ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

村上春樹さんのエルサレム賞受賞講演について

2009-02-25 12:46:26 | ときのまにまに
正直に言ってわたしは村上春樹さんの作品を手に取ったこともないし、未だに村上春樹さんと村上龍さんとの区別もつかない。むかし村上龍さんの『限りなく透明に近いブルー』(1976年、講談社)を読んだことがあるだけで、それもわたしの肌に合わなかったのでそれ以後は全然興味がなかった。最近、村上春樹さんが日本人の中でノーベル文学賞に最も近い作家であると聞いて調べてみてやっと村上龍さんとは違うのだということがわかった程度である。
ところが、その村上春樹さんが今度エルサレム賞を受けたという。正直に言って、わたしはエルサレム賞のことについても何にも知らなかったし、それを受けるということがどれほどの「名誉」なのかということについても認識がない。でも一応社会的事件であるらしいので、いろいろ気をつけていると、エルサレム賞を受賞する場合、その人がエルサレムで講演をしなければならないらしい。その講演が問題となっている。インターネット上では既に幾通りも(英文でも日本語訳でも)流れているので読んでみた。なかなか面白い講演である。聞かせる。しかし状況が状況であるだけに(イスラエルによるガザ攻撃)、この講演については評価が分かれる。それぞれの主張も説得力はある。わたしはこの議論について立ち入って評価を下すことはできない。

村上春樹さんの講演要旨(2009.2.15) < http://www.47news.jp/CN/200902/CN2009021601000180.html >

1.イスラエルの(パレスチナ自治区)ガザ攻撃では多くの非武装市民を含む1000人以上が命を落とした。受賞に来ることで、圧倒的な軍事力を使う政策を支持する印象を与えかねないと思ったが、欠席して何も言わないより話すことを選んだ。
2.わたしが小説を書くとき常に心に留めているのは、高くて固い壁と、それにぶつかって壊れる卵のことだ。どちらが正しいか歴史が決めるにしても、わたしは常に卵の側に立つ。壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか。
3.高い壁とは戦車だったりロケット弾、白リン弾だったりする。卵は非武装の民間人で、押しつぶされ、撃たれる。
4.さらに深い意味がある。わたしたち一人一人は卵であり、壊れやすい殻に入った独自の精神を持ち、壁に直面している。壁の名前は、制度である。制度はわたしたちを守るはずのものだが、時に自己増殖してわたしたちを殺し、わたしたちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させる。
5.壁はあまりに高く、強大に見えてわたしたちは希望を失いがちだ。しかし、わたしたち一人一人は、制度にはない、生きた精神を持っている。制度がわたしたちを利用し、増殖するのを許してはならない。制度がわたしたちをつくったのでなく、わたしたちが制度をつくったのだ。

この講演の中心部は、イエスが好んで用いたいわゆる譬え話の形でメッセージが語られている。この当たりに村上さんの文学性と知恵とがあるのであろう。しかし注意深く読むと、「高く、強固な壁」と「弱く、壊れやすい卵」とが指し示しているものが微妙に移動する。初めの方では圧倒的な力を示すイスラエル軍と無力なガザの住民とが対比されているかのように見えるが、本音の部分になってくると「制度」と「わたしたち」との関係に視点がずらされる。この場合の「制度」とは何か。「わたしたち」という言葉の中に包含されている村上さんは「卵の立場に立つ」というより「卵そのもの」であり、その場合、村上さんにとって「壁」とは何か。村上さんが国際舞台で語る場合、この「制度」という言葉が含蓄するものが曖昧では許されないであろう。その意味では「卵の立場に立つ」という言葉の空虚さが目立つ。「卵の立場に立つ人間」と「卵」とは異なる地盤に立っている。
まぁ、それはそれとして、一般的に言って「制度」と、その制度に支配されている「わたしたち」との関係はまさに「壁」と「卵」の関係で、この比喩そのものはいろいろなところで偉力を発揮するであろう。

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