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ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第14主日(T16)の福音書

2016-08-20 06:27:34 | 説教
断想:聖霊降臨後第14主日(T16)の福音書
神の国に向かって  ルカ13:22-30

1. 資料と語義
13:22の言葉によって、ここでのイエスと弟子たちとの会話も「エルサレムへ向かう旅」でのものということが再確認される。ルカ福音書ではこの言葉は一種の道標のような役割を果たしている。この言葉をここに挿入することによって主題の変化を示そうとしているのであろう。次に道標が現れるのは17:11で、13:22から17:11までをワンセットと見るべきであろう。ここでの主題は「誰が神の国に入るのか」ということである。
本日取り上げられている22節から30節はさらに細かく区分すると、22節はルカの編集句で、23-24節は「救われる者は少ないのか」、25-27節は、「神の国に入るのは決断の問題」で、28-30節は「神の国に入れなかった者の嘆き」である。この個所は全体としてマタイ福音書と重なっており、資料的には」Q資料に基づくものと思われるが、マタイもルカもかなり手を入れている。23-24節はマタイ7:13-14と、25-27節はマタイ7:21-23と、28-30節はマタイ8:11-12と似ている。

2. 救われる人は少ないのか
ここでの「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という質問の意味が曖昧である。この質問は何を根拠に何を尋ねているのだろうか。必ずしも救われる者の数が少ない理由を問うている訳でもなさそうである。質問の意味が不明瞭なのは、簡単に言ってしまうと質問が悪い。あるいは質問になっていないからであろう。
もう少し状況を明確にしておこう。イエスはエルサレムへの旅行を続けている。イエスにとってこの旅行はただ単なるエルサレムの観光旅行ではない。この旅こそイエスの一生をかける重要な意味が込められている。その旅行の途中での質問である。質問者は「ある人」としか記されていない。弟子ではなさそうである。おそらく群衆の一人であろう。この場面は首相を取り囲む新聞記者のぶら下がり取材を思い浮かべたらいい。イエスはこの質問にまともに答えようとしない。
この質問の形をもう少し分析すると「救われる者が少ない」という事実に基づいて、その理由を問うているかのようにみえるが、この質問には「何故」という意味は含まれていない。むしろ「救われる者が少ない」という事実そのものを質問形で言っているだけのことである。つまり、この質問は質問というより一種の「ひやかし」、この旅行の同行者はもっと多いはずなのに、こんなに「少ないではないか」。こんな質問をまともに取り上げる必要はない。イエスは彼の質問を完全に無視する。そんなつまらないことを言うよりも、もっと重要なことは、あなた自身の問題として、あなたはわたしたちの仲間になる気はあるのか。本当に「救われる者」の側に入りたいのか、それともそこに加わるりたいとも思っていないのか、ということである。
さらに突っ込んで質問者の心理を考えると、常に自分自身を「大勢の側」に置きたいという姿勢が丸見えである。逆に言うと、自分自身を少数者の側に置きたくない。多数派に身を寄せておけば安心だという大衆心理がある。

3. 神の国に入るということ
さて本日のテキストの主題は「神の国に入るということ」である。単純といえば非常に単純であるが、「神の国」をどう理解するのかということで、このテキストはややこしくなる。ここでは「救われること」と「神の国に入るということ」とがほとんど同義語として用いられている。つまり、救われるということが現在のことであるが、「神の国に入るということ」は現在のことなのだろうか。ここでのテキストで見ると「神の国に入るということ」を「神の国で宴会の席に着くこと」として述べられている。つまり、単純に考えて将来のこと、日本人の感覚としては、ほとんど「死んだ後に天国に行くこと」という具合にしかイメージできない。そうなると、これは現在「救われるということ」とはかなり距離がある。そうなると、今、現在、苦労して「狭い戸口」から入ると、その戸口の先に「神の国の宴席」が待っているというイメージで、救いということが現在のことではなくなってしまう。何とはなしに、そういう風に理解しているキリスト者が多い。キリスト教における救いとは、あるいは聖書が語る「神の国」とはそういうものなのだろうか。そういう疑問が出てくるのは当然のことである。

4. 聖書が描く「神の国」とは
このテーマは、本格的に論じようとしたら、それだけでも1冊の本が書けるほどの課題であるので、ここでは簡単に結論的なことを述べておく。定義的に一言で言うと「イエスが共にいるところ、そこが神の国である」。この定義では「イエスが共にいる」ということはどういうことなのか説明が必要であろう。ルカ福音書によると、イエスが郷里で行った最初の説教で、イザヤ書の言葉を読み上げ、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」、この預言が今日、今、ここで実現したと宣言された(4:18-19)。つまり、神の国は今、ここに実現しているという宣言である。また、律法学者やファリサイ派の人々から、神の国はいつ来るのかと質問されたとき、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20,21)と答えた。つまり、神の国はもう既に、あなた方の間にあるという。イエスのいるところ、イエスと共に生きている人々の間に、もう既に神の国は実現している。
ところが、「神の国」という場合に、終末時に実現するであろう「神の国」という面もある。イエス自身も、一方で神の国は実現していると言いつつ、神の国に向かって、神の国の実現のためにエルサレムに向かっている旅の途上であると言う。ここに「神の国」という言葉の難しさがある。実現しているという局面と、未だ実現していないという局面とがある。この点を分かりやすい実例で説明すると、「神の国行き」の列車が、今目の前を走っている。この列車に乗っている人は、もう既に神の国に入っているのも同然である。しかし乗っていない人には神の国は無関係である。神の国行きたければ、この列車に乗るしかない。
このイメージがイエス一行の「エルサレム行きの旅」である。列車はそんなにスピードを出していない。その気になれば誰でも、いつでも飛び乗ることができる。その列車にどれほどの人が乗っているのかとか、定員は何人かなどという質問はナンセンスである。神の国に行きたければ飛び乗ればいい。ルカ福音書が描く「エルサレム行きの列車」とは教会を意味する。

5. 教会の問題
ここでいう「救われる」という言葉の意味は「キリスト者になる」、つまり教会のメンバーになるということを意味する。たとえ現実の教会がその言葉の意味に耐えられないような状況にあったとしても、このことを否定する訳にはいかない。むしろ私たちの教会がその言葉の意味に応える得るように成らなければならない。教会はこの世にあって「来たるべき神の国」の徴である。それは、ちょうどイエスの言葉と行動が神の国の徴であるように、教会がこの世に語るメッセージと活動は、神の国の徴であり、象徴であり、先取りである。その意味では教会における聖餐式が「神の国の祝宴」の象徴である。

6. 「狭い戸口」
教会に入る、つまりキリスト者になる「戸口」は狭い。まさか、「私たちの町にある教会」が神の国に入る戸口だとは誰も思わないほど、入りにくい。まさか、教会の内部で行われている聖餐式が「神の国の宴会」だとは誰も思わない。その意味では非常にみすぼらしい。神の国と教会とを比べたら、まさかそこが神の国だとは思われない。だから、誰も入ろうとしない。
先ほどの譬えに戻るならば、今、人々の前を通過している列車が「神の国行き」だとは思わない。たとえ、列車の前に「神の国行き」だと表示してあっても、それを信じようとしない。時には、それを信じて列車に乗り込もう者がいたとしても、あのスピードならもう少し後にしても大丈夫だろうと考えたり、もう少しこの世の楽しみを経験してからでもいいだろうと思ったり、私には未だこの世での仕事があるとか、いろいろ言い訳して、乗り込むのを後回しにする。
この列車に乗り込むのにはタイミングがある。大勢が参加する「長なわとび」に入るように、タイミングの取り方を間違うと引っかかってしまう。今を逃してしまったら、次のチャンスはない。25節に「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである」という言葉があるが、これこそまさにタイミングを失った悲劇である。その時、私は若いときから聖書をよく読み学びましたとか、私は司祭の子供でしたとか、伯父さんに主教がいますと言っても、取り合ってくれない。私自身が私の責任において列車に乗り込むしかない。

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