経験しなくて済むなら、それに越したことはないけれど、私は娘が通り魔事件に遭ったせいで、
警察に呼ばれて取調室で事情聴取される\(;゚∇゚)/
という、あまりない体験をした。
実際の本人の事情聴取は、小学生といえど親とは離されて女性警察官と専門のサポートがついて行われる。
で、私は何を?というと、保護者が見た「警察から連絡を受けて現場に行って、それから目にしことや感想を述べよ」というわけである。
机に向き合って座った担当者が話を聞き取りながら、それをパソコンで文章にまとめていく。
「思いつくことからでいいのでどんどん話してください。私まとめて書いていきますから」
正直、何年もほぼほぼ仕事なみに書いている私は、ああそれなら直接私が書きましょうか?と思わなくもなかったが、当然おとなしく従った。
文章にするなら、思いつくことからというより、ちゃんと時系列で話しますよ。
このおっさん、私の言うことどこまで忠実にわかりやすく書けるんだろうか?と思いながら。
しかし、完成して聞かされた文章は私には不満だった。
実は当日、鑑識が別件で忙しかったらしく、娘が救急搬送されてから、彼らが病院に着くまでに相当に待たされた。
犯人に抵抗して爪でひっかいた痕跡を見るなどのためにDNA鑑定が必要と言われ、医者は鑑識がくるまで、指一本娘に触れてはいけなかった。
そのため傷の手当が大幅に遅れたことについて、私は時間を割いて不満を話したのに、身内の不都合はきれいに書かないのである。
「これでいいですか?」と最終的に聞かされた文章を、私が幾つか言葉の直しをお願いして、担当はおそらく「うっせーオバハンやな」と思いつつそれは完成した。
その後、娘の事情聴取の全文も聞いたが、それはすごく上手だった。
言葉選びも的確で無駄がなかった。
こんな時まで上手いだの下手だの不謹慎な話だけど、私は文章で事実が盛ったり飾られたり捻じ曲げられることなく、ありのままに書かれるかについては、やはり気になってしまうのである。
警察に呼ばれて取調室で事情聴取される\(;゚∇゚)/
という、あまりない体験をした。
実際の本人の事情聴取は、小学生といえど親とは離されて女性警察官と専門のサポートがついて行われる。
で、私は何を?というと、保護者が見た「警察から連絡を受けて現場に行って、それから目にしことや感想を述べよ」というわけである。
机に向き合って座った担当者が話を聞き取りながら、それをパソコンで文章にまとめていく。
「思いつくことからでいいのでどんどん話してください。私まとめて書いていきますから」
正直、何年もほぼほぼ仕事なみに書いている私は、ああそれなら直接私が書きましょうか?と思わなくもなかったが、当然おとなしく従った。
文章にするなら、思いつくことからというより、ちゃんと時系列で話しますよ。
このおっさん、私の言うことどこまで忠実にわかりやすく書けるんだろうか?と思いながら。
しかし、完成して聞かされた文章は私には不満だった。
実は当日、鑑識が別件で忙しかったらしく、娘が救急搬送されてから、彼らが病院に着くまでに相当に待たされた。
犯人に抵抗して爪でひっかいた痕跡を見るなどのためにDNA鑑定が必要と言われ、医者は鑑識がくるまで、指一本娘に触れてはいけなかった。
そのため傷の手当が大幅に遅れたことについて、私は時間を割いて不満を話したのに、身内の不都合はきれいに書かないのである。
「これでいいですか?」と最終的に聞かされた文章を、私が幾つか言葉の直しをお願いして、担当はおそらく「うっせーオバハンやな」と思いつつそれは完成した。
その後、娘の事情聴取の全文も聞いたが、それはすごく上手だった。
言葉選びも的確で無駄がなかった。
こんな時まで上手いだの下手だの不謹慎な話だけど、私は文章で事実が盛ったり飾られたり捻じ曲げられることなく、ありのままに書かれるかについては、やはり気になってしまうのである。
一時期、有名歌手が「合同結婚式」というものに参加して有名になった、統一教会いう団体がある。
あれに参加できることは信者にとっては相当な「ステイタス」で、実は
参加するまでに、相当なノルマが必要
だったのをご存じだろうか。
人の価値観は様々だけれど、本人は大真面目である。
私は当時の猛烈な信者が売りつけた、300万の水晶と人参茶を見たことがある。
この際だからと思い、まじまじと見て触って、ペンダントを首にかけてみたぞ。
売りつける相手はそこそこ金持を持っていて立場逆らえない弱者を狙う。
だけど売りつける本人は、相手の幸せを願ってのことだと本気で思い込んでいる。
自腹どころか、こんなえげつないことをさせている団体もある。
そしてそれでも、それがあなたの幸せならと「無宗教」ながら相手を思いやって、お金を払う人もいるのである。
売りつけた本人が後に懺悔に苦しんでいるのも、自分の損害は後回しにして、優しく見守る「無宗教」の人もいるのである。
あれに参加できることは信者にとっては相当な「ステイタス」で、実は
参加するまでに、相当なノルマが必要
だったのをご存じだろうか。
人の価値観は様々だけれど、本人は大真面目である。
私は当時の猛烈な信者が売りつけた、300万の水晶と人参茶を見たことがある。
この際だからと思い、まじまじと見て触って、ペンダントを首にかけてみたぞ。
売りつける相手はそこそこ金持を持っていて立場逆らえない弱者を狙う。
だけど売りつける本人は、相手の幸せを願ってのことだと本気で思い込んでいる。
自腹どころか、こんなえげつないことをさせている団体もある。
そしてそれでも、それがあなたの幸せならと「無宗教」ながら相手を思いやって、お金を払う人もいるのである。
売りつけた本人が後に懺悔に苦しんでいるのも、自分の損害は後回しにして、優しく見守る「無宗教」の人もいるのである。
一体宗教信者って何なのさ?
こういう人のような心があなたに持てるのか?
信者だの覚醒だのとオウムみたいに叫んで、恨みつらみばかりを得意になっている人だけじゃない。
誰にも叫ばず書かれもしない、こういう愛すべき人もいるという話である。
信者だの覚醒だのとオウムみたいに叫んで、恨みつらみばかりを得意になっている人だけじゃない。
誰にも叫ばず書かれもしない、こういう愛すべき人もいるという話である。
ある身障者の知人から聞いた話。
その身障者の人は子どもの頃から、戦闘キャラのヒーローものが大好きで、本当は子どもの頃から人と闘ったり、争いごとがしたくてたまらなかった。
だけど身体が不遇だったためそれが叶わないまま大人になり、ちょうどその頃インターネットが普及し始めた。
彼はネットの言論戦というものを知った時、その言い争いが快感で、おもしろくてたまらなくなった。
全国の奴らと心ゆくまで闘えるのがたまらなくて、chに書き込みを続けたそうである。
ふうん。
ネットになると急にデカいことを言い出す人の心理は、改めて様々と思った次第である。
一方でかるーい気持ちで書いている人もいる。
先日、chにおける「おまえ××だろう?」に当たる「××乙!」のようないい方は、
それほど真剣に言っているわけじゃなくて、「おまえ××ぽいよな」くらいの、いわば合いの手のようなもので真に受けるものではない
という意味であることを知った。
これもナルホドと私には新鮮な話だった。
バーチャルの世界のことはあまり深入りせず、話半分という意味では、妙に感心というか安心した話といおうか。
一体、画面の向こうの人間は、どのくらいの本気度で文字を綴っているのだろうか。
ネットなんて書くにも読むにも、そこまで精神を消耗するもんじゃないと改めて思う。
だから私は基本、大袈裟な話や、お涙頂戴もの、憎しみの塊のような濃いものは敬遠したいと思ってるし、ネットでそれらを好むような人とも距離を置きたいと思っている。
何度もいうように匿名の世界など、どれだけ大人の距離感をもっているかが大事と思う。
ピュアだとか、子どものような無邪気さなんてものは全くもって自慢にならないわなと、自分にもよく言い聞かせている。
その身障者の人は子どもの頃から、戦闘キャラのヒーローものが大好きで、本当は子どもの頃から人と闘ったり、争いごとがしたくてたまらなかった。
だけど身体が不遇だったためそれが叶わないまま大人になり、ちょうどその頃インターネットが普及し始めた。
彼はネットの言論戦というものを知った時、その言い争いが快感で、おもしろくてたまらなくなった。
全国の奴らと心ゆくまで闘えるのがたまらなくて、chに書き込みを続けたそうである。
ふうん。
ネットになると急にデカいことを言い出す人の心理は、改めて様々と思った次第である。
一方でかるーい気持ちで書いている人もいる。
先日、chにおける「おまえ××だろう?」に当たる「××乙!」のようないい方は、
それほど真剣に言っているわけじゃなくて、「おまえ××ぽいよな」くらいの、いわば合いの手のようなもので真に受けるものではない
という意味であることを知った。
これもナルホドと私には新鮮な話だった。
バーチャルの世界のことはあまり深入りせず、話半分という意味では、妙に感心というか安心した話といおうか。
一体、画面の向こうの人間は、どのくらいの本気度で文字を綴っているのだろうか。
ネットなんて書くにも読むにも、そこまで精神を消耗するもんじゃないと改めて思う。
だから私は基本、大袈裟な話や、お涙頂戴もの、憎しみの塊のような濃いものは敬遠したいと思ってるし、ネットでそれらを好むような人とも距離を置きたいと思っている。
何度もいうように匿名の世界など、どれだけ大人の距離感をもっているかが大事と思う。
ピュアだとか、子どものような無邪気さなんてものは全くもって自慢にならないわなと、自分にもよく言い聞かせている。
自分のシンパを前にすると、話がスムーズで温厚。
思いやりのある紳士、淑女なのは当たり前である。
でもここで「いい人だなあ」と思うのは早計と思う。
アンチを前にした時、紳士淑女が、イジワル爺さん婆さんに豹変するのは、ネットでもリアルでも同じこと。
それがダメというより、簡単に「いい人です」とのぼせ上がってしまうのがよくないのである。
自分が知り得ることなんて、ほんのほんの一部なのに。
「いい人です」と言ってしまうと後に引けなくなる。
傍から見ると、苦しい擁護をずっと続けてしまうことになる。
厄介なのはそっちの方に見える。
思いやりのある紳士、淑女なのは当たり前である。
でもここで「いい人だなあ」と思うのは早計と思う。
アンチを前にした時、紳士淑女が、イジワル爺さん婆さんに豹変するのは、ネットでもリアルでも同じこと。
それがダメというより、簡単に「いい人です」とのぼせ上がってしまうのがよくないのである。
自分が知り得ることなんて、ほんのほんの一部なのに。
「いい人です」と言ってしまうと後に引けなくなる。
傍から見ると、苦しい擁護をずっと続けてしまうことになる。
厄介なのはそっちの方に見える。
いつだったか夫に、「今度大阪行ってくるわー」と言ったら「おー行ってこい」と即答された。
「誰と?」とも「なんで?」とも「いつ?」とも訊かないこのあっさり感。
私が逆でも同じことを言うと思うけど。
自分ではふつうと思っているが、変わってるんだろうか?
結婚する時、夫が訊いた。
「おまえ、どんなふうに育った?」
「自由。あなたは?」
「俺も自由」
「自由っていいよね」
「うん、絶対にいい!!」
「じゃあもっと自由にしよう」
これで異性問題だけは皆無で、全くもって平和だった。
喧嘩のネタなら他にいくらでもあったから(笑)
どんな夫婦も一つくらいは取り柄があるのでは?
皆さんも考えてみては如何かと思う。
「誰と?」とも「なんで?」とも「いつ?」とも訊かないこのあっさり感。
私が逆でも同じことを言うと思うけど。
自分ではふつうと思っているが、変わってるんだろうか?
結婚する時、夫が訊いた。
「おまえ、どんなふうに育った?」
「自由。あなたは?」
「俺も自由」
「自由っていいよね」
「うん、絶対にいい!!」
「じゃあもっと自由にしよう」
これで異性問題だけは皆無で、全くもって平和だった。
喧嘩のネタなら他にいくらでもあったから(笑)
どんな夫婦も一つくらいは取り柄があるのでは?
皆さんも考えてみては如何かと思う。
娘の中学の試験で、私があれ?と思ったのはテストが返ってきても順位を知らされないことだった。
クラスで何番とか、学年で何番とかそういうのである。
テストの平均点も知らされないという。
ただ答案の点数で、だいたいの察しをつける。
めちゃくちゃに良くても悪くても、何位という明確な数字を突きつけられるわけじゃないので、学期末の通知表の評価で現実を受け入れる。
後は先生との個人面談でプライバシーを護りつつ、ひそやかに進路を決めるようである。
うちの学校だけなのか時代がそうなってるのか、塾だと違うのか知らないけど、ともかくそんな事情から、娘は「順位」というものに鈍感な気がする。
一人っ子なので「比べられる」ということも知らない。
私はこれがうらやましくてしょうがない。
いいとか悪いとかメリットとかデメリットじゃなくて、単純にうらやましい。
少なくとも、ランク付けとか優越感とか劣等感という価値観からは解放されているように見える。
成績表、家計簿、健康診断の数値など、いつの年代でも手渡されて目を通さねばならない「数字で図られるもの」がどうも苦手な私は、なるべくそういうものを遠目に置く傾向にあると思う。
そんな数字嫌いの私が、嫌でも毎日届けられる数字の一つが「アクセス数」である。
正直、放とってほしい!気持ち半分というか、微妙な感情が入り混じるのがおわかり頂けるだろうか。
珈琲ブログは、何かを流布したいためのものでも、広めたい使命感があって書いているものじゃない。
ただの個人的な日常のボヤキを書いているだけだし、決して万人受けする内容でもない。
だから祝××アクセスだの今日はこんなに読まれました、ありがとうございますなんてことは、言ったこともないし言いたいとも思わない。
むしろ、しょうもないことに遭遇するとハネ上がる数字に、恐怖すら感じるのが本当のところである。
ああこんだけ分は要らないなあ。
好意的に読んでくださってる数字はだいたいこんなものとわかっているので、私には未だ慣れないのが数字のランク付けってやつである。
クラスで何番とか、学年で何番とかそういうのである。
テストの平均点も知らされないという。
ただ答案の点数で、だいたいの察しをつける。
めちゃくちゃに良くても悪くても、何位という明確な数字を突きつけられるわけじゃないので、学期末の通知表の評価で現実を受け入れる。
後は先生との個人面談でプライバシーを護りつつ、ひそやかに進路を決めるようである。
うちの学校だけなのか時代がそうなってるのか、塾だと違うのか知らないけど、ともかくそんな事情から、娘は「順位」というものに鈍感な気がする。
一人っ子なので「比べられる」ということも知らない。
私はこれがうらやましくてしょうがない。
いいとか悪いとかメリットとかデメリットじゃなくて、単純にうらやましい。
少なくとも、ランク付けとか優越感とか劣等感という価値観からは解放されているように見える。
成績表、家計簿、健康診断の数値など、いつの年代でも手渡されて目を通さねばならない「数字で図られるもの」がどうも苦手な私は、なるべくそういうものを遠目に置く傾向にあると思う。
そんな数字嫌いの私が、嫌でも毎日届けられる数字の一つが「アクセス数」である。
正直、放とってほしい!気持ち半分というか、微妙な感情が入り混じるのがおわかり頂けるだろうか。
珈琲ブログは、何かを流布したいためのものでも、広めたい使命感があって書いているものじゃない。
ただの個人的な日常のボヤキを書いているだけだし、決して万人受けする内容でもない。
だから祝××アクセスだの今日はこんなに読まれました、ありがとうございますなんてことは、言ったこともないし言いたいとも思わない。
むしろ、しょうもないことに遭遇するとハネ上がる数字に、恐怖すら感じるのが本当のところである。
ああこんだけ分は要らないなあ。
好意的に読んでくださってる数字はだいたいこんなものとわかっているので、私には未だ慣れないのが数字のランク付けってやつである。
娘は「あったことを書きなさい、思っていることを書きなさい」と言われるのが、大嫌いだそうである。
そんなふうに原稿用紙を渡されても、苦痛で何も浮かばないという。
読書感想文も、何をどうやって書いていいのかさっぱりわからないから苦手だという。
だからてっきり「作文」に興味がないものだと思っていた。
先日
「国語の授業で、先生がノートに何でもいいから『国語的なものを書きなさい』ってって言うの。何書いたらいい?」
と訊かれたので、適当に返事をしておいた。
「それって教科書に関係あること?」
「あってもなくてもいいんだよ」
「じゃあ、新しく出てきた漢字とか、知らなかった言葉とその意味とか、あとママなら、いい文章だなあと思うもの抜き出して、なんでいいかその理由を書くかな」
娘はつまらなそうな顔をした。そして
「私、小説書くわ」と言った。
「小説?フィクション?あなたフィクションなんか書けるの?」
娘は途端、不思議そうな顔をして、
「小説の方がずっと簡単じゃない。私いっぱい書いてるよ」
とパソコンのwordを開いてみせて、びっしりと書き込まれた「それ」を見せてくれた。
すぐに閉じられてしまって内容はよくわからなかったけど「…である調」の、それは見たことのない大人びた文章だった。
驚いた。
これならいくらでも書けると娘は笑った。
そして後日「これは私が作った小説です」とノートに一つ短編を載せたところ、初めて「Aマル」が貰えたと私に報告した。
なんで?
なんでノンフィクションが書けないのにフィクション書けるの?
フィクションが書けない私にはそれが不思議でならず、何度も「お願い!!どうか理由を教えてほしい」としつこく懇願したんだけれど、娘は頑なに答えようとしなかった。(訊いて、私はそれを言葉にして書きたくてたまらなかった(笑))
でもしまいに
「理由なんてないの!!ない!!それが答え」
とソッポを向かれてしまった。
彼女が「なぜ作文が嫌いなのに、フィクション小説だけ書くのが好きなのか?」その理由を言うこと…これは「ノンフィクション」だから言えないのだろうか?
今のところ、私にはそれしか思いつかず、これ以上言葉にできないのがとても悔しい。
そんなふうに原稿用紙を渡されても、苦痛で何も浮かばないという。
読書感想文も、何をどうやって書いていいのかさっぱりわからないから苦手だという。
だからてっきり「作文」に興味がないものだと思っていた。
先日
「国語の授業で、先生がノートに何でもいいから『国語的なものを書きなさい』ってって言うの。何書いたらいい?」
と訊かれたので、適当に返事をしておいた。
「それって教科書に関係あること?」
「あってもなくてもいいんだよ」
「じゃあ、新しく出てきた漢字とか、知らなかった言葉とその意味とか、あとママなら、いい文章だなあと思うもの抜き出して、なんでいいかその理由を書くかな」
娘はつまらなそうな顔をした。そして
「私、小説書くわ」と言った。
「小説?フィクション?あなたフィクションなんか書けるの?」
娘は途端、不思議そうな顔をして、
「小説の方がずっと簡単じゃない。私いっぱい書いてるよ」
とパソコンのwordを開いてみせて、びっしりと書き込まれた「それ」を見せてくれた。
すぐに閉じられてしまって内容はよくわからなかったけど「…である調」の、それは見たことのない大人びた文章だった。
驚いた。
これならいくらでも書けると娘は笑った。
そして後日「これは私が作った小説です」とノートに一つ短編を載せたところ、初めて「Aマル」が貰えたと私に報告した。
なんで?
なんでノンフィクションが書けないのにフィクション書けるの?
フィクションが書けない私にはそれが不思議でならず、何度も「お願い!!どうか理由を教えてほしい」としつこく懇願したんだけれど、娘は頑なに答えようとしなかった。(訊いて、私はそれを言葉にして書きたくてたまらなかった(笑))
でもしまいに
「理由なんてないの!!ない!!それが答え」
とソッポを向かれてしまった。
彼女が「なぜ作文が嫌いなのに、フィクション小説だけ書くのが好きなのか?」その理由を言うこと…これは「ノンフィクション」だから言えないのだろうか?
今のところ、私にはそれしか思いつかず、これ以上言葉にできないのがとても悔しい。
必須科目
2018-09-27 | 日記
娘が学校から「柔道着の購入」というプリントを貰ってきた。
柔道着?
希望者だけかと思ったら全員購入だった。
調べてみたら、平成24年から武道が中学生の体育の必須科目になっているそうである。
へえ!知らなかった。
自治体によって若干違うみたいだけど、相撲か剣道か柔道から学校が選ぶらしい。
素朴な疑問だけれど、柔道なんて体育の授業程度で身につくもんなんだろうか。
武道といえば、義兄が合気道の師範で、自分の道場をもって何人ものお弟子さんに教えている。
私には魔法を見ているような世界で、実際に技をかけられると、なぜこんなにあっさり倒されるのか不思議でしょうがない。
そうなるまでには、相当に厳しい鍛錬が必要だったことを見ているので、簡単なものではない気がするだが。
一方で、以前、空手を得意として護身術の講師をしていたという人が、よくよく聞いたら「白帯」ということがわかったことがあって、よくわからない世界だなあとも思う。
「教える」ことに規定はない世界なんだろうか?
変な怪我をしないように、ちゃんとした人に習えたらいいなあと、過保護ではない私がちょっと心配に思った次第である。
柔道着?
希望者だけかと思ったら全員購入だった。
調べてみたら、平成24年から武道が中学生の体育の必須科目になっているそうである。
へえ!知らなかった。
自治体によって若干違うみたいだけど、相撲か剣道か柔道から学校が選ぶらしい。
素朴な疑問だけれど、柔道なんて体育の授業程度で身につくもんなんだろうか。
武道といえば、義兄が合気道の師範で、自分の道場をもって何人ものお弟子さんに教えている。
私には魔法を見ているような世界で、実際に技をかけられると、なぜこんなにあっさり倒されるのか不思議でしょうがない。
そうなるまでには、相当に厳しい鍛錬が必要だったことを見ているので、簡単なものではない気がするだが。
一方で、以前、空手を得意として護身術の講師をしていたという人が、よくよく聞いたら「白帯」ということがわかったことがあって、よくわからない世界だなあとも思う。
「教える」ことに規定はない世界なんだろうか?
変な怪我をしないように、ちゃんとした人に習えたらいいなあと、過保護ではない私がちょっと心配に思った次第である。
【歌ってみた】back number -「ハッピーエンド」 うた:たすくこま
「粉雪」のカバーつながりで、このカバーを見つけました。
映画の主題歌です。
記憶が都合よく作られているかもしれないですが、大学時代の彼女との別れの場面を思い出しました。
こころに突き刺さる、いい歌だと思います
2度下げて、弾き語りの練習をしています。
back number ,いい歌がたくさんありますね。
この、たすくこま さん、普段はゲームセンターの店長をされているとのことですが、ものすごく上手いですね。
プロレベルの歌唱力だと思いました。
「Lemon」のカバーとかも、素晴らしいです。
音楽仲間のトモさんが、オリジナルの歌を今ミックス作業しています。
デモを聴かせてもらいましたが、これがトリハダもののすごい歌に仕上がりそうです。
出来上がったら、アップしますね。
「粉雪」のカバーつながりで、このカバーを見つけました。
映画の主題歌です。
記憶が都合よく作られているかもしれないですが、大学時代の彼女との別れの場面を思い出しました。
こころに突き刺さる、いい歌だと思います
2度下げて、弾き語りの練習をしています。
back number ,いい歌がたくさんありますね。
この、たすくこま さん、普段はゲームセンターの店長をされているとのことですが、ものすごく上手いですね。
プロレベルの歌唱力だと思いました。
「Lemon」のカバーとかも、素晴らしいです。
音楽仲間のトモさんが、オリジナルの歌を今ミックス作業しています。
デモを聴かせてもらいましたが、これがトリハダもののすごい歌に仕上がりそうです。
出来上がったら、アップしますね。
人の記憶って実は相当勝手らしい、という文献を集めてみた。
「体験したから事実」とも限らないのかもしれない。
「体験したから事実」とも限らないのかもしれない。
●脳に刻み込まれた記憶を繰り返し思い出すと、その記憶は強くなると思いがちだが実際は記憶を思い出すと、元の記憶は不安定になる
野村洋の注目する研究分野
●想起される記憶は変化する。「実際に記憶している内容」から、「記憶したいと思っている内容」に近くなる
広告で生まれる「ニセの記憶」:研究結果 « WIRED.jp
●限りある診察時間で治療者の理解を得ようとするあまり、自らが受けた被害を象徴化したり、簡略化したり、ときには拡大・誇張して述べることはある
過誤記憶 - Wikipedia
●人々の体験を調査。1年後には事件の詳細の37%が、最初の叙述から変化。2004年は50%近く。現在10年目の調査結果をまとめているが記憶のほとんどがフィクションに近いものになっているはず
「社会への同調」で生まれる「ニセの記憶」 « WIRED.jp
●記憶の正確さは曖昧で、時期によって人物が入れ替わったり、バイアスがかかって誇張されたり、印象が変わったりする
●自分の物語は自分の都合のよいように作り変えられ、それが、今の自分のよりどころ、つまりアイデンティティーになっていく
過剰な記憶〜<ない>と<ありすぎる>の間 - 雨の日は本を広げて
私の義母はとてもお洒落な人である。
ピアスもネックレスも「お気に入りをしっぱなし」のような私と違って、幾つになっても、洋服に合わせてアクセサリーもきちんと変えてこられる。
「海ちゃん、ちょっと来て」と、宝石のコレクションを見せらえた時は圧倒された。
そんな義母が楽しみにしていたことは、息子のお嫁さんがきたら、そんなコレクションの中から
「これは長男のお嫁さんに、これは次男のお嫁さんに…」
と、それらをプレゼントすることだった。
でも残念ながら、私には宝石など豚に真珠で、殆ど興味がなくて、そのようなものを頂いても価値がよくわからなかった。
若かった私があっけらかんと
「お母さん、それは私は要りません」
と言ってのけたら、慌てた夫が必死にフォローした。
「こいつは何と言うか、はっきりしてるだけなんだ。宝石に興味ないだけだよ」
プレゼントしたがりの義母は考えて、それじゃあとコート二枚をプレゼントしてくれた。
サーモンピンクの上質な素材でできた柔らかい、その年流行りのハーフコートと、薄いブラウンのそれを。
黒とか紺ばかり着ていた私には、当時それが新鮮だった。
シングルボタンで、襟の形が洒落ていて、すごくセンスがよかった。
会社に着ていったら、2着ともいろんな人から褒められたので驚いた。
義母はそんなふうに、嫁と一緒にお洒落を楽しんで、それから趣味の手芸でレース編みなど一緒にやりたかったんだと思う。
だけど、私はその手のことは申し訳ないけれど兄嫁に任せて、実は全然違うことを考えていた。
私は、義母の広いキッチンの大きな食器棚にある、豊富な食器をひたすら見つめていたのである。
夫が「昔はカレーなんか作っても、ルーはレストランみたいに、銀のカップ(グレービーボート)から出て来たよ」という食器を、台所を手伝いながらつくづくと眺めていた。
昭和でこれを使っていたのはハイカラだったんだろうな。
根から料理好きだった田舎の実母も、本当はこんな食器で料理を盛りつけたかったに違いない…
同じように「手作り」にこだわった、境遇があまりにも違った二人の母親を一人思っていた。
私が目に留まったのは、何ともいえない鮮やかなブルーの、陶器でできたアイスペールだった。
ガラスやステンレスのアイスペールは知ってたけど、陶器の、蓋つきのそれを私は初めて見た。
「これ素敵ですね。どこで買ったんですか?」
と不躾に尋ねたら
「夫のゴルフ大会の商品で、宝物なのよ」と嬉しそうに返ってきた。
私は宝石より、実はこのアイスペールが欲しくてたまらなかったんだけど、さすがにそれは言えなかった。
これに大きなロック氷を入れて、賑やかにテーブルを囲んだ宴は幸せだったろうな…と実家へ行く度、私は見知らぬ義父とそれを毎回想像している。
ピアスもネックレスも「お気に入りをしっぱなし」のような私と違って、幾つになっても、洋服に合わせてアクセサリーもきちんと変えてこられる。
「海ちゃん、ちょっと来て」と、宝石のコレクションを見せらえた時は圧倒された。
そんな義母が楽しみにしていたことは、息子のお嫁さんがきたら、そんなコレクションの中から
「これは長男のお嫁さんに、これは次男のお嫁さんに…」
と、それらをプレゼントすることだった。
でも残念ながら、私には宝石など豚に真珠で、殆ど興味がなくて、そのようなものを頂いても価値がよくわからなかった。
若かった私があっけらかんと
「お母さん、それは私は要りません」
と言ってのけたら、慌てた夫が必死にフォローした。
「こいつは何と言うか、はっきりしてるだけなんだ。宝石に興味ないだけだよ」
プレゼントしたがりの義母は考えて、それじゃあとコート二枚をプレゼントしてくれた。
サーモンピンクの上質な素材でできた柔らかい、その年流行りのハーフコートと、薄いブラウンのそれを。
黒とか紺ばかり着ていた私には、当時それが新鮮だった。
シングルボタンで、襟の形が洒落ていて、すごくセンスがよかった。
会社に着ていったら、2着ともいろんな人から褒められたので驚いた。
義母はそんなふうに、嫁と一緒にお洒落を楽しんで、それから趣味の手芸でレース編みなど一緒にやりたかったんだと思う。
だけど、私はその手のことは申し訳ないけれど兄嫁に任せて、実は全然違うことを考えていた。
私は、義母の広いキッチンの大きな食器棚にある、豊富な食器をひたすら見つめていたのである。
夫が「昔はカレーなんか作っても、ルーはレストランみたいに、銀のカップ(グレービーボート)から出て来たよ」という食器を、台所を手伝いながらつくづくと眺めていた。
昭和でこれを使っていたのはハイカラだったんだろうな。
根から料理好きだった田舎の実母も、本当はこんな食器で料理を盛りつけたかったに違いない…
同じように「手作り」にこだわった、境遇があまりにも違った二人の母親を一人思っていた。
私が目に留まったのは、何ともいえない鮮やかなブルーの、陶器でできたアイスペールだった。
ガラスやステンレスのアイスペールは知ってたけど、陶器の、蓋つきのそれを私は初めて見た。
「これ素敵ですね。どこで買ったんですか?」
と不躾に尋ねたら
「夫のゴルフ大会の商品で、宝物なのよ」と嬉しそうに返ってきた。
私は宝石より、実はこのアイスペールが欲しくてたまらなかったんだけど、さすがにそれは言えなかった。
これに大きなロック氷を入れて、賑やかにテーブルを囲んだ宴は幸せだったろうな…と実家へ行く度、私は見知らぬ義父とそれを毎回想像している。
娘の友達が誕生日だというのでプレゼントを用意したのに、彼女いわく「友達の機嫌がわるくてなかなか渡せない」と言う。
「機嫌がわるいからこそ、渡せば機嫌がよくなるよ」
「いや、きっと私なんかから欲しくないと思うよ。私を見る目が冷たいし。一緒に帰ろうって言っても無理ってすぐ断ってくるし」
「はっきりと理由を言われたわけじゃないんでしょ。気のせいでしょ?それとも明確に何かしたの?」
「何もしてないよ。この間の試合で、私が勝ってその子負けただけ」
ああ、またかと思う。
何回目かのそれだけど、この手のやっかみは短期決戦である。
こういう場合、友達は
「絶対勝つと気合入れていた私が負けて、ヘラヘラしててやる気のないアンタが勝つことに、なんか知らないけどすごい腹立つわ。
そりゃアンタは何も私にしてない。私を怒らせるような、そんなつもりも感情もないのは私も知ってる。
知ってるんだけど、でもそういう態度が余計ムカつくの」
とそのままは言わない。
黙るか、他に当たるか、別の理由を言ってくる。
人なんて気に入らなくなれば、茶わんの上げ下ろしまで嫌になるもので、理由なんて幾らでも思いつくもんである。
本当に自分の良心に曇り一点なく相手がわるいと思ったら、人は真っすぐ本人に言う。
はっきり言わないのにヘソを曲げるのは、どこかに少しでも「自分に持て余すもの」があるからと思う。
そういうものは、寝かせて熟成させてややこしくなるとさらに厄介ねん。
せっかく早めに用意したプレゼントを一日伸ばしにしている娘にハッパをかけて、無理やりでもカバンに入れさせた。
「明るく渡せばいいのよ。プレゼントをもらうとコロッと気が変わるのも女」
「機嫌がわるいからこそ、渡せば機嫌がよくなるよ」
「いや、きっと私なんかから欲しくないと思うよ。私を見る目が冷たいし。一緒に帰ろうって言っても無理ってすぐ断ってくるし」
「はっきりと理由を言われたわけじゃないんでしょ。気のせいでしょ?それとも明確に何かしたの?」
「何もしてないよ。この間の試合で、私が勝ってその子負けただけ」
ああ、またかと思う。
何回目かのそれだけど、この手のやっかみは短期決戦である。
こういう場合、友達は
「絶対勝つと気合入れていた私が負けて、ヘラヘラしててやる気のないアンタが勝つことに、なんか知らないけどすごい腹立つわ。
そりゃアンタは何も私にしてない。私を怒らせるような、そんなつもりも感情もないのは私も知ってる。
知ってるんだけど、でもそういう態度が余計ムカつくの」
とそのままは言わない。
黙るか、他に当たるか、別の理由を言ってくる。
人なんて気に入らなくなれば、茶わんの上げ下ろしまで嫌になるもので、理由なんて幾らでも思いつくもんである。
本当に自分の良心に曇り一点なく相手がわるいと思ったら、人は真っすぐ本人に言う。
はっきり言わないのにヘソを曲げるのは、どこかに少しでも「自分に持て余すもの」があるからと思う。
そういうものは、寝かせて熟成させてややこしくなるとさらに厄介ねん。
せっかく早めに用意したプレゼントを一日伸ばしにしている娘にハッパをかけて、無理やりでもカバンに入れさせた。
「明るく渡せばいいのよ。プレゼントをもらうとコロッと気が変わるのも女」
ある朝、娘が登校して10分くらいたった頃だろうか。
玄関のチャイムが鳴って、こんな朝っぱらから誰?と思ったら警察官が二人立っていた。
「は?」(ワ、ワタシ何かしましたっけ?!)
びっくりしたら「この辺りで男女の激しい罵り合いと、皿の割れる音がしたと通報がありました」 と言われた。
夫は地方で不在で、残念ながらそれは我が家のことではなかった。
警察官は疑わしそうに私を見て
「奥さん、今朝、皿割りませんでしたか?」
「皿?割ってませんけど」
「15分ほど前に何か物音しませんでしたか?」
「聞いてないですね」
「そうですか。何かあったらまた連絡してください」
何だったんだろうか?
実は私は仕事中、夫婦喧嘩や子どもを怒鳴り散らす声というのは、けっこう耳にしている。
季節によっては開け放した窓から、時には詳細な会話が風に乗り耳に響いてくるのである。
いつだったかも
玄関のチャイムが鳴って、こんな朝っぱらから誰?と思ったら警察官が二人立っていた。
「は?」(ワ、ワタシ何かしましたっけ?!)
びっくりしたら「この辺りで男女の激しい罵り合いと、皿の割れる音がしたと通報がありました」 と言われた。
夫は地方で不在で、残念ながらそれは我が家のことではなかった。
警察官は疑わしそうに私を見て
「奥さん、今朝、皿割りませんでしたか?」
「皿?割ってませんけど」
「15分ほど前に何か物音しませんでしたか?」
「聞いてないですね」
「そうですか。何かあったらまた連絡してください」
何だったんだろうか?
実は私は仕事中、夫婦喧嘩や子どもを怒鳴り散らす声というのは、けっこう耳にしている。
季節によっては開け放した窓から、時には詳細な会話が風に乗り耳に響いてくるのである。
いつだったかも
「そう言ったてな!!オマエがモノを大切にしてるとこなんて、いつあったんだよ!!」
と怒鳴った旦那さんらしき声が聞えて
「そうやね。モノは大切にしないと」
と、草をむしりながらクールに聞いてたりするが。
あるママ友も冷静派で、やはり近所に「常習」の夫婦がいるそうである。
その夫婦は近所でも有名で、奥さんが喧嘩で負った生傷も隠さないタイプなので、私も感覚が麻痺していたわと言っていた。
先日も恒例行事のように始まって、通り一篇の罵倒から
「やれるもんならやってみろ!!」
「刺すわよ!!」
まで確認して、受話器を取ろうとしたけど、本当に包丁を持ったか目視したわけじゃないから止めたと笑っていた。
夫婦の本当のところなんて、他人にはわからないもんである。
激しい喧嘩をしながら案外ケロッとっしてるのかもしれないし、ラブラブな仮面を見せつけながら地獄のような恨みを抱えているのかもしれない。
こればかりは見た目で判断はできないなあと思う。
と怒鳴った旦那さんらしき声が聞えて
「そうやね。モノは大切にしないと」
と、草をむしりながらクールに聞いてたりするが。
あるママ友も冷静派で、やはり近所に「常習」の夫婦がいるそうである。
その夫婦は近所でも有名で、奥さんが喧嘩で負った生傷も隠さないタイプなので、私も感覚が麻痺していたわと言っていた。
先日も恒例行事のように始まって、通り一篇の罵倒から
「やれるもんならやってみろ!!」
「刺すわよ!!」
まで確認して、受話器を取ろうとしたけど、本当に包丁を持ったか目視したわけじゃないから止めたと笑っていた。
夫婦の本当のところなんて、他人にはわからないもんである。
激しい喧嘩をしながら案外ケロッとっしてるのかもしれないし、ラブラブな仮面を見せつけながら地獄のような恨みを抱えているのかもしれない。
こればかりは見た目で判断はできないなあと思う。
賛成意見は言いやすい。
和やかで笑顔があふれる。
共感と賛同…ここちよい感覚である。
しかしノーは言いにくい。
どこの誰かもわからない者同士が、お互いに正体を明かさずに罵倒し合うのは平気でも
和やかな空気を乱さず、感情にしこりを残さず、しがらみに打ち勝って伝えるためにはイエスより、言葉と言い方に工夫と労力が必要である。
これがめんどうなために黙っている、というやり方がある。
本人はノーと言っていないが、イエスとは決して言ってないつもりである。
心の中では「は?それおかしいじゃん」と叫んでいる。
あくまでただ心の中で。
だけど、忍耐や労力という代償を払わずに思い通りのものが手に入るはずもなく、後々ツケがまわってきた時、
「あの時、本当はこう思っていた…」
人によってはこれが、ちょっとしたボヤキ程度でなく、栄養満点の怨念がトグロを巻くことになる。
結果、行き場のないそれは、リアルではふつう言わない酷い言葉でネットに書き殴られたりする。
その場で、そん時に言えばよかったのに。
最初にちょっと頑張っておけば、ここまで肥大しなかったのに。
私が見る揉め事の、火種の一つがこれと思う。
永遠にくりかえされる「それ」
私が撲滅させたいと思うなら、よほど「それ」
和やかで笑顔があふれる。
共感と賛同…ここちよい感覚である。
しかしノーは言いにくい。
どこの誰かもわからない者同士が、お互いに正体を明かさずに罵倒し合うのは平気でも
和やかな空気を乱さず、感情にしこりを残さず、しがらみに打ち勝って伝えるためにはイエスより、言葉と言い方に工夫と労力が必要である。
これがめんどうなために黙っている、というやり方がある。
本人はノーと言っていないが、イエスとは決して言ってないつもりである。
心の中では「は?それおかしいじゃん」と叫んでいる。
あくまでただ心の中で。
だけど、忍耐や労力という代償を払わずに思い通りのものが手に入るはずもなく、後々ツケがまわってきた時、
「あの時、本当はこう思っていた…」
人によってはこれが、ちょっとしたボヤキ程度でなく、栄養満点の怨念がトグロを巻くことになる。
結果、行き場のないそれは、リアルではふつう言わない酷い言葉でネットに書き殴られたりする。
その場で、そん時に言えばよかったのに。
最初にちょっと頑張っておけば、ここまで肥大しなかったのに。
私が見る揉め事の、火種の一つがこれと思う。
永遠にくりかえされる「それ」
私が撲滅させたいと思うなら、よほど「それ」