ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 08/17 哲学者の木田元さん死去

2014-08-19 06:20:27 | ツイッター
2014年08月17日(日)5 tweetssource
8月17日@ybunya
文屋善明@ybunya
2014年08月16日のツイート http://bit.ly/1t5aGMu
posted at 00:10:22

お早ようございます。主の平和。『叛逆』続読。ネグリは水、銀行、教育等社会的財を「公」から「共」に変容させる方策を考えている。聖歌について考える。練習30分。外出なし。夕食後、佐藤隆太・松下奈緒競演「芙蓉の人」を見て11時就寝、5時半起床。体調・快調、チュン、チュン。

播 稔さん、東山 富昭さん、清水 晴好さん、他17人が「いいね!」と言っています。

萩野 秀子 おはようございます。聖書朗読の奉仕です。祝された時となりますように。お祈りします。

村田 多鶴子 おはようございます。90歳の義父のお見舞いに、連れ合い、息子と共に二泊三日の日程で帰省いたして、昨日帰って参りました。未だ、乗り物に乗っているような不思議な感じです~♪
片道9時間半の行程は、自動車で帰るには少々きつく、息子が同行し運転のかなりの部分を担ってくれたので可能だった…と、思います。祝された時間祖お過ごしくださいませ~m(__)m

播 稔 新田次郎の作品は好きです、ビデオにとりましたが、まだ見ておりません。
posted at 05:45:13

文屋 善明
今日の名言:RT @meigenbot:
人はただ自然をいかに取り入れるか、天の成せるものを、人の世にいかにして活かすか、ただそれだけだ。 (北大路魯山人 魯山人味道)
<一言>料理の極意は、生き方の極意。だから料理をする人は料理をしない人よりも優れている。彼らは「加減」を知っている。料理をしない人間はものごとの「加減」がわからない。

播 稔さん、こーる のりこさん、増野 真美さん、他17人が「いいね!」と言っています。
posted at 06:50:31

「昨日のツイート 08/15 日本聖公会の平和メッセージ」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/5febfbf973187a8c15930f02bd3fa6c…
posted at 09:31:23

「今週のローズンゲン 2014/08/10~08/16」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/0b4c090432c96e0b8fd659cb7121099…
posted at 09:45:03

文屋 善明
お目覚めの花。「お盆も終わり、最初の日曜日ですね」「教会に行く日でしょう」「気分の切り替えには教会の礼拝に行くのが一番ね」「あんたはそんなんで教会に行くの」「悪いかな」「神様に悪いでしょう」「そうかな、主日って気分の切替日じゃなかったかしら」「そうね、神様も一仕事終えて休まれたんだったんですよね」。
文屋 善明さんの写真

アモス エノク 若山さん、播 稔さん、野口 富隆さん、他37人が「いいね!」と言っています。

村田 多鶴子 各地でささげられる主日礼拝が祝されますように!m(__)m

文屋 善明
2014日々の聖句 08月17日(日)
エリアへの主の言葉:わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。(列王記上19:18)
約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。(ヘブル10:23)

私の黙想:ノアの洪水にせよ、ソドム・ゴモラの悲劇にせよ、民族殲滅(ホロコースト)と「残りの者」の叙述が旧約聖書に多い。旧約時代だけではない。今もパレスチナにおいてその悲劇が繰り返されようとしている。これはイスラエルだけではなく、第2次世界大戦においても各地で起こった出来事であった。「残りの者」という思想の背景にはホロコーストという残酷な思想を前提としている。だから、「残りの者7000人」という言葉を読む時、そこで殺された無数の人々のことを思う。一人の人間だって、暴力的に殺されることを認めてはならない。何人かの人間を生き残らせるために、何人かの人間を殺してもいいというのは「悪魔の論理」である。アメリカによる日本への原爆投下の理由付けは「悪魔の論理」に他ならない。それを認めたら、ナチによるユダヤ人虐殺の論理を認めることになる。

大脇 友弘さん、播 稔さん、東山 富昭さん、他26人が「いいね!」と言っています。

文屋 善明 今日の黙想は聖句からかなり、というより反対の方向に進んでしまいました。そのつもりはなかったのに。

文屋 善明
聖サビエル聖堂でのミサに出席してきました。79歳の誕生日を迎えた鈴木神父の司式・説教でした。説教は5分足らずでいい説教でした。

杉浦 紀明さん、加藤 望さん、牧山 佳永さん、他39人が「いいね!」と言っています。

前田 良彦 5分足らず・・・目標にしたい。

文屋 善明
聖歌(讃美歌)考(6) <『基礎聖歌30選集』の内容>
祈祷書の聖餐式文においては、聖歌を歌うべきところが4箇所ある。
(1)最初の聖歌は、聖餐式の始まりの部分で一同は起立して「ここで聖歌を用いてもいい」と書かれ、それに続いて「また、参入唱または聖語を教会暦に応じてまたは自由に用いてもよい」と規定されている。つまりここで歌われる聖歌は「参入唱」の代わりである。従って、聖歌もそれに相応しいものでなければならない。私はこれを「神を讃える聖歌」と解する。それでここでは次の7曲を選んだ。(以下カッコ内は『讃美歌21』)
  200(351)、311(13)、323(361)、452(457)、484(474)、491(475)、519(434)

(2)次の聖歌は、旧約聖書、使徒書の朗読の後で、「ここで昇階唱または聖歌を用いてもよい」とある。つまり第2の聖歌は「昇階唱」に代わるものである。昇階唱とは使徒書と福音書の間、というより福音書朗読の前で、福音書朗読では会衆も全員起立して福音書の方に向かう、いわば「み言葉の礼拝のクライマックス」である。従って、私は神の御子イエス・キリストの言葉と行為を聞く心構えの歌であると解している。
  356(289)、357(280)、367(482)、386(343)、391(390)、444(156)、482(493)

(3)第3の聖歌は、いよいよこれから聖餐式が始まるという感謝聖別の直前で、先ず神の前に自己自身を捧げる。ここでは「奉献唱、(中略)あるいは聖歌を歌ってもよい」とされている。つまり、キリストの血と肉とを頂く前に自分自身を捧げる、信仰の決断、奉仕への決意の歌であると解している。
  446(433)、451(449)、456(434)、470(463)、485(505)、496(483)、548(495)

(4)第4の聖歌は「陪餐のときに、陪餐唱または聖歌を用いてもよい」とある。「陪餐のときに」という表現が曖昧である。ここで聖歌を歌わない教会も結構多い。
私の個人的意見としては、古い祈祷書にはあったが現行ではなくなった「陪餐後祷」の意味も含めて、ここでの聖歌は、聖餐式毎に毎回同じ聖歌でもいいのではないか。私が信徒時代に所属していた教会では、だいたい常に聖歌244が歌われていた。それでここでは2曲選んでおいた。
  244、506(513)

(5)聖餐式の最後の聖歌には特に規定はない。しかし現実的には執事または司祭の「ハレルヤ、主とともに行きましょう」という言葉を受けて「ハレルヤ、主のみ名によって アーメン」という言葉の延長として聖会を歌う教会が多い。つまり、ここでの聖歌には派遣されて宣教に出かけるという意味合いが強い。
  403(402)、409(355)、457(507)、462(459)、498(484)、520(461)、521(510)

前にも触れたように聖歌には汎用性の強いものと、特殊性の強いものとがあるが、「基礎聖歌」では出来る限り汎用性の高いもの、また伴奏にもそれほど高い技術を必要としないものを選んだつもりである。そのことを配慮して司式者はこれらの中から選べば、支障はないと思う。また、聖餐式でない礼拝においても、これらの中から適当なものを選ぶことができる。

蛇足になるが、以上の30曲は私の個人的な選曲であり、自由に差し替え、減らしたり、加えたりして、その教会独自の「オハコ聖歌」になることを願っている。(つづく)

東山 富昭さん、Satoshi Mizotaさん、Luke Etsuzou Nomahさん、他12人が「いいね!」と言っています。

文屋 善明
聖歌(讃美歌)考(7) <歌詞版のすすめ>
最後に、最初の問題に戻って「聖歌は楽譜なしで歌うもの」(以下、「聖歌」という言葉には「讃美歌」も含むこととする)ということについて再考する。
「聖歌は楽譜なしで歌うもの」と言っても、すべての聖歌を暗唱できるものではない。個人レベルで言うと、せいぜい数曲であろう。でも、不思議なことに歌詞は思い出さなくても曲だけは聞いたら、知っている歌か、知らない歌か、すぐにわかる。そこが歌の不思議な点である。聖歌の場合やはり歌詞が重要であるが、その聖歌を思い出すのは曲である。その意味では歌というものは歌詞と曲とが切っても切れない関係にある。聖歌においても同様で、歌詞と曲とが一体になって成立している。
その関係を分析すると、曲が歌詞を呼び出すと言えるのではないか。そして歌詞がその歌を覚えた時の気分を思い起こさせる。特に聖歌の場合は事柄が人間の内面に関わる「信仰」なので、その関係は密接である。つまり聖歌を歌う(リ・プレイ)することによって、その聖歌によって受けた感動が再生(リ・プレゼント)される。
だから聖歌を歌うとき、決して歌詞を「読んでいる」のではなく、曲によって歌詞を「呼び出し」、それによって「信仰」を再生しているのである。その意味では歌詞は心のどこかの引き出しに収められているのであり、目や耳で外から受けるのではない。もっとも、こういう状態になるためには、それまでに何回も繰り返し聞き、歌うことがなければ、そうはならないであろう。その場合には、楽譜など不要である。曲は身についている。
私が高校生の頃、歌声喫茶が流行っていた。ウイキペディアによると「(歌声喫茶の)発祥については諸説あり、1950年(昭和25年)ごろ、新宿の料理店が店内でロシア民謡を流していたところ、自然発生的に客が一緒に歌い出して盛り上がり、それが歌声喫茶の走りになった」と言われている。これが当時の労働運動や学生運動における「うたごえ運動」と結びつき、当時の若者たちの心を掴んだ。ここで歌われた歌ははロシア民謡であったり、唱歌であったり、童謡や労働歌、反戦歌などで、多くの人がどこかで聞いたことのある歌が主であった。歌はなん人かのリーダーの「司会・指導」によって歌われ、伴奏楽器は主にアコーデオンであった。だんだん流行るにつれて各店によって、歌う歌の傾向があり、その店で独自の歌詞だけの歌集を作り客に配っていた。それも葉書を半分にした程度(つまり片手の掌に入る程度)の、今見たら貧相な印刷物(大半はガリ版刷り)であったがファンたちはそれを宝物のようにして保存し、それぞれがその歌集を手に自分好みの店に通い、大声で歌っていたのである。本当に楽しかったことを覚えている。「カチューシャ」とか「ともしび」「トロイカ」「ペチカ」等を聞くとその当時の興奮がそのまま思い出される。私の書棚には『青春の歌声喫茶愛唱歌全集』(CD10枚)が入っている。これは私の青春の記念である。(実際にはあまり聞く機会もないが)
「歌声喫茶」と「うたごえ運動」が盛り上がった一つの理由は、そこで提供された小さな「歌集」にあったと私は思う。歌は身体で覚え歌うものであるが、歌詞は中々そうは行かないので、補助的に歌詞集が必要なのであろう。
礼拝で使う聖歌が音符が付いていなければ歌えないということが、そもそもおかしいのではないだろうか。と言っても、『聖歌集』に収められているすべての聖歌の歌詞版を作るのも無駄であり、その必要はない。各教会でその教会独自に「歌詞版」を作ればいい。それも30曲ぐらいから初めて少しづつ増やしていけばいい。要するに、教会で歌う聖歌は歌詞だけで十分という文化が形成されなければ、聖歌が実生活に密着しない、と私は考えるのだが、その考えはおかしいのだろうか。
歌詞について触れた序に、歌詞の「書き換え」について一言触れておく。歌詞は「詩」なのである。詩人が、あるいは信仰者が、少々大袈裟に言うと「心血を注いで」作詞したものである。これは海外の歌詞の翻訳についても言えることである。むしろ外国の歌詞を日本語の歌詞にするということには、字数の問題、イントネーション、リズムの問題等様々な障害を乗り越えて、原作者の心を読み取り、それを日本語の歌詞にしている。それはもはや通常の「翻訳」のレベルを超えた、創作に近い営みであるとさえ言えるであろう。それを「読んで、分かり難い」からという理由だけで、簡単に改作していいものであろうか。また、その聖歌によって信仰を豊かにされた信徒たちも多く存在している。それらの問題を簡単に無視していいものだろうか。分かりにくければ、説明すればいいではないか。いずれにせよ日本語ではないか。古い言葉遣いも日本語の枠内のことで、その聖歌を通して日本におけるキリスト教の歴史を感じればいい。私は歌詞と曲とは一体化していると思っている。もし、歌詞を改変したら、それはもはや元の聖歌とは異なる歌になっている。「荒城の月」にせよ、「この道」せよ、「どんぐりごろごろ」にせよ、「一寸法師」にせよ、歌詞を書き換えたらその歌の生命は死んだものになる。それだけの「覚悟」をして聖歌の口語化をしているのだろうか。(ここでは、あえて各聖歌の対比はしない)

ともかく、主日礼拝に出席して、一曲も心から感動して歌う聖歌がないということは本当に寂しい。何か、中学や高校の時のつまらない音楽の時間を思い出す。読めない楽譜を無理矢理に読まされて、たどたどしく歌っている信徒の姿を見ると、やりきれない気がする。(完)

播 稔さん、東山 富昭さん、Luke Etsuzou Nomahさん、他11人が「いいね!」と言っています。

文屋 善明
今日、聖ザビエル聖堂でのミサに出席しますと、立派な「聖歌集」(A4版ファイル)が準備されていました。先日来、私が問題提起していたこととは全く関係がありません。私と家内は思わず顔を見合わせ驚きました。収録されているのは40曲、メロディラインの音符はついていました。これらはすべて、カトリックで使われている「歌集」からのコピーでした。参考までにアップしておきます。
文屋 善明さんの写真

清水 晴好さん、杉浦 紀明さん、アモス エノク 若山さん、他29人が「いいね!」と言っています。

播 稔 なるほど。

文屋 善明さんがDaniel Corlさんのリンクをシェアしました。
私の好きな哲学者の一人でした。『闇屋になりそこねた哲学者』もおもしろ著作でしたが、私がもっとも惹かれたのは『反哲学入門』(新潮社)でした。ご冥福を祈ります。

哲学者の木田元さん死去 ハイデガー研究の第一人者:朝日新聞デジタル

http://digital.asahi.com/articles/ASG8K4S5TG8KUCLV002.html

20世紀ドイツの哲学者ハイデガーの研究で知られる哲学者で中央大名誉教授の木田元(きだ・げん)さんが16日午後5...
いいね!いいね! · · 宣伝する · シェア
松井 信一さん、金井 由嗣さん、入口 紀男さん、他14人が「いいね!」と言っています。

こーる のりこ は??!!

文屋 善明 手元に『ハイデガーの「存在と時間」の構築』(岩波書店)もありますが、これは途中で投げ出しています。

文屋 善明 確か、非常に感動して読んだ本がもう一冊あったはずだと、気になって探していましたら、ありました。これが最初に読んだ木田元先生の著作でした。『現象学』(岩波新書)でした。1970年12月に読んでいます。
11分前 · いいね!

文屋 善明 そうそう、もう一冊、忘れてはならいのが『現代哲学』(NHK市民大学叢書)です。これも手元にありました。こうして眺めてみると、私の現代哲学の知識はほとんど木田先生によるみたいです。

文屋 善明さんが小池 貴子さんの近況をシェアしました。
自分のみ
出発まで2週間切りました、、、

今月末から1年間ドイツの大学に留学してきます(*^^*)
私が行くのはクリスマスマーケットで有名なニュルンベルクという街の近くの、エアランゲンという所です。

中学生のときからずっと留学したいと思っていたので夢がやっと叶いますが、今は不安と寂しい気持ちでいっぱいです。笑

最近はいろんな人が会ってくれてとっても幸せですが、その分お別れするのが寂しいです(´・ω・`)
でも1年後また会うのを楽しみにして、行ってきます♡

そして、プールの友達が、私が帰国するころには社会人だということが信じられません。笑
こんなことしてていいのかなって思うこともあるけど、みんなに負けないように頑張ってきます!

ともかくこの1年は何事にも積極的にチャレンジして、できる限りいろんなことを吸収してきたいです。

ドイツやヨーロッパに来ることがあったら教えてください♪( ´▽`)

文屋 善明
「少年H」を見ている。昭和16年12月の庶民の生活。クリスチャン一家の悩み。

播 稔さん、藤井 衞さん、大内 田鶴子さん、他25人が「いいね!」と言っています。

文屋 善明
軍国主義の最も嫌う相手、共産党、クリスチャン、オヤマ。昭和17年4月。アメリカの爆撃機、来襲。

藤木 冨士子さん、藤井 衞さん、安部 勉さん、他28人が「いいね!」と言っています。

文屋 善明 父親が逮捕され、警察での激しい拷問。クリスチャンはスパイ疑惑を受ける。

文屋 善明 1945年8月15日、少年は叫ぶ。「この戦争は一体何やったんや」。

最新の画像もっと見る