皆様、こんばんは。
事務局です。
6日の一宮市内は、曇りと雨が交合に繰り返す天気でした。
未明、当会のツイッターアカウント「青色鉄道模型運転会」(公式)の、フォロー中のフォローが半数ほど消える事象が発生しました。
今朝7時頃に復旧しました。
ご迷惑をおかけしたアカウントがございましたら、お詫び申し上げます。
明日7日から9日まで、一宮市青色申告会ホールでは、「源泉納付相談会」がおこなわれます。
初日は混雑します。
お時間に余裕があるようでしたら、2日目、3日目にご来場ください。
富山県高岡市にお邪魔した際、「万葉(まんよう)線(株)」様の路面電車に乗車しましたので、その体験談を書いています。
前回の続きでございます。
高岡駅停留所から乗った路面電車は、定刻通りに、越ノ潟(こしのかた)駅に到着しました。
写真は、越ノ潟駅ホームから、使われている線路と、廃止された線路の並びです。
ホームの先、一番奥に建っている建物は、富山県営渡船(越の潟フェリー)・越の潟発着場です。
発着場から向こうは海です。
越ノ潟駅は現在、終点駅ですが、1966(昭和41)年4月までは中間駅で、この駅から東方向に向かって線路が続いていたことは、郷土誌を読んで知りました。
1966年4月、富山新港の開削のため越ノ潟駅から旧堀切駅までの区間が廃止。
続いて1980(昭和55)年には、旧堀切(※新港東口)駅から旧新富山駅までの区間が、乗客減少のために、廃止されてしまったそうです。
※その後、旧堀切駅を西方向に延伸して、新港東口駅と駅名を改称しています。
1966年3月までは、越ノ潟駅から電車に乗って、国鉄富山駅の近くまで行けたのです。
開削のために廃止された区間は、富山県営渡船によって復活して、渡船の運航は今も続いています。
富山新港は、放生津潟(ほうじょうづがた)の潟湖を掘削し、港口を大きく広げて建設された港、というお話を聞いたことがあります。
広げられる前の港口は、旧新湊(しんみなと)市東岸の堀岡地区と、西岸の越の潟地区から砂州(さす)が伸びていたそうです。
その砂州に道路と富山地方鉄道・旧射水(いみず)線が通っており、砂州と砂州の間にある港口には、「堀切橋」という橋がかかっていた、と聞いています。
放生津潟の面積は、約1.7平方キロで、周囲は6kmぐらい、水深は1~1.5mほど。
潟湖中央には「弁天島」という、人工の島があったそうです。
潟湖の周囲は水田地帯、いわゆる「水郷」で、汽水湖(きすいこ)だったことから、シジミ産地として知られていたようです。
下条川や堀川などの小河川から土砂が流れ込んで堆積が続き、加えて人工的な埋め立てもおこなわれていたため、潟湖の面積は、年々、小さくなっていたそうです。
次回に続きます。
ブログに関するご感想・ご意見・クレーム等は、ブログのコメントや携帯電話にお願いします。
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6日の一宮市内は、曇りと雨が交合に繰り返す天気でした。
未明、当会のツイッターアカウント「青色鉄道模型運転会」(公式)の、フォロー中のフォローが半数ほど消える事象が発生しました。
今朝7時頃に復旧しました。
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明日7日から9日まで、一宮市青色申告会ホールでは、「源泉納付相談会」がおこなわれます。
初日は混雑します。
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富山県高岡市にお邪魔した際、「万葉(まんよう)線(株)」様の路面電車に乗車しましたので、その体験談を書いています。
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高岡駅停留所から乗った路面電車は、定刻通りに、越ノ潟(こしのかた)駅に到着しました。
写真は、越ノ潟駅ホームから、使われている線路と、廃止された線路の並びです。
ホームの先、一番奥に建っている建物は、富山県営渡船(越の潟フェリー)・越の潟発着場です。
発着場から向こうは海です。
越ノ潟駅は現在、終点駅ですが、1966(昭和41)年4月までは中間駅で、この駅から東方向に向かって線路が続いていたことは、郷土誌を読んで知りました。
1966年4月、富山新港の開削のため越ノ潟駅から旧堀切駅までの区間が廃止。
続いて1980(昭和55)年には、旧堀切(※新港東口)駅から旧新富山駅までの区間が、乗客減少のために、廃止されてしまったそうです。
※その後、旧堀切駅を西方向に延伸して、新港東口駅と駅名を改称しています。
1966年3月までは、越ノ潟駅から電車に乗って、国鉄富山駅の近くまで行けたのです。
開削のために廃止された区間は、富山県営渡船によって復活して、渡船の運航は今も続いています。
富山新港は、放生津潟(ほうじょうづがた)の潟湖を掘削し、港口を大きく広げて建設された港、というお話を聞いたことがあります。
広げられる前の港口は、旧新湊(しんみなと)市東岸の堀岡地区と、西岸の越の潟地区から砂州(さす)が伸びていたそうです。
その砂州に道路と富山地方鉄道・旧射水(いみず)線が通っており、砂州と砂州の間にある港口には、「堀切橋」という橋がかかっていた、と聞いています。
放生津潟の面積は、約1.7平方キロで、周囲は6kmぐらい、水深は1~1.5mほど。
潟湖中央には「弁天島」という、人工の島があったそうです。
潟湖の周囲は水田地帯、いわゆる「水郷」で、汽水湖(きすいこ)だったことから、シジミ産地として知られていたようです。
下条川や堀川などの小河川から土砂が流れ込んで堆積が続き、加えて人工的な埋め立てもおこなわれていたため、潟湖の面積は、年々、小さくなっていたそうです。
次回に続きます。
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