■起承転結で学ぶ、日本経済のバブル崩壊から異次元緩和までの歴史
・日本経済が破滅に向かう転機となった「プラザ合意」
東条雅彦 | マネーボイス 2017年8月8日
https://www.mag2.com/p/money/276434
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今回は「日本のバブル発生と崩壊」について解説していきます。
歴史は面白いもので、現在の出来事はすべて過去の出来事と繋がっています。
日本経済が1980年後半にバブルが生じて、その後、崩壊してしまったのは、米国や世界経済の情勢と大いに連動しています。
地政学的には米国の力が強いので、日本の金融政策は米国の政策に左右されてきた面があります。
1987年2月22日に先進国7カ国で交わされた「ルーブル合意」では、国際的にドル安とマルク安を止めるために、各国の中央銀行は協調すると約束しました。
この1987年の時点で、日本経済はバブルになっていました。
本来、日銀は自国経済を優先して、速やかに金利を引き上げるべきでした。
しかし、経済には政治も関係しており、そこには国と国の力関係が作用してきます。
ルーブル合意ではドイツと違って日本は米国の指示に従いましたが、これはバブル経済に拍車をかける、決定的な誤りでした。
ドイツは歴史的に「デフレよりもインフレの方が怖い」という事実を経験として知っていたため、ルーブル合意を実質的に破棄しました。
1980年代後半に起きた日本のバブル発生と崩壊の過程は、「インフレが起きている時に日銀が利上げできないとどうなるか?」ということを如実に表しています。
現在、日銀は「異次元緩和政策」を継続せざるを得ない状況に追いやられており、金利を引き上げることができなくなっています。
中央銀行はあくまで、自国の通貨価値を守ることを念頭に独立して政策を実施することが大切です。(『ウォーレン・バフェットに学ぶ!1分でわかる株式投資~雪ダルマ式に資産が増える52の教え~』東条雅彦)
・1989年12月29日、日経平均株価が3万8,915円をつけた
1989年12月29日、日経平均株価が3万8,915円をつけました。
この時がまさにバブルのピークでした。
その後、日本経済は「失われた10年」「失われた20年」「失われた25年」と、ゴールの見えない暗闇に突入していきます。
感覚が麻痺してわからなくなっている人もいるかもしれませんが、日本経済は今もこの暗闇の中にいます。
1989年の翌年の1990年10月1日には、日経平均株価は一時2万円割れを記録しています。
たった9ヵ月あまりで、半値近くまで暴落してしまったのです。
日本株の大暴落は1987年10月19日、ニューヨークダウがたった1日で22.6%も暴落したブラックマンデーとはまったく様相が違っています。
ニューヨークダウは、ブラックマンデーの約2年半後の1989年10月には値を戻しています。
日経平均株価はもうかれこれ27年が経過しているのに、なかなか当時の高値を更新できずにいます。
それは、1980年代後半に生じたバブルがあまりにも強大だったためです。
一体、どういう経緯で強大なバブルが生じてしまったのか?
歴史の点と点を線で結んでいくと、まるで起承転結のストーリーを見るかのように、過去の事実と未来の事実はしっかりと繋がっていることがわかると思います。
・【起】1970年代に起きた2度の石油ショック
1980年代後半に起きた日本のバブル崩壊のことを理解するには、一旦、時計の針を1970年代に戻す必要があります。
今から半世紀前の1974年、第一次石油ショックによって突如、世界中で物価の上昇が発生し、不況に見舞われました。
1973年10月16日、OPEC(石油輸出機構)が原油価格を70%も引き上げることを決定しました。
背景にあったのは、1973年10月6日から始まった第4次中東戦争です。
戦争によって安定的な原油の供給が難しくなりました。
日本では物価が一気に20%も上昇して、紙供給が困難になるという噂が広まって、トイレットペーパーを買うために長蛇の列ができていました(※これはあくまで噂が広まって起きた騒動である点には留意願います)。
この世界的な不況を脱出するために、日米独の3ヵ国が協調して大規模な財政出動を行って、世界経済を回復させようとしました。
しかし、その5年後の1979年、第二次石油ショックにより、再び、世界経済は不況に突入していきます。
石油の価格は中東の政情に大きく作用されてしまいます。
原油価格の推移を確認すると、100年近く続いた安値が1970年代に破られたことがわかります。
・【承】石油ショックから抜け出した日本と「双子の赤字」で苦しむ米国
1979年の石油ショックによって、再び世界経済は不況に突入してきます。
その不況から抜け出すために日本は大規模な財政出動を行い、世界に先駆けて不況から脱出します。
一方、なかなか不況から脱出できない米国は1980年代に入ると、「物価が上昇するのに賃金がまったく上がらない」というスタグフレーションに陥りました。
米FRBは急激なインフレを押さえ込むため、1979年には9%だった政策金利を翌年の1980年に一気に13%まで引き上げました。
その後もインフレ退治のために、FRBは金利を15%まで引き上げます。
その結果、世界中のお金が「ドル」に向かいます。
1年で10%以上の金利を得られるドルが人気化して、相対的に円の人気が下がります。
1981年1月、米国の大統領に就任したロナルド・レーガンは、このスタグフレーションから脱出するためにレーガノミクスを推し進めます。
1980年代前半、米国はドル高のために輸出競争力が落ちてきて、双子の赤字(貿易赤字&財政赤字)に苦しむようになってきます。
米国で売られていた日本の自動車が急に安くなり、飛ぶように売れていきました。
自動車産業が盛んなデトロイト市民は日本車を叩き壊して輸入急増に抗議しました。
1980年から1985年までの5年間で貿易赤字額(対日本)が4倍に増えて、米国政府の財政赤字も2.8倍に膨れ上がりました。
米国はなんとかしてこの双子の赤字を解消しようとしました。
自国だけの力ではどうしようもなかったので、国際協調を呼びかけます。
・【転】日本経済が破滅に向かう転機となった「プラザ合意」
1985年9月22日に米国のベイカー財務長官は、ニューヨークのプラザホテルに先進5ヵ国(日・米・英・独・仏=G5)の大蔵大臣(財務長官)と中央銀行総裁を召集しました。
そこで、米国は他国を説得してドル高を是正する協調行動への合意(=プラザ合意)にこぎつけることに成功しました。
参加各国が「ドルに対して自国通貨を一律10~12%幅で切り上げる」ことに合意して、為替市場で協調介入を行うことが決まったのです。
米国の狙いは明確でした。
一言で言えば、日本の輸出競争力を弱めて、米国の輸出競争力を高めることにありました。
その結果、1ドル236円(1985年9月)だった為替レートが、1年後(1986年9月)には1ドル154円まで円高ドル安が進みました。
たった1年で為替レートが約35%も動いたのです。
日本の輸出業者がダメージを受けてしまい、円高不況を生み出します。
日本は今までのように輸出で儲けたお金を国内に還流するというモデルを継続させるのが、政治的に難しい状況になっていました。
双子の赤字で苦しむ米国からの圧力は凄まじく、日本は経済構造の転換を迫られたのです。
1986年4月7日、中曽根内閣の私的諮問機関「経済構造調整研究会」が、日本の今後の経済政策をレポートにまとめました。
この研究会の座長であった前川日銀総裁の名前を取って「前川レポート」と呼ばれています。
この前川レポートの提言にそって、日本政府は経済政策を推し進めます。
レポートで謳われていた内容は、「内需拡大」と「産業構造の転換」でした。
この2つは米国が元々、日本に要求していたこととなります。
米国は自国の経済を守るために日本の輸出競争力を削ぎ落として、外需ではなく内需で経済が回るようにしてもらいたかったわけです。
日本は米国との貿易摩擦を解消するために、産業構造を「外需」から「内需」に転換することにしました。
前川レポートには、「10年で430兆円の公共投資を中心した財政支出を拡大すること」が記されています(これは米国に要求されたので、そう書いたのです)。
当時、まさかこの内需拡大政策への転換が「バブルの発生と崩壊」を引き起こし、日本政府が借金漬けになるきっかけを作ることを、明確に予想できていたエコノミストはほとんどいなかったと思われます。
・【結】1980年代のバブル発生とその崩壊
1985年9月22日のプラザ合意によって、日本は急激な円高に見舞われます。
・1ドル236円(1985年9月)→ 1ドル154円(1986年9月)
プラザ合意の想定を遥かに上回るペースで円高ドル安が進行していきました。
日銀は「円高不況」に対応するために急遽、公定歩合(今でいう政策金利)を約5%(1985年)から3%(1986年)まで引き下げました。
金利を引き下げることで、企業は投資を行いやすくなり、家計にとっては住宅ローン等が借りやすくなります。
日本政府も米国政府に要求された通りに、経済構造を外需型から内需型へ転換する政策を推し進めます。
政府の公共投資の拡大と日銀の金利引き下げによる「円高不況対策」は、結果的にバブル経済へと日本を追い込みました。
自国内でお金を回そうとした結果、お金の向かった先は「不動産」と「株」でした。
あろうことかさらに日銀は、1987年に(当時)史上最低の2.5%まで金利を引き下げます。
企業はお金を借りて株や不動産に投資する「財テク」に走り、銀行は収益性を度外視した不動産融資を増加させました。
当時の日経平均株価のチャートを見ると、本当に驚愕せざるを得ません。
1985年に1万3000円だった日経平均株価は、1989年12月29日に付けた3万8,915円まで上昇していきます。
5年間で日経平均株価は約3倍になったのです。
1987年10月17日の発生したブラックマンデーですら、単なる押し目買いのチャンスだと見なされていました。
日本株の平均的なPERは80倍にも達していました(一般的に適正だとみなされるPERは20倍前後だといわれています)。
NTT株のPERは177倍になり、日本航空株は400倍になりました。
当時はそれでも「株は下がらない」と信じられていた時代です。
今から思えば、プラザ合意(1985年)を受けて日本政府と日銀が行った内需拡大政策で生じた株高は、全部バブルだったのです。
当時の日本経済の実力では、1万3000円前後が妥当な範囲でした。
この株バブルと同時進行で、不動産バブルも猛スピードで進行していきました。
銀行はそれまで担保不動産の評価額までしか融資してこなかったのに、その時期は評価額の2倍まで融資が行われていたといいます。
企業は本業とは別に「財テク」と称して、銀行から資金を調達して不動産を買い漁りました。
1990年には日本の不動産評価額は2000兆円を超えて、日本の25倍の面積のある米国全体の4倍に匹敵する状況になっていました。
同じ面積で日本と米国を比較すると、日本の不動産評価額は米国の100倍に達していた計算になります。
当時は東京の山手線の内側の土地価格で、アメリカ全土が買えるという試算が出ていたそうです(そんなアホな!?)。
「企業の保有している不動産には莫大な含み益がある」と見なされて、株式も売買されていました。
その意味では「株バブル」と「不動産バブル」は完全にリンクしています。
日経平均株価は1989年12月末の3万8,915円を頂点にして、わずか9ヵ月後には2万円を割り込み、バブル経済は崩壊しました。
やはり「神の見えざる手」は存在しています。
実際の適正な価格に届くまで落ち続けるのです。
この後、「失われた10年」「失われた20年」「失われた25年」となり、今へと繋がっています。
・これまでの経緯のまとめ
【起】(1970年代)
・中東の政情不安から2度の石油ショックが起きた
↓
【承】(1980年代前半)
・日本は輸出業を中心に経済を立て直しつつあった
・米国はレーガノミクスにより双子の赤字を抱えるようになった
↓
【転】(1985年)
・先進各国は米国の要求を飲んでプラザ合意に応じた⇒円高ドル安の発生
・日本は経済を「外需」型から「内需」型に転換する政策を進めた
↓
【結】(1980年代後半)
・日銀の低金利政策と日本政府の内需拡大政策が裏目に出て、資金が株と不動産に向かい、日本をバブル経済に追い込んでしまった!
(1990年には日経平均株価が暴落し、バブル経済が崩壊した)
→ その後「失われた25年」に繋がっていく
・最後の賭けに打って出た「異次元の金融緩和政策」
日本のGDPはバブル経済が崩壊した1990年代前半からあまり伸びなくなってきて(下図の赤枠部分)、経済が停滞するようになります。
バブル崩壊後も、国債発行残高だけは確実に積み上がってきています。
気がつけば、GDPに比べて政府総債務残高が2倍以上に膨らんでいます。
日本経済の潮の目が変わったのは、1985年のプラザ合意です。
米国を救うためにすべての要求を飲みました。
米国に10年間で40兆円の公共投資を要求されて、1990年代には合計400兆円(10年間×40兆円)の債務を積み上げました。
元々の債務300兆円、米国要求の公共投資400兆円、その他(社会保障費等)300兆円、合計すると、債務は1000兆円を突破して、1990年代からGDPの伸び率が著しく鈍化したこともあり、既に財政の持続が不可能な領域に突入しています。
政府の一般会計歳出に占める主要経費の割合(2017年度)を確認すると、国債費(借金の返済):全体の24.1%(約4分の1)、社会保障費(年金、医療等):全体の33.3%(約3分の1)、に達しています。
この2つを合計すると57.4%です。
社会保障費と国債費の2つの経費に共通しているのは、政府の主体的な意志でコントロールするのが難しいという点です。
国債費は過去の借金の返済なので、支払いを拒むわけにはいきません。
社会保障費は高齢者の割合が増えれば、自動的に上昇していく経費です。
人口動態を短期で動かせないため、これも実質的にはアンコントローラブルな経費になっています。
1960年度の予算を見ると、国債費と社会保障費の合計割合がたったの12.6%でした。
昔の方が圧倒的に政府は「富の再配分」によって、自由な経済政策を実行できました。
今はもう6割近い支出が防戦型の経費(社会保障費、国債費)で消えていき、経済を良くするような攻撃型の経費に予算を配分するのが難しくなってきています。
そしていよいよ、行き詰った日本政府は最後の賭けに出ることにしました。
それが2013年4月から始まったアベノミクス(異次元の金融緩和)です。
日銀は、政府が毎年積み増す約40兆円分の国債を全量、買い切っています。
日銀が政府の債務を肩代わりしなければ、代わりに買い支えてくれるプレイヤーは存在しません。
現在、進行中の「異次元の金融緩和政策」は、我が国にとっては最後の金融政策となります。
リフレ政策の真の目的は「財政ファイナンス」と「金融抑圧」の2つです。
今までの歴史の点と点を結んでいくと、リフレ経済学は生まれるべくして生まれたものです。
そして、起承転結の物語りの「結」については、密かに現在進行形の話です。
日本円に対する信任がなくなるまで日銀は異次元緩和を続けて、政府の財政破綻という本当の結末がやってきます。
その結末に遭遇するまで、政府系エコノミストは「大丈夫だ」と言い続けるでしょう。
過去の数字を追っていけば、政府の財政持続が危うくなっていることは明らかなのに、国民には真実を伝えない…。
とても情けない話です。
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起承転結で学ぶ、日本経済のバブル崩壊から異次元緩和までの歴史
・日本経済が破滅に向かう転機となった「プラザ合意」
東条雅彦 | マネーボイス 2017年8月8日
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