ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 05/29 日本聖公会決議、ヘイトスピーチに関する件

2014-05-31 08:02:29 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。朝、山本友美『サランヘを歌おうね』を続読。韓国と日本との人間関係の違い。午後、『Evernote活用編』(Kindle版)を購入し読む。ジムに行く。夜、「TEAM」、「花咲舞は黙っていない」を見て11時就寝、6時起床。体調・快調、チュン、チュン。

野間 悦三さん、播 稔さん、森分 和基さん、他22人が「いいね!」と言っています。

萩野 秀子 おはようございます。整形外科、チラシ配りをします。良き日となりますように。お祈りします。

藤木 冨士子 おはようございます。
posted at 05:59:05

今日の名言:RT @Iwanamishoten:
悪人がいくら害悪を及ぼすからといっても,善人の及ぼす害悪にまさる害悪はない。(ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』)
<一言>裁かれる人間の犯罪よりも、裁く人間の害悪の方がはるかに罪深い。

竹本 耕造さん、野間 悦三さん、松下 光雄さん、他17人が「いいね!」と言っています。

藤木 冨士子 amen
posted at 07:00:29

「昨日のツイート 05/27 日本政府は放射能汚染水の海への流出を認めた」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/c410249f60209cfa241fcff158516e9…
posted at 09:20:08

77歳の私、近頃、孫たちのツイートが全然わからへんようになりましてん。ひどい大阪弁丸出しと、訳わからん短縮語。
posted at 19:12:23

文屋 善明
お目覚めの花。「アナタタチハ、ナゼ、ウナダレテイルノデスカ」「主が私たちの元からいなくなってしまったのです」「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒言行録1:11)
写真: お目覚めの花。「アナタタチハ、ナゼ、ウナダレテイルノデスカ」「主が私たちの元からいなくなってしまったのです」「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒言行録1:11)

竹本 耕造さん、加藤 治さん、野口 富隆さん、他32人が「いいね!」と言っています。

藤木 冨士子 シェアします。

文屋 善明
2014日々の聖句 05月29日(木)
わたし自身が町を囲む火の城壁となると、主は言われる。(ゼカリア2:9)
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:20)
私の黙想:
新しいエルサレムについての幻。「測り縄を手にしたひとりの人」(1節)、謎の人物は新しいエルサレムの設計士。新エルサレムの基本設計は「城壁がない町」(8節)でなければならない。しかしそこは人と家畜とで溢れている。つまり繁栄している町となる。つまり、城壁がなくて繁栄した町、古代社会においてそういう町が存在していれば、必ず、周辺諸民族のターゲットにされて襲撃を受けるであろう。それが弱肉強食の国際社会の論理である。「城壁のない町」それは無防備、軍隊のない町である。現実の弱肉強食の論理に反するのが新エルサレムである。それが預言者ゼカリアが描く人類の未来像である。「城壁がない」ことを心配する必要はない。何故なら、ヤハウェ自身が「火の城壁」となり、その町の中にヤハウェが常駐するという。あえて「神国」という言葉を使うなら、こういう国が真の「神国」である。統帥権をもった天皇によって「神国」が成立するのではない。新しいエルサレムには「人と家畜とが溢れるという」。経済的繁栄であろう。つまり全世界の諸民族がそこに集まり、そこに住みたくなる町、誰がそのような町を廃墟にしたいと思うだろうか。石破さんに反して言う。経済的に豊かで全世界から集まってくる国に攻めてくる馬鹿は居ない。あえて言うなら、日本を「新しいエルサレム」にしようではないか。

北村 良輔さん、野間 悦三さん、鎌野 健一さん、他21人が「いいね!」と言っています。

藤木 冨士子 その通りですね。

清水 行雄 先生、おはようございます。少し教えてください。イスラエルの民は、こうしたヴィジョンというかイリュージョンを語る預言者の言葉を、文書であれ口承であれ、代よ伝えてきたのですか?

文屋 善明 預言者ゼカリアはいわゆる第3イザヤ等と同じ時代、つまり第2神殿の建築の頃(BC530~515年頃)に活躍したと言われています。この当時は、もうすでに独立国家という可能性はほとんどなく、これからは宗教的共同体として生きるということを覚悟した時代です。その意味では、かなり「理想主義的?」な思想が民族の指導原理になっていたと思われます。その思想がどの程度民族内で受け止められていたのかは、明白ではありませんが、少なくとも、その思想が芽生えていたことは確実です。同じような思想はいわゆる第3イザヤ(イザヤ書56章以下)にも見られます。

清水 行雄 ご教示ありがとうございます(^^)

文屋 善明さんが林 巌雄さんの写真をシェアしました。
「デュープロセス(適正手続き)が蔑(ないがし)ろにされている」。つまり、政府や東電はなすべきことをしないで、ただ「風評被害」だけを云々している。風評被害がもんだなら、ちゃんとした情報を流せよ。

被爆の直接的因果関係が立証されていなくても、事故の影響であることの可能性は否定できない。

立証されるべきは安全性であり、危険性は立証されなくてもよい。

危険性が立証されないものが安全なのではなく、安全性が立証されないものが危険なのだ。

【(あすを探る 科学)美味しんぼ騒動、見えたもの 平川秀幸】


(朝日新聞デジタルより)

 「デュープロセス(適正手続き)が蔑(ないがし)ろにされている」。そう思わされる出来事が続いている。

 デュープロセスとは「何人も法の定める適正な手続きによらなければ生命・自由・財産を奪われない」とする米国憲法の原則に由来するが、ここでは社会に重大な影響を及ぼしうる物事を進める際に踏むべき適正な手続き一般を指すものとする。

 それが軽んじられている。最たる例は、憲法改正という手続きを経ず、解釈変更のみで集団的自衛権の行使を可能にしようとする安倍政権の動きだが、STAP細胞論文不正の問題でも、ずさんな実験ノート、剽窃(ひょうせつ)、画像の不正加工など科学研究における適正手続きがことごとく踏み外されていたことが判明し、研究の信憑(しんぴょう)性が強く疑われている。

 同様の問題は、先日の『美味しんぼ』騒動にも見ることができる。ここで問題にしたいのは作品自体の是非ではなく、それに対する政治家たちの「不安や風評を払拭(ふっしょく)するために正しい情報を発信する」という発言だ。正確な情報発信は確かに重要なのだが、この発言には「政府として対処すべき問題は、放射線に関する国民の理解不足や情報の伝え方にあり、政府が発信する情報や施策の内容には何も不足はない」といった姿勢が見え隠れしている。そこには原発事故の対応で本来求められるデュープロセスの不履行という問題が潜んでいる。

 『美味しんぼ』騒動で批判を浴びた「鼻血」について国や自治体は「低線量被曝(ひばく)では科学的にありえない」としているが、市民の間では鼻血の多発を否定する声もあれば、自分や家族の経験として他の身体症状とともに肯定する声もある。原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)の2008年の報告は、チェルノブイリ事故で被曝した住民に医学的に説明できない身体症状も含めた心理的・身体的影響が見られ、かなりの部分は、被曝の直接的影響ではないにしても、事故の影響であるのは明らかだとしている。これについて真摯(しんし)に調査することは原発事故対応のデュープロセスの一つだといえる。

 また、人々が抱える「不安」について国や自治体は、放射線リスクの理解不足が原因だとし、「正しい理解」の普及がこの3年間進められてきた。しかし不安には、被曝以外の健康影響や生活再建の見通しに関するものもあり、放射能の知識だけでは解消できない。UNSCEARの00年の報告は、不安に対処するには住民自身がリスクを低減できるようにすることが有効であり、そのためには住民と地方行政の協力が重要だとも指摘している。

 住民と行政の協力や、施策決定に住民が関わることは、国際放射線防護委員会(ICRP)も推奨している。日本でも子ども・被災者支援法が、施策内容への住民の意見の反映と意思決定過程の透明性の確保、居住・移住・帰還に関する当事者の自己決定の尊重と支援を求めている。これらもまた原発事故対応のデュープロセスの重要な要素である。

 このように事実を究明すること、自己決定を助けること、そのためにも人々の話を聞くことは、正確な情報発信とともにリスク対応のデュープロセスを構成する。しかし、それらが事故後、十分に履行されたかといえば、答えは否定的だろう。政府は、福島の事故はチェルノブイリとは異なり被害は僅少(きんしょう)であり、現状の対応のままでも結果は変わらないと見込んでいるのかもしれないが、未解明事項の調査や自己決定の保障が十分なされないことは、それだけで当事者には大きな問題だ。国などに対する不満や不信が強まり、それゆえに共有されるべき正確な情報すら信用されないことも起こりうる。

 『美味しんぼ』騒動は、デュープロセスの不履行とともに、それゆえに放置された問題の所在をも可視化している。

 (ひらかわ・ひでゆき 1964年生まれ。大阪大学教授・科学技術社会論)

玉城 豊さん、野間 悦三さん、東山 富昭さん、他12人が「いいね!」と言っています。

文屋 善明
福津市のあんずの里に今年のあんずの出来加減を見に行きましたが、殆ど見は実っていませんでした。今年は「裏作」かも知れないとのこと。

野間 悦三さん、東山 富昭さん、松井 貴志さん、他11人が「いいね!」と言っています。

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5月29日
恥ずかしいことですが、日本は民主主義から程遠い国だという認識から始めなければならない。政界も宗教界も。
アリバイ作りとして少数派にも意見を言わせて、「議論は十分に出た。採決に入る」などというのは駄目だが、多数派が変わる可能性も含めて少数派の意見をていねいに聴く、そういう民主主義を育てよう。

【(論壇時評)僕らの民主主義 少数派からの「ありがとう」 作家・高橋源一郎】

(朝日新聞デジタルより)

 3月18日、台湾の立法院(議会)は数百の学生によって占拠された。学生たちは、大陸中国と台湾の間で交わされた、相互に飲食業、金融サービスなどの市場を開放するという内容の「中台サービス貿易協定」に反対していた。占拠の直接のきっかけは、その前日、政権を握る国民党が協定発効に関わる審議を、一方的に打ち切ったことだった。

 立法院を占拠した学生たちは、規律と統制を守りつつ、院内から国民に向けてアピールを続けた。中国に呑(の)み込まれることを恐れる国民の強い支持を受け、占拠は24日間にわたって続いた。

 この運動について、中国に批判的な立場からの、彼らを支持する意見(WiLL6月号〈1〉)を、それから、運動に共感しつつも、学生たちの思想の未熟さを指摘する意見(atプラス20号〈2〉)を、読むことができる。けれども、わたしは、もっと別の感慨を抱いた。

     *

 占拠の一部始終を記録したNHK・BS1の「議会占拠 24日間の記録」に、こんな光景が映し出された〈3〉。

 占拠が20日を過ぎ、学生たちの疲労が限界に達した頃、立法院長(議長)から魅力的な妥協案が提示された。葛藤とためらいの気分が、占拠している学生たちの間に流れた。その時、ひとりの学生が、手を挙げ、壇上に登り「撤退するかどうかについて幹部だけで決めるのは納得できません」といった。

 この後、リーダーの林飛帆がとった行動は驚くべきものだった。彼は丸一日かけて、占拠に参加した学生たちの意見を個別に訊(き)いて回ったのである。

 最後に、林は、妥協案の受け入れを正式に表明した。すると、再度、前日の学生が壇上に上がった。固唾(かたず)をのんで様子を見守る学生たちの前で、彼は次のように語った後、静かに壇上から降りた。

 「撤退の方針は個人的には受け入れ難いです。でも、ぼくの意見を聞いてくれたことを、感謝します。ありがとう」

 それから、2日をかけ、院内を隅々まで清掃すると、運動のシンボルとなったヒマワリの花を一輪ずつ手に持って、学生たちは静かに立法院を去っていった。

 この小さなエピソードの中に、民主主義の本質が浮かび上がったようだった。

 民主主義は「民意」によって、なにかを決定するシステムだ。だが、「民意」をどうやってはかればいいのか。結局のところ、「多数派」がすべてを決定し、「少数派」は従うしかないのだろうか。

 学生たちがわたしたちに教えてくれたのは、「民主主義とは、意見が通らなかった少数派が、それでも、『ありがとう』ということのできるシステム」だという考え方だった。彼らが見せてくれた光景は、彼らが勝ち取った政治的成果よりも、重要だったように、わたしには思えた。それは、わずか数百の参加者で、たまたま「直接民主主義」が実現されていた場所だから可能だったのだろうか。

     *

 フィンランドの、原発からの廃棄物処理施設を描き、大きな話題をよんだ映画「100000年後の安全」〈4〉に、忘れられないシーンがある。その地下施設の中心部で、急進的な反原発派でもある監督が、インタビュアーとして、施設の責任者たちに直接、質問をぶつける。厳しい質問に、時に、彼らは絶句し、苦悩し、それでも逃げることなく答え続けようとしていた。この映画が可能になったのは、「すべて」を見せることを、フィンランド政府がためらわなかったからだろう。

 わたしが、原発に反対するフィンランド国民だったとしても「あなたたちの考え方には反対だけれど、情報の公開をためらわず、誠実に対応してくれてありがとう」といったと思う。そこに存在していたものが民主主義だとするなら、わたしたちの国には、まだ民主主義は存在していないのである。

 台湾の学生たちの運動に前後して、日本の学生たちが、「特定秘密保護法」に反対するデモを計画した。ふだん、政治とほど遠かった学生たちは、ツイッターやフェイスブックで連絡し合いながら集まり、デモのためのCM動画を作った。一つは、まるで青春映画の予告編のようで、もう一つは、ミュージックビデオのようだった〈5〉。どちらにも、楽しさとユーモアが横溢(おういつ)しているように思えたが、そのCMを見て「デモは『楽しみ』ですか」と疑義を呈する人がいた。

 政治(に参加すること)は、苦しみばかりでつまらぬものだ、という「常識」がある。そうなのだろうか。わたしたちの中で、「民主主義」は、一つの、固定した「常識」になっていないだろうか。

 CMの最後に、画面の外から「民主主義どっち?」と問いかける声が聞こえてくる。画面の中の女の子は、自分を指さし「こっち!」というのである。

 民主主義の原理を記した、ルソーの『社会契約論』〈6〉には、不思議な記述がある。ルソーによれば、「一般意志」(「民意」と考えていいだろう)は、意見の違いが多ければ多いほど、その真の姿を現すことができるのである。そこに垣間見える民主主義の姿は、わたしたちの「常識」とは異なっている。

 もしかしたら、わたしたちは、「正しい」民主主義を一度も持ったことなどないのかもしれない。「民主主義」とは、ドイツの思想家、ハーバーマス〈7〉の、想像力を刺激することばを用いるなら、一度も完成したことのない「未完のプロジェクト」なのだろうか。

     *

 〈1〉金美齢「台湾の運命は学生が変える!」(WiLL6月号)

 〈2〉丸川哲史「台湾『反サービス貿易協定』運動の可能性と限界」(atプラス20号)

 〈3〉「議会占拠 24日間の記録」(NHK・BS1で5月10日に放送、6月4日17時に再放送予定)

 〈4〉映画「100000年後の安全」(マイケル・マドセン監督、日本公開は2011年)

 〈5〉特定秘密保護法に反対する学生有志の会(http://aikihon123.wix.com/students-against-spl)

 〈6〉ルソー『社会契約論』

 〈7〉ユルゲン・ハーバーマス『近代 未完のプロジェクト』

     ◇

 たかはし・げんいちろう 1951年生まれ。明治学院大学教授。内田樹編の新刊『街場の憂国会議』に「安倍さん(とお友だち)のことば」を寄稿した。

糸原 由美子さん、玉城 豊さん、野間 悦三さん、他16人が「いいね!」と言っています。

文屋 善明さんが呉 光現さんのリンクをシェアしました。
いい本ですよ。ただ今、続独中。男と女の出会いの不思議さ、ひとつの家庭を築くことの難しさ‥・・・・あとは、ぜひお読みください。感動すること間違いなし。

■愛をめぐる鮮烈な自己史──山本友美著『また「サランへ」を歌おうね』

http://karansha.exblog.jp/20750895/
言うまでもなく出版者としてはどの本にも愛情を注いで本作りを進めているわけだが、このほど、とりわけ感慨深い本が出...

播 稔さん、玉城 豊さん、清水 晴好さん、他7人が「いいね!」と言っています。

文屋 善明さんが呉 光現さんの写真をシェアしました。
5月29日
日本社会が全ての民族に対して開かれた場となりますように。「エルサレムは人と家畜に溢れ城壁のない開かれた所となる」(ゼカリア2:8)。
ブログにもUPしました。全会一致で決議されました。

http://blog.livedoor.jp/ohkwanghyun/

本日2014年5月29日、日本聖公会(英国国教会の流れをくむキリスト教の教派)の管区(全国)総会でヘイトスピーチに対する決議がなされました。世界の聖公会に向けての宣言でもあり、宗教者・宗教教団としての責任の表明です。

議案第25号
「ヘイトクライム(人種・民族憎悪犯罪)、ヘイトスピーチ(人種差別・排外表現)の根絶と真の多民族・多文化共生社会の創造を求める日本聖公会の立場」を採択する件

提出者
大阪教区 主教議員 主教 大西修(人権問題担当主教)、
聖職代議員 司祭 岩城聰、司祭 山本眞
京都教区 主教議員 主教 高地敬、聖職代議員 司祭 黒田裕、司祭 井田泉
東京教区 主教議員 主教 大畑喜道、聖職代議員 司祭 笹森田鶴、
信徒代議員 黒澤圭子
正義と平和委員会 主教 渋澤一郎、
青年委員会 司祭 小林 聡

以下の声明を、総会において採択すること

「ヘイトクライム(人種・民族憎悪犯罪)、ヘイトスピーチ(人種差別・排外表現)の根絶と真の多民族多文化共生社会の創造を求める日本聖公会の立場」

 2000年代後半に入り「行動する保守」をスローガンに「在日特権を許さない市民の会」(略称:在特会。2007年結成)をはじめとする民族排外主義団体は、街頭に出て聞くにも堪えない民族排外表現を内容とする示威運動を続けています。2009年12月には授業中の京都朝鮮初級学校を襲撃し、これから育っていく子どもたちだけでなく学校関係者、地域社会に大きな傷を与えました。この事件を契機に日本社会でもヘイトスピーチという言葉が認知されてきています。
 明治以降の植民地主義・軍国主義による日本のアジア侵略と植民地支配はその反省が不十分であり、かつ旧植民地出身者、とりわけ朝鮮半島出身者とその子孫には同化と排外政策でもって権利が侵害されてきた状況があります。そのことは現在の在日韓国朝鮮人問題の起源と言っても過言ではありません。
日本聖公会では、大阪教区の聖ガブリエル教会の復興と聖公会生野センターの活動への協力、また日韓聖公会の交流・協働関係を通して、共生社会を求めてまいりました。しかし21世紀に入り日本の右傾化に伴いネット空間を中心に「嫌韓」のムードが一部社会に広がってきました。これは前述した植民地支配の反省がなされていないことに起因するものであります。
このヘイトスピーチは現在も毎週日本の各地で行われており、攻撃対象も在日韓国朝鮮人だけでなく在日アジア人、被差別の人々、沖縄の人々、広島・長崎の被爆者、アイヌ、性的少数者と広く社会で弱い立場にあるマイノリティーに広がっています。ヘイトスピーチは、対象とされる人々の存在そのものを脅かし、否定・抹殺しようとするものであり、心身を深く傷つける犯罪です。
京都朝鮮学校襲撃事件は2013年10月に京都地方裁判所において人種差別であるとした日本では画期的な判決が下されるに至りました。このヘイトスピーチの動きに対して国連の人権報告(2014年2月)も、日本政府に是正対応を正式に勧告しています。日本は人種差別撤廃条約を批准していますが、ヘイトクライムやヘイトスピーチを規制する条項(注※第4条のa、b)は留保したままです。170か国を超える批准国でこの条項を留保しているのは5か国にすぎません。国連からも早急に全面批准を求められています。欧米諸国ではホロコーストに代表される民族排外・絶滅主義の反省に立ち、その社会で人種・民族・文化・宗教的少数者の保護のために様々なヘイトクライム、ヘイトスピーチの規制を行っています。しかしこの日本では全くと言ってよいほどそのための法整備はなされていません。
 聖書の中には非難と憎悪の声に脅かされた人々の叫びがあります。
「わたしを踏みにじる者の嘲りから、わたしを救ってください。わたしの魂は獅子の中に、火を吐く人の子らの中に伏しています。彼らの歯は槍のように、矢のように、舌は剣のように、鋭いのです。」詩編57:4~5、「御覧ください、彼らの口は剣を吐きます。その唇の言葉を誰が聞くに堪えるでしょう。」詩編59:8。
 ここで神は脅かされた者に対して「慈しみ深く、先立って進まれる」(詩編59:11)神であると歌われています。神はかつてイスラエルの民に寄留者を虐げることを禁じ(申命記24:17)、その生活と権利を守ることを命じられました(レビ記19:10、申命記10:18)。また神は「人はそれぞれぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もない」(ミカ書4:4)という日の到来を約束し、わたしたちがそれに向かって生きることを求めておられます。
 グローバル化が進む現代社会にあって多民族・多文化社会は避けられないものであるという以上に積極的に創造されるべき姿であります。しかしこの民族排外主義の動きはそれに真っ向から敵対するものであり決して「表現の自由」という言葉で守られるべきものではありません。わたしたちは「慈しみ深く、先立って進まれる」方に従い、ヘイトクライム・ヘイトスピーチの根絶を誓うとともに、真の多民族・多文化共生社会の創造を求めて歩むことを表明します。

注※(第4条のa、b)
(a)人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の扇動、いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為又はその行為の扇動及び人種主義に基づく活動に対する資金援助を含むいかなる援助の提供も、法律で処罰すべき犯罪であることを宣言すること。
(b)人種差別を助長し及び扇動する団体及び組織的宣伝活動その他のすべての宣伝活動を違法であるとして禁止するものとし、このような団体又は活動への参加が法律で処罰すべき犯罪であることを認めること。

<提案理由>
 日本聖公会は、全教区・教会で1992年に開設した聖公会生野センターの働きを覚えて祈り支えている。その活動の趣旨は在日韓国朝鮮人その他の外国人住民と日本人とが共に生きることのできる地域社会の実現のためである。2012年の日本聖公会宣教協議会<宣教・牧会の十年>提言では、[「高齢者」「青年」「女性」「男性」「子ども」「障がい者」「外国人」などとひとくくりにせず、一人ひとりの生きている重みを尊重し、積極的な出会いの中から、いっしょに歩く交わりを形成していきます。]と宣言している。ここ数年の在特会などの動きは、日本聖公会の宣教の方向性に逆行するものであり、明らかに人権侵害であるため、本決議をもって日本聖公会の立場を表明するものである。

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