がありません。ちなみに、これだけを単独で飲んでいてもすく下満足感はありません。芋焼酎は、あくまでも料理を引き立てる脇役に徹しています。「芋焼酎のお湯割り」は日本料理でも中華料理でもフランス料理でも相性は抜群である。とくに、フランス料理などではワインなんかよりもはるかにフィットします。いただいた葉書に刺激されて、たまには「純」もいいかな、と考えています。

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