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エドガー・スノーが見た「奉天占領」

2016-07-08 10:56:45 | 雑文
エドガー・スノーが見た「奉天占領」

日本軍による「南京占領」と「その大虐殺」のことについては、多く論じられるが、ほとんどの人は「奉天占領」のことについては知らされていない。実は、満州国成立のカギを握るのが「柳条湖事件」に端を発する「奉天占領」で、実質的にはこれが「満州事変」の始まりとされる。エドガー・スノーは『極東戦線』では、「奉天占領」の実体を詳細に描かれている(51~55頁)。

第1章 奉天占領以前の満州(張学良)
わたしが1929年に奉天を訪れたときは、総督の位もその準君主制もまだしっかりしていた。青年元帥(張学良)は彼の権威に挑戦する北方の力、赤い隣人との間にもちあがった戦争に興奮していた。北満にいた中国の将軍たちは、私腹をこやすために、きわめていかがわしいやり方で、ソ連が所有権の半分を持っていた東支鉄道を接収しようとした。
彼らはソ連人の支配人を首にして、そのあと釜に中国人をすえ、さらにソ連人職員を解雇して、その職を中国人に引きつがせた。彼らは鉄道の資金を奪い取り、会計係に休暇をあたえた。鉄道以外のソ連人職員も追い出され、そのあとに白系露人または中国人が就職した。ソ連の一般民間人たちもいろいろの口実でハルビンにある中国の刑務に投げ込まれた。
この行動を正当化するために、中閲の将軍たちはボルシェヴイキが破壊工作に専念していたからだと非雄した。鉄道を接収するに先立って、中国警察はハルビンのソ連領事官を急襲し、嫌疑を裏づける重要書類を発見したと称した。ソ連政府も外交特権を利用して赤色宜伝をまき散らしていたふしがある。共産主義よりも彼ら自身の政治のほうがはるかに大衆の利益になると確信していた北辺の中国軍首脳は、ソ連のやり方を喜ばなかった。
<中略>
中国人の友人と一緒に、わたしはほこりっぽい舗装のない道路わきにあるこの支配者の邸へ行った。その道路は初期の満州皇帝の墓へとつづいていた。電流を通じた有刺鉄線を邸のぐるりに服りめぐらすという用心深さで、いたるところに警備兵が立っていた。私たちの自動車が重々しい中国風の門をくぐると、しゃれた制服を着た人の警備兵がきびきびした動作で敬礼した。
私たちはえぞ菊が燃えるように咲いている庭の中の曲りくねった砂利道を通り、赤く塗った小さな橋が隅にあって、緑の蓮の葉におおわれた池のまわりをめぐって進んだ。広い敷地は堂々たる檜や杉が生いしげる何エーカーもの林につづいていたが、邸そのものはアメリカの郊外にでもありそうな建物で、あまり大きくなかった。
<中略>
建物の中は、中国人が西洋風と思うやり方ですベて飾られていた。閉めてかぎをかけた観音開きの扉がいくつかあった。やがてその一つから英語を話すハーバード出身の秘書が現れた。
「元帥はここにある東北大学で開かれる全中国体育大会のため、このところずっと多忙でした。閣下はご存知の通りこの大学の名誉総長で、大学に深い関心をもっておられます」と彼は説明した。東北大学は父親の張作霖が、人民に与た気前の良さの一つとして生まれたものだった。近代的で設備が良く整い、中国の大学の中でも最も広い校庭があった。日本人がやってくる前は、有能な中国人および外人の教授陣をそろえていた。彼らはきちんと給料を支払われていたが、それは中国のほかの大学では珍しいことだった。
ハーバード出身の秘書は口辺にうすら笑いを浮かベながら、現われたときと同じように神秘的に消えていった。ほかの秘書が現われ張の入来をつげた。あとでわかったのだが、ハーバード出の秘書は、すべての来客に対して「向う見ずな」暗殺者でないかどうかをとりあえず調ベる役割だった。どうも青年の張は父親の敵
も相続しているようだった。

第2章 中国民族主義の台頭
元帥はその父親よりも痩せて背が高く、いかにも軍人らしい態度を身につけていた。その長い優美な手をみていると、彼が「悪党」の子孫というよりも、感じやすい詩人か学者のように思われた。がっしりした広い肩の上に、愛想のよい顔があった。それはどこからみても中国人の顔だったが、頬の線がきわめて鋭く、くぼんだ細い目をもち、モンゴル族特有の高い頬骨の間に鼻が秀でていた。
彼はあいさつするときに神経質だが人なつこい微笑を浮かべ、白い歯をちらりとみせた。彼は早速会話をはじめた。率直な話しぶりだった。彼の頭の中は北辺の問題でいっぱいらしく、興奮して話しつづけた。わたしは耳を傾け、ノートをとった。
「ロシアと日本は過去五50年間、不当にも満州を手に入れようとしてきた」と彼は非難した。「ソ連政府は1923年にに東支鉄道を中国に返還すると約束したにもかかわらず、ツアー時代と同じように不誠実であることがその後わかった。ソ連の政策はわれわれの権利をみとめないで、それを無視している。中露協定では東支鉄道の運営にあたって双方は完全で平等でなければならないのに、実際上ロシアは全支配権を奪い取った。数年にわたって中国は当然受け取るはずの利益のうち、わずかしか手にしていない」
「あなたはハルビンでのソ連領事官襲撃をみとめたのですか」とわたしは尋ねた。
「みとめてはいない。だがそのような動きが計画されていたことは知っていた。それが起こる証拠はたしかにあった」と言い、彼を打倒しようとする赤のけしからぬ陰謀の疑い、中国をボルシェヴィキ化しょうとする工作、その世界に対する危険などをとうとうとまくし立てた。わたしは南京政府との間はどうなっているかと訊いた。
「万事うまくいっている。ロシアと日本の侵入に抵抗する点でわれわれは完全に一致している。満州だけでは力が足りない。この国の独立を維持するためには中国との協力が絶対に必要だ。南京の中央政府は統一中国の可能性を示している。統一中国はこの国土に対して、われわれが昔からもっている権利を主張し、列強がそれを承認するに足る力をそなえるものである。中央集権をとなえる国民党の考えに私はまったく賛成だ」。
老張(張作霖)もそう考えたかもしれないが、絶対にそれを口に出しては言わなかっただろう。そのときわたしは奉天と南京間の「新しい協調気分」によってやがて日本が頭を痛めることになるうと思った。ついに日本が決定的行動に出るきっかけになったのは、ほかの何にもまして満州におけるこの対外的民族主義の台頭に外ならなかった。
青年元帥は日本と戦うことになる別の埋由を考えていた。
「東3省は長城の南の諸省と同じ中国の一部であることを、満州人も中国人も認識しなければならない。両政府は合体すベきである。私は地方自治権のほかのすベての権限を南京中央政府に委譲するつもりだ」と彼はいい切った。ずいぶん思い切った姿勢である。
「それについて日本はなんと言うだろうか」とわたしは尋ねた。
彼は仕立てのょい上衣の肩をすくめた。「日本はきっといるいろ言うだろう。これまでずっとやってきたように、恒久的統一への動きをやっきになって妨害するだろう。これに対してわれわれは知能を傾けて戦わねばならない」。彼の話しぶりは次第に熱をおびてきた。
「侵略にうち勝つ最上の道は、もっとどんどん中国人を満州へ移植することだ。日本とロシアが満州に足がかりをきずいたのは、この国がまだ人口稀薄だったころである。今やわれわれも目がさめた。人口をどんどんふやして、われわれの存在をはっきり示す必要がある。わが政府は中国人移民をここへ連れてくるために、すでに多額の費用を支出した。これからももっと多く支出するつもりである」。
<後略>

第3章 奉天占領

しかし戦争の歯車はすでに回りはじめていた。日本では参謀本部が指導権をにぎり、中村事件が解決しても後ヘは引かなかった。その翌晩、「北大営分遣隊」の小事件が起こって、運命の一撃が加えられた。その結果についてはすでに述べた通りである(6~8頁)。(註:これがいわゆる「柳条湖爆破事件」である)

なぜ中国人は奉天で抗戦しなかったのか。それは今でも疑問視されている。抗戦すれば十分勝目があったのだが、退却によっては何も得るところはなかったはずだ。満州軍は中国のなかではもっともよく訓錬され、よい装備をもち、給料も高かった。外国の軍事専門家の推定では、その兵力は約20万で、その半教はまだ長城の北側(満州側)に残っていた。奉天の兵器廠は東アジアでもっとも大規模でもっとも近代的だった。その中には10万の軍隊が6ヶ月間戦闘できるだけの弾薬と装備があった。奉天には軍用機60余機があり、その性能は日本軍機よりもすぐれていた。また予備の戦車、最新の野砲、曲射砲、迫撃砲、毒ガスとガスマスク、4千丁の機関銃、1万丁以上の新しい小銃があった。そして満州の部族長たちは、その膨大な個人財産を使わないでも、抗戦をつづけられるだけの十分な軍資金をもっていた。

どうしてこれが全部たちまちやられ、わずか5千足らずの奉天派遣日本軍によって中国軍大部隊が粉砕されてしまったのだろうか。原因はいくつかあげられるが、その大部分は張学良の責任に帰することができよう。彼は自身の恐怖感、優柔不断、経験不足、または南京政府の「革命的外交」への致命的な依存心、あるいは自分の権力を弱めてまでも中国の統一を維持しようという純粋な愛国の情の犠牲になったのだろうか。これらの要因がすこしずつからみ合って、彼の没落を招いたのだあろう。
おそら、張学良は前にあげた最後の理由によって、万里の長城の南ヘ移ったときに、彼自身の「譲位書」に署名したことになったのだろう。過去においても満州の支配者たちは、北京からの誘惑にのったとき、自分の力を失ってしまったのである。だがこの悲喜劇は演劇的にも、歴史的にもきわめて興味深く、ここにそれを書きとめておく価値がある。

中村事件(註:日本陸軍参謀部員中村震太郎大尉がモンゴル奥地でスパイ容疑で逮捕され銃殺された)が起こったとき、若い張学良元帥の部隊の大部分は長城の南(註:北京)にいた。彼は1920年、南京の蒋介石総統に反対の北方軍閥の連合を粉砕するため、はじめて北京ヘ行っている。若い張は蒋介石対して一種の個人的連帯感をもっていた。彼は1931年夏、昔の首都北京にかなり長期にわたって政府をおき、ふたたび調停に立って、前に述べた石友三将軍指揮の瓶乱を失敗に終わらせ、蒋介石総統を救った。それに対して在満日本軍部は、さきに蒋介石総統と手を握ることについて張学良に警告を発したと同じように、強く反対の意を表明した。彼らは、「中国の混乱」から満州を切り離しておくことが、彼らにとっていかに重要であるかを若い独裁者に強調した(4頁)。だがこの忠告は無視され、若い張は国民党の旗の下にはせ参じた。

1931年に日中間の危機が高まり、張元帥は彼の精鋭部隊を率いてできるだけ速やかに奉天近くヘ戻ることが緊急に必要となった。即刻に効果的な手段をとらねばならない事態になっていることは明らかだった。だが、張はためらった。まず張はその部隊が奉天ヘ帰ることで日本軍部を刺激し、一挙に軍事行動を拡大させることを恐れ、また彼の父と同じように、奉天へ戻るときの列車が爆破されることを恐れていたようだった。第二に彼が華北から引きあげると、彼の北京入りによって終結に近づいていた内戦が再発することは避けられなかったであろう。さらにかつての王都北京の花やかさが彼の心をとらえたほかに、彼は中国に対してある種の忠誠心をもっていた。彼は心から内戦の絡結を願っていたようであり、 蒋介石将軍との連帯を維持する ことが、中国の平和を守るために必要であると考えていた。
思いなやんだ若い指導者は、南京中央政府の最高司令官である蒋介石総統に接助を求めた。蒋はじっとしているようにと勧告した。彼は国際連盟とアメリカが日本の侵略から守ってくれるだるうと言って、もし国際連盟が失敗した場合は個人的に軍事援助しょうと約束した。蒋総統にとって満州における日本の圧力行動はだれかが、「仲裁」してくれるという性質のものだった。南京政府はこれまで一度も満州を管理したことはなかった。だがもし張学良が長城の北に引きあげると、反目し合う華北の将軍たちの行動は、もうだれにも「仲裁」できなかった。南京の宿敵たちは北京にとびかかる機会をねらっていた。
満州の中央と北部の吉林省と黒竜江省の省長だった万福麟将軍と張作相将軍も北京にいた。満州にもっていた広大な土地と手びろくやていた事業の安全を懸念した2人は、張学良元帥が奉天へ戻り、日本軍の要求をのみ、政府を救い、和平を確保するよう説得につとめた。実際の政治的かけひきに長じた彼らは、張学良自身の地位が弱くなっているにもかかわらず、彼は蒋介石総統の地位を固めるために利用されていることをよく知っていた。
だが青年元帥は延引策をとりつづけた。東北軍参謀長栄臻将軍は奉天で指揮をとっていた。彼と奉天省政府の委員長代理減式毅は北京にいる若い指導者とたえず連絡をとっていた。彼らは張に指示を仰ぎ、その帰還を懇請した。また奉天兵器廠と北大営を守るために兵力の増強を要求した。
栄将軍は中村事件に対する中国の償いにもかかわらず、日本軍が攻撃を企てているとの確かな情報をもっているらしかった。奉天にいた中国の将軍たちは、そうすれば日本軍が襲撃することはあるまいと思って、外国の友人に自分たちの邸に移ってくるように勧めていた。
しかし張は防衛準備について最終的な指示を出さなかった。彼は数週間ロツクブフェラー財団病院に入院し、快方に向かっていた。彼は前に阿片吸引癖をなおすためにお抱えの医師からモルヒネ注射を受け、そのため、「麻薬」常習者になっていたのを治療中だといわれた。公式の発表では彼の病気は感冒ということだった。いずれにしろ彼は体が弱く、神経衰弱にかかっていた。彼が決断に達することは不可能だった。ふたたび相談をもちかけられた蒋介石総統は、国際連盟とこれまでも困難な事態を切り抜けさせてくれた機敏な王正廷外交部長に万事を任すよう、安全な遠い南京から要領のいい勧告を送った。日本が中国政府との間に結んだいくつかの「不可侵条約」をあえて破ろうとは、だれも信じたがらなかった。
張学良元帥は決定を引き延ばし、ついに9月18日の深夜になってしまった。ここで彼は部下の軍司令官と華北にいる国民党の実力者たちを集めて最後の会議を開いた。やっとのことで彼は奉天で心配している栄臻将軍に電話をかけることになった。彼が意図したのは「戦闘」だったか、「退却」だったか、はわからない。いずれにせよ、最後の指示は伝えられなかった。電話線が切られていると交換手が言った。彼は無電で交信してみたが、応答がなかった。翌日の明け方、彼は優雅にも気絶した。意識を回復したとき彼は涙を流した。その時、満州の首都が失われたことを知ったのである。

奉天では午後10時をちょつとすぎたころ、日本軍が北大営に対して攻撃を開始した。張学良にとってとくに皮肉だたのは、日本人顧問の警告をしりぞけて華北ヘ彼が干渉したときからちようど1年目の1931年9月18日に、事件が起こったことだった。緊張した空気がひろがり、北大営付近の南満州鉄道で爆破事件があったにもかかわらず中国兵の多くは攻撃がはじまったとき眠っていたようである。最後まで目をさまさない者もいた。砲火は兵営と小さな兵器廠に注がれ、間もなくそれは炎に包まれた。中にいて焼け死んだ者もある。だが東アジア最大といわれ、張一家が銀貨にして2千万ポンド以上つぎこんだといわれる奉天兵器廠は無傷のまま日本軍に占領された。それが戦闘中、日本軍に武器弾薬を供給することになった。 下級将校に指揮がまかされていたことは明らかで、中国軍は恐慌と混乱状態に陥り、何人かは逃亡を試みて兵舎から出ようとしたところを射殺された。他の者はまっくらな兵営内に踏み止まって、弾薬がつきるまで撃ちまくった。高級将校たちはこのような緊急状態に対処する用意がなかったようで、まったく虚をつかれた形だった。

その夜奉天ではいくつかのパーティが開かれていた。特別行政下に外人たちが住んでいた「共同租界」の外国人クラブでも一つの集りがあった。日本人の主催で中国の将校たちが歓特を受けていた。数マイル離れた北大営で火ぶたがきられると、租界内にすえられた機関銃がまるで奇跡のような早さで射撃を開始した。中国人将校たちの中には逃げた者もいるが、多くは逮捕された。韓栄鵬将軍は外国クラブの近くで、自分の車内で射たれて死んだ。
その夜ほかのところでも中国人将校たちが日本人もてなしを受けていた。中国料理店である会台が開かれたが、来客たちは乗りこんできた一隊の日本人警官によってその場で逮捕された。ある日本人将校の自宅で開かれていた会合に出席していた中国人の客は、軍人も民間人も同じ目にあった。
日本租界の中心街の有名な浪花通りからすこしはずれたところで、数人の中国人パイロットが 日本人のパーティに出ていて、例のとおり芸者の接特をたのしんでいた。彼らはかなり酒をきこしめしていたらしい。大通りヘ出たところを日本人憲兵たちによびとめられた。憲兵は腰をかがめて一礼するとみるや彼らを逮捕した。同時に奉天飛行揚にあった60余機の軍用機は日本軍に接収されてしまった。

このようなことが当夜日本側の鉄道沿線と南満州のいたるところで起こっていた。どこの町や市でもまったく準備のなかった中国部隊は不意打ちをくらい、はっきりした命令は出ず、指揮は混乱していた。日本人によってパーティや会合におびき寄せられた将校たちもあったが、中国側も日本側もみとめているように、北大営ではかなりの抵抗があったし、その夜攻撃の的となった南満州鉄道沿線の都市でも抵抗が試みられた。だが前から計画され、巧みに指揮され、しかも恐ろしい素早さをもっていた攻撃軍が、いたるところで優勢を占めた。
日本軍の威力に対する誇張された畏怖の念、そこから生じた恐怖の劣等感が前から満州軍をつかんでいた。有能な指揮があればこれを克服できたかも知れず、また「自衛」の名で行われた日本軍の侵攻に対してもまったく別の形をとったかもしれなかった。のちに上海、チチハルその他のところで立証されたように、中国軍も日本軍に対して抵抗できないわけではなかった。決定的の瞬間に恐怖感が満州軍を支配した。首脳部の無気力が将兵の間に敏感に伝わっていった。多分張学良将軍ひとりの責任ではなかっただろうが、「大黒柱が弱ければ寺全体がつぶれる」ということわざはこの際ぴったりあてはまる。
後日この事件が世界中にしれわたったとき、張学良元帥は9月6日奉天にいる部下の司令官たちに打電したというつぎの電報の写しを国際連盟に提出した。
「われわれと日本人の関係は最近きわめて微妙な段階に達した。われわれが日本人と交際する場合は細心の注意を払わねばならない。いかに挑発されようとも、極度の忍耐を保ち、決して武力に訴えず、いかなる紛争も避けねばならない。この点に留意するよう全将校に秘かに即刻命令されたい」。
この指示をみると、中国兵が南満州鉄道に損害を及ぼす爆破を計画し、軍事衝突を早めるようなことを許されたとはとても考えられない。だがそれにつづく中国人の破滅的な総退却はうまく説明できない。中国軍は和平協定を守るために抵抗しなかったのだと後で張は釈明しているが、たとえ効果は少なかったとはいえ、彼らが実際に抵抗した事実をそれは無視している。あるいは体面を救うための悲しい努力だったかもしれない。その祖国に対する攻撃と侵略に対して抵抗を禁じた文書は存在しない。

日本の指導者たちは彼らの企てが大成功したことに大喜びしていた。すでに彼らはかつて征服者のタタール族が切り聞いた広い道を進んで、満州の伝統の真の後継者になったつもりでいた。「20世紀の半ごろには日本はアジアの大平原でヨーロッパと相まみえ、彼らの手から世界制覇を奪い取るであろう」と言った。この主義の擁護者故大隈伯のために、彼らは心から乾杯して叫んだにちがいない。「万歳! われわれは行動を開始したぞ」。

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