鏡海亭 Kagami-Tei ウェブ小説黎明期から続く、生きた化石? | ||||
孤独と絆、感傷と熱き血の幻想小説 A L P H E L I O N(アルフェリオン) |
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第59話「北方の王者」(その1)更新! 2024/08/29
拓きたい未来を夢見ているのなら、ここで想いの力を見せてみよ、 ルキアン、いまだ咲かぬ銀のいばら! |
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小説目次 | 最新(第59)話| あらすじ | 登場人物 | 15分で分かるアルフェリオン | ||||
旧世界の光と影を秘めた塔! 衝撃の第6~8話、まとめ版アップ
連載小説『アルフェリオン』、まとめ版を本日もアップです。
今回は第6話~第8話を一気に。
「光と影の塔」の前編・後編と「罪、あるいは楽園の瘡痕」の回です。
このあたりから、『アルフェリオン』らしさが徐々ににじみ出てきますね。
そして、塔の最上層に隠された恐るべき真実とは?
で・・・肝心のロボット戦はいつ出てくるの(^^;)というところですが、次の第9話でいよいよルキアンとアルフェリオンの出番です。
そう簡単には戦わない戦闘物、ロボット戦のなかなか出てこない巨大ロボット物、他のキャラが戦っているのに自分は傍観し続ける主人公、ターンが回ってこないと空気化する主人公(笑)、それでいいのかアルフェリオン…。何というか、まぁ、最近ではそんなに珍しくないパターンかもしれませんけど。
地味展開で引っ張って引っ張って、何かでスイッチの入ったルキアンの鬱回想・妄想・独白を経て、溜めに溜めて超覚醒!で激烈にロボット戦闘というのが、大体、この物語のパターンなのでした。慣れると気持ちいいですよ(苦笑)。
かがみ
今回は第6話~第8話を一気に。
「光と影の塔」の前編・後編と「罪、あるいは楽園の瘡痕」の回です。
このあたりから、『アルフェリオン』らしさが徐々ににじみ出てきますね。
そして、塔の最上層に隠された恐るべき真実とは?
で・・・肝心のロボット戦はいつ出てくるの(^^;)というところですが、次の第9話でいよいよルキアンとアルフェリオンの出番です。
そう簡単には戦わない戦闘物、ロボット戦のなかなか出てこない巨大ロボット物、他のキャラが戦っているのに自分は傍観し続ける主人公、ターンが回ってこないと空気化する主人公(笑)、それでいいのかアルフェリオン…。何というか、まぁ、最近ではそんなに珍しくないパターンかもしれませんけど。
地味展開で引っ張って引っ張って、何かでスイッチの入ったルキアンの鬱回想・妄想・独白を経て、溜めに溜めて超覚醒!で激烈にロボット戦闘というのが、大体、この物語のパターンなのでした。慣れると気持ちいいですよ(苦笑)。
かがみ
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第8話・後編
【再々掲】 | 目次 | 15分で分かるアルフェリオン |
9
皆が思案に暮れる中、クレヴィスにひらめきがあったようだ。
「ルティーニ。先ほど中央管理室で手に入れたというカードを、ちょっと貸してくれませんか?」
「えぇ。見て下さい、こんなに沢山ありますよ。ほとんどは似たり寄ったりという感じですが」
ルティーニは懐に手を入れて、名刺大のカードの束を取り出す。
「厚紙……ではないようですね。それ、何ですの?」
2人のやり取りをシャリオがしげしげと見つめていた。この塔に入ってからというもの、未知の事柄があまりに多すぎる。だが得体の知れない経験の数々は、シャリオを不安にさせるというよりも、むしろ彼女の好奇心をいっそうかき立てるのだった。
「見かけからは考えにくいかもしれませんが……これは要するに《鍵》なのです。先ほどのディスクと同様、この小さな薄板の中にはある種のデータが記録されています。勿論、ディスクと仕組みは違いますし、情報量も比較になりませんけどね」
クレヴィスはそう言うと、エレベータの操作パネルを指差す。例の1から6までのボタンが並ぶ部分の下に、ちょうどカードが入りそうな大きさの差し込み口が備えられている。
「例えばこんなふうに、鍵穴……いや、《スロット》に差し込みます」
実際に入れてみた瞬間、ブザーが鳴った。クレヴィスは苦笑しながら次の1枚を選ぶ。
「《電気の錠前》はカードからデータを読み取り、それが正しい《鍵》かどうか照合します。間違っていれば今のように拒否されますが、正しいものを挿入すればロックは解除されるのです」
状況を考えてか、遠慮がちにルティーニが手を打った。
「そうか、なるほど! 特定のキーカードを持っている者だけが、7階より上に行けるという仕組みなのですね。これはうかつでした」
「たぶんそうでしょう。いや。多分どころか、ほら」
クレヴィスが挿入した新たなカードは、滑らかな動きでスロットに吸い込まれいく。何度も続いた滑稽なブザーの響きに代わって、今度は鉄琴に似た軽やかな音がした。そして……。
「何ですか? う、うわぁっ!」
突如としてエレベータが上昇し始める。
体のバランスを崩し、気が動転したルキアンは、隣にいたシャリオにしがみついてしまった。無意識のうちにやったことだとはいえ、実に間が悪い。尊い白の聖衣を通して、何とも言えない柔らかさを感じたルキアンは、思わず身を後ろに引いた。おかげで今度は背後の壁に腰を打ちつけてしまう。
「あ、あの……その、ごめんなさい!」
しばらく手に残った、後ろめたくなるような感触……それを意識しすぎたせいもあり、ルキアンは頬から首まで朱に染めて頭を下げている。
シャリオは少し困ったような、微妙にすました顔で笑った。
「大丈夫? そんなに慌てなくても、神官を触ったぐらいでばちが当たるわけではありませんよ。気にしないでね」
「本当に、すいません……」
不本意な大騒ぎを演じてしまった後、ルキアンがわれに返ったときには、エレベータの上昇はすでに止まっていた。
自分の馬鹿さ加減が失笑を買っていないかと、彼は目の前のクレヴィスの背をそっと見やった。茶色いフロックの上で鈍い輝きを見せるのは、束ねられた長い髪……金糸で編まれた綱を思わせるその毛筋を、ルキアンがおずおずと見上げていくと、紳士的な魔道士は物静かな口調でこう告げた。
「着きましたよ。さぁ、いよいよ7階です」
のんびりとした話しぶりとは裏腹に、クレヴィスの表情は厳しくなっていた。
10
辺りは妙に薄暗い。天井や壁には点々と明かりが見えるのだが、すべてが青色のぼんやりとした光を放っている。その明かりの様子を目にするうちに、何やら生理的に落ちつかない気がしてきた。
エレベータの出口からは一本の廊下が真っ直ぐ伸びていた。通路の幅は狭く、しかも左右の壁に窓がひとつもないせいか、閉塞感を覚える。他方で不釣り合いに天井が高いため、地底の谷間に落ち込んだような心持ちにさせられる。行く手には闇が張り付いていた。
――あの嫌な感覚が、6階よりもずっと強くなってる。気持ち悪いな。
エレベータを一歩出るや、ルキアンは本能的な寒気を感じた。
他のメンバーも、同様に居心地の悪さを思わずにはいられなかった。
「空気が重い……この濁った冷たい感じ。吐き気を催しそうですわ」
シャリオは露骨に眉をひそめている。杖を握りしめた彼女の手にも、周囲の怪しい雰囲気に対する嫌悪が感じられる。
クレヴィスは、魔法の光をこれまでより強めに灯した。
「もう、お分かりだと思います。この階……いや、たぶん8階をも含めて、強い《負の波動》に覆い尽くされていますね。さしあたって、この廊下には何者の気配もありませんが」
中空から炎を呼び出した彼の手先は、次いで剣の柄に添えられる。もし危害を加えようとする者があれば、呪文を待つまでもなく、刹那のうちに彼の剣閃がきらめくだろう。《魔道士》クレヴィスといっても、並の剣士や冒険者よりもよほど腕が立つのだと、ルキアンは知らなかったが。
細心の注意を払いつつ、仄暗い廊下を4人は進む。自らの足音がいつもと比べて大きく響くように感じられる。皆、鼓動が早まっていた。
第1の部屋があった。
今度も先ほどと同じキーカードを使って開けることができた。というのも、そのカードは――後で分かったことだが――警備員用のマスターキーに相当するものだったのである。
「やはり7階は、意図的に下の階から隔離されているようですね。人に知られてはならない秘密が、どこかに隠されているのかもしれません。一体、ここで何を研究していたというのでしょう……」
ルティーニは誰に言うともなく呟いて、室内の明かりのスイッチを入れる。
光とともに異様な光景が目に飛び込んできた。
思っていたよりも相当に広い。部屋中に、高さ3メートル前後のカプセルが所狭しと配置されている。分厚いガラスでできた円筒形の容器は、透明な液体で満たされていた。そのうちのいくつかは、病的な色合いで白濁している。
縦長の広間に並ぶカプセルの列。その間からは生ぐさい刺激臭が漂う。鼻の曲がりそうな臭いだったが、今はそれどころではなかった。
シャリオは喉を詰まらせ、息苦しそうに言う。
「これは……何かの生き物の標本でしょうか?」
円筒形の巨大な容器の中に、白っぽい肉塊がひとつずつ封入されている。直視するのは何となくはばかられる。横目で曖昧な視線を向けると、大方のものには手や足があるように思われた。獣か、あるいは考えたくないことだが、人の身体にも多少似ている。実際のところ何の動物なのかよく分からない。ひょっとすると魔物の類かもしれなかった。中で腐敗が進んでいるのか、肉の表面はふやけたようになって原形をとどめていない。
静寂……異臭……そして、どこか薄気味の悪い眺めである。
11
第2の部屋はフロアの中央に位置していた。
扉を開けると、最初の部屋よりもさらに広い空間が現れる。8階まで含めた吹き抜けになっているため、特にその高さは圧倒的だった。おそらく《塔》の上層部の構造は、この部屋を中心として、周囲に回廊を一巡させる形になっているらしい。
「どれも得体の知れない機械だとはいえ、これだけ並べられると、とりあえず壮観ですね。しかし……」
ルティーニの目をまず驚かせたのは、室内に設置された大小様々な実験機器である。複雑な操作盤を備えたもの、円筒形の巨大なタワーを有するもの、分厚い扉を持つ炉のようなもの、等々……設備の充実ぶりたるや、これまでの階で見られた小規模なラボとは比較にならない。
各種の器材から出たパイプや配線は、壁を伝って錯綜し、白い丸天井へと這い上がってひとつに結びつく。見事な弧を描くドーム状の屋根は、ある種の迫力さえ伴っている。
頭上高く伸びる柱はすべて、黒光りする石で作られていた。漆喰塗りにも似た肌を持つ白壁の中で、よく磨かれた石柱は重厚な輝きを見せる。また、南北の壁には多数のモニターが埋め込まれている。
この部屋本来の光景は、見る者に対してまさに科学の殿堂という感を与えていたのかもしれない。だが惜しむらくは、現実として室内全体が復旧不可能なまでに破壊されていることだった。
「せっかくの大がかりな実験室も、これほどひどい有様では意味がありませんね。何かの事故? いや、そんな単純なことでは片づきませんか」
引き裂かれ、ねじ曲がった機械をクレヴィスが残念そうに見つめる。設備の大半は、原型を留めぬほどの損傷を被っていた。
「誰かに壊されたのでしょうか? そんなふうに見えるのは確かですけど」
ルキアンはそう言って肩を震わせた。何者かによって徹底的に荒し尽くされた結果が……この有様であろう事は、ごく自然に想像できる。分かっていながらも、敢えてそう考えるのを避けていたのだが。
「えぇ、ルキアン君。でも妙ですよ。どの残骸を見ても、爆発物や火器の使われた形跡が全くありません。ここまで大きくて頑丈な機材を、力ずくで叩き壊したというのでしょうか? そんな無茶な話が……でも、現に」
機械の破片を手に取ったまま、クレヴィスは言葉を詰まらせる。
と、彼は不意にひとつの机に近づいた。
書類やディスクが卓上を乱雑に埋め尽くしている。それらのうち幾つかを、クレヴィスは袋にしまい込んだ。
だが本当に彼の気を引いたのは、金属製の強固な収納ボックスだった。厳重に鍵まで掛けられていたので、クレヴィスは例によって呪文で錠を外し、中に保管されていた分厚いファイル2冊と数枚のディスクを取り出す。
ファイルを開いた後、彼の表情が微妙に変化した。
少なくとも、書類の内容に感心しているのではなさそうだ。忌々しげな目をして何度も首を振った後、クレヴィスは棘のある口調で言う。
「ここで行われていた研究、おおよその見当が付きましたよ」
12
その言葉を聞いて仲間たちが駆け寄る。
クレヴィスから無言でファイルを見せられたシャリオ。今度は彼女の顔から血の気が引いた。声を発することができず、唇はただ震えている。胸元に下げた聖なるシンボルを手にすると、シャリオはうなだれるように祈った。
「こんなことを……こんなことを、神がお許しになるはずがありません!」
いつも温和で冷静な彼女が、ややヒステリックに声を上擦らせて言う。
「シャリオさん、いったい何が……えっ?」
ルキアンは、ルティーニから別のファイルを手渡された。
厳しい表情で頷くルティーニは、書類の中身をこの繊細な少年に見せてよいものかどうかと、最初は迷っていたらしかったが。
ひと抱えもある加除式のバインダーには、こんなタイトルが付けられていた。
《アストランサー計画》
正体不明の文書に目を通していくうちに、ルキアンは何度も嘔吐を感じて、胃の中の物をもどしそうになった。恐ろしい写真の数々、無惨で禍々しい地獄絵図には、徹底して客観的・論理的なコメントが付されている。
人間の上半身と馬の胴体を持つ生き物……かつて存在したケンタウロス? いや、ケンタウロスたちは力強さと優美さとを兼ね備え、生きた彫刻さながらの姿であったらしい。この写真に写った生き物は、どう見てもその言い伝えとは異なっている。競走馬のごとく引き締まった下半身に比して、上半身は贅肉で弛んでいた。不釣り合いなその上体は、白く肥え太った中年男性にしか見えない。薄い前髪を垂らした額は、どす黒い肉腫で覆われている。それらの瘤を刺し貫いて、赤や青のパイプが食い込む。見開かれたままの目は無表情で、恐怖に血走ることや、絶望に涙することすらもはや忘れていた。
別の写真。水槽の中で窮屈そうに身をよじらせているのは……人魚? しかしそれは、伝説に登場する美しい女性の姿ではなく、痩せ細った若い男の姿をしている。それだけに、変に生々しくて気味が悪い。人魚ならぬ彼は、水中で苦しげに泳いでいた。否、もがいていた。裸の脇腹や背中から、皮膚や肉を切り裂いて、不揃いな鰭が生えている。よどんだ水中では、黒く細いケーブルが何本も揺れている。
様々な生物と人間とをいびつに融合させたような――《魔物》の写真が、他にも数多く収録されていた。ただし、それら異形のものたちが全て魔物のようで魔物でないことは、ルキアンにも分かった。
ページをめくるにつれて、さらに見るに耐えない画像が現れる。
全身の皮を剥がれた、人の形をした生き物が鎖につながれている。骨格、筋肉、内蔵を薄皮一枚に封じ込めたそれは、目を覆いたくなるような姿である。極限的なかたちで、否応なく肉や筋の動きを想像させられる。わずかな脈動にも表皮がはじけ、血や体液が全て流れ出してしまわぬかと、おぞましいばかりのイメージが心をかき乱す。薄暗いケージの中、よく見るとそれは4つ足の動物ではなく、足と手を遣って無理に歩いているようだ。
あるはずのない場所に手や足の――それも人の腕や脚の――生えた動物が、檻の隅でうずくまっていた。
胸に顔のある……首の二つある……首のない……人の似姿?
溶け出した臓腑の塊を思わせる生き物が、地べたを這いずり回る。
その全てが実は……。
もはや正視できなくなって、ルキアンは大きな音を立ててファイルを閉じた。
――それじゃあ、さっきの部屋にあった標本は、みんな……。
悲痛な面差しでルキアンは反芻する。
彼の様子を見て、クレヴィスが静かに告げた。
「どうです? 人はここまで愚かになれるのです。極めて高度な研究を行うだけの頭脳がありながら、同時にこんなにも低劣な発想に及ぶことができるのですよ。人間という壊れた獣は、知性を保ちつつ、感情だけ狂ってしまうことができますからね」
心の奥からわき上がってくる、形容しがたい感情。ルキアンは声も出せずにじっと身を凍らせていた。彼だけではなく残りの者たちも、身じろぎもせず。
沈黙を破って、ルティーニが低い声で尋ねる。
「副長、ひょっとしてこれは全て……本当は、人間……なのですね?」
13
クレヴィスは黙ってうなずいた。
「《マキーナ・パルティクス》を注入して、人体を細胞レベルで改造する操作……それによって人間を全く別の生命体に造り替える実験や、あるいは魔法技術も併用して、異なる生物と人間とを接合し、一種のキメラを作り出そうとする実験。それらをここで行っていたのです。下の階で見たように、マキーナ・パルティクスは本来、アルマ・ヴィオの再生や変形を行うために作られた極小の粒子機械です。それが人体実験のために用いられていたというのです。自分たちの行いが異常だということ……それすらも分からないほどに、歯止めが効かなくなっていたのでしょうね」
ルキアンは、いたたまれなくなって天井を見上げた。
高きところ――吹き抜けの終端、つまり《塔》の屋上はガラス張りになっており、燦々と日を浴びた青空がそこからのぞいている。
天から降り注ぐ暖かな光。しかし輝きに満ちたこの部屋は、本当は果てしない闇に閉ざされた奈落に他ならない。神の祝福から永劫に切り離された空間が、ここなのである。
「なんという人たちでしょう……」
目を閉じたまま、シャリオも天を仰いだ。
「この犠牲者たちも、みんな同じ、人間なのですよ。どういう理由で、こんな悪魔にも等しい振る舞いが許されると言うのでしょうか? このような恐ろしいことが続けられていた一方で、旧世界の人々は平和な日々を安穏と送っていたというのでしょうか。知らなかったのでしょうか? それとも狂っていたのでしょうか! せめて、そのどちらかであってほしい。もしも旧世界の人々が、この事実を知っていたのだとしたら……もしも、人を愛する心を持ちながら、同時に別のところでこんな醜い行為を認めていたのなら、神よ、人の傲慢さは……」
彼女の心の中で、旧世界の2つの側面が交錯する。
クリエトの塔が立ち並ぶ、壮麗で快適な都市空間。春の陽光の中で微笑む、あの幸福な家族の写真。豊かで満ち足りた超科学文明――光の情景。
闇の世界――それは冷酷に行われた無惨な人体実験。平穏な社会の中で、次第に大きくなっていった孤独の影。あの犯罪者たちの顔。うつろな目の人々。
「人の世は、どうして矛盾に満ちて……」
うめくような彼女の言葉。
それに対して悲観的な目で応じ、クレヴィスはつぶやく。
「たったひとつ確かなことは、そんな旧世界が結局は滅びたという事実です。それが神の御意志による結果なのか、あるいは人が自ら辿った道なのか、私には分かりません」
2人のやり取りが、ルキアンの脳裏にぼんやりと響いていた。
【第9話に続く】
※2000年3月~4月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第8話・中編
【再々掲】 | 目次 | 15分で分かるアルフェリオン |
5
書庫を大まかに調査し、いくつかの重要な文献を入手した後、クレヴィスとシャリオは5階に上がった。今度のフロアは主に《ディスク》を保管するための場所になっている。ちなみに2つの階を比べてみると、旧世界では紙以外の記録媒体が高度に発達したにもかかわらず、書物は依然として無くならなかったということが分かる。これは興味深い点であろう。
シャリオは帽子を脱いで手前の机に置いた。四角い神官帽の隣には、ディスクがうずたかく積まれている。金色の円盤が封じられた透明なケース――こんな小さな物の中に、膨大な文書が本当に収められているのだろうかと、彼女はいまだ半信半疑である。
額の汗を軽く拭うと、シャリオは肩から外套を滑らせた。裾が床に着きそうな仰々しい聖衣は、神官の威厳をいっそう高めはするにせよ、何か作業を行うには全く不向きである。この大層な上着を椅子の背もたれに引っ掛けて、彼女は簡素な法衣姿になった。
クレヴィスも沢山のディスクを抱えてやって来る。
「これが最後の分です。シャリオさんのおかげで助かりましたよ。もし私だけだったら、ディスクのラベルがなかなか読めなくて苦労していたところです」
「ご謙遜を。でもこんなにあると、さらに選り分けるのが大変ですわね」
「嬉しい悲鳴と言いたいところなのですが……そろそろルティーニたちとの待ち合わせ時間ですから、思い切って取捨するしかなさそうですね。まぁ、持てるだけ持っていこうと思います」
クレヴィスにしてみれば、宝の山が目の前にあるといったところか。高揚した顔つきでディスクをさっそく整理し始める。
そんな彼をどこか微笑ましげに思いながら、シャリオも作業を手伝う。ラベルに書かれた表題を手早く読み取り、そのディスクが必要かどうか……クレヴィスの指示を仰ぐのだ。
作業の手を休めることなく、彼女が言った。
「わたくし、以前からずっと気になっていたことがあるのです。イリュシオーネに存在する無数の伝説、部分的に知ることができる古代の歴史、あるいは、《沈黙の詩》も含めた予言や神話の類……全体として見た場合に、それぞれの伝承の中身は、互いにどんなつながりを持っているのかと。まだ自分の頭の中でも整理できていないのですが」
「たしかに難しいですね。塔に入る前にルキアン君とお話なさっていたのは、その件だったのですか?」
「はい。失われた世界《プロメッソス》に関する言い伝えと、旧世界に関する史実は、それぞれ全く別々の文脈で語られています。でも両者は本当に何の関係もないのでしょうか? 例えば、ごく安直に申しますと、どちらがより古い時代のことで、どちらがより新しい時代のことだと考えられるのでしょう。まだ10代の頃に、神殿でそんな質問をしましたら……単なる空想にすぎないプロメッソスの話と、歴史上の事実である旧世界の話とを、同じ次元で論ずること自体が馬鹿げていると言われたものです。突拍子もないことだと、お笑いにならないでくださいまし」
2人の間に若干の沈黙があった。クレヴィスは、しばらく無言でディスクの選別を続ける。
「そういえば、クレヴィスさん、ここ……」
話題を少し変えようとしたのか、辺りを見回した後、シャリオがつぶやく。
そのときクレヴィスは、思い出したように口を開いた。
「いや、伝説や昔話にヒントを得て、実際に古代遺跡の発掘に成功するという話も時々ありますからね。馬鹿げているなんてことはありませんよ。私個人としては……プロメッソスのおとぎ話については、そのままの形で信じるのはどうかと思いますが、ひょっとすると一種の寓意ではないかと理解しています。つまり、あの荒唐無稽なおとぎ話の中に、何らかの過去の事実も暗に示されているのだとしたら」
クレヴィスはふと手を止めて、一枚のディスクを見つめる。
「シャリオさん。おそらく今日、この塔を見てから、あなたの疑問はいっそう大きくなったのではないですか?」
「そうなのです。《パラミシオンに旧世界の遺構が存在する》というのは、やはり奇妙な話ですわ。魔物や妖精が棲むという、時の滞った幻夢の世界、つまりパラミシオンの中に……科学の粋を凝らした旧世界の建物が存在するなんて、違和感がありすぎませんこと?」
「確かにそうですね。旧世界の人々は、何のためにパラミシオンに建物を造ったのでしょうか……」
6
にっこり笑って、シャリオは首を振る。
「ふふ。私が考えているのはもっと子供じみたことですの。クレヴィス副長にだから敢えて申しますけれど……このパラミシオンは、すでに旧世界の時代から本当に《あった》のでしょうか。あるいは、おとぎ話の言い方を借りれば、その頃すでにプロメッソスの世界は、目に見える国と虚ろな国へと引き裂かれていたのでしょうか?」
「これはまた、何とも」
机の上に残った最後の未整理ディスクを手にしたまま、クレヴィスはシャリオの顔を見つめた。
「まだ神官見習いだった頃、私は書庫で仕事をするついでに、色々な民話や昔話をこっそり調べていたことがあります。もちろん、当時は興味本位でした。例えば《雲の巨人と悪い妖精》の話(*1)ですとか、《大きな大きな樹》の話(*2)について。そして問題の《プロメッソスの楽園》についても。非常に古いテキストにまで遡り、新旧様々な異本を比較するうちに……私はあることに気が付いたのです」
シャリオの唇にうっすらと光が浮かぶ。意味合いは異なるにせよ、どこか悪女の微笑みに通ずるものがあった。
クレヴィスは、ディスクの詰め込まれた袋を担いだ。呆れたような、あるいは感銘を受けたようにも見える表情で。
「なるほど、一癖ある物語ばかりですね。特に《樹》の話に関しては、実は色々なことが言われています。憶測にすぎませんが、私の《読み》が当たっているとすれば……シャリオさん、あなたは、プロメッソスをはじめとする諸々の言い伝えが、旧世界の崩壊について何か隠された真実を語っているのだとお考えなのでしょう。違いますか?」
「今の話からそこまでお見通しだなんて、さすが副長ですね。ただ、私の最終的な目標は……多くの伝説や民話、そして古代の歴史を手がかりとして、《沈黙の詩》の真意を解釈することなのです。それができれば、旧世界の滅亡についても多くのことが明らかになるはずですわ。なぜなら……」
シャリオは立ち上がり、白の聖衣を再び身に着けた。柔和な雰囲気の中にも、高位の神官たる毅然とした品格が漂う。彼女の背を無言で眺めながら、クレヴィスは耳を傾けている。
「なぜなら、沈黙の詩の一部は、過去の……とりわけ旧世界末期の事実を比喩的に伝えたものであり、また別の一部は、私たちの現世界の将来をも言い当てているからなのです。あれは史実の語り部にして未来への予言詩……私はそう感じます。だからこそ神殿は、あの詩を外部にもらすことを極度に怖れているのではないかと」
いつもの通り、クレヴィスは穏やかにうなずいた。歩き始めた彼は、肩に担いだ大きな革袋を指して言う。
「ひょっとするとこれらのディスクの中に、あなたの疑問を解く鍵が隠されているかもしれませんよ。持ち帰って例の友人に解析を依頼します。しかし元の世界に戻ったところで、今の戦況を考えると、旧世界の謎解きにかかわっている余裕はなさそうですが。仕方がありません……私は学者ではなく一応の戦士ですし、あなたは神官であっても、同時にギルドの船医なのですからね」
2人はディスクの保管庫を出て、ルキアンたちと落ち合うために5階の階段前に向かった。
【注】
(*1)イリュシオーネに伝わる昔話。ごく大雑把に言えば、雲の上に住む巨人が、妖精の娘にだまされて数々の悪事を働くという内容である。この話の詳細については後に明らかにされるだろう。
(*2)同じく昔話。内容はおよそ以下の通り。貧しい農夫の少年が、巨大な種を拾って畑に植えると、そこから天にまで伸びる木が生まれた。その木を彼が登っていくと、雲の上に立派な城があった……。この話もいずれ詳しく語られる。
7
エスカリア帝国軍との対決が刻々と近づく今……オーリウム王国の誇る要塞線《レンゲイルの壁》は、過去にガノリスの軍隊から国を護ってきたのと同様に、帝国に対する最後の切り札となるはずであった。
だがこともあろうに、この鉄壁の防御ラインは反乱軍に掌握されたままなのだ。《壁》の要となる要塞都市ベレナも反乱軍の本拠となっている。同市の奪還を計る議会軍は、皮肉にもレンゲイルの壁の堅固な守りに阻まれ、何らの決定打を与えられないまま、いたずらに包囲を続けるばかりである。
反乱軍の狙いは、帝国軍が到着するまで持ちこたえることに他ならない。あとわずかな時がたてば、エスカリアの先遣隊が国境に達するだろう。そうなればレンゲイルの壁は直ちに明け渡され、帝国の地上部隊は、何の苦もなく王都エルハインへと北上できることになってしまう。
この緊急事態に直面し、議会軍は全力を傾けてベレナ攻撃を決意。失敗を許されない軍首脳部は、エクター・ギルドに支援を公式に要請するという前代未聞の行動に出た。
つまりはベレナ攻略に関する共同作戦――この件について、議会軍少将マクスロウ・ジューラと、ギルドの最高責任者(グランド・マスター)デュガイス・ワトーとの会談が今朝密かに開かれ、盟約が結ばれるに至ったのである。
マクスロウとの話し合いを終えた後、デュガイスはいつもの通り執務室にいた。机の上に整然と積まれた書類は、各地のギルド支部から送られてくる報告や伺いの類だ。かつてはエクターとして名を轟かせた彼も、今では部屋の中で膨大な文書と格闘する日々を送っていた。すでに初老を迎えたとはいえ、豪傑肌で実戦好きなこの男にとっては、いささか退屈を感じる仕事であろうが。
デュガイスは熊のような体躯を椅子にもたせかけ、背後の窓に目をやった。
「その後、クレドールから連絡はないのか?」
両手の拳を握って机を押さえつける。頑丈な一枚板の執務卓だが、彼の体重がかかるとへし折れかねない雰囲気だ。
「今のところはありません。コルダーユ沖でガライア3隻と交戦後、進路をパルジナス方面にとったとのことでしたが、その後は音信不通のままです。ずいぶん遠い所ですからね。ネレイまでの《念信》の中継が遅れているのかもしれません。あるいは……」
隣の机で分厚い帳簿をめくりながら、カリオスが答えた。彼はデュガイスと会話を続けたまま、算盤に似た道具を器用に弾いてはペンを走らせる。ギルド屈指のエクターの1人でありながら、デュガイスの秘書らしき役割も果たしているようだ。事務仕事がずいぶん板に付いている。様々な前歴を持つギルドのメンバーの中には、こうした変わり種も沢山見られるのだ。
「あるいは……なんだ?」
デュガイスは立ち上がって窓際にたたずむ。どこか落ち着いていられないといった様子である。
対照的にカリオスは、椅子に深く腰掛けて平然と作業を続ける。もっとも今に限ったことではなく、いつもこんな調子で淡々としている彼だが。
「私の想像ですが、クレドールはパルジナス山脈を直接飛び越えてくる気かもしれません。もし普通のルートをとって山脈を迂回するのであれば、コルダーユから海沿いに南下するはずです」
「うむ、山を越えてくると? それができたら確かに時間の短縮にはなるだろうよ。だがあのパルジナスは、飛空艦乗りなら誰もが怖れる魔の山だ。いや……奴らならやりかねないか。あり得るな。上手くいけば間に合ってくれるかもしれん」
8
そこでカリオスが言った。
「そういえば、さきほどクレドールから最後の念信が中継されてきたとき、カルダイン艦長から補給に関して追加の要望がありました。ネレイでアルマ・ヴィオを積み替えたいのだそうですが、その時までに飛行型重アルマ・ヴィオを手配してほしいと」
「飛行型……重アルマ・ヴィオか。なるほど、クレドールがいま積んでいる飛行型は、あの元気娘のラピオ・アヴィスだけだったからな。そうだ、昨日からちょうどあの男がネレイにいただろう。サモン何某……時々クレドールと一緒に仕事をしていることだし、よく知った仲のはずだが」
「サモン・シドーさんですか。確か《ファノミウル》に乗っていましたね。あのアルマ・ヴィオは対地攻撃力が非常に高いですから、今度のクレドールの任務にはうってつけです」
カリオスの言葉に頷きつつデュガイスは机に戻った。硬玉でできた、ひと握りもある判を手にすると、次々と書類に印を押し始める。手慣れたものだ。
「カリオス、今日の仕事はわしが1人で片づける。お前は《ミンストラ》に乗り込んで、そろそろ出港準備を始めるよう伝えてくれ。飛空艦は足が遅いから、早いこと出しておかないと議会軍との合流に間に合わなくなるぞ。他の飛空艦……特に第2方面の《ラプサー》と《アクス》も、クレドールが帰還次第、ただちに合流して出動できるよう待機させておいてくれ」
◇ ◇
「では押してみます。よろしいですか?」
三角形のボタンにルティーニが指を近づける。緊張のせいか、あるいは若干の興奮も入り交じってか、微妙に震えている。
その背後ではルキアン、クレヴィス、シャリオの3人が見守る。
ボタンと言っても凹凸のないパネル状のものだが……それにルティーニの人差し指が触れた瞬間、緑色にぱっと点灯した。
「なるほど。エレベータ、確かに動いていますね。ルティーニもルキアン君もよく復旧してくれたものです。これで随分と楽になりますよ」
閉じられたままの扉を満足げに眺めて、クレヴィスは何かを待っている。
数秒後、ベルの音がした。
各階入口にあった自動の扉と同様に、ドアがすっと開く。
「本当に箱……ですね」
扉の向こうにルキアンが目にしたものは、数人の大人が入れば一杯になりそうな小部屋だった。いや、部屋と言うよりは入れ物と形容する方が似合っている。恐る恐る、それでも興味津々に彼は中をのぞき込んだ。
その隣をクレヴィスが通り越し、ごく当たり前といった顔つきで《箱》に乗ろうとする。
「あ、副長?」
心配したシャリオが何か言いかけたものの、クレヴィスの笑みが彼女の言葉を遮った。
「大丈夫ですよ。しかし一応、私が念のために試してみますから、皆さんは外で待っていてください」
クレヴィスがそう言いかけている最中に扉は閉じ、彼の姿は消えた。
「あの……何か動いています。数字が書いてあるランプ、ほら、さっきまで5が光ってましたけど、いま6になりました」
1から6までの数字がそれぞれ書かれた6つのランプが、扉の横の壁に埋め込まれている。ルキアンが見ている間に、5と6のランプが点いたり消えたりした。
そして再びドアが開く。
「ほら、異常なしです。とりあえず皆さんも乗ってください」
幾分とぼけた表情でクレヴィスが手招きしている。
彼の言葉に従って、残りの3人も中に入る。その時の彼らの顔には、何とも言えない面白さがあったが。
「異常……ではないのですが、少し困ったことはありましてね」
扉が閉じた後、お互いに肩が触れ合う狭い部屋の中で、クレヴィスが言った。
「いやですわ。悪いご冗談を」
シャリオとルキアンの目が合った。体を多少こわばらせているルキアンに、彼女は片目をつぶってみせた。
「副長、これで7階に行けるのですね」
ルティーニがそう言ったとき、クレヴィスが扉近くのパネルを指した。
「それが問題なのです。見てください……ここに1から6までの数字が書かれたボタンがありますね。例えば3というボタンを押せば3階に、5なら5階に行けるわけです。しかし、7と8という数字はどこにも見あたりません」
「では、どうやって?」
「落ち着いて考えてみましょう。確かにこのエレベータのどこを探しても、7階という表示は見あたりません。だからといって、別に7階に行けないと決まったわけでもないですよ。ただでは最上層に入らせてくれないにせよ、少し工夫すれば……」
【続く】
※2000年3月~4月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第8話・前編
【再々掲】 | 目次 | 15分で分かるアルフェリオン |
至福への扉を閉ざしてしまったものは、
人の罪それ自体よりも、むしろ
その咎に気づかぬ傲慢な心だったのです。 (ある預言者の手記より)
◇ 第8話 ◇
薄茶色の水面が微かに揺れる。
白いカップの中で、天井の明かりがゆらゆらと波打っていた。
淡い若葉で縁取られた素朴な器は、メイのお気に入りだった。彼女はそれをぼんやりと眺めながら、医務室の椅子にひとり腰掛けている。
先ほどシャリオが申し訳なさそうに出て行ってから、部屋にはメイの他に誰の姿もない。賑やかな看護助手フィスカ・ネーレッドや、時折クレドールにも乗り組むギルドの医師ピューム・エアデンも、今回は同行していなかった。
シャリオが入れてくれた薬草茶を、メイはそっと口に含んだ。カップを手にしたまま僅かに考え込んでいたが、やがて彼女らしく一気に飲み干す。
ほどなく後、医務室の扉の閉まる音がした。
廊下を進みつつ、メイは両掌で頬を軽く叩いていた。
「気合いが足らないな。あーぁ、でもちょっと腰が痛いんだ、これがまた」
独り言とは思えぬ大きな声である。疲れが少し取れたせいか、いつもの元気が彼女に戻り始めている。
メイは青紫のクラヴァットをふんわりと結んだ。歩きながらいい加減に巻き付けたようにも見えるが、襟元をさり気なく飾る結び方は、微妙な崩れ具合のおかげでかえってお洒落に感じられなくもない。
白いエプロンと三角巾をした中年の女性が、向こうの方からワゴンを押してくる。肉付きのよい大柄な女だった。彼女が手を振ると、メイもそれに応えて足早に歩み寄っていく。
「マイエおばさん! こんなときに後かたづけなんて大変ね。お疲れさま」
「そりゃ大変だよ。いっとき、明かりは消えるし……それに昼間の戦いの後だからね、エクター連中は大飯食らうし」
血色の良い真ん丸の顔に、大作りな目鼻立ちで笑っているのは、クレドールの料理長マイエ・エゼヴィルだった。名字から分かる通り、彼女はレーナの母なのだが、それにとどまらず船のクルー全ての母親役ともいうべき、太っ腹な貫禄を身につけている。
なお、平均的に早婚であるイリュシオーネにしては珍しく、娘と年がかなり離れているのは、マイエが再婚後にレーナを産んだからだった。
「大食らいって……どうせまた、バーンでしょ? 脳味噌は小さいくせに、胃だけは人の3倍ぐらいあるんだから。まったくもう」
メイのきつい冗談を聞くと、マイエは安心した調子で言った。
「いつものメイらしくなったね。あんたがずいぶん疲れてるだろうって、心配してたんだよ」
「ありがとう。私は、この通り元気……」
2人の後ろから靴音が近づいてくる。珍しく忙しそうな様子でランディが歩いていた。手だけで軽く挨拶して、通り過ぎようとしたランディ。だが彼は思い直したように立ち止まり、メイに尋ねる。
「おや、もう寝てなくていいのかい?」
「……」
いつものお調子者ランディとは、どこか感じが違う。語調も変に丁寧だ。
彼がやって来た途端、メイもぎこちない態度をとった。
気まずい空気が漂い始める。
メイはツンとした横顔を見せたまま、決して正面からランディに向き合おうとしない。
「大丈夫です。それじゃあ、マイエおばさん、頑張ってね」
あっさり言い捨ててメイは歩き去った。
遠ざかる彼女の背中を、残された2人が見つめる。
溜息の後、マイエが小声で言う。
「やれやれ。マッシアの若様も相変わらず嫌われたもんだねぇ。でも、あの子も本当は分かってるんだよ。頭では分かっていても……自分の気持ちにどう申し開きをしたらいいのか、迷ってるのさ。若様にとってはとんだ迷惑かもしれないけど、もうしばらく我慢してくれないかい。根はとても優しい娘なんだ」
「あぁ、俺の方としては構わないんだが。彼女……とことん頑固だからねぇ。いや、最近はさすがに《許す》だの《許さない》だの言わなくなったがね、それだけでも大した進歩だ」
彼の言葉に頷きながら、マイエは手鼻をかんだ。目が少し潤んでいるようにも見える。
「それは良かった。でもあの子、ご両親を目の前で殺されちまったんだろ。詳しく話してくれないけれど、お姉さんの件だってあるしね。そりゃ、いつまでも、あの《革命》を憎いと思い続けるだろうよ。あれからとっくに十年以上経つけど、あたしやカルだってさ、ゼファイアのことを忘れられないからね。今でも時々、可愛そうな王女様の夢を見るんだよ……」
2
《中央管理室》
青白く、熱もなく燃える魔法の炎をかざすと、その部屋の名前が読み取れた。
他の場所に比べて頑丈な扉が、重々しい金属光を放っている。
「幸運なことに、このドアも《電気の鍵》や《言葉の鍵》を使っていないようですね。でもルキアン君、気をつけてください。何か仕掛けがしてあるかもしれません」
ルティーニの注意に従い、ルキアンはドアの周囲をじっと観察してみた。これと言って変わった点はなさそうだが、油断はできない。子供の頃、冒険者くずれの老人が自慢げに話すのを聞いた――不用意に触れた途端、こちらに向かって沢山の矢が飛んでくるような扉も、世の中には存在するのだと。
静寂の中でルキアンの深い呼吸が聞こえる。それに続いて短い詠唱があった。
「自在なる鍵をもって、我は開く……」
しかし錠が解ける音は聞こえない。
あれこれ考え込み、扉を眺め回す彼の後ろで、ルティーニが苦笑した。
「落ち着いて。もしかすると、もともと鍵が掛かっていないのではありませんか?」
ルキアンはそっと手を伸ばし、眉間に汗する心持ちでノブを回してみた。
手応えが軽い。そのまま最後までひねってみる。
「……そのようですね」
振り返ってルキアンも笑った。
「でもルティーニさん、どうしてよりによって、こんな大事な部屋に鍵が掛かっていないのでしょう」
「さぁ……そこまでは。しかし我々にとっては好都合です。入ってみましょう」
「はい。あっ?!」
ルキアンは何か堅い物につまづいた。突然のことで慌ててしまい、彼はそのまま暗い部屋の中に投げ出され、尻餅を付く。
「大丈夫ですか? ルキアン君」
「え、えぇ。のろまなわりに、そそっかしいんで……よく転けるんです。はは」
ルキアンの頭上あたりで、主から離れた魔法の炎がふわふわ漂っている。
思わず吹き出してしまったルティーニだが、彼はその明かりの下に、こんな場所にあろうはずもない物を目にした。
「ルキアン君……きみの足元、ほら……今、君が座っている下に……」
ルティーニの表情が一転して張りつめる。ルキアンはわけが分からず首を傾げていたが、起きあがろうとして床に着いた手の先に、件の物を見つけて飛び上がった。
「骨? 人の骨が?!」
緩慢な時の中で、物言わぬ躯はすでに白骨と化していた。今日まで人知れずうち捨てられていたのだろう。安らかな眠りと言うには無惨に過ぎる。
少し落ち着いてみると、次第に哀れみの情がルキアンの心に芽生えた。彼が最初に驚いたのは、別に骸骨を恐ろしいと思っているからではなく、あくまで突然に……しかも場違いにそれが現れたせいにすぎなかった。イリュシオーネでは、人の死は決して遠い世界の出来事ではない。道端の草むらに朽ち果てた髑髏さえも、日常の片隅に潜むひとこまなのである。
「これは、ただ事ではなかったでしょうね。言うまでもなく何らかの事故……いや、事件のせいで命を落としたのだと思います。明かりをもう少し近づけてもらえますか」
恐らく旧世界人のものと思われる遺骨の傍らに、いつの間にかルティーニがしゃがみ込んでいた。ごく冷静な彼の様子に多少の驚きを覚えつつ、ルキアンはおずおずと手を差し伸べる。魔法の灯火が床付近を照らし出す。
3
「クレドールに来る以前、私はある小さな国に召し抱えられていました。その頃、今よりもっと若僧だったにもかかわらず……オーリウムの大学で官房学とともに法学を修めた経歴を買われ、宮廷法院の末席に名を連ねたこともありましてね」
何くわぬ顔で肋骨の一本を手に取りながら、ルティーニは静かに呟いた。
「時流から取り残された小国のこと、役人の大半は世襲の無知な貴族で、ほとんど学識など持ち合わせていない。法に精通している人間はごくわずかでしたから、新参者にすぎない私までが、君主の宮廷で仕事をするかたわら、よく請われて地方の裁判所にも足を運んだものです。特に辺境の方はひどい有様でした。当局が無力であるのをよいことに、山賊や大規模な強盗団が好き勝手に横行して、一方的に事件が増えるばかり。こんなふうに、遺体の検分にも幾度となく立ち会って……」
ルティーニの背中はどこか寂しそうで、また何か言いたげにも見える。
何度も口ごもった後、ルキアンは彼に尋ねてみた。
「あの、失礼ですが、ルティーニさんはどうしてクレドールへ? あ、立ち入ったことをうかがってしまって……お気を悪くなさらないでください」
「さぁねぇ、なぜでしょう。実のところ私自身も、時々よく分からなくなる」
ルティーニは微かな笑みをもって応えた。これまでの堅苦しい表情や、鋭い眼光とはかなり違った印象を受ける。
「でも、どうしてそんなことを聞くのです?」
仰ぎ見たルティーニの目に、じっとうつむくルキアンの姿が映った。思い詰めた顔つきで、少年は何かを真剣に考えていた。
「いえ、その、何と言ったらよいのでしょう……未来について、色々と迷ったりしているものですから」
「迷っている、と……。そうですか。でも結論は急がない方がいい。私の場合、強いて言えば、官職を捨ててクレドールに走ったのは、自分のわがままのせいだったのでしょうね」
ルティーニは立ち上がって、今度は薄暗い室内の様子を探り始めた。
飛空艦のブリッジでよく見かける、多数の計器類を備えたコンソールが並ぶ。入口の正面に当たる壁際に1列、少し間隔を開けてさらに2列。そして人の背丈よりも大きな鉄製の棚が、部屋の両サイドを埋めている。
ルキアンは人骨の方がとても気になっていたが、ここはひとまず、ルティーニの手元を照らすために一緒に付いて回った。
「わがまま、ですか?」
「そう。獅子の尻尾になることを潔しとせず、かといって、小さな鳥のくちばしになってみたものの、手狭な世界に限界を感じた……中途半端で勝手な男の、わがまま、あるいは些細な理想のためだったのです」
すぐには言葉を継ぐことができず、様々な思いを巡らすルキアン。
そんな彼に、ルティーニがこう言った。
「でもね、ひとつだけ確かなことがありましたよ。ある事件の関係で、初めて……偶然にクレドールの皆さんと行動を共にしたとき、私はなぜか思ったのです。《やっと会えた》ってね。理詰め人間の私にしては、一生で一番大きな選択を全くの直感に頼ったことになるのですが。まぁ、結果が良ければね。でも奇妙なものだ。今しがた会ったばかりの君に、こんな昔話をする気になるなんて。しかし艦長や副長、メイやバーンに初めて会ったときも、そう言えば今と似たような気分だったかもしれない。変ですね」
4
室内がぱっと明るくなった。
壁の辺りを調べていたルティーニが、あるスイッチを発見し、それを押したのだ。ルキアンはふと思い出す。そう言えば、以前に師のカルバと遺跡を探索したときにも、同様にして点灯させていたように記憶している。
「いやいや、ルキアン君、残念ですが雑談をしている余裕はありません。この骨が出てきて、ますます妙な雰囲気になってきましたからね。やるべき事を手短に片づけ、副長たちのところに早く戻りましょう」
一体どこで覚えたのか、ルティーニは手慣れた様子でコンソールを操作し、それらがまだ機能していることを確認した。そうかと思えば、近くの引き出しを探って鍵や資料等を盛んに取り出している。
手堅い実務家にして、さらにはシャリオほどではないにせよ古典語にも通じ、クレヴィスに及ばないとはいえ、旧世界の事情にも色々と詳しいルティーニ……器用貧乏で半端な人間という一言ではとても片づけられない、とルキアンは感じた。
「ところでルティーニさん、この遺体……」
「えぇ。恐らく何者か、あるいは何かに命を奪われたのでしょう。所々の骨が不自然に砕けているし、頭蓋骨も胴体からあんなに離れたところに。簡単に調べてみた限りでは……妙な話ですが、もの凄い力で首をねじ切られた可能性があります。パラミシオンという場所柄、もしかすると魔物の類の仕業でしょうか。しかし、こんな建物の中に魔物が入り込んだとでも?」
ルキアンの背中を冷たい物が走った。妖気にも似た例の嫌な波動を感じているだけに、不気味さはなおさらだった。
そんな彼の気持ちを察するかのごとく、ルティーニが目を細める。
「そんなに心配することはありません。この人物が殺害されたのはずっと昔のようです。今ではもう、そんな危険はとっくに歴史の彼方でしょう」
わざと肩をすくめてみせたルティーニ。彼の手には、長さ10センチ足らずの薄板状の物がいくつも握られている。不思議そうに見つめるルキアンに彼は言った。
「あ、これですか? 《電気の鍵》を開けるのに必要な、通称《キーカード》という物です。こんな大切な品が無造作に置かれたままだなんて……本当に突然、ここで何かの事件が起こったのでしょうね。それから管理用のマニュアルも見つけましたが、これを読めばエレベータの動かし方も分かりますよ。ちょっと待ってくださいね。どうやらここで作動させるらしいです」
ルティーニは制御卓の前に立って分厚い書類をめくる。驚くべき事に、あの難解な古典語を手早く流し読みしているようだ。ルキアンは感嘆の眼差しで、彼の一挙一動を見守った。
【続く】
※2000年3月~4月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第7話・後編
【再々掲】 | 目次 | 15分で分かるアルフェリオン |
10
一冊の本を注視したまま、シャリオは身じろぎひとつしなかった。細腕にはやや重そうな、革張りの分厚い書物である。
開かれたページ……。
そこには古典語の文章を従えた写真が並ぶ――この《塔》と同様の形をした、だが比較にならぬほど高い建物が林立する街。無数の高層建築の間を縫うようにして、透明な管が複雑に走っている。宙に浮かんだ乗り物が、そのガラス状のパイプの中を移動する様子も見えた。
「これが旧世界の都市なのですね」
街並みは画一的な雰囲気だが、良く言えば整然とした秩序をもって建設されていた。《クリエトの石》の灰白色の肌ばかりが目立つ中、所々に緑も植え込まれている。精巧な積み木細工を思わせる街は、ある種の機能美を備えていた。ただしそれは極度に人工的な美しさであって、自然の匂いをほとんど意識させることがない。
ともかく今の世界に生きるシャリオにとっては、現実味のない眺めであった。
「クレヴィス副長、ご覧になって。去年タロスで発明された《写真術》というのは、旧世界にもあったのですね。古代の街の様子……とても綺麗に写っていますよ。今の時代の写真とは全く質が違います。まるで本物みたいな色まで着いているのですから」
数冊の本を抱えてクレヴィスがやって来る。
立ち並ぶ本棚の谷間に彼らは居た。おそらく図書室であろう。その広さは玄関にあったホールにも劣らない。幸い照明も機能している。
「確かに……。こんなに細かい部分まで写すこともできるのですか。おかげで街の様子がよく分かりますね。大きな書物ですが、それは?」
開いたままの本を、シャリオは近くの棚にひとまず置く。
「図版を豊富に使った事典らしいです。今のは《都市計画》という見出し語のページですが、他にも興味深い絵図がいくつも出てきますの。時間がないというのに、いつまでも眺めてしまいそうですわ。塔のかつての住人には申し訳ないですが……いただいて帰って、後でゆっくり拝見することにします」
シャリオはご満悦そうに口元を押さえて、弾んだ笑い声で言う。
「旧世界の写真もさることながら、シャリオさんがそんなお顔で話されるのも珍しいですね。初めて見ましたよ、私は」
「わたくし自身もびっくりしています。クレドールに来てから3ヶ月にしかなりませんのに、どんどん違う自分を見つけ出すことができて……この歳になってからでも、人は大きく変わることができるものなのですね」
小さな吐息の後、シャリオは感慨深げに呟いた。
彼女の言葉にうなずきながら、クレヴィスは本をめくっている。
「心の柔軟さときっかけさえあれば……人が生まれ変わるのに早い遅いは関係ないのだと、カルも時々言っています。ただし年齢を重ねるほど、いっそう多くの勇気も必要となるのかもしれませんが。いや、つい余計なことを。それに貴女はお若いではありませんか」
「まだ若いとおっしゃるのは、歳の割には、という意味ですかしら。ふふ。でも、お褒めくださったものと受け取らせていただきますわ」
「おやおや、シャリオさんも口がお悪くなられたものです。それはそうと、ルキアン君たちの方はどうでしょう」
いまクレヴィスとシャリオは、4階で見つけた書庫を探っている最中である。
結局2階に目立った物はなかった。同様に簡易な研究室が並ぶだけの3階についても、先を急ぐ4人は通り過ぎることにした。そこで持ち時間が半分近く過ぎてしまっていたので、彼らは2組に分かれて建物内部を調査することに決めたのだ。
クレヴィスとシャリオは4階・5階を、ルキアンとルティーニは6階・7階をそれぞれ分担する。倍の速さで探査が進むことになったのだが……ざっと見て回るだけにせよ、8階までたどり着けない可能性も高い。
11
「何でしょう、今度は?」
6階に向かう階段。その踊り場に差し掛かったとき、2階への階段の場合と同様に、ルキアンは何らかの展示品が収められたガラスケースを発見した。
「アルマ・ヴィオについて……かな」
今度はルキアンにも多少の意味が分かるものだった。ケースの中身は、汎用型アルマ・ヴィオの内部をごく簡単に描いた解剖図である。特に《ケーラ》、つまりコックピットにあたる部分が赤色で強調されている。そこに向けて欄外から矢印が引かれ、古代文字でこう書かれていた。
《スレイヴ・コア》
ルキアンはもちろん、博識なルティーニでさえ、この聞き慣れない語の意味するものを知らなかった。
「こんな言葉は私も初めてです。恐らくさきほどの《マキーナ・パルティクス》と同様、旧世界の驚くべき発明を記念した展示品かもしれません」
「そうみたいですね。えっと、何々、ケーラの中のエクターが……遠隔……あれ?……組織……注入?……頭が、いや、脳と訳すのかな? 何だろう……よく知らない単語がたくさん出てきて、僕には難しすぎます」
ルティーニはケースの中を自分で確かめようとはせず、とりあえずルキアンを促した。
「後で副長かガダック技師長に聞けば、何か分かるかもしれません。ここはひとまず急ぎましょう」
スレイヴ・コア――この意味不明の言葉について、現時点ではルキアンもほとんど注意を払わなかった。それよりも目先の階段を登りきることが大切だった。
6階はもう目の前だ。薄暗い廊下の向こうで、赤い光がぼんやり輝いている。
◇
階段を登り切ったとき、ルキアンの足が不意に止まった。
彼が辺りの気配を窺う仕草を示したので、ルティーニは心配そうな顔つきで尋ねる。
「どうしました? ルキアン君」
「え、あの……」
ルキアンは、うわの空で天井に視線を走らせている。
格子状になった鉄蓋の奥に、通風口の暗い穴が見えた。
――あの風抜き穴から? 気のせいかな。でも、たしかに……。
「いえ、僕の勘違いみたいです。すいません。急ぎましょう」
そう言うとルキアンは薄暗い廊下に向かって呪文を唱えた。
彼の掌に魔法の灯りが浮かび上がる。
下の階とは異なり、6階は影に覆われていた。もっとも、設備が機能していないというわけではなさそうだ。クレヴィスが言っていた《空調装置》も動いていると思われるし、どこからともなく、何かが回転しているような低い機械音も響いてくる。主な照明が落とされているだけなのだろう。
12
前方の所々には赤や緑の光も浮かんでいた。薄暗い建物の中で色つきの淡い光がゆらめく様は、それが完全に人間の技術から生み出されたものだとはいえ、仄暗い夢幻の世界を連想させる。
風が……。
もちろん閉ざされた屋内で、突如として空気が動いたわけではない。
場の雰囲気が揺れた、とでも表現すればよいであろうか。卵とはいえ魔道士であるルキアンは、何か超常的な感覚により、その現象を風のイメージとして把握したのだ。彼の意志とは半ば関係なく。
――やっぱり感じる。さっきまでは何でもなかったのに。
軽く背中を押され、ルキアンは我に返った。
「見取図がありますよ。ほら」
ルティーニの手が指す方向に一枚の金属板が掛かっていた。近づいて見ると、銅製らしきプレートに6階の全体図が彫り込まれている。
「いま私たちがいるのは、この階段のところです。多くの部屋がありますが、廊下を真っ直ぐ行って右に曲がると、ここの少し大きい場所、《中央制御室》の前に出ます。恐らくこの部屋から、各階の照明や例の《エレベータ》を目覚めさせることができるのだと思います。鍵の類も手に入るかもしれません。とりあえずそこへ向かいましょう」
「あの、実は……」
ためらいがちに話を切り出そうとするルキアン。しかしルティーニの言葉がそれを遮った。
「もうひとつ気が付きましたか? この図のどこにも、上りの、つまり7階への階段がありません。これはいったい……」
「すいません、その7階のことなんですが」
やや大きめの声でルキアンが告げる。
「この階に来たとき、上の階から、その……あまり言いたくありませんけど、嫌な波動を感じました。最初は気のせいかと思ったのですが、今も伝わってくるんです。冷たい空気が天井から染み出てくるように、チクチクと肌を刺して」
ルティーニの広い額に汗がうっすらと浮かんでいる。ルキアンの言葉に対し、彼は神妙な表情で答えた。
「なるほど、そうだったのですか。魔道士の君が感じたというのだから本当なのでしょう。科学万能の建物の中にいるので、つい忘れていましたが……そもそもここはバラミシオンの真っただ中、どんな超常現象が起こっても不思議ではありません。そう言われてみると、今までの階に比べて、なんとなく嫌な感じの雰囲気に変わったような気がしますね。単に場所が暗いせいかと思いましたが。急いで中央管理室に行った後、大事をとって、副長やシャリオさんのところに引き返しますか。私たちだけで7階に行くのは避けた方がいい……いや、どうやって上がればよいのかさえ分からないですからね」
13
幸せそうな家族の写真があった。
噴水の前で、幼い子供が母親らしき女性と遊んでいる。
背後の木々には、淡いピンク色の花が可憐に咲き誇る。
季節は、いつだろう……。
光の中で2人が戯れる様を、若い父親がベンチに座って見ていた。
彼は赤ん坊を抱いて、不器用な手つきであやしている。
遠くの方には、やはり無数の《塔》がそびえる。
灰色の街に咲いた緑の花のように、
クリエトの世界に開けた――小さな公園。
それを無言で見つめていたのはシャリオだった。
「旧世界のことが、ますます分からなくなってきました」
読みかけの本を閉じて彼女は言う。
「高度な文明、そして満ち足りた人々……このような世界が滅びの道を辿った理由など、表面的にみる限り見当も付きません。しかし強い光のあるところには、まさにその光あるが故に、いっそう色濃き影もまた生まれる……それが世の習いというものです。その影を知ろうとしない限り、私たちの現世界もいつか、旧世界の過ちを繰り返すことになるとも限りません。でも、何が……」
クレヴィスはしばらく黙って書架を眺めていた。やがて彼は、近くの机の上に取り置いた一冊の本を開き、シャリオに手渡す。
「あの《ステリア》をはじめとする恐るべき超魔法科学の数々が、旧世界を滅亡寸前にまで追い込んだというのは、隠れた歴史が漠然と教えるところです。その破局とどう関係しているのかは分かりませんが……あなたのおっしゃる《影》は、実際、安逸の日々の中に色濃く現れていたようですね。これはさきほど偶然に見つけた書物なのですが……もしかするとこの本の中に、あなたの直感を確信へと変えるための鍵が、わずかながらも隠されているかもしれませんよ」
粗末な紙表紙の扉をシャリオが開くと、こんな書名が記されていた。
《病について》
他の文献に比べて紙質もあまり良くない。それでも今の世界の本と比べると、はるかにきめ細やかだったが。
若者、都市の風景、子供、おそらく教室と思われる部屋。
色々な写真が並んでいる。旧世界のものにしては、どれも白黒である。
頁をもう少しめくっていくと、いくぶん殺伐とした写真も現れた。
死体のない殺人現場、焼けた建物、何らかの事件に使われた凶器。
いつの時代でも全くの平和などあり得ないのだと、シャリオは思った。
章から章への変わり目にあたるせいか、紙面の半分以上が空いているページがあった。そこに小さい字で詰め込まれた落書き……。
なんかむかつく。
本当は僕は知ってる。
この国は、たぶんやばいんじゃないかな。
どうしてなのかも、だいたい分かる。
本当は大声でわけを言ってやりたい。
でも言えない。そんなことしたら、僕は生きていけなくなる。
14
この落書きを見た途端、今まで何気なく眺めてきた写真が全く違ったものに見え始めた。
街ゆく人々の多くは無表情だった。眼鏡を掛けたエリート風の男は、優しそうな女性と手を取り合っていながらも、前しか見ていないような瞳で、口元にだけ変に子供じみた笑みを浮かべている。
何人かの若者たちは、むくれたような、無指向性の敵意を持った目つきをしていた。しかしそれは、この年頃にありがちなガラスの刃のごとき憤懣とは少し違っている。そんなに美しいものではなかった。正直言ってならず者を思わせる風体の若者たちや、街娼顔負けの格好をした娘たちの多くが、実はごく普通の少年・少女たちなのだと知り、シャリオは愕然とする。
反面、凶悪事件の犯罪者たち――そのうち何人かは、解説文を読まなければとてもそうは見えなかった。良い表情の写真をわざわざ選んで使っているはずはないであろうが、彼らの顔は真面目で、時に善良そうにすら感じられる。最初は偶然かと思ったが……多少の誇張や書き手の取捨選択のせいもあれ、見るからに凶暴そうな者や狡猾そうな者よりも、逆にその種の堅物っぽい人物が目立つように見える。
解説の一節にはこう書かれていた。
《……の惨殺事件は解決。またもや、犯人は地味でおとなしい人間》
シャリオには、この言葉が果てしなく不気味に、それ以上に痛ましく思えた。
何かがあべこべであるように彼女は感じた。だがこれは趣味の悪い道化芝居ではなく、どうやら事実らしい。
いたたまれなくなって、シャリオはもっと別の写真を探そうとする。
母の手に抱かれている幼児がいた。
わずかな間、彼女はそれを見て落ち着きを取り戻した。けれどもよく見ると、子供の目は人形にも似た不自然な澄み方をしている。その子はぽっかりと口を開け、宙を眺めていた。最愛の母親がそばにいるのに、そして機嫌が悪いわけでもなさそうなのに、少しも笑っていないのだ。
平凡さと異常さ、淡々とした日々と狂気とが、いびつに同居する世界。全てごく普通に見えて、それでいてあらゆる物が何かおかしい。
だがシャリオが極端なまでに呆然としているのは、写真の内容自体のせいとは必ずしも言えず、また彼女の感受性の強さのせいでもなかった。《もっと深い理由》があるのだ。
15
待ちかねていたようにクレヴィスがつぶやく。
「それらの写真を見て、準首座神官のあなたが何も思い出さなかったはずはありませんね。そう、《沈黙の詩(うた)》は本当のことかもしれません」
普段は伏し目がちのシャリオが、急に大きく眼を見開いた。
当惑と抗議、あるいは怖れが入り交じった、何とも言えない表情だった。
彼女は慌てて背を向け、よそよそしく答える。
「何のことかしら? 私にはさっぱり……」
しかしその肩や指先には、動揺の色がはっきり浮かんでいる。
と、クレヴィスの顔がいつにもまして優しくなった。微笑みと共に彼は言う。
「安心しましたよ、シャリオさん。貴女は嘘を付くのがとても下手な方なのですね」
言葉を失っていたシャリオは、しばらくして軽い溜息を付いた。その瞳にも輝きが戻っている。いくぶん自嘲的にも見えるが。
「意地悪な方。ふふ、副長にはかないませんわね。今の私にとっては、クレドールの仲間こそが本当の友なのですから……騙せるわけがありません。自分はもう神殿の人間ではないと思っておりますし。分かりました。《詩》のことをお話しします。写真のいくつかを見ていたとき、私もあれを思い出さずにはいられませんでした。恐ろしいことです」
「それには及びません。あの詩については神殿の上層部の者しか知らないと、あなたはお思いかもしれませんが……実際には、多少なりとも物事の裏を見ている魔道士の間では、隠れた常識に近いものなのです。私もあれを全て暗唱できるどころか、原典の写本さえ入手しています。ですから、そんなに後ろめたいお気持ちになられる必要はないですよ。いまは時間もないことですし、船に帰ってからそのうち暇を見つけて……私の方からお話ししましょうか。それなら、あなたが自ら神殿の禁を破ったことにはならないでしょう?」
◇
《塔》は次第に本当の姿を現し始めつつある。
旧世界の光と影の真実が、
この静まり返った建物のどこかに潜んでいるかもしれない。
二重の意味で。
【第8話へ続く】
※2000年2月~3月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第7話・中編
【再々掲】 | 目次 | 15分で分かるアルフェリオン |
6
奥の机ではシャリオが妙な物を手に取っていた。透明な薄いケースの中に、金色に光る円盤が封じられている。掌に乗るぐらいの大きさだ。彼女はそれを窓際で光にかざしてみたり、軽く振ってみたりする。
その様子を指してクレヴィスが言う。
「あっちでシャリオさんが持っているのが……古典語で《ディスク》と言う物です。紙の代わりに文章や絵を記録しておくことができます。動く絵や音までも取り込んでおけるそうですが。あのディスク一枚で、ちょっとした書庫に匹敵する情報を保管できるというのですから、旧世界の技術は大変なものです。ディスクを知恵の箱に入れると、記録されている内容を閲覧することができるんですよ」
ルキアンも、机の上にあったディスクを試しに調べてみた。
「光る円盤には何も書いてありません……目に見えないぐらい小さな字で、びっしりと文章が記録されているのでしょうか」
「いや。文字をそのまま書いてあるわけではないですよ」
クレヴィスは笑って首を振ると、自分もディスクを取って鞄にしまい込んだ。
珍しい品を持ち帰るためであろう、彼は皮製の大きなザックを背負っている。
「実はオーリウムの某遺跡に、今でも動く知恵の箱が一台だけあって、それを使うとディスクを読むことができるのです。その設備を管理している学者は私の友人です。元の世界に帰ったら、彼に頼んで解析してもらいましょう」
「なるほど。いくら貴重な情報源とはいえ、重い本をたくさん拝借していくのは骨が折れますが、こんな小さな物なら楽ですね」
ルキアンも若干のディスクをかき集めて懐に入れようとする。表面に張られたラベルに題名が書かれているのだが、ルキアンにとっては……いや、現世界の大半の人間にとっては意味不明のタイトルばかりであった。
知恵の箱とディスクという便利な道具があるためか、古典的な記録媒体――つまり紙はあまり見あたらない。それでも部屋の所々に、若干のメモ書きが散らばっている。
ルティーニはその一枚を手に取った。
「うむ……よく分からない図があります。直線や二重線、あるいは六角形のようなもので、沢山の記号がつなぎ合わされていますよ。何かの構造を示しているみたいです。走り書きがしてあります……全部は読めないですが、《分子》とか《細胞》とか、そういった単語が出てきます。アルマ・ヴィオの体組織に関することでしょうか?」
と、不意に彼は考え込む。
「おや? 変ですよ。この紙、いやに新しいとは思いませんか。いくら時間の流れ方が遅いとはいえ、相当の年月が経っているはずです。それなのにほとんど変色していません」
「旧世界の紙には、百年以上変質しないものもあると聞きます。しかし、それだけではないでしょう。おそらくは……」
クレヴィスは壁の上部と天井をあちこち眺めて、何度かうなずいた。
「照明やドアが動いていることからも分かるとおり、この階の設備は現在も機能し続けているようです。ですから、高度な《空調装置》……つまり、ここの湿度や温度を一定の条件に保つ仕組みが、働いているせいもあると思います」
時計を気にするルティーニを見て、クレヴィスは言う。
「雰囲気から察するに、たいした物はなさそうですね。部屋の管理も甘いですし。他の研究室も似たような状況かと思います。ディスクの内容を後で確認しないと詳細は分かりませんが、書類から判断する限り、おそらく主に生物……それも人間や獣の細胞に関する分子レベルの研究をしていたようです。魔術的な角度からの記述はあまり見られないですから、アルマ・ヴィオは問題になっていなかったかもしれませんね。あと幾つかの研究室を調べたら、2階はこの程度で切り上げて上に進みましょう」
7
オーリウムの国土の多くは森林や丘陵によって占められている。その中にあってガノリスに近い南西部には、例外的に広い平野が開ける。この沃野に至る諸街道の合流地点として栄えてきたのが、王国最古の都市ミトーニアである。
同市はかつての都として知られる。百数十年前、隣国ガノリスの軍事的脅威を避けるために、現在の首府エルハインへと遷都が行われてからも、ミトーニアの発展は続いてきた。
だが現在、ミトーニアは議会軍にとって頭痛の種となっている。同市を含む平原一円を領有するナッソス公爵家が、反乱軍側に付いたからである。
反乱軍の拠点・要塞都市ベレナと、ミトーニアは比較的近い位置関係に置かれている。両市をつなぐ街道はナッソス家および反乱軍によって制圧された。この補給線を利用して、王国有数の商業地ミトーニアに集まる豊富な物資がベレナへと供給されているのだった。
ミトーニア近郊。市壁も何もないごく小さな町に、突然の歓迎されざる来客があった。
町の中央の広場にそびえる影、それも1つや2つではない。静かな赤煉瓦の家並みを、4体のアルマ・ヴィオの巨体が威圧している。それらの足元では罵声が飛び交い、おそらく威嚇にすぎないであろうにせよ……銃声も聞こえた。
アルマ・ヴィオは全て同じ種類で、外見的にはどことなくバーンの《アトレイオス》を想起させる。だが重騎士のような風格を持つアトレイオスに比べて、甲冑部分がかなり貧弱なようだ。手にしている楯も鉄塊にすぎず、光のバリアで形成されたMTシールドではない。何よりも体の色が違う。《蒼き騎士》アトレイオスに対して、こちらは象牙色とマホガニーで塗り分けられている。
ある意味、似ているのは当然だった――この《ゾーディー》という名の機体に独自の改良を重ね、アトレイオスが作られたからである。
ちなみにゾーディーは議会軍の汎用型アルマ・ヴィオだが、やや型が古くなっており、昨今では次期主力タイプの《ペゾン》に交換され始めている。そのため民間に古い機体が下げ渡されることも少なくない。
エクターと思われる男がゾーディーの足元で何かわめいているけれども、彼は軍の制服を身につけていない。見た感じにも軍人らしい厳粛さに欠けていた。下手な髑髏の絵が背中一杯に描かれた皮の上着、真っ赤に染めた頭……顔つきも露骨に野盗風だった。彼らのゾーディーも恐らく軍からの流出物である。
町の有力者と思われる人々を前に並べて、男は盛んに騒ぎ立てている。
「いいか! 早く金と食い物をもってこねぇと、町ごとぶっつぶすぞ。この辺りはどのみち議会軍に火の海にされちまうんだ。俺たちがこのボロい家をみんな叩き壊そうが、別におとがめはないってもんさ」
反乱軍対策で当局が手一杯になっているのを良いことに、最近、この種の悪党が急増している。その大半は傭兵や冒険者を生業とする流れ者のエクターである。残念ながら、ギルドの中にも似たような振る舞いに及ぶ者がいないとは限らないが……。
何しろアルマ・ヴィオが4体もいるのだ。本当に町を瓦礫の山にされてしまってはたまらない。町のお偉方は理不尽な要求に顔をしかめる。
8
別のエクターがゾーディーから降りてきた。ウニのように尖った金髪頭の若者だった。先程の男と同じ骸骨のマークが入った胴着を身につけている。
「兄貴、調子はどうだい?」
「おう、上々だ。金と食いもんをせしめたら、とっととずらかろうぜ」
兄貴分の方が、にやつきながら言う。
「金と食い物ときたら、あとは女が足りねぇな……そこのねぇちゃん!」
通りすがりの町娘を指さして男が叫んだ。
うら若い女は、手に抱えた編み籠からリンゴがこぼれ落ちるのもかまわず、懸命に走って逃げ出す。
銃声が轟いた。
赤い髪のエクターが握る拳銃、その先から煙が立ち上っている。
目の前を銃弾が通り過ぎたせいで娘は腰が抜けてしまった。黒いお下げ髪を恐怖に震わせて、彼女はこわばった体を必死に立ち上がらせようとする。
その苦闘の様子を楽しむように、2人のエクターが近寄ってくる。
「おいおい、こんな男前の誘いを断るなんてどうかしてるぜ。別に取って喰おうってわけじゃねぇんだからよ」
彼らが娘の肩をつかもうとしたその時、凛とした声がそれを押し止めた。
「やめなさい! 町の人たちに狼藉は許しません」
少年のような声。だがそれを発した主は一人の少女だった。
広場から続く通りの向こうに小柄な娘の姿が見える。
顔つきは多少あどけないが、その物腰には高貴な身分特有の気品が漂う。
美しくつり上がった眉に、澄んだ勝ち気そうな目。鼻筋は通り、口元はしっかりと結ばれていた。金毛羊を思わせる巻き髪は、頭頂部で丸く結い上げられている。
青紫色も鮮やかな短いジャケットに、白の乗馬ズボン。腰に吊った細身の真っ直ぐな剣を純白の手袋が握りしめる。稚なさの残る聖騎士の姿は、独特の危うさと同時に勇士の気高さをも漂わせていた。
「お、お嬢様!」
「ナッソスの姫様だ」
広場の人垣の間から、誰のものともなく声が漏れる。
少女の声は遠くからでもよく響いた。
「その人から手を離しなさい!」
降ってわいた出来事に、ならず者たちは呆気にとられていた。
だが彼らの劣情は、一点の汚れも知らぬこの若い白鳥を新たな獲物に定める。
「へっへっへ。じゃあ、代わりにお嬢ちゃんが俺たちと遊んでくれるのかい?」
ウニ頭の男が少女をからかう。
もう一人の方も、下卑た目つきで彼女の体を舐め回すように見つめている。
「まったくだぜ。青臭いガキに興味はないが、それがお姫様ともなれば話は別だ」
「汚らわしい、恥を知りなさい!」
少女は怒りに頬を染めて叫び、横の路地の方に消えた。
わずかな後に彼女と入れ替わるようにして、家並みの向こうから一体のアルマ・ヴィオが姿を見せる。
「な、何だ? あいつ、エクターか?」
「こっちは4機だ。兄貴、ちょっと痛めつけてやろうぜ」
男たちもゾーディーに飛び乗る。
《ブリキ人形》呼ばわりされるゾーディーとは異なり、少女の乗るアルマ・ヴィオは、女性的なデザインと流麗なフォルムを持っている。赤紫から白へのグラデーションも見事だった。兜の背後には髪の毛を模した飾りがあり、顔は扁平な仮面で覆われている。目に当たる部分だけが鋭く切れ込み、赤い光を放つ。大きなスカート部分も特徴的だ。しかし議会軍にもギルドにも、こんなアルマ・ヴィオは存在しない。
9
少女のアルマ・ヴィオは、町中での戦いを避けようと外に向かって走り出す。予想外に手慣れた動きだった。
まともなエクターなら、今の隙のない動作を見ただけでも、心を引き締めて彼女との戦いに臨むことだろう。しかし、ならず者同然の三流エクターたちにはそんなことが分かるはずもない。数を頼みに、早くも勝ったつもりになって後を追う。
女の姿をしたアルマ・ヴィオは平凡な性能ではなかった。たちまち町外れまで移動した少女は、余裕を持って振り返り、構えに入る。細身の光剣、いわゆるMTレイピアがアルマ・ヴィオの手に輝く。
――ゾーディーごときが何機たばになっても、この《イーヴァ》の前では同じこと。
少女は心の中でつぶやく。
ようやく追いついた敵の一体を、すれ違いざまに光の刃が貫いた。
鋭い踏み込み。多分に我流だが手練れの太刀筋である。
――や、やるじゃねぇか?! だがあの小娘、楯を持ってないぜ。
――あぁ、これで仕留めたな。
彼女の隙をとらえたと勝手に思いこみ、他のゾーディーがマギオ・スクロープを放った。螺旋を描きながら火炎弾が殺到するが……。
――シールド!
少女が念じた瞬間、いくつもの八角形の光が彼女のアルマ・ヴィオの側面で飛び交った。その動きは複数の魔法弾を全て受け止めている。
《半自動・追随型次元障壁》である。アルフェリオンの次元障壁とは方式が異なるにせよ、同様に人知を越えた旧世界の兵器だ。
自分たちが対峙する相手の恐ろしさに、男たちはようやく気がついた。アルマ・ヴィオの性能に天と地ほどの違いがある。それに加えて少女の腕前も相当のものだ。
3体のゾーディーは戦う意志を打ち砕かれ、全力で逃げ出そうとする。しかし、ここで敵に背を向けてしまったのは完全な失策だった。
――逃がさない。行け、《火のネビュラ》!!
少女のアルマ・ヴィオの両肩部分で外殻がスライドし、発射口らしき物が現れた。そこから霧のような何かが飛び出し、たちまち広がったかと思うと轟然と燃え上がり、トカゲに似た形の猛火となる。
逃亡を図るゾーディーの群に向かって火炎が走る。生き物のように。疾風さながらの速さで。
獲物を捉えた紅蓮の嵐はさらに吹き荒れ、3体のアルマ・ヴィオを完全に飲み込んだ。強固な生体装甲をも焼き尽くす焔が猛り狂った。
やがてネビュラは消えた。完全に黒こげにならない程度を見計らって、不用意な男どもは解放されたのである。彼らは悪事のための手段を失い、アルマ・ヴィオを降りて這々の体で逃げていく。
「あ、ありがとうございます! お嬢様」
アルマ・ヴィオを降り、広場に戻った少女に町の人々が押し寄せた。
「さすがカセリナお嬢様だ。カセリナ様は我々の守り神です」
華奢な体が人垣の向こうに覆い隠されていく中、少女は、照れた男の子のような笑みを浮かべた。
「みんな、大丈夫? 議会軍のやつらかと思ったら……少し目を離すと、すぐ何か起こるんだから」
彼女はカセリナ・ディ・ナッソス。
その名前からも分かる通り、反乱軍に味方する例のナッソス公の一人娘だった。
男子に恵まれなかった公爵は、代わりに戦乙女(ヴァルキリー)の化身とも呼べる娘を得たのである。
【続く】
※2000年2月~3月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第7話・前編
【再々掲】 | 目次 | 15分で分かるアルフェリオン |
強き光あるところ、また色濃き影あり。
幸ある者と時を同じくして、不運に泣く者あり。
――この先、光のみにても、闇のみにても進むこと能わず。
◇ 第7話 ◇
「光よ……」
シャリオが杖をかざすと、その先端に黄白色の輝きが宿った。
遺跡の中は予想外に暗い。外の日が射し込んでいるにせよ、それは気休め程度の明かりにしかならない。窓から多少なりとも離れてしまえば、そこはもう影に支配された世界である。
玄関を一歩入ると中は広いホールになっており、得体の知れない闇が奥へと続いている。灯火がなければ足元さえおぼつかないところだが、魔法によって創り出された光のおかげで、移動や簡単な調査くらいなら支障なく行うことができるだろう。
興味深そうに見ているルキアンに気づいて、シャリオが言った。
「私も多少の呪文は使えます。ルキアン君たちのような魔道士とは、比べ物になりませんけれど」
不意の言葉にルキアンは頬を少し染めた。彼のそんな細かい表情も分かるほど、周囲は明るく照らし出されている。
「あ、いえ、僕はまだ見習いですから、大した術は……。ところで、今のは神聖魔法ですか?」
「そうです。この程度のことなら、皆さんのお役に立てますわ」
「あ……あの、えぇ、そうですよね。シャリオさん、神官ですものね」
ルティーニが軽く咳払いする。
「勿論どころか、シャリオさんは《準首座》の神官なんですよ、ルキアン君」
「ほ、本当ですか。準首座って、たしか普通の神殿の主任神官より偉い……」
シャリオは黙って微笑んでいたが、クレヴィスと視線を交わし、小さくうなずいた後に歩き始めた。時間は限られているのだ。できるだけ急がなければならない。
「声あり、光は満ちぬ」
クレヴィスも呪文をささやいて、手のひらの上に青い炎を呼び起こす。一連の所作は極めてさりげなく、無駄のない動きで行われた。息でもするように自然な振る舞いだった。
――すごい。この人は、いったい……。
ルキアンはクレヴィスの技に舌を巻く。そこでルティーニに促されなければ、彼はしばらく感心して歩みを止めたままだったかもしれない。
2つの魔法の光を頼りに広間を進んでいく。最初は、足元の絨毯の感触を確かめながら慎重に進んでいたのだが……とりあえず何の仕掛けもなければ、気になる物もなさそうだったので、4人の足取りは次第に大胆になった。いや、むしろ、そうしなければならなかった。
閑散とした空間の所々に、革張りの長椅子やガラス製の座卓が置かれている。
クレヴィスは灯火をかざして、それらの調度品をごく簡単に調べていく。
頭上で反射して光を放つのは、部屋の規模に見合った巨大なシャンデリアだった。この照明設備の大部分は恐らくクリスタルガラスで作られている。精密な細工の数々は、それなりに豪華な装飾だと言えなくもない。もちろん旧世界の技術力を考えれば、この程度の品を作ることなど造作もなかったろうが。
シャリオが灯りを手に振り返った。
「本当のことを言うと、わたくし、神殿にいた頃よりも今の方が楽しい気がします……不謹慎でしょうか?」
一見して生真面目な雰囲気の彼女だが、いまの笑顔は悪戯っぽい少女のそれを思わせる。
すぐには誰も彼女に言葉を返さなかった。遠慮がちに目で応えたルキアン。
シャリオはつぶやいた。
「例えばこうして遺跡を調べるなんて、とても面白い経験ですわ。もっとも、以前の私なら、楽しいとか楽しくないとか、そんなこと自体どうでもよかったかもしれませんが」
広間の突き当たりが見え始めた……正面の壁からは一本の廊下が伸びている。
先頭を歩いていたクレヴィスは、この新しい通路を灯りで示す。
「おかしなものです。我々3人とも、元はエクター・ギルドと関係ないところで生きていたのに。運命の歯車がもっと別なかたちで動いていたなら、ひょっとすると、お互いに一生出会うことはなかったでしょう」
ルキアンたちは小走りで駆け寄っていく。途中、ルティーニが言った。
「まさかこんな場所で探検することになるなんて、私だって夢にも思っていませんでしたけどね。でも後悔はしていませんよ」
2
4人はホールの出口に立ち、自分たちが通ってきた場所をもう一度眺めてみた。こうして見るとやはり大きな部屋だった。隅の方までは光が行き届かない。
クレヴィスは懐中時計の蓋を開いて、残り時間を確かめた。
「部屋の両側にも別の扉や廊下があるようですが……全てを調べるのは無理だと初めから分かっているのですし、ここは運を天に任せて、一直線に進んでいってはどうでしょう。こんな入口で遊んでいるだけ時間の無駄です。単純すぎますか?」
シャリオとルティーニ、そしてルキアンも彼の意見に同意する。
ルキアンは思った――素人考えかもしれないが、《めぼしい物》というのは往々にして上の方の階、それも奥まったところにありそうなものだと。
◇
遺跡の奥へと進むにつれ、廊下は全くの暗闇となった。
さきほどの広間と違ってごく狭い場所なので、魔法の灯火は両側の隅々にまで行き渡る。他方、これから進んでいく道と今まで進んできた道とが、前後ともに見えない。
闇に対する本能的な恐れゆえか、ルキアンの心に漠然とした不安が生じる。
だがしばらく歩いて、何回目かの角を曲がった後、うっすらとした光が前方にあった。どうやら外の日が差し込んでいるらしい。
「階段がありますね。私たちの選択は正しかったようです」
クレヴィスがそう言う通り、行く手に階段が見え始める。今しがたの明かりは、踊り場にある窓から入ってくるものだった。
「やれやれ。ほっとしました。どうも暗いところは苦手ですよ」
何ともいえない顔でルティーニが苦笑する。彼は額に浮かんだ汗を拭っていたが、その手が不意に止まった。目の前の壁を凝視している。
「副長。ひょっとしてこれは旧世界の、レベ、いや、エレ……何とか、というものでは?」
階段の隣に閉ざされた扉がある。そのすぐ近くの壁には、幾つかのボタンの並ぶパネルが埋め込まれていた。
クレヴィスは、何か意味ありげな様子でパネルに触れた。1から6までの数字が書かれたボタンは縦並びになっている。彼の指が押さえているのは、数字のない三角形のボタンだった。しかし何の反応もない。
「そうです。もしこれが古文書に書かれている通りに動けば、時間が大幅に短縮できるはずなのですが。惜しいですね」
ルキアンとシャリオは、何のことかよく分からず、2人して首を傾げている。
クレヴィスは彼らに説明しつつも、潔く階段の方に向かい始めた。
「要するに自動の昇降装置です。この扉を開けると、人間の入れる部屋……箱が中にあります。滑車で物を上げ下ろしするような形で、その箱は建物の中を上下に動きます。それに乗っている人間は、自分の足でわざわざ歩かなくても、好きな階に行くことができるのですよ」
「なるほど……便利な仕組みですわね。ただの扉にしか見えませんのに。神殿にいた頃、いつも重たい本をたくさん持って階段を往復していたものですが……この装置があったなら、ずいぶん楽ができたでしょう」
そう言ってシャリオが微笑んだ。
3
旧世界の文明の利器を用いることは諦め、四人は素直に階段を登っていく。
踊り場にさしかかる。そこは幾分広くなっており、どういうわけか、ちょっとした展示スペースらしき空間が設けられていた。かつては訪問者の目を楽しませるものが置かれていたのかもしれない。
窓の下には空っぽの額が掛けられている。おそらく肖像画か何かでも飾っていたのだろう。その程度の手頃な大きさだった。無造作に傾いた木製の額縁は、時の止まった世界にふさわしい虚ろな雰囲気を漂わせている。
今は見る影もないこの場所だが、それでも素通りするのは惜しい気がする。ただひとつ、台に乗せられた大きなガラスケースとその中身が、寂れた建物の中で異彩を放っていたからである。
ルキアンは何気なくケースをのぞく。首をひねりたくなるような……奇妙な、あるいは趣味の悪いオブジェがその中にある。球体に突起や触手が生えた、例えようもない形をした物体が、明らかに《陳列》されているのだ。
ご丁寧に説明書きも添えられているのだが、残念ながら《古典語》の文章である。少なくとも辞書を持っていない限り、彼にそれを読むことはかなわない。
「ルキアン君、私にも見せてくれませんか」
シャリオも謎の展示品に顔を近づける。彼女の肩が不意に触れたので、ルキアンは慌てて体を引っ込めた。
小さくつぶやきながら、シャリオは解説文を手短に読み解いていく。素人にとっては暗号に等しい古典語も、彼女にかかれば、遠い過去の彼方からたちまち現在によみがえる。
「多分、何かの画期的な発明を記念したものらしいですわ。拡大した模型、倍率……大きな数字が出てきますね。桁が想像できないです。何の倍率かしら。あら、アルマ・ヴィオのことも書いてあります。組織の再生……微小、分子……再配置、ナノ……専門的な用語が多すぎて、私にはよく分かりません。とりあえず、この不思議な物の名前ですが、マキーナ……パルティクス。副長、ご存じ?」
「《マキーナ・パルティクス》?!」
眼鏡の向こうでクレヴィスの目が光った。一転して真剣な顔つきに変わる。
「シャリオさん、ちょっと代わってください。もしやこれは……」
ガラスの箱をにらんだまま、クレヴィスは身を固くしていた。彼の頬が少し震えているようにも見える。
「まさか、架空の理論ではなく本当に存在していたなんて。信じられません。あのマキーナ・パルティクスに間違いありませんね」
「何ですか? 古典語で、機械がどうとか……たぶん、そういう意味ですよね」
クレヴィスがこれほど驚くのを見て、ルキアンはいやが上にも興味をかき立てられた。
4
答えるクレヴィスの声も、いつになく興奮気味のようだ。
「このケースの中にあるモデルは、マキーナ・パルティクスの代表的な使用例を模式化したもので、最近、某技術史家が《リジェネレーター》という訳語を与えたタイプです。リジェネレーターとは、簡単に言えばアルマ・ヴィオの体を再生させる装置です。本当は装置という表現は不適当ですが……リジェネレーターを有しているアルマ・ヴィオは、たとえ手足を切断されたとしても、すぐ元通りに再生することができるのですよ。まったく、今の技術水準をはるかに越えた話ですが」
「急には想像できないですけど、そんなアルマ・ヴィオがあったとしたら……恐ろしいですね。でも、この丸い虫みたいな物がどうやって再生を?」
「ええ、ルキアン君。そこが問題なのですよ。実はリジェネレーターは、ごく小さい機械のようなものです。どのくらい小さいのかというと、驚かないでくださいよ……リジェネレーターは、旧世界の科学で言う《分子》の配列を、いや、希には《原子》の配列さえも組み替えることができるであろうほど微小なのです。で、仮にアルマ・ヴィオの組織内にリジェネレーターを《飼って》おくとしましょう。何億、いや、もっと例えようもない数になるでしょうが。そうすると宿主たるアルマ・ヴィオが破損したとき……リジェネレーターは、機体自体の素材はもちろん、付近にある他の物質をも分子・原子レベルで再構成して取り込みながら、損傷部分を復元するのです」
旧世界の分子論の話については、ルキアンも師から習ったことがある。だが彼の頭の中で、クレヴィスの今の説明はなかなか整理されなかった。
少年の怪訝そうな表情を見ながら、クレヴィスがまとめる。
「結局、マキーナ・パルティクスという古典語は、直訳すれば《極微粒子機械》という感じですね。このリジェネレーターのように極めて小さい……」
クレヴィスは言葉を切り上げ、また階段を登り出す。
「行きましょう。上の階でもっと重要な情報が得られる可能性が出てきました。マキーナ・パルティクスは、あの《ステリア》と並んで、おそらく旧世界のアルマ・ヴィオ技術の最高峰に位置します。現在ではすでに失われた知識ですが、もう少し詳しいことが分かれば……。あるいは、当時の他の技術についてもここで知ることができるかもしれません。面白くなってきました。この建物は何のための施設だったのか……」
◇
それはルキアンたちが2階に上がった瞬間のことだった。
階段と廊下とを隔てるガラスの扉が、魔に魅入られた屋敷での出来事さながらに、ひとりでに音もなく開いたのである。 同時に付近の明かりも点灯し始めた。手前の方から廊下の奥に向かって、天井に光の列ができていく。
突然のことにルキアンは驚く余裕すらなく、ぽかんと口を開けて見ているばかりだった。彼が慌て始めたときには、全ての装置はもう動作を終えていた。
「何ですの? まさか中に誰かいるのでしょうか」
緊張した声でシャリオが尋ねたが、彼女に呼び掛けられたクレヴィスの方は、何食わぬ顔で先に進んでいこうとしている。
「人がいるかどうかは別として、この扉はもともと自ら開くように作られているのですよ。明かりがついたのも、たぶん扉の開閉に連動する仕組みになっているせいでしょう」
ルティーニもそこかしこを興味深げに眺める。特に頭上で輝く白いガラスの《筒》には馴染みがある。それは、彼がクレドールでいつも目にしている……いわば旧世界のランプだった。
ちなみに方々のジャンク・ハンター(発掘屋)や冒険者に手を回して、この《光の筒》を交換用に仕入れることも、ルティーニの管理する様々な業務のひとつである。ごく簡単な構造のわりには、筒の模造に成功したという話はまだ聞いたことがない。それゆえ遺跡で発見された物を再利用しているのが現状なのだ。
5
廊下に沿って多くの小部屋が並んでいる。今度は照明が確保されているので、調査は随分と楽になりそうだが。
手近な部屋のドアノブを回した後、クレヴィスが苦笑する。
「全て鍵が掛けられているようですね。幸い、ごく普通の鍵で開閉する仕組みですから、《開錠》の呪文でどうにでもなります。もしこれが旧世界の鍵、つまり電気を使った錠前だったなら……塔の入口でやったように、壊して開けるしかありませんけどね。まぁ、試しに一部屋のぞいてみましょう」
クレヴィスは目を閉じ、右手を突き出して扉に向けた。詠唱が始まる。
「閉ざされし秘密への道を我は開かん……封じられたる悪しき力ある時は、それも去るべし」
厳かに紡ぎ出される呪文を耳にしたとき、ルキアンの眉がわずかに動いた。
――あれは、単なる開錠の魔法じゃない。罠が仕掛けられている扉でも、魔法で封印された宝箱でも無事に開けるという、高度な《全解除》の呪文……。
カチリと音がした後、クレヴィスの手がノブを難なく回す。
「何かの研究室……ですか。本格的な実験設備は見あたりませんから、たぶん書類の整理や研究報告の準備にでも使われる場所なのでしょう」
手狭な部屋は8つの机だけですでに一杯になっていた。その間を埋めるようにして本箱が並ぶ。試験管やフラスコを納めた簡素な棚も置かれている。
ほとんどの机の上には、おそらく皆同じ種類と思われる装置があった。大きめの本程度のサイズだろうか、堅い樹脂のような材質でできた《箱》が縦置きにされている。その隣に《足付きの額縁》とでも形容すべき何かが。それらの手前には《沢山のキーの並ぶ薄い板》が備えられている。この3点でひとつのセットを構成しているであろうことは、容易に推測できた。ただし何に使う道具なのか想像もつかない。
物珍しそうに見入るルキアンの横で、クレヴィスがこの不可思議な装置を動かそうと試みる。些細な試行錯誤の後、あるボタンをクレヴィスが押した。すると《箱》の中から機械的な音がするとともに、《足付き額縁》に文字が浮かんだ。もちろん古典語である。
白く光る文章が入れ替わり立ち替わり映し出される。綺麗に着色された絵も何回か現れた。目まぐるしく変化する表示がひとまず止まった後、クレヴィスは軽く溜息を付く。
「だめですね……やはり《言葉の鍵》が掛けられています。こればかりは、魔法で外すわけにも、壊して開けるわけにもいかないですし」
残念そうな顔をしているクレヴィスに、ルキアンが問いかけた。
「クレヴィスさん、この箱みたいなものは一体……」
「《知恵の箱》と呼ばれる機械です。敢えて言えば、人の手によって作られた頭脳といったところでしょうか。人間よりも遙かに頭の回転がよく、信じられないほどの記憶力を持っています。知的な作業をこの箱に手伝わせ始めてから、旧世界の文明は飛躍的に進歩したそうです」
【続く】
※2000年2月~3月に鏡海庵にて初公開
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