鏡海亭 Kagami-Tei ウェブ小説黎明期から続く、生きた化石? | ||||
孤独と絆、感傷と熱き血の幻想小説 A L P H E L I O N(アルフェリオン) |
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第59話「北方の王者」(その1)更新! 2024/08/29
拓きたい未来を夢見ているのなら、ここで想いの力を見せてみよ、 ルキアン、いまだ咲かぬ銀のいばら! |
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小説目次 | 最新(第59)話| あらすじ | 登場人物 | 15分で分かるアルフェリオン | ||||
生まれてきた意味なんて後付けでいいじゃない! 第11~15話
連載小説『アルフェリオン』まとめ読みキャンペーン、まだまだ続くよ(^^)。
今晩は第11話から第15話までのまとめ版を一気にアップです。
【目次】からどうぞ。
昨日にアップした第10話に始まり、今回の13話に至るまでの部分は、ルキアンが迷いながらも旅立ちの決意を固めるお話です。
ルキアンが悩んでいる間、裏では色々なキャラが同時並行的に動いています。
当時は不気味な黒衣の女ことリューさんが暗躍しまくりですし、マクスロウ閣下やセレナも着々と。ファルマス様が登場するのもここから。壊れた天才ファルマス様の登場シーン、インパクトありすぎです。ポジション的には悪役でもなかったはずなのに、今のところ、この物語で誰よりも悪役ぶりの板に付いている人ですね(笑)。
天上界と地上界、そして大地の巨人パルサス・オメガ、旧世界の秘密が次第に明らかになっていく流れも面白いです。
主人公ルキアンについては地味な会話シーンが延々と続きますが、特にシャリオとの会話は興味深いです。人が生きることの意味について、色々考えさせられる点があるかと思います。
生きる意味は「探し」たり「見つけ」たりするものではなく、自ら「考え出す」あるいは「設定」するものだ、という趣旨のシャリオさんの考え方は興味深いです。ある人間がこの世に生まれてきたことに意味なんて元々はない…その目まいのするような事実から逃げずに真正面から受け止めたうえで、でも別に絶望する必要なんて無い、だって意味は後付けで自分自身で与えるものなのだから! すごい開き直り!(^o^)
平たく言えば、そういうことです。シャリオさん強いですね。
この辺りのルキアンとシャリオさんの関係って、見方によっては微妙に怪しくて笑えます。ルキアンがシャリオさんの胸で泣くシーンとか…。「それで良いって、誰かに言ってほしいのでしょ?」はちょっと甘やかしすぎな気もしますが(笑)、ルキアンは本当に誰かにそう言ってほしかったんでしょう(以前に彼自身が言ってますね)。
ルキアンって、誰にも必要とされずに、また自分からも心を閉ざして、それでも中途半端に常識があるので完全に一人になってしまえず、孤独にニコニコとウソ微笑みをして生きてきたんですね。人の輪の中で本当は孤独を感じてた。
そんな彼を、「それでいい」と肯定してくれた人との出会いが、ルキアンの成長につながっています。最初にルキアンをそうやって肯定し、旅立つ勇気をくれたのがシャリオさん。次に同じような役割をして、繰士としてのルキアンを覚醒させたのが、シェフィーアさんですね。まぁ、シャリオさんは、ありのままのルキアン自身を認めてくれた人ですけど、シェフィーアさんの場合、「想いの力を見せてみよ!」って言って、ルキアン自身の妄想世界を全肯定した人ですからね(苦笑)。大物過ぎます。
なお、第14話からは、一見、アルフェリオンが終了して違う物語が始まったのかと思わせる変な流れです(^^;)。アレス君登場。彼が主人公の物語の第1話みたいです。これに対して本当の主人公ルキアンは…。ここから何話かは、主人公が入れ替わったような雰囲気。
最近では、鬱回想と超覚醒でルッキルキにしてやんよ!(意味不明)という勢いで目立つ主人公ルキアンですが、こういう下積みな頃もありました。成長…いや、やばい方向に向かって変わっていったルキアン。コレも成長?
かがみ
今晩は第11話から第15話までのまとめ版を一気にアップです。
【目次】からどうぞ。
昨日にアップした第10話に始まり、今回の13話に至るまでの部分は、ルキアンが迷いながらも旅立ちの決意を固めるお話です。
ルキアンが悩んでいる間、裏では色々なキャラが同時並行的に動いています。
当時は不気味な黒衣の女ことリューさんが暗躍しまくりですし、マクスロウ閣下やセレナも着々と。ファルマス様が登場するのもここから。壊れた天才ファルマス様の登場シーン、インパクトありすぎです。ポジション的には悪役でもなかったはずなのに、今のところ、この物語で誰よりも悪役ぶりの板に付いている人ですね(笑)。
天上界と地上界、そして大地の巨人パルサス・オメガ、旧世界の秘密が次第に明らかになっていく流れも面白いです。
主人公ルキアンについては地味な会話シーンが延々と続きますが、特にシャリオとの会話は興味深いです。人が生きることの意味について、色々考えさせられる点があるかと思います。
生きる意味は「探し」たり「見つけ」たりするものではなく、自ら「考え出す」あるいは「設定」するものだ、という趣旨のシャリオさんの考え方は興味深いです。ある人間がこの世に生まれてきたことに意味なんて元々はない…その目まいのするような事実から逃げずに真正面から受け止めたうえで、でも別に絶望する必要なんて無い、だって意味は後付けで自分自身で与えるものなのだから! すごい開き直り!(^o^)
平たく言えば、そういうことです。シャリオさん強いですね。
この辺りのルキアンとシャリオさんの関係って、見方によっては微妙に怪しくて笑えます。ルキアンがシャリオさんの胸で泣くシーンとか…。「それで良いって、誰かに言ってほしいのでしょ?」はちょっと甘やかしすぎな気もしますが(笑)、ルキアンは本当に誰かにそう言ってほしかったんでしょう(以前に彼自身が言ってますね)。
ルキアンって、誰にも必要とされずに、また自分からも心を閉ざして、それでも中途半端に常識があるので完全に一人になってしまえず、孤独にニコニコとウソ微笑みをして生きてきたんですね。人の輪の中で本当は孤独を感じてた。
そんな彼を、「それでいい」と肯定してくれた人との出会いが、ルキアンの成長につながっています。最初にルキアンをそうやって肯定し、旅立つ勇気をくれたのがシャリオさん。次に同じような役割をして、繰士としてのルキアンを覚醒させたのが、シェフィーアさんですね。まぁ、シャリオさんは、ありのままのルキアン自身を認めてくれた人ですけど、シェフィーアさんの場合、「想いの力を見せてみよ!」って言って、ルキアン自身の妄想世界を全肯定した人ですからね(苦笑)。大物過ぎます。
なお、第14話からは、一見、アルフェリオンが終了して違う物語が始まったのかと思わせる変な流れです(^^;)。アレス君登場。彼が主人公の物語の第1話みたいです。これに対して本当の主人公ルキアンは…。ここから何話かは、主人公が入れ替わったような雰囲気。
最近では、鬱回想と超覚醒でルッキルキにしてやんよ!(意味不明)という勢いで目立つ主人公ルキアンですが、こういう下積みな頃もありました。成長…いや、やばい方向に向かって変わっていったルキアン。コレも成長?
かがみ
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第15話・後編
【再々掲】 | 目次 | 15分で分かるアルフェリオン |
12
「こ、こんばんは」
あの不可解な少女の口から、日常的な挨拶がごく普通の調子で発せられたことは、かえってルキアンを驚かせた。彼は両脚を絡ませるようにして、ぎこちなく立ち止まる。その堅い動作は壊れたおもちゃを連想させた。
彼にすぅっと近寄ると、エルヴィンは無邪気に歯をのぞかせ、ぼんやりとした目を細める。笑顔――なのだろうか?
彼女は両掌を合わせ、その間に何かを隠し持っている。
「これ、あげる」
ぶっきらぼうに差し出された物を見て、ルキアンの言葉は途切れた。
「羽根?」
エルヴィンは彼の言葉に肯く。
真っ黒な羽根が1枚、彼女の手のひらの上に乗せられていた。所々で微かに起毛したそれは、薄明かりの中で濡れ髪のような光を見せる。
彼女の行動の意味がルキアンには理解できなかった。
呆気にとられた彼に向かって、エルヴィンはつぶやく。
「早く、気づいてあげて。心を研ぎ澄ませ、感じて……」
「あ、あの……何に?」
以前に出会ったときと同様、エルヴィンは予言者めいた口振りで語り始める。
何の謎かけなのか。相変わらずルキアンには分からない。
「あなたは孤独を恐れている。独りでいるときには、ただ寂しいとか、そこから逃げ出そうとか、そんなことばかり考えている」
「えっ?」
「だから、見えるはずのものも見えない。勇気を出して……目を閉じて、静寂とひとつになるの。そうすれば気づくはず。あなたは何も感じない?」
「だから……それ、何の話?」
エルヴィンは思わせぶりに首を傾けると、彼の言葉など聞こえないとでもいうふうに、廊下の奥へと立ち去った。
残り香がした。
ぽつんと取り残されたルキアン。
今度は、彼の耳元で誰かがささやく。
「よぉ、ルキアン君。エルヴィンにモテるなんて、なかなかやるな」
今の会話で動揺していたルキアンは、飛び上がるようにして振り向いた。
そんな彼を両手で支え、背の高い男が苦笑している。
「あ、あれ? たしか、あの、ベ、ベルセア、さん……ですよね?」
「そう、大当たり。覚えていてくれて嬉しいよ」
ベルセアは亜麻色の髪を掻き上げ、気取って微笑んだ。
肩口に届く髪がさらさらと揺れ、彫りの深い顔に、すらりと形良い顎。彼がクレドールで一番の男前という話も、単なる冗談ではなさそうである。
「驚かせて悪かったな。でも、あの幽霊娘があんなに喋るのを見たのは、一体何ヶ月ぶりだか。オレなんか彼女とまともに口聞いたこともないのに……。それはともかく、クレヴィーが呼んでたぜ。さっきブリッジに行ったら、伝令を頼まれちゃってよ」
「クレヴィスさんが?」
「あぁ。あと30分ほどしたら、クレドールはラシュトロス基地に着く。君に話があるから、船が港に入った後に来てくれってさ。どういうわけか、ランディやシソーラ姐さんも一緒らしいが。ま、行ってみたら分かるぜ」
どこか不安そうなルキアンを見ると、ベルセアは彼の顔つきを真似しておどけて見せた。
「ということだ。それにしても、君は珍しいところにウケるんだなぁ。今のエルヴィンにせよ……それにメイから聞いたんだが、あのシャリオさんとも結構仲良しなんだって? オレにとっては一番苦手な2人だな。じゃあな。がんばれよ、少年!」
ぽんと肩を叩かれ、その場に取り残されたルキアン。
「あの、あ、あの……。僕、そんな……」
彼が口ごもっている間に、ベルセアはもと来た方へと歩き去ってしまった。
13
◇ ◇
反乱軍の本拠、要塞都市ベレナの中枢をなすセルノック城は、純粋に戦闘を目的として作られた施設である。だが面白いことに――無骨で機能本意な外観にそぐわず、この一大軍事拠点は、下手な宮殿以上に美しい内装を誇る。
廊下ひとつ見てもその壮麗さは群を抜いていた。継ぎ目のない見事な石柱が立ち並び、アーチ状の高い天井を支える。乳色の肌を持つ柱には、神話や伝説に残る様々な英雄や軍神の像がそれぞれ一体ずつ据え付けられている。左右の壁は、鏡面仕上げのパネルに幾何学模様の金細工を走らせた大胆なものだ。
時代の空気とでもいうのか、ここ一世代ほどの間、イリュシオーネの建築においては、やや過剰気味の絢爛さを競う傾向が強い。
が、向こうから歩いてくる男は、この華美な廊下の中でもさらに浮き立っていた。高貴な美しさの中に毒々しい妖しさをも溶け込ませ、両者がある種の極致的な形で融和した姿が、彼の一身に顕現しているのだ。
その独特の雰囲気ゆえに《黒の貴公子》と呼ばれている男――他ならぬミシュアス・ディ・ローベンダインである。
彼がふと立ち止まったとき、うねる黒髪がさわさわと揺れた。その視線は、向こうから来るもう1人の男に向けられている。
シャンデリアの燈火が点々と輝いているとはいえ、夜の室内は思ったほど明るくはない。柔らかな光の下、真っ黒に見えるフロックが、通廊を吹き抜ける風になびいている。しかし本当は暗い紫色の衣装である。この男は……。
彼はミシュアスとは対照的に、整然として端正な美しさを備えていた。服装の方もシンプルさを追求し、その意味において洗練されている。また2人は同様に長髪だが、こちらの青年の髪は藍色で、さらりとして見事なつやを見せる。
他方のミシュアスについては――二重袖のコートや、玉石をあしらったボタン、袖口からのぞく精緻なフリル等々、どの部分をとっても、これはこれで彼らしかった。
その男が手前にやって来るまで、ミシュアスは壁際にたたずんでいた。
2人の足音。そして静寂。
「これはこれは。貴君が、噂の……」
ミシュアスは大仰に驚いてみせると、胸に手を当てて慇懃に会釈した。
紫のフロックの男も、彼に劣らぬ長身を傾け、上品な仕草で一礼する。
黒いピアスを指でもてあそびつつ、ミシュアスの目が鋭い光を帯びる。
「明日は、いよいよあの話を実行に移すのかね? しかしギヨット総司令も物好きなものだ。貴君には失礼だが……昨日・今日に味方となったような人間に、ある意味で我々の命運をかけた作戦を任せるとはな。まぁ、貴君の実力には私も感服しているよ」
「もったいないお言葉です。私のような新参者など、《黒の貴公子》として知られる貴方に比べれば……」
彼の切れ長の目に、冷笑するミシュアスの姿が映った。
「ふふ。似合わない謙遜はやめた方がいい。例の《黒いアルマ・ヴィオ》の活躍ぶりを見ていると、私の黒の貴公子という名前も形無しだ」
そう告げると、ミシュアスはおもむろに立ち去ろうとした。が、途中で何か思い出したかのように振り返る。
「ひとつ忠告しておく。我々がコルダーユ沖で戦った謎のアルマ・ヴィオ……あの機体は、もしかすると《貴君のアルフェリオン》に匹敵する力を持っているかもしれない。《銀の天使》には、せいぜい気を付けることだな」
「ご忠告、感謝いたします」
紫のフロックの男は不敵に目を光らせ、遠ざかるミシュアスの背中を見つめていた。
誰もいなくなった廊下で、男はぽつりとつぶやく。
「銀の天使だと? 笑わせる……」
14
◇ ◇
地平線の彼方から来る風は、想像していたよりも冷たく、そして乾いていた。日の出から数時間が過ぎたというのに、午前の空気はまだ温もりを知らない。
ルキアンはコートの襟を立て、寒そうに首を縮めている。
中央平原の南東部にあるラシュトロス基地は、いわば大海の隅に浮かぶ孤島のような場所である。荒野を渡る風を遮るものは何もない。
サルビアブルーの帽子を小脇に抱えたルキアン。つばが大きいせいか、何度も何度も吹き飛ばされそうになるので、最後には帽子を脱いでしまったのだ。彼の銀色の髪も、風に煽られて乱れ放題だった。
砂埃がときどき目に入りそうになる。
辺りに広がる乾いた地面。その表面を埋め尽くす赤っぽい土は、中央平原の大地には本来含まれていない類のものだ。草や木はなく、しかも丁寧に地ならしされている。
それもそのはず、ここが例のラシュトロス基地――その飛行場に他ならない。いくつかの空中機装兵団が駐屯しているラシュトロスは、我々の世界で言えば一種の空軍基地に当たる。
ルキアンから少し離れた場所に、飛行型の《オルネイス》が10数機ほど並んでいる。残念なことだが、大半の機体は旧式のマギオ・スクロープ1門を装備しているにすぎない。議会軍の資金不足が噂される昨今、地方の小規模な基地にすぎないラシュトロスには、予算はあまり回ってこないのだろうか。ましてや最新の要撃タイプである《アラノス》や、対地攻撃力に優れる《レイヴァーン》など、気の利いた機体が配備されているはずもなかった。この基地の戦力だけでは、到底ナッソス軍には太刀打ちできない。
ルキアンの隣ではランディが煙草を吹かしている。見るからに眠そうな顔をしている彼にとっては、目覚ましの一服というところか。
2人の後ろには、ナッソス公との会談に向かう彼らを見送るために、クレドールの仲間たちが沢山立っていた。
人だかりの中から近づいてくるカルダインとクレヴィスに向かって、ランディが斜に構えた調子で言う。
「結果には期待するなよ。くどいようだが、和平の成立する見込みはまずあり得ない」
「えぇ。最初からそうだと分かっていながら、わざわざ貴方に出向いてもらうのも申し訳ないことですが……」
クレヴィスが仕方なさそうに微笑んでいる。
「気にすることはないさ。俺が貢献できるのは、こんな用事の時ぐらいだし。それより、ルキアン君まで無理につき合わせちまって……悪いねぇ」
隣でぼんやりしている少年の顔を、ランディがニヤニヤしながらのぞき込む。
「えっ? あ、ぼ、僕ですか? いえ、か、構いません。マッシア伯爵とご一緒させていただけるなんて、こ、こ、光栄です!」
ルキアンは声をどもらせ、背筋を真っ直ぐ伸ばした。
昨晩、クレヴィスたちを交えて打ち合わせを行ったときも、彼はランディの前では緊張しっぱなしだったのだが。
「その呼び方はよしてくれよ。ランディでいい」
やれやれといった様子で、伯爵はルキアンの言葉を訂正する。
15
照れ笑いしているルキアンを、メイが遠巻きに見ていた。ランディが居合わせているので、何となく顔を出しにくいのだろう。元気な彼女らしからぬ、浮かない表情だ。
そんな彼女の背中を、後ろからそっと揺する者がいる。
相手が誰か分かった途端、メイは今までの気難しい表情を捨て去り、子供のようにはしゃぎ始めた。
「あ、シソーラ姐さーんっ!! ここ最近、ご無沙汰だったね。元気?!」
「メイこそ元気そうで何よりじゃないの! いや、おとといも昨日も会いたかったんだけど、会議だの打ち合わせだので、ちょっと忙しくてさ」
シソーラとメイは互いに手を取り合い、家族のごとく抱擁を交わす。盛んに騒ぐ彼女たちだが、両人とも祖国タロスの言葉で喋っているので、他の面々には何を言っているのかよく分からない。
2人の賑やかな声を耳にして、カルダインが振り返った。
「これはまた驚いた。シソーラのやつ、あれの準備で手間取っていたのか……」
溜息をつく艦長の目はどこか楽しそうに見える。彼と親しい者でなければ分からぬであろう、ささやかな笑顔だ。
「てっきり私も、どこかのお妃様かと思いましたよ」
クレヴィスが小声でそう言うと、耳ざとく聞きつけたシソーラがすかさず飛んでくる。
「まぁ。お妃じゃなくて、お姫様と言ってほしいわね。おっと……あ、あらら、つまずいちゃった。誰か、貴婦人様に手を貸しなさい!」
彼女の足取りはぎこちなかった。地面に裾を引きそうなドレスのせいである。やはり、慣れぬ格好などするものではない。
苦笑いしながら、クレヴィスがわざと大げさな身振りで手を差し出した。
「ご苦労。おほほほ……なんてね。私、今日は眼鏡も外しているもんだから、足元がおぼつかないったらありゃしない」
羽根飾り付きの扇子で口元を隠し、シソーラは独りで悦に入っている。
花柄がうっすらと刺繍された紫のドレスの上に、七分袖の紺色のコート。彼女の髪がひと晩で急に伸びたように見えるのは、お洒落用のウィッグのせいだ。本当は肩先ほどの長さであるはずの赤毛が、今日は腰の当たりにまで達している。なお、金色のリボンと白いショールは、いつもと同じものだ。
ルキアンと顔を見合わせ、カルダインは首を傾げている。
「貴族というのは、変わるときには変わるものだな。いや、女というのは……と言った方がよいのかもしれん。いずれにせよ、あのシソーラとは思えないじゃないか」
珍しく吹き出しそうな艦長。
シソーラの装いはそれなりに似合っている――いや、むしろ見事に決まっているだけに、普段の彼女とのギャップのせいで、ついついカルダインも可笑しくなってしまうのだろう。
貴婦人らしく盛装したシソーラの姿は、ルキアンにも感銘を与えた。昨晩、初めて出会ったときには、口うるさくて怖そうな眼鏡の女という印象しか残らなかったのだが。
「カル、これで役者は揃いましたね。後はナッソス家の飛空船が迎えに来るのを待つばかりですか……」
クレヴィスが急に真面目くさって言う。その表情に心配の色が見えないといえば嘘になる。
彼の前でランディが親指を立てた。
「大丈夫だよ。いざとなりゃ、シソーラ副長は剣の達人だし、こっちには魔法使いもいるじゃないか。あぁ、見習い? あはは。構わんさ。ナッソスの親爺は、あれで馬鹿が付くほど正直な男だ。俺たちをどうこうしようだなんて、裏で策を仕掛けるような人間じゃない」
16
ルキアンは訝しげな顔つきでシソーラの方を見た。たとえ彼女が剣の達人であったとしても、肝心の得物を下げていないのだから話にならない。彼が気を回すのも無理はなかった。
たまたま、2人の視線が正面から鉢合わせになる。
シソーラは彼に近寄り、背伸び気味の姿勢で耳打ちした。
「さては私が丸腰だと思ってるわね、ルキアン君? 敵方には内緒だけど……小剣とナイフ、ちゃんと脚にベルトで留めてあるんだから。ふふふ、何なら見せてあげようか?」
彼女が面白がってスカートの裾を持ち上げるふりをすると、ルキアンは慌てて顔を背けた。恥ずかしそうにうつむく彼の横で、シソーラはくすくす笑っている。
「冗談だってば。でも本当に武器は持ってるわよ。あら……あれは?」
彼女はルキアンをからかうのを止めて、鋭く目を光らせた。
「どうやらお迎えのようね。ほら、あの雲の向こう」
シソーラが指さした方角、きらりと輝くものが上空に浮かんでいる。
まだ遠くに位置しているのではっきりとした形は分からないが、小型の船であることには間違いない。いわゆる飛空艇と呼ばれるクラスのものだ。
――とうとう足を踏み出してしまうような気がする。別の世界に……。
理由などないまま、ルキアンは自らの鼓動が早まるのを感じた。
熱い感触が胸の内から体中に広がっていく。
何だろうか――この全く意外で、しかも形容しがたい気持ちは?
◇ ◇
同じ頃、凍り付いた雪道を踏みしめ、アレスとイリスは《巨人》の眠る地下遺跡へと向かっていた。
無謀な試みとは知りつつ、パラス騎士団の手からチエルを救い出すために。
イリスが話さないのはともかく、アレスも言葉少なに前を見ていた。時々彼はイリスの手を取って、彼女が転ばぬよう助けてやる。
2人を先導するように、止まったり走ったりを繰り返しながら、レッケが身軽に岩場を駆け昇っていく。
アレスは腰に下げた短剣を見つめて、ふと思った。
――後で母ちゃんに知れたら、怒鳴られるだろうな。でも、こうやって抜け出してくるほかなかったし。イリスの姉さんは、俺が助けてやらなくっちゃ。
彼は、父が初めて冒険に出た日の話を思い出した。
父の数多くの冒険談のうち、それはアレスが一番好きな話のひとつである。幼い頃、その話を父に何度せがんだことだろうか。
世界をもっと知りたい。色々な人と出会いたい。強くなりたい――そんな数々の思いを胸に、父が故郷の村を飛び出した日のこと。それは、父がちょうどアレスと同じ16歳のときだった。
そしてアレスも今、1人と1匹の仲間と共に、自らの物語に序章を書き記そうとしている。
◇
ここに、別々の2つの運命が動き始めた。
双方の小さな流れはいずれ大河となり、
どこかでひとつに落ち合うのだろうか?
星の因果律の導く大海を目指して。
あるいは……。
【第16話に続く】
※2000年12月~2001年1月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第15話・中編
【再々掲】 | 目次 | 15分で分かるアルフェリオン |
7
◇ ◇
クレドールの医務室――ペンを手に取り、なぜか固まったままのルキアン。
小さな机を借りて、1枚の紙を見つめ続ける。彼の額に汗が滲んでいた。
ちなみにメイが持ち場に戻ったせいか、室内は妙に静かだ。
ルキアンの隣ではフィスカが口を尖らせ、懸命に首をひねっている。
「むぅぅ……」
「あの、フィスカさん。ごめんなさい……ちょっと静かにしていただいて、いいですか?」
2人のそんなやり取りに吹き出しそうになりながら、シャリオは、昨晩運び込まれた医療品を整理中だった。
インク瓶を持ち上げては、明かりに透かしているフィスカ。何をしているのか全く意味不明だ。いや、たぶん意味などないのだろうが。
ルキアンは迷惑そうに彼女を見ると、また紙面に集中する。
「メルカちゃん……あの……ごめんなさい。え、その、僕が……」
「だめですよぉ。ルキアンさん、《あのぉ》とか《えぇっと》なんて書いたら」
「書きません。口に出してるだけです……」
実は、ルキアンはメルカに対する謝罪を――いや、そんなはっきりとしたものではなく、自分の今の気持ちを誠実に伝えるために、言葉を紙に綴ろうとしていた。
メルカは当分話をしてくれそうにないし、何より彼自身が口下手だということもあって、手紙の形にした方がよかろうと思ったのだ。正確に言えば、フィスカが冗談でそう勧めたのが、事の発端である。
ただし……そのフィスカが一緒に考えてやると称して、実際には邪魔ばかりするものだから、文面自体は全然できていないようだが。
深い溜息とともに、ルキアンは窓の外を眺める。
緑一色の風景にもそろそろ飽きた。だが幸い、半時ほど前から、大地のキャンバスに夕日が新しい色を塗り添え始めている。
樹海の限界線も姿を現してきた。もうすぐイゼールの森とはお別れだ。
夕と夜との間を彩る、あの濃い藍色の空。
その下で森は黒々と見え……さらに彼方に広がる緑色が、今日一日待ちこがれた中央平原である。
――陸地って、こんなに大きかったんだな。《樹の海》にも驚いたけど、今度は草原か……。
潮騒を聞きながら暮らしていたルキアンだが、本物の海にも劣らぬ《草の海》を見るのは、恐らく今が初めてであろう。見慣れぬ風景を次々と前にして、自分が旅人であることを実感させられる1日だった。
――でも、この広い世界を、全て自分のものにしようと考えた人間がいる。それがエスカリア皇帝……《神帝》ゼノフォス。
果てなき夕暮れの情景に気持ちをかき立てられて、ルキアンは世界のかけがえのなさを、少しは《現実的に》理解できたような気がした。
「そんなことが、許されちゃいけないんだ……」
突然つぶやいたルキアンに、フィスカが振り返る。
「あ、良い言葉、浮かびました? 早くしないとメルカちゃんが起きちゃいますぅ。ねぇ。聞いてますかぁ。あのぉ、ルキアンさん?」
そこでフィスカは、はたと気づいた。したり顔の彼女は、口を大きく開けたまま、首を何度も縦に振る。ゆっくり、ゆっくりと。
「えへへへ。ダメですよぉ~。ルキアンさん、ナルちゃんになっては……。でも良かったですぅ。お元気になったみたいで!」
今度は反対側を向いて、丸印を指で作るフィスカ。
彼女の瞳に映ったシャリオも、にこやかに頷いた。
8
いったん沈み始めると太陽の動きは忙しくなり、地平の行き着くところにたちまち姿を消していく。
方角の加減で月は見えないが――空に小さな光がひとつ、どの星々よりも早く輝き始めた。
濃紺の宙海にぽつりと輝く星。
私たちの世界で言えば、それは《宵の明星》にあたる。
イリュシオーネには、この一番星にまつわる伝説があった。月の女神・魔法神セラスの使い、小さな白い鳥の物語だ。
その言い伝えが、ルキアンの脳裏に何気なく浮かぶ。
――白い鳥の星は、ああやって、独りでも輝かなきゃいけない。まだ他の星の出ていないこの空で、暗い野を急ぐ旅人たちに道を示すために。
己の弱さが、ふと身にしみた。
別に自分のことを内省しようというつもりで、ルキアンはこの伝説を反芻したのではない。だがこうして落ち着いて考えてみると、昨日までの自分の弱さが恥ずかしいと彼は思った。
少しだけ、ほんの少しだけ強くなれたら――いや、いつかそうなれるような気がした。微かに。
神話は語る。この白い鳥とは、荒野の果てで人知れず死んだ戦士をセラス女神が哀れみ、その魂を、星の世界を舞う鳥に変えたものだという。
――戦士は今も戦っているんだ。白い鳥となってその翼を広げ、星となって輝き続けることによって。みんなに、その光が見えるように。
「はっ?!」
昨日クレヴィスから聞いた話が、なぜか思い出される。
――あなたは現実の中で疎外感を覚えていたかもしれません……。けれどもルキアン君、あなたはこの世界とはまさに異質であるがゆえに、この世界にとってなくてはならない人なのです。他の誰でもない、君がしなければならないことがあるのです……。
窓べりに顔を近寄せたルキアンは、小声でクレヴィスの言葉を繰り返した。
誰にも聞こえない。しかし、この大地の全てに響けと願って。
「再び世界に安らぎを取り戻すために。そして、僕とみんなのそれぞれの未来のために。そう、みんなが微笑んでいられるように……」
ルキアンは再び机に向かって、筆を動かし始めた。
――そうなればいいな。いつか僕もみんなも、優しく笑っていられれば。でも、まだ分からないよ。僕が何をすべきなのか? 自信もない。だけど、少しずつでも前に向かって進んでいければ、いつか、きっと……。
◇ ◇
「イ・リ・ス……」
テーブルの上の紙切れを見ながら、アレスは1文字ずつ慎重に発音した。
「君の名前、イリスって言うんだ?!」
どことなく彼の名前と響きが似ている――その点に親しみを覚えたのか、アレスは声を弾ませる。
向かいに座っている少女は黙って頷いた。先ほどから椅子に腰掛けたまま、彼女はほとんど身動きらしいことをしていない。
彼女が身に着けているのは、ラプルス山麓で日常的に見られる民族衣装である。毛織りの上着には、赤と緑の小さな格子模様を組み合わせることにより、鹿や花などの図柄が見事に描かれている。緑のスカートは、やや厚手の生地にプリーツを入れたもので、くるぶしまでの丈がある。どちらも、アレスの母ヒルダが若い頃よく着ていたお気に入りだ。
イリスは背中を丸め、縮こまるようにしてスープを口にする。
氷雪に支配された岩山とは違って、アレスの家は小さくても暖かで心地良かった。手狭な食卓で2人は冷えた体を温めている。
その後ろにある台所では、ヒルダが干し肉の塊をさばいていた。
半時間ほど前、見ず知らずの娘をアレスが連れて帰ってきたとき、ヒルダは自分の若き頃を連想した――彼女は息子と反対に、傷ついた旅の若い男を家に助け入れたのだが。何の巡り合わせか、後にその若者がアレスの父となったのである。
9
「ところで、君はオーリウム人?」
アレスは不思議そうな顔をする。目の前に座っている謎の少女は、彼の話す内容のうち、少なくとも半分程度を理解できているように見える。さらにはアレスたちが使っているのと同じ文字で、自らの名前を記したのである。
そのくせ《オーリウム》という言葉を聞くと、少女は首を傾げた。恐らくそれは彼女にとって未知の言葉なのだろう。きょとんとした目でアレスを見つめている。とかく表情の変化に乏しい娘だった。
「困ったな。君、どこから来たの? えっ、俺の言ってること、分からない?」
今度はイリスの方が、彼にペンと紙を押しつけた。
アレスは苦し紛れに笑っている。実はあまり文章が書けないのだ。それでも地方の平民の子が読み書きできるという事実は、オーリウム王国の文化水準の高さを物語る。国によっては、貴族ですら満足に手紙も書けない者が、いまだに少なくないという。
できるだけ丁寧な字を書こうと試みたものの、ペンを握るアレスの指は、緊張のせいで逆にぎこちなく動いてしまった。所々でペン先が紙に引っかかり、文字の周囲にインクが滲んでいる。
《君はどこから来たの?》
イリスは紙面をじっとにらんでいたが、やがてアレスが難渋して綴った言葉のうち、《どこから》という部分を丸で囲んだ。
「そうそう、それだよ、それ! イリスの故郷はどこ?!」
アレスは小踊りしてテーブルから立ち上がる。
身を乗り出したままの彼に対し、イリスはおっかなびっくりした様子で了解の意を示した――もちろん話し言葉によってではなく、首や視線の微妙な動きを通じて。
達者な手つきで彼女が書いた地名は、アレスには聞き覚えのないものだった。
「エ……えーっと、何、エルト……ランド? 《エルトランド》なんていう国、どこにあったかな。小さな国かい? ごめん、絵で描いてくれよ。分かる? 世界のどの辺りなのか教えてくれないか。あ、分かってくれた? へへっ。よかった」
時々手を止めて考え込みながら、イリスは地図を描いていく。島のようなものが4つ。その周囲には、さらに小さな島々が点在する。
「そうか! エルトランドって、どこかの島なんだな? そりゃ分かんないよ。俺、海も見たことないんだぜ。父ちゃんが、いつか連れて行ってやるって……。凄くデカイんだろ? 海って……」
父と暮らした日々を不意に思い出し、アレスは胸の痛みを感じた。
彼のそんな気持ちなど知るはずもなく、イリスはそっけない調子で首を左右に振る。
アレスは気を取り直して、少女の指の間からペンをそっと抜き取ると、紙にこう書き加えた。
《君の島は世界のどのあたり?》
それを見た途端、イリスは訝しげな目つきになった。
《これ 島 違う。これ 世界。知らない?》
現世界人のアレスにも分かりやすく伝えようとして、イリスは文章ではなく単語を並べ立てる。
10
イリスが使っている言葉は、間違いなくオーリウム語の源流となった古代言語だろう。それと現在のオーリウム語とを比べてみると、両者の間に横たわる時間的距離にも関わらず、意外にもそれほど変わりがないのである。文法的には多少異なるにせよ、個々の語彙自体に大した差はなかった。アレスとの短いやり取りの中で、イリスは早くもそのことに気付いていたのだ。
しかし困ったことに、最も大事な前提を――イリスが旧世界人であるということを――アレスはまだ理解していない。恐らく彼は、イリスのことを、変なオーリウム語を書く外国人だとでも思っているのだろう。
自分が描いた大雑把な地図を指さしつつ、イリスはペンで地名を書き入れていく。どういうわけか4つの島々の名前の後には、すべて《大陸》という言葉が付け加えられていた。誰もが知っている通り、このイリュシオーネに《大陸》はひとつしか存在しないはずなのだが……。
「おいおい。イリス、ちょっと待ってくれよ。いくら俺が田舎者だからって、イリュシオーネ全体の形ぐらいは知ってるぞ。何しろオレの父ちゃんは、世界を股に掛けるエクターだったんだから!」
父の冒険談を子守歌がわりにして、アレスは大きくなったようなものだ。勉強嫌いの彼も、そのおかげで各地の地理・文化に関しては結構詳しいのである。
一瞬、イリスは何かに気付いたような顔をして、またペンを走らせる。
《私 遠い 昔から お姉ちゃんと 一緒 来た。今 世界 昔と 違う》
アレスには、彼女の意図するところが全くつかめない。
――昔からやって来た? 何の冗談かな。
色々と空想をめぐらせていた彼は、イリスに袖を引っ張られて我に返った。
《お姉ちゃん 助けて。 私の お姉ちゃん 早く 助けて!》
彼女の唇が引きつり、喉の奥で息を鳴らして何か必死に叫ぼうとしている。
イリスの手からペンが滑り落ちた。彼女は駄々をこねるように机の上を叩いたり、勢い余ってテーブルクロスを引き剥がしそうになったりする。
わずか数秒……アレスが仰天しているその間に、テーブルの上の花瓶が水をぶちまけながら転がり、すんでの所でポットも床下に投げ出されそうになった。
「どうしたの、アレス? まぁ……っ!」
奥で料理をしていたヒルダが、何事かと振り向く。
「しっかりしろ!!」
イリスの手首を掴んだ瞬間――アレスは彼女の力が不意に抜けていくのを感じた。糸の弛んだマリオネットさながらに、少女の体はテーブルの上に崩れ落ち、そのままじっと動かなくなる。
《助けて。お願い、助けて。お姉ちゃん 悪者たちに……》
彼女は震える指先でペンを取り、また繰り返すのだった。
「あ、あはは。何でもないよ、母ちゃん。イリス、疲れてるみたいなんだ。だから、その……」
アレスは適当なことを言ってごまかしている。なぜそうしたのか、彼自身にもよく分からなかったが。
「そうね。イリスちゃん、疲れてるんだろ。もう少ししたら寝た方がいいよ」
ヒルダは少女の顔をしげしげと眺めた。冒険者稼業の夫を支えていた彼女のこと、自分も諸々の事件に多少は首を突っ込んだ経験からか、訳ありの人間に対してそれなりに目が利く。
「それにしても、今晩も冷えるわねぇ」
彼女は何度か頷くと、新しい薪を手にして暖炉の方に向かった。
11
◇ ◇
例の手紙をメルカの枕元に残し、ルキアンは医務室から出た。書いた本人がその場に居るというのも、何か奇妙だと感じたからである。
送り手と受け手とが直に顔を合わせないからこそ、手紙というのは、面と向かって話すのとは違う効果を持つ場合があるのだろう。
だが結局、本人を前にして伝えられないことは、文字を使っても上手く言えないのかもしれない。今更ながらルキアンはそう考えた。
そして回想する。
以前に何度か、彼はソーナに対する思いを書き綴ったことがある。もっともそれは恋文ではない。彼女に手渡す勇気など、少なくとも以前の彼にはあり得まい。
それは単なる詩にすぎなかった。
しかも他人には見せられぬ類のものだった。
己を満足させるための密かな言葉遊びだと彼には分かった。
すました言葉で妄想を書き連ねたものにすぎなかった。
だからルキアンはその詩を破いて海に捨ててしまった。
色々と思い返していると、首筋から頬へと熱が昇っていくのを感じる。
――いやだな。恥ずかしい。
医務室のドアを背にして、彼は独りで顔を伏せた。
廊下を行くクルーたちが、そんな彼を見て不思議そうにしている。
なぜかルキアンは、過去の日々にますます手が届かなくなっていくような気がした。他方、寂しい思い出と正面から向かい合うことを、彼は恐れなくなり始めていた。奇妙な感情。
――今頃、ソーナはどうしてるんだろう? 一体、どこに連れ去られてしまったんだろうか?
憂いを含んだ彼女の横顔が、彼の胸中に浮かんだ。
本来ならば、ルキアンはソーナの身を常に案じているべきはずであろう。彼自身もそのはずだった。けれどもあの事件以来、彼の身の回りに様々な出来事が起こりすぎて、こうして独りになったときにしか、彼にはソーナを想う余裕がなかったのである。
勿論、それもおかしな話だが、現にそういう心境なのだから仕方がない。今日だけを取ってみても、ソーナのことを四六時中考えていたかと聞かれれば、ルキアンは否と答えるしかなかろう。
彼はとんでもない問いを自らに投げかけた。
――僕は、本当にソーナのことを好きだったんだろうか?
不覚にもわき出てきた疑念に、彼は慌てて首を振る。
――何てことを?! でも……前はそんなこと考えてもみなかったな。いや、考えられなかったのかも。
曖昧な感情の中で、彼は後ろめたさを覚えた。冷たい自分に対して?
少し気持ちが落ち着いてきたと思ったら、また頬が熱くなった。
そのとき……。
「あれ?」
不意にルキアンの行く手に、白い何かがふわりと現れた。
人っ気の少ない廊下、しかも大方の場所は薄暗い。
彼は反射的に寒気を覚える。
それが幽霊なら……まだましだったろう。少なくとも彼にとっては。
いつ現れたのか、髪の長い娘がこちらの方を向いて立っている。
――エルヴィン?
初めて出会ったとき以来、ルキアンは、彼女と顔を合わせることを無意識のうちに避けていたかもしれない。
あの独特の目が苦手だったのだ。夢の彼方を幻視するかのごとき彼女の眼差しが、その虚ろな光の向こうで、実はこちらの心の奥底まで見通しているように思えてくるからである。
今さら引き返すのも不自然なので、ルキアンは素知らぬ顔で横を通り過ぎようとした。だが無関心を装おうとしても……そうすることで、かえって彼がエルヴィンを必要以上に意識する結果になってしまっている。
彼のそんな心中を読み取るかのように、エルヴィンは素通りさせてはくれなかった。
「こんばんは……」
何故か親しみのこもった声で、エルヴィンが話しかけてくる。
ぴくりとも動かない眉に、半開きの唇。青い目はルキアンをじっと見つめているのだが、そのくせもっと遠くに焦点を置いているように感じられる。整った顔立ちだけに、無表情さがなおさら際だってみえる。
【続く】
※2000年12月~2001年1月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第15話・前編
【再々掲】 | 目次 | 15分で分かるアルフェリオン |
選ばれし者と――選ばれざりし者。
だが星の因果律は、
歴史の歯車をもしばしば狂わせる。
◇ 第15話 ◇
1
枯れ枝を削っただけの杖を頼りに、アレスは急勾配の斜面を登っていく。
険しくも脆い岩場は、ただでさえ歩きづらい。それに加えて、いまだ深い残雪が足元を不安定にする。山登りならお手の物であるアレスでさえ、たびたび足を滑らせそうになった。
「ふぅ。思ったより大変だな。今頃は上まで辿り着いている予定だっのに」
登ってきた道を振り返った後、アレスは、連なる山の頂に視線を戻した。
白い地面から平らな岩が頭をのぞかせている。その上にあぐら座りした彼は、靴にこびり付いた雪を払い落とし始めた。
恨めしそうな顔の彼に向かって、隣でレッケが励ますように吠えている。
「なぁ、お前はどうして滑らないんだ? オレだって、こんなにしっかりした靴を履いてるのに……」
鋲の付いた靴底を指さして、ぼやくアレス。この地方独特のブーツだ。耐寒性に優れるばかりではなく、雪道でも滑りにくいように工夫されている。
他方のレッケは、アレスの周囲を何度もくるくると回り、楽しそうに息を弾ませている。カールフは寒冷地を好む魔物である。この手の雪と氷の世界は、レッケにとっては楽園のようなものだ。
無邪気に遊んでいる時のレッケは、どこか犬にも似ているような気がする。そんなことを考えながら、アレスは目的地の尾根を眺めた。ことさら何かを意識したわけでもなく、ただぼんやりと……。
麓にいたときよりも、例の光る物がずっと大きく見える。いつの間にか、かなり近くまで来ていたのだ。視点が変わったせいか、逆光も和らいでいる。
日の光を反射して銀色に輝く物体。今なら、その形がある程度分かるような気がする。アレスは突然立ち上がって目を凝らした。
「大きくて、人間みたいな形だけど……もしかして?!」
《それ》は彼にとって特別なものだった。見間違えるはずなどない。
「アルマ・ヴィオじゃないか。汎用型か!」
エクターの息子だけあって――何より、自らもエクターを目指しているだけあって、アレスはアルマ・ヴィオには詳しい。軍の使用する量産型ならば、その大半の名前を言うことができる。それどころか、各々の機体の武装や性能一般についても良く知っていた。
「銀色で……後ろに向かって膨らんだスカート。あの丸いのは楯かな? たぶん、大きなMTランスを持っているように見えるぞ。ということは……」
アレスは得意げに鼻先をこすって、何度もうなずいた。
「《シルバー・レクサー》だ! すごいぞ、3体もいる。でも何で近衛隊が、こんな山奥に来てるんだろう?」
居ても立ってもいられず、彼の脚は自然に動き始めていた。
が、その目の前にレッケが素早く飛び出す。《彼》はアレスの行く手を遮り、風上に向けて鼻先を動かし始めた。
「どうした? 何で邪魔するんだよ」
長く尾を引いて響き渡るレッケの遠吠え。アルマ・ヴィオのある場所とは違う方角に向かって、狼を思わせる声で吠えている。
いつもと違うレッケの様子に、アレスも不審に思って立ち止まる。
「あっち? そうなのか……おっ、あれのことか?」
シルバー・レクサーが並んでいる尾根の反対側、もう少し麓向きに下がった斜面に、小さな影がぽつんと見えた。全てが白い雪に覆われているだけに、それ以外のものが視界の中にあれば、容易に探し出すことができる。
「待てよ! 待てったら!!」
レッケが全力で走り出した。
仕方なく後を追うアレスだが、風のように駆け抜ける相棒の姿は、たちまち銀世界の向こうに小さくなってしまう。
レッケの俊足に遅れること十数分、アレスはそこで意外なものを見た。
このあたりでは見かけぬ金髪の娘が、雪の中に立ちすくんでいたのである。
不思議なことに――見知らぬ少女に対し、レッケは妙に親しげな態度で接している。彼女の足元にしゃがみ、頭をなでられている様子は、無邪気な子犬のようでさえあった。警戒心の強いカールフは、飼い主以外には滅多になつかないはずだが……。
2
凍てつく風が髪を舞い上げる。少女は冷え切った青白い顔をして、レッケに何か語りかけていた。近づいてきたアレスに気づくと、彼女は急に怯えた表情になり、走って逃げようとする。
だが彼女は、雪に足を取られて転んでしまった。いや、転んだと言うよりは、途中から力を失い、そのまま倒れたという方がよかろう。
少女の華奢な足先から血がにじんでいた。手足に無数の切り傷があり、その唇は血の気を失っている。ただ事ではないということは、アレスにも理解できた。
「き、君……どうしてこんなところで? それに、その……」
一方では彼女に同情しつつも、アレスは思わず頬を染める。
素肌の上に薄いマントを羽織っただけの娘。山頂からの強風にあおられて、白い体が見え隠れする。年頃の男の子にとっては、いささか刺激が強すぎた。
アレスはコートを脱ぐと、少女の前に放り投げた。
「早く着ろよ! 寒いだろ? それに、困るよオレ、そんな格好……」
悪びれた顔で背を向けるアレス。
雪原に大きなくしゃみがこだまする。
「くぅっ、でも全然寒くなんかないぜ!」
毛織りの長袖シャツ姿で、アレスは虚勢を張っていた。
そんな彼を、娘は黙って見ている。
「な、何だよ? どうしたんだよ……」
澄んだブルーの瞳で見据えられたアレスは、気恥ずかしそうに苦笑いする。
少女はわずかに口を動かした。だが声は聞こえてこない。
「もしかして、言葉……分からないのか? 君、外国の人?」
アレスが首を傾げると、少女は例のシルバー・レクサーの方を指さし、何かを恐れて縮こまるような身振りをする。その表情は恐怖を訴えていた。
彼女の意図が分からず、アレスは眉間にしわを寄せてうなっている。
すると娘は、いきなり彼の腕を掴み、無理に引っ張ろうとする。
「おい、ちょっと待って。何だよ?!」
少女はアレスを連れて山を下りようとしていた。
「え、なんで? だから、オレ、これからあのアルマ・ヴィオを見に行くところなのに!」
嫌がるアレスは、少女と反対側に向かおうとする。
彼が《アルマ・ヴィオ》と言った瞬間、彼女はその言葉に反応し、必死にかぶりを振った。
「え、何? アルマ・ヴィオがどうかしたのか?」
怪訝そうなアレスに向かって、娘は手で×印を作る。どうやら行ってはいけないと主張しているらしいことは、アレスにも飲み込めた。
何故かレッケも引き返そうとする。《彼》はアレスのズボンの裾をくわえて、しきりに村の方に引き返すよう勧めていた。
――どうしたんだろう? レッケまで……。でも、こいつのカン、結構当たるからな。
改めて少女を見たアレスに、彼女も真剣な面もちでうなずく。
「分かったよ、戻ればいいんだろ、戻れば……」
3
◇ ◇
クレドールは黒々とした樹海の上を飛んでいた。
眼下に広がるのは、見渡す限りの木々。文字どおり緑の大海である。
ネレイからアラム川沿いに遡ること約4時間――村や畑など、生活の匂いのする風景が次第に減り、いつしか地表は深緑一色に塗りつぶされていた。その後さらに2時間が経過したが、樹木の織りなす地平の果てに、いまだ中央平原は見えてこない。
「イゼールの森って、本当に広いんですね」
誰にともなくルキアンが言った。
彼の手前のベッドでは、メルカがすやすやと眠っている。こうしている間は、以前と同じく純粋無垢な顔をしているのだが……。
彼女を隣で見守りながら、ルキアンは時々窓の外に目をやっている。
一緒に外を眺めていたメイは、春の短い日が陰り始めるのを感じていた。
「そうなのよ。森を越えるまでに、たぶん真っ暗になっちゃうと思う。あと4、5時間はかかるみたいだから。ところでルキアンは、イゼールの森を見るのは初めて?」
「はい。この辺りには来たことがないですから」
「そりゃそうかもしれない……。田舎を通り越して、ほとんど人跡未踏の秘境だし。大体、普通ならこんな場所に来る用事なんてないわね」
デッキブラシに似た道具で床を磨きながら、フィスカも盛んにうなずく。
「うんうん。分かります。街からずいぶん遠いですから、ピクニックに来るのは大変ですよねぇ。道に迷っちゃうかもしれないですぅ」
「あの、そういう問題じゃないんだけど……」
必ずしも広いとは言えない医務室の中を、フィスカが右に左に駆け回っている。実は掃除や料理が趣味だという。意外に家庭的な面もあるようだ。
フィスカが窓際まで来たとき、ルキアンは邪魔にならないように、椅子を持って移動した。
「ご協力、感謝ですぅ!」
「あ、あは、えへへへ……」
フィスカの笑顔に乗せられて、ひきつった笑みを浮かべるルキアン。呆れて見ているメイに、彼は思い出したように言った。
「でも魔道士は、よくこの森に遺跡の調査に来るみたいですよ。僕の先生も、何度かここに足を運んでいました」
ルキアンはふと考えた。カルバと暮らしていたあの日々が、わずかここ数日のうちに、あたかも遠い幻のごとく思え始めたと。あの《日常》の持っていた圧倒的な現実感が、日増しに音を立てて崩れていく。
――僕はこれからどうなるんだろう? でも、どのみちもう引き返せないし、引き返すつもりもない……。
彼はメルカの寝顔をじっと見つめる。結局、この幼い子まで巻き込むことになってしまったのだ。
いかにも又聞きだと言わんばかりに、適当な口調でメイがつぶやく。
「あぁ、そういえば、クレヴィーもそんなことを話してたわね。この森をくまなく探せば、まだまだ沢山の遺跡が見つかるだろうって。どうしてだか知らないけどさぁ、旧世界の時代、この辺はとても栄えていたみたいなのよ。今はご覧の通り、木が生えてるだけなんだけど……」
「本当ですか?」
今の言葉に興味を覚えたのか、ルキアンは目を丸くして樹海を観察し始める。
「おい、少年! そんなことしても遺跡は見つかんないってば。だからあたしたちギルドが仕事を請け負って、わざわざ探しに行ったりするんじゃないの」
ルキアンの神妙な表情に吹き出して、メイは彼の背中を叩いた。手形が付きそうな勢いだ。いちいち叩かれる方としては、たまったものではない。
4
「まぁ……静かにしないと、メルカちゃんが起きてしまいますよ」
古文書の翻訳に疲れたのか、シャリオが奥の書斎から出てきた。
「先生、目の下にクマができてますぅ。昨日もほとんど寝てないんでしょ。夜更かしは美容の大敵ですよぉ!」
フィスカが心配そうに歩み寄る。小柄なシャリオを後ろからのぞき込むようにして、息が顔にかかりそうな所まで近づいた。
普段から身近に接しているせいか……変に距離感の近いフィスカにも、シャリオは慣れている様子だが。
メイは、不可解そうな顔をして肩をすくめる。
「無理しないでね。もしシャリオさんが寝込んじゃったら、一体誰がみんなを看てくれるのよ?」
「ありがとう。気を付けます……でも、もう少しで《樹》の謎が解けそうですから」
前髪が数本、シャリオの額に垂れていた。その様子がまた、彼女の顔つきをいつになくやつれて見せている。彼女は両手を挙げて伸びをし、肩の凝りをほぐしながら窓際に向かう。活字と格闘し続けていたシャリオにとって、イゼールの樹海は、目の疲れを癒すのには格好の景色だった。
「もしかすると、《樹》のあった場所をそのうち特定できるかもしれないのです……」
思わせぶりにつぶやくと、シャリオは窓外に視線を向ける。
樹海と言っても平坦な森だけが続くわけではない。標高自体はさほどでないにせよ、起伏に富んだ丘陵地の上に木が生い茂っているのだ。
所々に小高い丘が頭を出していたり、台地から落ち込んだ崖が土色の肌を見せていたりする。それらの複雑な地形に影響されつつ、密生した樹林の中をアラム川が蛇行しながら流れる。単調になりがちな風景に、ほどよくアクセントが加えられていた。
窓辺に並んで、森をじっと眺める4人。
やっと静まった部屋の中で、シャリオはゆっくりと、そして満足げに語った。
「天空の街々はやはり実在していました。ルキアン君にもお話しした通り、あの昔話に出てくる《樹》というのは……地上と天空都市とをつなぐ巨大な施設だった、と考えてほぼ間違いありません。旧世界の人々は、それをこういう名前で呼んでいたのです。すなわち、《世界樹》と……」
《大きな大きな木の昔話》
あるとき貧しい少年が、不思議な種を拾いました。
食べ物に困っていた少年は、畑にその種を埋めたのです。
すると、どうでしょう。
種から出た芽は、たちまち天に届くほどの大きな木になりました。
少年がその木を登っていくと、空の上に立派なお城がありました。
しかし、そこに住んでいたのは悪い王様だったのです。
家来の巨人を使って、王様はいつも雲の下の人たちを苦しめていました。
少年は悪い王様を懲らしめようと考えました。
そんな少年に力を貸したのは、妖精の娘です。
娘にだまされ、雲の巨人は、今度は少年の家来になったのでした。
雲の巨人はお城を壊して、王様を空から投げ捨ててしまいました。
それだけではありません。
雲の町に住む人たちも、みんな巨人に食べられてしまいました。
妖精の娘は悪い子だったのです。
はじめから娘は、雲の上の人たちがみんないなくなってしまえばいいと、
考えていたのです。
5
◇ ◇
「お父様……」
深緑色の厚い絨毯を踏みしめ、カセリナが書斎に入ってきた。
彼女は髪を丸く結い上げ、ぴったりとした白の胴着で上半身を覆っている。額や鼻の頭に汗がうっすらと残っているのは、つい今まで彼女が剣の練習をしていたためだった。頬も血色良く薄紅に色づいている。
代々の当主が使ってきた書架は、重厚な飴色のつやを見せる。
その中に収められているのも、芸術品の名に値する美しい書物ばかりだ。緻密に革張りされた表紙、見事な天金、装丁の隅々にまで意匠が凝らされていた。
ここがカセリナの父の――ナッソス公の安息の場になっている。狩りや武術を好み、猛々しい容貌を持つ公爵は、他方で愛書家でもあったのだ。
部屋の正面に大きな窓がある。鈍い黄金色の残照が、カセリナの方に向かって差し込んでくる。
その光の中に、父のシルエットが浮かび上がっていた。
「カセリナか。お前に言っておきたいことがあってな……。いま呼んだのはそのためだ」
精悍で孤高とした公爵は、猛禽類を思わせる独特の威圧感を備えている。彫りの深い、骨張った顔つき。鷲鼻の左右に寄りつくようにして、つり上がった両の目が光る。頭頂部を短い金髪が申し訳程度に飾っていた。
微かに、愛らしく首を傾けたカセリナ。貴族にふさわしい高雅な振る舞いを身につけている彼女だが……こうして父の前に立ったときには、年相応のまだあどけない様子もみせる。
そんな娘を見て公爵の表情が和らいだ。高慢で人当たりのきついナッソス公だが、一人娘には別人のように優しかった。特に妻を失ってからというもの、彼女の面影を日増しに強く表すカセリナを、公爵は半ば溺愛していると言ってもよい。
「お前にも言ってある通り、明日の朝、エクター・ギルドの代表とこの城で会談を行うことになった。もとより和平に応ずる気などないのだが……。それにしても、マッシアの馬鹿息子め!! 最近姿を見せぬと思ったら、まさかギルドの飛空艦に乗っていたとはな。あのような無頼の輩たちと交わるなど……王国きっての名門マッシア家が、聞いて呆れる!」
「ランドリューク様ですか。あの方のなさることは、私もよく理解できません」
控えめに表現したカセリナだが、彼女は実際にはランディを嫌っていた。
大貴族同士のよしみというのか、ナッソス家とマッシア家との間には親交がある。当然、一門の鼻つまみ者・ランディのことも、カセリナは幼い頃からよく見知っていた。彼女の評価によれば――ランドリューク・マッシア伯は、自堕落で酒浸りの遊び人で、軽薄な女たらし、そうかと思えば革命思想を吹聴する煽動者、とにかくどうしようもない男だと決まっていたのである。
多少は婉曲な物言いもするようになってきた愛娘に、公爵は目を細めた。だがすぐに険しい顔つきに戻ると、忌々しげにつぶやく。
「やつの顔を立てて……あるいは帝国軍到着までに少しでも時間を稼ぐため、こんな茶番のような和平交渉を行うことになったが。交渉の決裂は必然的だ。そうすれば、ギルドの飛空艦隊が攻撃してくるだろう」
「艦隊? お父様、やはりギルドはそんなに何隻も飛空艦を持っているの?!」
「残念ながらな。間に合わせの武装商船などではなく、旧世界の本物の戦闘艦をだ。徒党を組んだ無頼漢たちを好きにのさばらせておくから、こんなことになる。特に最近は、冒険者や傭兵だけでなく、貴族や神官までもが……各国の宮廷、軍隊、神殿、大学……至るところのはみ出し者が、噂を聞いて続々とエクター・ギルドに集まっているらしい。嘆かわしいことだ! 結局のところ、わが王国は、世界中のアウトローたちに安住の地を与えてしまっているのだから」
公爵は以前からギルドを快く思っていなかった。私的な傭兵集団にすぎなかったエクター・ギルドが、今では社会的序列に公然と挑戦するに至っている。そんなことは、保守派貴族の筆頭であるナッソス公からすれば許し難い。
6
「似たようなお話は、私も聞いたことがありますわ。デュベールから……」
その男の名を口にしたとき、カセリナの顔がぱっと輝いた。
父の目はそれを見逃さなかった。普段は娘の機嫌を損ねぬよう腐心している公爵だが、今日ばかりはあからさまに顔をしかめる。
「カセリナ、お前もお前だ……。二言目には、デュベール、デュベールと! 今までは黙って許してきたが、あのような卑賤の男と親しげに接するではない。まったく……エクターごときの分際で、これまでの恩を忘れおって」
「そんな言い方しないで、お父様! あの人だって、本当は辛いのですから。デュベールの立場だって考えてあげてよ!」
カセリナも負けん気になって言い返す。父に対しては比較的従順な彼女だが、デュベールのことに限っては、いつもこうして公爵と衝突するのだった。
「仕方のないやつだ。お前も、本当に母親譲りの頑固者だな……」
そのとき、カセリナの口調が不意に柔らかくなった。珍しく甘えた声で彼女は答える。
「いいえ。私が頑固なのは、お父様の娘だからですわ」
彼女は父に歩み寄ると、純真な笑顔の中に目を潤ませ、じっと見上げた。
「カセリナ……」
厳格な公爵も、ただの父親となって娘を抱きしめる。
戦いの気配がすぐそこまで迫っている今、残りわずかな平和の時を、父子は大切に味わおうとする。
だがそれも長くは続かなかった。胸にすがる娘をそっと引き離すと、ナッソス公は告げる。
「カセリナ、この父の頼みを聞いてくれ! もしものことがあるとも限らん。お前はこの城から離れるのだ」
「嫌です! 私はお父様やみんなと一緒に戦います!! 自分だけ逃げるなんて、そんなこと、できない……」
口元を堅く結び、うつむいて涙をこらえるカセリナ。しかし……。
薄れゆく落日の光を受けて、彼女の頬で雫が光った。
公爵はしばらく窓の外を眺め、無言で腕組みしていたが、やがて振り返った。
「私の娘……か。一度言い出したら聞くまいな。分かった。お前のためにも必ず勝ってみせる。だが、よいか、これをお前に渡しておく」
そう言って差し出された掌の中に、金色に輝くものがあった。
「この指輪には細工がしてある。人を即死させるには十分すぎるほどの猛毒が、仕込まれているのだ。万が一にもお前が敵の手に落ちたとき、下賤な者どもから屈辱を受けるよりは、これを使って潔く命を絶て……」
感情をあえて押し殺し、冷たく言い放たれた父の言葉。
カセリナも子供ではない。名誉を重んじる貴族には、こういう《習い》もあるということを――彼女も知っていた。
「最初からそのつもりでした。私もナッソス家の娘、覚悟はできていますわ。でもお父様、私は決して負けません。この命に代えても」
【続く】
※2000年12月~2001年1月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第14話・後編
【再々掲】 | 目次 | 15分で分かるアルフェリオン |
レーナは仕方なさそうに首を傾け、ちょこんと肩をすくめた。
意外にも、彼女はささやかな笑顔を浮かべている。
「そんなに自分を責めないでください。ルキアンさんだけじゃない、誰だって、自分のことで精一杯なんですから。他の人間の支えになれる人だって……強く立っているように見える人だって、本当は自分も誰かに支えられているから、そうして強いままでいられるんだと思います。だからルキアンさんは決して弱くない! こんなに弱い私だって、船のみんながいたからずっと……えっ?! やだ、あたしったら……あの、あ……」
熱く語っていた自分に気づき、レーナは今さらのように首筋まで赤く染まる。
言葉を飲み込んだまま、ルキアンは黙って指を震わせていた。
「私、そろそろ調理場に戻らないと! 母さんに怒られちゃう」
彼女は部屋の奥にいるシャリオに一礼すると、慌てて廊下を駆けていった。
メイとフィスカは、腕をつかみ合ったまま、唖然としてレーナの背中を見送っている。
14
「よく分かんないけど、人間できてるわねぇ、レーナって」
メイのいい加減な言葉に、ルキアンも無意識に頷いた。
――そうかもしれない、そうかも……独りじゃない。僕はここに居てもいいんだって……こんなにみんなが励ましてくれるのに、僕は……。
大切なことを思いだしたかのように、何もかも忘れて掌を見つめるルキアン。
――そうだよ、風は吹いてるのに。空はすぐ前に広がっているのに。どうして翼を広げてみようとしないんだよ! もう、あの日々の僕じゃないんだから。いつまで後込みしてるんだよ?! ルキアン、飛ばなきゃ!!
ひと言ずつ自問するたびに、何かが変わりかけていくような気がした。たとえそれが、どれだけ取るに足らないほどの移ろいであろうと……。
まだ落ち込んだ表情を崩さないまでも、ルキアンの心の深みに、光が射し込み始める。
2つの開いた扉の向こうでは、シャリオがそんな彼の様子にちらりと目を向け、また古文書の中へと視線を戻すのだった。
◇ ◇
上空から望む雲海の景色は、様々に例えられる。
起伏の多い雪原を思い起こす者もいれば、良質のクリームを泡立て、一面に流し込んだ光景のように見える者もいるかもしれない。いずれにしても、地上から眺める空の美しさとはまた一味違っている。
この興味の尽きない雲の大海を、2つの影が遠く見つめていた。
クレドールの最上層を周回する廊下に、白と黒の落ち着いた衣装に身を包んだ男と、赤・茶系統のユニークな彩りをまとった男が立っている。
素晴らしい眺望を持つこの回廊だが、艦が臨戦態勢に入っているせいか、今は彼ら以外の誰の姿もなかった。
「不思議なもんだねぇ……」
やや甲高く、それでいてよく通る声でランディは言った。ガラス沿いの手すりにもたれ、彼は窓外に目を向ける。
彼とは反対側、廊下の壁際に立っているのはクレヴィスだ。ランディの言葉に対し、敢えて《何が?》とは質問せず、黙って目を伏せたまま聞いている。
「この景色さ。初めて飛空艦から見たときには、驚いて言葉も出なかったが……いつの間にか、こうやって眺めていても大した感慨を覚えなくなっている。何というか、刺激がほしいもんだね」
ランディは懐から愛用のピューターを取り出した。しっくりと掌に馴染む大きさの、飾りっ気のない扁平な銀のボトルだ。彼は蓋を緩めながらつぶやく。
「飲むかい? いや、仕事中だな。こりゃ失礼」
いつも酒を手放さない無頼の伯爵は、琥珀色の液体を喉に流し込んだ。ひと口飲んだ後、彼は不意に真面目な顔つきになって言う。
「……いや、時々怖いことがあるんだ。この景色のように、俺たちの世界にある美しいものや面白いものが次第に色褪せ、またひとつひとつ、自分にとって退屈なだけの存在に変わっていく。俺がこんなこと言うなんて、おかしいか?」
嫌味なく、穏やかに鼻で笑って、クレヴィスは答えた。
「ふふ。それはあなたが、若くして他人よりも多くの物事を見過ぎたせいですよ。でも結局、この世の全てに飽きる前に、私たちの短い命など尽きてしまうでしょうが。生きたくても命を失ってしまう人のことを思えば、とても贅沢な悩みかもしれません。まぁ、人間が死ぬとき、この世界に多少なりとも失望を感じていなければ……あまりにやり切れなくて、最後の最後でさぞかし苦しむことになると思いますけどね。満足して死ねる人など、ほんの一握りなのですし」
三十路前後の男にしてはいささか割り切りすぎた言葉に、どこか寂しさが漂う。当の本人は、ごく涼しげな顔で空を見ているにせよ。
やれやれといった様子で、ランディは溜息をついた。が、期待していた通りの返答ではある。
「まったく、そうやってお前さんは、いつも《死》を基準に物事を考える……。けど、その通りかもしれんよ。生きてる間にせいぜい楽しみ尽くすさ。その点、この船で旅をしていると、何かと変わったことに出会えて便利だがねぇ」
いつもの軽薄な顔つきに戻って、呑気にピューターをあおるランディ。
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「自分でも時々あきれてしまいます……こういう船に乗っていると、死というのが人生の道連れのように感じられてくるのですよ。今回もまた、命を拾えるかどうか……。ところでランディ、ついでにまたひとつ、その変わったこととやらに付き合ってもらえると助かるのですが」
外から差し込む光を手で遮りながら、クレヴィスはランディの隣に並ぶ。
ランディは正面を向いたまま、気楽な調子でうなずいた。
「分かってるよ。ナッソスの件な……あれ、どうなったの?」
「このまま順調に進めば、今日の夜半過ぎにはラシュトロス基地に到着できます。翌朝、早くから申し訳ないのですが、さっそくナッソス家との交渉に向かってもらえませんか?」
途端に苦笑いするランディ。いかにも渋い顔で首を傾け、空々しく口笛を吹いている。
「おいおい……俺が朝に弱いって、よく知ってるだろうに。ん? 分かったよ、分かった。で、交渉の方はダメもとでやってみるが、具体的な予定はどうなってるんだ?」
何か思惑があるのか、クレヴィスは彼の問いかけにすぐには答えなかった。懐からチーフを取り出すと、眼鏡を外して曇りを拭き始める。小振りなレンズを窓辺にかざしつつ、彼は皮肉っぽい口振りで言った。
「明朝、ナッソス家からの飛空船が出迎えに来るということです。会談の場所は公爵の城。ギルドの船やアルマ・ヴィオの同行は一切無し、使節の人数も3人までに限定してほしいと……。それでも交渉の場に公爵を引っぱり出せたということで、ひとまずは満足すべきところでしょうね。あなたの他にこの艦隊の代表者として、ラプサーのシソーラ・ラ・フェイン副長にもお願いしてあります。彼女もあれで、メイに劣らぬタロスの名家出身ですから」
「さすが、よく分かってるじゃないか。格式張ったナッソス公のこと、交渉役はできるだけ貴族から選んだ方がいい。今どき貴族の肩書きなんて、カビの生えたコルク栓と似たようなもんだけど……それでも時々は役に立つ。しかし、あの女はちょっと苦手だな。もう1人の人選に気を使ってくれると助かる」
例の『新たな共和国について』を著したおかげで、ランディは旧タロスの亡命貴族から敵視されているのだ。メイとの関係がうまくいっていないのは、そのせいである。シソーラにしても、必ずしもランディを快く思っているわけではなかろう。
ただし懐の広いシソーラは、直情径行型のメイとは違い、表立って不快な顔を見せることはしない。それだけに、ランディとしてはかえって気を使ってしまう部分もあるのだろうが。
「問題はそれですね……貴族となると、適当な人物が少ないのですよ。エクターのメイには艦で待機してもらわねばなりませんし、なにより旧タロス系の人間が多すぎては、いらぬ勘ぐりをされかねません。アクスのディガ・ラーナウも、なかなか頭の切れる人ではあれ、まだオーリウム語を流暢には話せないのです。となると、シャリオさんしかいないのですが、彼女は……」
言葉を濁したクレヴィスに代わって、ランディが続ける。
「あぁ。神官はまずい。それに助祭神官くらいならまだしも、あの人はお偉いさんだからねぇ。おおかたメリギオスの狸親爺の差し金で、事実上、神殿は今回の反乱に対して中立ときたもんだ。《準首座大神官》がギルドの使節という立場で表に出ると、神殿との要らぬトラブルが起きる可能性もある。まぁ、実際に交渉に臨むのは、俺とラ・フェインの2人だけなんだろ? 無理に3人揃える必要はないと思うが」
「いや、単なる付き添い役に過ぎないにせよ、何かと人手があると便利です。実は運良く……もう1人、貴族がちゃんといましてね。ほら、あのルキアン・ディ・シーマー君ですよ」
意外な提案に、ランディはクレヴィスの顔をまじまじと見た。
「なるほど、例の噂の少年ねぇ。随分と彼を買っているようだが……大丈夫なのか? 見た目には、大いに頼りなさそうな気もするな。しかしまぁ、それなりに品もあるし人相も悪くないから、儀式の飾り物には使えるかもしれん。俺は別に構わないよ」
「そうですか。では、さっそく彼にも……」
軽く黙礼して、クレヴィスは再び眼鏡をかけ直す。にこやかな目がレンズの奥に見えなくなった。
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◇ ◇
旧世界の少女たちは、悲痛な表情で肩を寄せ合っていた。
もう1人の男が冬眠中に命を落としていたことに、やはり相当なショックを受けているらしい。黒髪の娘は、男の遺体が閉じこめられた石版にすがりつき、さきほどまで決して離れようとしなかった。逆に金髪の娘の方は、彼の無惨な姿を見つめることができず、ずっと顔を伏せて泣いたままだった。
今、そんな彼女たちを優しく包んでいるのは……地底の遺跡には似合わぬ、明るく柔らかな光。この部屋に使われている《光の筒》の輝きは、自然の光線に比較的近い。
2人が座っている旧世界の椅子は、どれほど古い物であるのか見当も付かないが、象牙に似た質感を持つ不思議な材料でできている。しかも見かけや大きさのわりに、木製の椅子よりも軽いほどだった。
「お腹、減っているでしょう?」
セレナは水とパン、それから少々の干し肉を差し出した。古文書による限り、同様の食物は旧世界にも存在していたらしいのだが。
「大丈夫よ。ほら」
灰色っぽい薄切りのパンをちぎって、彼女はまず自分で食べてみせる。
最初は口を付けようとしなかった少女たちだが、体を動かし始めたら急激に空腹が襲ってきたらしく、恐る恐る食べ物に手を伸ばす。
「イリス。このパン、美味しいよ」
黒髪の娘が金髪の娘に小声で言った。
「そうでした、申し遅れましたが……私の名はセレナ・ディ・ゾナンブルーム。国王陛下にお仕えするパラス・テンプルナイツの機装騎士です。怪しい者ではありません」
何度か間違えそうになりながらも、セレナは慣れない言語で自己紹介する。
「王様? 騎士? それにあなたの格好も、おとぎ話に出てくる人みたいで素敵ね。私はチエル、こっちは妹のイリス」
流れるような黒い髪を持つ姉は、初めて笑みを浮かべてみせた。
それに比べて妹の方はにこりともしない。その小さな口にパンを含み、無表情な目で床を眺めている。
多少は元気になってきた2人を観察しながら、セレナは何事か思案していた。しばらくして意を決し、彼女は丁重な口振りで問いかける。
「チエルさん、さっそくですが……いま私たちの王国は存亡の危機に瀕しているのです。この遺跡に眠る《パルサス・オメガ》を蘇らせ、その偉大な力を借りなければ、王国は滅びてしまうかもしれません。そこであなたにも助けてほしいのです」
何度か頷きながら、チエルは黙って聞いていた。
ほとんど支障なく会話できていることを知り、セレナは安心して続ける。
「私たちが入手した極秘文書によれば、《大地の巨人》を目覚めさせるためには、《鍵》となる言葉が……つまり、あなた方の言葉でいう《パスワード》が必要だということです。おそらくチエルさんは、その言葉を知っているのではありませんか?」
しばし沈黙があった。セレナはじっとチエルを見つめる。活発で賢そうな、同性の目からみても魅力的な娘だ。
返事をしないチエルに、業を煮やしたセレナが語気を荒らげて尋ねる。
「ねぇ、知っているのでしょう? 答えてください!」
まだ15、6という年のわりに落ち着いたそぶりで、チエルは大きく息を吸い込んだ後、きっぱりと言った。
「ごめんなさい。私はあなたのことも、今の世界のこともまだよく知らない。だから、あなたたちにパルサス・オメガを渡して良いものかどうか、確信が持てません」
顔に似合わず、歯に衣着せぬ物言いをする少女。厳しい表情で聞き入るセレナに対し、チエルはこう語った。
「まず国王という方に会わせてください。それからでないと返答しかねます。クリスタル・スリープの不具合で亡くなられたカロルム博士――さきほどの石版の男性――に代わって、私は見極めなければなりません。未来のあなたたちが、《巨人》を手にするに相応しい者であるかどうかを」
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少女が自らの使命を立派にやり遂げようとする姿に、セレナは心を打たれた。しかし現状を考えると、チエルの悠長な主張を受け入れるわけにはいかない。
「ここしばらく、国王陛下のご病状が悪化しています。代わって宰相のメリギオス猊下が、必ずやあなたとお会いになられるでしょう。ただし《大地の巨人》を先に確保してからでない限り、我々は城には戻れないのです。機装騎士の名誉にかけて約束します、猊下とは後で必ず……」
少女は、セレナの言葉を途中で遮った。
「失礼ですが……私たちは、あなたが思っているほど、名誉や誓いという曖昧なものに信頼を置いていません。それに、さきほども言ったはず。今の世界のことも、今の世界の人々のことも私には全く分からない。そんな未知の人たちとの約束を、急に信じろと言うのですか? そんなに急かさないでください。もっと、お互いに理解し合うための時間が必要だと思います」
騎士の名誉に価値などないとするチエルの言葉に、反感を覚えたセレナだったが、ここは平静を保って懇願した。
「あなたのお気持ちはよく分かります。でもチエルさん、私たちには時間がないのです。こうしている間にも、この国は……」
気丈なチエルは、頑として突っぱねた。
「何と言われようとも、今は教えられない」
そのとき、背後の扉が開き、数名の人間が鎧の音を鳴らして入ってきた。
「困ったなぁ。そんなこと言わずに教えてくれないかな。セレナさんも言ってたけど、僕たちは《巨人》を発見しないと、お城に帰れないんだよね」
「ファルマス?!」
絹のように柔らかで品の良い声とは裏腹に、人を小馬鹿にした喋り方。一度聞いた者は忘れないであろう、あの男の言葉である。パラス・テンプルナイツ副団長、ファルマス・ディ・ライエンティルスその人だった。
彼と共に現れたのは4人――縁付きの大きな帽子を被った美青年と、射抜くような目をした黒ずくめの剣士、大胆な革の衣装に真っ赤な髪の女、そして黄金色の防具に身を包んだ怜悧そうな騎士。
何が嬉しいのか、ファルマスは変に無邪気な口調でチエルに言う。
「いやだなぁ、心配しなくていいよ。僕たちは、旧世界人の過ちをちゃんと学んでいるからね。だから、この世界を滅ぼすほど馬鹿じゃないつもりなんだけどな。それに君も……右も左も分からないんだったら、もう少し言葉に気を付けた方がいいと思うよ。あはは、もしかして頭の方はまだお目覚めじゃないのかな? いや、冗談だよ、冗談。あははは」
身も蓋もない言葉を吐いておきながら、ファルマスは少しも悪びれることなく笑っている。やがて高笑いするのにも飽きると、彼は隣にいた女に尋ねた。
「でも、エーマさんもそう思うでしょ?」
赤く染めた髪を跳ね上げると、彼女は見下すようにチエルを睨んだ。
「まったく……。私たちが《巨人》に相応しいかどうか見極めるだなんて、何様のつもり? 旧世界の人は、ろくに口のきき方も知らないのかしら。こんなお上品な娘さんなのに、実はしつけが足りないのかねぇ?」
彼女が高慢な声でそう言うが早いか、何かが強烈な勢いで床を打ち据える。
弾けるような、乾いた炸裂音が周囲にこだました。
黒光りする革のグローブに包まれた手から、蛇を思わせる茶色いものが垂れ下がっていた。獰猛に身をくねらせる、太い鞭だ。
「エーマ?! あなた……」
「冗談よ、セレナ。今のはほんのご挨拶じゃないの。まぁ、あたしは野蛮なことはしたくないんだけどさ……この悪い手の方がどうも気が短くて、あたしの言うことを聞かないときがあってねぇ」
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エーマは束ねた鞭を引き絞り、ピシリと威圧的な音を鳴らす。
怯えたイリスは、チエルの背中にすがりついた。チエルも妹をかばい、必死にエーマをにらみ返す。
そんな少女の顔を、満面の笑みを浮かべてのぞき込むファルマス。
「あはは。そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。別に、僕たちは悪者じゃないんだから。君が答えてくれさえすれば……食べ物も、服も、暖かいベッドも、みんな用意してあげるよ」
怒りに満ちた視線をチエルが投げかけると、ファルマスは両手を開いて、彼女をあざ笑うようなジェスチャーを見せた。
「えっ、どうして駄目なのかな? どうせ後で《話すことになる》のだったら、今話しても同じだと思うけどなぁ。物事はできるだけ効率的に進めないと……」
突然、エーマがチエルに近づく。長い爪をもつ指で、チエルの顎をくいっと持ち上げた。
「自分はまだ話すとは言ってない……なんて思ってるんでしょ? お馬鹿さんねぇ。どうせあんたは、泣いて許しを請うことになるんだから。うふふ、素敵よ、その目つき。いつまでそんな顔をしていられるのかしらねぇ」
「エーマ、いい加減にやめ……何よ?!」
あまりに野卑な言動を見ていられなくなって、セレナはエーマを少女たちから引き離そうとした。しかし、金色の籠手がセレナの手を遮る。
「ラファール、貴方まで……」
非難を込めたセレナの眼差しに、黄金の騎士は無言で首を振った。一瞬、その冷たい瞳が彼女の視線とぶつかり合う。
帽子の男と黒ずくめの剣士も、素知らぬ顔で事態を見守る。
ファルマスは相変わらず目を細めていた。
「まぁまぁ。でもセレナさんには、ダンと一緒に外で見張りをしてもらう方が良かったかな。こんな仕事は嫌いでしょ? ごめんなさい、僕の不手際だなぁ。どうしたの? セレナさん、怒ると怖いんだから。そのキツい顔、旧世界のお嬢さんといい勝負だね。あははは」
――本当に、この男は……。
セレナは渋々引き下がり、不機嫌な様子で壁際にもたれた。
ほとんど脅迫に近いエーマの態度に、チエルもひとまず屈したかのようにみえた。
「分かりました。教えますからこちらに来てください。大丈夫よ、イリス」
震える妹の肩を抱きながら、彼女は廊下に出る。
「あの、しかし……」
ファルマスらのぞんざいなやり方に、強い違和感を覚えるセレナだったが、彼女は言葉を飲み込んだ。
最初からチエルを信用していないエーマは、彼女の腕をしっかりと捕まえる。
「いいかい、もし逃げようとしたってそうはいかないよ。まぁ、あたしの鞭から逃げられる自信があるのなら、挑戦してみるのもいいかもしれないけど」
姉のことを気遣いながらも、イリスは、ただ恐れおののいた目で見ているしかなかった。
彼女とチエルを先頭に、パラス・ナイツの一団は廊下を進んでいこうとする。
だが……。
突然、チエルは妹を前に力一杯突き飛ばし、壁に手をかける。
カチッという音がした。
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それと同時に、目の前を右から左へと何本かの光線が走り抜けた。足元から天井まで、通路の壁と壁の間に太い光の筋が走っている。ちょうど鉄格子のように。
「イリス、逃げるのよ! あたしのことは構わず、さぁ、早く!!」
決死の形相で叫ぶチエル。
光の檻が自分たちとイリスとの間に立ちふさがっているため、パラス騎士団の面々は前に出ることができない。
「人間なんか、この光線に貫かれれば即死だわ。命が惜しかったらここに突っ立っていることね」
非常用のレーザー・シャッターを前にして、チエルは不敵に言い放つ。
イリスは床に倒れたまま、呆然とこちらを見つめている。一生懸命に何か言おうとしているのだが、やはり言葉にならない。
「早く、私の犠牲を無駄にしないで!! 行きなさい……お姉ちゃんの言うことが聞けないの?!」
なりふり構わず、髪を振り乱し、命がけで自分を逃がそうとする姉の姿を見て、イリスは脚をすくませながらも立ち上がった。何度も何度も振り返り、彼女は廊下の奥へと姿を消していく。
「よくもやってくれたわね。後でたっぷりお返ししてあげるから……覚悟はいいかい?!」
見事に一杯食わされ、腹の虫が治まらないエーマはチエルの頬を打とうとする。だが彼女が振り上げた手を、ファルマスが掴んで止めた。
「困るなぁ。勝手に乱暴しちゃ駄目だよ、エーマさん。猊下からのお許しが出るまで、この娘に指一本触れてはいけないからねっ。分かった?」
天真爛漫な表情の中にも異様な怖さを秘めたファルマスに、さすがのエーマも黙って従うしかなかった。
「それにしてもチエルさん……野蛮な外界に妹さんを放り出すなんて、君も意外と残酷なんだね。人は見かけによらないなぁ。怖い怖い。あんな可愛いお嬢さんが無防備にさまよっていたら、すぐに山賊やならず者たちの餌食になっちゃうよ。本当、可哀想だなぁ……」
実際には髪の毛一本ほどの同情心もなく、ファルマスはつぶやいた。
なおも暴れるチエルは後ろ手に縛られ、全く理不尽にも、罪人のごとく引き立てられていく。これにはセレナだけでなく、ラファールまでも顔をしかめた。
屈辱的な姿を晒す旧世界の娘に向かって、ファルマスは子供っぽく首を傾け、ウィンクして見せる。その一点の曇りもない笑顔は、かえって異常以外の何物でもなかった。
「僕はね、君みたいに賢くて勇気のある人が大好きなんだよ。君の気持ちに免じて、当分、イリスさんのことは見逃してあげる。それにさ、無意味な手間をかけてあの子を探さなくても、《大地の巨人》のことは君が全部教えてくれるだろうって、期待してるんだ。そうだよねっ?」
セレナは怒りに手を震わせていたが、これ以上事を荒立ててもまずいと考えたのか、敢えて自重する。
――私はいつも卑怯な人間。口では綺麗事ばかり言っておきながら、最後には自分の身が可愛くて。だからクルヴィウス、あなたのことも結局は私のわがままで……。
【第15話に続く】
※2000年11月~12月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第14話・中編
【再々掲】 | 目次 | 15分で分かるアルフェリオン |
「あれは……あれは、何だ?」
「見ろ、天空軍のアルマ・ヴィオの群が倒されていく。いや、かき消されていく!!」
まだあどけなさの残る機装騎士が叫び、隣にいた同じ年頃の仲間と顔を見合わせている。お互いの蒼白な表情を、彼らは生涯忘れないだろう。いま眼前で展開されているのは、それほどに異常な光景なのだ。
目を見開き、言葉もなく画面に食い入るセレナ。
無表情な古典語が、彼女の耳に流れ込む。
「しかし天空人は、彼ら自身の中に破滅の《芽》を内包していた。……を機に地上界に追放されていた天空人……博士が、生きた……自己進化型……の……《パルサス・オメガ》を造り上げたのだ」
そうしている間にも、映像は刻々と変化していく。遙かな祖先の時代に繰り広げられていたであろう出来事が、生々しいまでに再現される。
スクリーンの中で動いている《それ》――天空軍のアルマ・ヴィオを瞬時に破壊しながら、無数の砲撃の中を、平然と、恐ろしいほどの威圧感をもって進んでいくもの――が、まさに《大地の巨人》なのだ。
止められない身震い。セレナの頬が張りつめた。
「こんなことって……こんなものが、本当に実在するというの?!」
彼女は動揺を必死に押さえ、心の中で自問する。
――メリギオス猊下のお考えは、この巨人の《力》を知ってのことだったのか。確かに王国は救われるかもしれない。しかしこれが今の世に蘇れば、その後は一体……。私たちのやっていることは、本当に……正しい? いや、何を迷っている、私は?
その場にいた者は、大地の巨人の底知れぬ力に恐怖すら覚えた。
呆然と見つめる彼らの前で、画面がまた変化する。それに応じて機械の声は告げた。
「パルサス・オメガの力は、我々の予想を遙かに超越していた。地上に展開していた膨大な数の天空軍は、このたった1体の巨人のために次々と撃破されていったのである。これに力を得た地上軍は総力を結集し、あの《世界樹》を奪取すべく反撃を開始する。地上人の思わぬ巻き返しに脅威を感じた天空人は、パルサス・オメガに対抗しうる最強の……である《空の巨人》、すなわち……」
光り輝く何かが映し出された。それが長い尾を引いて飛ぶ様は、彗星のように見える。あまりにまばゆく輝いているため、その中心にある影の正体は分からない。
8
そのとき、1人の機装騎士が血相を変えて部屋に飛び込んできた。
「失礼します! セレナ様、こちらへお越しください、とんでもないものが!」
「申し訳ありません。後にしてください」
彼女は横目で彼を一瞥すると、すぐに画面へと視線を戻す。
だが機装騎士の次の言葉は、彼女の頑なな背中をも振り向かせるだけの、抗し難い響きをもっていた。
「それが、セレナ様、旧世界人が! 生きた旧世界人が……」
「何ですって?!」
さすがの彼女も、手元のスイッチに触れて映像をいったん中止させると、落ち着かない早足で部屋を出て行かざるを得なかった。
◇ ◇
アシュボルの谷のはずれ。直立した細身の針葉樹が立ち並ぶ、小さな森。
季節が夏であれば、苔むした下草が木々の間に生え広がるはずだが、あいにく今の時期には全てが雪に覆われていた。
しかし、依然として続く冬景色の裏側に、微かな春の兆しが現れ始めていた。
冷たい雪の下で、陽光溢れる春の日を待つものがある。
シャベルを担いだアレスが、1本の木の根本をじっと見つめている。
彼の隣で、前足を使って地面を突っつくのはレッケである。
「ここが怪しいってか? ちょっと掘ってみるぜ」
金と白の毛皮を持った相棒に話しかけながら、彼は雪面を掘り起こす。
開けた谷間の雪とは違って、少し古くて湿った感じがする。
積雪は意外にわずかだ。体力の有り余っていそうなアレスにかかれば、地面が見え始めるのもすぐだった。
レッケは赤茶色の土に鼻を押しつけ、盛んに嗅ぎ回る。カールフは、狼と同様に嗅覚にも優れる動物なのだろう。
「えーっ、ない? また無駄骨かよ。ふぅ……」
アレスは情けない声を出した。レッケは素知らぬ顔で別の木々の根元を調べている。
「早く探さなきゃ、母ちゃんにまた文句言われるぞ。つぎ行こうか、レッケ!」
苦笑いしたアレスは、森の端の方へと歩き出した。
彼らが探しているのは、ペトーシュという植物だった。春に白い花を咲かせるこの野草は、すでに晩冬の頃から雪の下で成長し始める。ラプルスの人々の間で、その新しい芽は薬草として重宝されている。アレスも母に頼まれ、この植物を探しに来たのだ。
「今年はいつもより冬が厳しかったからなぁ。まだ土の下でしぼんでるんじゃないか?」
そう言うと、アレスはマフラーをやや強く締め直した。
「寒っ!」
昼過ぎの今、太陽が高く昇る時刻ではあれ、森の中にはあまり日が差し込まない。幸い今日は雪も降っておらず、穏やかな天気だが、それでもじっとしているとすぐ体が冷えてくる。
次第にやる気をなくしてきたアレス。雪の大好きなレッケが勝手にあちこちほじくり返しているのを無視して、あたりの景色を呑気に眺め始めた。
「どこを見ても真っ白だと、飽きちゃうよな。早く夏にならないか……あれ? あそこで光ってるのは何だろう?」
木々の間から、向こうの尾根の上で銀色に輝くものが見える。やや遠くにあり、また逆光気味の背景のせいもあって、何かははっきり分からない。
「ここから見てあの大きさなら、結構デカいぜ。しかも1つじゃなくて、2つ、後ろの方に、もう1つ見えるぞ。レッケもこっちに来て見てみろよ」
急に元気を取り戻した少年は、すかさず手招きした。
「なぁ、行ってみようか?! ちょっと登りがきついけど、夕方までには帰れる距離だし」
父親譲りか、あるいは大自然の中で育った男の子の常か……アレスはとにかく冒険好きなのだ。好奇心で一杯の目に、眩しいほどの輝きを浮かべて。
9
◇ ◇
何とも不思議な場所だった。
すでに部屋にいた機装騎士たちがランプを掲げると、淡い橙色の光が暗闇を照らし出す。
四方の壁は全て計器類に埋め尽くされ、床には多数のパイプやケーブルが這いずり回る。それ以外には特に設備や調度も置かれていない。からっぽの空間に存在するのは、横向きに寝かされた3枚の《石版》だけである。
石版の表面は堅く、緻密で傷ひとつない肌が光っていた。長さは約2.5メートル、幅は1メートルと少しであろうか。ガラスに似た極めて透明度の高い石でできている。
薄明かりの中、3つの石版が冷たい輝きを見せる様は、一種独特の美しさを漂わせていた。だがそれだけなら、敢えて驚くほどのことでもなかろう。
どうやって封じ込めたのか、それぞれの石版の中で人間が1人ずつ眠っているのだ。そう、あくまで《眠って》いるだけである。死した躯が棺に収められているわけではない。
セレナが部屋に入ってきたのを知ると、機装騎士が石版にランプを恐る恐る近づける。
「石の中では息ができませんし、最初は死んでいるのかと思ったのですが……私たちがこの部屋に入り込んだときから、急激に血色が戻ってきているのです」
「恐らく、古文書に出てくる《クリスタル・スリープ》です。私も実際に見たことはなかったのですが」
3つの石版へと交互に視線を走らせ、セレナは興味深げにつぶやいた。
「人間を仮死状態にし、その肉体を半永久的に、しかも老化なしに保存する技術です。この水晶の棺のような石……これは、アルマ・ヴィオの《ケーラ》の仕組みを応用した特殊な結晶体で、外部との霊気の収支を保持する事ができるのですよ」
旧世界の技術にも通じた彼女は、その博識ぶりを発揮する。魔道騎士というだけあって、単に武器を振り回すだけの戦士とは違うのだ。
自らの言葉も終わらぬうちに、セレナは手前の石版の側にかがみ込んだ。その中で眠る者の姿に、驚嘆の息をもらしながら。
透明な結晶に包まれて、1人の少女が安らかに横たわっていた。
明らかに生きている。透き通るような体が、少しずつ薄い紅色を帯びていく。その肌の色は、紛れもなく血の通った人間のそれである。
「これが旧世界人ですか。綺麗な娘(こ)ですね。」
「あ、はい。あはは……セレナ様もそう思われますか。可愛いっすよね」
機装騎士らしからぬくだけた言葉で、若い男が答えた。あとわずかで20歳に手が届きそうな年頃だ。まだ見習いを終えたばかりなのであろう。焦茶色の短い髪がよく似合う、人なつっこそうな若者である。
2人の声が間近で響き、少女は今にも目覚めそうに見える。
黄金色の豊かな髪、どこか切なげな長い睫毛、すらりと通った小さな鼻、柔らかそうな唇。水晶の中に横たえられた体は、まだ大人になり切らぬ、さりとて子供でもない、妖精を思わせるほっそりとしたものだった。全てを脱ぎ去った少女の姿は、旧世界人と言っても今の世界の人間とどこも変わるところがなかった。
さきほどの機装騎士は、この美しい娘の姿を横目で見ては、目尻と頬を弛ませている。
「ロッシュ! 騎士たる者が、こんな時に……そのだらしない顔は何です?」
セレナは眉をきっとつり上げた。もっとも、よく見ると彼女の目にそれほどの厳しさはない。手慣れた様子で呆れているだけだ。
「申し訳ございません、セレナ様。以後、注意いたします!」
彼はきまりが悪そうに頭を下げ、照れ笑いした。
10
セレナは溜息をつくと、もうひとつ隣の石版を見て言った。
「それにしても……この娘たち、姉妹かしら。よく似ていますね」
そこに眠る別の少女は、口元や輪郭など、さきほどの少女と確かに似通っている。背丈も年頃もほとんど同じだ。
しかし唯一、かつ大きく異なる点がある。それは、こちらの娘が見事な黒髪の持ち主であることだった。
セレナはさらに3つ目の石版の方へと歩いていくが、その足取りはなぜか重い。彼女は瞼を伏せ、祈るように胸に手を当てた。
「もし動かすことができそうなら、この石版を別の場所に移動してあげてください……」
しんとした部屋に、普段よりも低めのセレナの声が響く。
「彼女たちが目覚めたとき、これを見たらどう思うことでしょう。《彼》は、少女たちと深い関わりのある人なのだと考えられますし。彼女らの体力が回復するまで、これを見せてはいけません」
そう言うと彼女は目線を背け、横顔を物悲しく曇らせた。
「セレナ様、これはどうしたことで……」
石版に手を掛けた機装騎士の1人が、辛そうに尋ねる。たぶん実戦など経験していない彼は、惨たらしい遺体を見るのにはまだ慣れていないのだろう。
「不幸なことに、《冬眠》の途中でクリスタルに異常が発生したのでしょう。別の安全装置も働かなかった……いや、室内の照明も点かないことからして、この部屋を管理する《知恵の箱》自体が、長い年月の間に壊れてしまっていたのかもしれません。それでもクリスタルさえ正常なら、外部的な装置の助けを一切借りなくても問題ないはずなのですが……」
最後の石版の中には、無惨に乾ききったミイラが眠っていたのである。干からびた皮膚は骨に貼り付き、変色し、髪も完全に乾燥してしまっている。その外貌は今となっては分かりにくいが、わずかに残った面影から考えると、20代から30代くらいの細面の男であろう。
この哀れな遺骸が封じられた石版を、機装騎士たちが全員で持ち上げようと試みたとき、何かにひびが入るような音がした。
別の石版の方だ。さらにもう一度、今度はやや長く音が響いた。
「表面に亀裂が、まさか、目覚める?!」
セレナがそう叫んだとき、少女たちの眠る2つの石版が急激な勢いで壊れ始めたのである。
堅牢に見えたクリスタルが、床に落ちた花瓶さながらに砕けていく。中央に生じたひび割れが四方八方に広がり、剥離した破片はたちまち風化する。
あっけなかった。一瞬の後にセレナたちが身構えた頃には、もはや両方の石版は粉々になっていた。
床には2人の娘が転がっている。今の衝撃と、背中の下の固さと冷たさに目を覚まされたのか、彼女たちの身体がぴくりと動く。
ついに、目が……開いた。
青い瞳。どちらの少女も同じ目の色だった。まさに彼女らが姉妹であることを、象徴しているかのように。
「ワタし……」
黒髪の娘の唇が、ゆっくりと動いた。
「めザめ、タノ……かシラ? ア、あなタ……ハ?」
ぼんやりとしたその言葉は、とても聞き取りにくかった。初めて耳にする旧世界の言語だ。
11
「なぜか、ごく少しだけ意味が分かるような気がしますね。オーリウム語に似ている。もしかすると、古代オーリウム語でしょうか? それなら……」
セレナは意味不明の言葉で話し始める。機装騎士たちにとって、それは旧世界人の少女の言葉と同様に、ほとんど理解し難かった。
「心配イリマセン。私ハ未来ノ地上人デス。大丈夫デスカ?」
《古典語》である。旧世界人なら、多少は理解できるはずだろう。
現に黒髪の少女は、今の世界のぎこちない古典語に反応した。横たわったまま、きょとんとした顔でセレナの方を見ている。
「私タチノ言葉……」
鈴の鳴るような透き通った声で返事をすると、彼女はゆっくりと肘を立て、状態を起こそうとし始める。
その場に居合わせた者たちにとって、瞬きすら忘れる場面だった。
徐々に起きあがろうとしながらも、すぐに床に倒れそうになる少女を、セレナが急いで抱き支える。
長い《冬眠》から覚めたばかりのためか、娘の体には上手く力が入らないらしい。《クリスタル》の魔力によって、ほぼ時の止まった状態で眠っていたとはいえ、やはり体力の消耗は著しいのだろうか。
「ロッシュ、ユーグ、マントを貸してください!」
有無を言わさず2人の機装騎士のマントを脱がせると、セレナはそれで少女たちの体を覆う。が……。
――しまった、あの石版の中の男?!
セレナが気づいたときにはもう遅かった。
衰弱した身体からは想像できないほどの声で、黒髪の娘が絶叫したのである。彼女は訳の分からない言葉で泣きわめき、セレナの腕をはねのけた。
機装騎士たちが慌てて少女をなだめようとするが、言葉が通じない。もしも互いの言葉が分かったところで、すぐにどうにかできる状況ではなかった。
あのミイラを見て、少女はほとんど錯乱状態に陥っている。
凄まじい悲鳴によって金髪の娘も目が覚めた。
周囲の状況が把握できず、彼女はしばらく戸惑っていた。赤と白、そして銀という派手な色が目の前を行き来する。古めかしい装束に身を包み、剣を携えた奇妙な人々。彼らが交わす見知らぬ言葉。幸いにも、自分と同じ姿を備えた人間であることには変わりないのだが。
ひんやりとした空気の感触――自分が裸同然の姿であることに気づくと、金髪の娘は弱々しい動作でマントの中に縮こまった。そして、もう1人の娘のただならぬ様子から、同じくあの枯れた遺体のことを知ってしまう。
だが彼女は……手足を小刻みに振るわせたまま、じっと動かない。口は大きく開かれていたが、それでも何も言わなかった。黒髪の娘のように叫びはしなかった。
――この娘、喋れない?
最初、少女があまりのことに言葉を失っているのだと、セレナは思っていた。けれども、その後も娘は無言のままだったのである。唇を震わせ、ときおり何かを告げようとしていることはあっても。
12
「私モアナタト同ジ、コノ世界ノ人間。心配シナイデ」
セレナは金髪の少女の前にしゃがんで、澄んだ暖かい声で告げる。
が、少女の反応はあまり良くなかった。うつむき加減で口元を堅く閉じ、セレナと目を直接合わそうとはしない。
うまく感情が顔に出ていないのは、実はセレナも同じだった。ぎこちない笑みを浮かべ、彼女は自分の気持ちを懸命に伝えようとする。
両の拳を口元で握りしめたまま、膝を使って背後に退こうとする少女。
セレナは手を広げて精一杯笑ってみせる。だが堅い彼女の表情は、急には柔らかくならなかった。いかに努力しようと、そこには冷ややかで社交儀礼的な笑みが、浮かんではすぐに消えていくだけだ。
――分かっている。笑顔など捨てたはず……。
彼女は毅然とした調子で立ち上がると、部下たちに命じる。
「調査を続行します。打ち合わせ通り、手分けして遺跡全体を探ってください。じきに他のパラス・ナイツの方々もいらっしゃるはずです。私は、彼女たちをもう少しくつろげる部屋に連れていき、話を聞いてみることにします」
◇ ◇
「ふぅ、やっと落ち着いてくれた。大変だったわぁ」
力の抜けた声でそう言うと、メイは首に巻かれているクラヴァットを緩めた。鮮やかな薄緑のジャケットを肩に引っ掛け、あまり行儀の良くない仕草で額の汗を拭っている。
「メルカちゃん、疲れてましたからね。でも、あんなにしょんぼりしていたとは思えないくらい、今はよく眠っています。ほら、可愛い寝顔……」
エプロンをしたままのレーナが、そう言って目を細める。
医務室のベッドでメルカが静かに寝息を立てていた。寝台の縁に手を掛けながら、メイとレーナがその様子を見守る。
「ごめんね、忙しいときに付き合わせて。昼ご飯の片づけ、大変なんでしょ? さっきもお菓子とかお茶とか、用意させちゃったし」
口に何かを頬張りつつ、メイは大げさな身振りでレーナに頭を下げた。
「ううん。いいんです。今回はいつもより沢山の人が厨房に入ってくれていますから。メイさんこそ、こんなところに居て大丈夫なんですか?」
「いや、ホントはマズいんだけどさ。まだこの辺りはギルドの勢力圏だし、反乱軍が姿を現すこともないでしょ、多分ね。えへへへへ」
今しがた調理室からくすねてきたサラミを取り出すと、メイは大口でかじりつく。
「あぁっ! メイさん、それ、今日の晩ご飯の!!」
「固いこと言わないの。あんたも食べる? いらないか……。じゃ、シャリオさん、どう? ねーぇ、聞こえてる?」
メイの視線の先には、奥の小部屋で書き物をしているシャリオがいた。ドアは開け放されている。
「私も結構です。それよりルキアン君、なかなか来ませんね。フィスカだけで大丈夫でしょうか?」
彼女は分厚い辞書を前にペンを走らせ、視線を本に向けたまま答えた。
シャリオの机の上には、大小様々な文献が山積みにされている。書きかけの書類や丸められた紙屑も床に落ちていたりする。几帳面な彼女のこと、普段なら部屋はすっきり整理されているはずなのだが、ここのところ乱雑に散らかっていることが多い。あの《塔》で入手した文献の解読に必死なのだ。
メイはそんな彼女を見て、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「またルキアンのことだから、ぐずってるかもしれないけど……フィスカならちゃんと引っ張ってきてくれると思うよ。あのくっつき娘が戻ってこないうちに、あたしはさっさと退散しなくっちゃ。でもルキアンのことだと、いつになく真剣になるわね、シャリオさん……。もしかして、ああいう子がお好み?」
シャリオは慌てて手を止め、白い指で口元を押さえながら弁解する。
「ふざけないでください。わたくしは、ただ……」
「えへへ。冗談よぉ。赤くなっちゃって、可愛い! じゃあね」
13
ニヤリと笑って駆け出すメイ。だが医務室を出ようと扉を開けたとき、彼女は珍妙な悲鳴を上げた。
「つっかまーえたっ! メイお姉様、私とお話ししたくてわざわざ待っていてくれたのですね? うれしいですぅ」
戻ってきたフィスカと運悪く鉢合わせになったのだ。フィスカはメイの右腕を両手で抱きしめ、無邪気に頬をすり寄せている。
一方のメイは額に冷や汗を浮かべ、何とか振り払って逃げようと懸命である。
「ち、違う! 断じて違う!! 離せ、気色悪いーっ!」
「エヘヘのヘですぅ。離せと言われて離す人がどこにいますかぁ」
この馬鹿騒ぎの後ろに、対照的に浮かない顔で立っている少年がいた。力なく両肩を落として、抜け殻のように……。廊下の薄暗がりの中、鬱々と考え込むルキアン。
さすがに今度という今度はあきれ果てたのか、それともメイの冷やかしを気にして遠慮したのか、シャリオは黙って机に向かっていた。
「ルキアンさん……」
誰も彼を相手にしようとしないので、心配したレーナが戸口の方に向かう。
暴れるメイに突き飛ばされそうになるのも構わず、ルキアンはじっとうつむいたままだ。時々、ぼそぼそと何かつぶやいている。
そんな彼の耳に、レーナの遠慮がちな声が響いた。
「あの、メルカちゃんのこと……私が言うのもなんですけど、そう極端に心配しなくても……」
ルキアンは中途半端に顔を上げ、沈鬱とした目で見返す。
その言いようもない表情に、レーナは思わず引いてしまいそうになった。だが彼女は必死に言葉を続ける。
「あ、あの、ごめんなさい! でも、でも……私だってメルカちゃんくらいの時には、もう飛空艦に乗ってましたから。あの子も……」
「えっ?」
ルキアンの瞳の奥に、微かな光が灯った。本当に微かに。
「私のパパ、カルおじさんの……カルダイン艦長の親友だったんです。パパが死んじゃってから、母さんはクレドールの厨房で働くようになりました。私もその時から一緒に船に乗っています。メルカちゃんも、その気があればクレドールで暮らしていけると思うんです。それにあの子には、ルキアンさんが付いているのですし」
目にうっすらと涙を浮かべ、ルキアンに語りかけるレーナ。
一瞬、ルキアンは彼女の言葉に心を動かされたかのように見えた。しかし、またすぐに下を向いてしまい、無様に愚痴り始める。
「僕が? 僕なんかがいたって、メルカちゃんの助けにはなれない……いや、それどころかあの子を苦しめてしまうだけだし。僕なんか……」
「ルキアンさん……」
「僕は、人に頼られるほど立派な人間じゃない。自分のことだけでも精一杯の、情けなくて、弱い奴なんです。いや、自分の気持ちすらまともに支えられない。しまいには、開き直ってこんな駄々をこねたりする。分かってるんだけど、これじゃ駄目だって分かってるんだけど、それでも……どうしようもない」
【続く】
※2000年11月~12月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第14話・前編
【再々掲】 | 目次 | 15分で分かるアルフェリオン |
たとえ君が「選ばれし者」ではなかったとしても、
私は君に思いを託し続けるだろう。
その瞳に宿る、同じ光を信じて。
◇ 第14話 ◇
1
ラプルス山脈の春は遅い。世界の至るところで緑が芽吹き、野の花の蕾が開き始めていたとしても、新たな季節の光に満ちあふれた大地の中で、この山々だけが今しばらく雪と氷に閉ざされ続けるのだ。
春はまぼろし、秋はひとときの夢。
過酷なこの地域にあるのは、短い夏と長い冬だけだった。
新たな季節を告げる鳥たちはまだ啼かぬ。
南からの暖かなそよ風も、ぬくもりを日ごとに増す陽の光も、峻険な氷雪の屏風によって遮られてしまう。
山裾に開けたアシュボルの谷も、いまなお白く塗りつぶされたままであった。
一面の銀色の中、冬枯れ、凍てついた黒い木々がまばらに立っている。
全ては沈黙し、生命感は無かった。
だが、そんな灰色の世界の中で、不意に一点の光が輝いたような気がした。
若い命の力。それは、瞬く間に周囲の彩りを取り戻していく。
少年の元気な声が、冷たい空気を伝って谷間にこだまする。
「おーい、レッケ! 待ってくれよーっ!!」
柔らかな雪原を蹴って走る足音。それに続いて、何かが滑る音。
快活そうな赤毛の少年が、ソリを力一杯押しながら駆け抜ける。
そうやって勢いをつけたかと思うと、彼は簡素な木のソリに飛び乗った。
「よぉーし、追いついたぞ。家まで競走だ!」
急な斜面が目の前に広がる。多少の凹凸などものともせず、少年は巧みに滑り降りていく。彼は手綱でバランスを取りながら、荒馬を乗りこなす騎手顔負けの芸当を見せる。ソリを自分の思うままに操ることなど、この地方で育った男の子にとってはごく簡単なのだ。
彼の髪型は、どこかヤマアラシを思わせる。向かい風でますます跳ね上がった前髪の下、雪の照り返しを受けて輝くものがあった。
それは、金属やビーズ玉を糸でつなげて作った装身具である。額の真ん中にあたる部分には、真っ赤な玉石がはめ込まれている。厳しくも美しい自然の中で独特の文化を発達させてきたラプルスの民が、自分たちの部族の誇りとして身につけている品だ。
風のように滑るソリの隣で、1匹の獣がそれにも劣らぬ速さで走っている。
大きさも見かけもどことなく狼に似ているが、その動きはむしろ猫科の猛獣に近い。しかも額から角が真っ直ぐに生えている。背中の方の毛色は暗い金色だが、腹側の毛はちょうど周囲の雪のごとく白かった。
「相変わらず速いな、レッケ! でも今日はオレも負けないぞ。それっ!!」
少年はその不思議な生き物に向かって手を振った。大口を開けて、屈託なく笑う彼。そのたびに白い歯が光る。
少年の遊び相手をしているのは《カールフ》という生き物だ。それは単なる獣ではなく、寒冷な山岳地帯で比較的よく見かけられる《魔物》なのである。要するに、元々この世界の生態系に属する動物ではなく、夢影界パラミシオンからさまよい出てきた《モンスター》なのだ。
だが性格は従順で、幼獣の頃から飼い慣らせば、犬と同様に人間の良き友とすることができる。それが可能であるということは、少年と無邪気に遊んでいるこのカールフの姿によって、見事に証明されている。
彼らがものすごい速さで丘を越え、平原を走り抜けていくと、やがて小さな村が見え始めた。丸太を組んで作られている素朴な壁が、村の周囲を丸く囲んでいる。その中で身を寄せ合う家々。傾斜のきつい煉瓦屋根と、様々な絵が描かれた白壁が、どの建物にも共通する特徴だった。
2
「母ちゃん、帰ったぜ!」
少年は、息せき切って家に駆け込んだ。後ろから例のカールフ、レッケも付いてくる。村はずれに近い、どこか玩具の箱庭のような可愛らしい住居である。
玄関を開けてすぐのところに、キッチンを兼ねた居間があった。
こぢんまりした部屋の端で、赤々と燃える暖炉。
「腹減ったよー。朝飯まだ?」
少年は手袋を放り投げ、毛皮の襟が付いたコートを床に脱ぎ捨てた。玄関には、彼のブーツが左右ともバラバラの形で転がっている。
「痛ててっ!」
少年はいきなり頬をつねられた。
いつの間に現れたのか、前掛けをした女が横目で彼をにらんでいる。
彼女は少年の背中を押し、ひとまず目の前のテーブルに着かせた。
「こら。行儀が悪いぞ! 何ですか、その脱ぎっぱなしの服と手袋は……」
おそらく30代半ばだろう。家事に追われる所帯じみた母親という雰囲気だが、よくよく見ると、ちょっとした美人だった。年齢のわりに落ち着きがある一方で、同年代の女性に比べて少しやつれているようにも感じられる。
気の強そうな顔つきとは裏腹に、その目には優しい笑みが浮かんでいた。
「アレス!! あんた……朝っぱらから遊び回ってないで、たまにはご飯の手伝いでもしてよ!」
「やなこった。オレだって、昼間はちゃんと羊たちの面倒見てんだぜー。じゃ、いっただきまぁーす!」
話半分で、一目散にパンを頬張り始めた少年。
母親は溜息をつくと、白い陶製のボウルを床に置いた。その中には、何かの動物のすじ肉や臓物らしき物が入っている。
「ほら、レッケ、あんたも早く食べなさい。後でミルクも持ってきてやるから」
彼女に促されて、カールフも朝の食事を取り始めた。
鋭い牙を持っているにもかかわらず、餌の肉塊を引き裂くというよりは、ほとんど丸飲みにする。犬や猫とは比べものにならぬ豪快な食べっぷりは、まさに猛獣のそれだった。
この2人と1匹が、質素な山の家の住人すべてである。
羊飼いの少年アレス・ロシュトラムと、母親のヒルダ。
少年は数日前に16歳になったばかり。その日を共に祝ってくれるはずの父親は、とうの昔にこの世にはいなかった。
アレスの赤い髪の色は母親譲りだが、母の巻き毛とは異なる真っ直ぐな髪質は、今は亡き父から受け継いだものである。
自分も父のように立派なエクターになりたい、そしてお金を沢山稼いで母に楽をさせてやりたい――それがアレスの願いであり、夢であった。
◇ ◇
同じ頃、ラプルス山脈の地中深くでも、別のドラマが繰り広げられていた。パラス・テンプルナイツの1人、魔道騎士セレナ・ディ・ゾナンブルームは、旧世界の遺跡へと続く入口をついに探し当て、あとわずかで《大地の巨人》と対面できるところにまで近づいたのだ。
千尋の谷底、光の届かぬ闇を走る激流。それを上流へと辿っていくと、明らかに人工的に作られたと思われる地下水路に遭遇する。さらに進むと、その流れの源に広大な洞窟が広がっていた。地底の国と形容してもおかしくないような、果て無き暗黒の空間。古文書に書かれた《静寂の広間》とは、これのことらしい。
この大ホールを起点として、上下左右に立体的に広がり、無数の枝洞を持つ鍾乳洞。その闇の迷宮の中で、遺跡へと続くわずか1本の通路を発見することは、通常ならば途方もない時間を必要とする。
だがセレナたちは、旧世界の極秘文書を事前に入手していた。そこに記されている暗号めいた手引きに従って、彼女らはついに遺跡への通路を見出したのである。
その秘密の文書において、《鷹の巣》と表現されている場所がここだった。百メートル以上の高さを誇る天然の地下聖堂――急傾斜の崖に沿って、漆黒の空間を上昇していくと、バルコニー状に突き出した岩棚に到達する。
ここまでは、アルマ・ヴィオに乗ったまま来ることができた。だがこの先は、自らの足で進まねばならない。
3
まさしく怪鳥の巣さながらに、不自然に突き出した岩棚の上。
シルバー・レクサーを降りた近衛機装騎士たちが8名、ある者はランプをかざし、ある者は銃を構えて周囲の様子をうかがっている。
赤の軍服に白いズボン、その上にいささか時代錯誤な銀色の肩当てと胸甲、そして王家の機装騎士の地位を示す黒のケープ。宮廷に直属する精鋭のエクターたちである。
「こ、これは?!」
機装騎士が緊張した声で告げる。
背後の壁面は、むき出しの岩肌ではなく、未知の金属で全て覆い尽くされていたのだ。ランプを向けると、銀色の鈍い光が反射してきた。そこには垂直に切り立った鋼の崖が……。
息を飲む部下たちの背後から、セレナが姿を現した。
最強の機装騎士団に相応しく、凛々しい衣装である。彼女の乗るエルムス・アルビオレの外装と同様に、白地に金の縁取りの付いた胸当て。腰には黄金づくりの鞘も鮮やかなサーベル。脚にぴったりと密着したブリーチズの上に、足首まである紺色の前垂れを付けている。
パラス騎士団の1人と言えば、逞しいアマゾネスのような女性が思い浮かぶかもしれないが、実際の彼女は違っていた。意外に小柄、顔つきは清楚でいて、見る者に女を強く意識させる容姿の持ち主である。
「これこそ、遺跡への入口です。間違いありません……」
彼女がそう言って金属の壁に近づいていこうとしたとき、機装騎士の誰かがまた声を上げた。
「セレナ様、扉がありました! こちらをご覧ください」
何の隠しだてもなく、あっけないほど真正面に扉が待ちかまえていた。ただし、それは極めて頑強で、容易には開きそうもない。
静かに頷いたセレナ。落ち着いた足どりに応じて、肩口ほどの長さの金髪が揺れ、左右の耳のイヤリングが青く光った。
鼻筋のひときわ美しい横顔。固く結ばれたその口元は、彼女の尋常ならぬ意志の強さを想わせる。繊細な睫毛で飾られた目は、人並み以上に大きいだけではなく、射るように鋭い眼光をも備えていた。その瞳は見るからに知性的であり、生真面目で、しかし冷たく寂しげでもあった。
行く手をはばむ扉は、おそらく現世界の人々の想像をはるかに越える材質で作られている。賢明にもセレナは、目の前の障害を力ずくで突破しようとは考えていないようだ。
ごく平静な動作で、セレナは周囲の様子を細かく観察している。その態度から考えて、彼女は何らかの策を事前に用意してきたらしい。
しばらく思案していた彼女は、やがてごく小さく、微かに首を縦に振った。
それを目ざとく見て取った部下が、彼女の前に進み出る。
「セレナ様、まず我々がトラップの調査を……」
彼女はそれに同意する。無言のまま、マントを翻した。そこにはパラス騎士団の紋章である猛々しい竜が描かれている。黒きドラゴンが上体を持ち上げ、翼を誇示し、今まさに炎を吐こうとしている姿が。
4
5、6名の機装騎士たちが、それぞれ持ち場を分担しながら、慎重に罠や隠し扉などの有無を検査していく。何しろここは旧世界の極秘施設である。どんな仕掛けが備えられているやら、分かったものではない。
それでも幸い危険らしい危険は見あたらず、騎士たちは着実に扉に近づくことができた。が、手が届きそうなところまで歩み寄ったとき、不意に目の前に四角い明かりが浮かび上がる。
扉の脇に埋め込まれた約30センチ四方のパネルが、白く点灯したのだ。
「セレナ様?!」
「心配はありません。私に代わってください……」
驚く機装騎士たちの横を通り越し、セレナはパネルに手を伸ばした。
彼女の指がそっと画面に近づいていく。
闇の中で輝くモニタの中には、20数個の文字が並んでいる。それらは、いわば《古典語》を構成するアルファベットである。
そのうちの1文字に、セレナの人差し指が触れる。
静まり返った闇の中で、突然、ピッという短い電子音がした。
何が起こったのかと、機装騎士たちは思わず彼女に駆け寄ろうとする。
「静かに。心配はないと言っているでしょう」
万事お見通しだという表情で、彼女は他の文字にもタッチしていく。
《パスワードを入力せよ》
画面の中心にそう書かれていた。この扉は、どうやら旧世界の《言葉の鍵》によってロックされているらしい。
セレナが押した文字のひとつひとつも、順に画面に表示されている。入力された文字列は、最終的に次の言葉を形づくった。
《ホシノナミダ》
小さく一息吸い込んだあと、セレナはパネルに書かれた《送信》という文字に触れる。
数秒後――新たな文章が画面に表示された。
《認証完了》
続いて、以下のメッセージが現れる。
ようこそ、未来の地上人よ。わが子ら、遠き時の彼方の友よ。
我らの救世主――パルサス・オメガ――を汝らに託す。
再び世に災いを為す者あらば、その大いなる力をもって……。
ランプのほのかな燈火の中で、世界の行く末すら左右しかねない場面が到来した。あまりにも静かに、あっけないほどに。
その決定的な瞬間を迎え、セレナの胸の内は、およそ形容しがたいほど高揚しているに違いない。
だが表面的には平静を装い、彼女は意味ありげにつぶやく。
「《パルサス・オメガ》……伝説に記された《大地の巨人》。かつて《地上人》たちに勝利をもたらした、究極の……」
ほぼ同時に、分厚い特殊金属の扉が音もなく左右に開いた。
5
◇ ◇
「ルキアンっ!!」
目のまわりを赤く腫らして、メルカは思いきり飛びついた。
艦内の各層に設けられた小さなラウンジ――ここも、そのひとつである。格納庫に向かう廊下の途中に位置し、その場所柄のせいか、普段はエクターたちの溜まり場になっていることが多い。
今、室内にいるのはルキアンとメルカ、メイの3人だけだった。
途中まで一緒に来ていたベルセアとサモンは……気を利かせたのか、あるいは居づらくなったのか、それとなく立ち去った。
「ご……ごめん、本当にごめん、メルカちゃん」
とても言いにくそうに、ルキアンは言葉を途切れ途切れに語った。
「僕、ウソを付いてしまった。メルカちゃんを、だましてしまった……」
無言のまま、彼の胸に顔をすり寄せるメルカ。
ルキアンは彼女をこわごわ抱きしめ、申し訳なさと自己嫌悪とで心を一杯にしていた。
本当はどんな言葉さえも、2人の信頼関係をすぐには修復し得ないだろう。それを知るルキアンは、もう一度メルカに会うことを恐れてすらいたのだ。
自分を見捨てたルキアンに、メルカはどんな気持ちで相対しているのか。
意外にも、メルカは以前のように泣き叫んだりわめいたりせず、じっとルキアンに体を寄せていた。
《ことば》の無力さを知ったルキアン。文句も言わず、しかし謝っても許してくれないメルカを、彼はどうすることもできなかった。
2人の様子を見ていられなくなったメイが、仕方なさげに口を開く。
「そ、そうだ……メルカちゃん、お腹が空いたでしょ? 可哀想に、昨日の晩から何も食べてないなんて。お姉さんと一緒に、台所に何か食べに行かない?」
ふとメルカが顔を上げた。涙に濡れた、表情のない目で、彼女はメイをじっと見つめる。
その眼差しに答える言葉は、メイにも思いつかなかった。
「あ、あはは。メイお姉さんですよぉ~。さぁ、美味しいお菓子でも食べに行こうよ。ね、行こ、行こっ! えへ、えへへへへ」
懸命に笑みを浮かべ、彼女はおどけてみせている。無駄だと知りつつも。
「お菓子……」
メルカがぽつりと言った。
――メルカ、お菓子が焼けたから食べておいで。
姉のソーナが、彼女と離ればなれになる前、最後に語った言葉だ。
「ソーナお姉ちゃん……」
少女は崩れ落ちるようにして、ルキアンの腕から離れた。
しばらく固まったまま、メルカを抱きしめる姿勢をとり続けたルキアン。その様子はあまりに滑稽で――滑稽すぎて、メイは胸を痛めた。
床にぺたんと座り込んだメルカは、肌身離さず持っていた熊のぬいぐるみを、そっと自分の頬に当てる。
6
「メルカちゃん、さぁ、行こ。ねっ、ねっ?」
メイはメルカの手を取った。
力の抜けた冷たい指先。子供に特有の《体温》は感じられない。
「あ、あの……」
何か言いかけたルキアンに向かって、メイは人差し指をぴんと立てた。そして、心持ち気まずそうな表情を浮かべながらも、片目を閉じて見せる。
メイに手を引かれ、とぼとぼと歩いていくメルカ。
その虚ろな背中を正視することは、ルキアンにはできなかった。
2人が居なくなった後、彼は頭を押さえて部屋の隅にうずくまる。
こうしていると、思ったよりも周囲が狭く感じられた。
冷たい壁に額を当ててみる。
本当は、この壁に眉間をぶつけてみたい衝動に駆られていた。
しかし、今はそっと。そのまま目を閉じる。
――分かってる、分かってるって……。
ルキアンは繰り返す。
――僕は決断したんだから。自分で決めたんだから。
彼は膝を抱え、いっそう深くうなだれるのだった。
その心は次第に暗闇の中へと落ちていく。
◇ ◇
「遠き世の末裔たちよ。解放戦争の真実を伝えよう……」
落ち着いた初老の男の声。だがそれは人の口から発せられたものではなく、生命のない鉄の塊から流れる合成音だった。
「かつてこの大地は、あの大いなる災い、《永遠の青い夜》の中で……死の世界に変わりつつあった。滅びを恐れた人類は、選ばれし人々を天空植民市群に送った。この《アーク》の民を始祖とするのが、《天空人(てんくうびと)》である。他方、地上に残され、死の闇の中でこの世界を再び蘇らせたのが、我ら《地上人(ちじょうじん)》の誇り高き祖先たちだった」
セレナと近衛機装隊の騎士たちが、固唾を呑んで見守っている。
地下遺跡の広間のひとつ、《光の筒》のほのかな灯りの下で、彼らは壁いっぱいに広がる大型スクリーンの前に立っていた。
突然、《動く写真》が視界を埋め尽くす。
「こ、これは?!」
絶句したセレナ。旧世界に動く絵があったということは、もちろん彼女も知っている。彼女を驚かせたのは、画面の中で起こっている出来事だったのだ。
無数の光の柱が大地を貫く。
暗雲立ちこめる空を突き破り、閃光が雨のごとく降り注いでいる。
豆粒のような影が集まっているのは、おそらく都市だ。
それは一瞬にして紅蓮の波に舐め尽くされ、焦土と化す。
まばゆい輝きが走るたびに、自然の地形すらも歪められていく。
山々の美しい稜線はたちまち削ぎ落とされ、いびつな虫食いの岩壁に姿を変えた。木々は燃え、火の海となった森はやがて灰と燃えかすだけを残す。
緑の平原にも次々と黒い穴が開き、無惨な焦げ色の荒れ地が広がっていく。
全てを焼き尽くしながら天と地を刺し通す光は、なおもとどまるところを知らない。
《終末》――セレナの頭に浮かんだのは、その2文字だった。
こんなことができるのは神しかいない。荒れ狂う天のいかずちを前にして、人の微弱な力では、ただ恐れおののいて悔い改めることしかできない。しかし神がこんな惨いことをするはずがあろうか? 自らお作りになったこの世界を、愛すべき幾多の命の光を……。
彼女がそう思ったとき、機械の声が謎を明かし始めた。
「天空人はその圧倒的技術力をもって、我々地上人を苦しめた。衛星軌道上からのレーザーが大地に降り注ぎ、首都はもとより小さな村々に至るまで、地上人の手によって築き上げられたものは悉く白紙に戻されていった。いや、我らの母なる世界全てを、天空人は否定しようとした。《アーク》の民である彼ら自身の、かつての故郷でもあるこの地上を……」
7
ゆっくりと、極めて几帳面に発音される古典語。ちなみにこの言語は、一般的には《文語》であると理解されている。神官や学者、あるいは魔道士以外には、古典語を《話し言葉》として使っていた者は、旧世界にはあまりいなかったらしいが。
天空人によって破壊し尽くされようとしている地上。その様子が、無機質に、あるいは冷徹にすら解説されていく。
「この雲霞のような……馬鹿な、アルマ・ヴィオか? 一体何機いるんだ?!」
セレナの後ろで見ていた青い髪の機装騎士が、声をうわずらせる。
羽虫の大群さながらに、空を埋め尽くす黒点。
乱舞する鋼の怪鳥たち。黒光りする竜が雲間で体をくねらせ、炎を吐く。分厚い装甲板をまとった奇怪な昆虫が、地表に殺到する。その全てがアルマ・ヴィオだ。
人型であるにもかかわらず、目にも留まらぬ速さで飛行しているのは、アルマ・マキーナに違いない。その体から砲弾のようなものが何発も発射され、あたかも自らの《眼》で見ているかのごとく、それぞれ別個の目標に向かって飛んでいく。旧世界の機械の騎士は、手にした銃から青白い光を放ち、街に並ぶ《塔》を焼き尽くす。
上空に列を連ねる巨大な物体。ありとあらゆる姿の《船》が翼を羽ばたかせる。鳥、魚、蛇、虫、そして宙を行く帆船、空飛ぶ円盤――それらはみな飛空艦であろう。こちらも途方もない数に及ぶ。
太陽の光を遮り、何かが大地に影を投げかける。黒い影が付近一帯を覆っていく。空の青が見えなくなった。天空に浮かぶ岩山……まさに《山》の上に、壮麗な城郭が築かれている。それが幾つも飛んでいるのだ。信じられないことに! 浮遊城塞である。小さなものでも、その直径は軽く数キロ、遠くに見えるさらに大きな要塞の場合、10数キロを越えている。
「地上界に降下した天空軍は、我々の兵力で太刀打ちできるものではなかった。同胞たちの勇敢な戦いも空しく、地上人は一方的に追いつめられていった」
その絶望的な言葉の後、画面が暗転する。
【続く】
※2000年11月~12月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第13話・後編
【再々掲】 | 目次 | 15分で分かるアルフェリオン |
12
しばし黙想したカルダインが、再び目を見開いた瞬間。腹の底から響くかのような声で、彼は悠然と命じた。
「よし。《触媒嚢》および《霊気変換炉》(*1)、点火せよ! 補助《揚力陣》への回路を開き、続いて中央揚力陣(*2)……」
それを受けて、あちこちからクルーの声が飛ぶ。
「了解! 動脈弁、解放!!」
「触媒嚢に異常なし! パンタシア変換(*3)開始。霊気濃度、10、20……」
「中央揚力陣の作動まで、カウントダウン!」
水中に没している船腹部に灯りが点った。青白い光の筋が、中央から周辺部へと放射状に走り、複雑な幾何学模様を描いて広がっていく。クレドールの腹部に、いくつもの円陣や方陣、さらには多角形の不可思議な紋様が次々と輝いた。その光は次第に強まる。
カムレスは青紫のベレーを被り直すと、堂に入った手つきで舵輪を握った。
「中央及び補助揚力陣、描画完了を確認。主翼、起動!」
《鏡手》のヴェンデイルも、彼らしい軽妙な喋りで伝える。
「進行方向、異常なし。さい先がいいな、今日も見ての通りの晴天だよ!」
そして、最後に渋い声で決めたのはカルダイン。
「クレドール、発進せよ!!」
いち早く準備していたラプサーが浮上し、それにクレドール、アクスと続く。
どの艦も水平姿勢を保ったまま、驚くほど滑らかに上昇していく。揚力陣のおかげで、あの巨大な飛空艦がほぼ垂直に離陸できるのだ。
3隻の船が列をなして悠然と浮揚していく様は、まさに壮観であった。
波立つ人工湖の上から、多くの飛空艇が遠巻きに見守る。
埠頭にもギルド本部の人々が詰めかけ、盛んに手や旗を振っていた。
歓声。肩を抱き合う若者たち。旅立ちの歌を高吟する者。空砲を撃って気勢を上げる兵士。街の人々も港の周囲に集まり、ちょっとしたお祭り騒ぎだ。
高度を得られるに従って飛空艦が羽ばたき始めると、港の周辺の木々が葉を鳴らし始めた。風はますます強くなり、あの古い運河沿いの街路樹も激しく揺さぶられている。
なおも上昇を続ける3隻は、次第に水平飛行へと移った。それらの姿も徐々に小さくなり始める。
本部のテラスから、デュガイス・ワトーがじっと見つめていた。
青空に点々と浮かぶ綿雲の間、朝日を浴びてクレドールの白い船体が光る。
――頼むぞ、カルダイン……。
彼は心の中でそう呟くと、ゆっくりと踵を返して建物に入っていくのだった。
【注】
(*1) 飛空艦は、霊的エネルギーを物理的エネルギーに変換することによって動力を得ている。つまり自然の中に漂う霊気を吸収し、発生させた膨大な魔力を、精霊界の力によって熱や爆発力に変えるのだ。《触媒嚢》とは、吸収した霊気を凝集・増幅し、魔力の発生を加速させる生体機関。これとセットになっている《霊気変換炉》が、触媒嚢から送られてきた魔力を使って精霊界に働きかけ、物理的エネルギーを作り出す。ちなみにアルマ・ヴィオの動力源も飛空艦とほぼ同様であるが、《触媒》の仕組みが大きく異なる。注3を参照。
(*2) 巨大な魔法陣によって、飛空艦に揚力を与えるシステム。そのおかげで飛空艦は宙に浮くことができる。ただし揚力陣は、主として船体を浮かせるためのものであって、さほどの推進力を与えるものではない。飛空艦が実際に飛ぶためには、鳥や魚と同様に、翼や鰭、あるいは胴体のしなやかな動きを用いなければならないのだ。
(*3) 前述(*1)の、霊気を集めて物理的エネルギーを作り出す働きを、パンタシア変換という。《触媒嚢》を使って霊気から魔力を発生させるためには、本来なら特殊な霊的エネルギーが必要とされる――それが心の力《パンタシア》(夢力)である。すなわち、触媒として使用される特殊な鉱石は、人間の思念を送り込まなければその効果を発揮しないのである。アルマ・ヴィオの場合、エクター自身のパンタシアが、そのまま触媒嚢に送られる(つまりエクターは単なるパイロットではなく、アルマ・ヴィオの動力器官の一部という役割も果たす)。ところがエクターを持たぬ生体機械である飛空艦は、人間の持つパンタシアに近い霊的波動を擬似的に発生させ、相当に効率の低い仕方で触媒を働かせているにすぎない。正確に言えば、飛空艦の場合、《疑似パンタシア変換》が行われているのだ。なお、飛空艦の不完全な触媒を補うのが……《柱の人》の持つパンタシアである。《柱の人》がいるクレドールの場合、アルマ・ヴィオに近い形で触媒が効率的に働くので、出力も飛躍的に向上している。
13
◇
ネレイを出港した後、クレドールは順調に速度を上げ、その翼で高速の気流をとらえていた。鋼の白い飛び魚は、優美な体と多数の鰭を巧みに操って、心地よさげに風の中を遊泳する。
快速を誇るラプサーが先頭に立ち、その右斜め後ろに旗艦のクレドール、左斜め後ろに、両艦を護衛するアクスが位置している。3隻の飛空艦は、ちょうど三角形の隊列を形成していた。
艦隊はネレイからいったん北西に進路を取り、例の《魔の山》パルジナス山脈を迂回した後、イゼールの樹海の一部を横切って南に下る予定である。
黒っぽい針葉樹の森が、眼下の盆地でまばらに広がる。明るく開けた木立が続くその風景は、昼なお暗いイゼール森に比べれば全く牧歌的だと言えよう。
両岸に木々を従え流れゆく大河は、ネレイの街へと至るアラム川だ。
盆地の西端に目をこらすと、天然の城壁のごとく南北に伸びる山並みが見える。それが、あのパルジナスに他ならない。刺々しい岩山が細長くどこまでも連なっている様相は、龍が大地に横たわっている姿を想起させる。
忘れもしない山々の姿を《複眼鏡》でちらりと眺めると、ヴェンデイルは大げさに肩をすくめた。
「やれやれ。パルジナスか……遠くから見物しているだけでも冷や汗が出てくるね。妙なところに迷い込むのはもうごめんだよ」
艦橋の各員の様子を見て回りながら、クレヴィスが答える。
「大丈夫ですよ。パルジナスから十分に距離を取って進みます。今回の場合、あの山脈を越えようが迂回しようが、さほど時間に違いはないですから。まぁ、私としては、もう一度あの《塔》を見に行っても構わないんですけどね。ふふふ。どうしたんです、ヴェン、青い顔して?」
「わ、悪いけどオレは遠慮する」
細く束ねた金髪を揺らして、ヴェンデイルは慌てて首を振っていた。とんでもないという表情である。
無事に離陸を終えて、張りつめていたブリッジの空気も少し和らいできた。勿論、クレドールは戦場に向かっているのだから、また別の緊張感が艦内で高まりつつあるのも確かだが。
そのとき――艦橋の中をそっとのぞき込んだ者がいる。瑠璃色のフロックを着た、か細い中背の少年である。
「え、えっと、ルキアン・ディ・シーマーです……入っていいですか?」
子鹿が飛び跳ねるような、頼りなく滑稽な動きで、彼は部屋に足を踏み入れた。不慣れな様子できょろきょろと辺りを見回し、クルーたちの席に時々ぶつかりそうになりながら、彼はカルダインのところに辿り着くのだった。
「あの、艦長、バーシュ艦長……」
ルキアンは恐る恐る声を掛けた。
例によって、カルダインは腕組みしたまま押し黙っている。返事がない。
そのいかつい体格と荒々しい髭面に気後れして、ルキアンは先程よりも細い声で繰り返した。
「あの、すいません……」
「お、おぉ、君か!」
突然、カルダインが野太い声を出し、一段高い艦長席からひらりと身を翻したので、ルキアンは驚いて後ろに下がってしまった。
すると今度は、息を鋭く吸い込むような感じで、若い女が叫んだ。
「きゃっ!」
「す、すいません。ごめんなさい!!」
足を2、3歩引いたときに、ルキアンはセシエルの爪先を踏みつけていたのだ。おまけに彼女のロングスカートの裾に足先が引っかり、彼はもう少しで転んでしまうところだった。
14
そんなルキアンの様子を見て、ヴェンデイルが吹き出した。
「あまり遠慮しすぎると体に悪いよ、ルキアン君。でも仕事中のセシーを邪魔するのは避けた方がいい。彼女が怒ると、メイやマイエおばさんよりもずっと怖いんだぞ……おっと、いけない」
セシエルに途中で睨まれたので、ヴェンデイルは薄ら笑いでごまかした。
「僕って、どうしようもなくドジなので……。足、痛くなかったですか?」
真っ赤な顔で謝るルキアンに、セシエルは珍しく笑って見せた。といっても、秀麗な目元が微かに動いただけだったが。
「大丈夫よ、気にしないで。でもルキアン君って面白い人ね。メイが面倒見ずにはいられないと言うのも、ちょっと分かる気がするわ」
並々ならぬ美女というだけあって、セシエルが微笑むと、大抵の男はその表情に思わず見入ってしまう。彼女の理知的な目は、ツンと取り澄ましたような冷たさをも漂わせているのだが、そこにまた一種独特の魅力があった。
「え、それって、どういう……」
ルキアンも例外ではなく、セシエルの端正な面差しや、しっとりと流れる髪につい見とれていた。話の中身はもはや上の空である。
――こうして近くで見ると、本当に綺麗な女性(ひと)なんだ……。
彼がお得意の妄想に浸っている間に、セシエルはさっさと仕事に戻った。
再び静まったブリッジの中で、はたと気づいて自分の馬鹿さ加減に恥じ入るルキアン。
穴があったら入りたい気持ち。彼がそのまま突っ立っていると、背後で穏やかな声がした。
「少しは落ち着きましたか、ルキアン君?」
振り返ったルキアンに、クレヴィスがにこやかに頷いてみせた。
早朝に釣りをしていた時の彼は、どことなく旅の貧しい絵描きを思わせる格好をしていたが――今は普段の通り、珊瑚色も目に鮮やかなウエストコートに茶色のクロークをまとい、ギルドの青紫のクラヴァットを襟元に巻いている。
「クレヴィスさん、さっきはご迷惑を……」
「いや、いいんですよ。私の方こそ、急に無理を言って申し訳なかったと思っています。とにかく、あなたが一緒に来てくれて嬉しいです」
クレヴィスはそう言って彼に手を差しのべた。
見る見るうちにルキアンの瞳が輝きを増す。
「ありがとうございます!」
感激にうわずる声。握手するルキアンの指にも自然と力が入った。
「あ、艦長?!」
今度はカルダインの頑丈な手が、対照的に華奢なルキアンの肩に置かれる。
「よろしく頼む」
特に表情の変化も見せず、その一言だけを告げると……カルダインは何事もなかったかのように自分の席に腰掛けた。無愛想に思えるかもしれないが、別に悪気があるわけではない。この簡単な挨拶は、いかにも彼らしかった。
15
◇ ◇
同じ頃、クレドールの格納庫にて。
普段よりも多数のアルマ・ヴィオが搭載されているためか、本来広いはずのこの空間も、何となく窮屈に感じられる。
薄暗がりの中で沈黙する巨大な生体兵器たち。それらの輪郭に沿って、目線を上方に移動させていくと、天井あたりでようやく広い空間が見つかる。
頭上に開けた空っぽの影を貫いて、ドーム型の屋根付近にある小窓から朝の光が射し込んでくる。
その明かりの下に、3つの人影が浮かび上がっていた。
すらりとした長身にコートを引っかけているのは、ベルセアである。飛び抜けて高いその背丈のおかげで、一目で誰か分かった。最近のエクターたちの流行を取り入れて、彼はダブルのコートの裾を短く切り詰めている。
もう1人は、その服装や髪型からすると、細身の若い男のように見えなくもない。だが、薄明の中にたたずむそのシルエットは、優美かつ大胆な曲線によって形作られており、普通の女以上に女性的だった。その姿態と時々聞こえてくる高笑いから考えて、彼女はメイである。
そしてベルセアとメイに何やら話しているのが、紛れもなくサモン・シドーだ。訛りのきついオーリウム語を使って、サモンは目の前のアルマ・ヴィオの構造を説明しているらしい。
ひときわ目立つ大型のアルマ・ヴィオの傍らに、彼らは立っていた。
サモンの愛機、今回新たに積み込まれた《ファノミウル》である。
飛行型というのは、その長大な翼のためにただでさえ場所を取ってしまう。しかもファノミウルは重アルマ・ヴィオのクラスに属するだけあって、他の機体の数倍に及ぶ床面積を占めていた。
ずんぐりとしたその姿はフクロウに似ている。隣で精悍な姿を見せているラピオ・アヴィスに比べると、あまり速そうには感じられない。反面、対地用に作られたファノミウルは、巨体に似合わず小回りが利き、特殊な羽ばたき方をする翼によって空中で静止することもできてしまうのだ。
「さすがに重アルマ・ヴィオね。この武装、たった1機で戦争できそうだ。たまげた……」
せわしなく歩き回って、メイはファノミウルを色々な角度から眺めていた。
「この大きな爪! こんなので掴まれたら、イチコロよね」
「まったく。もしサモンが反乱軍にいたら……こっちにしてみれば、ずいぶんヤバいことになっていただろうぜ。へへ」
ベルセアはそう言って冷やかすと、奥に置いてある自分のアルマ・ヴィオの方を見やった。
地を駆ける疾風の如き、鋼の狼リュコス。この手の高機動タイプの陸戦型は、圧倒的なスピードを駆使して、我が物顔で地上を暴れ回ることができる。しかし上空からの攻撃には滅法弱いのだ。対地用の飛行型アルマ・ヴィオは、まさに天敵なのである。
ファノミウルは、特に急降下による強襲を得意とする機体なのだが――半月刀の如き鉤爪を備えた不釣り合いなほど大きい足が、そのことを如実に物語っている。
背中には多連装式のマギオ・スクロープが2門。腹部には、大型の広角マギオ・スクロープの発射口が、その恐るべき姿を誇示している。驚いたことに、クレドールの主砲よりも口径が大きい。
「ちょっと下の方も見せてもらっていい? あたし、飛行型重アルマ・ヴィオって、近くでじっくり見たことないのよね……ほとんど」
メイがそう言うのも無理はなかった。この種の機体は、通常は軍にしか配備されていない。飛行型重アルマ・ヴィオによる大がかりな《爆撃》など、戦争にでもならない限り必要ないのだ。ギルドのエクターたちが請け負う小さな仕事――あるいは冒険者たちの言う《クエスト》――にとっては、むしろ軽快で汎用性のある通常の飛行型の方が向いている。
言うが速いか、メイはサモンの返事も待たずに、腰をかがめてファノミウルの腹側に潜り始めた。
「あいたた! 頭、打っちゃった。もしかしてこのアルマ・ヴィオ……結構、足、短い? あ、ごめんごめん。サモン、悪気はないのよ。えへへ」
そこで彼女は、腰の剣を外してベルセアに押しつけたかと思うと、今度は四つん這いになって機体の下をくぐっていく。
はしたない格好を真後ろで見せられ、ベルセアは呆れ顔で言った。
「おいおい。困ったな。こいつ、いい年してこれだから……」
乱れた前髪の下で、サモンも目のやり場に少し困っている。
16
そんな男どものことなど気にも掛けず、メイは前に進んだ。
「へぇぇ、裏側の装甲も結構厚いんだ。対地型だからね。でもこんな重い体では、やっぱり飛ぶのが遅いわけか……。あら? あの声……こんなところで何してるのかしら?」
機体の真下あたりに来た頃、彼女の行く手の方から聞き覚えのある声が伝わってきた。
ファノミウルの向こう側、つまりベルセアたちが居るのと反対の側からだ。
メイはまた頭を打ちそうになりながら、声の方へと近づいていく。
「ねぇ。《あなた、何なの》?」
微かに聞こえてくるのは、少女の声。ソプラノの繊細な声なのだが……あまりに抑揚がなく、無機質に過ぎた。
「わたし、知ってるの。あなたが《そこ》にいるって。どうして隠れてるの?」
――あれは、やっぱりエルヴィン……独りで何を喋っているのかしら。
メイは身をさらにかがめて、ほふく前進さながらの姿勢で近づいた。
そこで彼女の目に移ったのは、白い薄物のドレスをまとった少女である。
確かにエルヴィンだ。彼女は宙を見つめ、闇に向かって手を伸ばしている。
――ちよっと不気味よね。あの子、また何か妙なことを。あら? あれはアルフェリオン……。
エルヴィンの前でアルフェリオンの銀の甲冑が鈍く光っていた。それに気づいたメイは、もう少し様子を見ることにする。
不意に、エルヴィンは暗がりの中で2、3回ターンすると、ぞっとするような声で笑った。
「ふふふ。出てきなさいよ。《泣いて》ばかりいないで。《怒って》ばかりいないで」
エルヴィンはアルフェリオンの脚に頬を当て、ひんやりとした肌触りを楽しむかのように目を閉じる。
今のエルヴィンの声に、さすがにベルセアたちも気づいたらしい。
メイとエルヴィンの名を呼ぶ声がする。
暗闇の中で聞く少女の笑い声というのは、ある意味、魔物の雄叫びよりも不気味な場合があろう。さすがのメイも背筋に冷たいものを感じたが、さらに息を飲んで、ファノミウルの下に潜んでいた。
「寒いの? 血がほしいの? そうよね。あなたは《何》なの。《どうして》、《そこ》にいるの? さぁ、答えて」
意味不明の内容。甲高い響き。エルヴィンの声はいっそう不気味さを帯びる。
瞬間、にわかに別の少女の悲鳴が聞こえた。
「メルカちゃん?!」
メイは思わず飛び出していた。
アルフェリオンの後ろから、おずおずと袖を握って顔を出したメルカ。
「こ、怖いよ……このお姉ちゃん、怖いよぅ!!」
寝間着のままのメルカが、メイに飛びついてきた。
「この子ったら! こんなところに、いつの間に……」
腕の中で震えるメルカを、彼女はしっかり抱きしめた。
「どうした、メイ?!」
やっとベルセアとサモンも駆け寄ってくる。
呆然と立ち尽くす3人。エルヴィンは、彼らのことなど眼中にないようだ。
「……くすっ」
目を虚ろに開いたまま、エルヴィンは口元だけで笑った。
「メイお姉ちゃん! 怖いぃ!!」
メルカはメイの首筋に顔をすり寄せ、必死にエルヴィンを避けようとする。
「まぁ、可愛い子。綺麗な髪……お人形さんみたい。わたしも、こんな人形、ほしいな」
何とも気味の悪い台詞だった。ほっそりとして、透き通るほどに白いエルヴィンの手が、メルカの豊かな巻き髪をなで上げようとする。
メイは反射的に体をひねってメルカを隠す。
「ちょっと、エルヴィン。あまりメルカちゃんを怖がらせないで! いくらこの子が勝手に船に乗っていたからって、あそこまで脅かさなくてもいいんじゃないの?」
メルカはメイの腕の中で、哀れなほど体を震わせていた。
エルヴィンの口から出てきたのは、全く予想外の言葉だった。
「何のこと? 私、この子とお話ししていたんじゃないわ」
エルヴィンは背後の闇に向かって振り返り、悪戯っぽい声でささやく。
「ねっ……」
いよいよもって、メイは薄ら寒い気持ちになった。
――相手はメルカちゃんではなかった? 一体、《誰》と話していたの?!
唖然とする彼女は、小声でむせび泣くメルカをもう一度抱きしめた。
去っていくエルヴィンの背中を見つめながら……。
【第14話に続く】
※2000年10月~11月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第13話・中編
【再々掲】 | 目次 | 15分で分かるアルフェリオン |
6
慌ててメイが駆け寄ったとき、彼は目を開いたまま、前のめりに倒れた。
「ルキアン!」
かろうじて飛び込んできたメイの胸に、彼は抱き留められた。
「しっかりしなさいよ、どうしたの?! ちょっと、返事しなさい、ルキアン!」
彼女は慎重にしゃがみ込んで、膝の上にルキアンの頭を横たえる。
――暖かい……何だろう? メイ……?
ルキアンの真っ白な視界の中で、懸命に叫ぶメイの姿があった。
肩や手を震わせて、ルキアンはなおも言う。
「メルカちゃんが……。僕がいけないんだ。全部僕が悪いんだ。でも……僕は、僕は行くんだ。みんなと……クレドールに、行かなきゃ……」
「ルキアン!!」
メイの必死の呼びかけにも答えず、彼はそのまま目を閉じ、意識を半ば失いかける。その後もしばらく、彼の唇だけがぱくぱくと動いていた。
「すぐに医務室へ。何があったのかは分かりませんが、とりあえず安静にさせた方が良さそうです。ルキアン君、立てますか? ゆっくりと……」
背後で見守っていたクレヴィスが、メイと共にルキアンの体を支えた。
◇ ◇
「何を考えているのだ、《大師》殿は……。まぁ結果的にはこれで良かろう」
ギヨット総司令は訝しげな表情で手紙を握りしめる。
城壁・要塞群が幾重にも配置されたベレナ市、その中心――セルノック城の広間にて、反乱軍の指導者たちが今後の作戦について議論を重ねていた。
そしてさきほど、重要な会議中にも関わらず、緊急の使者らしき者が部屋に通された。この使者が、1通の密書をギヨット総司令に直接手渡したのである。
一同が固唾をのんで見守る中、総司令は、期待と疑念とが入り交じったような不可解な笑みを浮かべた。
「同志諸君、我々は大師殿から確約を得ることができたようだ」
手前に座っていた副官のゾルナーが、仰天してギヨットを見る。
「メリギオス猊下が?! それでは、あの話は本当に……」
ゾルナーだけではない。居合わせた他の面々も口々に声を上げる。
「諸君、静粛に!」
よく通る低い声でギヨットが話の続きを語り始めると、皆が水を打ったように静まり返った。
《大師》とは、国王の遠縁にあたる大法司神官、メリギオスの尊称に他ならない。ちなみに《大法司》の位階を持つ者は、イリュシオーネの神官の中でも教主その人をのぞけば最高の地位にある。
それだけではない――メリギオス大法司は、凡庸で病気がちな国王に代わって辣腕を振るう宰相でもあった。聖職者でありながら権謀術数に長けた彼は、宮廷の人々の間で影の国王とさえ呼ばれている。その人物が、何のために反乱軍と密書を取り交わしているのであろうか……。
「これで我らの勝利は、いっそう確かなものとなった。今こそ議会軍を殲滅し、王国を堕落させる無能な領主どもや愚民どもをひざまづかせ、反乱軍などという汚名を返上するのだ! 《オーリウム王国の未来のため》に!!」
かつての英雄ギヨットが、そのカリスマぶりを遺憾なく発揮して、司令官たちを前に熱弁を振るう。
7
ギヨットの言葉が終わると同時に、拍手の渦が広間を埋め尽くした。
神々や巨人たちの戦絵巻に彩られた壁から、黄金色のシャンデリアを支える天井に至るまで、彼への賛意を示す掌打が鳴り響く。生気に満ちたその様相は、敵軍に包囲されている城内のものとは到底思えない。
いずれ劣らぬ猛者連中が、ギヨットの言葉ひとつで簡単に心服させられてしまった様子は……傍目には滑稽にさえ見える。
だが《メレイユの獅子》の雄叫びには、現にそれだけの説得力が秘められていた。初老にして益々逞しいこの古風な戦士は、オーリウム陸軍随一の名将にして伝説のエクターでもある。王国中のあらゆる軍人たちにとって、彼は生身の戦神にも等しい存在なのだ。
鈍色の光を宿した、落ち着いた銀の髪。広い額と高貴な鷲鼻。濃い青紫の瞳は知性に満ちている。勇猛さと気品とを兼ね備えたギヨットの容貌は、その外見だけからしても、類い希なる将の器を思わせる。
「さて諸君、話を元に戻すとしよう……」
良く通る声でそう告げて、ギヨットは皆に注目を促した。
10数名ほどの指揮官たちが取り囲むテーブルの上に、美しく彩色された地図が広げられている。それは、極めて厳密な実測に基づく、《レンゲイルの壁》周辺の俯瞰図だった。
ギヨットは両手を組み、机の上にゆったりと置いた。
「敵の増援部隊は、主として3つの方面からベレナに進攻中だ。各地からの援軍が集結するのを待って、議会軍はこの街を一気に落とす腹づもりなのだろうが、そう上手くいくかな……」
彼は地図の上に沢山の駒を並べていく。それぞれの配置は、敵味方の主要部隊の現在位置を再現している。
「第一に、南部の議会軍諸師団から寄せ集められた混成機装軍。第二に、北部・西部及び王都近郊より、陸軍の主力機装軍。そして第三に、中部・東部に駐屯する機装師団が、エクター・ギルドと手を組んでこちらに向かっているらしい」
ギヨットはそこで意味ありげに微笑した。
「エクター・ギルドが何らかの動きを見せるとは思っていたが……まさか、敢えて軍の方からギルドに支援を願い出るとは、意外な展開になったものだな。議会軍としても、なりふりなど構っていられぬということか。恐らくはマクスロウあたりの進言による結果だろうが」
口元をわずかに緩めているギヨット。彼の表情は、見方によっては楽しげにすら感じられる。彼は席から立ち、その指を地図上で滑らかに動かし始めた。
「見たまえ。アラム川を辿って……ここがネレイだ。各地からこの街に集結したアルマ・ヴィオを、ギルドはすでに輸送艦と多数の飛空挺を使って移送しつつある。その行き先は、議会軍のラシュトロス基地。ネレイから王国中南部のラシュトロスまでの距離を飛び越えて、あれだけの大部隊をたちまち展開させるとは……我々はギルドの組織力を見くびっていたらしい」
彼がギルドの動きを説明した途端、指揮官たちの間に冷淡なざわめきが起こる。
中でも1人、40代半ばほどの顎髭を生やした男が、高慢な口振りで言った。
「大平原の外れに位置する……あのラシュトロスに? では、ギルドの軍は、ナッソス領を突破して東側からベレナに攻め込むつもりなのですな。まったく己の分をわきまえぬ馬鹿者たちだ。たかが冒険者や軍人崩れの寄せ集めが、ナッソス家の大軍と正面切って戦おうなどとは。所詮、素人の考えることなど、その程度……」
風体からして、彼は恐らく地方の貴族といったところであろう。その言葉を皮切りにして、他にも何名かの者たちがギルドの行動をあざ笑った。
だがギヨットは、彼らの嘲弄を冷ややかな目で眺めている――むしろ彼らの方にこそ、侮蔑の眼差しが向けられるべきだと言わんばかりに。
8
ギヨットは首をゆっくり左右に振りながら、涼しい目をして告げる。
「いや、諸君……ギルドの力は侮れぬ。現に彼らは、議会軍ですら手を焼いた海賊集団や野武士たちの群を、いとも簡単に平定している。それも一度や二度ではない。ギルドの戦士たちはアルマ・ヴィオの扱いに長け、戦いにも慣れている。装備の上でも、ギルドは旧世界の機体を大量に発掘し、また極めて戦闘力の高い飛空艦を何隻も保有しているのだ……」
指揮官の多くは、訝しげな顔で彼を見た。飛び交う失笑。昔気質の高級軍人の中には、ギルドを毛嫌いする人間が多いせいか、ギヨットの今の発言によって機嫌を損ねる者すらいた。
「ははは。ギヨット殿もお人が悪い。何ゆえ奴等の肩など持たれるのですか?」
「全くですとも。海賊どもとの戦いなど、名誉ある軍人が本気で関わることではありますまい。同じ無法者たち、ギルドの奴等に任せてちょうど良いのです」
いくら英雄ギヨットの口から出たものだとはいえ、皆、彼の警告をなかなか本気にしようと思っていない。
ただ一人だけ、急に苦虫を噛み潰したような表情になった者がいた。ひときわ目立って大きい体格を、濃紺のジャケットで包んだ海軍士官である。
コルダーユ沖の海戦で飛空艦クレドールと戦い、予想外の大敗を喫した男――《ギベリア強襲隊》の常勝不敗という名誉を喪失させ、無惨な敗軍の将に転落した、あのブロード・ガークス艦長だ。
ここ数日、ずっと屈辱感に苛まれ続けているガークスは、クレドールやギルドへの復讐を固く誓っていた。今も彼は拳を震わせ、こみ上げる怒りを必死に押さえる。ギルドを侮蔑する仲間たちの声が、そのギルドに敗れた己に対して、なおいっそうの愚弄をあびせているように聞こえてしまうのだ。
自ら末席に座し、鬱々と議事に加わっていた彼の耳に、突然、ギヨットからの願ってもない提案が飛び込んできた。
「……そこでガークス大佐、いや、ガークス同志よ。レンゲイル要塞線に配備されている飛空艦を何隻か、君の艦隊に加えようと思う。それらを使ってギルドの進撃を見事抑えられるか? 彼らは手強い。だからこそ、海軍有数のエリート部隊を率いてきた君にこの役目を任せたいのだ」
それまで俯き気味であった顔を上げて、ガークスは目を輝かせる。
「光栄であります。このガークス、命に代えましても! それでは早速、ナッソス公の支援に……」
まさに立ち上がらんばかりの気勢。が、ギヨットは銀の髪を静かに揺らして、ガークスの言葉を遮った。
「そう慌てずともよい。今はまだ、機が満ちていない。あと数日……」
「と、おっしゃいますと? 何故でございますか?!」
あの海戦以来、ろくに手入れもしていない髭面を歪めて、ガークスはあからさまに納得しかねるという素振りを見せた。
老成したギヨットのこと、勿論、何か計略があるに違いないのだが。
「まぁ、落ち着きたまえ。ギルドの主力部隊がミトーニアに攻め込むまでに、あと2、3日はかかるだろう。その後もナッソス城は、1日や2日では落ちまい。ギルドの飛空艦隊の動向がよく把握できぬことからして、恐らく敵方にも何か策略があるかもしれないが……たとえいかなる事態に陥ったとしても、ナッソス軍は、少なくとも《数日間は持ちこたえて》くれるだろう」
ギヨットの言葉は、ナッソス軍の敗北を暗示しているようにさえ聞こえる。その場にいた者たちは唖然となった。
同志たちの顔を平然と見回した後、ギヨットは話を再開する。
「つまり……仮にギルドがナッソス家に勝利して、このベレナの近郊で議会軍本隊と合流できたとしても、その頃には、帝国軍もオーリウム国境に到着し始めるというわけだ。そうなれば、議会軍の総攻撃など恐れるにたらん」
「それでは万一の場合、ナッソス家を犠牲にするとおっしゃるのですか?」
不信に思うガークス。彼自身、渋々ながらもギルドの強さを認めぬわけにはいかない。オーリウム屈指の大貴族であるナッソス公爵家が、単なる繰士組合に――つまりエクター・ギルドに破れることも、考えられぬ結果ではなかった。
9
他方のギヨットは淡々とした口振りである。彼は仲間たちに一礼すると、懐から煙草を取り出しつつ、あたかも他人事のように語った。
「構わぬよ……全てはナッソス公の御意志なのだ、ガークス君。何度も使者を送ったのだが、毎回、援軍など要らぬとお断りになられた。要するに公爵は、御自身の手勢だけでギルドの軍に勝利できると確信なさっているようだ。ならば、我らの貴重な兵力……無理に割かずともよかろう。たかだか私的な傭兵軍を相手に、名門ナッソス家が他人に助力を請うことなど、むしろ恥ずべきことだとお考えらしい」
そこから先の台詞は、ギヨットの心の中で続けられた。
――王国の保守派貴族の筆頭……ナッソスが、こちらから仕掛けなくとも自滅してくれるわけか。これで宮廷の意思を妨げる邪魔者はいなくなる。おまけに時間稼ぎのための捨て石にもなってくれるというのだから。せいぜい好き勝手に踊っているがよい。哀れなことだが、全てはこの国のため……。
◇ ◇
「わぁ! 先生、ルキアンさんがお目覚めですよぉ」
間の抜けた声が、耳を右から左へと通り抜けていく。
フィスカの言葉が聞こえたことで、ルキアンはようやく自分に意識があると気づいた。まだ頭の中が朦朧としている。
ここは何処?――そんなことなど、すぐには考えられなかった。上体を無意識に起こしたとき、背中の下に柔らかさを覚えた。
――ベッドの上? あれ、僕は……。
ふわりとした布団の感触。
濃厚だが、高雅な落ち着きを感じさせもする、どこか異国風の香りが周りに漂っている。
それは昔のにおいがした。
「バラは好きですか?」
この声の主を捜して、ルキアンはこぢんまりとした部屋の奥に目を向ける。
白い法衣をまとった華奢な背中が、ぼんやり見えた。
よく分からない。
「め、眼鏡……」
ルキアンは枕元を手探りする。体を動かしているうちに、少しずつ記憶が整理されてきた。
――あれから、僕はどうして……。
「はい、これ。メイお姉様が外しておいてくれたんですよぉ」
白衣の娘がすかさず飛んできて、ルキアンに彼の必需品を手渡した。おっとりしているように見えるフィスカだが、それは彼女の呑気な話し方から受ける印象にすぎない。実際の彼女は、甲斐甲斐しく、意外なほどよく動く。
「あ、ありがとう……ございます」
「えへっ。どういたしましてですぅ」
ぱっちりと開かれた、愛くるしい瞳。
無邪気な笑みを見せたフィスカに、ルキアンは頬をうっすらと赤らめる。
多感な年頃の少年は、慌てて周囲に目を泳がせた。
小綺麗な家具や調度品にも見覚えがある。それも、つい最近の記憶……。
「野バラの香りを東方のお茶に加えたものだそうです。コルダーユに立ち寄ったときに、フィスカが市場で買ってきてくれました。あの港には色々と珍しいものが入ってきますからね」
ポットやティーカップを乗せた盆を手にして、シャリオが振り返った。昨夜、見事な黒髪を風になびかせていた彼女だが、今朝はまた丁寧に編み直している。表情も穏やかそのものだった。
10
ベッドの上に座り込んだままのルキアン。
彼の前をフィスカが何度も行ったり来たりしているうちに、朝食の用意が瞬く間に整えられていった。
一本足の手狭な丸テーブルの上に、洗い晒しの草色のテーブルクロスが掛けられる。そこに置かれたのは、薄切りのパンが並ぶ編み籠と、マイエおばさんお手製のジャムの入った小瓶、それからハムや野菜をのせた3枚の皿。ひとつだけ量の多い皿は、ルキアンの分であろう。
「できましたぁ!」
フィスカが満足げに手をたたいていると、シャリオもこちらにやって来た。
促されるままに、ルキアンも席に着く。
椅子に力なく体をゆだねて、彼は低い目線でテーブルの上を見た。
視界の中で白いポットがかすんでいる。野菜の赤、緑の色も。
――行っちゃダメ。やだやだ。ルキアンとずっと一緒がいいの!
――心配いらないよ。僕はいつでも一緒だから……。
――ルキアンのバカ、どうしてメルカを置いて行っちゃったのよ! バカ、バカバカ! ルキアンなんか嫌いーッ!!
――ごめん、メルカちゃん。もうどこへも行かないから……。
意識が元に戻った途端、メルカの言葉と、彼女に対して自分が告げた言葉が、否応なしに浮かんでは消える。
――嘘つき。……僕は、うそつき。
「ルキアン君?!」
シャリオが血相を変えて彼の手を取る。
突然、彼は頭をかきむしり、机に突っ伏そうとしたのだ。
「うわぁっ! もう分かんない、分かんないよぉーっ!!」
「落ち着いてぇ、ルキアンさん、気を確かに!」
驚いたフィスカも、必死にルキアンの肩を押さえる。だが、なおも額をテーブルに打ち付けようとするルキアン。
「僕はどうしたらいいの?! うわぁぁぁっ!」
シャリオは毅然とした調子で頷いて、椅子から立ち上がった。
――この子は……。
彼女は力一杯ルキアンを抱きしめ、しばらくして彼の動きが止まると、その頭を優しくなでた。
「そういうときは、思いっきり泣きなさい……何も考えずに」
彼女は一言ずつ、諭すようにつぶやく。
「男だからって、戦士になるからって、それでも泣きたいときには泣いて構わない。辛かったのですね……今までずっと、あなたはそうやって他人に感情をぶつけることがなかったのでしょう? 可哀想に、きっとこの子は誰にも抱きしめてもらえず、温かい腕はいつも傍らを通り過ぎ、たった独りで……」
シャリオの胸に顔を埋めて、ルキアンは嗚咽した。
「本当はね、ほんとはね、僕……」
「いいえ。今は何も言わなくていい。あなたの心は、決まっているのでしょ?それで良いって、誰かに言ってほしいのでしょ?」
シャリオはルキアンの耳元でささやいた。
彼は無言でうなずく。
11
どのくらいの時が過ぎただろうか。ルキアンはシャリオの腕から離れた。
彼はべそをかきながらも、澄んだ目をしてこう言った。
「ごめんなさい。僕、疲れちゃって……。今日までずっと疲れて、惨めで……。だけど、もう大丈夫です。シャリオさんの言うとおり、思いっきり泣いたら気持ちが晴れ晴れしました。何度もすいません、迷惑をお掛けしてばかりで」
ルキアンは落ち着いた手つきで食事をし始めた。ほっそりとした指先が、白いカップに触れ、そっと持ち上げる。
「あ、あの、ルキアンさん……ほぇ?」
フィスカが思わず首を傾げてしまったほどに、彼の様子は、うって変わって冷静に見えた。
「昨日の晩、せっかくみんなに励ましてもらったのに。自分の決めたことには、最後まで責任を持たなきゃ。恥ずかしいですよね。いつも、頭では分かってるんですけど……。あ、そう言えば、メイやクレヴィスさんは?」
「つい今までここにいましたわ。もうすぐ出港の時間なので、2人とも持ち場に戻られました。ルティーニさんやバーナンディオさんも、心配して見に来てくれたんですよ。みんな、あなたのことを……」
品良くお茶を口にしていたシャリオが、一息入れた後に答えた。
ばつが悪そうに、はにかんだ笑みを見せるルキアン。
「そうだったんですか。皆さんが……。あの、朝食をいただいたら、ブリッジのクレヴィス副長やカルダイン艦長のところに行って挨拶してきます。ありがとうございました。もう大丈夫です……本当に」
◇
ルキアンがベッドに横たえられていた間に、クレドールの乗組員たちは全て配置に着き終わり、出港の時を今や遅しと待ちかねていた。
艦橋のクルーたちも、ほぼ出発が可能なところまで準備を整えている。
朝から一寸の気のゆるみもなく、背筋を凛と伸ばしたセシエルが、急かすような口調でクレヴィスに告げた。
「ラプサーからまた念信です……フェイン副長からの催促、これで2回目よ。アクスの方も動力機関に点火し始めているって。どうするの? ちょっと、クレヴィー! 聞いてる?」
返事が帰ってこなかったので、セシエルは眉を少しつり上げる。
他方のクレヴィスは、ナッソス領付近の《宙海図》を開いて、先ほどからじっと眺めていた。
ちなみに宙海図というのは、書いて字のごとく、空の航海図である。対象となる空域について、そこに存在する浮島や浮遊岩礁帯の位置・規模を克明に書き記し、同時に霊気の乱れ具合を等高線状の図式で示したものだ。大空に島々が漂う世界、イリュシオーネならではの地図だと言えよう。
「分かりました。まったく、フェイン副長にはかないませんねぇ……ふふふ」
クレヴィスは背後のカルダインを振り返って、呑気に言う。
「一応、こちらも動力機関を暖めておきますか。カル?」
「あぁ。そうしてくれ。カムレス、主翼とそれぞれの《鰭(ひれ)》の調子はどうだ?」
いつもの通り、カルダインの態度もごく安定したものだ。眠気覚ましに一服しながら、艦長席で堂々と構えている。カルダインは日頃より入念に髭を刈り込んでいた。久々の本格的な《戦場》に備えて、彼なりに気合いを示しているのだろうか。
カムレスは、舵輪の脇に並ぶ多数のダイヤルやレバーを操作しながら、助手たちにも再三の指示を与えていた。
ひと通り落ち着いた後、彼は機嫌良さそうに返答する。
「艦長、こちらは問題ない! ネレイの技師連中もやるじゃないか……《尾びれ》の反応速度は普段より少し上がっている。ほかの鰭も、両方の主翼も、至って快調だ」
【続く】
※2000年10月~11月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第13話・前編
【再々掲】 | 目次 | 15分で分かるアルフェリオン |
ある嵐の日、かごの中の鳥は荒れ狂う空へと飛び出したのです。
自分の翼で大空を舞いたかったために。ただ、それだけのために。
たとえその小さな翼が、折れてしまっても構わないから……。
◇ 第13話 ◇
1
青ざめた月の光を浴びて、暗闇の中で何かが吠えた。
それは翼を持つ巨大な生き物だった。
冷たく堅い銀色の肌に覆われた、人の似姿である。
――銀の、翼……アルフェリオン?
漆黒の世界の中で、ルキアンは目をこらした。
恐ろしいほど静かである。
他には誰もいない、何も無い、静寂に支配された空間。
ひたひた、ひたひたと、細波を思わせる音が聞こえる。
生臭い鉄のようなにおいが漂ってくる。
空っぽの水面らしきものが、どこまでも広がっているようだ。
――ここはどこ? 僕は、何を……。
ルキアンの声は無音の闇に吸い込まれていく。
――誰もいないのかな? アルフェリオン、返事をして!
銀色の生き物がその口で何かを喰らっているのを、ルキアンは見た。
骨の砕ける音。肉が歪み、ちぎれる音。
粘ついた雫が滴り、大きな音を立てて何かが水面に落ちた。
周囲に散った飛沫がルキアンの顔にもかかる。
それは頬を伝って流れ、彼の舌にまで達した。
ルキアンは思わず吐き出す。これは……。
水面の一角が、ぽっと明るくなった。
ぼんやりとした人影が水の上に立っている。
豊かな髪を持つ黒衣の女だ。
その手足は気味が悪いほど白く、暖かい体温など微塵も感じられない。
ルキアンは恐怖のあまり逃げ出そうとしたが、体が動かなかった。
女は唇に冷ややかな笑みを浮かべ、陰惨な声で喜々としてささやく。
――見て、これが新しい世界……あなたと私が望んだ世界。
歯を鳴らして怯えるルキアンに、彼女はなおも語りかける。
――もう誰もいないわ。あなたを傷つける者も、あなたを苦しませる者も。
――み、みんなは? ソーナ、メルカ! クレドールの仲間は?!
ルキアンの耳に女の笑い声が響き渡る。
血も凍る思いだった。
――ほら、これが人間たちの生きてきた証。あなたのまわりは全部……。
瞬間、すべてが白日の下にさらされた。まばゆい光と、異様に濃い空の青。
ルキアンは絶叫する。
先ほど海だと思っていたのは、果てしなく続く赤い水面だった。
見渡す限りたたえられた鮮血。
ぽつんと取り残されたアルフェリオンの上に、ひとり立つルキアン。
血の海の中には無数の遺体が漂っていた。
――あ、あれは、みんな!!
2
ルキアンは、気がつくと必死でシーツをかきむしっていた。
額から流れる汗。いや、体中が寝汗でびっしょり濡れている。
「夢? 夢だったのか……」
まだ手の震えが止まらない。あまりに鮮烈な光景は、記憶にはっきりと刻み込まれていた。
「もう朝なのか。眠った気がしないよ……」
窓辺からカーテン越しに差し込む光が、一日の始まりを優しく告げる。
力の抜けた体で立ち上がり、彼は夢遊病者のごとく窓辺に歩み寄る。
窓を開いてみた。
青空。昨日と同様に良く晴れた爽やかな天気だ。
向こうの木立の中で、早起き鳥たちのさえずる声が聞こえる。
少し遠くに目をやると、ネレイの家々の赤い屋根や石畳の道が見える。
これらの様子は、普段と何ひとつ変わることのない平和なものだった。
「それにしても嫌な夢だったな」
ルキアンはほっと溜息をついて、ベッドの上に座り込む。
彼は心の中で自問する。
――昨日、クレヴィスさんたちと話して、アルフェリオンの怖さを色々と知ったせいだろうか。いや、それだけだろうか? あの女の人は……。
そのとき、ぼんやりとしていた彼の耳に、扉を激しくノックする音が聞こえた。今度は夢ではなく現実だ。
「ルキアン君、すまんが起きてくれたまえ!」
血相を変えて飛び込んできたのは、ピューム・エアデン医師である。昨晩、ルキアンはメルカと共に彼の家に泊めてもらっていたのだ。
紳士的な医師である彼が、ほとんど寝起きに近い有様で立っている。
そのただならぬ慌てぶりにルキアンは嫌な予感を覚えた。
「今朝早く、メルカちゃんがこの部屋に来なかったかね?」
「いいえ。あの子が何か?」
「実はメルカちゃんが、いつの間にかどこにもいないんだ。家の扉には鍵が掛かっている……あの子の部屋の窓が開けっ放しになっていたところを見ると、たぶん窓から抜け出したんだろう。家出かどうか分からないが、私たちもうかつだった」
ピュームは申し訳なさそうに、髪の薄い頭を垂れる。
他方、ルキアンは震える声で言う。
「先生。あの子は小さな頃から、本当に勘の鋭い子なんです。他人の行動を直感的に予知してしまうというのか……だから、きっと、あの、僕、僕がいけないんです。メルカちゃんを置き去りにして、クレドールと……あ、あぁ!」
「落ち着きたまえ、ルキアン君。すぐにでも本部の方に伝えて、手の空いている者に捜索してもらう。心配ない、ネレイの街で起こったことならば、ギルドに分からない事など何もないのだから」
そう言うピュームの声も、ルキアンの耳にはよく届かなかった。
ルキアンは顔面蒼白のまま、何もできずに突っ立っていた。
3
◇ ◇
オーリウム、ミルファーン、ガノリスの3国にまたがるラプルス山脈。そこはイリュシオーネ有数の高山地帯である。
切り立った山々の頂は、年間を通じて雪に覆われている。雲を貫いてそびえる諸峰は、その峻険さと苛酷な気象条件とによって、太古から今日まで人の手を拒み続けてきた。
ただし、鳥も啼かぬ険しい岩山だけが、ラプルスの地を形づくっているわけではない。天を突くような山脈に沿って、大小様々の谷が走っているのだ。
冷たい水の流れが岩を食み、沢から沢へと複雑に枝分かれしていく無数の渓谷。荒々しい断崖を通り抜けた谷は、山裾で扇形の広大な草原へと姿を変える。気の遠くなるような時間をかけて氷河が作り上げた、岩と水と緑の芸術である。
いくつかの開けた谷間には、古き時代からすでに人々の生活の匂いがあった。
他方、いまだかつて何人も足を踏み入れたことのない谷も数知れない。そのうちのただひとつを、オーリウム宮廷の策士は長い間探し求めていたのだ。伝説の《大地の巨人》が眠るという地下遺跡……そこに通ずる幻の谷を。
ラプルス山脈を構成するおびただしい岩山のひとつ、その切り立った尾根の背後に、別の峰がさらに屏風を立てるようにそびえ立つ。
両者の狭間には、ほぼ垂直に切れ込んだ谷が不気味に口を開けていた。
だがその幽谷は、どの方向から眺めてみたところで、岩や山並みの背後に隠れて見えはしない。上空からでも調査しない限り、まずは発見することができないだろう。
谷は極めて深い。闇の奥に秘められた地の底まで、崖の縁からどのくらいの距離があるのか見当も付かない。
しかし驚くべきことに、この巨大な裂け目の奥へと何者かが降下していた。世界の心臓にでも届きそうな、延々と落ち込む暗闇の中に、複数の輝くものが見受けられる。
ひとつは飛行している。他はゆっくりと浮遊しながら、その後を追っていた。
全てアルマ・ヴィオだ。
まず、空中で整然と方陣を組む9体。それらの丸い頭部には、長い尾を持つ鳳凰の飾りが、ちょうど鶏冠のように乗せられている。重装騎士を彷彿とさせる甲冑、後方に広がった大きなスカート部分。左手にはマギオ・スクロープの発射口を備えた円形の楯、右手には巨大な光の槍を携える。磨き抜かれた銀色の機体に、鮮やかな紅のアクセント。国王直属の近衛機装騎士団が誇る《シルバー・レクサー》である。
そして、シルバー・レクサーを率いて悠然と宙を舞うのは……同様に騎士を模した、白と金の壮麗なアルマ・ヴィオだ。不可思議な光を放つ細長い翼。竜の頭部を想起させる兜、滑らかな曲線を描いて伸びる大きな肩当て。一際目立つのが、右手に構えたマギオ・スクロープ・ドラグーン――要するに、小銃の形をした呪文砲である。
この白い騎士こそ、最強の汎用型とも言われる《エルムス・アルビオレ》、すなわちパラス・テンプルナイツ専用のアルマ・ヴィオに他ならない。ということは、パラス機装騎士団のうち、少なくとも1人がここに来ているのだ。
4
――セレナ様、谷底に水の流れが……川が、激しく荒れ狂う川が見えます!
シルバー・レクサーの1体からの念信。
――確かに。《地の底を流れる闇の川》とは、これのことでしょうか?
別の機装騎士もそう告げる。
――了解しました。早急な判断は避けねばなりませんが、ここまでの道のりは古文書に記された通りですね。慎重に、このまま降下を続けるのです。谷底に着いたら直ちに第4隊形を取って、周囲のデータを収集してください。焦ってはなりません。
少し冷ややかなほど落ち着き払って、ひとりの女が答えた。それは心の声であって、実際の音になって響いているのでは勿論ないが……ある種の音色のイメージを念信から読みとることは可能である。おそらく高く澄み、それでいて毅然とした声の持ち主に違いない。
さらに別の機装騎士から念信が入った。
――セレナ様、ギルドのゴロツキどもに感づかれないうちに、遺跡に辿り着けそうですね。ついに《大地の巨人》とご対面ですか。
しかし彼女は答えなかった。このセレナというのが、パラス・ナイツの1人、セレナ・ディ・ゾナンブルームである。貴族の女性らしい優美で豊満な外見には似合わず、恐るべき剣と魔法の使い手だ。
念信には伝わらない心の奥底の声で、セレナはつぶやく。
――エクター・ギルドか。そういえば、クルヴィウス、貴方は今頃どうしているの? いや、そんな昔の名前など、とうに捨ててしまったのだったわね。全てはもう過ぎ去ったこと……。
わずかな沈黙の後、彼女は元の冷静な様子で念信を送る。
――各機へ。《闇の川》に続いて、最後の目標である《鷹の巣と静寂の広間》を発見できたなら、ここを遺跡の谷として認め、山麓に待機する友軍に連絡することにしましょう。そうすれば、城で待機しているファルマス副団長たちにも、すぐさま念信が中継されることでしょう。
◇ ◇
昨晩の喧噪とは打って変わり、早朝のネレイ港はしんと静まり返っていた。作戦開始の直前にしては、ある意味、拍子抜けしそうなほどに平穏な有様だ。
岸壁の先に広がる人工湖。その濁った水色は、本来あまり美しいとは言えないのだが……朝の光が作り出すきらめきのおかげで、いくぶん見栄えが良くなっている。
朝霞の向こうに人影が見える――波止場の際に小さな椅子を置き、ゆったりと腰を下ろして、ひとりの男が釣り糸を垂れていた。
男は片手で竿を持ったまま、もう一方の手で懐中時計を引き出す。先ほどから、彼は何度もこうして時刻を確かめているのだった。
「ふふ……」
彼のそんな様子を見て、メイはそっと笑みを漏らす。彼女の方は軽い散歩をしているだけなのだろう。白い長袖シャツの上に深緑色のヴェストを羽織っただけの軽装である。
メイは肌寒そうに首をすくめながら、眠気の醒めやらぬ表情で男に近づいていく。
「今朝は随分早いのね、クレヴィー。釣り? この大変な時に、余裕ねぇ……」
男は振り返りもせず、ただ無言で頷く。釣り人の正体はクレヴィスだった。
派手なステップを踏みながら、メイは子供っぽい仕草で隣に回り込んだ。そしてクレヴィスの顔をのぞき込むようにしつつ、石畳の埠頭にしゃがむ。
港湾の向こうに見えるアラムの本流から、心地よい湿り気を含んだ風が吹いてくる。舞い上がった髪に手ぐしを入れると、クレヴィスは呑気につぶやいた。
「釣りというのは、朝夕にするのが一番良いのですよ。昼間の港は騒がしいですからね、魚も逃げてしまいます」
「そ、そういう問題じゃないんだけど」
苦笑するメイの目に、クレヴィスの傍らに置かれた空っぽの水桶が映った。
「それで……何よ、全然釣れてないじゃないの!」
「当然です。餌が付いていないのですから」
クレヴィスはそう言って竿先を上げる。水面に出てきた仕掛けの先端では、銀色の針がぽつんと光っていた。確かに餌がない。
釣り糸を指で摘んで、目を細めるクレヴィス。
5
メイはゆっくりと腰を上げ、溜息をついた。
「気になっているのね? ルキアンが来るかどうか……」
彼女の問いかけには答えず、クレヴィスは足下の木箱を探った後、仕掛けを再び投じる。ようやく新しい餌を付けたようだが。
メイも黙って、水面に漂う浮木を見つめる。
何処からともなく薄紅色の花びらが舞い落ち、白い浮木に貼りついた。
「私はルキアン君の《目覚め》に期待しています。しかし現実には、己に託された大いなる使命を自覚しないまま、計り知れない天分を眠らせたまま、世に埋もれて一生を終える《選ばれし者》……そういう人たちが、数え切れないほど居るのです。心配していないと言えば、確かに嘘になりますね」
喉にこもった冷たい声でクレヴィスが言った。
つま先で地面を小突きながら、メイはお気楽な口調で応える。
「うぅん、朝っぱらから小難しいこと言って。あたしにはよく分からないけど、なんていうか、でも、そういうものじゃないの? この世界なんて……。優れた素質を持って生まれてきても、日陰の花で終わる人は沢山いるし、そうかと思えばつまんないヤツが、欲に駆られて偉くなって、世の中を食い物にしてることだってある。当たり前じゃない」
珍しく悲観的な台詞を吐いたメイ。が、彼女は続けてこう言う。
「まぁ、それでも何だかんだで、この世は今日までちゃんと続いてきたんだから……いいんじゃないの。ダメ? あ、ほら、引いてる引いてる!」
浮木が微かに揺れ、水中に沈んだ。
メイが大声で騒ぎ立てたにもかかわらず、それを気にも留めぬ様子で、クレヴィスは何か別のことを考えていた。
一呼吸、二呼吸ほど経った後、手応えのないのを知りつつ、彼は竿を上げる。
「確かに。ともかくこの世界が、明日もこうして続いてくれさえすれば、多くの人間にとってはそれで十分なのかもしれません。いや、むしろ今日の無事を天に感謝すべきかもしれません。しかし旧世界の過ちは……人類という物語を、危うくもう少しで終わらせてしまうところでした。そして今なお、旧世界の遺産は我々の現世界をも翻弄し、滅びの危機に導こうとしています。今度こそ全ては終わるかもしれません。だから私は……」
クレヴィスは改めて仕掛けを振り込んだ。
「ここで人の世に一石を投じようと思うのです。運命の少年、ルキアン・ディ・シーマーを……」
風。ざわめき始めた水面。浮木が静かに落ち、次第に波紋が広がっていく。
メイはクレヴィスの腕をぽんと叩いてから、鼻歌を歌って歩き始めた。
「ルキアンのこと、あたしが見てこようか? それより、クレヴィーはそろそろブリッジに上がっておかないと、お堅いセシーあたりにどやされるわよ!」
「すみませんね。でも、彼はちゃんと来ると思います。漠然とではあれ、気づき始めているはずですから。本当の自分に……」
「あたしも大丈夫だと思うけど……心配だから、ちょっと見てくる」
するとクレヴィスは一礼して、自分の上着を脱いでメイに手渡した。
「その格好、寒そうですよ。風邪を引いてもらっては困ります」
「ありがとう。えへへ」
メイは無邪気に笑って、少し大きめのクレヴィスのコートを羽織る。
そのとき、埠頭の背後に立ち並ぶ倉庫の影から、危なげによろめきつつ歩いてくる者がいた。右に、左に、足下がふらふらとおぼつかない。
あたかもルキアンの幽霊が這い出てきたかのごとき――いや、そう思わせるほど憔悴しきったルキアン本人が、重い足を引きずり、こちらにやって来るのである。
「……でも、僕、行かなくちゃ」
彼はうわごとのように呟いていた。虚ろな眼差しで、宙を仰ぎながら。
「早く、行かなきゃ、飛ばなくちゃ……」
「分からなくなっちゃった……でも、飛んでみようって、決めたんだから……」
【続く】
※2000年10月~11月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第12話・後編
【再々掲】 | 目次 | 15分で分かるアルフェリオン |
7
◇ ◇
議会軍少将マクスロウ・ジューラは、日暮れ頃からずっと執務室に籠もったまま動かなかった。
いつも通りに黙々と仕事を片づけているようにしか見えないが、怜悧な鳶色の瞳は、おそらく目の前の書類とは別のことに思いをめぐらせている。
彼は何かを待っていたのだ。
どのくらい経ったであろうか。やがてマクスロウは部屋に明かりを灯し、再び机に戻る。
それと前後してドアが静かにノックされた。
ひとりの平凡な女性士官が、ごく些細な用件で訪れたにすぎない――誰が見てもそうとしか思えぬ光景だった。
よく手入れされた金色の髪をのぞけば、彼女には、これといって人目を引く点は見あたらない。取り立てて美人とも不美人とも言えなかった。並はずれた知性の輝きは感じられないが、真面目で仕事熱心な人間だということが、その面差しの中に現れている。
「ジューラ少将、今しがた《古城の白い花》が届きました。予定より多少遅れたようですが……」
彼女、エレイン・コーサイス少佐は、何くわぬ顔でそう告げる。
無言で頷くマクスロウ。彼の表情が微妙に厳しくなった。
エレインは少将の耳元に近寄ると、声を抑えてささやいた。
「少将のご推察通りです。《竜たち》は大地に姿を現し、彼らの本来あるべき所に集まっています」
「なるほど。もしやとは思っていたが……《パラス機装騎士団》が集結したか。エルハインにまで網を張ったかいがあったな」
よほど重要な用件とみえて、最初のうち、彼らは一種の符丁を用いて話していた。《古城の白い花》とは、王城に忍ばせた密偵からの連絡のことであり、《竜たち》とはパラス・テンプルナイツ(=パラス機装騎士団)のことだった。
「緊急の召集がなされたにもかかわらず、テンプルナイツは反乱軍との戦いには向かわぬようです。これは国王軍内部からの、信頼のおける情報だということですが。ということは、彼らの行く先はやはり……」
「……そうか」
瞬間、マクスロウは眉をひそめただけだったが――腹心の部下エレインには、そのわずかな動きから彼の動揺を感じ取ることができた。
腕組みしながら、マクスロウは低い声で告げる。
「少なくとも《谷》の位置はすでに特定され、あるいは、本命の《遺跡》までもが発見されてしまったか? いずれにせよ我々は先を越されてしまったらしい。宮廷側よりも早く《あれ》を押さえなければ、厄介なことになりかねん。極秘裏に監視を続けるよう伝えてくれ。万が一必要となれば、特務機装軍を何個大隊か投入してでも、パラス・ナイツの行動を阻止する……」
傍目には意味の分からない会話だったが、事情を知るエレインは血相を変えている。
新たな命を受けた彼女が部屋を出ていった後、マクスロウは引き出しから煙草を取り出した。彼は暗い目でつぶやく。滑らかな抑揚を含んだその言葉は、どこか詩の朗読にも似ていた。
「いにしえの時代、《大地の巨人》は天の軍勢さえも撃ち破るに至った。その力を恐れた天上界の人々は、ついに《空の巨人》を地上に差し向けたという。されど空の巨人は《悪しき妖精の娘》に心を奪われ、逆に自らの世界に矛先を転じる。そして双方の巨人は、神にも等しい力で天上界を滅亡に追い込んだ。伝説は言う……大地の巨人が目覚めるとき、空の巨人も再び光臨せん、と。我々は決して巨人の眠りを妨げてはならぬ。あれはおそらく、人間の力で好きに操れるような代物ではなかろう。愚かな名誉欲や領土欲のために、かつてのような災いを招いてはならんのだ。分かっているのか、城の人間たちは……」
8
◇ ◇
ネレイ内陸港の飛空艦専用の埠頭には、3隻の船が停泊中だった。
そのうち最も特異な姿をしているのが、強襲降下艦のラプサーである。節の目立つ、どことなく三葉虫を思わせる船体は、分厚く鋭角的な装甲で覆われていた。全体として扁平な形のように見えるけれども、水面下に沈んでいる船腹部は、下向きに大きく張り出している。その膨らんだ部分には、対地用の様々な兵器が格納されているのだ。
隣の一回り大きい船が、中型制空艦アクスである。やや細長い甲板には、城塞の如く堅牢な司令塔を中心に、多数の砲門が並んでいた。こうして水面に浮かんでいる限り、アクスの形姿は、我々の世界における現在の軍艦とさほど変わらないようにも見える。充実した火力を誇る制空艦は、艦隊戦の際の主役となる。
そしてひときわ優美な魚型の船、戦闘母艦クレドールの巨体が、闇の中に白く浮かび上がる。柔らかな月明かりとともに、港に備えられた旧世界の灯火が強力な光を投げかけ、船の周囲は白夜のごとく輝いているのだった。
降り注ぐ灯光の下で多くの人々が行き交っていた。食料の入った麻袋を担いでいる者、砲弾の乗った台車を重そうに押していく者、岸壁に積み上げられた木箱の数を、ひとつひとつ確認している者。施設の警備に当たるギルドの戦士や、皆に炊き出しをしている女たちの姿も見られる。
時計は夜の10時を回っているにもかかわらず、港が静まりそうな気配はない。むしろ時が経つにつれて慌ただしさが増すばかりである。
「食料の確保は順調のようですね。日付が変わる頃には弾薬の搬入もなんとか終わりそうですか。後は船体とアルマ・ヴィオの整備……」
クレドールのタラップからルティーニが降りてきた。補給の内容を詳細に記した書類をにらみつつ、彼は作業の進行具合をチェックしている。
「やぁ、ルティーニの旦那! 今回もいいブツを揃えておきましたぜ。へへへ」
眼帯をした小柄な男が、彼の姿を見るや、胡散臭そうな笑みを浮かべてすり寄ってきた。おそらくはジャンク・ハンターの仲買人だろう。旧世界の遺物(通称ジャンク)――それこそ電球からアルマ・ヴィオまで――をハンターたちから買い入れ、様々なルートを使って売りさばく人々だ。
ちなみにハンターやその関係者というのは、旧世界の発掘品の売買だけではなく、多くの裏の取引にも関わっている。盗品や禁制品の扱いから、場合によっては人身売買まで行っている組織も少なくないという。
ギルドに顔を出しているのは、せいぜい、違法すれすれのグレーゾーンの商売で満足する《真っ当な》ハンターたちだが……。ともかく、そんな怪しげな人物たちと取り引きする間柄になろうとは、宮廷顧問官まで務めたルティーニにとって、以前であればおよそ考えられないことだったろう。
9
人々にねぎらいの声をかけながら、ルティーニは港沿いの倉庫の方へと歩いていく。
と、行く手の方で、彼に向かって盛んに手を振る男がいた。
「おぉ、ルティーニーっ! ちょうどいいところにやって来たじゃないか。これはいいぞ、はっはっは!」
軍人のような……いや、実際にミルファーン海軍士官のコートを着た、年の頃30前後の男が、片手に金属のお椀を持ったまま笑っていた。丁寧に刈り込んだ口ひげがトレードマークの、剛毅で気前の良さそうな男である。
男の前では、ギルド本部の調理師らしき人々が夜食の差し入れを行っている。彼らが大鍋から汁をすくい上げるたびに、食欲をそそる香草のにおいが漂ってくる。キノコ、野草、木の実等、色々な山の幸に、鶏肉を加えてごった煮にしたようなこの料理は、王国西部の某地方の名物らしい。
「ウォーダン砲術長、私も少しお腹が減りましたよ。ご一緒させてもらって構いませんか?」
夜食どころか夕食の余裕さえなかったルティーニも、このあたりで少し一息というところか。
口ひげの男は、クレドールの砲術長、ウォーダン・レーディックだ。元ミルファーン王国海軍の軍人で、生粋のミルファーン人。少年時代、革命戦争におけるカルダインの活躍ぶりに憧れ、やがて自らも軍艦のクルーになった。そしてカルダインがオーリウムのギルドで艦長をしていると知るや、軍を辞し、国を去ってまでクレドールに押し掛けたという……とにかく《ゼファイアの英雄》に心酔している人である。
ルティーニのために例の煮物とパンを一切れもらうと、ウォーダンは、陽気な笑みを浮かべてこちらにやって来る。
「実はな、ルティーニ。彼を紹介しようと思ってずっと探してたのさ。何度か一緒に仕事をしているから、もう知ってるかもしれないが、彼がサモン・シドーだ。今回の作戦では我々にずっと同行してくれる。飛行型のアルマ・ヴィオを操らせたら、これがなかなか良い腕なんだ」
ウォーダンは、皮マントをまとった《剣士》を――そう、2本の刀を腰に帯び、まさに剣士という風貌の若者を紹介する。
昼時にルキアンたちと食卓を共にしていた、独特のエキゾチックな容姿を持つあの男だ。中肉中背で均整の取れた体格だが、大柄なウォーダンと並ぶとかなり小さく見える。
黒髪に黒い目のサモンは、飄々とした様子で言葉少なに挨拶した。
「少し、お話ししたことが……ありましたか。俺、サモン・シドーです」
サモンのオーリウム語は、かなりぎこちなく聞こえた。彼はナパーニア人なので、無理はないかもしれない。
「さっき聞いたんだが、サモンはミルファーン暮らしが結構長かったらしい。なんせ、俺より流暢にミルファーン語で話すくらいだ。故郷が急に懐かしくなって、色々と話していたところさ」
ウォーダンがそう言うと、ルティーニはゆっくりとしたミルファーン語で答える。
「ミルファーン語はあまり得意ではないのですが、私も……少しは話せます。改めまして、クレドールの財務長ルティーニ・ラインマイルです。かく言う私もオーリウム人ではないですからね、言葉には苦労しましたよ」
自国語に加えて、オーリウム、ミルファーン、ガノリス、タロス、エスカリアの言葉、さらにはキニージア語やメリア語まで操るルティーニは、やはり並はずれた語学力の持ち主である。彼ほど多数の言葉に通じた人間といえば、クレドールの中でも、他にはせいぜいランディぐらいのものであろう。
10
サモンも、さきほどのオーリウム語と比べて遙かに滑らかなミルファーン語で話す。
「これは驚きました。博識な方だと噂には聞いていましたが、ラインマイル財務長、さすがですね。俺のアルマ・ヴィオ《ファノミウル》も、もう積み込んでもらったようで。どうも、お世話になります」
放浪のエクター、サモン・シドー。彼らナパーニア人は自分たちの国を持っておらず、そのせいか、各国を点々とする旅芸人や行商、あるいは冒険者や傭兵などを生業としていることが多い。このナパーニアは、かつて旧世界の時代に工業や貿易によって繁栄を誇ったと言われている。だが今では、世界地図のどこを見ても、そのような名前の国は見つからない。
◇
補給作業の邪魔にならぬよう、ルキアンたちは少し離れたところからクレドールを見守っていた。夕方までミンストラが停泊していたその場所は、同艦の出港後、だだっ広い水面に戻っている。
そこにぽつんと取り残された……はるか沖合いにまで突き出た木製の桟橋。その真ん中あたりに、ルキアン、メイ、バーン、シャリオ、フィスカの5人がたたずんでいる。
夜が更けるにつれて風が出始めた。ネレイの背後にある荒涼とした丘陵地帯から、冷たい空気が降りてくる。灰色の大地から冷気を受け取った、寂しげな夜風が。
いくぶん寒々とした暗い湖水を前にして、バーンがつぶやく。
「まぁ、その……なんだ、俺にも少しは分かるぜ。アルマ・ヴィオで戦ってくれなんて突然言われたら、普通はルキアンのように迷うかもしれないな。うむ」
「当ったり前だってば。アンタみたいな単細胞と一緒にしないでよ」
珍しく改まったバーンの口振りに、メイがくすくす笑っている。
「……俺の場合は、ちょっと事情が特殊でな。親父がエクターだったんだ。だから俺も、成り行きというのか、気がついたらエクターを目指していた」
バーンの声が不意に陰りを帯びた。
ルキアンはそれに気付かなかったが、メイは少し驚いたような表情でバーンを見上げる。丸く見開かれた彼女の目は、真剣だった。
無造作に指の関節を鳴らしながら、バーンは語る。
「だけどな……ギルドの繰士になんか、なるもんじゃネェと、親父はいつも俺に愚痴をこぼしていた。お前は《機装騎士(ナイト)》になれ、その日暮らしの冒険者や傭兵なんぞで終わるな、ってな。親父がそんなだからよ、俺も物心つく頃には、すっかり機装騎士に憧れていた」
荒っぽく大雑把なバーン――繊細という言葉からはほど遠い彼が、いつになく物静かな声で言う。
そんな彼の様子を見て、さすがに何か感じるところがあったのか、フィスカが興味津々の顔で尋ねた。
「ナイトぉ! すごいですねぇ。もしかして、パラス・テンプラ……じゃなかった、てんぷる、テンプルナイツを目指していたとかですか? 格好いいですぅ」
「いや、悔しいが、俺なんぞの腕でパラス聖騎士団に入れるわけがねぇ。俺が目指していたのは、国王直属の近衛機装騎士団さ。ともかく、近衛機装隊のアルマ・ヴィオ……銀色に紅も鮮やかな《シルバー・レクサー》に乗ることが夢だった」
「シルバー、何? むぅ~、私は知らないですぅ。あ、先生? すいませ~ん、ンっ」
フィスカの手をシャリオがそっと引っ張ったらしい。真剣に聞き入る他の面々に比べて緊張感のかけらもないフィスカを、少し黙らせたくなったのだろうか。
バーンは照れ笑いして、それからまた真面目な顔で話し続ける。
「自分で言うのも何だが、ガキの時分からアルマ・ヴィオの扱いには慣れてたからな。国王軍の繰士見習いに志願したときには、同期の誰よりも強かった。で、めでたく近衛隊の見習いをやることになり、俺は夢をつかんだ。そのはずだったんだ……」
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《夢ヲツカンダ》、《ソノハズダッタ》。
ルキアンの心中にその2つの言葉が無数に浮かび上がり、飛び交い、入り乱れた。なぜか目眩がする。
「だがよ、ただでさえ堅苦しいお城暮らし、しかも《お坊っちゃん機装兵団》と言われる近衛隊だ。田舎の平民エクターの息子が、貴族のぼんぼん連中とうまく折り合っていけるわけがネェ。性に合わねェんで、2年も経たないうちに辞めちまった。何のコネもない俺が近衛隊に入れたこと自体、今から思えば奇跡だったのによォ。しょせん野良猫の子は野良猫、虎にはなれねぇ。ま、ご立派な檻の中で飼われる虎よりも、気ままに生きるちっぽけな野良猫の方が、俺には似合ってる……」
わずかな沈黙。それぞれ違った心持ちゆえであろうが、言葉を飲み込んだ4人――彼らの反応を、バーンは意外だといった目つきで見回す。
「オイオイ、何をしんみりしてんだよ。俺はこれでも今の暮らしに大満足してるんだぜ、負け惜しみじゃネェぞ。へへ、ギルドはいいぜェ……来いよ、なぁ、ルキアン!」
彼は大げさな身ぶりでルキアンの両肩を揺すった。上着の生地を通してさえ目立つ、盛り上がった二の腕の太さ。すごい力だ。細身のルキアンが折れ曲がってしまいそうに思える。
「バーン……」
複雑な気持ちのルキアン。呆気にとられたか、はたまた感激したのか、口はぽかんと開いたまま、目は笑って……頬には涙が伝っている。よく泣く。
「こぉら。泣くなよ、少年っ!」
メイがルキアンの後頭部を小突いた。彼女もとても嬉しそうだった。
彼女の後ろで、フィスカがシャリオの腕を無邪気に揺さぶりながら、頭から抜けるような声で言う。
「そうですぅ~! えへへ、フィスカもクレドールがとっても好き。シャリオせんせぇも、メイおねぇ様もそうですよねっ?!」
「えぇ。とっても……」
普段よりもおっとりした言葉と、それに見合った柔らかな物腰で、シャリオはうなずいた。
「ルキアン君だけじゃない。私だって、バーンやメイだって……かつては灰色の現実の中を漂う、孤独な《さまよいびと》だったのかもしれません。でも独りだったからこそ、私たちは本当の仲間を探し求め続け、こうしてクレドールに集うことができました。ルキアン君、もうあなたは独りではありません」
「えぇ。ひとりじゃないわ」
メイの凛とした声が、冷え冷えとした水面を鋭く走り抜け、辺りに響く。
湖面の上に広がる夜空。
メイは両手を広げてのびをすると、しばらく天空を見つめた。
「ふふ。よく分かんないけど、たぶん、星が導いたのよ。ルキアンの声が届いたんじゃない?」
「……そうですね。メイの言う通りかもしれません。出会いというのは、見えない筋書きに導かれた、小さな奇跡。色あせた人の世にあらがい、もがき、迷い続け、現実との絶望的な戦いを今日までたったひとりで貫き通した、日々を真摯に生きる少年……ルキアン君のそんな姿を見て、あの星々が道を示したのかもしれません」
シャリオとメイの言葉に、ルキアンはそっと付け加える。
「僕も、そう信じます」
――僕はもう、ひとりじゃない。
錆びついた時の車輪が、いま再び回り始める。
誰ひとり拭う者もなく、永劫の夜を流れ落ちた涙は、今ここに終わる。
【第13話に続く】
※2000年8月~10月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第12話・前編
【再々掲】 | 目次 | 15分で分かるアルフェリオン |
ずっと孤独だった僕らは、遠く離れた夜空の下で……
いつしか同じ導きの星に、それぞれのかき消えそうな夢を重ねていた。
その思いの強さが僕らをこうして集わせのだ。
◇ 第12話 ◇
1
「もう寝てしまったようです。可哀想に、疲れが溜まっていたのでしょうね」
半開きの扉の向こうを、ルキアンがそっとのぞく。
明かりの消えた部屋には、ベッドで寝息を立てるメルカがいた。
「メルカちゃん、不安で寝付けないのではないかと心配しましたが……」
シャリオの表情に色濃く影が差していたのは、きっと廊下の薄暗がりのせいだけではないだろう。
「シャリオ先生、後はあたしたちがちゃんと面倒見るから、気にしないでおくれよ。うちの子だと思って可愛がるからさ。ねぇ、あんた」
ランプを手にした女が、メルカを起こさないように声をひそめて言った。
50歳前ぐらいだろうか。細身で背の高い、小綺麗な雰囲気を持つ婦人だ。やや骨張った顔つきは若干の神経質さをも感じさせるが、彼女の人懐っこい目は、内にある温かい心を見事に映し出している。
「そうですよ、メルクール先生。このぐらいの手助けしかできず、申し訳ないぐらいです。あなたのような方を戦場に赴かせるなんて……」
後ろにいた男が遠慮気味につぶやく。
背の高い妻とは対照的に、小柄で肉付きが良かった。真面目で愛想の良い中年紳士である。彼はギルド本部付きの医師ピューム・エアデン。その妻は、例のフィスカの大先輩にあたるヨハンナだ。
「とんでもありませんわ、エアデン先生。私は独り身で、今は神殿からも距離を置いた気楽な立場です。色々な意味で今回の仕事には適任なのですよ。どうかメルカちゃんのこと、よろしくお願いします」
シャリオが深々と頭を下げると、ルキアンも慌てて一礼した。
「あらあら、シャリオ先生も、そちらのお若い方も、どうか頭を上げてくださいな。そんな、もったいない」
恐縮したヨハンナは、肩をすくめて笑っている。
「よろしかったら君も、自分の家だと思ってここにいてください。どうぞ遠慮なさらず」
ルキアンの方を見て、ピューム医師がうなずいた。
「あ、ありがとうございます。でも、僕……」
「ネレイは素晴らしい街ですよ。景色は綺麗で食べ物も旨い。ギルド本部があるから、治安もずば抜けて良いですし」
「あ、あの、僕、まだ……」
ルキアンは困惑した顔つきになって言葉を飲み込む。
そんな彼の様子を後目に、シャリオは妙にそっけない態度で去っていこうとする。
「それでは、わたくし、船の方で仕事がありますので。これで失礼いたします」
「シャリオ先生、せっかくだからもう少しくつろいで……。あらまぁ、仕方がないねぇ。それじゃ先生、あたしが送ってくよ」
「ありがとう。でも大丈夫ですわ。港まで戻るだけですから」
ヨハンナが引き留めようとする間もなかった。
足にまとわりつく僧衣の長い裾を、手で楚々と払いながら、シャリオは足早に廊下を歩いていく。
「あ、あ」
ルキアンが喉に声を絡ませていた。
独りで決断できない自分が情けない。本当に軟弱者だと思う。
けれども……。
「あ、あの! 待ってください、僕、まだ、どうしたらいいのか!!」
彼はいつしか走り出していた。シャリオの後を追って。
頬はもちろん、首筋まで熱かった。
傍目には吹き出したくなるほど真っ赤な顔をしているに違いない。
しかし恥も外聞もなく、彼はさきほど来た道を駆け戻っていく。
ピュームとヨハンナは、ルキアンとシャリオの背中を、きょとんとしながら目で追うばかりだった。
2
◇ ◇
ギルドの制空艦アクス、強襲降下艦ラプサーのリーダーたちと共に、カルダインとクレヴィスは明日からの作戦について打ち合わせを行っていた。
普段はあまり使われることのない、クレドールの作戦室――同艦が恐らく軍に属していたであろう旧世界の時代には、この大袈裟な会議の間で、連日のように議論が交わされていたのかもしれないが。
クレヴィスは、壁に貼られた大きな図を使って説明する。
「ここまでの話をもう一度まとめると……我々の任務は、第一にナッソス軍の飛空艦隊を撃破し、ミトーニア近郊の制空権を確保することです。第二に、ナッソス城を固める敵軍を空から攻撃・牽制して、ギルド陸上部隊の進撃を支援すること。第三に陸上部隊と連携しながら、敵城塞にアルマ・ヴィオ部隊を降下させ、一気に奪取する。最後の部分は主としてラプサーの役目です。クレドールとアクスはその後方支援にあたることになりますね。もちろんクレドールからもアルマ・ヴィオを出して、敵飛行型の迎撃や対地攻撃に回します」
彼がそこまで話したとき、40過ぎのいかつい男が、見かけに似合わぬ甲高い声で言った。
「それにしても、議会軍はこんな途方もない話をよく持ち込んできたものだな。ギルドが諸侯の軍と正面から一戦交えるなど、未だかつて例のない話……しかも相手は王国きっての大領主ナッソス公爵家だ」
額のはげ上がった頭には、縮れ放題の金髪。落ち着きなくニヤケているようでいて、そのくせ読みの深そうな細目。一癖も二癖もありそうな濃い男だ。
彼がアクスの艦長ダウル・バーラーである。かつては、海賊と貿易商という2つの顔を使い分ける怪しげな冒険商人だったらしい。
「確かに。しかし我々のギルドには、数多くの強力なアルマ・ヴィオと、優秀で経験豊富なエクターたちがいます。旧態依然とした貴族の私兵など、ギルドの実力には到底及ばぬということを、世界に知らしめる良い機会というものですよ。恐らく、あなたもそう考えていらっしゃる通り……」
クレヴィスが生真面目な顔で大胆な言葉を述べると、バーラーも不敵に目をぎらつかせた。やはり常人にはない迫力がある。
「さすがはクレヴィス、言ってくれるな。実は俺も久々に胸が高鳴ってきやがった。こんなのは、むかしゴロツキをやってた時以来だぜ……いや、失礼、悪い例えだったな。あっはっは」
高笑いするバーラー艦長。
その隣には、あたかも絵の中から抜け出してきたかのように、ほぼ体を動かすことなく端整に座ったままの男がいる。アクスの副長、ディガ・ラーナウ・ソル・アレッティンだ。
どうみてもオーリウム人とは思えぬ名の通り、ディガ・ラーナウは、マナリアという都市国家の貴族出身だった。まだ30代前半だが、変に年寄りじみた落ち着きがある。
彼は淡々とした表情を崩さず、時折小さな息をしていた。ワイン色のコートと、同系色の裾長のウエストコートが、品良く似合っている。
「まったく、血の気の多い人たちなんだから」
同じく30代ほどの眼鏡を掛けた女がつぶやく。
彼女はシソーラ・ラ・フェイン。ラプサーの副長である。乾いた色合いの赤毛には、金色のリボン。柿色のハイウエストのコートに白いショールを巻き、簡素だが整った雰囲気を醸し出している。
「ナッソス家の艦隊は、戦艦すら混じった立派な構えだけど、全体として急場の寄せ集めのようね。近隣の基地から寝返った議会軍の艦船に加えて、公爵家が保有する飛空艦……情報によると、おそらく敵方には旧式の船が多いんじゃないかしら? こちらは数では劣っているにせよ、諸々の結界兵器や方陣収束砲などを備えた船ばかり。数の差は質の差でどうにか埋め合わせれば……」
見るからに口が達者そうなラ・フェイン副長は、実際よく喋る。
彼女の発音にはタロス人特有の訛りがはっきりと現れており、時々聞き取りにくいこともあるのだが、そんな些細な問題など本人は全然気にしていない。
3
そう、シソーラは旧タロス王国からの亡命貴族なのだ。ちなみに同郷で境遇も似ているメイとは、実の姉妹を思わせるほど仲が良い。
彼女とクレヴィスがやり取りする間、カルダインは、濃紺のダブルのコートを着た男と小声で話していた。
「うちのメイも相変わらずの元気だが、シソーラも健在だな。しかしタロス貴族のお嬢様連中というのは、ああいう、口から生まれたようなお喋り女ばかりなのか?」
カルダインのひげ面に、いつもより明るい苦笑いが浮かぶ。
「さぁ、どうですか。ともかく私なんかは尻に敷かれっぱなしで。でもカルダイン、いつも彼女はよくやってくれています。姉御肌というのか……シソーラがエクターたちを上手く仕切ってくれるので、私は安心して飛空艦の方に集中できますよ」
オールバックの金髪が印象的な、謹厳でこざっぱりとした容姿の男。本当は30代も後半の彼だが、一見しただけでは10歳近くも若く見える。彼がラプサーの艦長、ヴェルナード・ノックスだ。元々は議会海軍の将校だったという。
それにしても、ディガ・ラーナウやシソーラに限らず、ここにいる面々の出身は様々である。《旧ゼファイアの英雄》カルダインは勿論のこと、バーラー艦長はオーリウム系のガノリス人、またノックス艦長も元オーリウム軍人だとはいえ、某小国からの移民らしい。結局、生粋のオーリウム人はクレヴィスだけしかいない。ギルドの人々の多様性をここからも垣間見ることができる。
オーリウム人でもない彼らが、どうしてこの国のために命を懸けて戦っているのだろうか? その理由については、彼ら自身も明確には意識していないかもしれない。けれどもカルダインなら、多分こんなふうに答えるだろう。
――国だの何だの、知ったことではない。やっと見つけた《自分の居場所》を守るために、俺たちは戦っているだけだ。
◇ ◇
「ふぅ、飲んだ飲んだ。やっぱりネレイは落ち着くわねぇ!」
調子外れの甲高い声が、夜の港にひときわ大きくこだました。
街の方から3つの人影が近づいてくる。そのうち1人の女が、他の者たちの周りをくるくると回りながら、上機嫌な声ではしゃいでいた。
「酒も魚も旨いのなんのって……あはは! こーらっ、人の話聞けよ!!」
ふらふらと千鳥足の彼女は、近くにいた大男の腕をひっぱたく。
「いてっ! この酔っぱらいが。メイ、飲み過ぎだぞ!」
彼は呆れた様子で顔をしかめた。
そう、騒々しい女はもちろんあのメイ、あとの2人はバーンとフィスカだ。
「メイおねぇさまぁ、そんなに飲んだら体に悪いですよぉ……」
白衣の上に薄い七分袖のコートを羽織ったフィスカ。相変わらず緊張感のない口調で喋っている。
「だーいじょうぶ。まだまだ飲み足りないってば。セシーやヴェンたちと一緒にもう少し店にいればよかったなぁ。ひっく」
「お前なぁ、ここのところ何度も病人になってるんだから、あんまり無理すんじゃねェよ。うわっ、酒くせぇ!」
さすがのバーンも処置なしというところである。
放っておいたら道ばたで寝てしまいそうなメイを支えて、彼とフィスカはクレドールに向かう。
と、そのとき、バーンが急に立ち止まった。
「おぅ? あれは、もしかして……」
港から伸びる古い運河沿いの道。その暗がりの奥に目を凝らして、彼は首を傾げている。
「シャリオさん、だよな? 何であんなところにいるんだ」
フィスカも素っ頓狂な声を上げた。
「あ、本当ですぅ。絶対シャリオ先生ですよぉ。あら、男の人と一緒ですっ。珍しい……あ、そうじゃなくって、シャリオ先生と逢い引きするなんて神罰が当たりますぅ」
「って、お前なぁ……そんなわけネェだろ。でもあの男は誰だ? 若いヤツだな。おいおい、あれはルキアンじゃないか! これまた珍しい組み合わせだぜ。わけありか?」
バーンはどこか心配そうな表情で、フィスカは興味津々の眼差しで、そっとルキアンたちに近寄っていく。
4
◇
2つの足音。不安定に駆けていく靴の響きは、ルキアンのものだ。
彼はシャリオの脇を通り越すと、胸に手を当てて振り返った。
「待って。聞いてください!」
ルキアンは、荒い息と共に悲痛な声を絞り出したが、シャリオは黙って立ち去ろうとする。暗がりのせいで彼女の表情はよく見えない。
「僕は……ぼ、僕は……」
近くの茂みの影でフィスカがささやく。
「ぼ、ボクは、ボクハアナタノコトガ……とか、絶対そうですよぉ。ほらほら、状況からして、ルキアン君は、きっと先生に愛の告白をするのですわっ」
「んなバカなことが!」
つい大声を出しそうになったバーン。彼の口をフィスカが慌てて押さえた。
「ルキアン君、一目惚れですかぁ? すごい年の差ですぅ。おまけに先生は神にお仕えする人ですから、この恋は決して実らないのでした……可哀想ですぅ」
「だから、お前……む、むぐっ?」
「バカ、静かにしなさいよ」
低い声でそう言ったのはメイだった。いつの間にか素面に戻っている。彼女はバーンの頭を押さえつけ、ルキアンの言葉の続きに耳をそばだてる。
ルキアンは背筋を伸ばし、素早く息を吸い込むと、震える声でこう伝えた。
「僕だって、も、も、もう本当は決めているはずなんです。僕は皆さんと一緒に行きたいんです! でも、でも……」
ルキアンのその台詞は、事情を知らないメイたちにとっては全く意外である。
「どういうこと? 皆さんって、あたしたち? ルキアンったら急に何を言い出すのよ」
メイたち3人は、息を潜めて事の成り行きを見守る。
シャリオの歩みが止まった。なおも無言のままだが。
「でも僕、メルカちゃんのことが心配で。明日、僕が何も言わずにいなくなったら、あの子がどう思うか……そう考えると。あの子の心には、きっと深い傷が残ると思う。もう二度と会ってくれなくなるかもしれない。自分が信じている者に見捨てられた悲しさって……僕はメルカちゃんの家族でも保護者でもないけど、そういう問題じゃないのだと」
ルキアンは何らかの返答を期待していたに違いない。シャリオはそれでも応えることをしなかった。
「僕は戦いなんて嫌いです。だけど、もし僕がアルフェリオンを操らなかったら、クレヴィスさんがおっしゃるように、沢山の人たちに災いが降りかかるかもしれません。それに僕、僕は……これからも、皆さんと一緒にいたいんです!エクター・ギルドは、決して綺麗な仕事じゃないかもしれない。危険かもしれない。それでも僕は……」
何かに憑かれたかのように、ルキアンの口から言葉がとめどなく流れ出す。
小さなため息――確かに、微かなため息がそのとき聞こえた。
シャリオだった。彼女は腕組みして、澄んだ瞳でルキアンを凝視する。
「悪い子……それで、辛い決断の責任を、別の誰かに押しつけるの?」
「い、いえ、僕はそんなつもりじゃ!」
「《どちらに決めても貴方は悪くない。それは貴方自身の人生なのだから》とでも、私が言えば良いの? その一言が、あなたの自責の念を少しでも和らげるのかしら。孤独に震える少女を置き去りにして、こちらに来なさいと、神に仕える私の口から言わせようというのですか?」
柔らかだが、威圧感のある声。シャリオは厳しい顔で首を傾けた。
言葉を失ってうつむくルキアンに、彼女は告げる。
「ルキアン君。優しいということは、時には余計に苦しみや迷いが増えるということなの。優しい人は……自分の優しさの分だけ、いっそう強い心を持たなければいけないの。そうでないと、いずれは自分の優しさに滅ぼされてしまう。あるいは優しさを言い訳にして、自分の責任を正面から見つめようとしなくなってしまう。分かるわね?」
「え、えぇ。すいません……その、本当に、ごめんなさい。僕が優柔不断なばっかりに、シャリオさんに何もかも押しつけようとして、悪者にしようとして……」
がっくりと頭を下げるルキアン。
5
だがシャリオはいつもの柔和な笑みを浮かべて、左右に首を振った。
彼女の方も何か吹っ切れたように見える。シャリオにも自責の念があったのだ――いくらクレドールのため、いや、事によってはこの世界のためだとはいえ、本来無関係なルキアンを戦いに引き込もうとし、そのうえメルカまで置き去りにさせようと無理にけしかけるなんて。だからこそシャリオは、いたたまれなくなって、ルキアンの前から姿を消そうとしたのだろう。
ともかく彼女は穏やかに言う。
「謝る必要なんてありませんよ。見ての通り今のわたくしは、俗世にまみれた、いい加減な神官です。仲間のためだったら、少しぐらい悪者になっても構いません。本当なら、メルカちゃんはピューム先生に預けて、私たちと共に来なさいと言いたかった……駄目な聖職者ですね、だから私は神殿には居づらかった……だけど、それを私が言ってしまっては、ルキアン君自身が後で後悔することになる」
シャリオはルキアンに近づいて、彼の背をそっと押した。
「でも言ってしまいましたね。私の方こそ、優しさを言い訳にしている人間なのかもしれません。だけどあなたは本当は強い人だから、たとえ後になって悔やむことがあったとしても……その苦痛にきっと耐えられる。私はそう信じています」
ルキアンは返す言葉が見つからず、小さくうなずいた。
目を閉じて同意を示すシャリオ。
風が吹いた。いま大きな決断がなされたことを、2人に代わって確かめようとするかのごとく。
うち捨てられた運河が再び夜の静寂に包まれようとした、そのとき……。
「ちょっと待って! 聞いてないわよ、そんな乱暴な話」
突然、木々の揺れる音がして、ルキアンたちの背後からメイが姿を現した。
メイはシャリオの前に進み出て、大げさな身振りで不満をぶちまける。
「どうしてルキアンとメルカちゃんにまで、迷惑をかけなくちゃいけないの?これはあたしたちの戦いでしょ! ルキアンを争いごとへと無理強いするなんて、シャリオさんはひどいと思わない?」
「あの、その、これは僕が……」
「静かにして。あたしはシャリオさんに尋ねてるの」
シャリオに気を使ってルキアンが申し開きをしようとするが、メイは聞こうとしない。彼女は眉をつり上げ、いっそう語調を荒らげる。
彼女のあまりの剣幕に、心配してバーンとフィスカもやって来た。
6
詰め寄るメイに向かって、シャリオはそっと首を振る。
「メイ、これは私の一存で決まったことではないの。副長からのご提案でもあるのです。艦長もこの件について了承なさっています。ルキアン君だって……」
シャリオが浮かぬ顔で説明するも、メイは話を途中で遮る。
「たとえクレヴィーや艦長が望んでも、ルキアンの未来はルキアン自身のものだわ。どうして、どうしてこんな繊細な子が、人殺しなんてやらされなきゃいけないのよ! シャリオさん、神官でしょ……止めなくていいの? 恥ずかしくないの?!」
「おい、そんな言い方ってないだろ、メイ!」
バーンが話に割り込んだ。
「そうですぅ。メイお姉様、先生にだって色々な事情があるんですから。先生が可哀想ですよぉ」
目を潤ませながら、フィスカもうなずいている。
けれども彼らの言葉は逆効果だった。自分が一方的に非難されていると感じたのか、メイの頭にはますます血が上っていくばかり。
ついに爆発寸前かと思われたとき、ルキアンがか細い声で言った。
「あの、やめて、やめてください……」
「うるさいわね。ちょっと黙ってて!」
「だ、だま……黙りません! 僕の話も聞いて!!」
何と突然、大声で叫んだルキアン。
彼の思わぬ反抗にメイは仰天した。
「ルキアン……」
「クレドールに乗り込むということは、僕が自分から好きで望んだことなんです。だからメイ、シャリオさんを責めないで。来る日も来る日も、歪んだ物差しや偏った秤によってしか、自分を認めてもらえない……何かがおかしい、目に見えないこの息苦しい何かに対して、自らの《存在としての意味》を取り戻すために《立ち向かわなきゃいけない》と感じつつ……それを誰かに問うすべも力もなく、いつも不満を押し殺して、《どうせ、変わらないよ》と諦めているだけ……これからもずっと、そんな毎日の中で大人になっていくのだなんて、僕にはもう耐えられないんです!」
真剣そのものの彼の目には、独特のしなやかな強さと情熱を秘めた、不思議な輝きが浮かび始めていた。上気した頬。ルキアンはさらに語り続ける。
「それに僕は、今までどこに行っても、人の輪の中で本当は孤独を感じていました。《この人たちは何かが違う》と常に感じて、それでも世界中のどこにも自分の《居場所》はないのだと……知ったような顔をして、偽りの微笑みの下に嘆きを隠し、いつも自分をごまかして生きてきました。でも……ルティーニさんも言っていたけれど、皆さんを見たとき、《やっと会えた》って、本当の仲間になれそうな人たちにやっと出会えたんだって、そう思ったんです。だから僕は一緒に行きたいんです。みんなと、そしてメイとだって。それが僕にとっての光、希望なんです。僕は、クレドールに……賭けたんです!!」
慣れない大声で一気に話したせいか、少し息の上がっているルキアン。
唐突な熱弁に、バーンとフィスカはきょとんとして顔を見合わせていた。
メイは難しい顔をしてじっと黙っていたが、やがて苦笑いをみせる。
「あの《塔》で何があったのかよく知らないけど……キミ、たった2、3日で見違えるほど格好良くなったぞ。よし、一人前の男が自分で決めたことだ! あたしがどうこう言う筋合いなんてないわね」
少し悪びれた様子で、メイはルキアンの顔をまぶしそうに見つめる。
彼は、いつものごとく恥ずかしげにうつむいた。しかしその姿は、弱々しいながらも、確かに以前とはどこか違っているかもしれない。
【続く】
※2000年8月~10月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第11話・後編
【再々掲】 | 目次 | 15分で分かるアルフェリオン |
11
「先生、失礼します……」
紺のドレスと白いエプロンを身に着けた少女が、丁寧にお辞儀しながら入ってきた。
その特徴的なローズ・ミストの髪を見ただけで、ルキアンにも彼女が誰なのかすぐに分かった。銀色に薄紅漂う頭髪は、大陸中南部の人々によく見られるものだ。やはり彼女が旧ゼファイア出身であることをうかがわせる。
シャリオは椅子から立ち上がり、少女の方に歩み寄った。
「レーナ、お仕事中どうもありがとう」
「いえ、どういたしまして。あの……メルカちゃんを連れてきました」
メルカはレーナの後ろに隠れるようにして、入り口から部屋の中を覗き込んでいる。
「さぁ、メルカちゃん! こっちにいらっしゃい」
シャリオはにこやかな表情で手招きした。
しかし、メルカはうつむいたまま、なかなか部屋に入ってこようとしない。
いつもなら元気に飛び込んで来そうなものだが……ルキアンは少し不思議に思って、彼女に手を振る。
「メルカちゃん、どうしたんだい?」
「ルキアン……」
彼女は小さな声でつぶやいて、熊のぬいぐるみを抱きしめる。
心配そうに見守る3人。その前でメルカは突然泣き出した。
「……ルキアンのバカ、どうしてメルカを置いて行っちゃったのよ! バカ、バカバカ! ルキアンなんか嫌いーッ!!」
廊下に駆け出していこうとする彼女を、レーナが慌てて押し止めた。
ルキアンはあたふたと戸惑うばかり。
そんな頼りない様子の彼とは違い、シャリオの動作はごく冷静なものである。彼女は両手でメルカを抱きした。
「もう大丈夫よ。ごめんね……ルキアンお兄さんには大事な用があったの。でも、ちゃんと帰ってきたから安心してね」
温かな白の法衣に抱かれて、メルカが泣きわめく声もいくらか小さくなる。
べそをかいているメルカの手を引きながら、シャリオは言った。
「レーナ、ついでにお茶でもいかが?」
「あの、あたし、お仕事が……」
遠慮がちに首を振るレーナ。
シャリオは、にこやかに言った。
「ふふふ。少しぐらい構いませんわ。お母さんたちには、私の用事を手伝っていたと言っておきなさい」
「え、いいんですか、先生?……では、喜んで」
一転して無邪気な笑みを浮かべて、レーナは嬉しそうにうなずく。
「今回の旅は長くなりそうです。今からそんなに無理をしては、肝心の時に体調を崩してしまうことになりかねませんよ。レーナは頑張り屋さんだから、少しは休まないと……」
シャリオはメルカを席に座らせると、亜麻色の髪を優しく撫でてやった。
12
ルキアンは小声で謝っている。
「ごめん、メルカちゃん。もうどこへも行かないから……」
だがその言葉を口にしたとき、彼はなぜか後ろめたいものを感じた。
メルカに嘘を付いてしまったのだと、無意識のうちに思ったのである。
――どこへも行かないなんて……本当に僕はそう考えているのか?
自問するルキアン。
ほんの少し前に出会っただけなのに、どうだろう……シャリオやクレヴィス、メイ、そしてバーンたち、この船の人々と明日には別れることになるなんて、少しも実感していなかった。
――僕はまだ、仲間になると決めたわけじゃないのに。
いつの間にか自分は、クレドールと共に旅立てることを心の奥底では願っていたのかもしれない。はっきりとそう気づいて、ルキアンは狼狽する。
黙って考え込む彼を、メルカが疑わしげに見つめていた。涙目をこすって彼女はささやく。
「ルキアンは、絶対どこかに行っちゃう。だからメルカもルキアンに着いていくんだもん……」
この言葉を聞いた途端、奥でお茶の用意をしているシャリオが、背中をぴくりと震わせた。
ルキアンは、懸命の作り笑顔でメルカをなだめようとしている。けれども彼自身にさえ、その行為は空々しく思えた。不器用なルキアンは、メルカに弁解しようとすればするほど、表情や言葉の端々に自らの後ろめたい気持ちを露呈させてしまうのだ。
「今のルキアン、変だよ。あの銀の天使みたいなのに乗ってから、このお船に乗ってから……ルキアン、何だかおかしいよ」
メルカの鋭い一言が、彼の頬をこわばらせる。
「メルカと一緒におうちへ帰ろっ。ねぇ、ルキアン、返事してよぉ!」
追いつめられたルキアンは、とうとう自らも感情を抑えることができなくなってしまい、震える声でこうささやいた。暗い目を前髪の奥に隠して。
「いいかい、メルカちゃん。お家は、もうないんだよ。先生も、すぐには帰ってこないんだ」
破れかぶれの彼の言葉に対し、メルカが何か叫ぼうとした瞬間。
レーナが必死に声を大にして助けに入った。
「気持ちを強く持って、メルカちゃん。あなたのパパ……いまギルドが一生懸命に探してくれているわ。この世界で起こっていること、どんなに小さな事でもギルドには分かるの。きっとパパは見つかるから。ねっ、だからルキアンお兄さんを困らせては駄目よ……」
「えぇ。メルカちゃん、新しいお家もちゃんとありますからね。お父様が見つかるまで、私のお友達があなたの世話をしてくれます。親切なご夫婦ですから、本当の家族だと思って安心して良いですわ」
ポットとカップを運んできたシャリオも、メルカに微笑んで見せる。
しかしメルカは、すねた表情で指をくわえるだけだった。
「ルキアンもあたしと一緒なの? そうじゃなきゃ、絶対ヤだもん!」
気まずい雰囲気が漂う。
いたいけなこの少女を騙すことは、いくら彼女自身のためだとはいえ……神に仕えるシャリオには難しかった。言い換えればシャリオも、ルキアンが自分たちと共に来てくれるのだと、心のどこかで信じてしまっていたのだ。
勿論ルキアンはすでにお手上げである。
このままではメルカの気持ちが暴発しそうだったので、レーナが場の雰囲気を和らげようとする。彼女はメルカに身体を寄せ、明るい声で言った。
「メルカちゃん、シャリオ先生のお茶は身体に良くって、とっても美味しいのよ。冷めないうちにいただきましょう!」
控えめで純朴な外見からは考えられないほど、レーナには落ち着いたところがあった。幼い頃から、ギルドの変わり者や荒くれ者たちの中で暮らしているせいかもしれない。そう、幼い頃から……。
13
◇ ◇
――こちら、ケプラー基地《鉄豹機装兵団》所属の部隊、ただいま敵の奇襲を受け交戦中!
議会軍の通信兵は、突然の《念信》を受けた。
昼間は《レンゲイルの壁》を遠巻きに攻撃している各部隊も、日没を経てそれぞれの陣地にいったん引き返し始める頃だった。
アルマ・ヴィオを使った戦いでは、夜戦が行われることは比較的少ない。レーダーの類が機体に装備されていないため、敵の発見を肉眼に頼らざるを得ないからである(アルマ・ヴィオの魔法眼を通して視力が強化されているにせよ)。いや、それ以上に、夜というのは魔物や霊が活動する時間帯だとして、この世界の人々に今なお恐れられているせいもあろう。
そういったこともあって、通信兵はいくぶん気を抜いていた。他の軍人の大半と同様に、実戦経験を持たぬゆえの甘さかもしれない。
彼が答えるよりも早く、必死の念信が伝わってくる。
――敵は《ハイパー・ティグラー》の突撃タイプが中心、我が方の機体では歯が立ちません、直ちに増援を、場所は……何、空からの攻撃? うわぁっ!!
――もしもし、応答願います! 応答してください!
だが念信はそこで完全に途絶えてしまった。
議会軍アルマ・ヴィオの残骸を前にして、黒と赤の魔獣が闇に吠えた。
もはや動かぬ鋼の虎を踏みつけ、伝説のヒポグリフは翼を広げる。
燃えさかる炎のごとき鶏冠を持ったその機体は、そう……。
――こちらミシュアス。C16ポイント付近の議会軍は完全に掃討した。これより、近隣の敵砲台の制圧に向かう。
あの《黒き貴公子》ミシュアスは、すでにレンゲイルに到着していたのだ。
――歯ごたえのない。ふん、議会軍など所詮はこの程度……。
次の獲物を求めて夜空に舞い上がるアートル・メラン。
部下たちの同型機が後に5、6体続く。
大地の上では、ハイパー・ティグラーの黒い機体が素早く散開した。《ティグラー》を全面的に強化した漆黒の虎は、レンゲイルの壁以外の場所にはほとんど配備されていない。
巨大な生体兵器たちが薄夜にうごめく様は、美しくも不気味な妖魔たちの群を思わせる。
◇
真っ暗な荒野の所々で上がる火の手を、ベレナ市の城塞から遠く見つめる者があった。不用意に伸びすぎた議会軍の戦線が、ミシュアスをはじめとする精鋭エクターたちによって寸断されていく――深い洞察力を宿した視線が、その様子をじっと俯瞰している。
反乱軍総司令トラール・ディ・ギヨットは、琥珀色の小さなグラスを片手に、窓の外に広がる闇と向かい合っていた。端整に整えた銀色の髪。濃い青紫の瞳に揺らめく光は、彼の人柄の奥深さをうかがわせる。
堅固な《壁》に籠もって敵の戦力を消耗させ、機を見てはゲリラ的な襲撃で攪乱する。ギヨットの指示した戦法は、有利な条件の中で敢えて勝利を急ぐことのないものだった。そして彼のもくろみ通り、レンゲイルの壁を包囲する正規軍は、じわじわと損害を増大させる一方だと言える。
《壁》の守将ギヨットは、オーリウム陸軍に並ぶ者のない名将であり、同時に歴史に名を残すエクターであった。そんな彼が、なぜ反乱軍を率いることになったのだろうか……。
14
◇ ◇
ルキアン、メルカ、シャリオの3人は、再びクレドールを出てギルド本部の建物に向かっていた。ギルドの医師ピューム・エアデンのもとにメルカを預けるために――いや、場合によってはルキアンも、メルカと共にこの地に留まることになるかもしれないが。
港から本部へ向かう、旧運河沿いの道。
ルキアンがメイたちと昼食会を開いていた場所だ。あの時の賑やかさに比べて、夜になるとすっかり物寂しい。ときおり港の方から、飛空艦に荷を積む作業の音が聞こえてくるばかり。
昼間の好天ゆえか夜空は雲もなく澄み渡り、星々の瞬きが見事に一望できる。
「今日は、普通の月ですね……」
頭上に輝く黄色い三日月を指さし、ルキアンが言う。
何か考え事をしていたのか、シャリオは返事をしなかった。
「ルキアン、覚えてる? お姉ちゃんと3人でこうやって歩いていたとき……」
そこで口を開いたのはメルカだった。
久々にまともに話した彼女を見て、一瞬、足取りが軽くなったルキアン。しかし次の言葉が、彼の歩みを再び重くした。
「メルカはいつも楽しかったのに、ルキアンは時々退屈そうな顔してた。ねぇ、あたし……邪魔だったの? 今も困った顔してる。ねぇ、メルカって邪魔?」
「メルカちゃん、それは違うよ!」
ルキアンは慌てて彼女の手を取った。上手く気持ちを言葉にすることができず、彼はその手のぬくもりで自分の真心を伝えようとする。
だが不器用さは誠実さをしばしばかき消してしまうものだ。ルキアンが握ったメルカの手は、何の反応も示さずぶらりと垂れ下がっている。
2人のやり取りを前にして、シャリオの胸は痛んだ。彼女は罪悪感にかられて言葉を失う。まだ冷たさの残る夜風が、彼女の長い髪をそよがせると、うつむき加減の暗い表情が見て取れる。
他方、メルカは、医務室にいたときとは違って意外に冷静だった。
「小さいころ、パパに小鳥をもらったの。とっても可愛い小鳥だったから、メルカは毎日喜んで見ていたの……」
少女の声だけが夜の並木道に漂う。
静寂と暗闇は、彼女の声をどこへともなく運び去っていく。
「でも鳥さんは、ずっとかごに入れられたままで嫌だっただろうな。お空、飛びたかったんだろうなァ……。鳥さんはすぐに死んじゃったの。みんなメルカが悪かったの。ねぇ、ルキアンも本当は空を飛びたいんでしょ? メルカのことなんていいから、お空を思いっきり飛んだらいいんだよ……」
幼いながらも事の本質を見抜いたメルカの言葉に、ルキアンは動揺した。否、彼だけではなくシャリオさえも。
ルキアンには、ただ黙ってメルカを抱きしめることしかできなかった。彼の手は震え、目には涙が浮かんでいる。
15
長い沈黙。
このままでは、暗闇の中に時が凍り付きそうだと思ったのか、不意にルキアンが言った。
「シャリオさん。人間って、《自分は何なんだろう?》だなんて、どうして考えるんでしょう。そんなこと考えるから、苦しまなければならなくなるのに。僕だって、そんなことを思わなかったら……」
そこから先を口にすることなく、彼は胸の内で叫んだ。
――だったら、ここで迷い苦しむこともなかったのに。たとえ、よどんだ毎日を気の遠くなるほど繰り返しても、僕はそれで満足していたはず。《翼》に未来を託して、自分の今の《日常》から別の現実へと飛ぼうだなんて、夢みたいなことを考えずにすんだのに!!
しばらく考えた後、シャリオはかすれた声で答える。
「でも逆に苦しんでいるときにこそ、人は、あなたが言ったような問いかけをしてみたくなるのではありませんか? それは、苦しみをいっそう深めるためにですか?」
「……そうですね、違いますね。自らをさらに追い込むためにではないと思います。結果的にいっそう辛くなってしまう場合も多いにせよ、少なくとも本人としては、考えることで自分の痛みをいくらかでも癒そうとするのだと……」
「何によって?」
「たぶん、《意味》によって……あるいは自分の有様に対して、《新たな意味を与える》ことによって?」
ルキアンの言葉に、シャリオはうなずいた。微笑みの奥に、隠し切れぬ悲愁を押し込めながら。風に乱れて顔にかかった髪は、今の彼女をどこかやつれた感じに見せる。
「えぇ。あなたの先ほどの質問を言い直せば、人はなぜ自分の《生》に《意味》を求めるのでしょうか? 私が神官という立場から出す解答というのは、おそらく今の貴方にとっては何の道しるべにもならないでしょうね。それでは聖職者ではなく、一人の生身の人間として答えよと言われた場合、この永遠の謎を解く力は私にはありません」
勿論、決定的な答えが帰ってくるなどとは、ルキアンも期待していなかった。それでも、しかし……。彼は投げやりに言い放つ。
「僕にだって、少しは分かってるんです。《答え》なんて、人によって全て違うのだから、自分で見つけ出さなきゃいけないんでしょうね。違う、本当は僕らは知ってるんです……《答え》なんて最初からどこにも《ない》んだ。それを認めるのが怖いんだ。そうじゃないでしょうか?」
「《ない》とは言い切れません。しかし《ある》とも言い切れません。いいえ、《答え》の有無を明らかにすること自体が、私たち人間の力を越えたおこないなのです。だから結局、《真理を見つける》のではなく、《真実らしいものを考え出す》しかないのです。それが《意味を与える》ということだと思います」
立ち止まったシャリオを、メルカが無表情に見上げている。
首にかけた聖なるシンボルを手にして、シャリオは語る。
「けれども、自分で考え出した《意味》を無邪気に信じることができるほど、人間は純粋ではありません。信じるというのは簡単なことではないのです。信仰と同じように。普段、人は《自分が存在することの意味》を、ごく当たり前に漠然と認めています。しかしそれが揺るがされるようなことが起こったとき……人は己を信じられなくなる。だから、苦しみを前にしたときに初めて問い直すのです。自分の《意味》あるいは存在意義について。そしてあなたが言ったように、《意味を再確認》し、あるいは《新たな意味を与える》ことによって、再び生きていく力を得ようとするのです。その《意味》が見つからない時には、死を選ぶことにもなるのかもしれません……」
16
ルキアンが声を大にして尋ねる。
「でも、どうして人は《意味》があれば生きていける……あるいは《意味》を失えば、なぜ生きていけないと思うのでしょう? 本当はそれをお聞きしたかったから、僕の最初の質問が出てきたものかもしれません。今そう気づいたんです」
「……ルキアン君は、旧世界人のようなことを言いますね」
「それって、どういう意味ですか?」
バラミシオンでの体験以来、ルキアンは旧世界のことを快く思っていない。旧世界人と同じだと言われて、彼はあまり良い気持ちがしなかった。
「実は旧世界の多くの人が、深刻に悩んでいたそうです。自分の《生きることの意味》とは何なのかと。彼らは《意味探し》に狂奔し……時にはそれがもとで精神を病んだり、絶望して命すら捨ててしまったりしたのだと、当時の文献には書かれています。概念と感情の檻の中で自らを追いつめ、往々にして己を狂気や死へと追い込んだというのです。あなたはそれを笑いますか? なぜそんな事態になったのか、分かりますか?」
「なぜって、それは……」
答えに戸惑うルキアン。
シャリオは天空に開けた星の海を仰ぎ見た。
「いつか分かるときが来ますよ。ともかくルキアン君の気持ちは、自分なりの新たな《生》の《意味》を求めようとして、すでに動き始めています。それだけではない……周囲の環境もあまりに急激に変化しすぎて、あなたは否応なしに決断を迫られているのです」
ルキアンとメルカも夜空を見上げる。
後ろから2人の肩をそっと抱いて、シャリオはつぶやく。
「潮は満ちました。時の車輪を回し始めるかどうかは、ルキアン君の気持ち次第です。追い風は本当に一瞬。あなたの翼が羽ばたくために必要な風は……。私には、もうこれ以上何も言えない。後はあなたが決めるのです」
◇ ◇
その頃、クレドールの格納庫で密かな異変が起こっていた。
一見眠ったままのアルフェリオン・ノヴィーアの中で。
銀の鎧の下、生々しいまでの肉や筋がうごめき、大小無数の管が脈動する。これは機械ではない。まさに生物のごときアルマ・ヴィオの体内。
アルフェリオンの中心部には、ひとつの真っ黒な《珠》があった。
その不可思議な球体は、綿くずのように白く繊細な糸で半ば覆われていた。《糸》はクモの巣さながらに周囲へと広がり、血管状の液流組織のパイプに食い込み、伝達組織の微細な網の目に絡みついている。
驚くべきことに、白い糸は少しずつ増殖しつつある。このままでは体内の隅々にまで行き渡るのも、時間の問題だろう。
アルマ・ヴィオの通常の体組織が、これほど凄まじい速度で成長するはずはない。明らかに旧世界の技術で作られた極小の粒子機械、《マキーナ・パルティクス》の力による増殖だった。
それを知ることなく、今夜は不眠不休だという覚悟で懸命に働く技師たち。
新たなアルマ・ヴィオの搬入、武器・弾薬の交換等が騒々しく行われている。
誰一人として、格納庫の隅に置かれたアルフェリオンの異変に気づくことはなかった。
しかし今、何かが起こっているのだ。銀の天使の中で……。
【第12話に続く】
※2000年7月~8月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第11話・中編
【再々掲】 | 目次 | 15分で分かるアルフェリオン |
6
◇ ◇
エルハインの王城・円卓の間。
白と金の二色に彩られたその空間は、床から天井まで全て、蔦や唐草を模した緻密な彫刻で彩られていた。美しい細工が施された柱や壁の所々に、童子のような小天使の像が据え付けられている。
こげ茶と白のチェックの床には、ハープシコードに似た鍵盤楽器が置かれていた。誰かがそれを弾いているらしい。がらんとした広間の中に、透き通った雅やかな音色が響き渡る。
弾き手の技巧を誇示するかのごとく、極めて高度な運指で埋め尽くされた楽曲は、ちょうど広間の雰囲気に似合っていた。離れ業的なテクニックが行き過ぎて、情緒や感傷というものを押し殺しているような曲である。それに興醒めを感じる者は、多分この部屋自体にも食傷感を覚えるだろう。
グロテスクなほどに過剰で、それでいて数学じみた精密さで一体化されている装飾の数々。偏執狂的な徹底ぶりに、寒気すら感じる場所だった。
極めつけは天上に描かれた巨大なフレスコ画である。神話を題材としたものらしい。イリュシオーネの神々や、彼らが住まう天の宮殿、そしてこの世界の誕生や、バラミシオンとファイノーミアとの離別など、様々な伝説が絵になっている。
――演奏が止まった。
今の曲を弾いていた男が、天井の絵を指差して言った。
「人々が夢を失ったから世界が2つに分かれてしまっただなんて、くだらない話だよね。アゾートさんはそう思わない?」
人を食ったような甲高い声。
もう青年と呼ばれて久しい年頃にもかかわらず、彼の目は子供のように無邪気に輝いていた。衣装は上から下まで一点の隙もなく手入れが行き届き、それでいてごく自然に着こなされている。グレーのフロックの胸元で、艶やかな漆黒色のクラヴアットが光沢を放っている。
室内に居合わせた別の男は、そのまま黙っていた。
青年はご満悦そうな顔つきで話し続ける。
「己の器を知らぬ人たちが、自分の力以上の夢や理想を追い求めるから……結局は挫折せざるを得なくなる。大きな夢に値するのは、それを実現できる力のある人だけなんだよね。みんなが主役になれるなんて馬鹿馬鹿しい。だって、脇役や裏方がいなかったら、舞台が……この社会自体が成り立たないじゃない。そんなことも分からない夢想家たちの心の力によって、この世界がひとつに結びつけられていただなんて……いくらでっち上げのお伽話にしても、もう少し現実味のある話を作ってほしいなぁ」
彼はひとりで笑っていた。その澄んだ瞳を見ていると、別に悪気があってそう言っているのではないらしい。それだけに、余計に棘がある言葉だ。
他方のアゾートと呼ばれた男は、藍色の質素なローブだけをまとい、頭にはターバンのようなものを巻いている。修行僧か、さもなければ東方の魔道士かといった雰囲気を漂わせている。
彼は静かに目を閉じていた。彫りの深い顔にはしわが刻まれ始めていたが、精悍な顔つきは、若者にも負けない彼の気勢を想像させる。
「ファルマス、皆が来たようですよ……」
アゾートが不意に目を開いて、低い声で言った。
それから10数分ほどして、広間の扉が音を立てて開いた。
「やぁ、みんな、よく来てくれたね!」
例の青年は立ち上がり、にっこりと微笑んだ。
彼こそがパラス機装騎士団副団長、ファルマス・ディ・ライエンティルスその人だった。
7
◇ ◇
猫背ぎみの姿勢で、椅子にじっと腰掛けたままのルキアン。
焦点のぼやけた目……よく磨かれた板張りの床が、虚ろな視界の中で光っている。色々と気疲れの多い日だったせいか、彼の表情には今ひとつ張りがない。
ここはクレドールの医務室である。
部屋の隅に簡素なベッドが3つ並んでいた。ほとんどの場合、それらは診察台の役割を果たすか、ごく軽度の病人が休むための場所となる(ちなみに隣室には、重傷者用として十分な数のベッドが確保されている)。
それほど広くない室内がさらに手狭に感じられるのは、薬品や器具の入った棚がいくつも置かれているせいだった。特に薬草に関しては多様な品揃えである。民間療法でもごく一般的に用いられているハーブの類から、幻のキノコと言われる《月光茸》まで、その種類の多さにはルキアンも目を見張った。
と、奥のドアが開いてシャリオがやって来る。
「どうぞ気楽になさってください。そうそう、メルカちゃんもじきにこの部屋に来ますよ」
「ありがとうございます。昼間、あの子の様子がいつもと違っていたので、ちょっと心配になって……」
小さなテーブルを挟んで、シャリオはルキアンの前に座った。
「艦長と副長は、飛空艦《ラプサー》や《アクス》の方々と最終的な打ち合わせを行っていますし、技師さんたちも徹夜の作業になるでしょう。エクターやブリッジのクルーの大半は飲みに出たようですから……何というか、船の中は閑散とした感じですこと」
旧世界のランプ、例の《光の筒》の青白い明かりの下で、彼女は少し寂しげな笑みを浮かべる。
「そうですね。僕は、とても飲みに行く気分ではなかったのですが……」
生気のない声でそうつぶやくと、ルキアンは目を伏せた。
いつにも増して暗い彼の表情。それを知りつつも変に気を使うことなく、シャリオは自然な調子で彼に接していた。仕事柄、この種の人間の扱いにも手慣れているのだろうか。
「それにしてもメルカちゃん、とても勘の鋭い子かもしれませんわね」
「え、えぇ。そうかも……」
ルキアンは声を詰まらせながら答える。
「もし僕が……その、もし……クレドールに乗ることになったら、メルカは独りぼっちになってしまいます。あの子は僕と同じく人見知りが激しい子ですから、余計に独りにしておけないんです。そのことを考えると……」
申し訳なさそうな顔で、シャリオがうなずいた。
「メルカちゃんのことは、ギルド本部の医師・エアデン先生にお願いしておきます。あの方の奥様はフィスカの先輩に当たる人で、とてもお優しいんですのよ。可哀想ですが……少なくとも今回の仕事に、あの子を連れていくことはできないでしょう? クレドール自体、無事に帰ってこれるかどうか分かりません。メルカちゃんの命をそんな危険にさらすわけには……」
「そうですね。戦場に行くのですから」
メルカのことを気遣いつつ、ルキアンは改めて思い返した――これは戦争なのだ、自分が死んでも不思議ではない。真剣にそんな気持ちになったのは、彼にとって初めての経験だった。正直言って恐ろしい。
もちろん、ガライアやアルマ・マキーナとの戦いの際にも、彼は死と隣り合わせだったのだが……現実の戦闘の中では恐怖を感じる余裕すらなかった。落ち着いて考えることのできる今になって、急に震えが来たのである。
すっかり黙り込んでしまった彼を見て、シャリオが優しい声で告げた。
「怖いですか? でもそれで良いのです。今の怖さを忘れないでください」
無言でうなずくルキアンに、彼女はさらに言う。
「死を恐れぬ戦士にとっては、他人の命を奪うこともきっと簡単でしょう。結局のところ……人は、別の命の尊さを、自らの命の重さを秤にしてしか実感できません。自分の命を軽んじつつ、他人の命だけを尊ぶことなどできはしないのです。もしあなたが戦いに身を投じるというのなら、どうか死の怖さを知る戦士であってほしい、ルキアン君……」
8
シャリオは手にしていた雑記帳を開くと、そこで話題を変えた。
「それはそうと、近い将来、あの《塔》の謎が少しは明らかになるかもしれませんよ。あそこで入手した《ディスク》を、クレヴィス副長が例のお知り合いのところに送ったそうです」
《塔》という言葉を耳にした瞬間、ルキアンの目に鋭い光が浮かんだ。
「その方って……たしか《知恵の箱》を管理しているという、某大学の先生でしたね?」
「はい。あの《箱》がないと、ディスクの読みとりは不可能ですから。でも文書に関しては、私もすでにいくつか読んでみたのです」
長い吐息の後、シャリオは難しい顔つきで説明し始める。
「《アストランサー計画》の一環として行われた残酷な実験……それが何を目的としていたのか、私には依然としてよく分かりません。ただ、勝手な憶測によれば、魔物を人為的に創り出す……いや、魔物そのものではなくて、むしろ《魔物のごとき人間》を産み出すための実験だったように見えるのです」
獣の部分を持った人間たちの姿、あるいは異様な肉塊状の生き物と化した人間たちの姿が、ルキアンの心の中に蘇った。さすがにもう嘔吐しそうになることはなかったが、何度思い出しても戦慄を覚えずにはいられない。
「人間を魔物に変えるというのですか? いったい何のために……。僕には理解できません。平和と繁栄を誇る《旧世界》の様相と、人体実験の凄惨なイメージとが、どうしても重ならないのです。満ち足りた世界の中で、あんなに酷い実験をしてまで手に入れる必要があったものって……何だったのでしょう?」
彼の疑問に対して、シャリオは奇妙なことを言う。
「確かに必然性が感じられませんわね。でも、ひょっとすると旧世界というのは、私たちが思っているよりもずっと複雑だったのかもしれませんよ」
「どういう意味ですか?」
「これが旧世界の実態なのだと、私たちが勝手に思い込んでいるもの……本当にそれだけが旧世界の全てなのでしょうか。ルキアン君は、《大きな大きな樹》というお伽話を知っていますね?」
彼女が突拍子もないことを持ち出したので、ルキアンは首を傾げている。だがシャリオの方は、ごく真面目な面もちである。何らかの意味があるに違いない。彼は不可解に思いつつも、《樹》のお伽話のあらすじを辿った。
「僕が子供の頃によく聞かされたのは、こういう物語です。ある日、貧しい農家の息子が不思議な種を拾いました。彼がそれを畑の隅に埋めると、もう次の日には芽が出ており、しかも屋根よりも高く成長していたのです。そして、このあたりがいかにもお伽話っぽいのですけど……さらに1週間ほど経つと、その植物は雲を突くような高さにまで伸び、途方もない大木になりました」
いささか呆れ顔のルキアンだが、他方のシャリオはにこやかに頷いている。
「そうです。そこからが問題なのです。続きをお願いします、ルキアン君」
「はい。少年は、その木に登ってみようと思いました。そして……」
彼はそこで腕組みした。
「そして……。少年は、そこで? あれれ、どうでしたか? あの、そう言えばここから先が何だかよく分からないんです。母から聞いた話、親戚の老人から聞いた話、あるいは後になって別の人から聞いた話……みんな、少しずつ中身が違っていたように思うんです。いや、誰かに話してもらうたびに内容が異なっていたような……」
9
微笑んでいたシャリオが、不意にまた真剣な調子に戻る。
「そう。違っているのです。そこから先の筋書きは、はっきりと決まっていないのですよ。昔、私はこの物語について詳しく調べてみたことがあります。神殿に近い村や街を回って尋ね歩いただけでも、物語のパターンは、大まかに分けて十数通り以上も見つかりました」
「少年が《樹》を登っていった先には、雲の王国が広がり、そこに大きな城がある……というところまでは覚えているんですけど」
「城が館になっていたり塔に変わっていたりと、細部の違いはあれ……雲の上に立派な建物があるというところまでは、どのパターンの話でも一致していますわ。では、そこで少年は何をしたのですか?」
「僕が聞いた中で一番多かったのは、空の上の城には悪い鬼神の王が住んでいて、少年が色々な知恵を使ってその王様を懲らしめるという話です」
ルキアンは、ここにきて少し薄気味悪さを感じた。なぜならこの《樹》の物語というのが、必ずしも穏当な形で終わるとは限らなかったからである。
続くシャリオの言葉が、彼の背中に冷たいものを走らせた。
「確かに。少年が鬼神の王を倒すというその結末は、比較的新しい時代になってから流布したタイプだと考えられます。現在では最も一般的なかたちですが。しかし思い出してください。空の王は常に悪い人として描かれていたでしょうか? また少年は、いつも王に勝つことになっていたでしょうか……」
彼女はしばらく沈黙する。そして低い声で付け加えた。
「古い話の中には、子供には到底聞かせられないものが見られます。よくあるのは、少年が王に捕らえられて、残虐な仕打ちを受けてから殺されるという終わり方。その手の幕切れというのが、特に西部の山間の村にときおり言い伝えられているんですよ。例えば煮え立つ釜の中で、少年が生きたまま茹でられてしまう話、他にも……いいえ、口に出すのは遠慮させていただきますわ。逆に、少年が悪者として描かれる場合も少なくないのです。良き雲の王を斧で打ち殺したり、あるいは王の娘を力ずくでさらって……」
――いったい、シャリオさんは何を言いたいのだろう。旧世界の話と《樹》の伝説との間に、何の関わりがあると?
ルキアンには彼女の意図が全く読めなかった。クレヴィスあたりなら、彼女の言わんとするところを、意味深な笑みを浮かべて理解しただろうが。
「天空にそびえる城……少年がそこで行ったこと。これらが何を意味していると思いますか? 極めて古い時代の史料を収集してみると、ますます奇妙な話に出くわします。おそらく最も古いと思われるタイプは、《樹》に登った少年に《雲の巨人》が力を貸したという話……たぶん、これが本来の物語だということになりますね。後世の人がそれに色々と手を加え、あるいは言い伝えられていく過程で次第に筋書きが変わったりして、今あるような様々なヴァリエーションが生まれたのです」
「雲の巨人、ですか?」
ルキアンには馴染みのない名前だった。《樹》の話に巨人が出てくるなんて、これまで一度も聞いたことがない。
「雲でできた巨人という意味ではありませんのよ。雲の上に住む巨人ということです。多くの場合、少年と友達になった《妖精の娘》が、巨人を騙して仲間にするのです。でもその娘は、実は人が苦しむのを見るのが大好きな《悪い妖精》として描かれています。彼女に魅入られた雲の巨人は、毒の霧をばらまいたり、雷光を落としたりして……城に住む王はもちろんのこと、雲の街の人たちまで一人残らず根絶やしにしようとするのです。こうなると、今日の《樹》の話とは全く違いますね」
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話をよく飲み込めていないルキアンに、シャリオはこう告げた。
「私が言いたいのは……イリュシオーネに残る伝説やおとぎ話のうち、その多くは単なる空想の産物ではなく、旧世界の歴史を知るうえで何らかの手がかりになり得るということなのです。つまり比喩的・寓意的な形で、過去の事実の一部を伝えている場合があるのだと。具体的には、今の話に出てきた《雲の上の城や街》……これは旧世界の時代に実在していた可能性があるのです。そして《樹》というのも、ひょっとすると、地上と雲の上の世界とをつなぐ施設のことかもしれません……」
ルキアンは彼女のとんでもない考えに意表を突かれた。ぽかんと口を開けたまま、彼は二の句が継げなくなっている。
物静かで温和なシャリオを見ている限り、その頭の中からここまでスケールの大きい想像――いや、本人としては真面目な仮説なのだろう――が湧き出してくるなどとは思いも寄らない。
ただし、ルキアンには彼女の唐突な話を受け入れる素地があった。普通の人間なら、単にシャリオの知性を疑うだけかもしれないが、彼は持ち前の空想癖をここで十分に発揮したのである。
天空の街々と壮大な城、そこに住む王。はるか下の地上に住む貧しい少年。
ルキアンは、心の中で両者を何度も何度も対比させてみた。
イメージは次第に膨らんだ。どういうわけか、そこに旧世界の姿が確かに重なり始めた。天と地と、光と影と……。
はっと顔を上げて、シャリオを正面から見たルキアン。
彼女は待ちかねたように言った。
「ふふ。やっと分かっていただけたらしいですね。そう、旧世界というのは、単にイリュシオーネ大陸だけではなく、例えば空に浮かぶ街々のように……もっと別な部分をも含めた、とても巨大で重層的な世界だったのかもしれません。そして私たちの知る《豊かな旧世界》というのが、実は単にその一部の地域のことを指しているにすぎないとしたら、どうでしょう?」
最後にシャリオの口から、謎めいた台詞が流れ出た。
「貧しき地上の少年は、《天空の王》に逆らって《樹》に足を踏み入れた。そして彼に味方した《雲の巨人》は、恐るべき力でいつしか天を落とそうとする。そのとき天上の人々は……」
シャリオは決して口外しなかったのだが、今の彼女の言葉は、実は《沈黙の詩》の一節を意識していた。
ルキアンはそれを知るはずもない。
そのとき、医務室の扉をノックする音が聞こえた。
【続く】
※2000年7月~8月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第11話・前編
【再々掲】 | 目次 | 15分で分かるアルフェリオン |
結局、思い出させてくれたのは貴方だったのです。
救いの手を待ちくたびれて、うずくまる私に……
本当はこの翼で、涙に濡れる夜を越えられるということを。
◇ 第11話 ◇
1
その日の夕刻。
窓辺のおぼろげな光の中に、ほっそりとした背中が浮かび上がっていた。
ひとりの女が頬杖を突いている。
いつの間にか自分が薄闇に囲まれていることにさえ、気づかぬという様子で。
彼女は身じろぎもせず、じっと思い詰めているように見える。
出窓のかたわらに革表紙の日記帳が置かれていた。無造作に開かれている頁には、昨日の日付が記されている。おそらく彼女のものであろう。
「ごめんなさい、お父様、メルカ、そしてルキアン……」
顔を上げたその女は、ソーナだった。
彼女の黒い目は、涙に濡れながらも強い意志の光を宿していた。
「私はもう自分を抑えられない。何が正しいのか、悪いのか、分からなくなってしまったの。いいえ、何が正しいのか、それは子供の頃からお父様に教わってきた。でも、その正しいことに従うというのが、今の私にとって本当に正しいことなのかどうか……分からない。だけど、もうどうでもいい」
ソーナは部屋の扉に手を掛け、毅然とした調子で開く。
「あの人の側にいられないぐらいなら、私は……」
やがて扉を閉じる音だけが聞こえた。
◇ ◇
「交感レベル、350。すごいや、もうすぐ400になるよ!」
ノエルが興奮に頬を染めて振り返った。
ガダック技師長とクレヴィスは、神妙な表情で顔をつき合わせている。
「まさかとは思いましたが……やはり調べてみてよかった。技師長、お疲れのところ、無理を言ってすいませんでしたね」
「いいってことよ。わしもこの機体には興味がある。まぁ、あとで副長のおごりで一杯というところだな。それより、こいつはたまげた……」
3人はクレドールの格納庫にいた。
彼らの前には、翼を休めるアルフェリオンの姿がある。ただしそれは眠っているわけではなかった。頭上高く見える兜の下、その目は赤く輝き、白銀色の甲冑はときおり脈打つかのごとく揺れる。
目覚めているのだ。誰かがアルフェリオンに乗っている。
「380、390……おっちゃん、クレヴィー、ほら見て、400を越えちゃった!!」
ノエルが声を弾ませる。彼が夢中で覗き込んでいるのは、人の背丈ほどの四角い機械だった――正面のパネルには、明滅する計器類がいくつも並ぶ。
この装置から10数本のケーブルが伸び、薄暗がりの中で輝くアルフェリオンの巨体に接続されていた。
「こりゃどうなってんだ? いくら魔道士の卵でも、ルキアン君は素人だろ。彼がどんなに凄い天才だったとしても、こんな無茶な数字は?!」
信じられないと言った様子で、ガダックがクレヴィスの方を見た。
「いやいや、技師長、ルキアン君は確かに非凡な素質を持っていますが、天才とはまた違うと思いますよ。いずれにせよ現段階では、彼はまだ初心者にすぎません。おそらく、アルマ・ヴィオのクセに自分の心を合わせていくことなど、まだできない段階でしょう」
「だったら、なおさらわけが分からんな。400なんて交感レベルがどうして出てくるんだ? エクターでない人間なら、交感レベル80もいけば立派なもんだが。ということは、アルマ・ヴィオ自体が彼の心に同調してるのか。まるでこの機体は……」
「そうです。アルフェリオンはあたかもルキアン君のために生まれた……いや、順序から言えば、ルキアン君の方が、アルフェリオンを操るために後から生まれてきたというべきでしょうか。ともかくこのアルマ・ヴィオは今、ルキアン・ディ・シーマーの身体の一部になっていると言っても過言ではありません」
2
「そこがわからんのだ。わしが調べてみた限り、ルキアン君の師匠はコイツを《作った》というより、どうやら忠実に《復元した》みたいだが。つまりオリジナルのアルフェリオン自体が、最初からルキアン君に見合った特性を持っていたことになる。ということは、だ……のちのち選ばれし戦士様が現れるのを見込んで、旧世界人がこのアルマ・ヴィオを準備しておいたとでも? きつい冗談だな」
太鼓腹を揺すって苦笑するガダック。
クレヴィスはアルフェリオンを見上げて、そっけない声で言った。
「全くですね。私にもよく分かりませんよ。ただ……」
不意に眼鏡を外した彼。予想外に大きい切れ長の目が光る。
「ルキアン君によれば、このアルマ・ヴィオはかなり損傷した状態で発見されたそうです。昔、誰か別のエクターが乗っていたのです。ルキアン君ではない、旧世界の誰かが……おや、測定が終わりましたか」
アルフェリオンのハッチが開いて人影が出てきた。少しむくれた顔をしたルキアンである。
ゆっくりと歩いてくる彼に向かって、クレヴィスが一礼した。
「つき合わせて申し訳ありませんでしたね、ルキアン君。しかし、これで私があなたに言っていたことの意味が分かるはずです。ノエル、最終的な交感レベルは?」
ノエルの顔には、当ててごらんと書いてあるらしい。クレヴィスは指を一本ずつ立てていく。4本目の指の後、彼は微笑しながら5本目を伸ばした。
「500を越えた? 嘘だろ……」
ガダックの表情は、計器の前でこわばった。
「ということなのですよ、ルキアン君。交感レベルというのは、簡単に言えば、エクターの精神がアルマ・ヴィオにどこまで同調できているかを示す数値です。この旧世界の機械を使えば、今のように測定できるのですが……」
眼鏡をかけ直しながら、クレヴィスがつぶやく。
「もっとも、人間の心までも数値に置き換えようとするなんて、いかにも旧世界人の考えそうなことですね。まぁ、彼らは自然の全てをデータ化し、法則化しようと試みていたほどに、数字というものを信仰していたそうですから……」
「何のためにですか?」
ルキアンはフロックの裾を整えた後、長い息を吐き出した。
「最大限に効率よく、自然を利用できるようにするためにです。《効率性》という言葉は、旧世界人にとって神の御名にも等しいものだったかもしれません。効率の良い利用というのは、結局のところ、自然をいかに余すことなく収奪できるかということだったのですが……。ただ、確かにそれはそれで、人々の生活をより快適にする効果ももたらしました。必ずしも悪い点ばかりではないのです。しかし問題は……旧世界人が、物だけではなく自分たち人間のあり方までも、《効率性》という物差しと《数値による置き換え》によって正しく評価できると信じて疑わなかったことです。いくらなんでも、それは思い上がりでしょうね」
クレヴィスはそう言うと、ルキアンに向かってにっこり微笑んでみせた。
「ですからルキアン君、交感レベルというのもあくまで目安に過ぎません。けれども、これだけ大きな数字がはじき出されば、いくら目安とはいえ考慮しないわけにはいかないでしょう? あなたとアルフェリオンとの交感レベルは、515……。たぶん200を越えればエクターとしては一流の部類です。ギルドの中でも、500以上の数値を出せる者は、そう多くありません」
3
ルキアンは無言で聞いていた。それこそ、数字を並べ立てられても漠然としたイメージしか出てこない。
一同が沈黙する中、ノエルが無邪気に言った。
「すごいんだね、ルキアンってさ! メイだって、たまにマグレで500をちょこっと越えるぐらいなんだぜ……痛てっ!」
彼の頭に、背後から拳骨が押しつけられる。
「悪かったわねぇ。まぐれで……」
いつの間に現れたのか、メイはすました顔でノエルを小突いている。
「クレヴィー、何やってんの? なになに? 私も仲間に入れて! あと少ししたらセシーたちと飲みに行こうって言ってるんだけど、待ち合わせまでちょうど暇なんだ」
「おや、来ていたのですか、メイ……ま、まぁ好きにしてください。今、ルキアン君とアルフェリオンとの交感レベルを調べていたところです。論より証拠、これを見てください」
クレヴィスは例の測定装置を掌で示した。
しばらく目を丸くしていたメイが、大声を出す。
「ちょっと、この機械壊れてないの?!」
「いや、メイちゃん。わしも最初はそう思ったが、この通り正常に動いとるぞ」
操作パネルのあちこちを指差して、ガダックが説明する。
メイは納得いかなそうに、大げさに首を振った。
「おかしい、絶対おかしいーっ! よし、あたしがやってみる。ルキアン、アルフェリオンに乗っていいでしょ? ノエル、測ってみてよ。頼むぞっ!」
有無を言わさず、彼女はアルフェリオンの方へ駆け出していく。
思い立ったら即実行……。呆れ顔の仲間たちにクレヴィスが告げる。
「まぁ彼女にも乗ってもらった方が、比較のためにちょうど良いデータが取れることですし。ですが、アルフェリオンは扱いづらいですよ……」
身軽にステップを昇り、白銀のアルマ・ヴィオの中へと消えていったメイ。
クレヴィスはどこか不安げに彼女を見ていた。
◇
――何なの、このアルマ・ヴィオは……。
メイには、アルフェリオンの意識がまったく読めなかった。
――真っ暗……何も分からない? いや、違う。この感じは?!
彼女は、初めてアルマ・ヴィオに乗ったときのことを思い出す。自分の心の中に別の心が溶け込んでくるあの感覚は、底知れない恐怖を感じさせるものだった。その恐れが今、彼女の中に蘇る。
メイの精神を本能的な震えが貫いた。
白紙に近い意識の空間に、突如として異様な心象風景が現れる。
ひび割れた大地……ねじくれた黒い枯れ木の群、赤い空……。
――空が赤い? 風も、音もない……あれは?!
茨の茂みの中に、人影が見える。なにひとつ動く物もない世界の中で、その影だけがそよそよと揺れていた。
黒衣の女。
その姿をメイの心の目がとらえたとき、突風が吹き抜け、女の長い髪が不気味な広がりをみせた。
瞬間、メイの心の中にどす黒い闇が流れ込んできた。それは明らかに敵意を帯びた感情だった。
――いけない!
メイの心は無意識のうちに逃げ出した。いかに気丈な彼女をも、一瞬ですくませる力が働いたのだ。このアルマ・ヴィオは何かがおかしい。
――離脱する!!
ハッチが開いて、メイがケーラから必死に這い出てくる。
彼女は半ば転げ落ちるようにして、格納庫の床に飛び降り、身体を投げ出したまま動かなくなった。
4
「メイ!」
ルキアンが駆け寄る。クレヴィスやガダックたちも慌てて助け起こしに行く。
「はぁ、はぁ……」
メイは顔中に汗を浮かべ、ルキアンにぐったりと身体をもたせかける。
彼女は手探りでルキアンの腕に触れ、しがみついた。
「メイ、大丈夫?! しっかりして、何が……」
気が動転して、やみくもに彼女の背中をさするルキアン。
「ルキアン君、あまり動かしてはいけません。念のため、ノエルはシャリオさんかフィスカを呼んできてください。しっかりしなさい、メイ!」
クレヴィスはメイの傍らにかがみ込んで、鋭く息を吸い込んだ。彼女の額に手をかざし、クレヴィスはつぶやく。
「慈悲深き月の光よ、心に取り付きし影を解き放て……」
呪文の詠唱――それはたぶん、精神状態の一時的な異常を取り除くものだったろうが――を彼が始めたとき、メイは上体を起こして言った。
「いいの。もう大丈夫、呪文は必要ないわ。クレヴィー、ありがとう」
彼女は両手で自分の頬を叩き、深呼吸する。
「うかつだったわ。このアルマ・ヴィオ、とんだじゃじゃ馬ね。いや、そんな生やさしいものじゃないかもしれないけど……」
いぶかしげにアルフェリオンを見るルキアンに、クレヴィが説明する。
「おそらくマイナスのフィードバックが生じたのでしょう。アルマ・ヴィオは、気に入らないエクターを拒否しようとすることが時々あります。そうすると、エクターの精神の中にアルマ・ヴィオの敵意が流れ込んで、恐ろしい光景や意味不明のイメージとなり、エクターの意識をかき乱すことがあるのですよ……」
メイは肩で息をしながら、ルキアンの顔を正面から覗き込んだ。
「ルキアン君、キミは何ともないの?」
「何がですか?」
「だから、アルフェリオンに乗っているときに……」
ルキアンは首を傾げた。
「いいえ。普通のアルマ・ヴィオと、特に違ったところはありませんけど……」
「黒い服を着た女が見えた。あれはただの幻なんかじゃない……」
メイは荒い息づかいで語る。
「あの風景も意味ありげだったわ。乾ききった、音のない世界。生命あるものが消え去った世界。この世の終わりみたいな、それとも魔界の果てみたいな。あいててて……」
アルフェリオンから降りるときに腰を打ったらしく、彼女は鈍い痛みに顔をしかめた。
看護助手のフィスカがメイの手を取ろうとする。
「メイおねえさまぁ、慌てて立とうとしない方がいいですよぉ~。ほら、私が手を貸してあげますからねっ」
変にべたべたした彼女の手つきを見て、メイが悲鳴を上げている。
「い、いらない! 大丈夫、もう治った。すっかり元気になった!!」
メイは必死にフィスカを払いのけ、床を這って逃げようとする。
「どうして逃げるんですかぁ? 私たちにはこんなに美しい友情があるのに~」
「だから、そんな気持ちの悪い友情なんてお断りだってば! た、助けてぇ」
メイが情けない声を出して、シャリオの法衣の裾にしがみつく。
だがシャリオの方は、それをあっさり無視してルキアンに尋ねた。
「ルキアン君。メイがいま言っていたことに、何か心当たりはありませんか?」
5
「黒い服の女のひと……ですか」
ルキアンが複雑な表情で考え込んでいる間、シャリオはアルフェリオンの姿をじっと見つめていた。
彼女の目に映っている銀の天使は、今では活動を完全に停止している。一応は《生きて》いるのだが、エクターが乗っていなければただの鎧人形に等しい。魂を持たぬ生体兵器、仮の命を吹き込まれる虚ろな殻、それがアルマ・ヴィオなのである。
「あの、僕にはよく分かりませんけど……」
ルキアンは適当な返事をする。本当は思い当たる点があったにもかかわらず。
メイの話を聞いたとき、彼は直感的に想起したのだ。黄泉路を開くと言われる闇の月のごとき、黒い衣装の女……その暗く沈んだイメージは、ルキアンの心中であの謎の声と結びついた。
――僕をアルフェリオンへと導いたのも、ステリアの覚醒を手助けしたのも、女のひとの声だった。《彼女》の言葉からは、いつも哀しみを押し殺したような匂いがした。あれはいったい誰なんだろう?
「ルキアン君……」
クレヴィスが彼の肩をぽんと叩く。
ぼんやりと思いをめぐらせていたルキアンは、慌てて振り返った。
「ともかく分かったでしょう? アルフェリオンにとって、あなたが特別な存在であることが」
半信半疑のルキアンに対して、クレヴィスは思わせぶりな口振りで続ける。
「メイが見た異様な光景ではないですが、正直言って、このアルマ・ヴィオには何か良からぬ力を感じます。ある種の闇を……。しかしそれと同時に、この翼を持った騎士は、強い輝きをも内に秘めている」
「光と、闇……?」
「そう。そしてステリアの巨大な力が光と闇のいずれに傾くのか……私には、ルキアン君がその鍵を握っているような気がするのです。魔道士の直感というのは、それなりに当たるんですよ」
クレヴィスの話に耳を傾けるルキアンたち。
格納庫の上部にある回廊から、彼らの様子をエルヴィンが見ていた。
暗がりの中に浮かんだ白いドレス。そして病的に透き通った肌。
黒髪を風になびかせ、彼女はそっと唇をゆるめた。
「せっかく鍵が掛かっているのに。開けてしまったら、元には戻らないのに」
瞬間、彼女は歯を見せて笑った。声もなく……。
【続く】
※2000年7月~8月に鏡海庵にて初公開
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