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珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

11ヵ月

2025-04-12 | 精神世界
今の私の体感はこんな感じ。
👇

この世は自分が主人公の映画だと言われれば、全く驚かずに「そうなんだろうね」納得する。
だって、役者を演じているのは私の「本体」という体感がはっきりあるから。

与えられた肉体をまとったというのか、操っているというのか、要は「私を生きている」スパコンのようなとてつもない存在が、絶えず心臓を動かしたり食べ物を消化したり傷を治したりしているどころか、立ったり座ったり歩いたり、仕事に行ったりスーパーに行ったり、家事をしたりアマゾンで注文したり、友達と会ったりブログを書いたりの一切をやっているのを、私という小さなセンサーのような意識体が「ありありと」実感できる。

いちいち強く意識しているとキリがないので、ゆるく感じるようにしているけど、私(と思っている小さな意識体)が、私の行動をゆっくりと追い、観察するとよくわかる。
「ホントだ、次々とまるでシナリオがあるかのように勝手に行動が起こる」「私はそれを眺めているだけなんだ」と。
そういうわけでただ眺めているだけで、確かに「平凡な主婦の日常」という映画を観ている気分になる。

頭の声を、言われるまま他人事のように聞いたのと同じように、次は自分の身体と行動を観察しているうちに、これもそういうことかと実感できた。

結果、日常から「面倒くさい」が消えた。
「あー私がやらなきゃ」「今日もあれやってこれやって頑張らなきゃ」という気合も消えた。
逆に「てきぱき動くなあ」「働き者だよね」と、そのなめらかな動きに感心するくらい🤣(自画自賛というような、でもそうではないような?)
いやこれ、怒涛のワンオペ育児の頃に知りたかったわ😭 

単純に日常から「面倒くさい」が消えただけで、人生って激変すると思わない?
過去の後悔や未来の不安が消えるもいいけど、私はこれが感動だった。

そうやって面白く眺めている時は、当然ながら「今」に在り、今に在ると必然的に五感を味わうことになる。
必死の瞑想もワークも何もしないまま。

これはおそらく、私があまり人と関わらない生活を送っているからと思う。
一日の大半を、仕事など緊張した大勢とのコミュニケーションに関わっていたら頭もなかなか静まらないと思うんだけど、たまたま外で一人仕事をする環境だったりが要因と思う。

ちょっと何言ってるかわからない、信じられないと思われるかもしれないけど、記録としてただ残しているだけなので。

ネドじゅんさんの仰るように「天使が舞い降りたり、龍が駆け抜けたりするわけじゃない地味な毎日」であり、私自身は「モタモタのヨレヨレのままで何も変わらない」
そしてただ穏やかな幸せを感じる。
聞いた通りだなあと。
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難しくないよ

2025-04-09 | 精神世界
例えば今日一日のことを書いてみる。
朝6時半に起きた、のではなく朝6時半に起きるということが「起こった」
そして顔を洗ったり、歯を磨いたり、洗濯したり、掃除したりしたが「起こった」
続いて職場に行って仕事をするということが「起こり」、お昼を食べてコーヒーを飲むことが「起こり」、買い物をして今晩の献立を決めるということが「起こり」、アマゾンからホットサンドメーカーが届いたのでこれと、夕方からポトフを作るということが「起こった」
私はただ、次々と起こることに意識を合わせて見ているだけ。

今夜はレミノでトロットジャパンがあるので、早めにストレッチしてお風呂に入ろうと思う。
やらなきゃと力まなくても、ベストタイミングでそれが「起こる」だろう。

今日、頭の中で考えたこと…うーんこれといって特に思いつかないなあ。
買い物リストとか事務的なことは一瞬「出てきた」けど。

タフティ的にいうと、これが「外部センター」と「内部センター」に没入してしていない(眠っていない)で「見ている位置にいる」ということらしい。
別に難しくないよ?
精神世界の話って、量子力学がどうちゃらと難解なのかもしれないけど、私が書くと難しくない、簡単、シンプル、わかりやすいと思って頂けたら嬉しい。
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勝手になる

2025-04-04 | 精神世界
私の体験からいうと、頭の中の声を静かにさせるとあとは勝手に進む。
世界を俯瞰した視点に持っていこうとか、ジャッジを無くそうとか、感覚を研ぎ澄ませようとか、我を引っ込めようとか、何か引き寄せようとか手放そうとか、そんなことは意識したり、勉強したり、頑張ったりも不要。

勝手にそうなる。

本当にこれ(頭の声を黙らせること)しかやってない、瞑想もワークもやってない私の体感で、そう思う。

ちなみに頭の声を静めるのは
「え?それって自分の考えじゃないの?」 (最初に聞いてびっくり!!)
→「なら、聞こえたら『ふうん』って他人と思って聞こう」
→「今しか感じない体感に集中すれば、その『ふうん』も減るんだ?ならそれもやろう」
→「ホントに静かになっていくわ、オモロ」
→「なんか最近、何を見ても聞いても『…………』って感じで、湧きだす正義感とかなくてテンション下がったというか?」
→「気づいたらもー何日も平和で穏やかだわ。何も悩まないし、思い出さないし、不安とか怒りとか感じないし」
→「今日って何か考えたっけ?一日何も考えてない気がする、ははは😅
→「それより、寒さとか水の冷たさとか、感動した時の全身の痺れとか、味覚とか、前より強く感じるんだけど」

こういうことは「そうしよう、そうなろう」と思ったわけじゃなくて勝手にそうなった。
直観を受け取ろう!シャーマンみたいになろう!シンクロニシティを起こそう!とか気合を入れているわけでもなくて、「必要なら必要な時に来るんじゃない?そんなものが頻繁に必要なほど複雑な生活もしてないし」という感じ😅 
(何かシビアなビジネスをしているとか、煩雑な人間関係に揉まれているとか、そういう方が現実生活にもっとドラマチックな変化があるかもしれないけど、私は実生活が地味で単純なので)

このくらいのテンションで、決して一生懸命、必死になったわけじゃないんだけど、それが逆に向いていたんだろうか?
今まで取り組んだ活動?勉強?仕事?趣味?の中で、いちばん楽しくて難解ではないと思った。
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Don't think.Feel6

2025-03-31 | 精神世界
めでたく「思考停止」になって一年弱。
実際に、頭がスカスカな感じを体感している🤣
思考停止…このバカにされまくったキーワードから、さぞかし「誰の言うこともすぐ鵜呑みで騙されるボンクラな日々」と思うかもしれないけど、これが体験してみると全然違ったので書いてみる。

結論からいうと「思考停止」と「騙される」は関係なかった。
だって今でも、考えて考えまくっている人が何度でも騙されたりするじゃない?
学生とか学者とか考えることが日常で仕事の人も、マンガみたいに騙されてるじゃない?
たまたま一つの分野で騙されなかっただけで、他でも万能?
自分の頭で考えるってそんなに無敵?

私が頭がスカスカになって(実際にはスカスカじゃないのかもしれないけど、体感的に思考が浮かばなくなって)、まず驚いたのが「人って考えなくても案外、生きていけるんだ?!」ということだった。
殆どのことを、てっきり「私が考えてやっている」と思っていたけど、ボーッとしていても無意識が勝手にやってくれることに気づいて、こんな膨大で精密なこと私の思考力じゃ無理だわ、と「自分の思考の程度」を思い知った。

そもそも「自分の頭で考える」がなぜに賛美されたかというと、おかしいことや間違っていることを、ちゃんとおかしい間違っていると見破るからだと言われた。
(私もそう思っていた)
でもそれって人によって、正しかったりおかしくなかったりする。
皆ちゃんと言われた通り「自分の頭で考えて」主張するのに、人によって答えはバラバラ。
S会VS宗門がいい例で、双方とも「自分の頭で考えている」と言いながら、言ってることがコントみたいに真逆だよね。

人によって言うことがバラバラで、満場一致で納得させられない、バイアスの数だけ答えのある結論を言う程度が「自分の頭で考える」
そういう人の数だけあるフィルターをはぎ取った「ありのままの事実」は言えないものか?

「この程度」が動いたところで何様?
むしろ「この程度」が万能と思うことこそ、見誤る元凶では?
それより、自分の無意識と呼ばれる世界に潜在しているらしい、スパコンみたいな存在とアクセスした方が確実なのでは?
そうするには、「その程度」の思考停止が出発点なのでは?

この理屈は頭が静かになり始めた時に、感覚的に納得した。

この先がさらに面白くて、スカスカな頭の代わりに、頭から降りてきた意識が思考するんじゃなくて五感を感じ始める。
「Don't think.Feel!」まさに誰かの名言のように。
そうしていくうちに、「自分の頭で考える」をはるかに凌駕した叡智を授かるようで、それが直観や第六感と呼ばれるもの。
これはもともとあるもので、「エスパーかよ?」なんて特別な能力ではないらしく。

「自分の頭で考える」から「自分の意識で感じる」時代にシフトが始まった。
いいじゃないですか、シフト、変化、変換、ちゃぶ台ひっくり返し🤣
もういい加減、生きるか死ぬかみたいな(死なないから)認知的不協和はブン投げていこう。 
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思考が減っても頭は錆びないよ

2025-03-26 | 精神世界
日に日に考えることが減っていく。
例えば、買い物に行く必要があるとする。
今までだったら「いつ行こうかな。すぐ行った方がいいかな。その方が後々めんどくさいくないしね。いや別に夕方でもいいか、どうしよう?」とあれこれ考えてしまったけど
「買い物か。別に考えなくてもベストのタイミングで勝手に起きるし」と、まず「いつ行こうか」ということを考えなくなった。

勝手に起きるというのは、タイミングが来たらスッと立ち上がって自分が勝手に行くからである。
「何言ってるんのコイツ?」と思うかもしれないけど、本当にそんな感覚で、確かに自分の身体なんだけど、あまりにもスムーズで自然で自分が一生懸命やっている感じがしない。
これは「私がやらなきゃ」と思っていたワタシが小さくなっていった結果、自動的に起こる体感なので、体験してみるとわかりますよ。

もしかして生まれてからずっとそうだった?それを無駄に「あーやらなきゃ!!」と力んでいたの?と、無駄が嫌いな私は半笑いになった。

長年「考えなさい。すぐ答えを聞くんじゃなくて考えて頭を鍛えなさい」と徹底して教育された我々に、「頭をカラッポにしてお腹に訊きなさい、任せなさい」というのは、罪悪感のようなものを感じる人もおられるのだろうか?
これも単純な認知的不協和と思うんだけど、私は全然OK🤣
おー!!本当はこういうシステムだったのか。
ワタシをはるかに超えたスパコンみたいな真我とアクセスする方が間違いないじゃん?と、あっさり納得した。

結果、頭が錆びついたかというと、いやいや無駄な思考をしなくなっただけで、忘れ物チェックとかナンプレとか重要な思考処がありますよ。
ちなみにナンプレ、私はマスターのトーナメントで一応1桁を取るので、今後もボケない程度には生き抜くかと🤣
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説得力

2025-03-25 | 精神世界
去年の春頃、スピチュアルとか精神世界とか引き寄せとか、瞑想とかヨガとか潜在意識とか、何も知らなかった私が、初めてそういうサイトを見た時。
それは昔、初めてSアンチのネット記事を見た時のそれと、非常によく似ていた。
「バリ活」という言葉も知らなかったように、そういう界隈では常識らしい「自動思考」という言葉すら全くの初耳。

そういうわけで、見るもの聞くのも新鮮だったのは同じだったんだけど、複数のサイトが活発に発信し合っているのに、意見の言い合いだの、批判だの、バトルだの、教義の枝分かれによる罵り合いだの、仲間割れだのが全くない。

匿名になると傍若無人になるネットの世界で。
ある意味、宗教のような?人の精神や生き方に敏感に触れる話をしているというのに?
政治や時事ネタでも、セットで起こるようなことが皆無。

なるほど。
左脳がそんなふうに、正義からの?批判、否定を語ってはバトって、チョキチョキ分断するのに対して、右脳は平和でそれが起こらないというけど、実際の発信の場が本当にそうなっている。

これには充分な説得力があった。
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面倒くさいが消える

2025-03-22 | 精神世界
例えば食後の片付けや、他なんでもいいんだけど、「私がやる」から「それが起こる」に変わると、面倒くさいが消えてしまうことになる。
そりゃそうだよね。
「皿洗いする」から「皿洗いが起こる」?!
まるで「雨が降る」ような、勝手に起こることに「あー私がやらなくちゃ、めんどくさ~い」とは思わない。

はあ?
雨はそうだけど、皿洗いは自分がやるでしょ?と思うかもしれないけど、それが皿洗いも「起きる」んですよ。
雨が雲や風やいろんな相互作用で起こるように、皿洗いもいろんな意識の働きで勝手に起きる。

※今夜も頭がおかしくなっているわけじゃないので大丈夫です🤣

初めて精神世界の話を聞いて以降、めちゃめちゃおもしろくて、オタク気質丸出しで自分を観察していたら、これは腑に落ちましたよ。

まず、「もうこんな時間?明日も早いんだよね。このおかずは明日の弁当に使えるか。あーめんどくさいな。作ったのも私なら片づけるのも私。なんでいつも私?」とかいう頭の声が消えている。
(※自分の心構えや性格を直したから消えるんじゃなくて、こういうことを私っぽく言っていた思考が黙るだけ)

頭がシーンとしていると、仮にテーブルの上に片づけなきゃいけない食器が山ほどあっても「ただ沢山ある」だけで、それがいいとか悪いとか判断が起こらない。
そしてこれは、自分では指一本動かせない私の代わりに、華麗なる私の本体がやってくれるので、その視点で見ると「面倒くさい」わけがない。

試しに、皿洗いしている自分をよくよく観察してみるとわかると思う。
私がやっているのは「これはこんなふうに洗って、これはこんなふうにすすいで、洗剤はこのくらい」と思いを伝えているだけ。
本体さんは、その指示通りかっちり動いてくれる。
お湯の温度や食器を触る感覚を感じるので、自分がやっている気はするかもしれないけど、実はそうではない。
まさにバーチャルリアリティだ🤣

というわけで意識変容すると、ズボラな性格を変える必要もなく、自分は自分のままで日常の「あー面倒くさい」が消えるという、お得な?お話。
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第六感

2025-03-22 | 精神世界
ふだん私がやっているのは、実は意識をフォーカスすること、五感を感じるだけというのはわかった。
今朝も机の角に足をぶつけて思う。
「痛っ!!本体さんはぶつけただけだからいいけど、痛いのは私😭  」

頭の中で勝手にしゃべっている声が聞こえたら、それも別モノ。

アホみたいだけど、覚醒とか悟りってこれだけでいいみたい。
「世の中の出来事」と「頭の声」と「私」を、部屋とワイシャツと私みたいに分けてイメージする。
①机の角に足をぶつける初め世の中の出来事と、②頭の中の妄想を、私と一体化させないだけ。
(一体化させないことを、どっかの巫女が「気づきの中心点」と言っている)

そのうち第六感が来たら、足の小指をぶつけることもなくなるのだろうか。
(これが目標?🤣
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私のやっていることはこれだけだった

2025-03-20 | 精神世界
ぶっとんだことを言うようだけど、もしや、私が今この世に生まれてきた理由は、感覚を味わうためなのではないか?と思うことがある。
いやもう、ほぼほぼ。

そのために肉体が与えられ、起こる出来事が作られ、それらを使って自分の代わりに動き、諸々を体験させてくれる「生命」が用意され、「私のつもりでいる私」は実は「そこにちょこんと乗っかっている小さな意識だった」
で、やることは感じることだけ。

「感じることだけ」と言っても、肉体的にも精神的にも「感じるだけ」で充分醍醐味があって、時にハードで、苦くて甘くて、忙しくて、味わい尽くせないくらいだ。

この「ひたすら感覚を味わったり、望んだりする私」を、生命として実際にいろんな事象(肉体維持やら出来事やら)に対応してくれるのが私の本体部分。

そういうわけで、真我というのか本体意識が、決められた台本通りちゃんと動いて(食べたり飲んだり、勉強したり働いたり、友達と会ったり)してくれるのだから、私はただただ瞬間瞬間の様々な感覚を、逃さず感じて楽しんでいればいいだけ。

実際に観察してみたら、確かに今まで皿を洗っているのは私だと思っていたのが、違った。
食べ終わった皿…と私がそこに意識を向けたら、立ち上がって蛇口をひねって、お湯を出して皿洗いしてるのは、スパコンの方だった。(真我がアバターを操っているというね)

私はそこで、お湯の温かさを感じてるような意識なだけ。

皿洗いだけじゃなくて、めんどくさいあれこれも、全部やってくれていたのはスパコンの方で、これからもずっとそうなんだ。
じゃあ私はただ、感覚を味わっていればいいだけなんだね。
マジか?なんてラクなんだ?と思いましたよ。
(毎度、頭がおかしくなったのではなくて、マジメに書いているので🤣

今日も筋トレをしながら、エッホエッホと実際に足を動かしているのは本体。
でも、きつい感覚を味わっているのは私…🤣
私たちはそんな関係。
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過去について

2025-03-16 | 精神世界
自分が「今」にいようと思って、一年弱くらい。
これが面白いことに、自分だけじゃなくて他人も昔を忘れて「今」にいたとしても同じくらいOKになった。
「あの時、あー言ったことをチャラにするわけ?」
「やった方は忘れても、やられた方は忘れないのよ」
みたいなことも思わない。
これも「水に流そう」と力んでいるわけじゃなくて、勝手ににそうなる。
思い出したら苦い自分の過去も、人に何かされて頭にきた過去も、二つは同じで違いがない感じ。

逆に言えば「やらかした申し訳なさも消えるわけ?そんなの許せない」と思っている人は、「自分がやった失態にも同じくらいの執念で忘れられず、苦しい」のでは?
思考というのは
「自分の嫌なことは忘れるけど、人の嫌なことはいつまでも覚えている」
または、
「自分の嫌なことは覚えているけど、人の嫌ことはすっかり忘れてしまった」
なんて都合よくはいかないのだ。

もし、復讐心に燃えてアナタをに執拗ストーカーしているような人がいたとしたら、その人は同じように過去の自分に地獄のように苦しんでいる。

こういうことも、知ればラクになるのではいかと思う。
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犯人は誰か?

2025-03-14 | 精神世界
頭の声が静かになるとどうなるかというと、漏れなく、間違いなく、例外なく、マンガみたいに、明瞭に、はっきりくっきり、幸せを感じる。
これは体験してかなり驚いた。
だって人を悩ますものって、てっきり「出来事」だと思っていたのに、それが違ったから。

何が起ころうと、頭の声がシーンとしていると
「あーあ、ツイてないねえ」
「いつぞやもそうだったよねえ」
「そうそう、それであーなってこうなって…」
「今度もこの先はどうなるんだろうねえ、心配だよねえ、どうしよう…」
例えばそんな声が全く聞こえない。
そうなると出来事そのものには、心が全く無傷なことに気がついた。

え?!ストレスの犯人って、出来事じゃなかったの?!

これって改めて衝撃で、
「誰々からこんな酷い暴言を吐かれたから」カチンときたのではなく、
「大切にしていたものが壊れたから」ショックだったのでもなく、
私を動揺させていたのは、私の頭の声だったのかと。

めちゃくちゃ単純なこの仕組みを、なぜにずっと長い間、放置していたのだろう?
アホの極みとはこれだわ。

そういうわけで、頭の声を黙らせると無敵なんですよ。
どんなクルクルパーに何を言われても平気。
悩ましいクルクルパーが傍にいる人こそ、ぜひ試してみてください。
本当にあなたを悩ましている犯人は誰か?
気づいた時の納得と、それが静かになった時の爽快感ときたら😆 
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タフティ2

2025-03-11 | 精神世界
私は「この世は映画だ」と元も子もないことを思っているので(そういうつもりで遊びにきたことを忘れているだけで)、時々スクリーンから目を離して、観ている自分に帰ることがある。

いや本来、映画に出るのを楽しみに来たんだから、我を忘れて役に没頭して、スクリーンでキャーキャーやっていたいんだけど、展開がつまらなくて、今の役も正直飽きてきた。
何の不満もなく今のストーリーに満足している人がいたらうらやましいけど、
「なら脚本を変えられるよ?」と言われたら、今の私は喜んで乗る。

脚本を変えるなら、役者から一瞬、脚本家にならなくてはダメなわけで、その間はスクリーンから出なければならない。
役者から「映画を観ている視点」に立たなければ。

タフティはスクリーンの出来事を「外部センター」、もう一つ、頭の中の思考や妄想や感情を「内部センター」と呼んでいる。
そして普段、この二つを行ったり来たりしている意識から、スクリーンを出て「映画を観る側」に来ることを覚醒だと言っている。
すっかり忘れていたことを思い出すという意味で。

映画の設定を変えたいなら「覚醒」して、外部センターと内部センターに翻弄されている自分を、客観視する地点に戻らなければいけない。

脚本は設定し直すと、いろんなプロセスや成り行きは、スパコンみたいな神々の意識が、世の中とすり合わせて完璧にやってくれる。
続きはスクリーンに戻って、納得のストーリーを五感をフルに堪能して楽しめばよい。


私はそんなふうに解釈したんだけど、多分、今まではこの「覚醒」って、「死んだら思い出す」ことで、生きているうちに思い出す方法は知らされていなかったんじゃないかと思う。
でも何の計らいか、生きているうちにそれを知って、取り入れる時代が始まった気がする。
それだけ「出来事」も「思考」も歯止めが利かなくなって、人は生きづらくなってきたのだろうか。


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人気の秘密

2025-03-10 | 精神世界
このブログを読んでおられる人の中には主婦も多いと思うけど、自分が、自分の意志決定と能力と技術で、洗濯ものを干して、お弁当を作って、スーパーに行って買い物をしていると当たり前に思っていたら、
実はそれをやっていたのは「自分の本体という、自分でありながら自分を超えたスーパーコンピュータ」だったとしたらどう思われるだろうか。

私はめちゃくちゃ納得して、同時に衝撃でもあった。
心臓が私の意志で動いていないように、自分の姿勢一つも、常にベストな状態で調整して動かしているのはこのスパコンの方だった。
実際、何も考えずボーッとしていても、まるっきり他のことを考えていても、いつの間にか歩いたり立ったり、座ったり寝そべったりを、常に完璧にやってくれる凄腕の本体。
自転車の乗ることをよく「身体が覚える」「身体がやっている」というけど、一切がそうで、近い言葉でいうと本能?がやっている。

だとすると「私」って何?
全部私がやっていると思っていたどのくらいが、私の認知している私なのかと思ったら、なんと全体の5%ほどだそう。 
じゃあ言ってみれば、ただオロオロしているだけの5%が、がなぜに、全部ワタシ一人がやっている。これからもワタシの人生なんだから、ワタシの努力と忍耐で頑張ってやらなければならないと思い込んでいるのかというと、あれもこれもに後付けで主語に「ワタシが」が付ける機能が働いているから。
その機能も、もちろん「5%の私」じゃなんだけど、私はそれもワタシと思っているという😅 

これが体感というか腹落ちするしない以前に、「仮に」でいいので、
もし私と言う人間?人生?運命?が、たった一人で全責任を担っているのではなく、様々な意識の複合体が働いており、背後には壮大にして完璧なスパコンがついているとしたら?
私が認知できる小さなワタシを、よってたかってサポートする凄腕の応援団が、超絶に包み込んでいるとしたら?
そこに諦めていた、尽きぬ愛と調和があったら?

単純に「そっちの方がいい」と思わない?
体感できるものなら体感したい、実感したいと思わないだろうか。

5%ほどの小さな意識体の私が、身体の神経と共鳴した時、親にも学校にも習わなかった扉が開くのを知ることができる。
これを「覚醒」と呼んで、昨今、世界中で多くの人がざわついているんですよ。
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10カ月

2025-03-10 | 精神世界
ワタシという感覚がうすくなってくると、「ワタシが決めて私がやっている」という感覚もうすれてくる。
例えば、立ち上がって洗面所に行って歯磨きをしたら、「海という人が自動的に立ち上がって洗面所に行って歯磨きすることが起こった」と感じる。
私は歯磨きをしているんじゃなくて、歯磨きをしている海という人に意識を当てているだけで。

何を言ってるのだ?と思うかもしれないけど、大真面目🤣🤣

いや実際、意識ってこんなふうに移動できるんですよ。
ワタシという概念にピッタリくっついていると「全部私がやっている感」になって、焦点をずらすと、映画に映った自分を自分が見ている感覚になる。

長時間じゃないけど、時々そんなふうに「映画を観る側」を体感するようになって、なるほど「全部私がやっている。自分がやらなきゃ!はシンドイ」ということは解った。

「シナリオがきまっている」とか「手放して」とか「サレンダー」とか「信頼して任せて」とか「全自動の法則」と、なぜ盛んに言われるのかも少しづつ。

そしてこれらは「リラックスする」ということと深い関係があることも、うっすらと。

まだこんな程度で、理路整然とキレキレの文章にすることはできない。
でも毎日が、今までにない、穏やかで平穏な世界に変わったのは間違いない。
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なぜって面白いから

2025-02-28 | 精神世界
この世は予めシナリオが設定された映画であり、私たちは役者だというスピスピした話は、脳からの電気信号が確認された実験でも説明がつく。
👇👇

「私が自分の意志で決めてやっている」つもりが、一切の意思決定より先に脳が準備している事実。
しかし、そんな「意識がこれから何をやるのか知っている、エスパーのような何者か」はシレッと隠れている。まるでそれをアナタが決めてると思わせたいかように。

「私の中に、ワタシよりワタシを知って、私を生きている何者かいる」ということだよね。

私はここら辺から面白くなったんだけど、さらに面白いのは、じゃあ設定済みのシナリオは書き換えられないのかというと「自由に変えていいし変えられるらしい」
え?それってどうやって?と、どんどん好奇心が沸いてきた。

まさにこの世はゲームで、その攻略本の超裏技を読んでいるみたいで、世の中の出来事に気をとられていると、それがトラップみたいに思えてきたり。
子供の頃いっぱい読んだ漫画本より、ずっとリアルな漫画を生きているみたいで、私には探求が楽しくてたまらない。
そんなふうに修行どころか、遊び感覚が意識を変容させていくのなら尚更。
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