ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のFB 08/18

2016-08-20 06:08:01 | ツイッター
お早うございます。主の平和。リハビリ。『悪魔の手紙』続読。卓球のTVを見始めると離れられなくなる。まさに卓上の格闘技だ。昼食後1時間ほど昼寝。安倍首相が核兵器の先制使用をオバマ大統領に進言、という記事を見て、怒り心頭。夕食後は「金沢のコロンボ」を見て10時半に就寝。6時起床。熟睡できず。体温:36.5、血圧(145,83:81)・体調・まぁ快調。チュン、チュン。

32Luke Etsuzou Nomahさん、楠 真理子さん、他30人
コメント

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

藤木 冨士子 おはようございます。悪魔の手紙はおもしろいですね。

文屋 善明 全部、テキスト化しました。これから解釈です。

東山 富昭 おはようございます。今日も、よろしく、お願いしますが

村田 多鶴子 おはようございます~♪
この国の首相の馬鹿さ加減には言葉がありません!(>_<)!
先生ご夫妻とご親族の皆さんがお守りの内に穏やかなよい時間をお過ごしになられます様にm(__)m

徳善 義和 「怒り心頭」に「いいね」なのです。わたしも同様。これが安倍のホンネでしょうね。それも日本では報道されないで!


文屋 善明
8月18日 6:15 ·
お目覚めの花。「同じ道の散歩だけでは、花との出逢いが極度に少ない」「どこかの公園に行きたいなぁ。涼しくなったら出かけよう」。
画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、木、屋外、自然

31中野 芳夫さん、藤木 冨士子さん、他29人
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村田 多鶴子 デイゴの花、浜松でも勢いよく咲いています~♪(^^♪

山本 友美 この花を見ると、ハイビスカスやブーゲンビリアもそうですが、沖縄が恋しくてなりません。


文屋 善明
8月18日 6:42 ·
016 日々の聖句 08月18日(木)
(主よ、)国々の中で、わたしはあなたに感謝をささげ、御名をほめ歌う。(詩18:50)
パウロは、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。(使徒28:31)
私の黙想:
今日取り上げられている詩18は資料的には中々複雑である。この詩はサムエル記下22章のほとんどそのまま見られる。岩波訳ではそれらを詳細に比較している。
今日の聖句そのものは単純で引っかかるところがない。そのために、つまらないことに引っかかる。なぜここで「国々の中で」なのだろうか。自国内でだけ賛美をしたらいいではないか。口語訳では「もろもろの国民の中で」とあり、自国内だけなのか、国際的になのか、曖昧にしている。まぁ、強いて解釈すると、ダビデ王のサウル王に対する勝利(あるいは病気からの回復)は、全世界の喜びであった。ちょうど、ナチの敗北が(そして日本の敗北も)、国際的な喜びとなった、ようなものか。これは酷いこじつけである。聖書は時々、この種のこじつけ的解釈を必要とするのかも知れない。

18Izumi Naraさん、藤木 冨士子さん、他16人


文屋 善明
8月18日 6:51 ·
今日の名言:@gorohani
教育というものは自由でなければいけない。教育と権力はあいいれない。つまり命令されて人間はいい人間になれるわけがない。自分でなろうとしなければだめだ。上から命令すればするほど自発性はなくなっていく。教育の根本はその自発性なのだ。(羽仁五郎)
<一言>馬鹿が教育を支配しようとする。自発性だと思っているようだが、ただ単なる祖父の物真似に過ぎない。

24藤木 冨士子さん、Luke Etsuzou Nomahさん、他22人
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村田 多鶴子 全くです!(>_<)!


文屋 善明
8月18日 8:21 ·
「昨日のFB 08/16」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

7藤木 冨士子さん、Luke Etsuzou Nomahさん、他5人


文屋 善明
8月18日 8:24 ·
イミタチオ・クリスチ(219):
常にあなた自身の終わりの日を思い、失われた時が永久に帰らぬことを覚えよ。25:43

22小貫 ツマさん、藤木 冨士子さん、他20人


文屋 善明
8月18日 12:32 ·
これは愉快だ。実に愉快だ。天皇の人間宣言以上に愉快な話である。「働く天皇」そんな姿を「反骨の元外交官・天木直人のメールマガジン(2016.8.18)が伝えてくれている。
タイトル「自らパソコンを打ち込む天皇陛下の姿に思いを馳せる」
<以下本文>
全国戦没者追悼式を報じる8月16日の各紙の記事の中で、東京新聞
に次のようなくだりを見つけた。
「・・・元側近によると、陛下はお言葉を自らパソコンで書いてい
る。宮内庁関係者は『完成原稿まで推敲を重ねられる。お疲れになるはず』と心配する・・・」
もし、これが事実なら、8月15日の戦没者追悼式のお言葉も、その
前に公表されたあの「生前退位」のお言葉も、天皇陛下が自ら書かれたお言葉なのだ。
誰かが草稿を書いたり、助言したりそしてそれを誰かが修正したり
することはあっても、天皇自らがパソコンに向かい合ったのだ。
その姿を想像し、思いを馳せながら、私もパソコンの前で書き続けよう。そう決意させてくれた東京新聞の記事である(了)

43木下 海龍さん、藤木 冨士子さん、他41人
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コメント

水草 修治 だから、退位というより、退職という意識を持たれるわけですね。

杉浦 紀明 シェアさせていただきます。

Tokiko Shimizu · 共通の友達: 杉浦 紀明さん
ふーん…

加藤 佑三 へぇ--。誰に習ったのかなあ、機種、メ-カ-は、OSは、WORDを使っておられるのかなあ、メ-ルアドレスがあったりして、いや皇居内で「ポケモンGO」をやられていたりして。

松沢 直樹 かと思えば、官僚の作文を読み上げるだけの宰相には、ほとほとうんざりします。

文屋 善明 私もあと3年はパソコンにガンバらねば。


文屋 善明
8月18日 15:20 ·
ある切っ掛けから感じたことであるが、現在の大学の経済学から「マルクス経済学」が姿を消したようだ。ほとんどが「ミクロ経済とマクロ経済」が主流で、経済学は著しく「数学」に接近しているように見える。私は経済学のことは分からないが、そんな感じがする。この感じは間違っているのだろうか。

34宮本 尚章さん、佐藤 静代さん、他32人
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文屋 善明 誰か反対意見を言って欲しい。

樋口 貞三 東京大学経済学部カリキュラム、で検索すると「2016シラバスブックリスト・学部・新カリキュラム」が見られます。このなかでいわゆるマル経は11科目中三科目、あと八科目は近経となっていて、いちおうマル経は授業として存在しているようです。しかしこれはとてもあらい検索ですので、「論議」に耐えるかどうかは保証しません。以上ご参考まで。

Hajime Kawamukai マルクス経済の黄昏は、1980年代中期頃から始まっていて、あの頃から数理経済学が幅を利かせています。ソ連崩壊により一気に加速しました。
経済学説史とか経済史の教室に形を変えて残っている位ですかね。経済学部、文系と思って受験した合格者は、1年前期で音をあげ、微積分学と線形代数に苦しめられるというのが、どこの経済学部でも見られる光景ですよ。

文屋 善明 貴重な資料等ありがとうございます。経済学は今では理系なのですね。

Hajime Kawamukai 文系のなかの理系って感じでしょうかねぇ。いまでは。まぁ、最近は心理学とか教育学でも、社会学でも、文学部や看護学の一部でも数理統計学が必要になっていますので、昔の文理の区別はあまり意味を持たないかもですね。

Mizota Michael Satoshi 神学は理系のセンスが要らない、という先入観は捨てる時期だと思うんですが。。。

Hajime Kawamukai ですね。できた方がいい、というか、邪魔にはならない、ということはありますよね。

Mizota Michael Satoshi カルトでないことを自己証明するために必須ではないか、と思いますね。まあ創造科学なんてのもありますから、なんでもokとは言いませんが。。。

文屋 善明 恩師松村克己は波多野門下に入る前は田邊の弟子だったので、神学における数学の重要性を口にしていましたが、それはあくまでも「論理学」の問題でした。

Mizota Michael Satoshi 数理神学批判とか。。。

Mizota Michael Satoshi 弥勒経済学の時代なのかとか。

Yoshinobu Tobo 以前の経済学は、経済倫理や経済思想に見られるようになりました。

Hajime Kawamukai 制度派の経済学の研究室に、数学できない学生は集まる傾向がありますよね。

文屋 善明 驚いています。

Yoshinobu Tobo それだけ世俗化が進んでいるということでしょう。大学で。

文屋 善明 マルクス経済学など、もはや神学ですね。あるいは終末論か。

諏訪 浩之 · 共通の友達: 中野 芳夫さん
経済学に限らず、他の文科系科目であっても何らかの形で「数学」が絡んできます。(「情報学」「論理」「事務計算」Etc)

Yoshinobu Tobo その意味では、新古典派とか、金融理論が優位になっているのでしょうね。ともかく、官僚の学問が、米国の学問体系が数式を使用することになったので、データ中心になっているのでしょう。社会科学もデータ中心で、そのデータをどう解釈するかが課題なのですね。

Hajime Kawamukai はい。あとゲーム理論とか。
日本の学界の評価システムが海外の評価の高い雑誌での査読論文の採択数になっていますので、どうしてもそうなるのかもしれません。

数学モデルを使って現実に意味のある解釈ができるかどうか、というその解釈能力が腕の見せ所になっています。

長倉 崇宣 60年代〜70年代初頭に、社会科学で数理化ブームがありました。大戦中、アメリカで社会科学を数理的方法論によって統合する行動科学の動きがあり、その派生だと思います。
経済学で言えば、例えば森嶋通夫がマル経を近経の方法論で論じ切って課題を明瞭にしたことで、イデオロギーとしてのマルクス主義はそれからもしばらく生き残りましたが、経済学としてのマルクスの学説はそれ以来顧みられなくなったようです。
社会科学の数理化への違和感は、清水幾太郎が色んなところで論じています(例、『倫理学ノート』)。他にも人間学としての社会科学の重要性を強調しているものとしては、佐和隆光『経済学とは何だろうか』(岩波新書)があります。

長倉 崇宣 因みに、小室直樹はこの数理化による社会科学の統合の日本におけるリーダーの一人で、理論社会学においてそのことを推し進めた結果、数理的・論理的にそのモデルによっては「何故、社会には秩序があるのか」を説明出来ない事が逆に証明されてしまい、それ以降は評論家の道を歩みました。

濱 和弘 社会科学の本来の姿は、社会現象を、学術的方法論で切り取り叙述することだと思うのですが、そこに、何かの価値判断が入り込んでしまい、学ではなくイデオロギー化しているのではと感じることが、最近、ときどきあります。

Yoshinobu Tobo 数理モデルを作って社会秩序を論じる中に新古典派のイデオロギーが見え隠れします。少なくとも『人間の安全保障』の観点が必要なのではないかと思います。緒方貞子・アマルティア・センのように。

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