■現代社会は、強権国家、監視国家をどうコントロールすべきか
論座(朝日新聞)2020年04月30日
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020042700002.html
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時代の流れは強権国家、監視国家だ。
コロナは人の健康や命を奪うだけでない。
「社会の呼吸」まで止めてしまう。
ここは何としても歯止めをかけねばなるまい。
ナチス出現の時、ドイツ人も皆そう思った。
しかし、いつの間にか歯止めが利かなくなっていく。
「明日の日本」が「昨日のドイツ」になるわけにいかない。
収集されたデータの扱いが重要だ。
利用が感染者追跡に厳に限定されなければならない。
間違っても他に転用されるようなことがあってはならない。
データの管理は厳重に行われなければならず、漏洩や盗用があってはならない。
今、GAFAに対する規制が議論される。
集められた大量のデータは今や第二の石油だ。
その扱いは我々の生活を脅かす。通販は便利だが、一度買うと、これはどうか、あれはどうかと、同種商品の広告が毎日パソコンに送られてくる。
購買記録が企業に管理され、ネット広告として利用されている。
従来の広告は、やみくもに見えない大衆を相手にしていた。
今、企業は消費者の選好を知り尽くし、それに見合った商品を勧めてくる。
我々のデータは企業の手元にあるのだ。
ここはしっかり規制していかなければならない。
・非常時に膨れ上がった国家の権限を、平時にいかに縮小するか
危機が過ぎ去った時、いかに平時に戻るか。
これこそが監視国家をコントロールするカギだ。
危機の時、強権や監視もやむを得まい。
公共のため、個人が犠牲にされることもやむを得ない。
しかし、危機が過ぎ去れば、また元の自由や基本的人権が尊重される社会に戻らなければならない。
それをいかに制度化しておくか。
非常時の行動を政府は記録にとどめ、危機が過ぎ去った時、それを公開し、後日の検証に付すことにする。
場合によっては、平時に戻った時、非常時内閣は総辞職し、改めて総選挙を行わなければならない、とするのも有用かもしれない。
非常時が平時においてそのまま継続してはならない。
強権国家、監視国家は非常時だからこそ許される。
非常時に膨れ上がった国家の権限は、平時に戻った時、また縮小されなければならない。
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■現代社会は、強権国家、監視国家をどうコントロールすべきか
論座(朝日新聞)2020年04月30日
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020042700002.html
■コロナ危機で、国家の「権威と権力」はさらに強大化する~グローバル化の「裏の顔」があらわに~
週刊現代 2020.04.28
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/72141
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・グローバル化の「二つの顔」
新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、世界は国境封鎖し、鎖国状態になっている。
こうした事態を受けて、グローバル化は終わりつつあるという議論が欧米を中心に始まっている。
しかし、このような主張は皮相的なものにすぎない。
やや逆説的に聞こえるかもしれないが、各国による国境閉鎖は、ある意味でグローバル化の当然の帰結だからである。
つまり、鎖国は、グローバル化という現象の「もう一つの顔」をあからさまにしたのである。
以下に敷衍しよう。
一般にグローバル化とは、人やものの自由な移動、さらには「ボーダーレス」な世界の到来として語られる。
しかし、そうした現象の裏側で同時進行しているのは、国家による国境監視の強化である。
国境をフィルターにたとえれば、グローバル化は、一面において、フィルターを通過する人やものの大幅な増大を意味する。
しかし、その反面、フィルターは、国家が通過させたくない人やものをふるいにかける。
2001年9月11日の同時多発テロ事件以降、テロリストであると疑いがかかる個人を世界中で特に警戒するようになったのは周知のことである。
一方、私が居住するニュージーランドでは、自然環境を保護するために、動植物などいわゆるバイオハザードの対象となるものが国内に入るのを厳しく制限している。
そして、今回、フィルターにかけられているのは感染病ウイルスであり、それに感染している個人である。
20世紀末以来論じられてきているグローバル化は、このように「二つの顔」を持つ。「表の顔」が人やものの自由な移動だとすれば、「裏の顔」は移動する人やものの国家による監視の強化である。
そう考えれば、世界諸国が鎖国状態にあるのは、グローバル化の「裏の顔」が「表」になったことを意味する。
・パスポートはいつ発明されたか
国境を越える人とものの移動の増大が、国家による監視の強化に伴っていたことは、最近始まった現象ではない。
海外渡航する際、パスポートを携帯することが義務づけられたのは、第一次世界大戦中のヨーロッパであった。
アメリカの社会学者ジョン・トーピーが『パスポートの発明』(法政大学出版局)で論じたように、19世紀以前にもある種のパスポートがヨーロッパ諸国で用いられていたが、パスポートのあり方について世界的に標準的な慣行はまだ定まっていなかった。
実際、パスポートを発給するのは国家であるとは限らなかった。
地方の聖職者や役人が自国民、他国民を問わず、一種の通行手形や、携帯者の品行方正を証明する推薦状のようなパスポートを発給していたのがその実態であった。
こうした事情が大きく変化を遂げたのは第一次世界大戦の時代だったことを、20世紀イギリスを代表する歴史家A・J・P・テイラーが『イギリス現代史 1914年-1945年』の開巻冒頭でこう書いている(英文原書より筆者が翻訳)。
1914年8月まで、分別があり法を遵守する英国人であれば、郵便局や警察を除いて、国家の存在にほとんど気づくことなく人生を過ごすことができたであろう。
どこでも好きなところで、好きなように生活することができたはずである。
公式なナンバーや身分証明書も持たなかった。
海外旅行したり海外移住したりするに際しても、パスポートも公式な許可書の類も必要なかった。
携帯者の身分証明書であると同時に、国家による移動の管理手段でもあるパスポートは、およそ1世紀前に本格的に導入されたものなのである。
国境が封鎖される数週間前まで、我々は国際的な移動の自由を享受してきたわけだが、そうした自由は、各人が帰属する国家によって発給されるパスポートによって我々の移動が管理される限りにおいて成立していた。
つまり、国際的な移動の自由とは、国家による監視によって保証されるという逆説的な事態なのである。
第一次世界大戦当時、パスポートの携帯が義務づけられるに際して、そうした移動の監視はあくまでも一時的な方策とされていたが、その後まもなく恒常化することとなった。
今日では、パスポートという手段によって国家が移動を監視することの正当性を疑問視する人はほとんどいないであろう。
このように近代パスポートの歴史を振り返ったとき明らかになるのは、人的移動の自由と国家による移動の監視とは切ってもきれない関係にあるということである。
こうした歴史に鑑みれば、現下のパンデミックが終息した後に、国際的な人的移動の自由を回復することは、国家による監視のさらなる強化との引き換えという形でしかありえないのかもしれない。
そもそも、移動の自由における「自由」概念とは、17世紀イギリスの政治哲学者トマス・ホッブズのいう古典的な消極的自由である。
つまり、物理的拘束が欠如している状態にすぎない。
自由をこのような意味で理解する限り、何らかの強制力によって国境を越える移動が阻止されていない限り、たとえ監視下にあっても、移動の自由は存在するとみなされることとなろう。
・国家は人々の「移動」を管理する
このように、現下のコロナウイルスをめぐる危機のひとつの核心とは、国家が人的移動を、前例のないほどの規模で制約していることである。
それは国際的な移動だけでなく、国内移動についても同様である。
だからこそ、ロックダウンの状態にある諸国の住民たちはほぼ例外なく、いわば自宅監禁のような状況にあるわけである。
ここに明らかなのは、近代国家が、移動の自由を管理する正当な権限を独占するという特徴である。
さらに、コロナ危機の結果、世界経済は危機に直面しているが、それは、いうまでもなく、経済活動が正常に運営されるためには人的移動の自由が不可欠の条件だからである。
ただし、ここで注目すべきは、その自由がもっぱら国家によって与えられているということなのである。
つい先頃まで、グローバル資本主義の時代の到来とともに、近代国民国家は歴史的役目を終え、「ボーダーレス」な時代がやってくると喧伝されてきたが、グローバルな感染病拡大という事態は、それが間違っていることを見事に実証した。
グローバル企業も大資本家も、パンデミックの発生以来、鳴りを潜めてしまっている。
ウイルス感染に対して対策を講じているのは、国家だけである。
しかも、つい先頃まで新自由主義と「小さな政府」を目指していたアメリカやイギリスといった国々は、一変して、経済に積極的に介入する「大きな政府」へと舵を切った。
さらに、ヨーロッパ圏内における移動の自由も、ヨーロッパ連合加盟国が次々と国境封鎖を行なったことで雲散霧消し、その限りでは、ヨーロッパ連合は、すでに経済人類学者カール・ポランニーのいう「甲殻類的な国家」(鎧のような外殻を持った、外と内を峻厳に区別する国家)の集合体へと変貌してしまった。
こうした一連の事態は、近代国家こそが、この世における究極的権威であって、いかなる国際的な公的組織も、いかなるグローバルな巨大資本も、国家に比肩することはできないことを如実に示している。
・魔女狩りとコロナウイルス
パンデミックが終息した後、移動の自由の回復は、国家による監視の強化と引き換えという形でしかなされないかもしれないと前述したが、このような国家権力の強大化の趨勢は、近代国家形成の歴史を参照しても容易に想像のつくことである。
16・17世紀のヨーロッパで絶対主義国家として成立した近代国家がその権力を増長させたのは、現下のパンデミックと同様「目に見えない敵」である「悪魔」との戦いを通じてであった。
悪魔の支配するところとなった魔女たちが、人間や家畜、農作物に被害を与えたり、ひいては、魔術によって国王暗殺を試みたりしていると信じられた結果、政治的支配者から一般民衆に至るまで、ありとあらゆる人々がその脅威に怯えていた。
悪魔の力に抗するために、ヨーロッパの絶対君主たちは、神的権威を自らが帯びていると主張した。
なぜなら悪魔に打ち勝てるのは神以外ではないからである。
こうしていわゆる王権神授説が唱えられ、王権は神に比肩する権威を主張するようになり、そのような権威を背景に、いわゆる魔女狩りが16世紀から17世紀にかけて猖獗を極めることとなった。
魔女狩りと近代国家の権威増強のプロセスとは、表裏一体の関係にあったわけである。
新型コロナウイルスは、2020年の「悪魔」である。
この「悪魔」に取り憑かれた人々は、魔女のように火刑に処されることはなく、国家によって隔離されるにすぎないが、魔女狩りの時代と同様、ある社会では不幸にも差別の対象になっている。
魔女狩りが近代国家の成長を助長したという歴史に照らしてみれば、ウイルスとの戦いが、近代国家をさらに強大化する可能性を示唆しているといえよう。
当然、国家は、感染病へのより迅速な対応を追求するようになるだろう。
迅速な対応は、経済活動の停滞期間を最小化するという意味でも、重要だからである。
しかし、その一方で、感染病の蔓延を防止するということが人命の保全という至上課題である限り、国家は人的移動の制限を必要に応じて行う権限を強化することにもなろう。
平時から、潜在的な感染ルートについてのデータを収集する必要にせまられることになり、それは監視国家への道を用意することにもなろう。
すでにBluetoothを使った人の移動の監視は日本でも論じられているし、ドローンによる監視はヨーロッパ諸国ですでに始まっている。
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コロナ危機で、国家の「権威と権力」はさらに強大化する~グローバル化の「裏の顔」があらわに~
週刊現代 2020.04.28
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/72141