
皆様、こんばんは。
事務局です。
6月1日の一宮市内は、未明の土砂降りの雨は朝までには上がり、晴天の暑い1日になりました。
今日は、本業のお仕事の合間に、研修旅行の下見で、岐阜県多治見市・可児・土岐市を訪れました。
その訪れた施設の1つ、「荒川豊蔵資料館」様のお話を書いていきます。
上の写真は資料館の入口です。
ここから山道を3分ほど歩くと、資料館玄関に辿り着きます。

上の写真は、山道を歩いていて見つけた杭です。
ここにリニア中央新幹線の線路が通るそうです。
先ずは、故人の陶芸家・荒川豊蔵様の業績です。
最大の業績は、岐阜県可児市久々利(くくり)にあった、大萱牟田洞(おおがやむたほら)の古窯跡で、志野筍絵筒茶碗(しのたけのこえつつちゃわん)と同じ筍絵文様の陶片を発見したことです。
この発見によって、志野などの焼き物が、愛知県瀬戸市で焼かれていたという、陶磁器史の定説を覆すことなりました。
この発見以降、豊蔵様は、志野の焼き物の再現を志します。
豊蔵様といいますと、丸栄百貨店様で、陶芸展をよく開催していた記録が残っています。
豊蔵様の生い立ちですが、1894(明治27)年に、現在の多治見市に生まれます。
尋常高等小学校の高等科2年終了後、12歳で、兵庫県神戸市にあった貿易商に勤務。
子供の頃から、絵を描くのが得意だったそうです。
豊蔵様は、常に向上心をお持ちだったようです。
1909(明治42)年に、貿易商の仕事を退職し、「夜鳴きうどん」を売った学費で、京都の私塾で、数学・英語・漢文を1年間勉強。
1910(明治43)年、16歳で、多治見に戻って、陶器を扱う会社で働き、翌年に結婚します。
結婚した翌年、神戸の親戚が営む陶器商店に就職。
1915(大正4)年、21歳、陶器商店を退職して、名古屋で就職し、その後、独立して、高級食器や人工大理石の製造・販売を始めます。
しかし、商売はうまくいかなかったそうです。
1922(大正11)年、28歳、画家になろうと決意して、絵画修行のため、東京に向かったものの断念し、同年、京都の宮永東山窯で工場長として働きながら、絵画の勉強を始めます。
1925(大正14)年、里帰りした際、可児郡久々利村の大平古窯跡で、天目(てんもく)・古瀬戸(こせと)片を見つけ、帰路の途中、青織部(あおおりべ※)片も拾ったそうです。
※織部焼の一種です。
下の写真は、資料館の玄関になります。

同年、小山富士夫(こやまふじお※1)様、北大路魯山人(きたおおじろさんじん※2)様と出逢います。
※1.故人。陶磁器研究者・陶芸家。中国陶磁器研究の大家として知られています。
※2.故人。芸術家。広い分野で活躍し、画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家など、様々な顔を持っていたことで、知られています。
次回に続きます。
ブログに関するご感想・ご意見・クレーム等は、ブログのコメントや携帯電話にお願いします。