珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

同じ人たち

2025-03-21 | 日記
反ワクについては、切り口を変えた方がいいかも?

どんなに物価高で国民が死のうと苦しもうと、絶対に減税しないでむしりとるし、被災地にはビタ一文出さないけど、お仲間には湯水のようにその血税をシェアし放題。
こんな人たちが
「皆さまの愛する人の命を守るために、接種も検査も無料です
「あっちにもこっちにも、命のために補助金出します」
「蔓延している怖いウイルスから国民の皆さまを守る使命に燃えてこそ、この打て打てドンドンの打ち出しに尽力しました」
なわけないだろーーーーー🤣

もっとカネ払えよ?
無理なら死ねば?
むしろ苦しんで死んでほしい。
お前らが苦しんで死んでくれる踏み台があってこその、オレの安泰。
と言ってる人が「皆さまも命のために」なんて思っているわけがなく。

ワクチンには何が入ってるとか、ウイルスがないとかいうより、こっちの説明ならやっとやっと理解できるのかな?
やっているのは「同じ人たち」ですよ?

国民にはボロボロになって死んでほしいんだから、毒くらい仕込みますわ。
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私のやっていることはこれだけだった

2025-03-20 | 精神世界
ぶっとんだことを言うようだけど、もしや、私が今この世に生まれてきた理由は、感覚を味わうためなのではないか?と思うことがある。
いやもう、ほぼほぼ。

そのために肉体が与えられ、起こる出来事が作られ、それらを使って自分の代わりに動き、諸々を体験させてくれる「生命」が用意され、「私のつもりでいる私」は実は「そこにちょこんと乗っかっている小さな意識だった」
で、やることは感じることだけ。

「感じることだけ」と言っても、肉体的にも精神的にも「感じるだけ」で充分醍醐味があって、時にハードで、苦くて甘くて、忙しくて、味わい尽くせないくらいだ。

この「ひたすら感覚を味わったり、望んだりする私」を、生命として実際にいろんな事象(肉体維持やら出来事やら)に対応してくれるのが私の本体部分。

そういうわけで、真我というのか本体意識が、決められた台本通りちゃんと動いて(食べたり飲んだり、勉強したり働いたり、友達と会ったり)してくれるのだから、私はただただ瞬間瞬間の様々な感覚を、逃さず感じて楽しんでいればいいだけ。

実際に観察してみたら、確かに今まで皿を洗っているのは私だと思っていたのが、違った。
食べ終わった皿…と私がそこに意識を向けたら、立ち上がって蛇口をひねって、お湯を出して皿洗いしてるのは、スパコンの方だった。(真我がアバターを操っているというね)

私はそこで、お湯の温かさを感じてるような意識なだけ。

皿洗いだけじゃなくて、めんどくさいあれこれも、全部やってくれていたのはスパコンの方で、これからもずっとそうなんだ。
じゃあ私はただ、感覚を味わっていればいいだけなんだね。
マジか?なんてラクなんだ?と思いましたよ。
(毎度、頭がおかしくなったのではなくて、マジメに書いているので🤣

今日も筋トレをしながら、エッホエッホと実際に足を動かしているのは本体。
でも、きつい感覚を味わっているのは私…🤣
私たちはそんな関係。
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もっともっと考えたくない

2025-03-19 | 日記
夫が、明日休みの時に必ず言うせりふが、「明日は何も考えないで過ごすぞ!!」
その時のサイコーに嬉しそうな顔も毎度。
これを聞くたびに、世の中皆、誰でも本当はそうしたいんじゃないのかなと思う。
思考停止はいけないなんていうけど、ボーッとして言われるままでいても、誰も騙さないし、ウソは言わないし、安心してリラックスできたら、この方が断然ラクチンだ。
頭をカラッポにして、好きな音楽を聴くとか、おいしいものを食べるとか、寝たいだけ眠るとか、心地よさを感じているだけの方が楽しいに決まっている。

「やーい思考停止」なんていうのは、そうやってピリピリして緊張してないと足元をすくわれるヘンテコな状況が蔓延しているからで、実はこの「何も考えなくていい」という至福に勝るものはないのでは?

主婦をやっているとこの「何も考えないでいい至福の休日」って、ないと言われるけど、子育ても一段落した私はこれに挑戦している。
具体的には、洗剤やらティッシュやらお米やら灯油やらの消耗品が切れたという、めんどくさい思考から解放されるべく、ストックがその一つ。(プチ備蓄という感じでこれも趣味みたいになってしまった)
「急いでバタバタしなくても、あれもこれもまだ在る」「突然、何か起こっても簡単に食べられる保存食がある」って、かなり思考を消せる。
洗濯や掃除は溜めないとか、片付けなきゃいけない書類はすぐやるのも同じで、「あれやらなきゃという宿題がない状態」が何も考えなくていい。

安心して、リラックスして、「感じること」だけに専念できる。

思考がなかなか止まらずシンドイとか、五感を感じようとしても、ついいろいろと考えてしまう人は、まずほんのちょっとした日常のノルマみたいことを最小限にしてみるのも手では?
あと、私も前はやっていたけど、映画や動画を見ながら片手で食べられるサンドイッチを食べるみいたいなことをやめて、食事なら食事を味わうことに専念した方が感覚は楽しめる。
味音痴が直って、おいしいものが更においしくなるんじゃないかと思う。

ともかく、夫が「明日は何も考えないぞ!!」というのは、うちはリラックスできて、ボーッとしていても誰も騙さなくて、信頼できてくつろげるってことなんだなあと、嬉しい限り。

嬉しいついでに私はそれ以上、休みだけじゃなく仕事中もいつでも、24時間365日、限りなく頭カラッポでいられるべく、更に邁進させて頂く所存である🤣
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ハマった理由

2025-03-19 | 思うこと
私が意識変容というのか、マインドフルネスというのか、これほどハマった理由は、整理整頓や断捨離に通じるものがあるからかも?

断捨離好きの人ならわかると思うんだけど、モノが「なんとなく置いてある」「いっぱいあるけどボーッと見過ごしていて意識に入ってないものがある」というのが、落ち着かないのでは?
もっと言えば耐えられないくらい。
一つ一つがお気に入りで、うっとり見つめられるくらい好きで、且つそれが全部アタマに入っていなくちゃイヤで、そうなると自然に「溢れるくらい」は無理で、自分がちゃんと味わって掌握できる分量になる。
無駄のない、好きなものだけを、かっちり把握している心地よさ
わからない人は何言ってるのか意味不明かもしれないけど、あるんですよ、こういう快感が。

「今この瞬間を味わう」って、あれもこれもやることが多くて煩雑でこんがらがってるのと真逆。
え?過去も未来も、今この瞬間は捨てていいの?
このシンプルさ、モノの少なさに私が向いていないはずがなく🤣

そもそも私は人間関係も広く浅くより、少人数で深く話したいタイプだし、「たった今のこの瞬間だけを、深く味わう」ってそれに通じたものがあった。

精神世界って全く知識のない分野だったのに、なんで苦もなく理解が進むんだろう?と不思議だったけど、こういう側面が理由かもしれない。
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それでも許されない

2025-03-18 | ウイルスは無い
日本では「ウイルスは無い」が許されない。
ないんだけど「ない」と言ったら許されない。
「意見」じゃなくて、ただ「ないものをない」と言う、物理的な事実が許されない。
ここまで情報開示の時代になっても許されない。
許さない人が「死にもの狂い」で許さないために。
まーこういうことには慣れたけど、ホント面白いよね🤣

できたらこんな名もない主婦より、もっと立場のある人や、権威のある人や、影響力のある人に言ってもらった方がいいんだろうけど、だから立場のある人や、権威のある人や、影響力のある人が言うのは許されない🤣

私のような立場も権威も影響力もない、相手にされない人が言うのは許される。
誰の顔色を覗わなくてもいい自由さ。
私はこっちの方が断然いいけどね。

 
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右?左?

2025-03-18 | 日記
左を怪我して右を手当てする。
変わった人だ。
👇

 
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電化製品が壊れる話

2025-03-17 | 日記
去年の終わりくらいからパソコンの調子がわるくなった。
何をしたわけでもないのに頻繁にフリーズするようになって、そういう時の対応の動画を見まくって、あれもこれもやってみたけど解消されなかった。
それで専門業者に見てもらったところ
「何か液体をこぼしたとか、そういうことはありませんか?これは部品を変えてもどうなる状態ではなく、新しいパソコンに変えた方がいいです」と言われた。

昔、本当に飲み物をこぼしてダメにした経験があったので、それだけは気をつけていたし、私以外は誰も触っていない。
買ってそこまで年数もたってないし、自分専用のPCを人一倍、大事に丁寧に扱っていたつもりだったので、この診断に私は納得がいかなかった。
心に波立つこともなく、むしろ昨今はめちゃくちゃ穏やかでほんわかした日常を過ごしていたのに。
私、なんか悪いことした?😭 
しょうがないので新しくしたけど「なんで壊れたんだろう?」と、ずっとひっかかっていた。

が、人間は電気的な生き物らしく、周波数が変わると電化製品に不具合が起こると聞いてやっと納得した。
そういえば前にシノケンさんが、意識が変わった時に一度に3台のパソコンが壊れたと言っていたっけ。
炊飯器といい、パソコンといい、周波数って確かにあるよねと思う。

去年の年初に脳幹出血を起こして4泊5日の入退院後、私は筋トレと、納豆を食べることと、酒を断つことと、それから少し遅れて意識を今に持ってくることを、一日も欠かさず続けている。
今や整理整頓と並んで、やらずにいられない押し活みたいなものになった。
1日2日じゃわからなくても、ここまで毎日続けたら何かしらの変化はある。

人は頑張っても「8カ月」でやめてしまう人が多いと聞いたことがあるけど、いやいや私にそんな甘っちょろい壁はないぜ😆 
と、誰の目もノルマも強制もない中、自分の意志で「続ける」ってどんなささいなことでも自信になるよね。
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過去について

2025-03-16 | 精神世界
自分が「今」にいようと思って、一年弱くらい。
これが面白いことに、自分だけじゃなくて他人も昔を忘れて「今」にいたとしても同じくらいOKになった。
「あの時、あー言ったことをチャラにするわけ?」
「やった方は忘れても、やられた方は忘れないのよ」
みたいなことも思わない。
これも「水に流そう」と力んでいるわけじゃなくて、勝手ににそうなる。
思い出したら苦い自分の過去も、人に何かされて頭にきた過去も、二つは同じで違いがない感じ。

逆に言えば「やらかした申し訳なさも消えるわけ?そんなの許せない」と思っている人は、「自分がやった失態にも同じくらいの執念で忘れられず、苦しい」のでは?
思考というのは
「自分の嫌なことは忘れるけど、人の嫌なことはいつまでも覚えている」
または、
「自分の嫌なことは覚えているけど、人の嫌ことはすっかり忘れてしまった」
なんて都合よくはいかないのだ。

もし、復讐心に燃えてアナタをに執拗ストーカーしているような人がいたとしたら、その人は同じように過去の自分に地獄のように苦しんでいる。

こういうことも、知ればラクになるのではいかと思う。
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無理はいけない

2025-03-15 | 思うこと
自己啓発みたいな説教で「あなたが変われば相手が変わる」というのは、私もあちこちで聞いた。
でもそんな時によく思った。
そうかもしれないけど、変わるって何?
言い返すのをやめてグッと我慢しろってこと?
作り笑いでもいいからニコニコしろってこと?
歯を喰いしばって、そうは思わなくても「そうでございますね」って言うこと?
どんなに理不尽なことでもポジティブに受け取れってこと?
要はダメで未熟な自分を、叱咤して成長させろってこと?

ダメで未熟な自分にはシンドイわ。
なんか偽善的で気持ちわるいし。
そんなことしたら逆にストレスだし。
どう譲っても相手がおかしいし。

でもこれが偽善もストレスもなく、自分の性分もそのまんまで、ケロッとできるのが意識変容のすごいところだった。
多分、こういうことを知らない以前の自分が聞いたらポカン?となったと思う。
でも理由は簡単で、それは相手が仮にめちゃくちゃなことを言ってきても、頭が黙っているから。
前スレで書いたように私は相手の言動じゃなくて、自分の頭の声に反応するのであって、頭が光の速さで善悪のジャッジをしたり、反論の理屈や、それを聞いた自分がどんなふうに不愉快かを秒でかき集めたりしないので、別に何も感じない。

そもそもワタシのプライド、ワタシのアイデンティティなんてガラス細工の幻が、日に日に薄くなっていくので、物理的に何も感じなくなる。

相手が妙なことを言ったとして「オモロイ現象だなあ」とは思っても、それでワタシが傷ついたとは感じない。
だから偽善でも力んでいるのでもなく、涼し気にぽわんとしていられるのだ。

自分が変われば相手も変わるというのは、確かにそうだと思う。
でも無理したりガマンなんてしなくていいし、自分らしさも変えないまま、それができる方法があるよ?
この側面からも、意識変容は試す価値があると思っている。
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犯人は誰か?

2025-03-14 | 精神世界
頭の声が静かになるとどうなるかというと、漏れなく、間違いなく、例外なく、マンガみたいに、明瞭に、はっきりくっきり、幸せを感じる。
これは体験してかなり驚いた。
だって人を悩ますものって、てっきり「出来事」だと思っていたのに、それが違ったから。

何が起ころうと、頭の声がシーンとしていると
「あーあ、ツイてないねえ」
「いつぞやもそうだったよねえ」
「そうそう、それであーなってこうなって…」
「今度もこの先はどうなるんだろうねえ、心配だよねえ、どうしよう…」
例えばそんな声が全く聞こえない。
そうなると出来事そのものには、心が全く無傷なことに気がついた。

え?!ストレスの犯人って、出来事じゃなかったの?!

これって改めて衝撃で、
「誰々からこんな酷い暴言を吐かれたから」カチンときたのではなく、
「大切にしていたものが壊れたから」ショックだったのでもなく、
私を動揺させていたのは、私の頭の声だったのかと。

めちゃくちゃ単純なこの仕組みを、なぜにずっと長い間、放置していたのだろう?
アホの極みとはこれだわ。

そういうわけで、頭の声を黙らせると無敵なんですよ。
どんなクルクルパーに何を言われても平気。
悩ましいクルクルパーが傍にいる人こそ、ぜひ試してみてください。
本当にあなたを悩ましている犯人は誰か?
気づいた時の納得と、それが静かになった時の爽快感ときたら😆 
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これしかできない

2025-03-13 | 日記
さてタフティ的には、ウクライナとロシアがどうとか、日本が乗っ取りに遭っているとか「外部スクリーン」に没頭していることを、寝ていると言う🤣
というわけで、今日はすっかり爆睡していたんだけど(いいじゃない、それを体験したいんだから🤣)、気づきの視点に移動もする。(キリッ)

「気づきの視点」とか「中心点」とか言葉はいろいろだけど、要は意識をどこにもっていくかですね。
これが難しいとかわからないとか言われるけど、いやいや逆で、ワタシって※これしかできない。
これしかできないから、思考に捕まったり、YouTubeに没頭したりするわけで、そのフォーカスを、それらを俯瞰する地点に移動すればいいだけのこと。

「あー今、そんなこと言ってるんだ~」と自分の思考を他人のように見れたり、起こっていることも俯瞰して見たり、今この瞬間しか存在しない感覚を感じていたら、それが「気づきの中心点にいる」ってことで、指一本動かさなくてもできる。
ていうか指も手も足も動かせるのは本体で、ワタシが動かせるのは「意識の焦点」だけなんだから。

そういうわけで、今日はかなり爆睡した日だった。
そしてこれから更に布団で眠ります。good night …
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日本人じゃないでしょ?

2025-03-13 | 思うこと
こういう問題を必死で拡散している「残り少なくない日本人」は、もはやどのくらいなのか、怖いけど最も知りたい昨今。
私はS問題よりコロナ騒動、コロナ騒動より日本乗っ取りの方が、ずっと深刻な問題だと思うんだけど、なぜか関心が反比例していく気がするのは、気のせいかな。
S問題には熱くなって賛同したのに、反ワクを書いたら「見損なった」「反ワクの意見なんていらねーよ!」になり、売国問題にはアンチさえ湧かない無関心っぷり?或いは「それの何が問題なの?側」なのか。

あの頃のSアンチって、
「Sさえ離れれば、常識的でまともな一般人」で
「宗教とかスピとかコリゴリで、精神世界の興味も探求もない」で
そこがゴールだったんだろうか?
そんなことはないと思うけど、こういう売国奴に声を上げる勢力はもっともっといていい気がする。

 
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動画紹介39

2025-03-13 | 日記
外部スクリーン(世の中の出来事)も、解説がいろいろ。
まー蓋のついた注射針を見ても、打ったふりなどしてるわけがなく、接種後に腕に磁石がくっついたらそれはトリックで科学ではないという断固たる解説があるように、解説も自由に選べる。

以下は私が参考している動画まで。


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選ぶ自由はある

2025-03-12 | 日記
昨今の映画の背景。
大量に増えた移民は「日本人死ね」と言いながら、一般国民にはない諸々の金銭援助はもちろん、女性を公園に連れ込んでレイプしても不起訴になるような「上級国民」になる。

ないウイルスが原因で、死亡者が変わりなく継続していて、そのために更なるワクチン教育の充実が必要だそうだ。

トタン屋根のトイレが2億円かかったという万博の、チケット購入の際は、名前、住所、電話番号、家族構成、勤務先とその住所と役職名、パスポート、メールアドレス、ラインなどのIDパスワード、顔認証、指紋に至るまで提示せねばならず、その個人情報は「厳守」じゃなくて「不明の第三者に開示します」と堂々と謳っている。

が、メディアがそういったことを黙殺しているため、半数以上の国民は無反応で、反応している声はそのツールをサイバー攻撃で封じるというSFになっている。
背筋が凍るSFホラーが好きな人にはたまらない展開なので、その中で一緒にホラーをやっていきたい人は、ゾクゾクを楽しんで下され😆 

私は他人はともかく、自分の日常にホラーが入るのは趣味じゃないので、この展開に巻き込まれないシナリオを選ぶけど。
選ぶ自由はちゃんとある。
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タフティ2

2025-03-11 | 精神世界
私は「この世は映画だ」と元も子もないことを思っているので(そういうつもりで遊びにきたことを忘れているだけで)、時々スクリーンから目を離して、観ている自分に帰ることがある。

いや本来、映画に出るのを楽しみに来たんだから、我を忘れて役に没頭して、スクリーンでキャーキャーやっていたいんだけど、展開がつまらなくて、今の役も正直飽きてきた。
何の不満もなく今のストーリーに満足している人がいたらうらやましいけど、
「なら脚本を変えられるよ?」と言われたら、今の私は喜んで乗る。

脚本を変えるなら、役者から一瞬、脚本家にならなくてはダメなわけで、その間はスクリーンから出なければならない。
役者から「映画を観ている視点」に立たなければ。

タフティはスクリーンの出来事を「外部センター」、もう一つ、頭の中の思考や妄想や感情を「内部センター」と呼んでいる。
そして普段、この二つを行ったり来たりしている意識から、スクリーンを出て「映画を観る側」に来ることを覚醒だと言っている。
すっかり忘れていたことを思い出すという意味で。

映画の設定を変えたいなら「覚醒」して、外部センターと内部センターに翻弄されている自分を、客観視する地点に戻らなければいけない。

脚本は設定し直すと、いろんなプロセスや成り行きは、スパコンみたいな神々の意識が、世の中とすり合わせて完璧にやってくれる。
続きはスクリーンに戻って、納得のストーリーを五感をフルに堪能して楽しめばよい。


私はそんなふうに解釈したんだけど、多分、今まではこの「覚醒」って、「死んだら思い出す」ことで、生きているうちに思い出す方法は知らされていなかったんじゃないかと思う。
でも何の計らいか、生きているうちにそれを知って、取り入れる時代が始まった気がする。
それだけ「出来事」も「思考」も歯止めが利かなくなって、人は生きづらくなってきたのだろうか。


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