来し方、行く末に思いを続けて…
日記 … Kametarou Blog
台風一過
昨夜は、不安だったし、またイザという場合に備えて懐中電灯2個、携帯ラジオなどを用意して就床。零時すぎまで雨や風が気になっていたが、零時を過ぎて眠りにはいって6時に予定どおり起床。外をみると隣近所に異変はなかったし、大雨や暴風も終わっていた。
ヤレヤレの気持ちだった。しかし全国的には被害は甚大だったというし、北海道でも風速30メートルを超えるところもあったとのことだが、人的被害は関西のようではないのではと思う。
学校は、JR通学生は欠席扱いにはしないことにしたが、それ以外の生徒はほぼ登校していたので一安心。
こういう天災がまたあるだろう。むしろその機会は増大するのだろう。こういう「予想」はこのサイトでも何度か記している。わが残りの人生の中で、キモをつぶすような天災が起こらないでほしいと願うのだがはたしてどうだろうか。
台風について思い出すのは1954(昭和29)年9月26日の洞爺丸台風についてだった。これもこれまでにない強い暴風をともなっていた。火事が各所で起こった。
私のいた道北の和寒町でもこれまで体験したことのない大風に見舞われた。木造の古い家は吹っ飛ぶのではないかという心配におそわれ、家族総動員でタタミなどをはがして縁側の廊下の戸に立てかけるなどをしていたのではないか、と記憶している。幸い、家が壊れるなどはなかったが、ちょうど収穫時期で被害があったと思う。
この台風の体験から何年間もの間、私は大風が吹くと「あのときの心配」がトラウマのように胸をよぎって不安の気持ちをもつことがあった。
(洞爺丸という青函連絡船が沈んで乗客たち1139名が死んだ。そしてこれを契機に青函トンネルが遡上にのぼったという話もあった。)
しかし少々解せないのは、この7月に私が体験したクルーズ旅行で、あの10万トンを超える大きな船がそれほど大きくはない台風をさけるために針路と予定を変えているのである。1954年でも天気予報や台風の規模などは、今ほどではなかったにしても想定できたであろう。なぜそういう天候の中で函館から青森に向けて出航させたのか、疑問がわく。ネットではそのあたりのことは分からないが…。
ヤレヤレの気持ちだった。しかし全国的には被害は甚大だったというし、北海道でも風速30メートルを超えるところもあったとのことだが、人的被害は関西のようではないのではと思う。
学校は、JR通学生は欠席扱いにはしないことにしたが、それ以外の生徒はほぼ登校していたので一安心。
こういう天災がまたあるだろう。むしろその機会は増大するのだろう。こういう「予想」はこのサイトでも何度か記している。わが残りの人生の中で、キモをつぶすような天災が起こらないでほしいと願うのだがはたしてどうだろうか。
台風について思い出すのは1954(昭和29)年9月26日の洞爺丸台風についてだった。これもこれまでにない強い暴風をともなっていた。火事が各所で起こった。
私のいた道北の和寒町でもこれまで体験したことのない大風に見舞われた。木造の古い家は吹っ飛ぶのではないかという心配におそわれ、家族総動員でタタミなどをはがして縁側の廊下の戸に立てかけるなどをしていたのではないか、と記憶している。幸い、家が壊れるなどはなかったが、ちょうど収穫時期で被害があったと思う。
この台風の体験から何年間もの間、私は大風が吹くと「あのときの心配」がトラウマのように胸をよぎって不安の気持ちをもつことがあった。
(洞爺丸という青函連絡船が沈んで乗客たち1139名が死んだ。そしてこれを契機に青函トンネルが遡上にのぼったという話もあった。)
しかし少々解せないのは、この7月に私が体験したクルーズ旅行で、あの10万トンを超える大きな船がそれほど大きくはない台風をさけるために針路と予定を変えているのである。1954年でも天気予報や台風の規模などは、今ほどではなかったにしても想定できたであろう。なぜそういう天候の中で函館から青森に向けて出航させたのか、疑問がわく。ネットではそのあたりのことは分からないが…。
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