ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第11主日(特定15)の旧約聖書(2017.8.20)

2017-08-18 08:26:08 | 説教
断想:聖霊降臨後第11主日(特定15)の旧約聖書(2017.8.20)
祈りの家   イザヤ書 56:1-7
<テキスト>
1 主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し、わたしの恵みの業が現れるのは間近い。
   2 いかに幸いなことか、このように行う人、それを固く守る人の子は。
   安息日を守り、それを汚すことのない人、悪事に手をつけないように自戒する人は。
   3 主のもとに集って来た異邦人は言うな、主は御自分の民とわたしを区別される、と。
   宦官も、言うな、見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。
   4 なぜなら、主はこう言われる、宦官が、わたしの安息日を常に守り、
   わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るなら、
   5 わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、
   わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。
6 また、主のもとに集って来た異邦人が、主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、
安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を固く守るなら、
7 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。
彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら、わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。
わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。

<以上>
1.特定15の主日の福音書
この主日に読まれる福音書は、マタイ15:21~28で、ここでのポイントは独りのカナンの女とイエスとの会話で、イエスがイスラエル人にしか自分の使命はない、と言われたのに対してカナンの女性が「子犬も主人の食卓から落ちるパン屑を頂くのです」と答え、それを聞いてイエスが非常に感動したのいう物語である。つまり非常に強い民族意識を打ち破る女性の話である。
それに対応する旧約聖書のテキストはイザヤ書56:1,6~7で、ここでは異邦人でも神の民と同じように生きるなら、受け入れられ、その結果として神殿は「すべての民の祈りの家と呼ばれる」という理想が述べられている。

2. イザヤ書について
最近の研究ではイザヤ書は3つの部分に分かれた、著者も、執筆年代も違いと考えられている。ごく大雑把に言うと、イザヤという預言者がおり、彼がイザヤ書の1章から39章までを書き、その弟子(名前は分からない)が、40章から55章までを書き、またその弟子が56章から66章までを書いたといわれている。その弟子たちの名前は分からないので便宜的に第2イザヤ、第3イザヤと呼ぶことになっている。つまり同じ思想的傾向を持っているが年代はかなり離れており、最初のイザヤは南のユダと北のイスラエルとが対立している時代で紀元前8世紀後半頃の預言者、第2イザヤは6世紀前半頃、つまりバビロン捕囚中に活躍したと考えられている。第3イザヤは捕囚後(紀元6世紀後半)のユダ国を舞台して活躍した預言者と見做されている。それぞれの時代背景としてはイザヤの時代では北のイスラエル国がアッシリヤによって滅ぼされた時代(BC722)であり、第2イザヤは南のユダ国がバビロンによって滅ぼされた捕囚時代(BC598)で、第2イザヤの預言は捕囚からの解放(BC538)という希望を語り人びとを励ました預言である。第3イザヤの時代は、捕囚から解放され、第2神殿も落成した(BC515)後の時代で、人びとの意識は終末へと向けられた時代である。これら3つの時代を貫くイザヤ書の最終的編集者は当然第3イザヤで、その太い線は「終末への希望」ということが出来るであろう。

3.第3イザヤ
第3イザヤの特徴とか、その主なメッセージということになると非常に複雑で簡単にはまとめることは出来ない。ということで、この日のために選ればれている部分だけを取り上げて考えたい。
先ず第1に、それ程長くもないテキストで何故、2節から5節までの部分が省かれているのだろうか。実は、ここには厄介な問題がある。
先ず2節でどういう人が幸せなのか、ということが述べられる。まさに「幸いなるか」である。その内容は伝統的で、当然で、とくに注目すべき点はない。成る程、こういう人がユダヤ人社会では幸せな人と呼ばれるのか、と納得する内容である。先ずこれが前提で、3節が凄い。「主のもとに集って来た異邦人は言うな、主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな、見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と」。明らかにこれは不満の言葉である。そして、それがここでは「言うな」と否定されている。不平を言うな。異邦人と宦官の代表的な不満が否定されている。宦官というのは、王などの権力者によって去勢された男である。去勢されることによって宮殿内の、いわゆる大奥の使用人となる。それが宦官であり、それは一人前の男ではないとして差別の対象とされた。異邦人と宦官、彼らの不満は普通の人たちが受けている幸福から排除されている。ヤハウェは言う。もう不満を言うな。5節が重要である。「わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない」。宦官にとって子どもは自分の子どもは絶対なり得ない。それだけに子どもを持つということは、あり得ない希望である。
2節から5節までを取り上げるとなると「宦官」の問題を取り上げなければならなくなる。そうなると問題が複雑になるのでそれを避けたのだと思われる。
さて、そこでこのテキストで取り上げられなければならないのは「異邦人」の問題となる。

4.神殿についての理解
神殿とはヤハウェの民がヤハウェに捧げ物をしたり、祈ったりする場所であり、宗教生活の中心施設である。当然、神殿が神殿であるのはその特定の宗教に関してだけ意味があるので、その宗教に関係しないものにとっては、ただの建物である。そこで問題になるのはユダヤ人共同体内部において共に生きている異邦人の取り扱いの問題である。第2神殿以後においては、民族的枠組みはかなり複雑になっており、異邦人とユダヤ人との境界線も曖昧になっている。とくに注目すべきことはバビロン捕囚中にイスラエル史の編纂もかなり進み、宗教としてのヤハウェ信仰もかなりの程度文書化されており、ユダヤ人以外の人でもヤハウェ信仰を受け入れるものも出てきている。神殿はもはやユダヤ人だけのものではなく、すべてのヤハウェ信仰を持つ者の宗教施設になってきた。それを公式に認めたのが第3イザヤ書の一つの特徴である。
それを公式に認めた、いわば宣言が7節の「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す」。新共同訳ではここで「許す」というようないわば法律用語のような言葉で訳しているが、もともとの意味は「(異邦人を)わが祈りの家のうちで楽しませる」(口語訳)という意味である。新共同訳はかなり意訳していると思うが、気分はその通りである。そうすることによって、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」という理想が実現する。異邦人が神殿の祭儀に与る条件が6節に記されている。「主のもとに集って来た異邦人が、主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を固く守るなら」とある。非常に漠然とした総括的な条件なので明白なことは分からないが、「割礼」が条件とされていない、ということは、興味深い。ユダヤ人が異邦人と接触する場合に、割礼の有無が重要な問題となる。
割礼についての規定は創世記17章に以下のように記されている。ここはヤハウェがアブラムに「アブラハム」という名前を与え、同時にカナンの地を与えるとヤハウェが語る部分である。その契約としてアブラハムに命じられたことが、「あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである」(創世記17:10~14)。従ってイスラエルの民にとっては割礼の有無は、生命と同じぐらい重要なことであった。
創世記34章にはこんな出来事を記録されている。一人のイスラエル人の娘ディアナがヒビ人の首長ハモルの息子シケムによって強姦された。シケムはディアナに恋してしまった。それでディアナの父ヤコブに正式に結婚を申し出る。その上、シケムの父ハモルはヤコブにこの婚姻関係をもとに、両民族が協約を結び、相互に娘たちを相手の部族に婚姻させて一つの部族になろうではないかと提案する。その時、ヤコブはイスラエル人の規定によっては割礼のない男との婚姻関係は認められないと断る。しかし、そちらの部族の男性がみんな割礼を受けるならば考えないではないと条件を出す。その条件を聞いてハモルもシケムも同意し、ヒビ族の男性たちに提案する。イスラエル人の娘はかなり美人だったのであろう。すぐにその提案は承認され、ヒビ族の男性は全員割礼を受けることになった。大人が割礼を受けるということはかなり痛いことであり、その傷が治るまでには数日を要した。彼らが苦しんでいるときに、イスラエルの男性たちは剣を持って、彼らを皆殺しにし、町中を暴れ回り好き放題に略奪し、女や子どもを奴隷としてらちした。
割礼についてはこういう物語も聖書には記されている。
旧約聖書の中にはその他にも割礼に関する記述が見られるが、かなり厳しい規定であったようだ。第3イザヤの直前だと思われるエゼキエル書にもこういう規定がある。「お前たちは心に割礼を受けず、体にも割礼を受けていない外国人を、わたしの聖所の中に引き入れてとどまらせ、彼らにわたしの食物として脂身と血をささげさせ、わたしの神殿を汚し、すべての忌まわしい行いによってわたしの契約を破った。主なる神はこう言われる。心に割礼を受けず、体にも割礼を受けていないすべての外国人、すなわちイスラエルの子らの中に住んでいるすべての外国人は、わたしの聖所に入ってはならない」(エゼキエル44:7,9)。
ところが、ここでは「安息日のことには触れているのに割礼のことには触れていない。つまり第3イザヤのこの言葉は、割礼の有無を問題にせず、つまり異邦人は異邦人のままで、神の民と同じような生活がなされれば、それでよいということであろう。これはかなり革命的なことである。これがどれほど実際に行われていたのかどうかは、分からない。しかし、イエスは明らかにこの立場に立っている。

《街角に祈りの家ありエクレーシア、すべての人に開かれている》

最新の画像もっと見る