ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

虹の松原と唐津城に行ってきました

2009-05-05 11:28:50 | ときのまにまに
せっかくのゴールデンウイーク、天気もいいし、どこかに行きたいなぁ、と朝から思っていた。でも、高速道路はどこまで行っても1000円ということで、大混乱のニュースが流れているし、どこか高速道路を使わなくて行けるところないかなぁ。独り言のように家内にいうと、「それじゃ、唐津城に行きましょう」ということになった。何しろ退職後はまるまる自由時間で、出かけると妨げるものは何もない。
早速、燃料を補給して出かけることにした。ガソリンスタンドの社長も、「唐津、穴場だな」と言う。国道3号線を走り、福岡の都市高速道で市内を通り抜け、西九州自動車道路まではスイスイ。一寸心配していた「博多どんたく」のラッシュもない。ところが、今宿を出た辺りから渋滞が始まりノロノロ。見ていると、どうも料金所での作業が手間取っているらしい。西九州自動車道はまだ未完成のため、一般道路になったり、高速道路になったりで、その度に料金所があり、おまけにETCがないときているので、そこがネックになっている。「何が、穴場だ」とぼやきながらも、唐津城の手前の虹の松原(国指定特別名勝)までやって来た。
実は、以前に呼子に行ったとき、唐津城を遠くから眺め、その美しさが忘れられず、一度行きたいと話していたのである。その際に、虹の松原もぜひ立ち寄りたい場所の一つであった。

        

司馬遼太郎さんの『肥前の諸街道』(朝日文庫版、36頁)に次のような叙述がある。
<長さ8キロあるという。2里である。もとは「二里の松原」とよばれたらしい。秀吉の時代に大名にとりたてられた尾張人寺沢広高が。この唐津城主となって、城を築き防風林として松原をつくった。江戸中期のいつごろからか、唐津人が誰が言い換えるともなく「虹ノ松原」と言いならすようになったらしい。唐津城は、藩主の交替が頻繁なため武家文化が成熟しにくく、さらには地元が豊かなために、町人や富農層が唐津文化を熟させてゆくという面がつよかった。こういうしゃれた言い方は、漢語でこりかたまった藩士層からは、出にくいように思える。(中略) 唐津では無駄や無用のことこそ文化だという機微が共有のものになっているようだが、その点、佐賀藩領は徹底して学校文化の伝統に居すわっている。もし、旧佐賀藩領に「二里の松原」があれば、「距離を正確にいいあらわして、じつに妥当な名称ではないか」ということになって、虹の松原などという発想は、だれも持たなかったにちがいない。
江戸期の紀行文も、この松原にふれているのがいくつかある。沖から見れば渚が虹にように大きく湾曲しており、とくに夕陽のさかんな時刻など、浪も白沙も赤く陽に染まり、その色が松原に揺曳して虹がかかったように見える、などとある。たしかにこの松原は、海と浜と岬の美しさとかかわりつつみごとなものであるが、何よりもすぐれていいるのは、名称といっていい。虹という、多少甘ったるい言葉が、これほどありありと生きている例を他に知らないのである。>
これほど美しい風景描写は珍しい。実際にそこに行っていない人でもこの描写によって風景を想像できる。しかし、実際にいってみれば、時刻は違い立つ位置は違っても感動する。
虹の松原の国民宿舎で昼食を取った。窓から見える海岸では大勢の家族連れが潮干狩りをして楽しいそう。

        

虹の松原を通り過ぎると、美しい唐津城が姿を見せる。本当に美しい。どの角度から見ても美しい。遠くからも美しいし、近づいてもますます美しい。特別な行事があるわけではないのに大変な人出であった。このお城は初代城主寺沢広高が慶長7年(1602年)から7年の歳月費やして建てられたという。その際に呼子にあった名護屋城の解体資材を用いたと伝えられている。築城に当たって、寺沢高広は豊臣秀吉に遠慮して、天守台(天守閣の土台)を作ったが天守閣は造らなかったという。

        

この高台の上ならば、とくに天守閣がなくても城としての機能は十分果たせたのであろう。現在の天守閣は慶長時代に築かれたとしたら、こういう天守閣になったであろうと思われる様式を想像して、昭和41年(1966年)に文化観光施設として建てられたものである。当然、それは外観だけの話で、城の内部は現代の建築物そのもので、熊本城や姫路城で感じられるような歴史の重みや伝統の香りは全くない。その代わりというと、変わりにはならないが、天守閣から眺める周囲の風景はすばらしい。唐津湾と松浦川、虹の松原などが一望できる。

        

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