ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン2013 07/28~08/03

2013-08-04 06:34:18 | ローズンゲン
今週のローズンゲン2013 07/28~08/03

日々の聖句2013 07月28日(日)
主よ、わたしはあなたの救いを待ち望む。(創世記49:18)
キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。(ヘブル9:28)
私の黙想:
イスラエルと呼ばれたヤコブは生涯の最後に自分の息子たち12人に、それぞれ祝福と預言とを語る。その内容はイスラエルの12部族の歴史である。そのうち7部族(ユダ族、ゼブルン族、ガド族、アシェル族、ナフタリ族、ヨセフ族、ベニヤミン族)は祝福された歴史であり、他の5部族(ルベン族、シメオン族、レビ族、イサカル族、ダン族)は呪われた歴史である。ヤコブはそれぞれの歴史を語りつつ、不幸な5部族の運命を語り終えたとき、思わず、これら5部族のためにヤハウェの特別な「救い」を祈る。それが本日の聖句である。それが「待ち望まれた救い」である。

日々の聖句2013 07月29日(月)
アダムと女が、主なる神の顔を避けて、隠れた。(創世記3:8)
隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。(ルカ8:17)
私の黙想:
アダムと女は神の目から隠れられるとでも思ったのだろうか。隠れられないことは自明である。それでもなお、人間は隠れようとする。隠れようとするポーズによって、自分の問題点(犯罪、違反行為)を認める。いわば一種の罪の告白の表現である。それと同時に「一時しのぎ」という意味付けもある。とにかく、嵐のような怒りを静めて、落ち着いた頃、弁解論(アポロジー)を準備して、ボチボチと発表する。これが人間が罪を隠そうとする心理である。このような問題の回避の仕方を人間は幼児期以来身に付けてきた。だいたい、幼児期における親子関係の中ではそれが通用していた。ところが大人になってからは、怒っている相手の「忘却」を期待するという心理と、忘れさせるという戦略が加わり、より悪質な「隠蔽工作」となる。
アダムと神との間では、神の側には何の被害もない。と同時に、神には「忘却」という期待も出来ない。それでも、なお彼らは隠そうとする。人間の愚かさを露呈した物語である。しかし、面白いことにこの物語の結論において「人間は神のように賢くなった」(22節)という。今日はここまで、このことについては、まだまだ黙想は続く。

日々の聖句2013 07月30日(火)
ダニエルは引き出されたが、その身に何の害も受けていなかった。神を信頼していたからである。(ダニエル6:24)
自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。(ヘブル10:35)
私の黙想:
国家権力が横暴化するとき、個人の内面(信じていること、宗教)にまで支配権を伸ばす。それが国家による宗教管理の本質である。その意味で、個人の生命(=死ぬこと、=生きること)を強要する国家権力と宗教とは対立する。ダニエルは王の命令に逆らって、獅子の洞窟に放り込まれた。しかし、神は獅子からダニエルを守られた。そのことを通して、王は人間の心まで支配できないことを学んだ。

日々の聖句2013 07月31日(水)
あなたは、兄弟、息子、娘、愛する妻、あるいは親友に、「他の神々に従い、これに仕えようではないか」とひそかに誘われても、同調してはならない。(申命記13:7,9)
どうか、御父が、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。(エフェソ3:17)
私の黙想:
民族内から異教を排除するということはイスラエルの宿命的課題であった。申命記13章では、いかにして異教的要素が入ってくるかということが詳細に論じられている。そして、同胞を異教へと誘う者を排除するとは具体的に「容赦なく殺せ」(11節)というだとまで語る。ここで殺すべき者とは異教へと誘惑する者であり、恐るべきことは、たとえその誘惑する者が「兄弟、息子、娘、愛する妻、あるいは親友」であっても、容赦してはならない、という。そこで容赦するということはすでにその人も「同調者」であるとまでいう。
これはイスラエル側から見た異教への姿勢であるが、日本にキリスト教(キリシタン)が入ってきたときは、キリスト者が「排除」の対象とされた。キリスト教も「兄弟、息子、娘、愛する妻、あるいは親友」がひそかに誘うことによって拡大した。その結果、徹底的な弾圧(迫害)を受けた。そしてキリスト者は学んだ。他宗教への徹底的な排除(迫害、弾圧、処刑)は人間として赦されるべきではない行為であることを。それはいわゆる「聖書的信仰」からはずれることなのだろうか。

日々の聖句2013 08月01日(木)
どうぞ、あなたが約束されたように、いま、主の大いなる力を現してください。(民数記14:17)
キリストは、あなたがたの間にあって強い方です。(2コリント13:3)
私の黙想:
出エジプト後、いよいよ約束の地に入る直前、約束の地の繁栄ぶりを見て民は恐れのあまり、指導者モーセに反抗する。民族の最大の危機である。それも外圧力による危機ではなくではなく、民族内部からの「不信」が原因だ。この危機にモーセを支持したのはモーセの後継者と目されているヨシュア、勇敢なヨシュアの演説である。ヤハウェはそれ見ていよいよ顔を現し、宣言する。この民を滅ぼし、もっと強い新しい民を起こす」と。そこでモーセは自分に託された任務を思い起こす。彼の最大の任務は民に代わって主に赦しを乞い、民に主の力を示すこと。役者が全員揃ったところで、主は言われた。「あなたの言葉のゆえに、わたしは赦そう」。 この場面は非常にドラマティックで、私の大好きな一幕である。

日々の聖句2013 08月02日(金)
主であるわたしは葡萄畑の番人。常に水を注ぎ、害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る。(イザヤ27:3)
平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださり、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来臨の時、非のうちどころのないものとしてくださるように。(1テサロニケ5:23)
私の黙想:
イザヤ5:1-7の「葡萄園の歌(第1)」 に対応する「葡萄園の歌(第2)」(27:2-6)。ここでは主の怒りはおさまり(4節)、イスラエルの回復が預言されています。いきなりイスラエル史からキリスト者の希望について飛びますがお許し下さい。
キリスト者はどんなに不条理な状況においても希望を棄てません。キリスト者の辞書には「絶望」という言葉はありません。何故なら「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません」(ロマ5:3-5)。これは非常に不思議なことです。でも、これが事実なのです。私にとっては、これがほとんど唯一と言っていいぐらい、キリスト者であって良かったと思うことです。
子供の頃、父親が一枚の絵を見せてくれたがことがあります。その絵は暗い雰囲気の中で一人の盲目の女性が地球に座り、ギターを抱え、たった一本残った弦を弾きながら、その音色に耳を傾けている絵でした。この絵が誰の作品か知りませんが、その絵を示しながら、父は幼い私にこれが「希望」なのだと言ったことがあります。その時のことを今でも覚えています。

日々の聖句2013 08月03日(土)
いつまで、あなたはわたしの前に身を低くするのを拒むのか。(出10:3)
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。 (ルカ18:14)
私の黙想:
本日のテキストは、ヤハウェがエジプトの王ファラオに対して告げられた言葉である。ファラオにしてみれば、ヤハウェは異教の神であり、何も従う義理はない。しかしこれを伝えているのはファラオから見ると氏素性の分からない「義理の弟筋」モーセである。上下関係ははっきりしている。しかもモーセはエジプトの神々を棄てて異教の神へ走った男である。その関係を知るならば、ファラオに対するモーセの言葉には異常な響きがある。一族の中で一人だけキリスト者になった者が、一族の長たる者に「私の神の言うことに従え」と言う。普通であるならば「謙虚であるべき」なのはモーセの方である。だからここでの議論は異常であり、その異常さの故に興味深い。この背後にはエジプトの都市と人々を襲った自然災害や疫病という出来事がある。つまり、私たちがここに居るということは、この国の人々にとって災いだという。変な脅し方である。キリスト者は、何時でも、何処でも、私たちがここに居るということは、あなたたちにとって「幸いだ」と言わねばならない。

最新の画像もっと見る