受容と要求

先日の「引きこもり・ニート」の自立支援フォーラム(2月25日)に関連して。
「歩き始めた私たち」の4人がほぼ共通に語っていたことに「しばしば人は『将来どうするのか?』と引きこもる自分に対して言ったり、非難するが、これは逆効果」といった意味の発言をしていた。社会的な常識からすれば「いい大人が何もしないで家の中でごろごろしていることは許されない」ということだし、親は自分の亡き後どう生きるかを設計させたい、と考えるのも無理はない。
そして引きこもる人を批判・非難するが、時にはガンバレと激励する。
まず「引きこもる」という態度を受け入れることから始めなければならない。誰もがそういう。受容が前提。しかしまた誰もが「そうは言っても?」と疑問をもつ。

不登校の子どもでいえば、子どもとの関係(心理的)で決まるのだが、やはりどこかの段階で「学校に行くかフリースクールに行くか、別の道を選ぶか、とにかく『引きこもり』を抜け出さなければダメだ」といったことを親の気持ちとして子どもに伝えることの必要性は指摘できる。

まず子どもを受け入れる「受容」があるが、「要求」という行為もまた子どもを大事にするが故に、あってしかるべきだろう。もちろんこの要求行為がどれだけ愛情をもった意味で表現されるか、が決定的だが。

今日、大学院生が「引きこもり」問題をどう考えるか、というテーマで来訪して若干議論したことだった。昨日の卒業式後の親たちとの懇談の中でも感じたことの一つだったが。

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