ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/11/06~11/12

2016-11-12 08:23:55 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/11/06~11/12

016 日々の聖句 11月06日(日)
神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう。(コヘレト12:14)

人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。(ルカ18:8)

私の黙想:
今日の聖句に入る前に、ルカの言葉に一寸注目。この言葉、あれだけ繰り返しルカ福音書を読んでいるのに、この言葉に注目したことがない。一種の新鮮さで読んだ。こんな言葉が福音書にあるのだ。一体この言葉は誰の言葉だろう。イエスの言葉だろうか、ルカの言葉だろうか。おそらく後者であろうが、ドキッとする。ルカはこの言葉をイエスの口に入れた。地上に信仰を見出さない可能性がある。
今日の聖句は、コヘレトの言葉の最後の一句である。その前の言葉はあまりにも有名だし、特に私にとって父親が一生の座右の銘にした言葉なので、良く覚えているが、今日の聖句には目が耳が、行かなかった。これもルカの言葉に匹敵するような恐ろしい言葉だ。「お目こぼし」がない。私など、「お目こぼし」だけを期待して生きている者にとっては、生きる心地がしない。

016 日々の聖句 11月07日(月)
わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事その事をわたしは喜ぶ。(エレミヤ9:23)

主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである。(2テモテ2:19)

私の黙想:
23節全体に触れるとかなりややこしい問題に巻き込まれそう。それで今朝はこの句だけに集中する。これがヤハウェの喜びだという。神本来の神らしい、そして神にしか出来ないこと、そのことを神は喜んで居られる。これを裏返すと、本来神の仕事ではないことを、あまりにも煩わしいことに関わりすぎて、やっと本来の神の仕事に従事することが出来たという喜びである。例えば、言うことを聞かない我が侭息子の世話に忙しかったこと、子供がしでかしたいたずらについてご近所に謝りに回ったこと、子供を叱ったこと、しかも厳しい罰を与えなければならなかったこと。こんなことは神の本来の仕事では無い。やっと、そのような「要らん仕事」から解放されて、本来の神らしい仕事に就くことが出来た。嬉しい。その嬉しさが、この句には表現されている。では、本当にそういう状況になったのだろうか。その時のイスラエルの状況を見ても、その後の教会の歴史を見ても、神には少しも安らぐことは出来なかったし、今も出来ない。本当に不肖の息子で申し訳ないという気持ちだ。教会が「神の愛」を語るとき、この「神の悲しみ」を本当に自覚しているのだろうか。そこまで行かないと、教会はまだ大人になりきれない、子供のままだ。

016 日々の聖句 11月08日(火)
(そのとき、)わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」(イザヤ6:8)

一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。(1コリント12:7)

私の黙想:
今日の聖句はイザヤの召命に関する有名な言葉である。で、聖書を開いて読むと、まず目にと飛び込んできたのが「そのとき」という句であった。で、どんな時なのかと思って、聖書を読むと、「ウジヤ王が死んだとき」とあり、その年にイザヤは神殿で一つの幻を見る。ここが有名な聖歌「聖なる、聖なる、聖なるかな」の出典である。それを見たイザヤは自分の汚れを強く自覚する。そして天使がイザヤに近づき、祭壇から取り出した炭火をイザヤの唇に付ける。要するに清めの儀式であろう。その時、まさにその時、イザヤは主の言葉を聞く。ところが、これを口語訳で読むと、「その時」とは、ヤハウェの声を聞いた「その時」であるという。この「その時」をどの時と考えるかで「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」という言葉の受け取り方が違ってくる。この言葉はいったい誰に語られたのか。フランシスコ会訳は新共同訳と同じである。新改訳には「その時」という言葉がないが、「聞いたので」という言葉で、結んでいる。ヤハウェの召命は個人に個別的に呼びかけられるものなのか、それとも一般的に誰にでも呼びかけられているものなのか。「その時に、私は聞いた」。あるいはヤハウェの一般的な読みかけを聞いたので、その時に志願したのか。召命はボランティアなのか。ご指名なのか。私は自分の個人的経験から、「ご指名」だと思っている。私は指名されたから手を挙げた。
そんな細かいことを一々気にする必要は無いであろうが、私には気になる「その時」である。

016 日々の聖句 11月09日(水)
あなたの裁きが地に行われるとき、世界に住む人々は正しさを学ぶでしょう。(イザヤ26:9)

預言者ヨハネの言葉:わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。(黙示録19:11)

私の黙想:
「正義とは何か」についていろいろと論じられる。議論は堂々巡りし尽きない。人間の正義はこちらにとっては正義であるが、あちらにとっては不正となる。正義の根源は「神の裁き」にあると、イザヤはいう。神が正しいと言ったことが正しく、神が不正といったことが不正である。結局、そこに落ち着く。イヤ、そこにしか落ち着き先はない。
だとすると、人間は神の正義が行われるまで、本当の正義を知り得ない。だから人間の正義はあくまでも「仮の正義」に過ぎない。あるいは人間の正義は「有期限の正義」に過ぎない。「民主主義」は「民主」であり、民が主である。そこでは勝者が正義とされ敗者は不正とされる。今日にでもアメリカの大統領選挙は結末をくだされる。選挙戦の最終段階ではお互いに醜い悪口の言い合いになった。あたかも「正義」をかけての闘いという様相を示していた。そこに人間による、人間のための判断が下される。しかし、その判断の正しさを証明する能力は人間にはない。あくまでも「仮の正義」であり、それはこれからの4年間によって証明される。問題はこの4年間で「民主主義」そのものが破壊されるかも知れないという、不安である。今、日本ではそのことが問われている。

016 日々の聖句 11月10日(木)
(神よ、わたしは、)床に就くときにも御名を唱え、あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。(詩63:7)

ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。いったいだれが主の心を知っていたであろうか。(ロマ11:33~34)

私の黙想:
今日の聖句、口語訳ではこうなっている。「わたしが床の上であなたを思いだし、夜のふけるままにあなたを深く思う」。こんな毎日を過ごしたら参ってしまうだろう。やはり、理想は、昼間は人々と共に多くの時間を過ごし、よく食べ、よく喋り、活発に動き回り、夜になったらバタン・キューッと寝て、朝まで目を覚まさないことである。そんな生活では神が登場しないではないかと誰かが言うかも知れないが、普段は神が登場しなくてもいい。時々、神を思い出し、そういう生活を感謝する。それで十分ではないか。と、私は思う。

016 日々の聖句 11月11日(金)
どのような財宝よりもあなたの定めに従う道を喜びとしますように。(詩119:14)

天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。(マタイ13:45~46)

私の黙想:
今日の聖句、文章の流れ、リズムから、最後の「ように」という祈願の句で乱れる。ここは、断乎として「喜びとします」である。と思って口語訳を読むと、やはり「あかしの道を喜びます」だ。新改訳などは「楽しんでいます」である。文語訳も「あかしの道を喜べり」、岩波訳も「あなたの定めのみちをわたしは喜ぶ、全財産に対するように」」である。こうなると、私は自分の感覚に自信を持ち、これを祈願文にしている翻訳者の信仰的感覚を疑うようになる。私は文法的なことは分からない。しかし、これを祈願文にしてしまうと、財宝と神の定めとを天秤にかけて、財宝にも未練を残し、それを無理にかき消している感じがする。現実にはそういう人が多いのであろうが、それでは詩119編全体の流れを歪めてしまう。財宝なんて、時代が変われば、消えてしまう。しかし、神の定めに従う私の人生は楽しい。

016 日々の聖句 11月12日(土)
わたしは(兄弟たちに御名を語り伝え)、集会の中であなたを賛美します。(詩22:23)

忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。(ロマ15:5~6)

私の黙想:
「わたしの神よ、わたしの神よなぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず呻きも言葉も聞いてくださらないのか」。イエスが十字架上で叫んだ有名な言葉である。詩22と言えば、この句で始まる。今日の聖句は、詩22の最後の方にある。今さらながら、この句と、この詩の冒頭の句との落差に驚かされる。こういう人生におけるどん底で口を突く言葉を吐いた人物が、数分後には、この句を口にする。この間に何があったのか。十字架上のイエスについては何も説明が無い。あの苦しみの中で、今日の聖句まで達したかどうかも分からない。しかし、この句の詩人は、この句に「到達」している。この苦しみの中で、人びとから「虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥」(7節)とまで罵られる。20節で詩人は「主よ、あなただけはわたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ今すぐにわたしを助けてください」と祈る。これが苦しみのピークであろう。この句は冒頭の「わたしの神よ、わたしの神よなぜわたしをお見捨てになるのか」の延長線上にある。ただこれら2つは決定的に違う。冒頭の句は「嘆きの言葉」であるが、20節の言葉は完全に「祈り」である。この祈りを切っ掛けにして、状況は激変し、讃美へとなる。ここまで読まないと、今日の聖句の凄さが分からない。何の苦労もない人が教会で証しをしたり、讃美をしているのとはわけが違う。20節があって23節がある。

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