ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 11/27~12/3

2011-12-08 10:09:27 | ローズンゲン
今日のローズンゲン 11月27日(日):
あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを。(出エジプト19:4)
キリストの言葉:あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。(ヨハネ15:16)
私の黙想:
神が私たちの為になされたことを一言でいうならば「鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れてきたこと」だ、と言う。なんとメルヘンティックな表現であろう。そうなんだ。神が私にもなさったことは、これなんだ。どんなに困難な山道でも、恐ろしい谷でも、鷲の翼の上に乗っていれば一飛びだ。

今日のローズンゲン 11月28日(月):
国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。(イザヤ2:4)
キリストはわたしたちの平和であります。(エフェソ2:14)
私の黙想:
戦争や紛争のない世界、すべての問題を言葉による対話、会議によって解決する。それが人類の理想であることは間違いない。預言者イザヤはその「理想」を「希望」として語る。理想はただ単に頭の中だけであるが、希望はそこに向かって歩き始めることである。

今日のローズンゲン 11月29日(火):
戒めを守って、命を得よ。わたしの教えを瞳のように守れ。(箴言7:2)
キリストの言葉:わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(マタイ5:17)
私の黙想:
ここでいう「わたし」とは息子に対する父親である。これだけ率直に息子に対して、人間の生き方を語れる父親の威厳は凄い。羨ましい程である。勿論、このことも父親の父親から受け継いできたものであろう。それは自分自身の生き方に裏打ちされて力となっている。

今日のローズンゲン 11月30日(水):
わたしの戒めに耳を傾けるなら:あなたの平和は大河のように:恵みは海の波のようになる。(イザヤ48:18)
パウロの手紙: キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。(2テモテ1:13)
私の黙想:
平和が「大河のように」と恵みは「海の波のように」は、私の感覚としては逆だ。平和は「海の波」で、太平洋となり、恵みは「大河のように」流れて大地を潤すのではないだろうか。訳語の問題か文化の問題か。

今日のローズンゲン 12月1日(木):
見よ、国々は革袋からこぼれる一滴のしずく、天秤の上の塵と見なされる。(イザヤ40:15)
全能者であるわたしたちの神である主が王となられた。わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。(黙示録19:6-7)
私の黙想:
「国々」とは国土、つまり領土であろう。領土の広さなど数えるに足りない。ちっぽけな領土を取り合うために尊い命を懸ける人間たちの愚かさ。ぞれらは全部わたしたちの神のものだ。ここでは「革袋からこぼれる一滴のしずく、天秤の上の塵」という表現が面白い。

今日のローズンゲン 12月2日(金):
主の言葉:あなたが帰ろうとするなら、わたしのもとに帰らせよう。(エレミヤ15:19)
イエスは通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。(マルコ2:14)
私の黙想:
神の元には「行く」のではなく「帰る」のだ。自分自身が本来あるべき所に帰る。神の元に帰るということと自分自身に帰るということとは同一のことなのだ。神人の交わりとは自己同一化(?)なのだ。自己が自己でなくなっている状況から解放されて自己に帰る。

‎#losungenj 今日のローズンゲン 12月3日(土):
貧しい同胞に与えるとき、心に未練があってはならない。あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。(申命記15:10)
言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。(1ヨハネ3:18)
私の黙想:
人に親切にするとき、重要なことは心であるという意味であろう。しかし、吝な人と気前のいい人と違いは心だけだろうか。環境や社会関係、育ちや性質なども深く関連しているのではなかろうか。心があってもそれを行動に移せない人もいれば、行動に移してはならない状況や関係もある。

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