鏡海亭 Kagami-Tei  ウェブ小説黎明期から続く、生きた化石?

孤独と絆、感傷と熱き血の幻想小説 A L P H E L I O N(アルフェリオン)

生成AIのHolara、ChatGPTと画像を合作しています。

第59話「北方の王者」(その1)更新! 2024/08/29

 

拓きたい未来を夢見ているのなら、ここで想いの力を見せてみよ、

ルキアン、いまだ咲かぬ銀のいばら!

小説目次 最新(第59)話 あらすじ 登場人物 15分で分かるアルフェリオン

主人公ルキアンの謎

連載小説『アルフェリオン』、昨晩でまとめ版アップを完了しました。
2週間連続の「まとめ読み」キャンペーンを終えて、いよいよ今度は最新話の第49話の続きを書かなければなりません(^^;)。

その前に、今回は、これまでの全48話を振り返って、ルキアンの正体について考察するための伏線(笑)を整理しておこうと思います。いや、仮に私が読者だとしたら、ルキアンの正体、非常に気になるので…。

第1話には、ルキアン・ディ・シーマーがカルバに弟子入りした経緯が書かれています。落ちぶれた貧乏貴族の家系、シーマー家。このような貧乏貴族がなんとか体面を保ってゆくためには、長男に財産をすべて継がせ、弟たちは家から出て独立するというのがオーリウムの習い。貧乏貴族の財産を兄弟で分割してしまったら、ただでさえ少ない財産がますます細分化されてしまいますからね(^^;)。いずれジリ貧。

そこでルキアンは魔道士カルバに弟子入り。
オーリウムでは魔道士は一種の技術者でもあり、幸いにも読み書きのできる零細貴族の息子は、魔道士となって生計を立ててゆくことも結構あるということでした。

その後、第3話「覚醒、そのとき」の冒頭で謎の回想シーンが。
「ここには、僕の探している未来はありません」と言って、セラス女神の像の前で絶望するルキアン。

そして、ルキアンが両親の実の子ではなく、しかもその養親から冷たい仕打ちを受けていたことが明らかになるのが、第9話。ルキアン定番の鬱回想ですね。まぁ、この鬱回想を経て、アルフェリオンで出撃し、超覚醒に至るんですけど。
下記のような養親のやり取りを幼いルキアンが聞いてしまったという回想シーンでした。


 ――ねえ、あなた……あんな子なんてもらわなければ良かったわ。
 ――声が高いぞ。あの子が聞いていたらどうするんだ。
 ――大丈夫ですわ。もう寝てますよ。
 ――まあ、やむを得まい。金になるんだ。わが家を守るためには……。


ここ、不自然に思った方もいると思います。
ルキアンの養父の「金になる」というセリフです。
ダメっ子のルキアンを引き取ったことを後悔している養親。しかし、金になるから仕方がない、という話。

第1話では、シーマー家にはお金がないから、ルキアンをいわば「口減らし」的にカルバの内弟子に入れたことになっているわけです。ルキアンを養うことが金になるどころか、余計な負担になるから追い払ったのでは?

継子のルキアンだけが兄たちに比べて冷遇されていたことは、第17話にも出てきます。
もっとも、ここでは自分が「要らない人間」であるというルキアンの嘆きが強調されるばかりで、上掲の第9話に出てきた伏線をさらに深める方向には動いていません。

その間も、このまま戦い続ければ自分がいつかステリアの力に魅入られて単なる兵器になってしまうのではないかと、ルキアンは苦悩し続けます。そして、パリスとの決戦でゼフィロス・モードが炸裂し、ルキアンが超覚醒する第35話に至る。

超覚醒する前のルキアン定番の鬱回想。
「おうちに帰りたいよぅ」と泣く子供時代のルキアン。
実は、その直前の以下の引用部分が謎なんですね。


 何故か、幼い頃からこれまでの記憶が鮮やかに浮かび上がる。過ぎ去った経験は憎々しいほどに明確なかたちをとり、ルキアンの辿ってきた仄暗い心の旅路が、残骸の山のように次々と重なって現れる。

  そこに光はなかった。
  少年の瞳から無邪気な輝きが失われたのは、
  いつのことだったろうか。
  思い出の中の時間が、新しい記憶の方へと巻き戻されてゆく。
  時が辿られるにつれ、夕暮れの道を行くように、
  記憶の中の風景を包む翳りは次第に深くなるばかり。


幼い頃へと記憶を辿ってゆくほど、かげりが濃くなるばかり。
夕暮れの道を行くように…。

そして第37話、ルキアンが「物心ついたときから手にしていた唯一のもの」として、「子豚のぬいぐるみ」が出てきます。そんなルキアンを例によって遠見の水晶でストーキング、もとい、監視するアマリア(^^;)。ここでアマリアが書き付けた次の予言詩が意味深。


  引き裂かれし二人。
  その本来の思いが、両者の邂逅によって取り戻されるとき、
  だが新たな悲劇が、たちまち二人をまた引き裂くだろう。
  再びの別れは永劫の別れとなる。
  そのとき青き淵に輝く光は潰え、憎しみの翼は羽ばたく。
  闇は解き放たれ、三つの凶星は滅びの天使を呼ぶ。


引き裂かれし二人?
ルキアンと誰かのことを言っているのでしょうか。
そして予言詩の後半は、例の「沈黙の詩」の一節と似ていますね。
引き裂かれた二人が再び出会うとき、それが永劫の別れとなる。その結果…。

続く第38話、夕暮れの中でルキアンが 不意に思い出す。


「今みたいに、もうすっかり暗くなった夕方、心細い気持ちで歩いていたとき……。ずっと昔、いつ? 思い出せないほど前、僕が本当に幼かったとき?」
 彼の口から、途切れ途切れに言葉が漏れる。
「そのとき、僕は……。僕は、そのとき……独りでは、なかった?」


失われた記憶の糸を手探りで辿るかのごとく、ルキアンが問題の子豚のぬいぐるみに手をふれようとしたとき、魔少女エルヴィンがそれを止めた。「まだ思い出しては駄目。ものごとには、そのために予め定められている《時》がある」というエルヴィンのセリフ、いかにもウラがありそうです。でも、何でエルヴィンがルキアンの失われた記憶について知っているのか??

そして第46話、ソルミナの結界にルキアンが取り込まれたとき、ついに…。
ソルミナの創り出した迷宮のごとき幻の世界。
ルキアンが先に進むにつれて、彼の記憶を遡って反映しているかのような場面が次々と現れる。

第一の部屋「真昼の光の間」から、第二の部屋「近づく日暮れの間」へ。
以前に第3話の回想シーンで出てきた、養親の会話を幼いルキアンが聞いてしまった場面が再び登場。


「まあ、やむを得まい。金になるんだ。わが家を守るためには……」という養父の言葉に違和感を覚えるルキアン。

 ――お金に困ってたのは知っていたけど、僕を引き取って育てたことがどうしてお金に結びつくんだろう。逆に、僕みたいな《いらない子》を養うのはお金の無駄だったんじゃないのか。父さんと母さんが僕をカルバ先生のところに弟子入りさせたのだって、口減らしのためだと思っていた


ルキアンの疑問が、当時の養親の言葉を彼に思い出させます。
あの後、養親たちは次のような話をしていたのでした。


「とにかく16歳まで面倒を見れば大金が手に入る。あとは、とっとと追っ払って」
「えぇ、あんなどうしようもない子とも、あの薄気味悪い連中とも、早く縁を切ってしまいたいもの」
「その話は出すな。彼らのことは決して口にしないようにと言われたじゃないか」


16歳…。ルキアンがカルバに弟子入りした歳です。
その時点まで嫌々でもルキアンを育てれば、養親は大金を手に入れることができるという。その相手方は、養母の言葉を借りれば「薄気味悪い連中」。だが、彼らに言及することは口止めされているようですが…。
これは怪しい!

そして、続く第三の部屋「落日の間」。
夕暮れに包まれた曖昧な記憶の中、幼いルキアンの手を取って歩いていた謎の少女。その記憶の詳細が分からないまま、ルキアンの前に最後の部屋「夜」への扉が現れる。ルキアンは扉を恐れました。自分には記憶のない場面が最後の扉の向こうで待ち構えていることを、理解したから。

続く第47話、ソルミナの迷宮空間の最後の部屋を描く前に、なぜか旧世界のことがいきなり出てきていますね。誰かの回想というかたちではなく(例:イリスがルウム教授のことを思い出していた場面)、遠い過去に遡って旧世界の人間が登場する描写は、これまでには見られません。異例中の異例。

天上界の「天帝」に使える大魔道士イプシュスマ。
かつての闇の御子エインザールとは敵であり、以前には友人であったようですが。
天上界に対する地上界の勝利が確定したにもかかわらず、エインザールが「戦い」には敗れたとイプシュスマは言います。「ノクティルカの鍵」の秘密に到達できなかったこの世界は終わる、と…。

第48話で、「リュシオンが私に命を与える以前、それまでに無数に生まれては消えていった世界」とリューヌが言っています。このセリフは、過去に世界が何度も滅亡しては再生してまた滅亡するという経緯を繰り返してきたように聞こえます。

ここで気になるのは、第33話のアマリアとフォリオムの会話。
かつて旧世界が「永遠の青い夜」のために天空人と地上人とに分かたれたことは、予め定められていたというフォリオム。フォリオムはさらに続けます。地上界の勝利を目前にして、エインザールがある危惧を抱いていたと。フォリオムは言う:


仮に、人間の歴史に先ほど言ったような《目的》が定められていたとしたら、自分たちの戦いは、連綿と続いてきた旧世界の歴史をいったん白紙に戻すことを意味するのではないかと。それが現実となったとき、《目的》の実現に向かって因果の輪を着々とつなげてきた《力》の側からの、つまり《あれ》からの、何らかの反作用が必ず生じるのではないかという漠然とした危惧を持っておった。


人間の歴史には予め何らかの目的が定められているのではないかと、漠然と気づいていたというエインザール博士。すなわち「《新たな人の子》を創造すること、言い換えれば《人間》をより《高次》の存在へと《昇華》させるという《目的》が、《何か》によって自分たちの歴史に予め定められているような気がする、と」。

だがエインザールは、紅蓮の闇の翼「アルファ・アポリオン」によって天上界を滅亡に追い込んだ。その行いを振り返って、フォリオムは声を押し殺して言った。


  《御使いたちが、それを見逃すはずはなかった》


以上の旧世界に関するエピソードをはさんだ上で、ソルミナの幻の世界の最終局面に描写は戻ります。漆黒の闇の中、地の底から這い出す子供たちの霊。
意味の分からないルキアンに対し、幼い日のルキアンの手を引いていたあの少女の影が現れます。

「まだ思い出さないの?」

実際には、ルキアンを精神的な死に至らしめるため、ソルミナが彼の記憶を読み取り、非常に周到にこの結末へと導いていたのでした。しかし、当のルキアンには、なぜか記憶がありません…。多分、覚えていたら発狂しかねないようなことだったのでしょうね。

そこでアマリアは気づきます。


 《この少年は、過去に何者かによって記憶を操作されている》


ここで、ルキアンが普通の人間ではないことが明らかになってしまいました。
強化人間か何かか?という話もありますが…。

で、結局、ルキアンに対して最も忌まわしき記憶を突きつけたはずのソルミナですが、肝心のルキアンが覚えていなかったため、大失敗(^^;)。そこで作戦を切り替え、直接にルキアンをなき者にしようとするソルミナの化身。あまりにも完璧な幻の世界であるため、ここで死んだら、実際の肉体にも死が訪れるという…。

まぁ、それが裏目に出て、ルキアンが超覚醒。
幻の世界の中でルキアンに戦いを挑んだばっかりに、現実界での戦いならば発揮され得ないはずのルキアンの「御子」の力が炸裂! ソルミナの化身としては、自らが生み出した世界の中での戦いで負ける気などしなかったのでしょうが…ルキアンの妄想の方が遙かに上回っていたのでした(^^;)。

闇の支配結界を展開し、ソルミナの創った夢幻の結界を侵蝕するルキアン。
結果、アルフェリオンまで幻の世界に勝手に召喚して(笑)、第3話以来使われていなかった必殺技、ステリアン・グローバーを全力で放ったルキアンの圧勝。

いや、戦いの行方もさることながら、ここで重要なのは、ソルミナの生み出した迷宮空間の最後の部屋「夜」の場面です。あの幼子たちの霊は何を意味していたのでしょうか。ソルミナとしては、ルキアンにあの場面を見せれば彼はおそらく崩壊する、必勝だ!と思っていたわけです。そんなにもルキアンにとって恐ろしい意味をもった場面だったのでしょうか。

ルキアン本人は「わけがわからないよ」(by QB)状態。
でも、そういえば、この第47話の冒頭に掲げられているコズマスの以下の言葉が意味ありげです。前に「月闇の僧院」の初登場の際に出てきたセリフですね。

 鍵の石版を解読して「ロード」のための実験を開始したときから、
 我々は人としての資格を捨てて悪魔となったのだ。
 何の咎もない者たちを次々と犠牲にし、この身に永劫の罪を背負い、
 「あれ」と戦うために闇に堕ちた。

  (月闇の僧院の長・コズマス)

これとルキアンとの間に何らかの関係があるのでしょうか?
ロードって?
そのことが、ソルミナがルキアンに見せた幼い子供たちの霊の幻と、どういう関係をもっているのか?

あ、そういえば、「僧院」にはあのキャラが関わっているような描写が以前にありました。誰? それは内緒です(^^;)。でも、それが誰だか分かれば、ルキアンと「僧院」との間で一気に話がつながるんですよね。

ルキアン、一体、何者?
以上を踏まえた上で、最新話の第49話(その1)を呼んでみると、何かと思うところがあるのではないでしょうか。

ルキアンって誰?(^・^;)

かがみ
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幻すら喰らい尽くす闇、放たれた魔の力―まとめ版第46~48話

連載小説『アルフェリオン』まとめ読みキャンペーン第2週目、最終夜の今晩は、第46~48話のまとめ版を追加しました。これで、現在連載中の最新の第49話まで、第1話から一気にお読みいただける体勢が整いました!

 目次からご覧になると便利です

実は46話~48話までは1年ちょっとの時間を費やして本ブログに連載されたのですけど、今になってまとめて読み直してみると、バラで読むのとは全然感じが違いますね。ルキアンがソルミナの結界に入ってから出てくるまで、超展開に次ぐ超展開(苦笑)。たぶん誰も予想できなかったであろう結末が待っていました。

「闇の力を思い知れ!」というルキアンの決めぜりふも満を持して登場。…いや、ルキアンって一応は主人公ですよ(^^;)。そのセリフ、邪悪すぎる。

しかも、ソルミナの結界が破れて一段落かと思いきや、走り出した暴走列車ならぬ妄想列車はもう止まらない\(^o^)/ 間髪入れずにヒロインのカセリナと最悪の再会をし、壮絶な戦い、ルキアンがフルボッコにされてからキレて黒化して、極めつけには制御を失ったテュラヌスがバーサーカー化して、あれが串刺しって…。もう、わけわかんねーよという勢い。ルキアン、この3話だけでも何回死んだと思われてるの? そ、そんな、リューさんまで!?

そしてついに黒宝珠が発動。アルフェリオンの中の人(違)と前々から言われていた、菌糸を張り巡らして機体を乗っ取っていた謎の黒い珠のことですね。他にも、新たなものが続出、紋章回路(クライス)とか、アルティマ・トリゴン・システムとか、データリンクとか、アポカリュプシスとか、カラミティ・フォームとか、テュラヌス・モードとか、闇の紋章とか、闇の支配結界とか…なんのこっちゃです(@@)。もう頭いっぱい、お腹いっぱいです。

いや、支配結界は、作中ではまだその名では呼ばれてませんね。何気にネタバレ(汗)。ルキアンがソルミナの化身と戦ったときに、他人(ソルミナ)の作り出した幻の世界の中で、勝手に自分も妄想から幻を作り出して反撃してたでしょ。そんなのありか…って、あれはルキアンも闇の支配結界を展開していたから、できたんですよ。

これまで何人も生還できなかったソルミナの結界をルキアンが破ったのは、彼の妄想がソルミナの幻を上回ったから…という冗談みたいなホントの理由から。この間、「人間」はソルミナには決して抗えない、と公爵がもったいぶって繰り返していましたけど、裏を返せばそれを破っちゃったルキアンは人間じゃないと言わんばかりの流れです(^^;)。

まぁ、御子は人の子であってもはや人の子ではありませんというのは、アマリアやフォリオムが「解説」していましたね。

御子は、それぞれ支配結界という空間を作ることができます。ルキアンは属性が「闇」の御子なので、闇の結界を張ります。敵から見たら最凶最悪の支配結界です。あの鋼のイバラの壁のように、結界の中では妄想王ルキアンの想像がすべて現実となって敵に襲いかかるという、悪夢の世界。

それでいいのか主人公! アンタは主人公じゃなくてラスボスか(笑)。
ソルミナにも「闇使い」という有り難くない名で呼ばれてましたが。

「闇の眷属来たれ」と言って、ルキアンが周囲のすべてを闇で喰らい尽くしていった場面は、まさに悪役。ソルミナの結界をルキアンの結界が侵蝕したのですね。まぁ、現実の世界でなかったからこそ、まだ半端な御子のルキアンが支配結界を無意識に使えたのですが…。現実世界であんなの展開されたら、チートどころの騒ぎではありません。いつかそうなるのでしょうが。

これまで比較的ゆっくり進んできた物語が、一気に急展開です。10年かけてジェットコースターが上までゆっくり上っていって、46話で急降下し始めたという…。この後は多分、最終回まで走り抜けることになるでしょう。って、まだまだ先は長いです。

なお、まったくの偶然なんですけど、本日まとめ版を追加した全三話の内容…結界の中でおどろおどろしい魔の世界が展開される第46・47話といい、そして48話でルキアンが黒化してバーサーカーと化すところといい、何だか「まどか☆マギカ」と共通点が結構多いですね(^^;)。しかも、「まどか☆マギカ」の昨晩の第7話でさやかが狂戦士化したことを思えば、とても偶然とは思えないくらい(笑)。

そんな作品ばっかり書いてる私ですから(^^;)、そりゃ「まどか☆マギカ」を観て気に入るわけですな。と自覚してみたり。

ともあれ、まとめ版アップが完了したいま、今後は、連載中の第49話の続きをお楽しみください。

かがみ
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第48話・後編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


6 第二形態、覚醒のイーヴァ



 ――ねぇ、なぜ戦うの。どうして話を聞いてくれないの。どうして。
 燃え盛る業火を身に宿した、荒ぶる魔戦士テュラヌス。その凶暴な形態(モード)に変形したアルフェリオンから、念信を通じてルキアンの声がカセリナに届く。声と共に伝わってくるルキアンの心の有り様は、明らかに狂気を含んでいた。泣きながら壊れて笑っているルキアンの表情が、カセリナの意識に浮かび上がる。
 ――僕は戦いたくない。特に君とは……。だけど、分かってくれないのなら、たとえ泣きながらでも僕は剣を抜かなきゃならなくなる。今だって、僕が君との戦いを躊躇したから、僕の代わりにリューヌが犠牲になった。あのときも、ならず者たちを僕が撃てなかったから、シャノンも、トビーとおばさんも守れなかった。
 ――もうそんなのは嫌なんだ!
 ルキアンは絶叫する。イーヴァの頭部を鷲づかみにし、吊り上げたテュラヌスの手にも力が加わる。頭が割れそうだ。カセリナは悲鳴をこらえながら、息も絶え絶えに言った。
 ――あなたに守るべきものがあるように……。私にも、守る、べき……ものが、ある。
 イーヴァの目が光り、テュラヌスの腕を両手で掴む。鋼の戦乙女は、その重量を感じさせない驚異的な身軽さで動いた。テュラヌスの腕で懸垂をするようにして、両脚を胸に引きつける。
 ――だから戦う。それがすべての理由!
 カセリナの気合いと共に、イーヴァの両脚がテュラヌスの胸を蹴った。イーヴァの頭部を握っていた鉤爪が緩む。イーヴァはすかさず逃れ、再度、軽業師を思わせる動作でテュラヌスを蹴る。
 次の瞬間、イーヴァよりも遙かに大きなテュラヌスの機体が揺らぎ、宙に浮く。細身ながらも強靱な瞬発力を秘めた脚を生かし、イーヴァは自身の機体ごと背後に宙返りするようにして、テュラヌスを投げたのだ。
 見事に投げ倒されたテュラヌスは、大地に背中から落ちたまま、しばらく動かない。 だがカセリナも、極度の疲労のために、いつものように迅速に次の攻撃に移ることはできなかった。目まいがする。テュラヌスの姿が歪み、イーヴァの魔法眼の中で二重三重にぶれて見える。
 ――何としても……。ここで、白銀のアルマ・ヴィオを倒さなければ。
 カセリナは、地面に転がっていたMTレイピアを拾う。しかし、刺々しく分厚い甲冑で完全に覆われたテュラヌスを前にすると、いつもの細身の剣があまりに頼りなく思えた。
 ようやくテュラヌスが上体を起こす。うわごとのようなルキアンの念信もカセリナに伝わってくる。
 ――僕だって、絶対に、負けられないんだ。ここでギルドが勝たなきゃ、王国は反乱軍と帝国軍の手に落ちる。僕は許せない。許せない。そんなこと!
 立ち上がって咆吼するテュラヌス。その身に生えた大小多数の突起が、抜き身の剣のごとき輝きを放ちながら、倍ほどの長さへと一斉に《成長》する。今や、その姿は、刃の翼を幾重にも背負っているようだ。
 ルキアンの激情が高まるのに呼応して、いっそう禍々しい姿へと変わってゆくテュラヌス。その様子に驚愕するカセリナに対し、ルキアンは我を忘れて語り続ける。
 ――だって、おかしいでしょ。言葉で相手と分かり合おうとせず、力の強い弱いでしか相手との関係を考えられない人たちが、そんな人たちが、この国を自由にしていいはずなんて、ないんだ。僕は許せないよ。そうだ。許さない!
 テュラヌスの雄叫びが、天高く、大気を振るわせ、空を貫いた。テュラヌスの肩が盛り上がり、甲冑が一回り大きくなった気がする。これまでの戦いで経験したことのない圧倒的な威圧感を突きつけられ、このままでは勝てないということをカセリナは直感した。もちろん、こちらに切り札があることは知っている。だが……。
 ――あの《力》をもう一度使えば、きっと勝てる。でも、あれは、人がふれてはいけないものだわ。何か、絶対に良くない力に違いない。
 レーイとの戦いの最中、イーヴァに秘められたステリアの力を覚醒させたとき、その闇の波動にカセリナは魅入られそうになった。恍惚の中で心を溶かされ、破壊への衝動に自我を支配されてゆくおぞましさ、恐ろしさを、彼女は思い出さずにはいられなかった。
 ――だけど、ここで敗れるわけにはいかない。
 カセリナは精神を集中し、心の奥、闇の向こうに潜む例の力にふれた。禁断の《ステリア》の力に。彼女の呼びかけを待っていたかのように、ステリアの力は一気に爆発し、カセリナとイーヴァの身に強大な魔力が満ちる。イーヴァの機体を中心に、どす黒い魔の力が渦を巻き、物理的な突風を伴って竜巻となる。暗雲が押し寄せ、空を閉ざしていく。

 ◇

「ナッソス城周辺の霊圧線に異常な歪みが発生、霊気濃度も局地的に異常な上昇を続けているわ。何なの、これ。もう計測できない!」
 クレドールの艦橋、緊迫した声でセシエルが告げる。目の前のコンソールで計器類の針が振り切れ、嵐の中で乱れる木々と同様、狂ったように踊っている。
「こんなことって。副長?」
 彼女はクレヴィスの方を見た。だが、こうなることを予想していたのであろうか、クレヴィスは静かに答えを返す。眼鏡のレンズにかかった前髪を無造作に払い、平然とした口調で彼はつぶやいた。
「イーヴァとアルフェリオンの、二つのステリアの力が衝突した場合、我々の想定を遙かに超える事態になるかもしれません。そうですね、最悪の場合、ナッソス領一帯とともに……あるいは、この国土全体と共に、私たちが消し飛んでしまうことも起こり得るでしょう。そのくらいの力があるのですよ、旧世界の超魔法科学文明を崩壊に導いたステリアにはね」
 彼の言葉を聞き、ブリッジに低いどよめきが生じた。が、クレヴィスは場違いな微笑を浮かべて付け加える。
「そういうわけで、危険を避けて本艦が今からどこかに退いても、あまり意味はありません。それよりも見守りましょう。ルキアン君とカセリナ姫との戦いを。まぁ、結構、何とかなるものですよ」
 いささか強引な理屈だが、実際のところ、魔道士としてのクレヴィスは、二つのステリアの力が激突しあう様を克明に観察したくて仕方がないのであろう。もっとも、そのような興奮など微塵も表に出さず、クレヴィスは、ツーポイントの眼鏡の奥で涼しげに眼を細めるだけだった。

 ◇

 ――たとえこの身がどうなろうとも、禁断の力を借りてでも、私は必ず勝つ。
 カセリナがそう告げると、イーヴァの両の肩当てがスライドし、その奥から青白い光が漏れる。胸甲部も開き、同様の青白き霊光をまとったレンズ状の物体が姿を見せる。
 イーヴァの仮面が左右に開く。死した美姫の銀色のマスク、イーヴァの《素顔》が、その沈鬱かつ妖美な表情でアルフェリオンと向き合う。レーイとの戦いの場合と同じく、イーヴァの機体から青く輝くオーラが立ちのぼり、羽衣さながらに揺らめいている。
 だが今度は、カセリナの覚悟に応えるかのように、イーヴァに新たな変化が起こり始めた。華奢なシルエットが光の中で形を変え、肩当てや肘当て、膝当ての部分が膨らんでゆく。首から胸部にかけての甲冑も、みるみるうちに厚くなった。これは間違いなく、旧世界の失われた高等魔法《第五元素誘導》と、旧世界の科学の産物であるナノマシン《マキーナ・パルティクス》とによる《変形》である。
 イーヴァの甲冑のうち、最後に腰部以下を覆うスカートの部分が、4枚の花びらのように伸びた。そしてイーヴァの左手には、胴体から足首までに達する楕円状の盾があった。右手には、左右に真っ直ぐに伸びた鍔をもつ、十字架型の細身の長剣が握られている。
 イーヴァが剣を一振りする。すると、実体を持つ金属の刀身をMT(マギオ・テルマー)の光が包み、光の刃は元々の切っ先よりもさらに長く伸びた。
 ――ルキアン・ディ・シーマー、ナッソス家の敵、パリスの仇。ここで終わらせる。
 構える動作すらほとんど見せず、カセリナは瞬時に間合いを詰め、テュラヌスと交差した。細身ながらも鋭利で長い十字剣は、見た目よりも遙かに高い攻撃力を有する。
 ルキアンが苦痛に声を上げる。テュラヌスの頑強な甲冑、胸部に亀裂が入っていた。
 ――いける、これなら!
 なおもカセリナは切り付けた。疾風のごとき剣閃が走り、テュラヌスの装甲に深い裂け目をひとつ、またひとつと刻み込んでゆく。
 鋭い爪で反撃するテュラヌス。だが、イーヴァのかざす盾がことごとく受け止める。
 ――先ほどとは違うのです。
 テュラヌスの重い一撃に対し、盾で押し返すイーヴァ。さすがに押し負けするものの、相手の強力を十分に受け止めるだけのパワーは備えている。
 そうかと思うとイーヴァは背後に飛び退き、宙空から身軽に剣を振るう。間合いの外であるはずだが、テュラヌスの肩当ての一部が切り落とされた。さらに二度、三度、カセリナは同様の距離から切り付ける。イーヴァが剣を振る瞬間、何と、刀身の部分をとりまく光の刃が幅広く拡張し、長さも倍近くも伸びているのだ。
 アルフェリオン・テュラヌスは一方的に切り付けられ、嵐のような斬撃を浴び続ける。テュラヌスの絶大な防御力をもってしても、このままではじきに倒されてしまう。
 ――僕は、僕は、勝ちたい……。勝たなきゃいけない。
 光の刃が大きくなるだけではない。一撃ごとに、その威力も増している。ステリアの力が剣に宿り、新たな命を与えているかのようだ。
 イーヴァの体から青白い霊気がますます強く立ちのぼる。その輝きが、MTの光と一体となって剣を取り巻く。カセリナは全力で剣を振り下ろした。

 かろうじて直撃をさけたルキアン。だが、イーヴァの一撃は、テュラヌスを吹き飛ばし、大地に深々と、遙か前方まで亀裂を創り出した。いや、亀裂どころか、もはやこれは《谷》といった方がよかろう。
 イーヴァの《第二形態》の恐るべき力を前にして、ルキアンは呆然とつぶやいた。

 ――どうすればいい。打つ手はないのか。僕は、ここで終わってしまうのか……。


7 解き放たれた魔獣



 イーヴァの斬撃によって大地に刻まれた裂け目。かろうじて回避したアルフェリオンの足元から、崖状になった溝が地底に向かって続いている。その「谷底」を横目でのぞき、ルキアンは息を呑んだ。
 ――危なかった。いや、ぼんやりしている場合じゃない。
 敵の剣の間合いから離れるため、テュラヌス形態のアルフェリオンは素速く退いた。重装甲のテュラヌスは、見た目には、棘のある重い甲羅を背負った甲殻類をも連想させる。だが、その動きは意外なほど俊敏だ。
 ――来ない?
 ルキアンは慌てて身構える。イーヴァが切り込んでくるのではと思ったのだ。
 ――そうか。カセリナの機体は今までより動きが重くなっている。
 大型の盾と長剣とを構えたイーヴァを睨みつつ、ルキアンは今さらながらに気づいた。戦い慣れしていない彼は、強化されたイーヴァの剣とカセリナの凄まじい連撃に圧倒され、頭の中が真っ白になっていたのだ。その間、もちろん機体の身動きもろくにできなかった。
 ルキアンは《手》を握りしめる。生身の指が強張って動かないときと同じような感触だ。
 ――落ち着け、落ち着け、しっかりするんだ!
 彼は懸命に自分に言い聞かせる。と、ちょうど似たような状況がそうさせたのか、ルキアンはミトーニアでパリスと戦ったときのことを思い出す。
 ――あのときだって、相手は僕とは比べ物にならないほど強かった。それでも……。
 パリスとの死闘の場面がルキアンの脳裏で鮮明によみがえる。旧世界の超高速陸戦型アルマ・ヴィオにして、魔法弾を無効化し、強力な長射程型MgS(マギオ・スクロープ)を装備した《レプトリア》。これを操る敵のパリスは、ナッソス四人衆の一人に他ならない。あまりの実力差で一方的に打ちのめされていたルキアンは、アルフェリオン・ノヴィーアの姿から氷雪の世界を支配する竜を連想し、土壇場で凍気のブレスを放って戦いの流れを変えた。さらに彼はゼフィロス・モードを覚醒させ、その速さと《縛竜の鎖》を縦横無尽に使いこなし、レプトリアの俊足に打ち勝ったのだ。
 ――ゼフィロスに変わったときには、むしろ機体の方が僕を助けてくれている感じだった。だけど、テュラヌスには僕の方が振り回されている。全然上手く使えていない。
 リューヌを失った怒りで我を忘れたルキアンは、当初は激情の赴くままに戦い、知らず知らずのうちにカセリナを圧倒していた。だが冷静さを取り戻した現時点では、なぜか機体が思うように動かない。戦いづらさを覚えるルキアン。

 突然、テュラヌスがMTクローを展開する。金属の鉤爪を中心にして、さらに爪状の光が輝いた。その挙動を眼にした途端、カセリナは攻撃に出るのを取りやめた。まさに今、彼女はテュラヌスに突きかかろうとしていたのだ。
 ――私の機先を制した? あのルキアンに、そんな読みができるはずはない。
 他方のルキアンは慌てている。
 ――ちょっと待って。どうして勝手に動くんだ。
 《身体》が己の意図しない動作をする、この何とも表現し難い感覚。彼は機体に精神を集中し直す。これでは荒馬の手綱を引いているようなものだ。
 ――これまでも、機体が自動的に防御してくれたことはあったけど、テュラヌスは……。まさか、自ら戦いたがっているのか。
 ――やはり、さっきの動きは偶然だったのね。
 ルキアンが余計なことを思い浮かべた途端、カセリナの一撃が襲った。幸いにも間合いが離れていたため、直撃は避けられたが。MTクローの光とMTソードの光が干渉し合い、激しく白熱する。
 ――僕の言う通りに動いて!
 無我夢中でイーヴァの剣を押し戻そうとするルキアン。そのとき彼は、繰士に逆らって猛り狂わんばかりのテュラヌスの精神を感じ取った。乗り手の欲する動きと機体の動きとが、明らかに別々になりかけている。ひとまず、ルキアンは全力でイーヴァを突き放した。
 すると、テュラヌスは速やかにMTクローを構え、姿勢を少し低くする。そのどこまでが自分自身の意図した動きだったのか、ルキアンには分からない。
 ――これは?
 ルキアンは戸惑うが、わずかにでも気を散らせると、たちまちカセリナの攻撃が襲いかかる。イーヴァは剣を水平に構え、全身の力を込めて突きを繰り出してきた。うろたえ、気が動転して頭の中が虚ろになったとき、ルキアンは何者かに引っ張られるように感じた。

 高速で突き出されたMTソードがスローモーションのように映る。
 光の刃が、青白く輝く鉤爪の上を滑ってゆく。
 その様子がルキアンには止まって見えた。

 ――また動きが変わった。どういうことなの。
 カセリナは空を切るような手応えに驚いた。惰性で機体が前につんのめりそうになり、彼女は咄嗟に姿勢を立て直す。
 ――テュラヌスが自分の意思で回避して、僕はそれを見ていた。いや、僕がテュラヌスの動きに身を委ねていた。
 気がつけば、ルキアンはイーヴァの剣をMTクローで受け流していたのだ。
 ――まぐれが何度も続くわけはない!
 カセリナが再び猛襲する。ステリアの黒き波動をみなぎらせ、振り下ろされるイーヴァの十字剣。
 ――見える。この感じだ。僕が力を抜くと、機体が勝手に。
 意識を無にして、身を任せ、ただアルフェリオン・テュラヌスの動きを心の眼で追う。
 ――僕の意識が《鎖》になっている。この鎖を……。
 激しい怒りが、凶暴な何かが、ルキアンの精神を飲み込もうとする。自分の身体が自分のものでなくなるような、意識が激流に押し流されて遠く離れてゆくような感じがする。

 目の前からテュラヌスの姿が消えた。
 突然の電光さながらの動きに、カセリナは驚愕する。
 手にしていたはずの盾が宙を舞う光景。それが彼女の瞳に浮かんだ。
 激痛。そして絶叫。

 何かを握りつぶす嫌な感触が、ルキアンに伝わってきた。薄れゆく意識の中、ルキアンはカセリナの名を思わず口にした。テュラヌスの巨大なクローがイーヴァの左腕を掴み、いまにも砕き、引きちぎろうとする。当然、機体の《痛み》をカセリナは自分自身のそれとして受け止め、もがき苦しんでいるはずだ。
 ――カセリナ!
 彼女を傷付けることを、やはりルキアンは恐れていた。だが、それを止めようとしてもルキアンには抵抗できない。気がついたときには己の意識を保つことさえ難しくなっており、殺戮と破壊への凄まじい衝動が、彼の魂を塗りつぶそうとしている。

 巨体を振るわせ、牙をむき出しにしたテュラヌスが吠える。
 覚醒したテュラヌスを中心に、大地の途切れるところまで、瞬時に走る莫大な魔力の輪。兜の奥で、二つの目が、まさに炎を宿したかのように真っ赤に輝いた。

 解き放たれたテュラヌスは戦うための機械と化し、血に飢えた爪牙をイーヴァに突き立てる。いや、その動きはもはやアルマ・ヴィオのものではない。一匹の魔獣だ。カセリナの必死の反撃も、目覚めたテュラヌスの前には無力だった。イーヴァの動かなくなった左腕を、慈悲の欠片もない鉤爪が切り落とす。
 戦士の雄叫びか、それとも悲鳴か、カセリナはあらんばかりの声を張り上げる。地獄のような痛みで失神しそうになりながらも、彼女は、超人的な意志力をもって剣をテュラヌスの胸に突き立てた。

 ――そんな……。

 イーヴァのMTソードは確かに敵を仕留めた。テュラヌスの機体には、実体をもつ鋼の刀身が残され、深々と刺さっている。それにもかかわらず、テュラヌスは何事もなかったように動いているではないか。カセリナは、生まれて初めて真の恐怖におののき、イーヴァは剣を手放して後ずさりする。
 突き刺された剣をテュラヌスは悠然と引き抜いた。胸部に開いた大穴から、銀色の液状の何かが流れ出す。水銀にも似た液体金属は、たちまち穴を塞いで硬化した。テュラヌスの胸甲には何の傷跡も残っていない。
 死をも恐れぬ戦士のカセリナ。しかし彼女の本能が、抗い難い力でもって、逃げろと告げている。いくら気持ちでは戦おうとしても、機体が一歩も前に動かない。認めたくないが自分は怯えている。カセリナは闇に突き落とされたような気がした。
 戦意を失いつつある相手に対し、テュラヌスには何の容赦もなかった。いや、これはもう戦いではない。ただ、目の前にいる獲物を襲い、喰らおうとする魔物の振る舞いに等しい。
 次の瞬間、あの凛として気高いカセリナのものとは思えぬ、獣のごとき悲鳴がこぼれた。地面から突然に現れた槍のような何かが、イーヴァの機体を切り裂き、箇所によっては貫通さえしている。先端の尖った、鉱物の結晶を思わせる銀色の多面体の柱が、大地を突き破って何本も生えていた。イーヴァは剣山の上に落ちたような有様で、身動きができない。
 さらに信じ難いことが起こった。不意に銀色の柱が液状化したかと思うと、意志を持つ生き物同様にイーヴァの機体を伝って流れ、地面を這ってアルフェリオン・テュラヌスの方に動いていったのだ。魔の力を帯びた銀色の液体金属は、テュラヌスの腕を覆うように巻き付いたかと思うと、瞬時に硬化して今まで以上に巨大で強靱な鉤爪を形成する。獲物の動きを完全に止めたテュラヌスは、牙を剥いて今にも襲いかかろうとしている。

 ◇

「何だよ、あれは。アルフェリオンが……」
 頬を引きつらせ、震えの混じった声でヴェンデイルが告げる。急に独り言のようにつぶやき始めた彼の口調、ただならぬ様子に、クレドール艦橋のクルーたちは一斉にヴェンデイルの方を見た。
「ルキアン君は、無意識のうちにカセリナ姫への攻撃を緩めてしまうほどだったのに。一体、この豹変ぶり、何があったというんだ」
 艦の《目》として数多くの戦いを冷徹に見つめてきたヴェンデイル。しかし、練達の《鏡手》である彼が、状況をまともに報告することさえ忘れ、呆然と語り続ける。
「《暴走》? よく分からないけど、もう見ていられない。止めさせないと! 機体が損傷すれば、エクターも生身の身体のときと同じような痛みを感じるんだろ。あれじゃぁ、カセリナ姫は生きたまま野獣に喰われているのと同じだよ。いくら敵でも、それは……。いや、まさか」
 ヴェンデイルは何かに気づいたようだ。
 日頃は見られない深刻な表情で、クレヴィスが答える。いかなる危機にあっても穏やかさの残る彼の口調さえ、今は硬かった。
「えぇ。間違いなく、繰士が《逆同調》し、アルフェリオンの本性を解放してしまった結果です。止めるよう言っても、ルキアン君にはもう制御できない。いや、あの様子では彼自身の意識は無いでしょう」
 逆同調という言葉が彼の口から出た途端、何人かのクルーの表情が変わる。眼鏡の向こうでクレヴィスの瞳も厳しさを増す。
「妙ですね。機体との交感レベルが並外れて高いとはいえ、ルキアン君は逆同調というものを知らないはずです。仮に逆同調しようといくら試みたところで、まだ不慣れな彼には無理でしょうし」
 何人かの乗組員は不可解そうな顔をしている。アルマ・ヴイオのことにそれほど精通していない者たちなのだろうか。彼らに向かってクレヴィスは告げた。
「逆同調には、一種の生まれつきの素質も必要です。エクターとしていくら経験を積んでも、できない人には永久に不可能なのです。かくいう私も逆同調はできません。知っての通り、我々の周囲にいる多数のエクターを見渡しても、いつでも確実に逆同調ができる者は、カリオス・ティエントただ一人です。もっとも、通常のままでも彼は強いですから、わざわざ逆同調する必要など滅多にあり得ませんが」
 カルダイン艦長との相談に向かおうとするクレヴィス。最後に彼は、思い出したように付け加えた。
「ミルファーン王国に、ただ一人、逆同調して《暴走》する機体をも、通常の正同調の状態にある機体と同様に操ることのできるエクターがいます。伝説の《狂戦士(バーサーカー)》のような恐ろしい戦士です。彼女は、いかなるアルマ・ヴィオとの間でも極限に近い交感レベルを出せる力を持っているのですよ。その力は、あたかも《鏡》を思わせます。鏡というものは、どのような機体の姿も実物と同様に映し出しますからね」

  だから彼女は、こう呼ばれます。《鏡のシェフィーア》と。


【第49話に続く】



 ※2010年9月~2011年1月に、本ブログにて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第48話・中編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


4 光のパラディーヴァ



 ◇

 芽吹きの季節を終え、次第に濃くなり始めている森の緑。
 谷間を渡る風が、木々の葉を鳴らし、小枝を揺らして流れゆく。
 と、何の前ぶれもなく、風が渦を巻いた。
「リューヌ!」
 気流の中に霞のように輝く光。
 それは、おぼろげながらも人のような形を取った。
「気配が完全に消えた……」
 そよ風のようにささやく声が聞こえる。
 中性的な少年の声。それは風のパラディーヴァ、テュフォンのものだ。
「《封印》を無事に超える力がもう残ってないって、いま《外》に出たら死ぬのが分かっていたのに」
 テュフォンの悲しげな言葉が、森の奥へとこだましてゆく。
「あのとき博士を護れなかったことが、辛かったのは分かるけど、無茶だよ」

 ◇

「どうした、何があったんだ」
 グレイルは急に立ち止まると、誰もいない部屋で話し始めた。
 実際には、火のパラディーヴァのフラメアが一緒にいる。彼女が実体化していないため、グレイルが独りごとを言っているようにみえるのだが。
 ――あの馬鹿! リューヌ、いまアンタがいなくなったら。
 フラメアは落ち着きを若干失いながら、乱暴に叫んだ。彼女の戸惑いと痛々しい思いが、グレイルにもはっきりと伝わってくる。
「落ち着けよ相棒。俺にも分かるように説明……」
 ――うるさい、ヘボ魔道士!
 八つ当たりっぽくフラメアが言う。
 グレイルは頭をかきながら、対照的に呑気な口調でなだめている。濃い金色の髪には元々から癖が少しあるのだが、それに寝ぐせが加わったような乱雑な髪型だ。
「おおこわ。そんなに荒れるなって。でも《俺たち》にとって大事なことなんだろ。だから、俺も知りたい」
 急にグレイルの目が真剣味を帯びる。しばしの沈黙の後、ばつが悪そうにフラメアが答えた。
 ――ご、ごめん。その、今のはアタシが悪かったよ、マスター君。実は……。

 ◇

 窓もカーテンも閉め切った薄暗い部屋。
 妙に広い空間の片隅で、ランプの灯りのもと、イアラが本を読んでいる。窓辺に腰掛けながらも敢えて外に背を向けている彼女の姿勢は、この世界に対する彼女の向き合い方そのものを暗示しているようにもみえた。
 黒いヴェールを被って、猫背気味にうつむいているイアラ。彼女の背後、少し離れたところに長髪の青年が控えている。青いローブの上に輝く不思議な羽衣のようなものをまとう彼の出で立ちは、魔道士か精霊あたりを連想させる。ゆるやかに波打った髪は、ローブと同じく印象的な青い色。彼は人間の魔道士でも精霊でもなく、水のパラディーヴァ、アムニスだ。
 何も言わず、静かにイアラの様子を見守っていたアムニス。その表情がかすかに強張った。
 ――まさか、リューヌが。
 アムニスの心の揺らぎをイアラも感じ取る。最初は気づかないふりをしていた彼女だが、やがて、無愛想な口ぶりで言った。
「何かあった?」
 事の重大さにはイアラも気づいているらしい。アムニスは特に慌てる様子もなく、いつも通り冷静な様子で答える。
「心配するな。何があっても、君のことは俺が必ず護る」

 ◇

「旧世界の戦いの後、《あれ》の力によって形成された《摂理の封印》。さしずめ、彼女は神に封印された魔王とでもいうところか」
 石造りの暖炉の前、熟れた果実と乾いた土の匂いとが入り交じったような、この地方で造られる赤ワインの香りが漂う。濃いルビー色に光るグラスを手に、真っ赤なケープを羽織った女性が立っている。未来(とき)を読む者、《紅の魔女》アマリアだ。
「そして閉じ込められた魔王は、契約者の召喚に律儀に応じ、彼を助け続けたために、ついに力を使い果たした……」
 若干、焦点のぼんやりとした目つきで、アマリアは感慨深げにグラスの中を見つめる。
 彼女の傍らで老人の声がした。
「最も恐れていた事態になったわい。リューヌが闇の御子に対して《いにしえの契約》を果たし始めた後、まだ覚醒していない御子が《封印》を解くことはできない。そうすれば、《封印》のかかったまま召喚に応じ続けるリューヌは、じきに消滅することになる。このままでは、《あれ》の《御使い》たちの思い通りじゃ」
「いや、ご老体。最悪の結果については、それが危険であるからこそ、人は予め何らかの策を講じているものだ。だから、最悪の予想が実現しても、それが本当の意味で最悪の結果を招くとは限らない。最も怖いのは、私にしてみれば予想できない結果のことだ」
 そう言ってアマリアは、例の先読みの水晶玉に手を触れる。
「たしかにあの少年は、いずれ《自分自身の意思》によって、炎の翼をもつ終焉の騎士を呼び覚まし、《終末を告げる三つの門》を開く。それは私の占いの通り。だが、まだその時期ではない。万が一、いま《封印》を闇の御子が解いてしまっていたら、むしろその方が危険だったろう。この世界は終わるぞ。今の彼の力では、鎖から解き放たれた《アルファ・アポリオン》を従わせることなどできない」
「確かに。その結果を避けることの方が、我々には重要じゃったの」
 老賢人のごとき姿をした地のパラディーヴァ、フォリオムは、彼女の言葉に同意する。
「さて、事前に講じておいた策とやらを進める時じゃ、我が主アマリア。優雅にグラスなど傾けている場合ではあるまい?」
「分かっている。だが、これは我らが闇の御子の目覚めを祝うささやかな祝杯なのだから、せめてもう少し楽しませてくれないか。ナッソス家の仕組んだ罠は、偶然という必然のもとで、闇の御子が《ダアスの眼》と《紋章》の力を体得するための《供物》となった。そのうえで、闇のパラディーヴァは、最後の力によって御子を《黒の宝珠》の中に送った。あとは彼女の《アストラル・コード》を《回収》し、機が熟す頃合いを見て、ルキアン少年をここに連れてくれば問題なかろう」
 アマリアは椅子に腰掛け、グラスを軽く揺らしながら不敵に言った。
「結果的に予想通りだ。《御使い》たちの好きにさせるつもりなどない。たとえ、まだルキアン少年には何の制御もできないにせよ、彼の中に《紋章回路(クライス)》が構築されたことにより、今ならば《黒の宝珠》の真の力を目覚めさせることができる。旧世界風に言えば、システムを再起動させるとでもいえば良かったか」

 ◇

「リューヌ……。我が姉妹、もう一人の私よ。そのような道を選びましたか」
 抗い難い魔法の楽器さながらに、美しく歌うような声で、一人の女が言った。
 険しい岩山に取り残された、遺跡を思わせる建造物。大理石に似た材質の古びた柱や土台には、それらが造られてからどれだけ経ったのか想像もできないほどの歳月が刻まれている。
 遺跡の奥の方に、かつて同様の石造りの大屋根を支えていたのであろう、1本の石柱があった。平らになった柱の頭部にあたるところに、不思議な女性が座っている。遠目に見ているせいもあるのだろうか、彼女の身体の輪郭が、何となくぼやけているようにも思われた。
「《人の子》が自身の足で立ち、自らの意志で歴史を紡ぐことを助けても、それは無意味な結末を生むだけでしかないのだと、どうしてあなたは気づかなかったのですか」
 腰まで豊かに伸びた、白あるいは限りなく白に近い銀色の髪。同じく純白のローブをまとった彼女の姿、そして顔つきは、リューヌによく似ていた。いや、リューヌとは表情と雰囲気が大きく異なっているにしても、顔や体のつくり自体は、むしろ瓜二つとさえいってよい。
「人間という不完全な生き物は、この世界という揺りかごの中で、《あの存在》の因果律によってあるべき未来へと《導かれ》、望ましい《高次の姿へと昇華》すべきなのです。それにもかかわらず、リューヌ……。愚かな人間たちに、救いのない歴史を自らの手で繰り返させるために手を貸し、あなたは自分自身まで犠牲にしてしまった」
 彼女は、その背にある翼を大きく広げた。
 真白き翼が羽ばたいたとき、彼女の体がまばゆく輝き、周囲に光が満ちた。
 見渡す限りの大地と天空とを世界の裏で覆い尽くしているかのような、想像を絶する魔力を身にまとい、見た者全てが無意識のうちに魂までも支配されるであろう、麗しくも神々しいその姿は――天使、いや、女神を想起させずにはいまい。

  人の子たちの《今》を護ることに価値などありません。
  彼らがどれだけ地を這い、理想に手を伸ばし続けても、
  その先に自らの足で《救い》へと辿り着く日は、
  今のままでは永遠に訪れはしないのだから。

  人の子には《導きの手》が必要なのです。
  差し伸べられた手を拒む、《対なる存在》の側の御使いに、
  そう、人の子にして人の子にあらざる《御子》に、
  なぜ私たちは力を貸さねばならないのですか。

  わが光と対を為す闇の娘、哀れなリューヌよ……。


5 旧世界の超遺産…黒の宝珠、発動



 ◇

 ――リューヌが死んじゃったよ……。

 膝を抱え、うずくまり、暗闇の中に浮いているルキアン。

  -《紋章回路(クライス)》の存在を検知しました。
  -システムは自動的に復帰中です。

 不意に一点の光が浮かんだかと思うと、それを皮切りに次々と小さな明かりが灯った。無数の光の粒が明滅する空間は、銀河の世界を思わせる。この奇妙な空間にルキアンがゆらゆらと浮遊していた。水の中を漂う魚のように。

  -回路の構造をスキャンしています・・・。
  -《リュシオン・エインザール》の《紋章回路》と照合中。
  -前回起動時の設定により、許容範囲の誤差とみなして承認します。

 淡い光を浴びて鈍く光るのは、銀色の髪。同じく、周囲の光を反射して浮かび上がって見えるのは、眼鏡のレンズ。曇ったガラスの向こうを伝って涙が流れた。

 ――僕が何もできないから。僕のせいで。

 ルキアンの頭の上に白い光の輪が形成される。ありふれた言い方だが、それを見た者は天使の輪を思い起こすに違いない。その《天使のリング》が輝きを強めてゆくのに応じ、彼の身体は、頭上から見えない糸で引かれるように起き上がっていった。

  -システムとエクターとのリンクを構築しています。
  -エクターの《紋章回路》が起動していません。
  -可能な領域を複写し、仮想回路として設定。
  -システムとのリンクを再構築しますか?
  -・・・・・・。再構築を開始します。
  -仮想回路の固有情報にアクセスしています。
  -リードエラー。
  -強制解放。

 ルキアンは小さなうめき声を上げた。そして、身体に電流が走ったかのように身を震わせると、突然に目を大きく見開いた。

  -衛星軌道上のマゴス1、マゴス2、マゴス3の座標が測定できません。
  -データリンクに失敗。
  -《アルティマ・トリゴン・システム》が起動できません。
  -固有モードで再起動中。
  -パラディーヴァが存在しません。
  -基本システムにパスを変更します。

 ◇

 勝利を確信していたはずのカセリナの目に、信じ難い出来事が映っていた。前方に横たわる、大破したアルフェリオンの機体。その残骸の中から例の黒い珠がひとりでに飛び出し、宙に浮き上がったのだ。
 狼狽するカセリナの視線の先、珠は空中に静止した。
 ――この黒い珠の中に、ルキアン・ディ・シーマーが吸い込まれて……。
 いつまでも戸惑い続けるカセリナではない。アルフェリオンに今度こそ引導を渡すため、それ以上に、得体の知れない胸騒ぎに危機感を覚え、黒い珠を目掛けてイーヴァが踏み込んだ。
 黒の宝珠の正面をMTレイピアが確実にとらえた――そのはずだった。予想外の手応えに、カセリナは剣先を見つめる。光の刃を目で辿っていくと、先端が何かに接している。宝珠の手前に魔法陣のようなものが形成され、MTレイピアの必殺の突きを受け止めていたのだ。剣先に力を込め、機体全体の重さを掛けて押し込もうとするカセリナ。だが、空中に描かれた実体なき映像、あるいは光の記号の羅列にすぎない魔法陣は、びくともしない。

「僕が甘かったんだ。僕が迷うから、曖昧な気持ちでいるから、リューヌは僕をかばって死んでしまった。僕が迷わずに戦っていたら、リューヌは」
 またたく星々の海。おそらくここは、黒の宝珠の中、宝珠が創り出した亜空間のような場所なのだろうか。宙に立ちすくんだまま、ルキアンは生気のない顔でつぶやく。
「シャノンのときだってそうだ。僕が迷わずに撃っていたら、シャノンだって、おばさんだって、トビーだって、助かっていたかもしれない。なのに僕は!!」
 ルキアンの叫びと同時に、黒の宝珠に変化が起こった。宝珠の表面が薄赤く光った後、前方に描かれた魔法陣が閃光を放つ。一瞬のことではあったが、莫大な魔法力が解放されたのが分かった。
 カセリナは、機体の表面を通じて、肌が焼け付くような感触を覚えた。その直後、爆風と共にイーヴァは背後に吹き飛ばされる。
 ――何なのよ、この機体は、一体。
 素速く姿勢を立て直したイーヴァが炎を放った。いや、炎はそれ自体に意志があるかのごとく、生き物のような動きで黒の宝珠めがけて突き進む。
 ――《炎のネビュラ》よ、あの黒い珠を焼き尽くせ!
 カセリナの言葉に応じ、ネビュラすなわち人工精霊は、炎の蛇に姿を変えて黒の宝珠に絡みつこうとする。だが新たな魔法陣が現れ、炎の蛇の行く手を遮った。よく見ると、この魔法陣は、ルキアンがソルミナの幻の世界で発動させていた《闇の紋章》と同じ形をしている。

  -最適化のシミュレーションを行いますか?
  -《アポカリュプシス》を使用する権限がありません。

  -《フィニウス》
  -《ゼフィロス》
  -《テュラヌス》
  -《アダマス》
  -《エリュシス》

  -《テュラヌス・モード》を推奨。

  -《カラミティ・テュラヌス》で試行しています。
  -現在の設定では《カラミティ・フォーム》は使用できません。
  -《ノーマル・フォーム》で《テュラヌス・モード》を最適化中。
  -《第五元素誘導》完了。
  -《マキーナ・パルティクス》、増殖レベルBで活性化完了、注入。
  -機体の再生を開始します。

  -《支配結界》の生成データ、仮想回路から解読、蓄積完了。
  -支配結界の構造をシミュレートし、疑似結界の生成を準備。
  -《闇の繭》展開。

 ◇

 カセリナは、またもや想定外の光景を目にすることになった。
 たった今、黒の宝珠を中心に、前方に横たわる大破したアルフェリオンの周囲を、瞬時に何かが覆い尽くしたのだ。
 ――結界? 黒い……繭。
 彼女がそう思ったのも無理はない。アルフェリオンを取り巻いたのは、まさに昆虫の繭を、とりわけ蛾のそれを思わせる何かだった。嫌な予感がした。それでもカセリナは攻撃を緩めることなくイーヴァのMTレイピアで突きかかったが、事前の予感通り、イーヴァの剣は黒い繭には通用しない。
 歯が立たないというよりも、MTの光の剣は黒い繭をあっさり通り抜けたのだ。目に見えているのに、繭は空気のようで実体がない。しかも繭の向こうには黒の宝珠やアルフェリオンの残骸があるはずなのだが、何の手応えもなく、イーヴァの剣は黒い繭をすり抜けるだけだった。
 さらに二、三度、無駄と分かっていながらカセリナが突きを放ったとき。
 繭の中から低いうなり声がした。アルフェリオン・ノヴィーアの竜のごとき声にも似ていたが、それよりもいくらか、獅子や虎のような野獣に近い響きだった。
 頭頂から爪先まで、背筋を貫き、カセリナの体に寒気が走る。結界の向こうにいる敵の姿は見えないが、それは極めて危険なものだと何かが告げている。

「戦いは嫌だよ。誰かを傷付けたときの、あのどうしようもない気持ちは、思い出すだけでも嫌だ。だけど……やめてって言っても、話せば分かるって伝えても、相手にその気がなければ、こちらで先に誰かが犠牲になってしまうだけだ」
 虚ろな目をしてルキアンがつぶやく。彼は、星空のような空間に、両手を広げて浮かんでいる。頭上には例の光の輪。さらに、旧世界の古典語で書かれた呪文が輝く文字列をなし、輪になってルキアンを囲み、ゆっくり回転を始める。同様の呪文の輪がひとつ、またひとつと、数を増し、それぞれ異なる角度と速さでルキアンを中心に回っている。
「それから戦っても遅いんだ。僕はいつもそうだ。自分の優柔不断さのせいで犠牲を出し、犠牲に後悔してから、泣きながらやっと戦う。それでたとえ勝ったとしても、失ったものは取り戻せないんだ。それじゃダメなんだよ」
 ときおり涙に声を詰まらせながらも、抑揚のない無感情な口調でルキアンは語り続ける。
「駄目なんだよ、それじゃ。僕は、一番大切なものを……大切なリューヌを失って、初めて分かった。この世には、言葉では分かり合おうとしない人間がいる。手を差し伸べても、切り付けてくる人間がいる。そういう人たちにいくら語りかけても、一方的にこちらの血が流れてしまうだけなんだよ」
 ルキアンの目に狂気の光がはっきりと浮かんだ。
「どうしてだろう。なぜ話を聞かずに争おうとするの。ねぇ、どうしてなのかな。僕が弱いとか、僕が自分からは手を出さないとか、そう分かってるから? でも、もし相手が僕らじゃなくて帝国軍だったら、びくびくしながら話し合いに応じるんでしょ。相手が自分より強いか弱いかだけで物事を判断して、態度を変えるような……そういう人がいるから、言葉ではなく力に頼ろうとする人間も減らないんだ」
 次第に、意味不明な微笑が彼の口元に浮かぶ。明らかに正常ではなく、理性的な思考はおそらく一時的に崩壊している。ルキアンの瞳もいつもの彼自身のものとは思えず、何か別の力に支配されてしまっているようにみえた。
「僕は、いつも力ずくで相手を従わせようとする帝国軍のような人たちも、逆に、力ずくでこられない限りは相手に譲りもしないあなた方のような人たちも、どちらも軽蔑すべき人間だと思う」

 黒い繭の表面にひびが入り、中から光が幾筋も外に向かって突き抜けた。
 同時に、魂まで恐怖に凍り付かせるような咆吼が戦場を駆けめぐる。

「そういう人たちがいるから、この世界から戦争や暴力が無くならないんだ。そういう人たちがいる限り、優しい人が優しいままで笑っていられる世界は夢物語のままなんだ……」

 繭が消え去り、その向こうに現れた影。
 兜の奥で赤く輝く瞳は、燃え盛る炎の色。
 牡牛のごとき2本の角。
 頭頂には鶏冠のような角。それが首から背中に向かって幾重にも続いている。
 元々あった翼は無くなったが、その代わりに刺々しく分厚い甲冑に身を包む。
 肩、肘、手首、膝、足首と、あちこちに鋭い刃物同様の突起が生えている。
 大地を踏みしめる逞しい脚の向こうに、揺れる細長い三本の尾。
 低い声でうなる、銀色の野獣のごときアルフェリオン《テュラヌス》。

 イーヴァの魔法眼に映っていた銀の獣騎士の姿が、瞬時に消えた。
 ――速い。あれだけの重装甲で、この俊敏さ?
 そう言っている間にも、相手の恐るべきパワーに押し潰されそうになりながら、カセリナはかろうじて最初の一撃を受け止めた。輝く光で形成された巨大な鉤爪・MTクローを展開したテュラヌスの腕が、イーヴァの頭部まで間近に迫る。それを片手で必死に抑え、イーヴァはもう一方の手に握ったMTレイピアでテュラヌスを刺そうとした。
 ――くたばれ、化け物!
 だがテュラヌスは、高速で突き出されたMTレイピアの刃を別の手で掴んだ。MTクローとMTレイピアが火花を散らして干渉し合う。両者とも手がふさがり、攻撃はできない。ここでいったん飛び退いて、すかさず敵の懐に突きを放てば勝てるとカセリナは読んだ。
 しかし、そう思ったとき、彼女は重々しい衝撃と痛みを腹部に感じ、声を飲み込むような悲鳴を上げた。
 テュラヌスの上体を覆う巨大な甲冑。その間から一本の腕が伸びていた。左右の腕はイーヴァに塞がれているはずだが、それとは別の3本目、新たな腕だ。
 ――卑怯な……。
 隠されていた腕はMTサーベルを握り、イーヴァの無防備な腹部に突き立てている。それでもさすがに旧世界の機体だけあって、強靱な魔法合金の複合装甲と、目に見えぬ結界を張っているおかげで致命的な損傷にはなっていないようだが。幸い、甲冑が特に厚い箇所でもあった。
 ――お、おのれ、ルキアン・ディ・シーマー。
 これまでの戦いで、一度も敵に機体を破損させられた経験のない強者のカセリナは、いま、機体の損傷がエクター本人にも生身の傷同様の痛みとなって伝わるということを、初めてその身で体感した。苦痛にあえぎながらも、カセリナは背後に飛び退いた。
 が、今度は頭部に激しい衝撃を感じ、一瞬、目の前が真っ暗になる。
 ――つかまった。イーヴァと互角の速さ?
 右手でイーヴァの頭部を鷲づかみにすると、テュラヌスは機体を軽々と片手で持ち上げた。その感覚がカセリナ本人にも現実的な苦痛となって伝わる。
 ――放せ! い、痛い。このままでは……。


【続く】



 ※2010年9月~2011年1月に、本ブログにて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第48話・前編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


 荒れ狂う炎を宿した戦慄の戦士。
 金剛の爪は、立ちはだかるものすべてを引き裂き、
 血に飢えた牙は敵の肉を喰らう。
 憤怒の面は顕現し、天の騎士は慈悲なき鬼神と化す。
 その無双の力の前に、抗う者は己の運命を嘆くであろう。

◇ 第48話 ◇


1 再会、歪められた運命…



 光の一切届かぬ闇の世界を突き抜け、まばゆい日光と空色の視界が飛び込んできた。風に舞う空気感と、《身体》にかかる重力と共に。
 ――戻った? いけない、落ちる!!
 ルキアンは機体の姿勢を反射的に立て直す。6枚の翼を陽の光に輝かせ、アルフェリオン・ノヴィーアは、白銀色の甲冑に覆われた巨体を上空に浮かべている。
 アルフェリオンの魔法眼を通じて四方八方に視線を走らせ、ルキアンは周囲の状況を慌てて確認する。まず、青空と流れる雲が見えた。空は空だ。これだけでは、ここが現実の世界なのか、いまだ夢幻の世界なのかは分からない。
 ――幸い、このへんに敵はいないようだけど……。あれは。
 緩やかな起伏のある緑の大地、草の大海と、そこにぽつんと取り残された丘がひとつ。見覚えのある光景が眼下に広がった。
 ――本当に現実かな。確かに、ナッソス城が見える。
 白亜の断崖のごとき城の外郭が、丘の中腹に連なる。その堅固な防壁の向こうから、ひときわ高い天守をはじめ、オレンジ色の鮮やかな屋根をもつ建物が幾つも頭を除かせている。
 ――そうか。多分、僕は、あの赤い結界に飛び込んだときの位置に戻ったんだ。
 一瞬、安堵感を味わいかけたルキアンだったが、彼は慌てて《念信》を飛ばす。
 ――メイ、バーン、聞こえたら返事して! クレドール……セシエルさん、聞こえますか。な、何だこれ。訳が分からない。
 無数の念信が戦場に飛び交っている。念信に慣れていないルキアンにとっては、頭の中をかき回されているように不快に感じられた。
 他方で地上を見ると、凍っていた時間が一気に解けたような有様だ。ほんの何秒か前には異様に静まりかえっていた戦場に、今や無数の砲撃が飛び交い、両軍の機体がそこかしこでうごめき、ぶつかり合っている。すさまじい乱戦、蜂の巣を突いたような騒ぎだ。
 それはそうだろう。ナッソス家の側から見れば、敵軍は生還不能な時空の彼方に飛ばされたも同然だったはずなのに、なぜかすべて戦場に舞い戻ってきている。ギルドの側からすると、自分たちは突然に幻の世界に取り込まれ、何が起こったのか分からないまま、いつの間にか元の戦場に立っているのだから。
 ――僕らが幻の世界に取り込まれてから今まで、どのくらい時間が経ったんだろう。いや、こっちの世界では、ほとんど時間は経っていないのか。
 敵方の攻撃に注意を払いながら、アルフェリオンはさらに高度を下げる。

 ◇

「そうですか。《柱》を破壊しましたか」
 クレヴィスは、おもむろに二、三度うなずいた。
「さすがバーンです。《魔法》が解けた瞬間、状況も何も分からないのに、ほぼ反射的に剣を振るうとは」
「一瞬のチャンス、戦士の本能ってか。時には何も考えないヤツの方が強いね……」
 刻々と変化する状況をクルーたちに報告しながら、ヴェンデイルが苦笑する。短い冗談を飛ばしたかと思うと、すぐにヴェンデイルの口元に緊迫感が戻った。
「でもナッソス家も甘くない。たかをくくって陣形の整備を始めていた敵軍は、またすぐに攻撃を開始してきたよ!」
 茶色のクロークの裾を翻し、クレヴィスは間髪入れずに命じた。
「セシエル、ラプサーやアクスの念信士と協力して、各隊に現状を速やかに伝えてください。我々の前衛は今の今まで狐につままれていたようなもの。戸惑っている間に、一気に各個撃破されてしまう恐れがあります」

 ルキアンの考えた通り、現実世界ではほとんど時間は過ぎていなかった。《盾なるソルミナ》の生み出す幻の中で広大な《迷宮》をさまよった彼の感覚でいえば、すでに半日近く経っているのではないかと思われたのだが。
 一方、クレドールの艦橋にいた者たちの実感としては、ナッソス城を不意に赤い結界が取り囲んだかと思えば、すぐにまた結界が消えてしまったという不可解な出来事だった。その短い時間に、ソルミナの支配する世界でいかに恐るべきことが起こっていたのかは、彼らには知る由もない。

 ◇

 現実世界へと生還したにもかかわらず、そのことをすぐには理解できないほど、レーイの意識は混濁していた。彼の五感もはっきりとしない。周囲で激しい乱戦模様になっていることを漠然と認識し始めたようだ。
 いつものレーイなら直ちに立ち上がって粛々と戦いを続けるのだろうが、今回はあまりに機体の損傷が大きい。それは、アルマ・ヴィオと一体化している彼自身にも《痛み》となってはね返り、同時に彼の精神力も激しく消耗させているのだ。彼の操るカヴァリアンは、随所に深い傷を負っているばかりか、膝の関節を破壊されて歩くこともできず、右腕さえも失っている。
 ――カセリナ、姫……。
 カヴァリアンを再起不能なまでに撃破したカセリナ。《ステリア》の覚醒によって彼女の狂気を呼び覚ましたイーヴァの姿は、目の前にはない。最後の賭けとして、レーイが己の機体と共にイーヴァを封じ込めたMTシールドの結界も、今は完全に消えている。
 ――俺は、ここで、倒れるわけには。
 気を失いそうになりながらも、まだ戦う意志を失わないレーイ。
 カヴァリアンは、なおも左手でMTサーベルを握って放さない。だが、その刃を形成する光は次第に弱くなり、すうっと消えてしまった。
 ――まだ、俺は。
 両脚を地面に投げ出しながらも、かろうじて起きていたカヴァリアンの上体が、ついに前のめりに倒れて動かなくなる。

 ――ここまでか。ヴィラルド、エレノア……。

 薄れゆく意識の向こう、かつてレーイに剣を教えたヴィラルドの姿があった。

 ――最後まで諦めるな。

 続いてエレノアの残した言葉が反響する。

 ――お前は《やさしさ》と《むなしさ》を知る者だから。

 二人はレーイに向かって手を差し出す。
 彼も最後の気力を振り絞り、心の中で手を伸ばした。手と手がふれあったとき、不意に遠くの方から違う声が届いた。
 ――聞こえますか、大丈夫ですか。
 レーイからの答えはすぐには無かった。声の主は続けて呼びかける。
 ――ヴァルハートさん、しっかりしてください! 僕です、クレドールの、ルキアン・ディ・シーマーです!!
 ――クレドールの……。ディ・シーマー君……。
 やっと気づいたレーイは、ルキアンの名を口にした後、微かに元気を取り戻したようにみえた。
 ――そうか、君が、来てくれたのか。
 ――地上の状況を確かめていたら、カヴァリアンを見つけました。良かった。
 地上に舞い降りたアルフェリオンが、カヴァリアンを慎重に抱え起こす。機体の様子をみたルキアンは、思わずつぶやく。
 ――こんなに大破しても、乗り手に意識があるなんて。すごい気力。
 ――いや。無様なところを、見せて、しまったな。
 レーイからの念信が徐々に明確になってくるのを感じ取り、ルキアンは胸をなで下ろす。

 言い方を変えれば、油断したのだ。戦いの場で。

 突然、ルキアンは短い叫び声をあげた。あまりの苦痛のために続く声が出ない。
 アルフェリオンの右胸付近、絶大な防御力を誇る白銀の魔法装甲を貫き、青白い光が突き刺さっていた。
 風を切って飛んできた投げ槍、MTジャベリンを放った者は……。

 殺気に満ちたオーラをまとい、悠然と近づくひとつの影。

 女の姿をもったアルマ・ヴィオ。
 その身体のすべては、天界の匠の手になる女神像のような計算し尽くされたラインで構成されている。頭部から首筋・肩口へと流れる、豊かな髪を思わせる造形と、腰部から大腿部にかけての箇所を優美な曲線を描いて護るスカート。
 華奢で可憐な外見の中、仮面を被った不気味な顔つきが際立って異様だった。

 ――白銀のアルマ・ヴィオ。ついに見つけた。パリスの仇。

 痛みに声を失っていたルキアンも、その名を口にせざるを得なかった。

 ――カセリナ。


2 砕け散る、こころ



 ――何をしている、落ち着いて敵を見るんだ!!
 レーイは気力を振り絞って叫んだ。本当はルキアンよりもレーイの方が、半死半生の状態なのだが。擬似的な《苦痛》ではあれ、大破した機体の状態をそのまま自身の体で受け止めながら、それでもレーイは超人的な精神力で呼びかけ続けた。
 ――カセリナ姫は《敵》だ。戸惑わず、戦わないと、君が殺されるぞ!
 ――どうしてなんだ。なぜ君が……。カセリナ。ど、どうして、アルフェリオンの装甲が、こんなにも簡単に。
 肝心のルキアンは目の前の現実を受け入れられず、真っ白な意識の中で混迷を深めてゆく。これは悪い夢ではないか。いや、今の自分が、まだ実は《盾なるソルミナ》の幻の世界に取り込まれたままではないのか。ありもしないことを思い、ルキアンは半ば逃避を始めようとした。
 ――投げ槍1本に、紙みたいに貫かれるなんて。そんな、そんな、有り得ない。
 しかし、現にアルフェリオン・ノヴィーアの胸甲を貫いた光の槍は、繰士のルキアンにも激痛を与えている。この耐え難い苦痛は、夢ではなく、紛れもなく本物だ。ルキアンがなまじ戦いを経験し、白銀の甲冑の鉄壁ぶりを実感してきたことが、かえって災いとなった。機体の性能に頼りすぎるなと、ミトーニアでシェフィーアに言われた矢先なのだが。
 ――このままでは二人ともやられる。
 レーイ自身の乗る《カヴァリアン》は、両脚を損傷してもはや立ち上がることすらできない。彼は焦燥感を募らせ、頼みのルキアンを落ち着かせようと念信を送る。だが、カヴァリアンの機体に肩を貸しているアルフェリオンの方は、動揺するルキアンの心境を反映し、ただ呆然と立ちすくんだままだ。
 ――ど、どうしよう。どうしよう! うわぁぁ。
 レーイの渾身の呼びかけにもかかわらず、ますます混乱する一方のルキアン。

 ――無様ね。

 これまで黙っていたカセリナから、ルキアンとレーイに念信が届いた。華奢な機体からは想像もできないほどの威圧感を放ち、頭部の《髪》を微かに鳴らしながら《イーヴァ》が迫る。
 ――本当に無様だわ。でも、あなたなんかに、あなたなんかに……。
 もしこれが生の唇から発せられた言葉であったなら、カセリナの声が怒りに震えているのが分かっただろう。高圧的な物言いがルキアンに突き刺さる。
 ――あなたなんかに、パリスが倒されるなんて。どんな卑怯な手を使ったの。ルキアン・ディ・シーマー。まさか、白銀のアルマ・ヴィオの乗り手が、こんな人だったなんて。
 ――ぼ、僕は、僕は。カ、カセリナ、これは、その……。
 思考が混乱して何も言えないルキアンに、カセリナが追い打ちを掛ける。
 ――よして。あなたなんかに名前で呼ばれる筋合いなんて無い。
 彼女の冷たい言葉の背後に、ルキアンに対する露骨な嫌悪感があることは、念信からありありと感じられる。
 ――それに、何。念信もろくに扱えないなんて。気持ちを垂れ流しにしないでくれるかしら。そんなふうに私のことをしつこく妄想するのはやめて。
 もはや弁解するどころか、ルキアンは返事さえ返せない。カセリナの次の一言が、ルキアンをどん底に叩き落とした。

 ――はっきり言って、気持ち悪いわ。

 ◇

  気持ち悪いわ。
  気持ち悪いわ。気持ち悪いわ。
  気持ち悪いわ。気持ち悪いわ。気持ち悪いわ。
  キモチワルイ。
  アナタナンテ キエレバイイノニ。

 暗闇に投げ出され、奈落の底へと落ちてゆくルキアンのまわりを、カセリナの言葉が無数に取り巻き、ささやき、叫び、かけめぐる。

 ――そうなんだ。僕なんて……。
 ――あはは。僕なんて。

  ルキアンの中で何かが壊れた。

 ――僕なんて、やっぱり居ても仕方がないんだ。要らない人間なんだ。

 魂を引き裂かれたような叫び。
 砕け散った、歪んだガラスの破片。
 そのひとつひとつに、少年の眼差しが無数に浮かび上がる。
 くらやみの万華鏡。

 ――だけど何で僕だけ……。いつも、そうなるの。
 宙空を漂い、ときおり薄闇の中で光る破片に浮かぶ、幾百、幾千の陰鬱な目つき。
 ――ねぇ、僕が何をしたの?
 ――答えてよ。僕は悪くないでしょ。ねぇ、そうでしょ?
 ルキアンの声のトーンは次第に高くなり、独白の調子も狂気じみてきた。

 ――これは?
 レーイは異変を感じ取った。アルフェリオンの機体が不意に動いたのだ。銀色の指が震え、いや、機体全体が微かに震えている。
 同時にカセリナも得体の知れない寒気を覚えた。
 ――な、何よ。何を意味の分からないことを。
 ルキアンの心の声は、相変わらず念信を通じて彼女の方に漏れ続けている。悶々と自分を卑下したかと思うと、今度は恨み言を口走るルキアンの異様さに対し、カセリナは次第に恐怖さえ感じ始めた。

 ◆

 血に染まった牙のイメージ。
 突如、それはルキアンの脳裏に閃光のごとく浮かんで消えた。
 闇を切り裂き、紅色の傷跡を残す鉤爪。
 そして再び、暗がりの中で光る牙。

 ◆

 カセリナが一気に踏み込んだのは、そのときだった。

 ――どうして……。

 泣きながら、我を忘れてつぶやくルキアン。
 いま、彼の視界からイーヴァの姿が消え――いや、消える間もなく、目の前にイーヴァの姿があったという方が正しい。そこで勝負は決まっていた。
 断末魔の苦しみか、凄まじい咆吼が周囲に轟く。一瞬、戦場のすべてを凍り付かせたその響きは、紛れもなく竜の叫びだ。もしそれを実際に聞いたことのある人間がいればの話だが。
 翼を広げた竜の騎士、白銀のアルマ・ヴィオの懐に、ひと回り小柄な戦乙女イーヴァの姿があった。アルフェリオンの胸とイーヴァの拳が重なっていた。その手に握られたMTレイピアは、アルフェリオンの中心を確実に貫いている。二体のアルマ・ヴイオはそのまま動じず、太陽の光を浴びてシルエットとなって見えた。あたかも彫像のように。
 ――駄目だ。直撃だ、《ケーラ》への。
 レーイは呆然とつぶやく。最後の希望を打ち砕かれ、ついに彼自らもそこで意識を失ってしまった。乗り手であるエクター自身が眠る《ケーラ》は、いわばアルマ・ヴィオのコックピットに相当する。これを破壊されれば、エクターは命を失い、アルマ・ヴィオはもはや魂のない《人形》も同然となる。
 さらに一度、長く弱々しい声で鳴いた後、アルフェリオン・ノヴィーアの機体から力が失われ、その巨大な体躯が、目の前のイーヴァに覆い被さるようにして崩れ落ちる。
 ――パリス、仇は討ったわ。
 心を微塵も動揺させることなく、カセリナは淡々としていた。

 ――こんな敵に倒されて、さぞ無念だったでしょう。


3 さよなら、リューヌ



「ぼ、僕は……」
 ルキアンは恐る恐る目を開いた。疲れて、重たいまぶたの感覚。目が霞み、狭くなった視界。彼の精神――あるいは魂は――アルフェリオン・ノヴィーアとの融合を解き、元の肉体へと戻っている。身体そのものには何の傷も痛みも無かった。
「機体の外? ケーラが壊される前に、何かの力で転移……したのか。まさか」
 浮遊感。ぼんやりとした意識の中で、自らの足では立っていないことをルキアンは自覚する。代わりに彼を優しく抱きかかえている者がいた。
「リューヌなんだね。あり、が、とう」
 ルキアンの声に、黒き翼の守護天使は静かにうなずく。だが次の瞬間、ルキアンの表情が変わった。
「いや、こんなことをして大丈夫なの? 君は力を使い過ぎて、ミトーニア以来、もう僕と話をすることさえできなかったのに」
 長い黒髪を風になびかせながら、彼女は翼を広げ、アルフェリオンの機体の上に浮かんでいる。漆黒の長衣をまとった闇のパラディーヴァの姿は、ある種の荘重さをも漂わせている。

 アルフェリオンにとどめの一撃を与えたとき、カセリナは、嘔吐が込み上げそうなほどの息苦しさを覚えた。何の前触れもなく、冷たい妖気が周囲に充満し、イーヴァを取り巻く大気が水のようによどんで重く感じられたのである。
 ――何なの。あれは……。
 付近一帯を取り巻く、肌を刺すような魔力を警戒しつつも、カセリナは信じ難い光景に息を呑んだ。
 ――黒い羽根の、天使?
 一瞬、戸惑ったカセリナだったが、彼女は言いようのない危険を感じて咄嗟に動いた。その意志に反応し、イーヴァはアルフェリオンの機体からMTレイピアを引き抜くと再び攻撃を加え、目にも止まらぬ速さで何度も刃を振るった。
 最初の一撃で受けた損傷がさらに広がり、アルフェリオンの腹部に大穴が開く。そこから亀裂が四方に走り、白銀の魔法装甲がひび割れ、機体は真ん中から折れるように背後へと倒れた。
 腹部の装甲の裂け目の奥、内部の骨格や肉の向こうにひとつの《黒い珠》が見えた。妖しいぬめりを帯びた宝珠から、菌糸を思わせる無数の繊維状のものが周囲に伸び、伝達系の組織や動力筋に絡みついている。
 普通のアルマ・ヴィオの《体内》に、こんな奇怪なものは存在しない。すでに完全に機能を停止した敵を目の前に、カセリナは無意識に一歩退いてしまった。
 ――こんなアルマ・ヴィオは無い。これは……。

 アルフェリオンが地面に倒れたとき、その機体の中心にイーヴァが開けた大穴から、無数の破片が周囲に飛び散った。それらを防ぐため、アルフェリオンの上に浮かんでいたリューヌは球状の光の壁で自らを包む。彼女自身には必要のない防壁だが、ルキアンを守るために。両手にルキアンを抱くリューヌの姿は、幼子を連れた母親の姿を連想させた。
「私がいる限り、傷ひとつ付けさせはしない」
「そんな、また僕のために力を……」
 リューヌの魔力が急激に弱まるのをルキアンは感じ取っていた。
「もう止めて! リューヌ、このままじゃ、君は」
「私は《古の契約》に従い、あなたの剣となるよう定められていた者。何があっても、あなたを、主(マスター)を護るのが私の存在のすべて」
 これまで一切の感情の光を持たなかった彼女の瞳に、小さな光が灯った。
「ここまで、よく頑張りましたね」
 あたたかい響き。
 彼女の声は、冷厳なパラディーヴァのものから、妙に人間臭いそれへと変わった。
「あの果てなき幻の世界の中、あなたはたった独りで最後まで戦った。あのとき、《御子》の力の本質をつかんだはずです」
 リューヌの力がますます小さくなってゆく。ルキアンは思わず叫んだ。
「嫌だ! リューヌ、消えないで!! 君がいないと、僕は……。リューヌ!」
 ルキアンを諭すかのように、彼女は穏やかに首を振った。
「この世界に私が存在し得るための力は、もうほとんど残っていません。現在の状態で何度も《封印》を超えて実体化すれば、じきにこうなるのは最初から分かっていました。でも、悲しまないでください。我が主よ、あなたの涙を見たくないから、私は喜んで自らを犠牲にできるのです」
 瞳に映るルキアンの姿を、彼女はかつてのマスターと重ねていた。
 彼女の最初のマスターにして創造主でもある者、旧世界のエインザール博士と。

 ――リュシオン、あなたの笑顔をずっと見ていたかった。

 ◆

 私は哀しみの中で生まれた。
 あなたの涙が私の血となって、
 この冷たい体に命を吹き込んでくれた。
 だから私は、いつでもあなたと共にある。
 あなたを傷つけようとするもの全てから、
 この手で守ってみせる。

 ◆

 ルキアンを抱くリューヌの手に力がこもった。人ならぬ存在としての冷たい体温と、それとは反対に慈母のもつ暖かさと、さらに不思議なあどけなさをもった透明な眼差しで、彼女はルキアンの顔をのぞき込む。
「私がいなくても、恐れないで。もともとパラディーヴァは、御子が真の力に目覚め、独りで歩けるようになるまでの支えのようなもの。リュシオンが私に命を与える以前、それまでに無数に生まれては消えていった世界において、御子たちは……。もうあなたも知っている《光と闇の歌い手》ルチアや《静謐の魔道士》ルカの側には、まだパラディーヴァなど居なかった。それでも彼らは《予め歪められた生》に抗い、《あれ》に立ち向かったのです」
 二人の見知らぬ人物の名が耳に入ると同時に、何故かルキアンは、ごく自然に思い浮かべることができた。ソルミナの化身との戦いの最中、ルキアンが幻影の向こうに見た者たちの面影を。輝くような笑顔を持った車椅子の少女の姿と、杖を手に荒野にたたずむ孤独な僧の姿を。

 ◆

 そして私は願った。
 あなたの哀しみを 私にください。
 あなたの胸の痛みを 分けてください。
 降り続く氷雨のようなその涙が、
 もうあなたの瞳を曇らせることがないように。
 さらに そうすることが
 私が本当の魂を得られる道でもあるのなら……。

 ◆

「我が主よ、《深淵》を見たのでしょう。ならば、じきに現実の世界でも《ダアスの眼》は開き、闇の紋章は再び輝く。それまであなたを守り抜くのが私の願い」
 風がざわめき、大地が震え、辺り一帯に漂う自然界の霊気がリューヌに集中してゆく。
「もういい、やめて! リューヌ、もういいんだ!!」
 必死で止めようとするルキアンに対し、リューヌは目を細めた。
 ルキアンの脳裏に、幼い日の孤独とリューヌのイメージとが重なって浮かび上がる。

  大きな木の下でうつむく、銀髪の幼い男の子。
  孤独な姿を後ろで静かに見守る黒衣の女。
  そっと、なでようとする彼女の手は、男の子の頭を空しく通り抜ける。
  実態のない彼女の身体で彼に触れることはできなかった。
  それでも黒衣の女は、男の子を見つめ続けている。
  すすり泣く声が止むまで。いつまでも。

「そうだ、ずっと僕のそばにいてくれたのは、リューヌだけなんだ。行かないで。僕は、僕は、本当に独りぼっちになる。そんなの嫌だ。嫌だよ!!」
 しかし、リューヌの姿は風と共にかき消え、彼女の気配も感じられなくなってゆく。ルキアンの絶叫は、むなしく空に響いただけだった。

 ――さようなら。私の大切な……。

 リューヌのいた場所から、最後の光のしずくが、ひとつ、ふたつと、天に向かって昇っていった。
 取り乱して泣きわめくルキアンは、宙に浮かんだまま光に包まれる。次いで彼の姿は、地上に向かって飛び去るように消えた。いや、もはや残骸となったアルフェリオンの内部、あの黒い宝珠の中へと吸い込まれたのだった。


【続く】



 ※2010年9月~2011年1月に、本ブログにて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第47話・後編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


5 黒い瞳のルキアン



 ◆ ◇

「オーリムのギルドも大変だな。戦に勝って勝負に負けた、ということにならなければよいのだが」
 そう言ってしゃがみ込むと、シェフィーアは足元に手をさしのべた。指先が水に触れる。簡単に跨いで越えられるような小川が、砂浜を通って海へと続いていた。彼女は無造作に手で水面をかき回す。
「たとえギルドがナッソスに勝利しても、その後、帝国軍が攻めて来るまでに《レンゲイルの壁》に到着できなければ、援軍を欠いた議会軍の勝ち目は薄い。ほとんど実戦経験のない議会軍の大方の将兵と、ガノリスの精鋭相手に鍛えられている《メレイユの獅子》ギヨットや配下の《レンゲイル軍団》とでは、まったく比較になるまい。それだけでも厄介だが……」
 シェフィーアは厳しい目をして、それとは裏腹に口元には微かな笑みを浮かべた。
「《帝国先鋒隊》を甘く見ていたら、オーリウムはたちまち敗退することになる。あの真面目くさった女狐、アポロニア・ド・ランキアの策略は手強いぞ」
 レイシアは相変わらず無表情に、銀色の髪を海風にそよがせている。シェフィーアの話ではなく、潮騒に耳を傾けているようにもみえた。シェフィーアの方も気にしていない。
「まぁ、ギルドはナッソス家には勝てるだろう。問題はその先だな。そして、ナッソス家との戦いにおいて、少なくともルキアン・ディ・シーマーは必ず勝ち残る」
 シェフィーアは小川の流れを目で追い、それが海へと至るところで視線を止めた。
「見た目はあんなだが、あの子は強い。物心つく頃から、ルキアンはずっと独りで自分の生と戦ってきた。たった一人になっても戦い続けることができる者は、誰よりも強い」

 ◇ ◆

「楽しいことばかりじゃない。僕らは、暗く歪んだ想いも、内なる世界に抱えて……。嘆いたり、哀しんだり、憎んだり、妬んだり、それでも人は絶望せず生き続けてる」
 ルキアンは一歩前に踏み出し、ソルミナの化身に言葉を向けた。

  そういう負の感情が
  人間にとって悪しきもので、必要ないはずのものなら、
  僕らはどうして、
  そんな気持ちを持つような存在として生まれてくるのだろう。
  最初から人は、神様の生み出した失敗作なのだろうか。

  でも、ひとつだけ分かったことがある。
  幸せが失われても、愛に見放されても、希望が無くても、
  それでも生きようとする理由になっていたのは、
  僕の手に最後まで残っていて、僕を突き動かしてきた、
  そんな暗い想いだったと。

  それが望ましいものだとは思わない。
  だけど、光が手を差し伸べてくれなかったとき、
  それで生を諦めて死んでしまっていたら、いま僕は居なかった。
  本当はずっと自分の中の闇に支えられていたんだ。
  なのに僕はそれと向き合うことを避け、ただ恐れ、拒んできた。

  たしかに闇の力だけでは人は幸せにはなれない。
  だけど人は光の力だけでは生きていけない。
  影があるから光もあり、光があるから影もある。
  人はそういう不完全でどうしようもない存在で、
  それでも生きようともがく。

 ルキアンの右目が輝く。彼の瞳の中、複雑な魔法陣を描いた紋章が光を放った。
「さっき、死を目の前にして気づいた。苦しみ続けて、やっと光が見えたのに、こんなままで、何もできずにこの世から去ってしまうのは、空しい……悔しい……。その思いで胸が張り裂けそうになったとき、僕はそう理解した」
 黒い光――矛盾したような形容だが、黒く輝く光がルキアンの背から広がり、次第に翼のような形を取った。
「ずっと僕は自分の半身を拒否してきた。だけど、その力があるからこそ、僕はこうしてお前と戦える。たとえそれが《闇》の力でも!」
 そう言ってルキアンが目を閉じ、再び開くと、瞳は深い闇色に変わった。彼の心の中の《ダアスの眼》もいっそう大きく開く。

 僕は見た。
 生命と因果律の樹の背後に開けた底なしの暗き穴を。
 始まりにして終わりの知の隠されし静謐の座を。

 一陣の風と共に、ルキアンの銀色の髪が、濡れたような艶を浮かべた漆黒色に変化する。
 瞳の紋章と同じ形の魔法陣がルキアンの足元に現れた。現世界のものでも旧世界のものでもない、見たこともない文字や記号を伴って、円陣がルキアンを中心に形成されている。

 そして僕は知った。
 この魂の奥底にまで受け継がれた、
 いや、霊子の次元にまで刻み込まれた
 いにしえからの闇の血族の想いを。

 冷たく透き通った声。暗闇の中に、ひとこと、ひとこと、彼の声が静かに反響する様は、周囲の空気を凍り付かせてゆくかのようだ。ルキアンは、どこか寂しそうにうつむくと、また顔を上げ、華奢で幼さの残る少年には不似合いなほど重々しくつぶやいた。

「御子の名において命ず。闇の眷属きたれ……」

 右目に浮かぶ紋章が再び輝き、ルキアンの影が前方に向かって広がり始めた。
 黒い波紋が地面を覆い尽くすかのように、拡張する闇。
 暗黒の影は、ルキアンをなおも遠巻きにしていた魔人形たちのところにまで達した。そこで影にふれた人形は、音もなく消えて無くなってゆく。
 人形たちだけではない。床や壁さえも姿を消しているのだ。あくまでも静かに、ルキアンの周囲は漆黒の空間に覆われ、彼を除くすべてのものは暗闇に消えていった。


6 魂の記憶、今、想いの光を放て!



 今度は一瞬にして周囲が光に包まれる。同時にルキアンは違う場所にいた。
 熱い。彼が最初に知覚したのは蒸し風呂のような空気感だった。それもそのはず、ルキアンは、煮え立つ溶岩の海に浮かんだ島に立っている。あちこちで火柱が立ちのぼっては消える。
 そして明るい。照りつける太陽。マグマの赤い海の上に広がる青空の色が際立って見える。頭上の大空が果てしないのと同様、大地を覆い尽くす溶岩流にも際限がないことに、ルキアンは気づいた。溶岩の海は彼方にまで赤銅色の地平となって続いている。
 ――闇使いよ、汝の力は強い。されど、ここは我の造りし世界。
 背後に燃え盛る広大無辺な《世界》を誇示するかのごとく、空中に浮かぶソルミナの化身は言った。
 ――ここで我に手向かうことは、創造主に抗うことに等しい。
 無数に開いたソルミナの目が青白い光を浮かべる。
 突然、ルキアンの足元が揺れ、轟くような地鳴りが腹にまで伝わってくる。
「あれは……」
 目を懲らしてみると、灼熱する火の大洋の《水平線》が一斉に持ち上がっている。ルキアンは息を呑む。
「津波?」
 その瞬間にも、現実世界では有り得ない速さでマグマの波は高さを増し、押し寄せる。溶岩の高波は今や天を突くような壁となり、空さえも覆い尽くさんばかりの勢いでますます成長してゆく。この《世界》そのものが牙を剥いた。
「あんなものを、どうやって」
 激情に駆られ、何かに取り憑かれたかのように戦いに没頭していたルキアンだったが、この世の終わりさながらの光景は彼を我に返らせた。彼の背で翼のかたちに広がっていた黒い光は霧散し、髪は銀色に戻り、瞳の色も次第に薄くなってゆく。
「無理だよ。どうしよう、リューヌ……」
 つい、無意識のうちにパラディーヴァに助けを求めたルキアン。やはり返事はなかった。
 ――そうだった。僕のせいでリューヌは消耗して、今、死んだように眠り続けている。僕がしっかりしなかったから、ずっとリューヌに甘えていたから。
 近づく轟音。視界すべてが、迫る溶岩の海に遮られようとしていた。
「た、戦わなきゃ。こんなままで終わっていいのか」
 ルキアンは目を閉じ、肩を振るわせながら、小声でつぶやいている。
「何もできずに、黙ってうつむいているのは、もう嫌なんだ。何度もそう言ったけど、今度こそ、今度こそ、本当に僕は」
 震える指先を自らに従わせようと、彼は拳を握りしめる。
「さっき《見た》ばかりじゃないか。ここで僕が逃げたら《みんな》の想いは……。闇の力を手にしながらも、御子は、本当は優しい世界を誰よりも願っていたんだ」

 ◆

 何の前触れもなく、ルキアンは途方もない大きさのひとつの《眼》と向き合っていた。
 周囲には星が瞬く。
 果てなく広がる闇の空間に、小さな星の光が見渡す限りにちりばめられている。
 だが、どんなに微かな音さえも聞こえてくることはない。無限の静寂。

 《手を伸ばせ》と、自らの中で拒否しがたい衝動がわき起こった。
 気づいたとき、ルキアンは《眼》の方に両手を差し出していた。
 三つの人影が見える。
 ルキアンは彼らを知っていた。会ったこともないのに。直感的にその人物が誰であるかを理解したのだ。

 白衣を着た少しうつむき加減の男が、彼の方を見ている。
 ルキアンの父ではないかと思えるほど、顔つきや雰囲気が良く似ていた。

 《我は刻む、闇の紋章》

 もうひとつの影は、車椅子に座った少女だった。
 数匹の小鳥と戯れながら、光の粉を振りまくような笑顔で彼女は言った。

 《我は託す、夜の国の角笛》

 最後の影は岩の上に腰掛け、僧侶のような衣をまとっている。
 細長い杖を手に、縮れた長い髪を風になびかせ、その男は言った。

 《我は与う、静寂の法》

 ◆

「《優しい人が優しいままで笑っていられる世界》は僕だけの願いじゃない」

 先ほどの弱気な彼と同一人物とは思えぬほど、凄まじい魔力がルキアンの身体から立ちのぼる。髪と瞳も改めて闇色に変わった。

「この胸に刻まれ、受け継がれた魂の記憶なんだ!」

 激高して叫ぶルキアン。瞳に紋章がきらめく。
 刹那の時、世界が灰色に見えた。凍った時間の中で羽ばたくものがある。
 天空から現れた鋼の巨人、輝く6枚の翼を背負った竜と荒鷲の騎士。
 それは、銀の天使、アルフェリオン・ノヴィーア。

 鋭い鳴き声と共にアルフェリオンは舞い上がり、翼をいっそう大きく広げ、空中で静止する。
 天の騎士のまとう甲冑、機体の左右の肩当てが鈍い音とともに横に動いた。そこに現れた吸気口が、幻獣のうなり声か、悪魔のオルガンのパイプが反響する音か、不気味な息づかいで大気を振るわせる。
 続いて鎧の胸部が開き、神秘的な青い光を放つレンズ状の装置が現れる。
 実体をもつ6枚の翼が巧みに重なり合って十字の形を取ったかと思うと、白熱化して輝き始めた。その先端から光の翼が伸び、オーロラさながらに空で揺らめく。
 その間、溶岩の津波は天空までせり上がり、アルフェリオンを飲み込もうと襲い来る。
 機体の胸のレンズが青から次第に赤へと変わり、いつしか紅色の光を放っていた。アルフェリオンの前方にも、赤い光が空中に現れ、レンズのような形を取る。膨大な魔力がアルフェリオンの周囲に満ちる。
 光の翼はますます広がり、その輝きで、怒りで、空を満たしてゆくかのようだ。
 機体のレンズと光のレンズとの間にまばゆい閃光の球が現れ、炎の如く揺れながらみるみる大きくなる。
 すべての方向から銀の天使に迫る灼熱の溶岩の壁、ソルミナの支配する《世界》の力。機体の魔法眼を通じてルキアンはそれを睨んだ。
 ――たとえ《世界》がお前の手の中にあるとしても、人の想いの力は無限だ!
 機体の背後の空、御子の紋章と同様の光の魔法陣が描かれた。
 ――容赦はしない。
 もうひとつ、前方に浮かぶ光のレンズの先に同型の魔法陣が形成される。
 ルキアンの漆黒の瞳にも紋章が浮かんだ。

 ――ステリアン・グローバー!!

 咆吼。大きく見開かれたダアスの眼。《深淵》と御子との間に《通廊》が開かれる。怒れる天の騎士は、大空と大地と、ソルミナの世界一面を終焉の光で包んだ。

 それから、どのくらい時間が経っただろうか……。


7 生還、盾なるソルミナの崩壊



 気がつくと、ルキアンとソルミナの化身は常闇の中で対峙していた。
 しばらく無言で向き合った後、やがてルキアンの心に声が流れ込んでくる。
 ――我が完全なる幻覚をも黒く塗りつぶす、その力。やはり汝は……。
 ソルミナの化身に異変が起こっていた。徐々に焦げてゆくように、蝶の羽根が端の方から黒く変色して消え始めている。
 ――封印された記憶のことを知るまい。もし《封印》さえ無ければ、汝は最後の部屋で終わりを迎えていたはず。
 宙に浮かぶ脳の魔物の姿が今までよりも弱々しくみえる。心なしか、ルキアンに語りかけてくる思念も途切れがちになっていた。
「どういうこと? 僕の記憶が封じられてるって、どういうことなんだ!?」
 ルキアンは感情的に口走った。あの《夜》という部屋で見た不可解な光景を思い出し、彼の背筋に本能的な寒気が走る。不吉な直感が胸を詰まらせた。
「あの幼い子たちは、一体……。答えて、答えてよ!!」
 ソルミナの化身の奇怪な姿のうち、もはや半分までが闇に浸食され失われていた。その心の声も、意識を集中させないと聞き取れないほど微かになっている。
 ――我に感情というものはない。だが、汝の真実を知れば、人間はこんなふうに表現するのであろう。

 《かわいそう》

 最後に、空中に漂う霞のような状態になった化身が言った。

 ――汝は、いつか知るだろう……。召喚……一組の……適合……犠牲……。

 ルキアンの心に流れ込んでくる声も次第に微かになり、間もなく沈黙する。

 ◆ ◆

「大変だ! 結界が。空間に、亀裂?」
 座席から転げ落ちそうな勢いでヴェンデイルが叫んだ。声が裏返っている。
 上空でナッソス城の様子をうかがっていたクレドール。その艦橋は騒然となった。
「副長、結界が消滅するよ」
 《複眼鏡》の魔法眼に浮かぶ光景を、ヴェンデイルは呆然と見つめる。ナッソス城を取り囲んでいた赤い結界の真ん中に、にわかに亀裂が生じたのだ。いったん現れた割け目が広がるのは早く、彼が次なる状況報告をしようとしたときには、もう結界そのものが姿を消していた。
 ツーポイントの眼鏡の奥、クレヴィスの目に微かな笑みが浮かぶ。
「ふふ。やはりあなたですか、ルキアン・ディ・シーマー君」
 彼はカルダイン艦長に視線を向け、無言で何かやり取りすると、次なる指揮を出した。
「アルマ・ヴィオ各機に至急の念信を。多分、彼らもこちらの世界に戻ってきているはず。この機を逃さず、今が《柱》を破壊するチャンスです」

 クレドールの繰士たちも、突如として入れ替わった状況に直面する。

 ――あ、あたし、何を。
 メイは自分の五感が変化したことに気づいた。目の前に広がる空、ぼんやりとした景色の中に、見覚えのある城郭の姿。アルマ・ヴィオの翼が風を掴む感じ。
 ――あ、れ、は、ナッソス、城? そう。……えっ? 戻った!
 慌ててアルマ・ヴィオの動きに精神を集中するメイ。高度の落ちていた《ラピオ・アヴィス》が、深紅の翼を羽ばたかせて急上昇する。

 ――この感じは。《アトレイオス》か。じゃぁ、ここは?
 バーンも同じく機体の感触を把握した。忌まわしい記憶と結びついたレクサーのものではない。愛機の眼を通じてバーンが見ているものは、そびえ立つ黒い石柱。ソルミナの世界に囚われる直前まで戦っていた場所に、再び戻ったのだろうか。
 アトレイオスの両手で握られた《攻城刀》の重量感によって、バーンは自分のすべきことを思い出した。
 ――もし、これが幻でも、ともかく俺は!
 すかさず腰を落として構えたアトレイオス。攻城刀の刀身を、さらにMT(マギオ・テルマー)の光の刃が覆う。バーンの《蒼き騎士》は走り出した。地響きを伴い、長さ20メートル以上の大剣の切っ先を地面に引きずって。
 ――ぶっ叩く!!
 吠えるような雄叫びをあげて、バーンは剣を打ち込む。助走と共に、上半身のひねりで惰力を加えたかと思うと、アトレイオスは攻城刀を一気に石柱めがけて叩き付けた。

 ◇

 時を同じくして、ナッソス公爵は信じがたいものを見た。
 轟音と共に崩れ落ちる石柱。
 《盾なるソルミナ》が絶対的な幻影の世界を生み出すために、大地の霊脈から無尽蔵の魔力を吸い上げ続けるための設備であった。だが、今やそれが、城の守りの要が砕かれたのだ。あまりのことに公爵は口を閉じることができず、かといって声を出すこともできず、天守の窓の前で立ち尽くす。
 目の前の空を赤く染めていたソルミナの結界自体、いつの間にか消滅していた。
「お気を確かに、殿」
 しばらく凍り付いていたナッソス公は、レムロスの言葉で我に返った。
「馬鹿な。《盾なるソルミナ》は、旧世界以来の無敵の防壁。いかなる人間もその力の前には……。そんな馬鹿な。《人の子》である限り、ソルミナの力には……」
 うわごとのように繰り返す公爵。いつもは紅潮しがちな激情家の顔つきから、血の気がすっかり引いている。続く言葉も出ず、唇が小刻みに震えていた。


【第48話に続く】



 ※2010年5月~9月に、本ブログにて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第47話・中編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


3 目覚める闇



 ◆ ◆

 ――また、戦場に、戻った?
 思わず《手足》の感触を確かめるバーン。いつの間にか、彼は再びアルマ・ヴィオに乗っていたのだ。旧友エミリオの幻は、もう彼の前には無かった。
 だが、己が機体と一体化しているのを感じるのとほぼ同時に、さすがに熟練のエクターの彼は、ある種の違和感も覚えていた。
 ――この感じは。アトレイオスじゃネェな……。
 そう、《盾なるソルミナ》による幻の世界に取り込まれる直前、先ほどまでナッソス家のムートと剣を交えていたバーンが乗っていた、愛機の《蒼き騎士》ではない。
 ――いや、これは。
 自らがまだ幻の世界に居るのかそれとも現実世界の戦場に戻ったのか、そんな本質的な問題すら一瞬忘れてしまいそうになるほど、バーンは困惑する。いま自分の乗っている機体を、バーンはよく知っている。アトレイオスではないが、この機体はとても彼の身体になじんでいる。いや、忘れもしない、かつて彼がその身体にたたき込まれた感覚だ。
 ――動きが軽いな。おいおい、《すっぴん》のレクサーじゃネェかよ。
 レクサーは、オーリウム王国の汎用型アルマ・ヴィオの上級機種の中でも抜群の汎用性と信頼性をもつ名機に他ならない。近衛隊の機体である重装甲タイプのシルバー・レクサー、レンゲイル軍団などの精鋭部隊に配備された、突撃戦を得意とするブラック・レクサー、あるいはギルドの飛空艦ラプサーに配備されている火力重視のハンティング・レクサーなど、様々なヴァリエーションがみられる。だが……。
 ――あぁ、知ってるぜ。こんな妙な使い方をするのは、あそこだけだ。
 大方の汎用機とは異なり、レクサーは、儀式魔術によって機体がこの世に《生》を受ける時点から、基本的に乗り手自身の特性や所属組織、使用目的に応じてカスタマイズされる。いわばオプションである多様な《器官》を与えられずに、基本形態のままで使われることは無いのだ。
 ――そう、唯一の例外、近衛機装騎士団・上級練習生の機体をのぞいては。
 状況を理解したとき、バーンの胸の内は激しくざわめいた。レクサーの魔法眼を通じ、目の前を見る。あたかも、見たくないものでも見なければならないかのように。
 訓練用の闘技場、そこにはもう一体のレクサーが倒れていた。しかも、異常な状態で大破している。生身の騎士さながらに兜を被った端正な顔立ちは、醜くつぶれている。片腕が失われ、足も折れている。胸甲の部分には、機体内部まで達するような深い傷が乱雑に刻まれていた。動力筋や伝達系の組織が装甲の外にはみ出し、あちこちで引きちぎられていた。巨大な獣にでも襲われたかと思わずにはいられない惨状だ。
 その状況から確実に言えることがある。大破した機体の乗り手は、並外れて強靱な精神力と無数の経験とを――しかも、自らの機体が実際に損傷した経験を――持つ者でない限り、おそらく生きてはいない。もし非常に幸運な場合でも、ショックで精神に異常をきたしている可能性が高い。アルマ・ヴィオは、たしかにエクター自身の身体ではない。だが、機体の受ける傷は、エクターにとって自らの身体に負った傷と同様に感じられるのだから。
 ――これは、最終試験の試合? 俺は、俺は……。
 バーンはうわごとのようにつぶやいた。ここは戦場ではない。しかも戦いを行ったのは、二体のレクサーであって、その一方が魔獣であったわけでもない。
 ――お、俺は、自分でも、分からなかったんだよ。お、俺は、その。
 剛胆で呑気なバーンがすっかり動揺していた。
 ――知らなかったんだ。ただ、お前に負けたくネェって、必死になったら、いつの間にか。そんな、まさか《逆同調》なんて、するわけが、いや、俺にできるわけがないって。
 無意識のうちにバーンは機体をひざまずかせ、《ケーラ》から飛び出した。彼は無我夢中で叫びながら、目の前に倒れているレクサーに駆け寄った。
「エミリオ、エミリオ!」
 すでに周囲の訓練生や教官たちが機体を取り巻いている。騒然とした中で、いくつかの言葉が漏れ聞こえてきた。
「今のは何だ」
「暴走、なのか?」
 その中でも、小声でささやき合う教官たちの声が、なぜか妙に大きく聞こえた。
「レクサーのような安定した機体が《逆同調》したとは、私の知る限り前代未聞ですな」
「魔獣型の機体、いや、陸戦型でも気の荒いレオネスやハイパー・ティグラーならともかく、汎用型が《逆同調》することなど。いや、それは意識的にそうしない限り、有り得ない」
「悪い冗談だ。少なくとも、私にはそんな芸当はできぬよ……」
 飛び交う無数の言葉を呆然と聞き流しながら、バーンは歩み寄る。そこには、仲間の腕に抱えられ、瀕死の表情のエミリオがいた。同僚の訓練生たちは、庶民出身で田舎者のバーンを以前から疎外していた。だが、今、《お坊ちゃん機装兵団》の高慢な訓練生たちが彼を見つめる眼差しは、本来この場にありそうな非難や怒りを漂わせたものではない。
 彼らの瞳に色濃く浮かんでいたのは、衝撃と、それ以上に「恐怖」だ。
 バーンが近づくと、訓練生たちはいそいそと道を空けた。
 彼は独り、エミリオの顔をのぞき込む。背後で思い出したかのように、「いや、これは凄まじい潜在能力ですぞ。使える」という、冷たく打算的な教官の声がした。
 何度呼びかけても、エミリオは応えなかった。ケーラにまで被害は達していなかったのであろう、幸い、エミリオの身体に外傷はない。それだけに何故か、もう動かない親友の姿は、バーンにとっていっそう痛々しく思えた。

 と、エミリオの唇が微かに動く。この場で、最初で最後の言葉。永遠の別れ。

 ◆

 絶叫、そして一転、暗闇の中に閉ざされたバーン。

 だが周囲の変化は、バーンにはもはやどうでもよかった。
 彼の頭の中で、あの日、エミリオが最後に口にした言葉がよぎった。
 ――嬉しいだろ。これで君は近衛騎士だ。友達? 馬鹿じゃないの。
 これまでの友情が偽りであったことを、エミリオは吐き捨てて逝った。

 無言のバーンに、心に対して直接、何者かが語りかけてくる。
 ――お互いに蹴落とし合う者たちの、偽りの友情。醜い。だが、本当にそうだったのなら、お前は今頃、もっと……。
 ――言うな!!
 筋肉隆々の大男であるバーンが、不似合いな涙を浮かべて叫ぶ。
 謎の声は、なおも静かに語り続ける。
 ――本当にそうだったのか?
 ――やめろ、やめろよ!
 バーンが一番ふれられたくないことを、声は無慈悲に告げた。
 ――本当は、あの言葉の方が嘘だったのではないか。彼はお前のことを最後まで気遣って、お前に永遠の十字架を背負わせないよう、わざと嘘をついたのではないか。
 声はいっそう大きくなった。
 ――エミリオは、お前に対して心にもない憎しみの言葉を、わざとつぶやいた。
 ――だから、やめろって言ってんだろうが!
 頭を抱えてわめくことしかできないバーンに対し、まるで空中から青白いヴェールが被さるように、何かが舞い降りた。蝶? いや、その羽根に無数の目をもち、不気味に脈動する脳のごとき本体。《盾なるソルミナ》の化身は、ぼんやりと輝く羽根でバーンを包み込む。

 幻影の支配者は、エミリオの声で最後にこう告げた。

 ――バーン。後悔しないで。君は、悪く、ないよ……。

 バーンの魂は暗黒に落ちた。

 ◆

 同じ頃、メイの心もソルミナの常闇の世界に囚われていた。
 彼女の表情は意外にも安らかだった。いや、幸福そうにすら思える。
 自分自身、幻だと知りながらも、彼女は永遠の牢獄から抜け出すことができない。
 失われてゆく意識の中、もはや諦めたかのように、メイはクレヴィスの名をつぶやいた。

 兄の名をひたすら繰り返し、暗闇の中で震えるプレアー。
 ただ一人、剣を手に、何かと――ひょっとしたら己の過去と――向き合うレーイ。

 ◆

 そのとき、果て無き漆黒の空間で、何かが動いた。
 微かな光が灯る。
 おぼろげに影が照らし出された。人影ではない。
 あくまでも仄暗く、弱い光が次第に周囲に広がってゆく。

 また、何かがゆっくりと動いた。
 はっきりとは見えないが、直感的には、蛇のようにうねる巨大な何かが。
 それはひとつではなかった。
 暗闇のただなかに、幾つもの大蛇が絡み合い、輪を造り、鎌首をもたげる。
 そのように思えた。

 徐々に強まる光が、その真の姿を明らかにしてゆく。
 金属的な光沢が鈍く映し出された。
 絡み合う大蛇たちはゆっくりと輪の大きさを広げる。
 その輪にしがみつくかのように、周囲に沢山の小さな影が見える。

 それらは、蛇ではなかった。
 鋼のごとく黒光りする表面を持ち、同じく金属質の棘を随所に生やした何か。
 それらは、輪の中心にある何かを護っているように思われた。
 強まる光。
 だが、冷たく、禍々しい輝きは、むしろ底知れぬ闇を想起させる。
 
 浮かび上がる黒金の蔦(つた)――いや、むしろ、荊(いばら)だ。

 闇の中に創り出された巨大な荊の壁。
 その向こうで、微かに声を振るわせながら、つぶやく者がいた。

 「僕に……触れるな」

 次の瞬間、暗黒の世界を嵐が駆け抜けたように、途方もない魔力が満ちる。
 圧倒的な存在感をもって、荊の壁が徐々に広がってゆく。
 これに対し、今までの静寂を破り、壊れたようにケラケラと笑う無数の人形たちが、荊に噛み付き、鋭い爪で突き破ろうと殺到する。

 それを見つめる銀髪の少年の姿。細い右腕が、おもむろに突き出される。

 何の前触れもなく荊たちは暴れ狂い、竜巻のごとく周囲のすべてをなぎ倒し、その容赦ない棘で切り裂いた。神話の水蛇ヒドラさながらに、幾本もの荊が鎌首をもたげ、主の次なる命を待つ。

 ルキアンが荊の中心に立っていた。
 だが彼の目は、別人のような鋭い眼光をたたえ、見る者を一瞬で射すくめずにはいなかった。それでいて果てしなき諦念と哀しみを漂わせている。

  《本当の闇の力を思い知れ》

 冷ややかなつぶやき。
 同時に彼の中で、巨大なひとつの目、《ダアスの眼》がついに開く。


4 世界のことわりと深淵



 じきに雨になりそうだ。
 雲間から顔をのぞかせていた太陽は隠れ、気がつけば、水平線から岸に向かって濃い灰色の雲がすべてを覆っている。
 極めて浅い海には、沖合にまで点々と砂州が浮かぶ。嵐になれば丸ごと海に沈んでしまいそうな、平らな島々。
 微かに濁った青の海面を背景に、岸には干潟が延々と伸びる。
 このような眺めはどこまで続くのだろうか。長大だが変化に乏しいミルファーン西海岸の砂浜には、見渡す限り、特に人工物もなければ人の姿も見当たらないことが少なくない。
 たった二つの人影も、そこでは妙に目立って感じられる。
 湿った海風に乗り、少し低めの呑気な女の声が浜辺に漂う。
「やれやれ。城に帰ったら、また伯父上から延々とお説教だぞ。分かっていたが、やっぱり面倒だな。レイシア、今からでも逃げるか?」
 声質は落ち着いた大人の女性のものだが、口調は腕白な男の子のようだ。
 赤いマント、いや、普通よりも丈を長くこしらえたエクター・ケープをまとい、鱗状の鋼板に覆われた鎧を鳴らしながら、武装した女戦士が浜辺を歩いてくる。彼女は長い金色の髪を背中で一本に編んでいた。モリのような短い槍を右手に持ち、肩に軽く担いでいる。ミルファーンの《灰の旅団》に属する機装騎士、あのシェフィーア・リルガ・デン・フレデリキアである。
 その隣を無言で歩く、背の高い銀髪の女性。彼女は、シェフィーアの右腕のレイシアだ。灰色と白、そして髪の色と同じく銀色でまとめられた衣装は、身体の線に密着した仕立てであり、彼女の細身と長身をいっそう強調している。シェフィーアよりもかなり若く、見た目に限っていえば、まだ少女のような印象も受ける。
 シェフィーアがふと立ち止まった。
 目の前に広がる干潟混じりの海、最初はその海岸線の広大さに眼を奪われるのだが、風景の単調さに次第に飽きてくる感もある。ましてや、シェフィーアたちミルファーン人にとっては、この手の景色は見慣れたものだ。変化に乏しい浜辺と湖のように静かな海をじっと見つめていると、時の流れも徐々に遅くなって感じられる。
「そういえば、今頃また戦っているのだろうか。あの少年、《銀の荊》君は」
 シェフィーアは、南の遙か遠く、オーリウムの方角に眼を向けた。

 ◇ ◆

 空間の揺らめきとともに、ソルミナの化身がルキアンの前に再び姿を現す。
 蝶のような羽根と、節くれ立った6本の脚とを備えた大脳の化け物。
 だがそれは、外見から想像されるような幻想世界の魔物ではないのかもしれない。ソルミナは、旧世界の超魔法科学文明によって造り出された兵器である。いまルキアンと対峙している存在も、ひょっとすると擬似的な人格を備えたプログラムで、人間との意思疎通のためにソルミナに組み込まれた一種のインターフェース的なものかもしれなかった。もっとも今となっては、その化け物が本当は何であるのか、もはや誰にも分からない。

 ――汝は《誰》だ?

 悪夢の象徴たるにふさわしいソルミナの化身が、ルキアンの心に語りかけてくる。
 ――旧陽暦の時以来、今日に至るまで、わが記憶領域に汝のような人間の例は記録されていない。
 ソルミナの羽根に点々と散らばる無数の目が、銀髪の少年を凝視する。

 ――ならば問い直す。汝は《何》だ?

「僕は一体何なのか……。それをずっと考えてた。僕の存在の意味って何なのかと」
 うつむき加減であったルキアンが、おもむろに顔を上げる。
「ずっと僕は誰にも必要とされない人間だった。どこにも居場所がなかった」
 暗い眼、それでいて澄んだ眼差しで、ルキアンは、つい先ほど自分の身に起こったことを反芻する。

  ◆

 あのとき、無数の人形たちが殺到し、それらに埋もれてルキアンの姿は見えなくなった。
 小さな悪魔の群れは、鋭い爪で彼の肌を切り裂き、尖った牙で食らい付く。ひとつひとつの怪我は致命傷にならないにせよ、ルキアンはあまりに多くの傷を負ったため、もはや痛みを感ずるのを通り越し、肌全体が焼けるように熱いとしか感じられなかった。
 ルキアンの叫び声は次第に小さくなっていく。血まみれそのものだった。手足の感覚もない。いや、自分に元の手足があるのかすら分からない。人形たちの不気味な笑い声さえも、今や遠くの方でこだますようにしか聞こえなかった。

「僕は、死ぬのか」
 希望よりも先に、抗い難い存在感をもって死の足音が聞こえた。今の状況が幻であるということさえ意識できないほどの、圧倒的な現実味を帯びつつ。
 自分はなぜここに来たのか。仲間たちを救うため、意を決してソルミナの結界に飛び込んだはずなのに。結局、何もできない。
「メイ、バーン、ごめん」
 ルキアンの五感が、暗く、冷たく、変わり果てていく。
「僕なんて、どうせ……」
 消えゆく意識の中で、無意識に自分を卑下した彼。
 これと同じような場面に出くわしたことがあると、ルキアンは気づいた。心の底にまで深く染み通り、もはや彼の人格の一部とさえなったあまりにも根深い自己否定。

 《どうせ》、どうせ僕は。僕なんか……。
 思っても、願っても、そんなの何の力にもならない。
 《やっぱり》、また駄目だった。

 死を目前にしてルキアンが心の中でそうつぶやいたのは、ミトーニアでパリスと戦ったときだった。悠長に回想などしている場合ではないのに、あのときのことをルキアンは思い起こす。

 暗闇の中、幼い姿をしたルキアンがしゃがみ込んでいる。
 ――こんなの違う。何で僕だけ、だめな、いらない子なの? 何で僕だけ、どこにいてもうまくいかないの? 僕が本当に帰っていいところって、どこなの?
 銀の前髪の奥に表情を隠し、引きつるような、かすかな声ですすり泣いている。
 ――《おうち》に帰りたいよぅ……。

 今度は、ヴィエリオとソーナの姿がルキアンの脳裏に再びよぎった。

 にっこりと笑って、片目を閉じてみせる金の髪の娘。
 だがそれはルキアンに対してではない。
 隣のヴィエリオが、ソーナの方へ微かに笑みを返す。
 ――想ったって、現実とかけ離れすぎていることばかりじゃないか……。
 ルキアンは背を向け、黙って意味もなくペンを走らせた。
 ――そう、想うところまでなら誰にでもできる。だけど、いくら想いを現実に変えようとしてみても……。結局、《想いの力》なんて、無力な場合の方が多いじゃないか。
 紙面に押しつけられたままのペン先が、インクの黒い染みを広げてゆく。

 ◆ ◇

 雨雲が空を覆い、あまり気持ちの良い天気とは言えないが、シェフィーアは心地よさげに伸びをした。
「戦いが嫌いだとか苦手だとかいいながら、そんな彼が戦場のまっただ中に自ら身を置いているのだからな……。因果なものだよ。だがレイシア、本当にそうだと思うか?」
 黙っているレイシアに代わって、シェフィーア自身が答える。
「自分の生きる意味、理由、そのためにやむを得ず、彼は苦しみながら戦っているように見える。だが本当にそうなのだろうか。むしろ、私の直感では、あの少年は私やお前に近い人間かもしれないと思うが。レイシア、お前はなぜ戦う?」
「私がシェフィーア様と共に戦うのに、理由など必要なのですか?」
 抑揚のない、感情の伴わぬ声で平然と答えられ、シェフィーアは苦笑する。
「レイシアには参ったな。愚問だったか。まぁ、私自身にも理由など要らない」
 一瞬、シェフィーアの目に異様な眼光が浮かび、彼女は手にした槍を地面に突き刺した。
「私が戦うのは、このどうしようもない魂の渇き、血に飢えた衝動を時々満足させるためだよ。アルマ・ヴィオを操り、獣となって本能の赴くままに敵を倒す……。私が戦いを求めるのは、生まれつきの病気みたいなものだ」
 シェフィーアの青い眼が、何事もなかったように再び穏やかな表情に立ち返る。
「それでも一応、私が戦いに理由を求めようとするのは、ただの人殺しではなく騎士という名の人殺しに踏みとどまるための、良心の最後のかけらみたいなものか」
「そのシェフィーア様や私に、あの少年が本質的には似ていると?」
「ルキアン・ディ・シーマーの心の奥を垣間見たとき、私は底知れぬ《闇》を感じた。私と同じだ。その《闇》が引き合ったのかもしれん」
 嫌悪ではなく興奮のためであろう、少し声を震わせ、シェフィーアは言う。
「あくまで印象に過ぎないが、ルキアン少年も自分の中の《闇》を感じ取っているのではないかな。だからこそ、人を傷付けたくない、争いたくないとあれほどこだわる。そういう優しい気持ちを捨ててしまえば、自分の中にある負の衝動を抑えきれなくなるのではないかと、無意識のうちに恐れている。そんなふうに見えた」
 レイシアは答えを返さず、しばらく二人は黙って海岸を進んだ。
 やがて、レイシアが思い出したかのようにつぶやく。
「でも、闇の部分を持った人間でなければ、本当に優しい人間にはなれない。シェフィーア様を見ていれば分かります」
「ははは。レイシアもなかなか言う」
「魂が闇に引かれるからこそ、いっそう強く光を求めるのかもしれません」
 ぶっきらぼうに告げたレイシアの肩を、シェフィーアは嬉しそうに叩いた。

 ◆ ◇

「そんな僕に、クレドールのみんなが居場所をくれた」
 黒光りする樹皮をもち、恐るべき棘に覆われた荊の壁に囲まれ、ルキアンは話し続ける。異様さの中に、ある種の神々しさをも漂わせるその光景は、荊の茂る荒れ野に立って語る預言者を思わせた。
「仲間と一緒に居たいから、守りたいから、たしかに僕も戦いを選んだ。本当は争うのは嫌だ。誰も傷付けたくない。それでも僕は、必要だって言われたいために、これまでの自分の気持ちから目を背けて戦った。誰かに必要とされるために別の誰かを傷付ける。そうしないと僕自身は《要らない人間》のままになる。だから、僕の《力》を必要としてくれるクレドールのために《剣》になって戦った」
 ルキアンの声に力が加わる。
「でも途中で気づいた。もし誰にも必要とされないのなら僕の存在する意味もないなんて、それはただの思い込みじゃないか。もし、誰にも必要とされないことに本当に絶望し切っていたのだとしたら、僕はもっと前に命を絶っていたか、おかしくなっていたはずだと思う。でも僕は生きている。それは……」

「ひとつだけ、自分から捨てない限り無くならない《居場所》があったから」

 ルキアンの心の中で、あのときシェフィーアの告げた言葉がよみがえる。

 ――そう。この世でただひとつ、君の帰れる場所であった空想の世界。たとえそこが美しい光の園ではなく、どれほど暗い影につつまれていたとしても、虚ろな夢の庭であったとしても……。

「空想の殻の中にある、そういう暗い想いの詰まった世界を、人は《闇》と呼ぶのかもしれない。だけど、その《闇》が最後の拠り所になったからこそ、僕はここまで生き、ここまで来れた。でも僕は、そんな自分の影を拒み、恐れ、自分にたったひとつ残されたものと向き合うことから逃げてきた」

 ルキアンの体から、冷たく重々しい霊気が立ちのぼる。
 よく見ると、彼の右の瞳に紋章のような何かが浮かび上がっている。

「でも、さっき、僕は死を目の前にして、《闇》と向き合い、これを自分の一部として受け入れる決心をした。そのとき……」

 僕は見た。
 《ダアスの眼》を通じて、
 世界のことわりの背後にある《深淵》を。


【続く】



 ※2010年5月~9月に、本ブログにて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第47話・前編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


 鍵の石版を解読して「ロード」のための実験を開始したときから、
 我々は人としての資格を捨てて悪魔となったのだ。
 何の咎もない者たちを次々と犠牲にし、この身に永劫の罪を背負い、
 「あれ」と戦うために闇に堕ちた。

  (月闇の僧院の長・コズマス)

◇ 第47話 ◇


1 「鍵の石版」の秘密と旧世界滅亡



 天を突くようにそびえる無数の四角い《塔》。それらは皆、《クリエトの石》で造られた壁面と、その灰白色の肌に開いた無数の窓とを有していた。建物の間には透明なチューブ状の通路が張り巡らされ、その中では《動く道》に乗って人々がせわしなく行き来している。遙か地上、塔の谷間を網の目のように走る道路が見える。通りには馬や馬車の姿はまったくみられず、その代わりに得体の知れない乗り物が、アリの行列さながらに数珠つなぎで緩慢に流れていた。
 いにしえの時代にはどこにでも普通に見られたであろう――典型的な旧世界の街の風景だ。正しくは旧世界の片方、《天上界》に特有の街並みである。その様子を、高き《塔》の最上階の一室から眺めている男がいた。
 白衣をまとった後ろ姿は、医師か科学者を思わせる。腰の辺りまである長い黒髪を、彼は左右に振り分け、金色に輝く筒状の装飾品によってそれぞれ一本に束ねている。歳は三十代後半くらいであろうか。尖った顎と固く結んだ唇には、やや神経質そうな空気が漂う。反面、少し垂れ気味の細長い目からは、穏やかで人当たりのよい印象も受けた。何よりも、その男の額に輝く、正面に赤い宝石をはめ込んだまばゆい黄金色のサークレットが独特であった。一見、機械万能の街の雰囲気には似つかわしくない、おとぎ話の中の魔法使いのようだ。
 不意にベルが鳴る。男が右のてのひらを開くと、その上に小さな映像が四角く浮かび上がった。宙空に現れた即席のスクリーンに映し出されているのは、緊迫した面持ちで会議を行う人々。大臣やら長官やらという類の御大層な肩書きで、互いに呼び合っている。そのうちの一人が、白い僧衣の男に話しかける。
「……教授。いや、今は、貴君の称号で《イプシュスマ》と呼ぶべきか。緊急の用件だ。まもなく《世界樹》の最上層は《地上軍》の手に落ちる。《天帝》陛下が、あの《マールシュタリオン》を暴走させるという決断をされたのは本当か。君の意見を今すぐ聞きたい!」
 イプシュスマと呼ばれた男は、対照的に淡々と答える。
「空間および気象を操る天上界最強の兵器《天のマールシュタリオン》、その力を臨界点を超えて発動させ、暴走させることにより、《世界樹》もろとも《地上軍》を……場合によっては《地上界》そのものをも消し去ることになろうかと」
「しかし、そんなことをすれば我々の植民市も巻き込まれかねない。それどころか、空間や時間に断裂が生じ、この世界自体が崩壊することさえあり得ると、貴君も以前に言っていたではないか」
「確かに。それでも私は陛下のご判断に従います。《天帝》のお言葉は、絶対……」
 しばらくしてイプシュスマは、面倒くさそうにスクリーンを閉じた。
 窓の外に広がる青空は、本当の天空にまでは決して届くことがない。人の手によって造られた、限りある「天井」だ。街の向こうに広がる緑の大地。だが、そこには地平線などありはしない。地平線よりももっと近くに、地の果てが、すなわち「壁面」が見える。天上界には「空」も「地平」も無い。閉ざされた世界――漆黒の星の海に浮かぶ筒状の巨大な構造物――これが《天空植民市》の基本的な形状である。
 人の造りし空を見つめながら、イプシュスマはつぶやいた。
「リュシオン・エインザール……。この戦い、まもなく君たちに勝利が訪れるだろう。《天のマールシュタリオン》を暴走させたところで、それは、戦いに敗れた《天上界》が《地上界》を巻き込んで自決するような振る舞いにすぎない。だが君は肝心なことを知らないままだ」
 彼は振り返ると、背後にある執務用の机の上に目をやった。卓上用のペンと革表紙の聖書大のノートの隣に、ガラス状の物質で造られたアタッシュケース風の箱が置かれている。その中には分厚い緩衝材が敷かれ、一抱えほどの大きさの平らな岩塊のようなものが安置されている。凹凸のある粗い表面の感じは石や岩に近いが、それでいて、いぶし銀にも似た金属的な質感である。
「君が地上界に走った後、私は新たな《鍵の石版》を手に入れた。これまで長らく欠落していた第二編後半部の核心を記した部分だ。あの時以来初めての、そして最後の手紙を、君に書こう。我が敵、そして我が友よ……。君たちは戦争には勝ったが、この《戦い》には敗れた。天と地に分かたれた世界を再びひとつにしようとしたとき、人の子たちの世界は天の怒りによって終焉を迎え、新たな始まりに還ることになるだろう」
 イプシュスマは、件の銀色の物体すなわち《鍵の石版》を見つめる。
「君と私は《石版》によって《パラディーヴァ》のことを知った。そして君は、知らず知らずのうちに運命に導かれ、《御子》としてよく戦った。だが、本当に戦うべき相手が何であるのかということについては、君はいまになって漠然と気づいている程度だろう。それにリュシオン。いかに君が優れていようとも、すべての《御子》が揃わない限り、君の力は《あの存在》の前では無に等しい」
 長い溜息をついたイプシュスマ。あたかも肩の荷が下りたとでもいうふうに。
「《闇の御子》の真の秘密に君は気づかなかった。《ノクティルカ・コード》と《ロード》のことに。おそらく、《鍵の石版》の失われた最後の部分、本来は外典であったとも言われる第七編の石版群にすべての答えが隠されているはず。いずれにせよ、私たちの世界が《ノクティルカの鍵》に到達することはかなわなかった。そう、すべては終わりだ……」

「さようなら、リュシオン。私もこの世界もすぐに君の後を追うことになるが」


2 ルキアン死す? ソルミナの化身



 ◆ ◇ ◆

 第三の部屋《落日の間》に広がる奇怪な空間――それは、迫る日没を前にして時の凍り付いた、永遠の夕暮れの世界だった。そこに突如として現れた巨大な黒い扉を前に、ルキアンは躊躇し続けていた。もうこれで何度目だろうか。断崖のごとくそびえる扉に向かって、ルキアンは手を伸ばしては引っ込め、またおずおずと手を伸ばすという動作を繰り返す。
 これまでの部屋の場合とは違い、《夜》という名を持った最後の部屋へと続く扉は、明らかに異様だ。壁も柱もない空間に漆黒のゲートがぽつんと浮いている。黒曜石を思わせる材質でできたその扉は、夕刻の微かな残照を受け、鈍い光をその身にまとっている。いかにここが《盾なるソルミナ》の生み出す幻影の空間であろうとも、それはあまりにも現実離れした光景だった。ルキアンは、あたかも魔界の入口のようだと思った。
 これ以上、先には進むべきではないと、本能がルキアンに対して教えている。この迷宮のような場所全体を覆い尽くしている例の気配、他のあらゆるものを呑み込むひとつの影、その存在がまさに扉の向こうに感じられるのだ。しかし、ここで仮に引き返したり、何もせずに立ち止まっているだけであったりすれば、幻の世界からは決して逃れることができない。ルキアンは時の止まった夕暮れの国をさまよい続け、いつしか朽ち果ててゆくしかないだろう。
 その点はルキアンも十分に承知している。彼は意を決して扉に手を触れた。冷たい感触が指先に伝わる。意識が霞んだかと思うと、身体が宙に放り出されるような浮遊感を覚えた。そして次の瞬間には、視界が闇に閉ざされていた。

 ◆

 あらゆる光が失われ、一寸先も見えない漆黒の空間。何一つ音を立てるものもなく、闇と同化した静寂が支配する暗黒の世界。じっとしていると、足裏で床を感じている触覚以外、すべての感覚が停止してしまったかのような錯覚にとらわれる。いや、時間さえも止まってしまったかのような。このままでは自分が闇の中へと溶けてしまいそうだとルキアンは思った。
 たまりかねて彼が足を一歩踏み出したとき、固く乾いた何かが足元で割れるような感触があった。恐る恐る、彼は足先で床面の様子を探る。手応えがあった。先ほど踏みつけた何かと同様のものが、床を埋め尽くしている。
「あ、あれ。そういえば」
 不意にルキアンは思い出す。魔法で灯りを創ることを、なぜ今まで忘れていたのかと。
「光よ……」
 少年の細い声が、無音の暗黒世界に染み通る。青白い小さな光球が宙に現れた。幻の中でも自分の魔法の力がとりあえず通用するのだと、彼は少し安心した。だがそれも束の間、頼りなげな光が照らし出す周囲の状況を見て、ルキアンは息を呑んだ。
 折り重なって床に積もっているものは、粉々になった骨だ。魔法の灯りによって照らし出される範囲のすべて、闇の中にうっすらと、見渡す限りに人骨が散乱している。しかも、数え切れない数の遺骨に共通する、あることにルキアンは気づいてしまった。
「どの遺体も小さい。もしかして、これはみんな、子供の……」

 彼がそう口にしたとき、不意に、闇の中に点々と、ぼんやりとした炎がいくつも灯った。

 宙を漂う鬼火、あるいは人魂の下に、虚ろな目をした子供たちが立っている。彼らが明らかに霊的な存在であることをルキアンは悟った。見る見るうちに子供たちは数を増し、地の底から湧き出してくるかのように、一人また一人とゆらゆら立ち上がる。
「な、何? これは……。君たちは?」
 血の気のない青白い男の子や女の子、命無き幼子たちは四方八方からルキアンの方に歩み寄ってくる。恐怖のあまり身動きできないルキアンに向かって、一人の子供が苦しげにうめいた。
「痛い、痛い! 熱いよ」
 あちこちで同じように声が響いた。
「助けて。助けて」
「怖いよ、ここから出して!」
 胸に突き刺さるような狂乱した悲鳴の数々を聞き、思わず後ずさりするルキアン。
 なおも、にじり寄ってくる子供たち。その小さな手がルキアンのフロックの裾を握った。そして足首、膝と、あちこちに冷たい手が掴みかかる。
 無数の手をルキアンは必死に払いのけようとする。だが突然のことに頭の中が真っ白になってしまい、身体がこわばって動かない。砂糖に群れるアリさながらに、幼い霊たちが押し寄せる。

 ところが……。

「き、君たち。あ、あ、あの、も、もしかして」
 ルキアンは恐る恐る話しかけた。唇が凍えきってしまったように、上手く動かない。
「みんな、僕に、助けを?」
 幸いにも小さな霊たちが敵意を持っていないことを、ルキアンは恐怖の中で直感した。生者に対する憎しみに駆られて取り殺そうとする亡者どもとは、少なくとも異なる。彼らはむしろルキアンに救いを求め、すがりついているようにも見えた。
 ――落ち着くんだ、これは幻なんだ。
 状況を理解し、ルキアンはわずかに冷静さを取り戻す。そして、困惑しながらの思考であっても、彼はひとつの矛盾に気がついた。
 ――そう、これは幻……。しかも今までの三つの部屋の幻は、すべて僕の記憶と関係があった。そうだ、これは僕を苦しめるために生み出された幻覚のはず。そこには必ず《意味》があるはず。でもおかしい。僕には全く分からない、この子たちのことが……。
 真っ暗闇の中で子供の霊が群れ寄せる光景は、その意味や脈絡などを一切抜きにしても、本能的に人を戦慄させずにはおかないだろう。だが逆に、ルキアンにとって、目の前の状況は単に恐ろしいだけの、意味の分からないものにすぎないのだ。

 すると、そんな彼の疑念に呼応するかのように、影絵のごとく一人の少女の姿が闇に浮かび上がった。ルキアンは再び恐怖にとらわれる。現状と彼とを結びつける《意味》が生まれてしまったのだ。明らかな既視感。はっきりと見えない人影のような姿だが、この少女はルキアンにとって確かに見覚えのあるものだった。
 ――ずっと昔、夕暮れの中で僕と手をつないでいた、あの……。
 暗がりにぼんやりと浮かんだ少女の影は、ルキアンの方に手を差し出してつぶやく。

「まだ思い出さないの?」

「そんなことを言われても。君は、君たちは、一体、誰なんだ」

 ◆

「まさかな。最後に、このようなことになろうとは」
 アマリアは感慨深げにつぶやいた。彼女は再び水晶玉の前に座し、幻の世界の中にいるルキアンを見守っている。
「ナッソス家のもつ旧世界の超兵器は、少年の記憶を探り、それを再構築して、最も忌むべき心の傷を彼に突きつけた。そのはずだった。彼の心にとどめを刺すために」
 立体映像のように傍らに浮かび上がる、半ば実体化したフォリオムに対し、アマリアは厳かに語り続けた。
「だが肝心のルキアン・ディ・シーマーには、目の前の幻の意味さえ分からないのだから。自分の記憶の底に刻まれているはずの真実に、彼はまったく心当たりがないらしい」
「ほぉ。あまりに忌まわしい記憶を自ら忘却してしまったとでも?」
「違うな、ご老体。結論から言えば」
 フォリオムの問いに対し、アマリアは静かに首を振った。

《この少年は、過去に何者かによって記憶を操作されている》

 と、アマリアは不意に鋭い声で言った。
「相手の方もそのことに気づいたか。今からもっと直接的な手で攻めてくるらしい」
「たとえ幻の世界であっても、あれほど完璧な幻であれば、そこで死んだ者は現実の世界でも命を失うじゃろう。最も単刀直入にして、最後の手段というわけか」
 もはや好々爺ではなく威圧感すら漂わせるパラディーヴァとしての声で、フォリオムはつぶやいた。
「では、お手並み拝見といこうかの。闇の御子、我らが長よ」

 ◆

 ルキアンの前で異変が起こったのもその時だった。例の少女の影はたちまち霧散し、再び何者かの姿になってルキアンの前に立ちはだかる。
「お、お前は?」
 今度現れた者があまりに異形であり、しかも明らかに敵意を持った存在だとルキアンは直感し、思わず身構えた。
 暗闇の中に浮かび、ぼんやりと光る姿。一見、それは人間大の巨大な蝶のように見えた。だが、蝶の身体に当たる部分は人の脳のようなものであり、不気味に脈動している。節くれ立った細長い足が、そこから何本も生えていた。
 ――我が名はソルミナ。幻影の支配者なり。
 本性を現したそれは、ルキアンの心に直接語りかけてくる。ルキアンに答える余裕すら与えず、ソルミナの翼にある無数の目が光った。
 これを合図に、先ほどまで静かだった子供の霊たちが瞬時に姿を変える。彼らは悪夢のような人形となって実体化し、口をカタカタと鳴らしながら、一斉に奇声を上げて飛び掛かってきた。

 その直後、暗黒の世界にルキアンの絶叫が響き、そして消えた……。


【続く】



 ※2010年5月~9月に、本ブログにて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第46話・後編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


6 第一の部屋「真昼の光の間」



「この感じは……」
 周囲を覆っている何かの気配を、ルキアンは明確に把握した。およそ感じられる限り、どこまでも、奥深く、すべてを一色に塗りつぶしているような。そう、すべてをひとつの色で――漆黒、闇の色で。
 急に立ち止まり、しばらく身じろぎもしないルキアン。突然に牙を向いた何かの巨大な力に恐怖を感じているのか、あるいは慎重に様子をうかがっているのだろうか。壁にかかった松明の灯りに、彼のシルエットが浮かび上がる。普段は自信なさげに背を丸めている感のあるルキアンだが、いま、彼の影のかたちは少し違う。姿勢を真っ直ぐに正し、目を閉じて何かに耳を傾けているようにみえた。
 ――なぜだろう。懐かしい感じがする。暗がりの中で、周囲の影がまるで僕をそっと包んでいるみたいだ。知ってる。これと同じような気持ちになるのは、僕がアルフェリオンのケーラの中に横たわったとき。そして。
 以前にエルヴィンの告げた言葉を、ふとルキアンは思い出す。

《あなたは孤独を恐れている。独りでいるときには、ただ寂しいとか、そこから逃げ出そうとか、そんなことばかり考えている。だから、見えるはずのものも見えない。勇気を出して……目を閉じて、静寂とひとつになるの。そうすれば気づくはず。あなたは何も感じない?》

 ――そうだ。リューヌの気配とも似ている。これが《闇》の……。いや、こんなことをしてる場合じゃない!
 冷たく暗い地下深きところで、場違いな心地よい陶酔感すら感じつつあったルキアン。だが彼はようやく我に返った。
「僕が見ているのは、あの赤い結界の創り出す幻に違いない。シャリオさんの言っていたおとぎ話に似てる。これが《心の檻》なのかも。早くみんなを助けないと」
 とはいえ、気持ちばかりが焦るものの、現状を打開するために何をしたら良いのか分からない。
「ここに立っていても仕方がないし、ともかく進む、しか、ないのかな」
 得体の知れない魔力で閉ざされてしまった扉を前に、ルキアンは意外にもあっさり決断した。常識の通用しない夢幻の世界に対し、なぜかさほどの動揺もせず対応している自分自身が、ルキアンにも不思議だった。
 今しがた引き返して上ってきた階段を再び下りようとする彼の前には、この場所一帯を呑み込む巨大な力が充ち満ちている。だが、ルキアンは淡々と階段を下りる。無限に近い時を経たかのように思わせる、滑らかにすり減った石の段を、コツコツと小さな音を立てて進んでゆく。
 行けども行けども続く階段。一段一段、もはや惰性で歩みを進めていたルキアンだったが、突然に足元が平坦になり、前のめりに転んでしまいそうになった。
「な、何。階段が……終わった? 今までと雰囲気も違うようだけど」
 ルキアンの行く手には廊下が延びていた。靴を通して伝わってくる足元の感覚も違う。硬い石の床に変わって、赤い絨毯が敷かれている。心なしか、壁に掛かっている松明の明かりも今までより強く感じられた。

 ◆

 廊下は、ときおり曲がったり、分かれたり、再び真っ直ぐになったりを繰り返しながら、延々と続いている。いわば「迷宮」とでも呼ぶべきか、かなり複雑に入り組んでいるらしい。別に何かの根拠があって進む道を選んでいるわけでもないのだが、ルキアンは己の直感に従って、あるいは何かに導かれるかのごとく歩みを進めた。
 しばらく行くと、廊下の両側に部屋が並んでいる場所に出た。左右にそれぞれ一部屋ずつ、そして前方には別の扉がある。正面の扉に何らかの強い力を感じたルキアンは、慎重に近づき、様子を探ってみた。ノブに手を掛けてみたが――彼もそう予想していた通り――開きはしなかった。鍵が掛かっているだとか、そういった次元の話ではなく、ドアノブ自体がびくともしないのだ。
 だが、この先には何かが待っている。今さら引き返して違う道を探すのもためらわれたので、ルキアンは左右の部屋らしき場所をまず調べてみることにした。
「今までの階段や廊下とは違う、特別な何かがこの部屋の中にもある気がする」
 念のため、ぎこちない仕方で細身のサーベルを抜いたルキアン。たとえへっぴり腰で闇雲に振り回されるだけの剣であっても、万一の時には何もないよりましだろう。
「あ、何か書いてある」
 部屋のドアに近寄ってゆくと、錆びて色褪せた真鍮製のようなプレートが打ち付けられていた。そこには魔道士たちの使う古典語の文字が並んでいる。

 《真昼の光の間》

「それにしても、どうしてこんな手の込んだ、しかも意味の分からない幻を僕に見せるんだろうか」
 彼は不思議に思った。結界の創り出す幻が、もっと露骨な支配力を及ぼしてくるものだとばかり考えていたのだが。
 ――おそらく、この扉は開く。僕に何かを見せようとしている。
 直感的に予測したルキアンは、右手にサーベルを握ったまま左手でドアを開けようとした。彼の予想通り扉は造作もなく開いた。

 ◆

 扉を開けたとき、ルキアンは思わず声を上げた。内部の不可思議な様子に驚く前に、まず彼は正面に座っている人物に驚いたのだ。
「ど、どうして君が!」
 窓から差し込む陽光を受け、繊細に照り映える金色の髪。その輝きは、《彼女》のまとっているレディンゴート風の黒い上着を背景に、いっそう引き立って見えた。胸元には赤いスカーフ、視線を上に移動していった先には、ルキアンのよく知っている顔があった。どこか物思いに沈んだような、神秘的で、理知的な黒い瞳がルキアンの視線とぶつかる。
「ソーナ」
 彼女の名を口にしたルキアンに、目の前の人物は微笑む。
「あら、どうしたの? そんな驚いたような顔をして」
 何故か急に恥ずかしくなって、ルキアンは目線をそらす。ソーナの背後には、壁いっぱいにといってもよいほど大きく造られた窓があり、そこからは真昼の光が部屋の中に燦々と入り込んでくる。
 ――やっぱり幻なんだ。今まで地下深くへと降りてきたはずなのに、こんなところに青空が見えるなんておかしいよ。
 ルキアンがそう思ったとたん、その気持ちを読んでいるとでもいうふうに、ソーナが穏やかな口調で語りかけてくる。
「何をって……何があったの? こちらが聞きたいわ。急に変なことを言うのね、ルキアン」
 ――こんな見え見えの幻で、僕がどうにかなると思っているのか。
 毅然と、心の中でそうつぶやいたとき、同時に別の気持ちがルキアンの中に強くわき上がってくる。しかも彼は、その気持ちを無意識に口にしてしまった。
「どうせ、ソーナは僕のことなんか……」

 《そう。どうせ、僕なんか》

 窓越しに柔らかに舞い降りる真昼の光のもと、ルキアンの心の中に暗い影がわき上がり、彼の胸の内は、諦めと怒りと哀しみの入り交じったような何とも言えない感情に覆い尽くされてゆく。もう、目の前の光も、ソーナの姿さえも、目に映っているはずなのに彼には見えない。
 ――カルバ先生の家で、僕は生まれて初めて温かく迎えられた。毎日、穏やかで、みんな僕に優しくしてくれた。そう思えた。でもあそこには僕の居場所はなかったんだ。
 兄弟子ヴィエリオと親しげに談笑するソーナの姿が、ルキアンの心に浮かぶ。
 ――僕は見ていたくなかった。あの《日常》からどこかへ行きたかった。もっと別のどこかに。どこかへ飛んでいってしまいたかった。
 黙ってソーナの幻を見つめていたルキアンは、背筋を伸ばして言った。
「カルバ先生の一家はバラバラになってしまった。ソーナもどこかへ連れ去られた。だけど……あの日、クレドールが僕に《翼》をくれたんだ。みんなに起こった不幸を棚に上げて、僕に翼ができたなんて言うのは勝手だと分かってる。でも、でも、今はとにかく」
 ルキアンの声が、いつにないほど大きくなった。まるで、この幻を生み出しているであろう赤い結界に対し、自分の言葉を突きつけるかのように。
「僕に翼をくれたクレドールの仲間たちを守る!」
 自分でも何と表現してよいのか理解できないほど、複雑な気持ちにルキアンはとらわれた。仲間を助けようとする率直な思いと、そうすることがあたかも目の前のソーナの幻に対する当てつけでもあるかのような、彼女に対する自分のかなわぬ想いを相殺し決別することでもあるかのような感情とが交錯し、ひどく歪んだ義憤が彼の中に満ちた。
 ルキアンの怒りは、あの赤い結界に向けられている。
「こんな陳腐な幻で人の心をもてあそんで楽しいの。この程度のことで、僕の心に手を触れようとでも思ったの? 違うよ。違う。お前なんかの手の決して届かない、深い闇の中に僕の魂は……」
 奇怪な感情の迸りの中で彼は同時に自覚していた。あの《眼》のイメージが再び現れ、今までよりも大きく開こうとしているのを。そしてルキアンが激高し、何か叫ぼうとしたとき、瞬時にすべてが暗黒に包まれた。
 何故かその闇は、彼が先程から感じていた例の力、この場所を支配する何らかの力と一体化しているように思われた。

 ◆ ◇

「そういうことであったか。《御子》のための糧とは」
 例によって水晶玉に映るものを遠い目で見つめるアマリア。彼女の隣では、地のパラディーヴァ、フォリオムが冷やかしている。
「闇の御子が結界に入り込んだため、今まで見通せなんだ中の様子、いや、闇の御子を取り込んだ幻の世界が、彼の《眼》を通じてお主にも見えとるようじゃの。ほっほっほ。まこと、それでこそ《紅の魔女》、完全に覚醒した御子の力というものは恐ろしいのぅ」
「当然だ。すべての御子はそれぞれの《通廊》を経て、《対なる力》を介してお互いにつながっているのだから。もっとも、あの少年にはまだ分かるまいが」
 アマリアは、フォリオムのからかいに乗らず、淡々とした答えを返す。いつものことだ。
「じゃが、我が主アマリアよ。闇の御子は自分の力を知ってさえいないではないか」
 パラディーヴァの精神はマスターのそれと同化しており、わざわざ問う必要など本当は無い。それゆえ、続くアマリアの言葉は、フォリオム自身もすでに分かっている答えを表現したものでもあった。
「たしかに現実の世界においてはそうだ。しかし彼がいま置かれているのは幻の世界。現実ではない夢幻の中であれば、ルキアン・ディ・シーマーの《パンタシア》の力にも際限はない。そして先ほども予兆はあったが、無意識のうちに彼が本来の力を振るったとき、たとえ幻の中ではあれ」

 《彼のダアスの眼は開く》

「非現実の夢の中であるにせよ、ルキアン・ディ・シーマーが《眼》の開く感覚をいったん知ったならば、今度は現実の世界で《眼》を開くこともそれとさほど変わらない。容易いことだ」
 アマリアは急に醒めた表情になり、もはや無意味であると言わんばかりに水晶玉を見つめるのを止めた。
「これまで《あの存在》によって封じられてきた我らが盟主は、ナッソス家のもつ旧世界の超兵器が《偶然》にかかわったことにより、間もなく目覚める。これも《あの存在》の司る因果律に対する、《対なる力》の干渉だと解すべきか」

 ◇ ◆

 気がつくと、ルキアンは部屋の前に戻っていた。ソーナの幻もそこには無かった。扉をよく見ると、《午後の光の間》と書かれていた例のプレートが唐突に音を立てて砕け、床に散った。
「いま、僕は何を……。いや、ともかく急がないと」
 ルキアンは、もう一方の部屋のドアの前に立った。今度は次のように書かれたプレートが付いている。

 《近づく日暮れの間》


7 失われた過去と最後の扉



「《真昼の光》から《近づく日暮れ》か……」
 第一の部屋の名と第二の部屋の名。ルキアンは次第に傾いていく太陽を想像し、何となく不安な気分になった。だが彼は躊躇せず扉を開く。そのとき、宙に浮くような感覚と目まいを覚えた。

 周囲が暗い。部屋の中に入ったはずなのに、いつの間にかルキアンはどこかの廊下らしき場所にいた。暗がりに目が慣れるよりも早く、彼は辺りの様子を理解する。《ここ》がルキアンのよく知っている場所だったからである。
 目の前に半開きのドアがあり、そこから光が漏れてくる。人が居るらしく、中から話し声が聞こえてきた。
 ――あの結界は僕の記憶を探っているのか。だけど、こんなことでもう苦しんだりしない。僕は負けない。
 心の中に深く刻み込まれた傷。幼い頃のルキアンを絶望の底へと突き落とした両親の会話が、扉の向こうから聞こえてくる。

「ねえ、あなた……あんな子なんてもらわなければ良かったわ」
「声が高いぞ。あの子が聞いていたらどうするんだ」
「大丈夫ですわ。もう寝てますよ」

 これまでに何度思い起こしたか分からない惨めな記憶を、ルキアンは今、あのときの現実と寸分違わぬ状態で再び目にすることになった。あのとき、幼いルキアンは声も立てずに鳴きながら、そっと自分の部屋のベッドへと戻っていった。だが今の彼は、苦しむどころか怒りに震え、これが幻であることなど忘れて部屋の中に入っていこうとしている。
 冷静さを失いかけていたルキアンだったが、そのとき、何かの偶然で彼は不意に考えた。いま思えば、両親のあの会話に奇妙な点があったと。そう、父親の次の言葉だ。

「まあ、やむを得まい。金になるんだ。わが家を守るためには……」

 ――《金になる》? そういえば、変だよ。
 己の辛い体験を、いくらか突き放して見つめることができるようになった今、ルキアンは初めて気づいたのだ。
 ――お金に困ってたのは知っていたけど、僕を引き取って育てたことがどうしてお金に結びつくんだろう。逆に、僕みたいな《いらない子》を養うのはお金の無駄だったんじゃないのか。父さんと母さんが僕をカルバ先生のところに弟子入りさせたのだって、口減らしのためだと思っていた。
 《盾なるソルミナ》の創り出す幻は、ルキアン自身が現在まで忘れていた記憶を、彼の頭の中から引き出して紡がれているようであった。そういえば、確かにあのとき、両親はこんなことも話し合っていた。

「とにかく16歳まで面倒を見れば大金が手に入る。あとは、とっとと追っ払って」
「えぇ、あんなどうしようもない子とも、あの薄気味悪い連中とも、早く縁を切ってしまいたいもの」
「その話は出すな。彼らのことは決して口にしないようにと言われたじゃないか」

 ――はじめから僕は、16歳になったとき、家から出されることになっていた?
 忘れもしない16という歳。2年前、カルバ・ディ・ラシィエンの研究所にルキアンが内弟子として引き取られたときだ。
 ――それに《薄気味悪い連中》って……。
 ルキアンの中でますます疑問が大きくなったとき、彼はまた目まいを感じる。

 無言で立ち尽くすルキアンのすぐそばで、金属がひび割れ、小さく弾ける音がした。どういうわけか、彼は再び部屋の前に戻っていた。《近づく日暮れの間》と書かれた例のプレートの破片が床に散らばっている。
 呆然と足元を見つめる彼。
 そのとき、別の扉がきしみながら開く音がした。そう、ドアのノブすら動かすことのできなかった、件のもうひとつの扉である。ルキアンは急に背筋が寒くなった。瞬間、形のはっきりとしない様々なイメージが彼の脳裏を飛び交う。今まで感じなかった恐れがルキアンの全身を支配した。
 開かずの扉は、そこには誰もいないはずなのに、ルキアンを招き寄せるかのごとく自ら開いた。その先に見えるものに彼は直感的に戦慄を感じたのだ。扉の奥にはもうひとつの扉があった。そして、これまでの二つの部屋と同様、入口にプレートが掲げられている。

 《落日の間》

  ――僕は、僕はどこにいたんだろう。家にもらわれてくる前に。
 ルキアンが戦慄を覚えた理由、それは、この一連の幻にまだ続きがあるということだった。彼自身は覚えていない。そもそも、いつからシーマー家に引き取られたのかということを。物心ついたときには、すでにあの家にいたような気がする。しかし記憶が曖昧で、考え込むうちにルキアンには次第に自身がなくなってきた。
 ――僕の記憶。どこまでが本当で……。こ、これは!?
 ルキアンは進むのをためらっていたが、いつの間にか、彼は新たな部屋の中に取り込まれていたのだ。しかも部屋と言いつつ、そこに広がっていたのは外の世界だった。
 すべてを夕闇が支配している。薄明が今にも消え去り、夜がやってきそうだ。逢魔が時、同時にルキアンが否応なく想起させられたのは、先日、クレドール最上層の回廊で起こった出来事だった。夕暮れが引き金となって初めて思い出したあの記憶。

 「今みたいに、もうすっかり暗くなった夕方、心細い気持ちで歩いていたとき……。ずっと昔、いつ? 思い出せないほど前、僕が本当に幼かったとき?」
  彼の口から、途切れ途切れに言葉が漏れる。
 「そのとき、僕は……。僕は、そのとき……独りでは、なかった?」
  はっきりとしたものが何もない、黄昏色の虚ろな記憶の中に。
  隣に誰かがいる。
  小さな手を、しっかりと握る、もうひとつの小さな手……。

 そして、あのときはエルヴィンに突然止められたのである。彼女はこう言った。

 「それ以上、思い出してはいけない」
 「ものごとには、そのために予め定められている《時》がある」

 ルキアンはもはや落ち着きを保っていられなかった。第一の部屋と第二の部屋の幻夢が、実は第三の部屋に至る物語の流れを生み出すための単なる前章に過ぎなかったということに、彼は今さらになって気づいた。自分が幻に打ち勝ってきたと思いつつ、実はルキアンは最初から《盾なるソルミナ》の術中にはまっていたのだ。
 影に塗りつぶされた夕暮れの曖昧な景色の中、ルキアンの前方に、彼が無意識のうちに最も恐れていたものが現れた。

 ――扉だ。あの先には。

 周囲の薄闇を圧倒する一段と重々しい漆黒色の扉が、あたかも地面から突き出してきたかのように、ぽつんとそこにあった。ドアと表現するより城門とでも呼ぶ方が相応しい、見上げるほどの巨大な石造りの扉である。
 これまでの三つの部屋のことを考えると、新たな扉の向こうには、ルキアンのさらに昔の記憶が待っているのであろう。唇を振るわせながら、彼は呆然とつぶやいた。
「これよりも先の記憶なんて……僕には、無い、はずだ。いや、あの《夕暮れ》の記憶だって、あまりにもぼんやりとして、本当なのか嘘なのか分からない」
 うなだれて地面を見つめていたルキアンが、ぼんやりと頭を上げると、なぜか黒い扉が先ほどよりも近くにあるような気がする。いや、そういう気がするのではなく、実際に扉は近づいている。そして扉には、やはり、くすんだ真鍮色のプレートが付けられている。そこに刻まれた最後の部屋の名前は、ただひとこと。

 《夜》


【第47話に続く】



 ※2009年11月~2010年4月に、本ブログにて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第46話・中編


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4 屈服? 永遠の心の檻に囚われたメイ



 ◆ ◆

 緑の野辺に緩やかな曲線を描きながら、流れる小川。
 大地に降ってわいたかのような大輪の赤い花、黄色い絨毯さながらに広がる可憐な花々、何らかの花が咲き終わった後に残った白い綿帽子――岸辺には様々な花が咲き乱れている。
 見覚えのある、いや、自分が一番好きだった風景を目の前にして、メイはゆっくりと歩いて行く。
 前方で数名の人間が手を振っているのが、ぼんやりと見えた。川沿いの草原に豪奢な敷物を広げ、白木造りのイスとテーブルを置き、野外での茶会に興ずる人たち。
 若干、今までよりも歩みを遅らせ、彼女は、手を振る人影の方に近づいていく。
 巻き髪のカツラを被り、立派な口髭を生やした中年の男が、メイの方に向かって黙って頷いている。その隣では――目元や鼻筋がメイにとてもよく似た――同じく中年の貴婦人が手を振っている。周囲には数名の付き人もいた。
 貴婦人の口から、メイオーリア、と、彼女の本名を呼ぶ優しげな声がした。

 メイは立ち止まり、その様子をしばらく感慨深げに見つめた後、寂しげにつぶやいた。
「あのさ、悪いけどもう、そういう感傷はとっくに捨てたんだからね」
 若干の自嘲的な笑みを交えて、メイは誰に聞かせるともなく、ひょっとすると自分自身に対して語り続ける。春霞を伴う陽光の下、彼女の表情に陰りが浮かんだ。
「そうでなきゃ、そんな思い出にしがみついたままじゃ、あたし、どうにかなってた」
 姉貴分のシソーラ・ラ・フェインによく似た口ぶりで、彼女は言う。
「あのねぇ、こんな茶番で、このメイ様を化かせるはずないワケよ」
 やにわに、メイは腰のピストルを抜き、空に向けてぶっ放した。あくまで穏やかな世界に銃声が轟き渡る。
「ずいぶん下品になったもんでしょ、あたし。こんな子に育てた覚えはないって……言われるかもしれないけど。たとえ、幻でも、こうして再び会えて嬉しかったよ、父さん、母さん。でも、分かってるのさ」
 それまで潤んでいたメイの瞳に、いつもの鋭い輝きが戻った。
「これは幻。今のあたしは、ラピオ・アヴィスに乗って戦ってたはず」
 通例、魔法が創り出した幻覚というものは、それが現実ではないことを完全に確信した者に対しては効果を失う。メイはまさに、彼女の眼前に広がる世界が虚構であることを最初から見抜いていた。

 そのはず、だった。

「おやおや、無粋な人ですね」
 よく知っている声が聞こえた。一瞬、メイの身体が、ぴくりと硬直する。
 悪夢でも見ているかのように、何とも言えない複雑な顔つきで、メイは振り返った。何気なく、彼女が川面に視線を走らせると、マスに似た魚が素速い動きで鱗を光らせるのが見えた。そして、川縁で釣りをしている一人の男にメイの視線は向けられた。
 男は、眼鏡の奥で、にっこりと眼を細める。やや暗めの金色の髪を背中で一本に束ね、茶色のフロックに、珊瑚色のヴェストをまとい、金の鎖の付いた懐中時計を手で無造作にもてあそんでいる姿は……。
 ――これは偽物だって、幻だって、分かってるのに、なぜ抜け出せない!?
 メイは明らかに動揺していた。単に魔法が解けないだけでなく、むしろ、眼の前にいる幻の人に対して。
「ふふ。これが幻でも本当でも、そんなことはどちらでも良いではありませんか」
 心地よい声で釣り人はそう言うと、メイの方に向かっておもむろに歩み寄った。
「クレ……ヴィー」
 メイは後ずさった。眼の前の幻を、なぜかひどく恐れているようだ。一体、何を恐れているのだろうか。
「あたしは、あたしは……」
 メイは頬から首筋まで紅潮させ、何か後ろめたさを感じているように、さらに後退した。しかし彼女の動きは、人形のごとくぎこちなかった。
「たとえこれが幻でも、永遠にこの心地よい嘘の世界にいられたら。そんなふうにあなたは思っていますね?」
 明らかに幻覚であるはずのクレヴィスがつぶやく。次の瞬間、その偽りの存在の腕の中に、メイの身体はそっと抱きしめられていた。
「疲れたでしょう。あなたはよく頑張りましたよ。もう、ずっとこの世界に居ていいのです。あなたが密かに心の奥で考えていること、すべて私には分かります」
 目を見開き、口を開けたまま、メイは涙声でうめいた。
「あたしがいくら望んでも、あたしの気持ちを知っているのに、あなたは残酷なほど優しくて、そして遠かった。いつも誰にでも優しくて、でもあなた自身は、この世界にただ一人舞い降りた、本当は微笑の下に完全な孤独を背負った天使のような……」
 あっけないほどにメイは敗北の涙を流した。
「分かっているのに……。私は弱い。たとえ幻でも、思いが遂げられるのなら。現実では決して報われない思いだと知っているから」
 意識の中にどす黒い闇が流れ込んでくるかのごとく、あるいは、むしろ自らの内に秘めた欲望の影が何者かによって膨張させられていくかのように、メイは思った。
 ――この魔法は、たとえ幻だと分かっても、自分が少しでもそうであってほしいと願っている限り、決して解けない?
 理性を保ったまま、しかし妄想に対して完全に敗北を認めたメイ。その心を、ソルミナの魔力が容赦なく蝕んでゆく。

 もはや彼女は、決して自ら抜け出せない永遠の心の檻に囚われてしまったのだ。

 ◆ ◆

 ――いけない。こんな大事なときに、僕は何を、余計なことばかり考えてる!
 ルキアンは意識を集中する。
 乗り手の意志に反応し、空中に静止していたアルフェリオンにも変化が現れる。今にも再び羽ばたかんばかりに、その翼に魔力が漲ったように感じられた。太陽の光のもとでは分かりにくいが、よく見ると、微かな青白い輝きが翼の表面で揺らめいている。
 ――ルキアン・ディ・シーマー、今からナッソス城の《結界》の中へ、偵察に……そして、メイやバーンたちの救出に向かいます。
 ルキアンはクレドールに念信を送ると、底知れぬ魔力を秘めた《盾なるソルミナ》の赤き結界を改めて見据えた。決意を込めて。
 アルフェリオンの《ステリア》の力を初めて発動させたとき、リューヌが告げた言葉を、ルキアンは思いだし、胸の中で何度も反芻した。
 ――《大切な人たちを助けたいと心から祈りなさい。未来を取り戻したいと強く願いなさい。そして、自分にはそれができるのだと、まずあなた自身が信じるのです》。

 輝く六枚の翼を煌めかせ、銀の天使が悠然と動き出す。
 ついにルキアンは行動に移った。


5 闇の生まれたところへ



 《盾なるソルミナ》の赤い結界にアルフェリオンが突入した瞬間、ほんの一瞬だけ、ナッソス城の姿が地上に見えたような気がした。だがそう思ったとき、ルキアンの瞳には、もはや完全に異なるものが映っていた。

 薄暗い視界が、徐々に輪郭を浮かび上がらせる。
 目の前の様子が変わっただけではない。どこかに立っている。アルフェリオンの機体ではなく、己の足で。自分の身体? そんなはずはない。彼の身体は、機体の《ケーラ》の中に横たわっているはずだ。
 不意に、冷たくて硬い感触を指先に覚え、ルキアンは慌てて右手を引っ込めた。何か壁のようなものに触れていたらしい。ケーラの内壁の金属的な触感ではなかった。表面が平らながらも若干のザラザラした感じは、磨かれた石を思わせる。
 瞬きするかしないかの間に、ルキアンの五感はアルフェリオンの機体からすでに離れており、彼は生の身体を通じて世界を感じていた。
「よく分からないけど……僕は、アルフェリオンから、降りている。ということは、今まで何をしていたんだろう。結界に入って、それから……」
 ルキアンは、長い夢から唐突に覚めたような奇妙な気分になった。いや、本当は彼のいま置かれている状況こそが、夢幻のまっただ中、あるいはとびきりの悪夢であるはずなのだが。
 周囲の暗さに目がまだ慣れてこないものの、辺りは完全に真っ暗ではなかった。ランプの炎のような、淡い橙色の光が薄闇を照らしていた。
 驚きの言葉すら口にできず、ルキアンは呆然と周りの様子を確認し始めた。四方は壁だった。どの方向に手を伸ばしてみても、すぐに壁に手が届きそうだ。どうやらここは、狭い箱のような部屋の中らしい。どこかに閉じ込められているのかと、ルキアンは急に不安になり、慌てて周囲を見回した。
 壁に松明が一本掛けられていることに、ルキアンは今さらながら気づく。その灯りに浮かぶ部屋の状態から、彼は石造りの地下牢を連想した。

 ◇

 落ち着いて前を見ると、そこは単なる壁ではなく扉になっている。鍵が開くのか、どこにつながっているのかなどと考える以前に、ともかく扉の存在自体がルキアンには嬉しかった。
 ほっと一息つくと、彼は何気なく振り返る。すると今度は背後の壁にも扉があった。 本来ならここで少しは迷うはずだが、なぜか無意識のうちに、ルキアンは前方の扉に手を掛けていた。金属製の枠の付いた分厚い木製の扉。それは鈍い音を立てて、しかし思ったより滑らかに、たやすく開いた。かび臭い空気が漂う。
 突然、足を踏み外して転びそうになるルキアン。壁に手を突いて必死に身体を支えると、彼は恐る恐る足元を見た。
 大人ひとり通るのがやっとの、狭くて急な階段が下に向かって続いている。壁面には点々と松明がかかげられているが、それでも奥の方の様子までは分からない。両側から石壁に押しつぶされそうな、非常に圧迫感を覚える場所である反面、頭上に視線を向けるとずっと先まで闇の空間が伸びており、天井がどこにあるのかまったく見通せない。
――嫌だな。この感じ。何となく、あそこに似ている。
 《パラミシオン》に取り残されていた例の《塔》の中、生理的に嫌な感じのする、青白く仄暗い光に照らされた7階の廊下を、ルキアンは思わず想起した。金属の壁や無数の機械じかけで覆われた旧世界の塔と、石造りで中世の地下牢のごときこの場所とでは、外観はまったく違う。だが何というのか、そこにいると大地の割れ目に突き落とされたような気分になるという点では、両者は一致している。
 幸いなことに、あの《塔》の7階を覆い尽くしていた異様な空気感あるいは妖気とでもいったものは、ここでは感じられない。
「いや、違う……」
 ルキアンはつぶやいた。彼は目を閉じ、周囲に意識を集中する。
 違うのだ。妖気を感じないどころか、このような密閉された暗い空間にありがちな、人間が本能的に感じる心細さや不気味さまでも、なぜか感じられないのだ。
「違う。何かがおかしいよ」
 周囲に生き物や人間、あるいは霊的な存在も含め、何らかの気配がないか、ルキアンは探ってみた。そのくらいのことは、見習いではあれ魔道士の彼なら可能である。
 何の気配も感じない。人間はおろか、虫一匹うごめくことすらない。
 ――たいていの場所には、そこに固有の《気》があるけど、ここは……なんていうか、分からないけど、《空っぽ》のような、何もない真っ白な感じがする。
 ルキアンはともかく階段を下りることにした。いつまでもここで立ち止まっていても仕方がない。
 一歩、二歩、慎重に歩みを進める。
 それがどのくらい続いたのか、次第にルキアンの足取りは速くなっていた。
「どこまで続くんだろう?」
 彼は不安になりながらも、下へ下へと降りていく。地の底まで続くのではないかと思えるほど、ただ真っ直ぐに長い階段。少し足が疲れてきた頃、ようやく変化があった。

 ◇

 目の前に扉があり、階段はそこで終わっている。
 いかにも意味ありげに突然現れた扉に、ルキアンは躊躇する。しかし、ここまで降りてきた以上、先に進むことにした。
 扉に手を伸ばす前に、彼は周囲を慎重に確かめる。何らかの情報を与えるようなものはないか、仕掛けや罠はないか。冷静さが戻ってきたようだ。先程まで何も考えずに進んできた自分の行動に、ルキアンは今さらながら冷や汗をかく。
「文字とか、絵とか、まったく描かれてないな。何の変哲もない木のドアのようだけど」
 何度か、手をおずおずと伸ばしては引っ込めていたルキアンだったが、ようやく扉の取っ手を握った。そっと引っ張っても動かない。慎重に押すと、重たい手応えはあったが、どうやら動きそうだ。石の床と木でできた扉の底が擦れ合う感覚。かなり力を入れて両手でさらに押すと、ひとまず問題なく開いた。
「あれ?」
 ルキアンは首を傾げる。何が現れるのかと緊張していたところ、そこには、また階段だけが下に向かって伸びていたのだ。
「進む……しかないのかな」
 落ち着きを取り戻しつつあった彼は、今度は、壁に何か変わったとことがないか、気を配りながら階段を下りていった。ひょっとすると隠し扉のようなものがあるかもしれない――いや、何の仕掛けもなく、ただ真っ直ぐに階段だけが伸びている方が、よほど怪しげだが。

 ◇

 さらに歩いた。それでも何も見つけられないまま、再び扉が現れた。今まで降りてきた階段を見返すと、急に徒労感を覚え、溜息をついたルキアン。
「この扉を開けたらまた階段、なんてことは……。いや、そんな気がする」
 彼は立ち止まって考えてみた。何かがおかしい。
 これほど長い階段の先、どこに続いているのだろう。
 そもそも奇妙なのは、ここまで来る間にむやみに扉がいくつもあったことだ。部屋があるわけでもなく、なぜ階段の途中に扉を設ける必要があるのだろうか。
 ルキアンは、思い出したかのように周囲の気配を改めて探った。
「相変わらず何も感じない。こんなふうに、特有の《雰囲気》をまったく持たない場所なんて、妙だな」
 半ば呆れつつ、彼は扉を開いた。やはりというのか、またそこには同じような階段が延びているだけだった。
 ――階段と扉ばかり、空っぽの空間。真っ白な場所。何の別の気も感じない。ただ一色に塗りつぶされているような、何もない、塗りつぶされた……。
 そう思いながら下りていくルキアンは、不意に鋭く喉を鳴らすような声を上げた。彼の肩や指先がかすかに震える。
「違う、空っぽなんじゃない。これは、この場所はすべて、ひとつの気で覆い尽くされているんだ!」

 その瞬間、大きな音を立てて、彼の背後で扉が閉じた。

「ひとつの影がすべてを呑み込み、他の気はかき消され、真っ白に感じられたんだ」
 わめきながら、必死に駆け寄るルキアン。
「開かない!?」
 扉の取っ手にふれたとき、かすかに電気が走るかの如き、独特の感じを受けた。
 この扉は、明らかに、魔法か何かの霊的な力で封じられているのだ。

 扉一枚を隔てた向こう、これまでに下りてきた階段の様子は、ルキアンにはもう分からない。そこでは……。壁の松明の明かりが一斉にかき消え、暗黒がすべてを支配する。壁の中から、いっそう黒い闇がしみ出てきたような気がする。いや、いたるところの壁から、現に何かが流れ落ちている。それは血のように見えた。ぬめりを帯びた、どす黒い液体が床にまで次第に広がってゆく。
 もうひとつ上にあった扉も、辺りに誰もいない中でにわかに動きだし、それ自体が生きているかのように閉じられた。扉の奥、先ほどルキアンが通ってきたときには何もなかったはずの階段には、無数の白骨が転がっていた。大小無数の骨片が、足の踏み場もないほどに。

 そして、最初の小部屋からの出口となった扉。
 薄暗くて見えにくいが、扉の上の方、壁に何か書かれている。
 あのとき冷静さを欠いていたルキアンが見落としたものだ。
 子供がクレヨンで描きなぐったような、乱雑で、単純で、しかし本能的に寒気を感じさせる不気味な落書きが無数に描かれていた。
 壁にしみついたような絵は、どれも暴力的で血まみれで、狂気じみている。
 悪夢のごとき落書きで埋め尽くされた壁面には、こう刻まれていた。

 《闇の生まれたところへ》


【続く】



 ※2009年11月~2010年4月に、本ブログにて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第46話・前編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


 まだ思い出しては駄目。
 ものごとには、そのために予め定められている《時》がある。

  (エルヴィン・メルファウス)


◇ 第46話 ◇


1 第46話「深淵(前編)」連載開始!



 昼間も薄暗い艦内の廊下、淡い闇の向こうにあやかしの娘の白い衣装が見える。
「こんにちは。銀の荊」
 エルヴィンは真顔のまま唇だけを緩めた。
「こ、こ、こん……」
 声が出てこない。にわかにルキアンは喉が渇くのを感じた。急ぎ足で格納庫へと向かっていたにもかかわらず、ルキアンの歩みは反射的に停止し、彼の動作全体も金縛りにかかったかのように強張ってしまった。
 その間にもエルヴィンは徐々に近寄ってくる。ふわり、ふわりと重力感を忘れさせる彼女の足取り。その光景は、人の子を《異界(パラミシオン)》へと誘惑するという、無邪気ながらも危険な妖精の踊り子を想起させる。
 ――何だか分からないけど、苦手というか、彼女を前にすると……。
 ルキアンは、出来損ないの機械人形のごとく、突っ立ったまま呆然としていた。
 恐れているとか、緊張しているとか、意識しているとか、そういう何らかの説明可能な心の動きゆえではない。もっと本能的で無意識な衝撃。ルキアンは、エルヴィンを前にするといつも特異なプレッシャーを覚えざるを得なかったのである。
「えっ?」
 気がつくとエルヴィンは目の前に立っており、彼女の白い指が、ルキアンの胸をフロック越しに軽くつついた。
「な、何、その、急に?」
 狼狽するルキアンをよそに、エルヴィンはさらに奇妙な振る舞いに出る。彼女はルキアンの背中に手を回し、彼の胸に耳を当て、何かを聞き取ろうというふうな身振りをしている。不意に自分の胸の内にエルヴィンの体の存在を生々しく感じ取り、ルキアンは顔を首筋まで赤らめた。
「可愛い子豚さん」
 エルヴィンは、ルキアンの上着の下に手探りで何かを発見すると、意味ありげに肯いてルキアンを上目遣いに見つめた。表情の欠如した、透き通った虚無の瞳で。ルキアンは反射的に目をそらそうとするも、むしろ二人の視線は正面からぶつかってしまった。
「あなたが肌身離さず持っているもの」
 彼女の二言目でルキアンは意図を理解し、思わず上着の内ポケットに手を伸ばした。慣れ親しんだ優しい手ざわり、例の古びた布製のマスコット、物心つく前から彼が持っていたであろう小さな豚のぬいぐるみだ。

  あなたと失われた時との唯一の絆。
  でもそんなものは捨ててしまえばいいのに。
  絆が取り戻されることは、封が切られること。
  記憶は刃となり、時に持ち主の生を奪う。
  真実は喜びのためにだけあるのではない。

  絆など永劫の淵に沈めておきなさい。
  扉の先にあったものの意味をずっと知らぬまま、
  あなたはあなたでいられるよ。
  それでも絶望に向かって希望を見いだしながら進む、
  虚ろなお馬鹿さん。

 硝子造りのベルが軽やかに響くように、エルヴィンの声は澄んだ謎歌を紡ぐ。

「どういう意味? 何ですか。からかうのはやめてよ。僕は、僕は今から……」
「くすっ。だったら、もうひとつ教えてあげる。《今回は特別》だから」
 やっと我に返りつつあるルキアンに対し、エルヴィンは予言詩めいた新たな言葉を語り始めた。不意に、彼女の体から何かが迸る。火花が――実際にはそんなものは散っていなかったにせよ――しかし青白い火花が辺りに舞ったかとルキアンには感じられた。相変わらず人間離れした、エルヴィンの凄まじい魔力。

  荒れ狂う炎を宿した戦慄の戦士。
  金剛の爪は、立ちはだかるものすべてを引き裂き、
  血に飢えた牙は敵の肉を喰らう。
  憤怒の面は顕現し、天の騎士は慈悲なき鬼神と化す。
  その無双の力の前に、抗う者は己の運命を嘆くであろう。

「私には見える。《宿命(ほし)》が見える、銀の荊よ」
 もう一度、エルヴィンはルキアンの目を真正面からのぞき込む。
 妙に長く思える沈黙の時間が、数秒――それから彼女は声を立てて笑った。

  《ごきげんよう》

 そう告げて彼女は、薄暗がりの向こうにすうっと立ち去っていく。
 憑き物でも落ちたかのように、ルキアンの体は再び自由を取り戻した。

 ――荒れ狂う炎を宿した戦慄の戦士。似たようなことを前にも聞いたような……。あれは、風の力を宿した飛燕の騎士、ゼフィロス? ゼフィロス・モードのように、アルフェリオンにはまだ別の姿があるんだろうか。いや、ともかく。

 今しがたのわずかな遅れさえ取り戻そうと言わんばかりに、ルキアンは階下の格納庫に続く階段を駆け足で降りていった。そう、このときには何も深く考えず。


2 忍び寄るソルミナ? バーンの記憶



 エルヴィンと別れた後、ルキアンは――いや、ルキアン本人の心境からすれば、エルヴィンから《解放》された後と表現した方が良いかもしれないが――格納庫に到着し、アルフェリオンの《ケーラ》にその身を横たえた。
 最初は《棺桶》のようだと違和感を覚えていた狭い箱の中も、何度かの出撃を経て、いつの間にか気にならなくなっている。
「あ……」
 機体との一体化に入ろうとしたルキアンは、目を閉じたが、不意にまた目を開いた。そして後から取って付けたように驚くのだった。
 ――こんなふうに、戦うことに対しても慣れていってしまうのだろうか。僕の中の引き金が次第に軽くなる。そうすれば、いつか僕は……。
 不安になったルキアンは、無意識のうちにリューヌに呼びかけていた。あたかも母親の手にすがる赤子のように。だが返事は無い。ミトーニアでパリスと戦って以来、リューヌは、《しばらく休めば回復します》と言いつつ、ルキアンの呼びかけに二度と応えてはいないのだ。
 精神を集中すれば、己を守護する黒き天使リューヌの気配を心の奥にかろうじて感じることができる。そのことにルキアンは安堵するも、このままでは彼女が本当に消滅するのではないかと不安でならなかった。実際、今ですら、わずかにでも気を抜くと分からなくなってしまうほど、リューヌの存在感は微かなものだった。
 ――リューヌ。僕が幼い頃から、ずっと見守っていてくれた。
 パリスとの死闘の際、朦朧とする意識の中で、真実か妄想かも分からないままに思い浮かんだリューヌの姿。木の下でうずくまる幼いルキアンに、直には触れられない手を異界から伸ばし、慰めようとしていたリューヌの姿を。
 ケーラの冷たい金属の壁に、そっと頬を寄せてみたルキアン。兵器としてのアルフェリオンに乗り込むことは嫌いなはずなのに、この狭くて静かな、暗いケーラの空間に抱かれていることに対し、ルキアンは何故か不思議な安逸を覚えてしまう。

 ――それでも僕は……。今はリューヌの助けが無くても、メイやバーンたちを助けるために、行かなきゃ。
 彼は深呼吸し、まぶたを閉じた。意識が遠のき五感が消えてゆく。それと相応しつつ、別のどこかに意識が次第に転移し、徐々に明確になる。魔法合金の複合装甲に覆われた白銀の機《体》を自らの身体として認識し、アルマ・ヴィオと一体になった少年は立ち上がる。
 クレドールの飛行甲板に姿を現したアルフェリオン。兜のバイザーが降り、その下で目が青く光る。輝く六枚の翼が雄々しく開き、風を受けた。
 甲板に艦の念信士、つまりセシエルの声が伝わってくる。
 ――気をつけて、ルキアン君。ナッソス城を囲むあの赤い結界がどんな力を持っているのか、まったく予想がつかない。くれぐれも慎重にね。メイたちをお願い。
 ――了解です。ルキアン・ディ・シーマー、アルフェリオン・ノヴィーア出動します。
 中央平原にぽつんと取り残された丘、その中腹、先程までナッソス家の城が見えていた場所には、半球状の結界が陽炎の如く揺れながら、赤々と明滅していた。その不気味な様子は、遙か高空からもこうして観察することができる。
 意を決したルキアン。アルフェリオンは甲板を飛び立ち、雲の間をすべるように滑空し、待ち受ける《盾なるソルミナ》の領域を目掛けて降下していくのだった。

 ◆ ◆

 ムートとの戦いの途中で不意に意識を失ったバーンは、再び目覚めていた。
 ぼんやりした視界、次第に周囲の様子がはっきりとし、背中に柔らかい布団の感触があった。状況はまったく分からないが、とにかく眠っていたらしい。
 寝ぼけ眼をこすりながら、バーンは視線を真っ直ぐ先に向けた。質素な天井が見える。明らかに見覚えがあった。寝転んだまま彼は周囲を見渡す。
 四方は薄緑色の壁紙に覆われている。そのまま目線を移動していくと、壁に剣が掛けられているのが分かった。
「あれは……」
 知っている。あの剣はバーン自身のものだ。いや、正確には、かつて使っていたサーベルであった。鳥やツタをあしらった透かし彫りの鍔、螺鈿細工の施された鞘、黄金色に輝く金具がふんだんに使われている。これを支給され帯びることのできる名誉とともに、彼は、このサーベル自体を手放してしまったはずだ。クレドールのエクターとしての彼は、カルダイン艦長にならって、やや広刃の旧時代的で無骨な剣を帯びている。
 続いて視界に飛び込んできたのは、白地に金と赤の装飾が施され、真鍮のような金属でできた大きなボタンの付いた衣装。バーンには似合いそうにもないお上品な制服である。
 そう、それは《制服》だった。
 クレドールに来る前にバーンが所属していた、近衛機装隊の訓練生の制服に相違ない。
「俺は一体、何を……。これは、夢?」
 バーンはおもむろに上体を起こす。
「いや、夢を見ていたのか」
 さほど広くもない部屋の中、隣には別のベッドがもうひとつ置いてあった。
 ――あいつ……。
 一瞬、ある人間のイメージが彼の脳裏をよぎった。
 少し肌寒く感じながら、バーンはベッドを離れて窓の方に向かおうとした。明るい日差しが差し込んでいる。出窓状になったところに、素焼きの鉢と植木が置かれている。殺風景な部屋にあって貴重な緑だ。水やりが足りないのだろうか、朝顔を思わせる鉢植えの植物は少し元気が無さそうにみえた。
 背後で声がした。よく知っている響きだ。
「おはよう、バーン。また寝坊か――と言いたいところだけど、今日は珍しく朝の訓練がないからよかったね」
 筋肉隆々のバーンとは対照的に、細身ながらも引き締まった体格の若者がそこに居た。背丈はバーンと同じくらいだから、かなりの長身だ。おかっぱ風の髪型は、金髪であることをのぞけば、どことなくルキアンにも似ている。だが、ルキアンとは違って明るく輝くような微笑みの持ち主である。彼は笑顔とともに言った。
「そうそう、その鉢植えに水をあげないと。ここのところ訓練も試験勉強も大変だったから、ほったらかしで、可哀想に干からびているよ」
 いかにも貴族の御曹司といった上品で優雅な雰囲気の若者だが、《お坊ちゃん機装騎士団》と呼ばれる近衛機装隊にあって、他の訓練生にありがちな慇懃無礼さや気位の高さ、そして無邪気な意地の悪さが彼には見られなかった。

 急に深刻な顔つきになり、考え込んだ後、バーンはつぶやいた。彼の名を。
「エミリオ?」
 近衛機装隊・訓練生時代のルームメイトだ。庶民出身でなおかつ田舎者のバーンが上手くやっていくことのできた、数少ない友人。

 しかし彼は、もうこの世には……。


3 「ダアスの眼」が開くとき、御子は…



 地平にまで及ぶ春草の絨毯、光翠の大洋が果てしなく広がり、所々に赤茶けた荒れ地が見え隠れする中央平原。そこにただひとつ、絶海の孤島さながらに取り残された緑の丘。だが、自然の創り出す美とは明らかに異質な何かが、先ほどまでナッソス城のそびえていた場所に姿を現していた。
 ――嫌だな、この感じ。さっきから、じっと見つめられているような気味の悪い感じがする。あの赤い光、まるで《生き物》みたいにみえる。
 あってはならないもの。異様な光景にルキアンは思わず息を呑む。丘の中腹に現れた血色の壁、陽炎の如くゆらめく紅玉。その表面のあちこちで光が赤々と明滅する様子は、見る者にやはり何らかの意志を感じさせずにはいない。あるいは霊的な鼓動が伝わってくるとでも表現すべきだろうか。
 結界の向こうを見通すことはできないが、今までと同様、ナッソス城がそこにあるはずである。連絡の途絶えた仲間たちも、恐らく、その中に……。
 クレドールから出撃し、ナッソス城前の主戦場に到着したアルフェリオン・ノヴィーアは、問題の結界から十分な距離を取りつつ、蒼穹と大地の間で静止した。輝く6枚の翼を広げ、白銀の甲冑と光の矛で武装した天の騎士。その姿はまさに雲間から降臨した神の御使いを思わせる。乗り手の頼りなさとは裏腹に、やはり恐ろしいほどの威厳を備えた機体であった。
 一旦は後退し、ナッソス城のある丘を遠巻きに包囲していたギルドの陸戦隊は、天空から突如として舞い降りたアルフェリオンの姿に、本能的に畏敬の念すら覚えた。
 ――何だ、あのアルマ・ヴィオは?
 ――見たこともない機体だが、いや、ひょっとして……。
 ギルドの繰士たちは念信で口々に言う。
 ――えぇ。クレドールが来ているから間違いないわ。
 ――コルダーユでガライア艦2隻を一瞬で沈めたという、あの旧世界の怪物か?
 ――ナッソス家の《レゲンディア》クラスのアルマ・ヴィオを倒し、ミトーニアを守った、あれか。
 そのうち1人が機体の名をつぶやいた。

 ――銀の天使、アルフェリオン。

 その名を確認するかのように、しばらくの沈黙があった。賞賛とも好奇ともとれる様々な心の声が、念信を通じてあちこちからルキアンにも伝わってきた。
 ――あれがアルフェリオン? 初めて見たぜ!
 ――勝てる、これで勝てるぞ。
 ――結界の向こうに消えた相棒たちも、きっとアルフェリオンが助けてくれるさ。
 これらの念信は、別にルキアンに直接語りかけているわけではない。だが、飛び交う言葉を聞いているうちに彼は、恥ずかしいような、むしろ褒められたくないような、複雑な気持ちになった。
 この思いは何なのだろう。彼自身、うまく心を整理できていないが、これは《戸惑い》なのか。どのように受け止めて良いものか。現状と照らし合わせて考え得るほどの、同様の《経験》が彼の中には無かったのである。そう、多くの人々にこのように褒め称えられ期待されることなど、ルキアンの18年の人生の中で初めての体験に他ならない。
 ――僕は……。
 だが、これまで思い至ったことのない不思議な気分になり始めた少年を、それ以上に強烈な《直感》が現実に引き戻す。ナッソス城を呑み込んだ結界がどのようにして生じ、いかなる力を持っているのか、ルキアンには分からない。それにもかかわらず、ひとつの生々しい衝動のようなものが彼に教えた。
 ――嫌な感じが心の中からわき上がってきて、止められない、胸が苦しい。よく分からないけど、とにかくあれは危険だ。早くメイたちを助けなくちゃ。
 曲がりなりにも魔道士の素質を持つ少年は、自らの直感に二種類のものがあることをすでに経験的に知っていた。ひとつは漠然とわき上がってくる意味不明なそれ。そしてもうひとつ、本人自身にも否定し難い、理性のもつ批判の眼差しすらもねじ伏せてしまう《啓示》のような類のものがあることを。彼がいま感じているのは、明らかに後者だ。
 ――どうしてだろう。コルダーユの街を離れて以来、日に日に、この手の直感が以前より強く働くようになってきた。いや、違う。本当は……。
 彼自身、よく理解していた。認めたくない結論。
 ――戦うたびに。戦うごとに、何かが僕の中で物凄い勢いで変わっていく。それが怖いんだ!
 一刻も早くメイやバーンたちを救わねばならないのだが、一瞬、ルキアンの心は別の何かにとらわれてしまった。
 ――そう。特にあのとき。ミトーニアの闘技場跡の戦いで、アルフェリオンをゼフィロス・モードに変形させたとき、心にイメージが。《目》が開いたような気がした。あれは……。
 あの得体の知れない表象は何を意味していたのか。突如として脳裏に浮かんだ《眼》、それはルキアン自身を凝視しているようにも思われた。だが、彼は何故か直感したのだ。あの《眼》は、自らを見つめる別の何かに属するものではなく、まさに自分自身のものなのだと。
 ――僕の中の《眼》は、眠りから覚めたばかりのように半開きで、戦う僕をずっと見ていた。同時に僕は、戦っているときに、時々、心の奥の《眼》を通して敵を見ているという錯覚にとらわれた。必死だったからよく覚えていないけど。そして、何度か戦闘の中で激高して我を忘れた瞬間、僕は感じた。あの《眼》が、なんていうのか、開こうとしているのを。
 不意にルキアンには、周囲の風景を見ることが――ただ見るというだけの行為が――怖く感じられた。なおもその間、アルフェリオンの魔法眼を介し、盾なるソルミナの赤い結界がルキアンの視界にぼんやりと映っている。

 ◇

「漠然とは気づいているようだな。《ダアスの眼》を完全に開いたとき、《御子》としての力は真に覚醒し始める」
 薄暗がりの中、ランプの灯りを映して鈍く光る水晶玉。それを見つめる者。影の形からして女性であった。暖炉に燃える火が、彼女の映し絵を石壁にぼんやりと描き出す。炉にくべられた薪がときおりパチパチと音を立てる。彼女の背中で1本に束ねられた金色の髪に、炎の揺らめきが鈍く照り映えて、夢幻の光の粒が闇にこぼれては消える。
「《ダアスの眼》は現世(うつしよ)のことわりを超え、人の子には知る由もない幽界の果てを見通し、やがて《対なる力》との間に《通廊》を開く」
 独り言、いや、預言のように彼女は――紅の魔女アマリアは――つぶやいた。
 と、他に誰もいないはずの部屋の中で別の声がした。たしかに何人の姿もないが、一瞬、部屋の空気全体が揺らいだような、静かながらも重々しい霊気が周囲に漂う。
「あの少年には、まだ迷いがある。自らの中に眠る力の大きさを無意識のうちに感じ取り、それを手にすることに戸惑っておるのじゃ。とはいえ、さすがに我らが盟主《闇の御子》だけあって、何の力もない今でも直感は鋭いのぅ」
 地のパラディーヴァ、フォリオムは姿を見せぬまま語り続ける。
「《ダアスの眼》を一度でも開けば、もう二度と普通の人間には戻れなくなる。覚醒した御子は、人の子にして人の子にあらざる者。本当にそれで、彼は納得するのかの?」
 アマリアの瞳に微かに感情の炎が灯った。低めの声をさらに落とし、しっとりとした声色で彼女はささやく。
「……愚問であろう、ご老体」
 彼女は水晶玉を見つめ、そこに映るルキアンに何かを語りかけようとしているかのごとく、語り始めた。
「《予め歪められた生》の呪いを背負って生まれた御子が、人としての平凡な生の喜びを自らも味わいたいとどれだけ望んでも、それは叶わぬ願い。近くて遠い、手が届きそうで決して触れることのできない憧れに溺れ、見えない檻の中でただ失望を繰り返す日々から、貴君はすでに一歩を踏み出したのであろう? ルキアン・ディ・シーマー。些細なボタンの掛け違いの繰り返しで《普通》に生きることから外れてしまったのではない、宿命とも言うべきもっと巨大な力が貴君の生の背後にあることを、何かが違うということを、感じ取ったのではないのか」
 アマリアは、暗がりに光る水晶玉の上にその手を組み、溜息をついた。
「ならば、恐れずにその《眼》を開け。夢から覚めて夢を見る者、御子よ。運命と戦うためには運命と向き合わねばならない。それに私の占いでは……」
 冷厳なたたずまいの彼女にはいささか不似合いな、何かに陶酔するような、虚無的ながらも妖艶な眼をして、アマリアは遠くどこかを見通した。
「闇の御子よ、今回の戦いには特別な意味がある。結界の向こうに何が待っているのかは私にも読めないが、物見の水晶は告げている。この戦いは、貴君にとって目覚めのための糧であると。そう、《対なる力》の影響力も、《あの存在》の司る世界の因果律と同様に、人の子の思惑など遙かに超えたものなのだよ」


【続く】



 ※2009年11月~2010年4月に、本ブログにて初公開
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明晩、闇の御子の覚醒? まとめ版第43~45話

連載小説『アルフェリオン』まとめ読み、第43話~45話分を追加しました。
目次からご覧になると便利です

ますます激しさを増すナッソス城の攻防戦。傍観していた主人公ルキアンもついに出撃か。その背後で旧世界の謎がさらに明らかに。

まとめ版のアップも、明日で完了です。
明日追加予定の第46話~48話は、かなり濃い濃い内容になります。
ルキアンの過去や彼の正体に関する伏線が色々出てきます。
そして、ルキアンが超覚醒?
これまではアルフェリオンの機体が覚醒していただけですが、ついにルキアン本人の力が目覚める? 闇の御子の本領が発揮される明晩にご期待ください。

かがみ
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第45話・後編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


 ――そうだ。僕は、あの鬱積した何かを、息苦しい《日常》を飛び超えたくて、メルカを置き去りにして旅立とうとした。クレドールに乗れば何かが変わるんじゃないかって。でも、カルバ先生やソーナの居ない今、僕がメルカをしっかり守らないといけなかったのに。分からないよ……。
 メルカのことについても、ルキアンは揺れ動く二つの思いの中で苦しんだ。
 ――決意したのに。エクターにもなったのに。
 結局、自分が本質的には何も変わっていないような気がして、少年の心は暗い影に覆われていった。だが、そこで立ち止まってはいけないということ、わずかにでも考え、ほんの少しでも自分なりに現実や己自身と向き合って行かねばならないということ。それが分かる程度には、ルキアンは実際には変わっていたのだ。

 《オーリウムの銀のいばら》。

 この言葉が不意に意識をかすめた。少なくともそれは、今のルキアンにとって、これまでとは違う新しい自分、平たく言えば《あるべき自分》の姿として描いているものかもしれない。
 ――僕はステリアの誘惑に負けたくない。兵器にはなりたくない。だけど、僕は僕のままで、たとえ血を流してでも《いばら》になるんだ。そして戦う、《優しい人が優しいままで笑っていられる世界》のために。それは本当の正義じゃないかもしれない、僕の自己満足かもしれない。でも、分からないけど、前に出るんだ。

 ――ここで進まなきゃ、また何も……見えなくなる。


7 盾なるソルミナ、発動! 公爵の決断



 ◇

 謎の4本の黒い石柱、すなわち《盾なるソルミナ》の正体についてクレドールの艦橋で憶測が行われていた頃、ナッソス城では公爵が思い悩んでいた。まさに問題のソルミナの発動をめぐり、彼は揺れていたのであった。
 ――落ち着いて考えろ。今の時点でソルミナを使ってしまってよいのか。
 現在の戦況や今後の作戦に関わる様々な要素が、公爵の頭の中に浮かんでは消える。
 ――もし敵主力が第二・第三の防衛陣を突破し、城門にまで攻め寄せてきた場合、ソルミナが使えなければ我が方には持ちこたえる手段が無くなる。だが……。
 天守の望楼から、公爵は戦場に目を向けた。
「カセリナ……」
 冷徹な指揮官であろうとし続けている彼だが、溺愛する娘の名が自然と口を突いて出た。
 ――下手に手出しをすれば、シールドの中でカセリナと対峙する敵は、すぐさま相討ちを企てかねない。カセリナを救い出すには、ソルミナの力に頼るしかないのか? ともあれ、今のままではまずい。レプトリアと共にパリスとザックスを失った今、ギルド側が《レゲンディア》クラスの機体をさらに投入してきたときには、カセリナのイーヴァしか対抗できる機体はない。
 彫りの深い顔、さらに深く窪んだ目に悲壮感を漂わせ、公爵は溜息をついた。
 ――そのために。そのためにこそ、大切な娘を敢えて戦場に出したのではないか。たとえ最低の父親だと言われようとも、この戦、決して負けるわけにはいかぬのだと。
 公爵は、泰然と控えているレムロスの方をちらりと見やった。
 ――ギルド側は、パリスを倒した《銀の天使》を完全に温存している。さらに、魔道士クレヴィス・マックスビューラーの操る、あの恐るべき《空飛ぶ鎧》も。これらの機体に対し、イーヴァ以外で互角に戦えそうなものは、レムロスの《あれ》のみか。
 続いて公爵は、自軍と敵軍の主力がぶつかり合う戦場から、城の側方へと注意を向ける。相変わらず轟音が止まない。長さ10メートルを超える鋼の巨剣同士の打ち合う音は、いまだに途絶えていなかった。バーンのアトレイオスとムートのギャラハルド、双方がなおも互角に死闘を続けていることがうかがえる。
 ――それにレムロスの言ったように、万が一、ムートが敗れた場合、ソルミナの《柱》は破壊されてしまう。それでは元も子もない。
「では、ソルミナを放つとしても……。ギルドの飛空艦隊はまだ動かないか、レムロス?」
 公爵の口調には苛立ちがはっきりと現れている。その目や口元に浮かんだ怒りは、今にも表情全体に溢れ、爆発しそうである。
「いいえ。相変わらず、こちらからの砲火とあちらの主砲の射程距離ぎりぎりのところに浮遊したまま、動く気配はありません」
「いやに慎重だな。こちらが飛行型アルマ・ヴィオをほぼすべて失った現状、ギルド側にとっては、城に飛空艦を近づけて艦砲射撃や爆撃を行う手もあろうに。考えたくはないが、敵は《柱》に気づき、何らかの強力な魔法兵器だと考えて距離を保っているのか」
「残念ながらそう考えられますな。いわば本隊を囮にし、こちらの《レゲンディア》クラスの機体を引きつけ、その間に少数精鋭で一気に《柱》を叩く作戦に敵が出てきたということ。それが、すべてを物語っております」
 公爵とは対照的に、レムロスは常に冷静である。いや、ナッソス家の危機、あるいはカセリナ姫の危機にもかかわらず、どこまでも静かな彼の態度は異様とさえ感じられるほどであった。ザックスがエクターを「引退」した後、かわってナッソス家に仕官してきたレムロスは《四人衆》の中では新参者だ。だが、頑固なまでに格式にこだわるナッソス公爵は、エクターとしては異例のレムロスの家柄の良さやこれに見合った気品漂うレムロスの言動を気に入り、彼をたちまち重用するに至った。いまやレムロスは、一介のエクターどころか、公爵の軍師としての立場すら確立しつつある。
「ギルドの飛空艦をまとめてソルミナに巻き込めれば、と思ったが……。やむを得ん。いまソルミナを放てば、敵陸戦隊のうち、いかほどを射程にとらえることができるか」
「敵軍は全体的に後方に展開しておりますが、そのうち最前線の戦列をなす重装汎用型の半分ほどと、先行したいくつかの陸戦型の部隊は葬ることができます。何より、カセリナ様をおびやかすレーイ・ヴァルハートをはじめ、《柱》に迫ったギルドの精鋭たちをまとめて片付けられることは、非常に大きいかと」
 しばし無言で沈思した後、公爵は敢えて激情を抑え、低い声でつぶやいた。
「レムロス。ソルミナを発動するよう、術者たちに伝えよ」
「心得ました」
 レムロスは慇懃に一礼すると階下に向かった。
 わずかな警護の者たちとともに、望楼の最上層に残されたナッソス公爵。
 八角形の部屋のそれぞれの壁面には大きな窓が広がっている。苦渋の決断を行った公爵の心情とは裏腹に、室内は皮肉なほど明るい輝きに満ちており、陽の光が燦々と行き渡っていた。
 部屋の中央に置かれた円卓。公爵はゆったりと腰掛ける。計算し尽くしたかのように、家臣の一人が見事なタイミングで茶の用意をしてきた。公爵はカップを手に、不敵な、それでいてどこか悲しげな、何ともいえない微笑を浮かべる。
「ギルドの者どもよ、旧世界の超兵器《盾なるソルミナ》の力に恐怖するがよい。人の子である限り、人間である限り、何人たりともソルミナの前には無力なのだ」

 そしてまもなく、一瞬、空が赤く染まった。そんな気がした。


8 消えた仲間たち!? 城を覆う赤き結界



 ――今のは、何?
 ラピオ・アヴィスを操り、バーンとムートの戦いを上空から見守っていたメイ。何の前触れもなく、彼女の意識はおぼろげになり、さらに五感すべてを失ったかのごとき異様な浮遊感にとらわれた。エクターとしてラピオ・アヴィスの機体と一体化し、その赤き翼を通じて風を感じていたメイだったが、唐突に機体から解き放たれて宙に投げ出されたような気がした。
 次の瞬間、彼女は明確な意識を取り戻し、すぐに五感も回復された。
 目を見開き、握り拳をつくってみる。だがそのことによって、メイは新たな異変に気づく。本来ならばラピオ・アヴィスの機体を通じて伝わってくるべき視覚や触覚が、いつの間にか彼女の身体自体の感覚に還っていたのだ。
「ラピオ・アヴィスの意識が感じられない。違う、それどころじゃないって! あたしは機体に乗っていない? そんな馬鹿なことが」
 思い出したかのように慌てて周囲を見渡すメイ。
 陽光。広がる緑。ぼんやりと木立が見える。
 微風が頬をなでてゆく。
 その現実的な心地よさに促され、彼女は改めて自らの手で――ラピオ・アヴィスの翼や脚ではなく――自分の頬に触れてみた。
 両足は大地を踏みしめている。二、三歩進んでみると、ほどよく茂った下草が足元でカサカサと鳴った。草の匂いがする。
 小川の流れ。呆然としたメイの耳に、せせらぎだけが響いては消えていく。
「ここは……」

 ◇

 メイに異変が起こったことを、バーンも念信を通じて知った。
 ――返事しろ、メイ! 何があった?
 だが彼女からの答えは返ってこない。それどころか、念信の先に相手のメイが《居ない》ことをバーンは感じ取ったのだ。そんな奇妙なことがあるはずはない。
 代わってムートからの念信が入ってくる。
 ――どうやら《あれ》のせいか。久々の良い戦いに水を差しやがって。おい、あんた、バーンとか言ったな。聞こえてるか?
 ムートの声はそこで途絶えた。正確に言えば、ムートからの念信が、バーンにはもう届いていないのである。
 今の今まで、バーンの愛機アトレイオスと激しくつばぜり合いを繰り広げていたはずなのに、何故かムートの操るギャラハルドだけがそこに残されている。上空を見上げると、ラピオ・アヴィスの姿もない。いずれの機体も忽然と消え去ったのだ。
 ――つまらないな。勝つためとはいえ、こんなのは戦士のやるべき戦い方じゃないだろ。
 落胆気味にムートはつぶやく。気の抜けたようにギャラハルドの右腕がだらりと下がり、手にした巨大な曲刀が地面にめり込んだ。

 ◇

 時を同じくして、ナッソス方の《ディノプトラス》と交戦中であったサモン、単機で別の《柱》を攻撃に向かったプレアーも、機体と共に姿を消した。
 いや、居なくなったのは彼らだけではない。ギルドの陸戦隊のうち、敵陣深くまで先行していたいくつかの部隊は皆、神隠し同様に消え去ったのである。

 ――お父様。《盾なるソルミナ》を使ったのね。
 カセリナは事の成り行きを理解した。
 結界型MTシールドのドームの中で、彼女はレーイと壮絶な《戦い》を続けていたはずだった。互いの機体がふれあうほどの間合いで、いずれかが一瞬でも気を抜いた瞬間に勝敗が決するであろう、静かながらも凄まじい精神的な消耗戦を。
 だが今や、イーヴァの視覚を通して周囲を見渡すカセリナの前に、レーイの操るカヴァリアンの影も形もなかった。
 ――レーイ・ヴァルハート、恐るべき戦士。だがもう遭うことも……。いけない、また、目まいが。
 死地から解放された安堵感からか、カセリナは気を失いそうになった。もはや機体の体勢を保つことすら困難なほど、彼女は力を使い果たしていたのである。とはいえ、これで窮地を脱したことは間違いない。

 ◇

 他方、上空のクレドールからは、ナッソス城に生じた《異変》をはっきりと見て取ることができた。
 おそらく《盾なるソルミナ》によって創り出された結界であろう、赤い光の幕あるいはバリアのようなものが、ナッソス城とその周囲を球状に覆い隠している。結界の表面は刻々と色合いや明暗を変化させ、ひときわ赤色の濃い縞模様が、蛇の類を思わせる動きでうねり、いくつも動き回っているように見える。その様子は、まるで結界自体が生きていると言わんばかりのものであった。

「先程から呼びかけ続けているけど、念信がまったく通じないわ」
 セシエルは緊張した面持ちでそう告げ、なおも念信装置と向き合う。続いてヴェンデイルも、両手を挙げてお手上げのポーズを示した。
「駄目だ。中で何が起こっているのか、全然見えない」
 不意に起こった奇怪な事態に、クレドールの艦橋が騒然とする。クルーたちの動揺を沈めるように、穏やかな、なおかつ威厳のある口調でクレヴィスが指示を出す。
「あの《結界》から一旦は距離を取るよう、付近にいる部隊に至急伝えてください。詳しい事情が判明するまで我々もうかつに動いてはいけません。次に何が起こるか、まだ分かったものではないですからね」
 眼鏡のレンズの奥で目を鋭く光らせ、クレヴィスは不敵な微笑みと共に言った。
「まぁ、必要以上に恐れることもありません。あのような奥の手を使わねばならないところまで、ナッソス家もいよいよ追い詰められているということですよ」
 肉眼でもはっきり確認できる紅色の結界を、ルキアンも艦橋の窓辺まで進んで注視する。ある程度の不規則さで明滅し、それでいて一定のリズムを鼓動さながらに刻む結界表面の様子は、何らかの意志をそこに感じさせるものであり、どうにも薄気味悪い。
 ――メイやバーンは大丈夫かな。レーイさんたちも。
 シャリオの言った《伝説》のことがルキアンの頭によぎった。
 ――「心の檻」に閉じ込められた者たちは、二度と戻ってくることはなかった。
 嫌な胸騒ぎがする。
 ――僕は、僕は……また、こうして見ているだけに終わってしまうのか。


9 ついに出撃、主人公ルキアン!



 メイやバーンのことを心配するあまり、高ぶるルキアンの思いは、彼らと共に過ごしたこの間の記憶を過度に生き生きと脳裏に浮かび上がらせる。縁起でもないとルキアンは首を振ったが、これではまるで「走馬燈」のようではないか。あのメイたちのこと、きっと大丈夫だと彼は自らに言い聞かせようとした。だが、そうすればするほど、胸の内に現れる記憶の幻灯はますます鮮明になり、ルキアンの意識から離れようとしない。

 特に、コルダーユの街で初めて出会ってからの短い日々の間に、メイとの思い出がこれほどにも積み重なったのかと、ルキアン自身、改めて気づかされた。

 ◆ ◇

「こらっ、少年! もっとシャキッとしなきゃ駄目じゃないの」
 悪戯っぽい笑みを浮かべながら、メイは人差し指でルキアンの額を小突いた。
「私はエクター・ギルドのメイ。本当の名前は長ったらしくてあまり好きじゃない。メイオーリア・マリー・ラ・ファリアル。だからメイって呼んで。キミは?」

 ――ルキアン君、ほんとに短い間だったけど、なかなか面白かったよ。
 コルダーユ沖の戦い、多数の敵アルマ・ヴィオに追い詰められたルキアンとメイ。そのときにメイが覚悟を決めて告げた言葉だ。

「何、ぼーっとしてるのよ、少年っ!!」
 メイがルキアンの肩を勢い良くひっぱたく。
 少し間があった後、ルキアンは慌てて彼女の方を見た。
「あ、ボクですか。は、はい?」
「食べてる、キミ? ほらほら」
 パンを盛った編みかごを差し出して、メイが笑う。

「今ここで思い切って飛び込んでみたなら、ひょっとして何かが変わるかもしれないって……そんなふうに感じる瞬間。たいていは幻想かもしれないし、思いこみにすぎないかもしれない。だけど、そういう場面、これまでキミにも色々とあったでしょ?」
 メイの髪が揺れて、彼女の香りがふんわりと宙に漂った。

 そして何よりも強く思い出されたのは、メイがミトーニアでルキアンに告げた言葉だった。
「ルキアンがどんな過去を背負っているのかは知らない。でもさ、キミはもう一人じゃない。アタシらがいる」
「最後には帰って来いよ、それでいい。それでいいんだから……」
 不意に、激情家のメイがルキアンを抱きしめる。突然に抱きすくめられたルキアンの方が、身体と心を硬直させて立ちすくんでいる。

 ◇ ◆

 ルキアンの中で何かが燃え上がった。
 その炎の高まりは、ルキアン自身の表層的な思いとは関わりなく、たちまち大きくなり、彼の理性を支配した。

  僕が居てもいいところ。
  僕が独りで居なくても済むところ。
  僕が帰ってきてもいいところ。
  僕が必要とされるところ。

 ――ただ、それだけが欲しかった僕は、あの《日常》から飛び出したんだ。変わらない閉ざされた毎日の中で悶え苦しみ、窒息してしまいそうだった僕に、メイたちが新しい日々をくれた。

 そのことに対する感謝の念との対比なのか、ルキアンの思いの底で幼い日の彼が泣いた。閃光の如く、心が真っ白になり、空虚な白き精神空間をあどけない声が生々しく引き裂く。

 ――《おうち》に帰りたいよ。

 そして現在のルキアンの意識に戻る。クレドールに来てからの毎日を、彼は噛みしめるように回顧した。

  僕の《居場所》。
  大切な、はじめての仲間。
  やっと会えた。
  そう思えたことが、生まれて初めて心から味わえた幸福だった。

 誰に話しかけるでもなく単に情熱の迸りから、続く言葉はルキアンの口を突いて出た。
「今度は僕が助ける番なんだ……」

 動き始めた情熱、あるいは熱に浮かされた妄想はとどまるところを知らない。

 微熱を帯び始めた少年の体の中で、忘れがたく魂に刻まれた記憶が甦る。
 あのパラミシオンの《塔》に出向いた際、旧世界の異物であるアルマ・マキーナから仲間たちを守るために、永劫にも近い時の中で忘れられた草原を駆け抜け、アルフェリオンに乗り込むルキアンが思ったこと。

 ――じっと見ているだけなんて、もう嫌なんだ。

 その想いが、いま再び。

 ――僕は自分の翼を信じる!

 いや、本人も自覚してはいないかもしれないが、あの《塔》をめぐる戦いの時から、今のルキアンは変わっていた。ミトーニアでの戦いは、彼の中の何かを呼び起こしたのだ。

 僕は《いばら》になる。

 《銀の荊》――シェフィーアの語った、最果ての北国の昔話が思い出された。

  私に《とげ》をください。
  私を踏みつけ、むしり取ってゆく獣たちが、
  それと引き替えに刺されて痛みを知ることになれば、
  獣は草木にも鋭い爪があるのだと怖れ、
  木々や花たちに簡単には手を出さなくなるでしょう。
  それができるなら、私はどんなに傷ついてもかまいません。
  他の草木がもう辛い思いをしなくて済むのなら。

 一体、何度迷ったら気が済むのだろうか。ルキアンは誓いを繰り返す。ミトーニアの街で、彼がつぶやいたように。再び。

 ――そういうの、黙って見ているだけなんて、もう嫌だと思ったんです。もっと、こんなふうに世の中が変わっていけばいいなって、僕にも夢ができた。だから戦うんです。

  《優しい人が優しいままで笑っていられる世界のために。》

 ◇

 ルキアンは意を決してクレヴィスのところに歩み寄り、背筋を伸ばし、真剣な眼差しで告げる。
「あの結界の中で何が起こっているのか、中のメイたちが大丈夫なのか、僕に偵察させてください」
 この場面を予想していたかのように、クレヴィスはすぐに目を細め、意味ありげに微笑んでルキアンに尋ねる。
「危険ですよ? 結界の中に入った者は、二度と戻ってこれないかもしれません」
「でも、その、もしそうだったなら、なおさら助けに行かなければ!」
 クレヴィスは溜息をついたが、彼はどこか嬉しそうだ。
「分かりました。アルフェリオンの力ならば、事態を打開できる可能性もあるでしょう。ルキアン君には、これまでにもクレドールやギルドの窮地を救ってきた《実績》がありますし。ともあれ、我々には他に有効な手立てがないのです。繰士ルキアン・ディ・シーマー、出撃していただけますか」

 直ちに返答し格納庫に向かおうとしたルキアンに対し、クレヴィスは、ぽつりと付け加える。
「カセリナ姫と戦うことになるかもしれませんよ?」
 雷に撃たれたかのように、ルキアンの歩みがはたと止まった。
「彼女をなるべく傷付けたくない、あるいは話せば分かるなどと、中途半端な気持ちで戦えば、いかにアルフェリオンでもたちまち倒されてしまうでしょう。カセリナ姫はレーイと互角に戦えるほどの戦士なのですから」
 無言で立ちすくむルキアン。彼が敢えて考えることを避けている点に、クレヴィスは正面から切り込んだ。先程までとは異なり、彼の目つきもいつになく厳しい。
「端的に言えば、おそらく、彼女はあなたを殺すことを少しもためらいません。想像できますか? 彼女にはそれほどの覚悟があるということです。もし、ルキアン君に同様の覚悟ができないのなら……」
 しばしの沈黙。艦橋内にも重苦しい空気が満ちた。ヴェンデイルなどは、二人の様子を心配そうに何度も振り返って見ている。
 と、クレヴィスは不意に表情を和らげ、再び口を開いた。
「ならば、まぁ、四の五の言わず《逃げる》ことですよ。ふふふ。状況の偵察とメイたちの救出に全力を尽くしてください。頼りにしています」
「え? は、はい……」
 拍子抜けしたように、とはいえ胸をなで下ろしつつルキアンがうなずいた。
 実際には、彼は思考停止しているだけなのだが。カセリナと戦うことなんて考えたくない、どうしても戦うことになったらそのときに考えようなどと、そういう具合であった。

 ◇

 ルキアンは一礼し、ぎこちない足取りでブリッジを出て行った。
 あれほど燃え盛っていた情熱も、カセリナの話を出され、いささか萎えてしまった感がある。最初の勢いはどこへやら――クレヴィスとの一連のやり取りを気恥ずかしく思いながら、彼は廊下を進んでいく。

 そのとき、ルキアンは既視感のある光景に出くわした。
 薄暗がりの先に白いものがふわりと揺れる。
 幽鬼が舞うような、あるいは妖魔の誘惑であるような、現実味のない眺めだ。
 反射的に背筋が冷たくなった。
 それが恐れなのか、嫌悪感なのか、緊張なのか、彼自身にもよく分からない。

「くすっ……」

 一度聞いたら耳にこびりついて離れない、悪夢に出てきそうな笑い声だ。
 玩具を見つけた子供にでもたとえればよいのだろうか。魔少女エルヴィン・メルファウスの意識は、明らかにルキアンに向けられている。
 素通りは許されないだろう。今回も。


【第46話に続く】



 ※2009年8月~11月に、本ブログにて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第45話・中編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


 赤い翼を羽ばたかせ、上空を旋回するラピオ・アヴィス。アトレイオスとギャラハルドの間で先ほど起こった一瞬の激突を、メイは心の中で反芻する。
 ――あの馬鹿、結局、何も考えずに真っ向から。でも今の打ち込みは、敵のエクターにとっても予想を超えるものだったみたいね。
 鋭く見据える彼女の瞳に、地上でしのぎを削る二体のアルマ・ヴィオの姿が映った。
 ――最初から読めていた攻撃なのに、こちらが受け一方に回らされるとは。とんでもない力業だぜ。こんな大剣をあれだけの速さで打ち込めるなんて、さすがにギルドの飛空艦のエクター。久々にワクワクしてきたぞ。
 何か嬉しそうにムートがつぶやく。《古き戦の民》、戦闘部族出身の彼にとって、強敵との出会いは恐怖どころか悦楽でさえあるのかもしれない。
 いかに豪腕を誇るギャラハルドでも、盾を構えた左腕のみでバーンの渾身の一撃を受け止めるのは無理だったらしい。盾を持った左手の下に剣を持った右手を交差し、ギャラハルドは巨大な丸盾を両手で支えていた。その盾にめり込むように、アトレイオスの攻城刀が、今なお火花を散らせながらギャラハルドを押している。ギャラハルドは両手でも止めきれず、片膝を突いてようやくバーンの初撃を完全に受け切った。
 ――しかも、俺に膝を突かせるとは流石だ。だが何とか止めた。今度は俺の番だな。

 ◇

「あの光は、MTシールド?」
 カセリナとレーイの戦いを、城の天守から見守るナッソス公爵。望遠鏡を手にした彼の手が震え、続いて肩や背中にまでもわななきが広がった。レーイの取った行動の意味を理解したのだ。追い詰められたレーイが、とどめを刺そうとするイーヴァを、自らの機体カヴァリアンと共に結界の中に閉じ込めたこと――その壮絶な意味を。
 喉元につかえて声にならない言葉を、荒い息と共に公爵はようやく吐き出した。
「もはや勝つことも逃げることもできぬと悟り、カセリナと相討ちをはかる気か」
 公爵は、隣に控えるレムロスに何らかの指示を与えようとした。
 そのとき、ただでさえ轟音飛び交う戦場の中で、ひときわ大きく鳴り響いたものがあった。巨大な割れ鐘の叫び、いや、崖の上から何本もの鉄骨が互いに激しくぶつかり合いながら落ちていくような、ともかく鋼の塊同士の衝突する音だ。しかも、その音は城のすぐ背後で生じている。
 音が耳を叩き付けてくるだけでなく、振動が頭蓋骨にまで響き渡るようだ。不快な表情をする公爵に、レムロスは現実を冷静に指摘した。整った口髭の下、淡々と彼の唇が答える。
「MT兵器が普及し、最近の戦場ではあまり耳にしなくなりましたな。実体をもつ鋼の巨剣同士のぶつかり合う音というのは。あの様子から察するに、敵はムートと互角に剣を交えているようです。ギルドの精鋭、相当の使い手だと見ました」
 公爵の瞳に動揺の影が走った。
「というと、ギルドのアルマ・ヴィオが地上に降下し、《柱》を守るムートと交戦中であると?」
 レムロスは神妙な顔で頷き、進言する。
「ムートほどの繰士が敗れるとは思えませんが、万が一という事態もあり得ます。その場合、いかに無敵の《盾なるソルミナ》といえども、発動前に《柱》を破壊されれば……」


5 心の檻と四つの塔、昔話に隠された謎



 クレドールの艦橋、《複眼鏡》で戦況を監視中の《鏡手》ヴェンデイルが、地上の仲間たちの動向を伝える。彼の言葉を一言たりとも聞き漏らすまいと、クルーたちは耳をそばだてている。
「《柱》の一本を守る敵アルマ・ヴィオとバーンが戦いに入った。あれは、この前の晩にクレドールを奇襲してきた機体のひとつ、例の丸盾を持った重装甲の汎用型だ。エクターの腕も生半可じゃない。手強いね」
 持ち前の軽やかな声質ながらも、余計な感情は交えず、淡々と状況を伝えるヴェンデイル。その間も、彼は複眼鏡を構成する多数の《眼》の視線を四方八方に走らせていた。
 続いて、艦の念信装置を制御しているセシエルが割って入った。
「メイからの連絡によると、《柱》はあらゆる魔法攻撃を受け付けず、破壊するには直接的な物理攻撃、それも相当の破壊力をもった打撃以外に手はないと言っているわ」
 秀麗な面差しを少しうつむけ、ピアノの鍵盤を思わせるコンソールを彼女は器用に操作していた。
「バーンとアトレイオスの馬鹿力に頼るしかないというわけか。副長、《攻城刀》を持たせておいて正解だったな」
 舵輪を手にしながら、操舵長のカムレスが野太い声で告げる。現在、クレドールは、ナッソス城からの魔法弾の射程ぎりぎりの距離まで近づき、上空に浮かんで待機している。船を操るカムレスにも、今のところ急な仕事は無さそうだ。
 操舵長の言葉に、クレヴィス副長がいつも通り穏やかに答える。決して楽観的な状況ではないのだが、事態が厳しければ厳しいほど、彼の冷静な物言いはクルーたちをかえって落ち着かせるのであった。
「えぇ。ここはバーンに切り開いてもらうしかありません。強いて言えば、《柱》を破壊する前に、あの頑丈な敵との戦いでアトレイオスの肝心の攻城刀が折れたり曲がったりしないかと、それがいささか心配です。以前の彼には、熱くなると加減というものをすっかり忘れるところがありましたから。ふふ、まぁ最近は大丈夫だと思いますけどね」
 そう言うとクレヴィスは、傍らに突っ立っているルキアンに目だけで微笑んでみせる。ルキアンは、慌てて、真剣な顔でやたらに大きく数度うなずいた。そんなルキアンの様子を見ているのかいないのか、クレヴィスは独り言のようにつぶやく。彼の表情は平然としているものの、一瞬、ごくわずかに瞳が曇ったように思えた。
「レーイはカセリナ姫と睨み合ったままですか、ヴェン? こちらの方が危機的です」
 クレヴィスの問いかけにヴェンデイルが答える。若干、声のトーンを落として。
「MTシールドの中で相変わらずどちらも動かない。いや、動けないと言った方がいいのかな」
「そうですか。カセリナ姫の危機に対し、ナッソス公爵は冷徹な指揮官として振る舞うのか、父としての情に従って動くのか。ランディの話を聞いている限り、公爵はかなり直情型の人物のようですから、姫を救うため、戦況全体を顧みずに可能なすべての手を打ってくるかもしれません。ただ、仮にそのような私情に走れば、カセリナ姫の無事と引き替えにナッソス側には必ず隙ができ、作戦にも無理が生じます。いや、《無理》ではなく《破綻》と言った方がよいでしょうか。しかし、このままカセリナ姫がレーイと相討ちになれば、いや、今の状態でレーイのところに釘付けになっているだけでも、ナッソス家の戦力は大きく削がれることになります」
 クレヴィスは心の中で付け加えた。
 ――レーイ、あなたはすべてを読んだ上で命を賭けたのですね。この変化、どう転んでもギルドの有利に展開するでしょう。いや、ひょっとして、あなたが考えているのは……。

 ――カセリナが助かるかもしれない。
 クレヴィスの言葉に、ルキアンは少しほっとしたような気がした。だが、仲間のレーイの命が失われるかもしれない状況に、彼は複雑な表情でうつむく。
「ルキアン君」
「……」
「大丈夫ですか、ルキアン君?」
「は、はい!?」
 様々な憶測や想像を巡らせ、自分の世界に入り込みつつあったルキアン。クレヴィスの言葉で現実に引き戻された。
「おそらく、じきに、あなたにもお願いをすることになるかもしれません」
「僕に、ですか?」
 戦いに出向くことになるのかと、ついつい暗い顔を見せてしまった正直なルキアンに対し、クレヴィスは眼鏡の分厚いレンズを光らせて言った。
「予想外の状況になった場合、あなたに動いてもらわねばなりません。敵を倒すためにではなく、むしろ仲間を守るためにね」
 その言葉の意味するところが分からず、ルキアンは怪訝そうな顔つきをしている。クレヴィスは話を続けた。
「あの《柱》、敵方が精鋭中の精鋭を守備に配していたところをみると、やはり何らかの重要な魔法兵器である可能性が高くなってきました。仮にあれが旧世界の兵器であった場合、我々のもつ装備では対応できないかもしれません。そのときは、アルフェリオンの力を頼りにしたいのです」

 何と返事してよいのか思い悩んでいるルキアンの背後で、聞き慣れた女性の声がした。
「その《柱》のことなのですけれど……」
 足早に歩いてきたのか、少し息を荒らげながら、シャリオが艦橋に入ってきた。腰まである長い黒髪を後ろで一本に結び、旧世界風の白衣を羽織っているところからして、まさに今まで《仕事中》だったのだろう。もちろん《船医》としての、である。
 シャリオは遠慮がちに切り出した。
「わたくしが戦いのことに口をはさむのは、差し出がましいかもしれません。それでも、お伝えしたいことがありますの」
 話の続きを促すように、クレヴィスがにこやかに肯いた。
「シャリオさん、ひょっとして《おとぎ話》との関わりですか? やはりあれが旧世界の兵器であると」
 それまで堅い表情であったシャリオの目が、はっきりと輝く。
「はい。さすがはクレヴィス副長ですわね。あの《柱》を連想させる昔話を以前にどこかで聞いたことがあり、先日からずっと考えていました……。先ほど、不意に思い出して調べてみたのです」
 ある昔話をシャリオは手短に語り始めた。クレヴィスとルキアン以外の大方のクルーは半信半疑といった様子で聞いているが、シャリオは気にせずに続ける。

  昔々、聖なる杯を護る不思議な城がありました。
  杯を奪おうとして城に近づく者は、門をくぐった後、
  いつまでたっても中に入ることができませんでした。

  城には恐ろしい魔法がかけられていたからです。
  そう、「心の檻」に閉じ込められた者たちは、
  二度と戻ってくることはなかったのです。

  城の周りには四つの魔法の塔が建っていました。
  これらの塔がある限り、
  すべての悪意ある者から城は守られたのでした。

  どんなに強い騎士も、心にまで鎧をまとうことはできません。
  塔の魔法に魅入られた者は、異界の檻の中を永遠にさまよい、
  いつしか朽ち果ててゆきました。

 語り終えて一息吸い込むと、シャリオはクルーたちの顔を見渡しつつ、威厳をもって告げた。
「皆さん。イリュシオーネの昔話や伝説の多くが、実は旧世界の出来事を比喩的に伝えるものであると考え、わたくしはこれまで研究を続けて参りました。そして、いま申し上げた昔話も、もしかしたら旧世界の時代のことを暗に指しているのではないかと考えたのです」
 突然の申し出に呆気にとられているクルーたち。まさかとは思いつつも、シャリオの語った話の内容にはナッソス城の《柱》を想起させる点が確かにある。皆、互いに顔を見合わせ、首を傾げている。
 そんなとき、カルダイン艦長が口を開いた。煙草をくゆらせながら、地鳴りのような重々しい声で。
「いずれにせよ、ナッソス城の《柱》が何であるのかは、今のところまったく分かっていないわけだ。できるだけ多くの状況を想定して動いた方がいいだろう。あの《柱》が先ほどの昔話にあるような効力をもつ《兵器》だと考えておくのも、予想の選択肢がひとつ増えるという意味で有効なことだと思うが」
 クレヴィスも艦長の発言に賛同する。
「確かに。あの《柱》が何であるのか、様々な予測を立てて我々は戦いに臨みました。しかし、人間の精神に影響する兵器だという可能性については、考えなかったですからね」
「あ、あの……」
 これまで黙っていたルキアンが、細い声でつぶやき、何か言いたげにしている。
「何ですか。言ってみてください、ルキアン君」
 クレヴィスに後押しされ、ルキアンはおずおずと話し始めた。
「も、もしですけど、シャリオさんの昔話の通りだとしたら、僕たちはどうすればいいんでしょう。あの、その、というか……《心の檻》や《異界の檻》っていうのは、何なのでしょうか。《檻》に吸い込まれると、死ぬまで出てこれないってことですか?」
 一気にそこまで言い、少年は頬を赤らめている。
 ルキアンの発言に何か得るところがあったように、クレヴィスが目を細めた。
「そこが問題です。何しろ、あらゆる者が抗えないほどの力を持っているわけですから、単なる幻覚を見せる程度の兵器ではないでしょうね。例えば、敵の心に働きかけ、それに反応したことを引き金に、相手を現実と夢の狭間にあるような一種の亜空間に送り込んでしまう……儀式魔術によってそういう《罠(トラップ)》を仕掛けることは、魔道士としての立場から言わせてもらうと不可能ではないですよ。ただし、そのためには通常では得られないほどの膨大な魔力が必要です。それも一時のものではなく、安定的に供給されないといけません」
 彼の言葉が終わるか終わらないかのうちに、ルキアンが思わず手を打った。一同の視線が集中し、恥ずかしそうに何度も頭を下げる少年。
「す、す、すいません。つい。でも、今朝、クレヴィスさんが言っていたことと、今の点は結びつきます。なぜ、黒い《柱》があんなに不規則な位置に並んでいるのか。それらが、魔力を吸い上げるために、大地を走る霊脈の場所を選んで建てられた結果なのだとしたら。ち、違うでしょうか?」


6 不幸でないことと幸せであること



「なるほど! ルキアン君、さすが魔道士の卵だねぇ。結構それらしい話じゃん」
 半ば納得し、半ば冷やかすような調子で、ヴェンデイルが最初に答えた。
 続いて対照的に堅苦しく、カムレスが言う。
「あぁ。できすぎた推理のような気がしないでもないが、可能性のひとつとしてはそう考えておいた方がいいように思う。確かに納得できるところがある」
 カムレスは、額の大きな傷跡をなでながら、あながち間違いではないという表情をした。
 クレヴィスも少年の隣で満足げにうなずいている。
「私もおおむね同様の推理をしています。あの《柱》は要塞砲のような直接攻撃系の兵器ではないでしょう。もしそうであったなら、ギルドの陸戦隊の進撃が始まった時点で敵方はそれを放っていたはずです。仮にそのような強力な攻撃兵器であったとしても、もはや混戦状態の現時点では、敵味方もろとも消滅させる気でない限り撃つことはできないでしょう。楽観的観測かもしれませんが、ナッソス公爵がそれほど愚かな人間だとは思えませんし」
「あれが防御用の結界兵器であったとしても同じことが当てはまる。今さら結界を張ったところで手遅れ、まったく無意味だ」
 手短に告げると、艦長はパイプを再び口にした。象牙に似た白い材質でできており、植物のツタや葉をあしらった細緻な彫り物の施された、上等そうなパイプである。
 カルダイン艦長に目配せしつつ、クレヴィスが話をまとめようとしている。
「まぁ、可能性だけであれこれ話していても埒が明かないですがね。とはいえ、あれが仮に兵器なのだとすれば、一定の確実さをもって推測できることが三点あります。一つ目に、まだ使用されていないという事実からして、敵味方が入り乱れた状態になった後でも使用できる兵器かもしれません。何と言えばよいのか、先ほどのシャリオさんのお話が真実味を帯びてくるのですが……例えば、敵意を持つ者だけを選んで効果を及ぼすことが可能である兵器、いや、ある時点で効果範囲内にまだ居なかった者だけを、つまり後から一定の範囲に入り込んできた敵だけを選んで発動する《魔法》だと、考える方が現実的でしょうか」
 クレヴィスの推理を聞くにつけ、たしかにシャリオの語った昔話の一節が、ますますそれらしく思われてきた。そう、城に近づく《悪意を持った者》に作用する魔法、という部分である。ルキアンは眼鏡の奥で目を丸くしつつ、心地よい語り口のクレヴィスの話に傾聴していた。
 徐々に腑に落ち始めたような仲間たちの様子を見ながら、クレヴィスはさらに述べる。
「まぁ、そうした《魔法》の効果を今すぐ何の制約もなく発動できるのなら、敵はすでにあの兵器を使用していてもおかしくありません。そうではない点からみて、二つ目に、おそらく何度も使えるものではないということ。この艦の《方陣収束砲》と同様、大量の魔力をチャージする必要があるため、短期間のうちに使用できる機会はおそらく一度きり……。最後に同じくこれも、まだ敵方が《魔法》を発動してこないという点から推測されるのですが、三つ目として、有効な効果範囲の相当に狭い兵器かもしれません」
 ヴェンデイルがそこで合いの手を入れた。
「なるほどねぇ。てことは、いまナッソス公爵は、ギルドの部隊が有効範囲内にできるだけ沢山入ってから奥の手を使おうと、手ぐすね引いて待ってるってか?」
 クレヴィスはシャリオに一礼し、片目を閉じてみせる。
「ともあれ実際に事が起こってみないと、すべては憶測の域を出ません。あまりとらわれすぎるのも適切ではないですね。それでも、シャリオさんは、我々の想定していなかった状況に気づかせてくれました。助かります」
 ほっとした様子で艦橋から出て行こうとするシャリオだが、ふと立ち止まり、困ったような顔つきでつぶやいた。
「でも、わたくし、医師としては失格ですわ。トビー君は、一命は取り留めたにせよ、まだ予断を許さない容態ですし、シャノンさんは今も精神不安定でまともに会話すらできないというのに……。それなのに、執務中、よそ事の昔話などを思い浮かべているなどとは。情けない」
 船医としての強い使命感をもって己を責めながらも、旧世界の謎を解き明かしたいという知的欲求には逆らえない。その点については、彼女は驚くほど欲望に正直だ。シャリオは、一種、開き直ったような何ともいえない表情をしていた。この人は悲しいほどに探求者なのだろう。時空を超えた知の迷宮に挑むその面差しは、どこか蠱惑的ですらあった。
 最後にシャリオは、ルキアンの名前を呼んだ。
「ルキアン君。どの時点で来てもらうのがよいかは判断の難しいところなのですが、戦いの状況に区切りがついたら、シャノンさんやトビー君、それにメルカちゃんにも会いに来てやってくださいね。辛いとは思います。でも、お願いします。大人のわがままなのですけど、あの子たちにとって、ルキアン君は重大な《鍵》なのです。彼らが未来を再び開くための……」
「え、えっと、あの、その、十分には分からないのですが、シャリオさんのおっしゃることは、何となく分かる気もします。は、はい」
 戸惑いながら、格好の悪いお辞儀をするルキアン。

 ◇

 シャリオが去り、艦橋も元の状態に戻った後、ルキアンは医務室に残された三人のことを何度も思い浮かべた。
 ――あのとき僕が撃っていたら、シャノンもトビーも、おばさんも、あんなことにならずに済んだかもしれない。だけど、だけど、僕の中の《引き金》が次第に軽くなるのも怖くて仕方がないんだ。僕が《戦い》を簡単に決意できるようになってしまえば、いつか《ステリア》の力に魅入られて、ただの兵器になってしまわないかと。
 ミトーニアの街でメイに打ち明けた不安を、ルキアンは再び心の中で繰り返した。その不安は、漠然とだが、しかし強烈で直感的な力をもって、否定しがたい重さで彼にのしかかってくる。正直なところ、ステリアの絶対的な力の誘惑が、常に心の底で待ち構えているのが分かるのだ。先日、幻のように彼の脳裏に浮かんだ、あの《巨人》の姿――炎の翼を持ち、血塗られた大鎌を手にした《エインザールの赤いアルマ・ヴィオ》――《アルファ・アポリオン》のイメージと共に。
 ――だったら、僕はなぜ敢えて《戦場》なんかに飛び込んだんだろう。自分で選んだのに、完全に矛盾してる! でも、それは、それは、単にあの《日常》から僕が逃げ出したかったからなんだと思う。どこでもいい、あそこではないどこかへ。苦しかったんだと思う。分かってる、そんなの勝手だって。他人からみれば、僕の苦しみなんて、ほんの些細な問題、恵まれた日常の中の不満に過ぎなかいじゃないか。だけど……。

 一瞬、ソーナの美しい横顔が、ルキアンの脳裏に思い浮かんで消えた。
 燦々と日差しの降り注ぐ浜辺で、手を取り合って歩く《二人》の姿。
 《独り》、取り残され、波打ち際の残響だけがルキアンの耳に淡々と響く。

 レマール海の静かな湾内に、単調なリズムで寄せては返す波。
 その皮肉な穏やかさにルキアンは思ったものだ。
 世間的に見れば衣食住には困らず、決して不幸ではないけれど、
 だからといって幸福だと心から笑ったことなど一度もない、
 自分の日々のようだと。

 《不幸でないこと》と《幸せであること》はまったく別物なのではないか。
 何不自由ない生活の中で、息苦しさだけを感じ続けて人生を終える人もいる。
 悲惨な暮らしの果てに、この世を去るときに笑っていられる人もいる。
 たとえ苦しいことがあっても、自分が《不幸》だと嘆くことがあっても、
 それと同時に《幸福》だと感じられる人が側にいて、
 そう感じられる時があって。
 それが一番大切な問題ではないのだろうか。

 幸せの数と不幸せの数との間には、決まった相関なんてまったくない。
 いずれか片方が多い人も居れば、両方とも多い波乱に満ちた人も居る。
 幸福か不幸かなど、所詮は主観的なものだという話もある。
 だけど僕には、どちらもない。

 生まれてこなければよかったとは絶対に思っていない。
 でも生まれてきて良かったと思った瞬間もあまり記憶にない。
 これを傲慢だとか、寂しい人だとか、世の中は笑うのだろう。
 生きたくても生きられない人がいるのに、と人は言う。
 そう告げられると僕の感情は揺さぶられる。
 だけど、倫理的な問題はともかく、それは本当は話のすり替えだ。
 頭では理解できても、一時の感情は動いても、
 僕の《現実》には刺さらない。心の底までは決して照らせない。

 いずれにしても、このままではいけないのだと。
 ルキアンはよく思ったものだ。
 ともかく動かなければ、《ここ》を出なければ。

 《この日常を越え出なければ》。


【続く】



 ※2009年8月~11月に、本ブログにて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第45話・前編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


 昔々、聖なる杯を護る不思議な城がありました。
 杯を奪おうとして城に近づく者は、門をくぐった後、
 いつまでたっても中に入ることができませんでした。

 城には恐ろしい魔法がかけられていたからです。
 そう、「心の檻」に閉じ込められた者たちは、
 二度と戻ってくることはなかったのです。

          (イリュシオーネの伝説より)

◇ 第45話 ◇


1 ナッソスの重戦士、攻守一体の盾!



 ナッソス城のある丘にそびえ立つ黒い石柱めがけ、ラピオ・アヴィスがなおも急降下してゆく。雲間を突き抜け、羽ばたく赤い翼。最初は、地上に投げ落とされる矢のように真っ逆さまに迫っていたが、地上へ近づくにつれてメイは速度を調整していた。自らの腕と同様に、彼女はラピオ・アヴィスの両翼を自由自在に動かす。機体や翼の角度を刻々と変化させ、風をとらえ、細心の注意を払って空気の抵抗を操るのだった。
 ラピオ・アヴィスの上にかがみ、じっと地上を睨むアトレイオス。深紅のラピオ・アヴィスとは対照的に、アトレイオスの機体のすべては青系統の色で統一されている。頭頂部から後頭部にかけてのトサカ状の飾り以外にこれといった装飾の無い、簡素な兜は、鮮やかな瑠璃色だ。その兜の下で輝く目が、単機で待ち構える敵のアルマ・ヴィオ、ムートの《ギャラハルド》の動きを計っている。
 ――急いで降ろせ! あの生意気な小僧をお仕置きしてやる。
 喧嘩っ早いバーンが念信でメイに伝えた。だが、メイは《操縦》に全神経を集中しているのだろうか、まともに取り合わず、短い怒声で応答しただけだった。
 いや、メイには考えがあったのだ。彼女は不意に慎重な声になり、バーンに告げる。
 ――アンタね、変だと思わない?
 ――何が。
 ――なんで敵方は撃ってこないのさ。あいつの機体も、黙って見てるだけ。MgSを装備していないとか、まさかね。
 その間にも、二人の眼下の大地は見る見る近づいてきた。バーンが催促する。
 ――はぁ? お前こそ余計なことを考えてる場合か。早く俺を降ろせ、早く《柱》を撃て。
 メイの言う通り、地上や城からの砲火はなかった。たしかに、構造上、連射のできないMgS(マギオ・スクロープ)では、飛行型アルマ・ヴィオのような俊敏な相手を撃ち落とすことは困難である。実際、この世界の《対空砲》というのは、主に《足の遅い大きな的》である《飛空艦》を攻撃するための兵器だと考えられている(*1)。しかし、それにしても形ばかりの攻撃さえ無いのは奇妙だった。
 特に、地上で待ち受ける強敵、《ギャラハルド》が撃ってこないのは不可解である。先ほどまでは、上空から見るとオモチャの兵隊のように小さかったギャラハルドの姿が、一瞬ごとに大きく変わっていく。だが、黒っぽいギャラハルドの機体は、右手に曲刀を持って肩に担ぎ、左手に巨大な丸盾を構えたまま、悠然と上空を見上げている。
 ――そうね。裏があるかも知れないけど、ここは攻めるのみよ!
 メイの思念に同調して、ラピオ・ヴィスのMgSが石柱に狙いを定めた瞬間。

 ――えっ?

 ほとんど同時に彼女は機体を旋回させた。何らかの強烈な衝撃を受け、ラピオ・アヴィスは姿勢を大きく崩され、落下しかけた。必死に立て直し、上昇するメイ。
 ――まだだ、戻ってくるぞ!
 バーンが叫ぶ。アトレイオスはすでにMTシールドを展開しており、輝く光の幕のようなものが機体の碗部に盾状に広がっている。
 ――了解!
 機体の姿勢をほぼ九十度傾けたラピオ・アヴィス。間一髪、今までラピオ・アヴィスの翼のあった位置を、黒い物体が凄まじい速さで通り抜けていった。
 メイの巧みな動きに感じ入るように、ムートがつぶやく。
 ――へぇ、やるじゃないか。さすがはギルドの飛空艦のエクター。
 そう言いつつ、彼はギャラハルドの左腕を動かした。上空から何かが落下してくる。いや、地上に向かって急速に戻ってくる。よく見ると、その黒い塊とギャラハルドの間を、《光の鎖》が結んでいた。光の鎖・MTチェーンによって、ギャラハルドは落ちてくる何かを巧みに振り回し、操っているらしい。
 ギャラハルドの頭上で何回か円を描いた後に、鋼の物体が地上にめり込み、地震のごとき揺れが起こった。
 それを見ていたメイが声を上げる。
 ――た、盾?
 ――言ったはずだ。前の戦いのときとは違い、今回は俺の足場がしっかりしていると。
 ムートの念信の声が妙に無邪気に感じられる。そう、ギャラハルドは、あの巨大で分厚い丸盾を投げたのだ。しかも鎖鎌のように、盾をMTチェーンで自在に操ることができるらしい。
 危険を何とか避けた今になって、メイは真実を理解し、思わず戦慄した。
 ――あんな鉄の塊みたいなのをくらったら、華奢な飛行型なんて一撃で終わり。
 ――あぁ、一撃目はMTシールドで何とか受け止めたが、凄い衝撃だったぜ。下手すりゃ落っこちるかと思った。
 そう答えたバーンを挑発しようというのか、ムートが念信を送ってきた。
 ――正直、油断していたようだな。それでも避けたのは立派だ。普通なら、シールドで受け止めたところで、機体は吹っ飛ばされて落ちてくる。上手く受け流したか。

 そのとき閃光と共に、ラピオ・アヴィスのMgSが出し抜けに発射された。
 前触れらしい前触れもほとんどなく。
 ――ふん、油断はアンタの方さ。お喋りな戦士君。
 前方の黒い石柱のところで爆煙が立ちのぼる。強力な爆発力を持った火系の魔法弾が、柱を直撃したのだ。
 瞬時の動きで柱を正確に射止めたメイに、さすがのバーンも目を見張る。
 ――やるじゃネェか。いつ撃ったんだよ?って感じだったぜ。
 ――たとえ陸戦型の重アルマ・ヴィオでも、これだけ真正面から当たれば無事じゃいられないよ。まして、あんな柱、簡単なもんさ。
 誇らしげに言う彼女に対し、ムートは不敵に微笑するだけだった。

 石柱を包む煙は、たちまち風に散っていく。そこで彼らが目にしたものは……。
 その状況を言葉にしようにも、すぐには声にならず、メイが息を飲み込んだ。
 ――そんな。傷ひとつ、付いて、ない?
 ガラス状の黒い光沢を浮かべた石柱は、何事もなかったように天を突いて立っている。
 動揺したメイたちを狙い、ギャラハルドが再び丸盾を投げる。しかも投げられると同時に、盾の縁に沿ってMTの刃まで展開していた。
 ――同じ手を何度もくらうか!
 今度は余裕を持って回避したメイ。
 地上では、ブーメランさながらに戻ってきた盾を、ギャラハルドが受け止めた。しかも片手だけで。
 ――あの石柱には一切の魔法攻撃は通用しない。生半可なMTの刃も通りはしない。もし破壊できるとすれば、あんたの相棒の持ってるような大型の攻城刀を、何度も全力で打ち付けるしかないだろう。
 そこまで言った後、ムートの口ぶりが真剣なものに変わる。
 ――だがそんなことは、俺を倒さない限りは絶対に無理。分かっただろ、降りてきて戦え、青い騎士。
 ――おぅ、だから売られた喧嘩は買ってやるって、さっきから言ってんだろ。メイ、ここはやはり俺の出番だ。
 バーンの言葉に肯いたメイ。アトレイオスを降ろすために、ラピオ・アヴィスが地上に近づく。もちろん、ここで下手に邪魔をしてくるようなムートではなかった。息の合った動きでアトレイオスが地上に降り、ラピオ・アヴィスは再び上空に舞い上がった。
 赤茶けた砂利の目立つ地表。《蒼き騎士》アトレイオスと、ギャラハルドが対峙する。いずれも分厚い甲冑をまとった重装汎用型アルマ・ヴィオ、手にしている武器は互いに巨大な鋼の塊だ。力で相手をねじ伏せるタイプの機体。中に乗っている者も含め、奇遇にも、似たもの同士だ。
 機体の全高よりも長大な剣、攻城刀の柄を両手で握り、刀身を肩に担いだアトレイオス。攻城刀は、ほぼ真っ直ぐで片刃。刃のある側の刀身を、MTの光の刃がさらに覆う。
 対するギャラハルドは、右手に曲刀、左手に攻防両用の丸盾を構え、まるで大地から生えてきたかのように、揺るぎない体勢で構えている。
 バーンもいつになく真剣だった。不用意に突進せず、機をうかがっている。
 ――隙がねぇな。さすがはナッソス四人衆ってとこか。
 二体のアルマ・ヴィオをメイが上空から見つめる。
 ――腕力馬鹿が二人……。どちらの武器も小回りは利かない。当たれば必殺でも、外れれば、そう簡単には次の攻撃に移れない。

 睨み合いが続く中、バーンは次第に焦り始める。
 ――間合いを詰めねぇと、あの厄介な盾が飛んでくる。いったんあれを振り回されたら厳しいな。だがよ、盾をかわして無理な体勢で近づけば、今度はあの馬鹿でかい剣を避けられなくなっちまう。どうする?


【注】

(*1) MgSは魔法を《発射》する呪文砲であり、魔法弾を放つためには、呪文を唱えて魔法を使う場合と同様に一定の時間が必要となる。ただし、魔法弾をMgSに装填すると同時に、呪文の詠唱に相当する《抽出》という作業も予め行っておけば、一発目の弾を即座に発射できる状態にしておくことは可能である。しかし二発目の弾を撃つためには、結局、再び弾を込めて《抽出》の時間を取らなければならない。先込め式の火縄銃などと同様、MgSは連射できない兵器なのである。MgSの構造上のこのような限界のため、イリュシオーネにおいては、敵方の飛行型アルマ・ヴィオに対する籠城側の有効な迎撃手段は、同様に飛行型アルマ・ヴィオを出して攻撃することに限られる(この意味において、ナッソス軍がギルド側に制空権を奪われたのは痛手である)。


2 レーイ反撃、決死の秘策とは?



 ◇ ◆ ◇

  堅い木と木の打ち合う音。練習用の木剣がぶつかり、不似合いに小気味よい音がした後、一方の剣が宙を舞った。
 それを目で追い、金髪の少年は悔しそうな表情で頭上を見た。両側に茂った木々の間に、青空が川のように細長く開けている。地面に落ちた木剣を拾おうと彼は素速く駆け寄るが、それ以上の俊敏さで、もう一方の人物が地面の木剣を脇に蹴飛ばした。同時に、少年の喉元に切っ先が突きつけられていた。幸い、木製の剣先であったし、実戦でもないのだが。

「分かったか、レーイ。いま俺がやったのと同じようにして、今度はこっちの剣を奪ってみろ」
 少年に木剣を突きつけていた男は、おそらく剣の師匠か何かであろうか、厳めしい口調でそう言った。
「それから、戦いの最中に、落とした剣を無理に拾おうとするな。どうぞ斬ってくださいとわざわざ隙を作っているようなものだ」
 木剣を構えた男は、見た目には狩人か野武士を思わせるような出で立ちである。森に溶け込む深緑と茶色が中心の質素な衣服、毛皮のヴェスト。濃い茶色の髪は肩口くらいまでの長さだが、彼の口元の髭と同様、お洒落というより無精のせいで伸びたもののようだ。
「でも、ヴィラルド……。素手で戦えというの?」
 現在のレーイよりもかなり弱々しい、とても剣士とは思えないような話しぶりでレーイ少年は言った。いや、少年というより、まだ子供だ。
 ヴィラルドと呼ばれた男は大声で笑った。
「違う。とっとと逃げろ」
「え、逃げるの?」
「そうとも言う。だが、あくまで防御の一環だ。戦いを諦めるというわけではない」
 ヴィラルドは木剣の先でレーイの背後を指した。牧場の柵だとか家の扉の支え棒だとか、その程度の用途に使えそうな手頃な材木が積んである。レーイ少年の腕より少し細い程度の太さで、両手で持って振り回せないこともない。
「たとえば、そこの手頃な棒を取って構えろ。それで相手の剣をかわしながら、悟られないよう、剣を拾える位置に徐々に戻るんだ。決して無理をせず、自信があるなら丸太ん棒で戦い続けてもいい。使い方と場合によっては、丸太や杖も剣より厄介な武器になることがある」
 そしてヴィラルドは告げた。
「いいか、逃げるときは逃げる。だが、勝つために逃げる。最後まで諦めるな」

 ◇ ◆ ◇

 ――ヴィラルド……。
 レーイは心の中でつぶやいた。
 こうしている間にも、次の瞬間、レーイの命はこの世から消え去ることになるかもしれない。《ステリア》の力を発動させたイーヴァは、時間をも操る人知を超えた能力を発揮し、レーイのカヴァリアンを一方的に追い詰めていた。
 これまで決して敗れたことのないギルドの栄光の騎士カヴァリアンも、今や無様に地を這っている。右腕を切り落とされ、片脚も破壊されたこの機体にとっては、身動きの取れぬまま、残された左腕でMTサーベルを構えるのが精一杯であった。
 対するイーヴァは、《彼女》の最終兵器であろう輝く光の槍を手に、満身創痍のカヴァリアンを仕留めようと構えている。荒ぶる戦乙女の振るう、旧世界の超兵器《神槍のファテーテ》だ。
 イーヴァを中心に荒れ狂う強大な魔法力。その嵐の中心で本性を現し、凍った美しさを見せるイーヴァの真の《顔》は、ますますもって不気味であった。冥府の女王、あるいは死せる美姫、それは乗り手の心の闇を象徴しているようにも思われた。気高く可憐なカセリナの中に同居する暗部、大切な者たちに対する思いの裏返しである情念。
 ――私は戦う。たとえどのような力を使おうとも、守ってみせる。
 うわごと同然に繰り返されるカセリナの心の声。
 ――だから力を貸して欲しい、イーヴァ、あなたの力を。

 カセリナの中の心象風景が、イーヴァの内に秘められたステリアの力と一体化し、異様な様相に変わっていく。

 得体の知れない暗黒の空間。
 純白の羽衣一枚をまとったカセリナの姿が宙に漂っている。
 それはあたかも闇の祭壇に捧げられた生贄のようでもあった。
 足元からどす黒い妖気が立ち込め、カセリナを取り巻き、無数の漆黒の蛇と化して彼女の体や手足を絡め取っていく。
 だがそれは苦痛ではなく、カセリナの表情は恍惚としていた。
 虚ろな瞳。
 もはや闇の力に取り込まれたかにみえるカセリナの魂。

 最後に彼女は、ある言葉を無意識に思い浮かべた。
 戦いの前、想いを寄せる人がナッソス家から離れるときに告げた言葉を。

 ――お嬢様、私は、帝国に組みする戦いには正義を感じられません。

 なぜここで思い出したのか。理由は分からない。彼女の胸の奥に最も強く刻み込まれていたものが、自然に現れ出たのであろうか。
 ――デュベール?
 暗黒の空間に、にわかに亀裂が走った。
 幻の世界の中でカセリナを飲み込もうとしていた闇は、たちまち霧散した。
 漆黒の蛇たちも、朽ち果てるように彼女の身体から落ちていく。
 ――私、私は。

 ◇

 ――MTシールド、最大展開。

 ぽつりと、レーイが念じた。

 輝く球状のバリア、結界型MTシールドがカヴァリアンの周囲を包む。
 ――この光は!
 我に返ったカセリナは、なおも狂気と正気との間で揺らめきつつも、周囲の変化を理解した。白熱する光のドームが大地に形成されている。その中にいるのはシールドを張ったカヴァリアンのはずだが、何故かイーヴァの姿もそこにあった。
 ――以前の空中戦のときと同じだ、カセリナ姫。敵を圧倒すると、つい間合いを詰めすぎるのは、貴女の悪い癖なのか。そして一瞬、心に隙があった。詰めが甘い。
 結界型MTシールドによって、レーイはイーヴァの攻撃を防ごうとしているのではなかった。二体のアルマ・ヴィオは、互いの機体が触れ合うほどの狭い結界の中に押し込められている。レーイは、いわば檻の中に自機とイーヴァを一緒に閉じ込めたのだ。

 その狙いとは……。


3 託された思い…命燃え尽きるまで



 ――まさか、相討ちを?
 レーイの予想外の出方に、カセリナは瞬時に様々な判断をめぐらせる。しかし、かえって進退きわまる現状に気づかされることになった。肩を寄せ合うような窮屈な空間では、イーヴァの俊敏な《足》は生かせない。身動きが取れなければ、レーイからの攻撃を回避することも難しい。仮にイーヴァの攻撃が先にカヴァリアンに致命傷を与えても、次の瞬間にはカヴァリアンのMTサーベルもイーヴァをとらえるだろう。たとえその場合、カヴァリアンの方は破滅することになろうと。
 一瞬の隙も見せられない状況のまま、密着した間合いで両者が睨み合う。
 ――なぜ、そこまでして。命を捨ててまで、何のために。
 カセリナには理解できなかった。《愛のためには戦わない》といった相手がすべてに代えても戦い抜こうとする理由が何なのか。
 ――こうなっては、その《光の槍》も容易には使えまい。閉じた結界の中で巨大な破壊力をもつ攻撃をすれば、貴女のアルマ・ヴィオも無事では済まないだろう。
 死を目前にしても一切動じないレーイに、カセリナはますます脅威を感じ始めた。念信を通じて相手に伝わってしまわぬよう、彼女は密かに思考を巡らす。
 ――シールドを中から破壊することはできる。でも、それに乗じてヴァルハートから攻撃を受ければ、今の状態では避けられない……。これは?
 不意にカセリナは目まいを感じた。
 ――こんなにも力を消耗するなんて。覚醒したイーヴァに私が追いついていない。
 レーイが読んでいた通り、いかにステリアの力を借りようとも、時間に干渉するなどという途方もない《魔法》をこれ以上繰り返すことはカセリナにも困難であった。エクターである彼女自身の力が、さすがに限界に近づいている。
 そのことをレーイも確信した。
 ――カセリナ姫が光の槍で俺にとどめを刺せば、そこで姫の精神力もおそらく尽き、彼女の機体は戦いから脱落する。そうなれば、すでに二体のレプトリアを倒され、《レゲンディア》クラスの機体の大半を失ったナッソス家の戦力など、後は陸戦隊や艦隊のエクターたちが突破してくれる。ギルドの勝利だ。

 ――これで良かったのだろうか、ヴィラルド。

 少年時代のレーイが、主であるヴィラルドの居なくなった空っぽの部屋に立っている。
 武具以外には遺品らしい遺品など無かったが、部屋の隅に置かれた粗末な収納箱の中に、他の雑多な品々と共に一冊の使い古された革表紙の手帳が見つかった。それを開き、しばらく目を通した後、少年は泣き崩れたまま立ち上がれなくなった。

 ――エレノア。

 レーイは、ヴィラルドと一緒に暮らしていたのであろう山小屋から、剣を手にして駆け出した。泣きながら、しかし何かの熱に浮かされて。そしてエレノアを見つけた彼は……。握っていた剣の感触が生々しくよみがえる。剣に貫かれて血を流しながらも、自らを手にかけた少年をなぜか抱きしめた、あの赤毛の女戦士。彼女がエレノアなのであろう。

 ヴィラルドの言葉がレーイの思いの中で再び響く。

 ――最後まで諦めるな。

 そして、いまわの際にエレノアが語った言葉。

 ――これは報いなのだ、憎しみの連鎖から抜けられなかった私と奴の。
 ――いいか、もう二度と、情念に縛られた手で剣を握るな……。自らの愛や正義のために戦う者は、たしかに強い。だが、それ以上に強くなって、不毛な争いの鎖をひとつでも多く断ち切れ。

 皮肉にも、死によって、彼女は長い長い悪夢から解き放たれたのであろうか。
 穏やかな表情のエレノアの姿が、レーイの脳裏に浮かんだ。
 結局、生きている間には彼女が手に入れられなかった安らぎ。
 血で血を洗う戦い、一族の怨嗟の果て。
 エレノアがようやく手にしかけた普通の静かな時間。
 それを、たとえ運命のいたずらにせよ、彼女から生命と共に奪い去った者は、
 レーイ自身だ。

 ――エレノア、俺は償いのために戦っているのではない。そうしたところで、貴女が喜ぶとも、俺が赦されるとも思っていないからだ。勝手だと言われるかもしれないが。俺は、あなたが最後に託した思いのために戦う……。そのために剣を振るうことで、この手が新たな罪にまみれ続けようとも。

 ――それでも俺は逃げない。生きて、最後まで重荷を負い続ける。矛盾した存在であるこの身が、いつか死によって解放されるまで。

 カヴァリアンが、普通であればもはや戦闘の継続すら難しい状況に陥っているにもかかわらず、繰士のレーイの闘志は鈍るどころかますます高まっている。

 ――もちろん、俺は簡単には死ねない。この命、燃え尽きるまで、生きて戦う。

 ――何なのよ、あなた、何なのよ、レーイ・ヴァルハート!!
 レーイの異様な情熱は、対するカセリナの狂気すら覚まさせるほどに強烈なものであった。彼女は寒気を感じ、思わず叫んでいた。
 しかし、さすがにカセリナも第一級のエクターだ。心の動揺をたちまち鎮め、相手に付け入らせる隙は与えない。

 まったく身動きできないまま、極限的な消耗の中で対峙するレーイとカセリナ。
 彼らの分身であるカヴァリアンとイーヴァ。
 一秒、一秒が果てしない時間のように感じられる。
 両者のいずれかが次の動作に移った時点で、戦いは決するだろう。


4 うなる攻城刀、バーン渾身の一撃!



 ――こいつ、さっきまでの荒っぽい戦い方のわりには、こうして静かに向き合ってみるとまったく隙が無い。無理に仕掛ければ向こうの思うつぼだが……。
 愛機アトレイオスの《目》を通して、バーンは、真正面に立ちふさがった敵方の《重戦士》ギャラハルドを注視する。
 鮮やかな青の鎧に身を固めたアトレイオスと、黒を主体とした甲冑の所々から赤い関節部分がのぞくギャラハルド。いずれの装甲も、平均的な汎用型アルマ・ヴィオのそれに比べると倍近くの厚みがある。それぞれの機体が手にした武器も、これまた半端なものではない。アトレイオスは、刃渡り20メートルを超える化け物じみた攻城刀を両手で握り、右肩部に担ぐように構えている。対するギャラハルドの手にした曲刀は、長さに限っていえばアトレイオスの攻城刀の3分の2程度ではあれ、刃の幅や厚さについては逆に攻城刀を余裕で上回る。両者とも並外れた重装甲ながら、それでいて互いに相手に対して一撃で致命傷を与える攻撃手段をも備えているのだ。
 ――俺とヤツの剣は五分五分。だがよ、あの《盾》がある分、あちらが有利か。守れば鉄壁、攻めに使えば必殺ってか。まったく、とんでもないモノを持ってきやがって。
 自慢の攻城刀を振りかぶったはよいが、次の一手がなく、攻めあぐねるバーン。両者は睨み合ったまま動きを見せない。いや、ムートの方はむしろ余裕の構えで待ち構えており、バーンだけが焦っているようにもみえる。
 ――下手な小細工が通用する相手でもないしな……。やめたやめた、似合わネェんだよ、無いアタマで俺があれこれ考えたところで!
 バーンが結論を下したとき、アトレイオスは電光石火の速さで突進し、瞬時にギャラハルドを攻城刀の間合いにとらえた。いや、そのときにはすでに刀が振り下ろされていた。何が起こったのかが明らかになる前に、耳をつんざくような音が最初に響き渡る。もはやそれは爆音。鋼と鋼の衝突が大気を震わせ、地面や空さえも揺さぶっているかのようだ。


【続く】



 ※2009年8月~11月に、本ブログにて初公開
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