神田鍛治三会町会が宮入りしてまいりました。
昭和8年に「黒門町北の一部・上白壁町北の一部・鍋町北の大部分・鍛冶町北の一部・鍋町西横町の内の一部」が統合して「神田鍛冶町三丁目」となりました。
この界隈が鍋町と呼ばれていた理由は、江戸幕府の御用鋳物師(ごよういもじ)をつとめていた、椎名山城(しいなやましろ)が屋敷を構えていたため、といわれています。鋳物師とは、鍋(なべ)や釜(かま)をつくる職人のことです。ほかにも御腰物金具師(おこしものかなぐし)や御印判師(ごいんばんし)なども住んでいました。
鍋町に住んでいたのは、このような御用職人ばかりではありません。紅(べに)や白粉(おしろい)などの化粧品、傘、菓子、釘や打物(うちもの)などを扱う各種の問屋をはじめ、馬具や武具をつくる職人まで店を構えて住んでいました。江戸時代、この界隈は鍋のような日用品から馬具や武器まで、多種多様な商品がそろう町でした。
この町会には「良薬にして口に甘し」の浅田飴があります。明治30年からずっとこの地で営業を続けています。元は、江戸末期から明治初期にかけて活躍した漢方医の浅田宗伯処方の「御薬さらし水飴」を「浅田飴」と改め、売り出したのが始まりです。
町会の該当区域は神田鍛冶町三丁目・内神田三丁目19~21番地となっています。