ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/03/30~04/05

2014-04-05 19:05:27 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/03/30~04/05

2014日々の聖句 03月30日(日)
あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。(ヨシュア2:11)
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れました。(フィリピ2:6~7)

私の黙想:
神による約束の地に侵入し、初めて戦うことになったエリコ城の攻略物語。イスラエルの2人の斥候を匿った「ラハブという名の遊女」の言葉。彼女の機転によって、ヨシュの率いるイスラエル軍はエリコ状攻略に成功した。攻める側と守る側とで物語の見方は全然異なるであろう。そのラハブが「遊女」であるということも面白い。エリコ側から見るとラハブは民族の裏切り者であり、イスラエル側から見ると彼女は功労者であり、恩人である。聖書はラハブが「何故」自分の民族を裏切ったのかという事情を語らないが、彼女の言葉から判断するに、「イスラエルの神」は強いという噂、評判によると思われる。
日本人が外国の宗教と見做されていたキリスト教をどのようにして受け入れたのか、非常に興味深い。

2014日々の聖句 03月31日(月)
主の言葉:わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じるためである。(創世記18:19)
アブラハムの信仰が義と認められた、のです。(ロマ4:9)

私の黙想:
ここの人称の使い方を見ると、この聖句は明らかにヤハウェの独り言である。フランシスコ会訳ではそのことを17節で明瞭に述べている。「主は心の中で仰せになった」。それを誰が聞いて、誰がここに書かせているのか、そんなことは詮索しない。ただ、その17節に「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか」というヤハウェの中での問答は非常に重要である。このことを前提にして、いや背景にして、今日の聖句がある。いわばヤハウェの秘密のプランである。つまりアブラハムの第1の使命、全ての諸使命の中の最も根本にある使命は「主の道の伝承」である。アブラハムの使命はアブラハムの生涯では終わらない。いや、終われない。その使命はアブラハムの子どもの世代だけでも終わらない。子ども、孫、孫の孫と代々繋いでいかねばならない使命である。「アブラハムの信仰」と私たちは一言で言う。しかし、その重さは一言では収まらない。
キリスト者はしばしば「信仰の伝承」という言葉を口にする。しかし、その重さを自覚していない。何をさておいても、何を犠牲にしても、自分の一生を犠牲にしても、倒れても、この使命だけは繋がなければならない。日本にキリスト教が伝えられたとき、同時に近代西欧の「個人主義」と共に入ってきた。個人主義的宗教としてキリスト教は受け入れられた。その欠陥が今でも伝承されているのではないだろうか。聖書の信仰はマラソンではなくエキデンである。

2014日々の聖句 04月01日(火)
「人がわたしにするように、わたしもその人に対してしよう。それぞれの行いに応じて報いよう」とはあなたの言うべきことではない。(箴言24:19)
イエスの言葉: 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。(マタイ5:7)

私の黙想:
「あなたの言うべき事ではない」に引っかる。口語訳、新改訳は単純に「言ってはならない」、フランシスコ会訳ではもっと単純に「「言うな」で、新共同訳だけが何故こういう訳し方をしたのだろうか。確かに、今日の聖句は「上から目線」を感じる。前半は単純に「同害復讐法」(出エジプト21:23~25、他)であるが、後半の文章は明らかに被害を受けた当事者目線ではない。その意味では、新共同訳はそのニュアンスを表している。根拠は明らかではないが、勝村弘也氏(岩波訳)は後半の文章は「後代の挿入句か」と疑問符を付けているし、フランシスコ会訳では「同害復讐法の誤った解釈である」と注釈し、同じ思想が箴言20:22にも見られるという。確かに「復讐」という思想は危険な面を持っている。人間が考える復讐は常に「倍返し」となり、無限に繰り返されることになる。従って、イエスのように単純に「復讐するな」ということになる。パウロはこれをねじ曲げて、ロマ書12:20のように「燃える炭火を彼の頭に積む」という思想となる。イエスにおいてはこの復讐法は「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」というポジティブな思想へと転換される。

2014日々の聖句 04月02日(水)
心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。(レビ19:17)
イエスの言葉:兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。(マタイ18:15)

私の黙想:
ここは共同体内における人間関係を取り扱った部分である。これに続く18節19節は山上の垂訓と同じ思想である。大原則は表面的な付き合いの良さではなく「心の中」である。「愛する」ということの前に「憎んではならない」が出てくることが、何となく慰めになる。論理的に考えると、無関係の人間を愛することはできない。逆説的になるが、愛とは憎しみ合える相手との関係における憎しみの否定である。

2014日々の聖句 04月03日(木)
貧しい人を嘲る者は造り主をみくびる者。災いのときに喜ぶ者は赦されない。(箴言17:5)
イエスの言葉:宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。(ルカ14:13~14)

私の黙想:
フランシスコ会訳では「災害」を「不幸な人」と読むとわざわざことわっている。この方がピッタリ来る。それよりも今日の聖句で引っかかるのは「みくびる」という語である。フランシスコ会訳では「侮る」、新改訳は「(自分の造り主を)そしる」、岩波訳では「罵る」と訳している。微妙な違いである。実際的な行動に出ているのか出ていないのかの違いである。そう言えば、貧乏人に対してはほとんどの訳が同じように「嘲る」という実際的な行動を示す言葉を用いている。つまり、貧乏人を嘲るという行為そのものが造り主に対する行為とみなされるのか。まさか、造り主に対して声を出して侮ることはないであろうから、問題は「心の中」という意味で「みくびる」という特殊な用語を用いたのであろうか。「みくびる」という日本語は口語訳、新共同訳の全聖書を通じて、唯一ここだけで用いられている。今朝の黙想はつまらないことを考えてしまった。ヘブライ語、ギリシア語を通じてそれほど特殊な語が用いられているのだろうか。専門家の意見を聞きたい。

2014日々の聖句 04月04日(金)
主は言われます。「虐げに苦しむ者と、呻いている貧しい者のために、今、わたしは立ち上がり、彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」(詩12:6)
イエスの言葉:その方(弁護者)が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。(ヨハネ16:8)
私の黙想:
少なくともこの詩に関しては、一つ一つの語句に囚われることなく、たった9節しかないのだから詩全体を味わいたい。何とまぁ、今の日本の政局そのままではないか。「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない」。嘘など平気のへいちゃら。自分たちの利益のためだけに、国民を騙し、世界を騙し、神(彼らにとっての神である「天皇」、憲法)をも恐れない。巷には「哀れな者のすすり泣きと、貧しい者の呻き」(フランシスコ会訳)が満ち溢れている。神よ、今こそ立ち上がってください。「今こそ、脅かされた者を安全な所に置くために」。

2014日々の聖句 04月05日(土)
わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす。(エレミヤ31:25)
あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。(1ペトロ5:10)

私の黙想:
幸か不幸か、私には「魂が干乾びる」ということが理解できない。それは単に魂に「鈍感」ということか。どういう状態が魂が干乾びるということなのか。何にもすることがないという状況なのか、何をしたらいいのかわからないという状態なのか、何をしたらいいのかしたいことがない、という心の状態なのか。人間関係に疲れ果てて人間不信に陥っているという状態なのか。わからない。だから逆に「魂が満たされる」ということもわからない。じゃ何時も元気ハツラツとして、毎日が充実しているのかと言われたら、そんなことはないし、そんな人間がいたら、それは例外的な人間で、異常といったほうがいいかもしれない。私にも調子がいい時もあれば、何をやってもうまくいかないということもあるし、その方がはるかに多いということも事実である。
だからイエス・キリストに出会って、干乾びた魂が癒やされたとか、無意味な人生から救われたということもわからない。多分は私が変わっているのであろう。私自身はそれを強烈なキリスト教信仰の影響下に生まれ育った結果だと思っているが、その事自体も悩んでいるわけではない。一口で言えば、要するに私は「おめでたい人間」なのだ。

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