
皆様、こんばんは。
事務局です。
2日の一宮市内は、夜半過ぎから土砂降りの雨となりました。
雨は未明には上がり、朝から晴天となりました。
乾いた空気に入れ替わり、清々しい1日になりました。
上の写真は、荒川豊蔵資料館様の玄関前に鎮座している、「牟田洞古窯跡」と文字が掘られた碑です。
碑の後方にある階段には上がらず、通路を真っ直ぐ進んでください。
陶房(ロクロ場)や居宅などを見学することができます。
階段を上がりますと、最短で、収蔵品が展示してあります、資料館まで行けます。
下の写真は、入場券の半券・リーフレット・ポイントカードです。

豊蔵様の生い立ちの続きです。
1927(昭和2)年、33歳、北大路魯山人様に望まれて、神奈川県鎌倉郡深沢村山崎(※)にあった星岡窯(せいこうよう)で働きます。
※現在は鎌倉市山崎です。
この間、19歳の時に長男、26歳の時に長女、32歳の時に次男が生まれています。
1930(昭和5)年、名古屋に仕事(※1)で訪れた際、古い茶碗の1つ、「志野筍絵筒茶碗『玉川』」(※2)を見て、愛知県瀬戸市で焼かれたことに疑問を抱いたそうです。
※1.名古屋市にあります、松坂屋百貨店様で開催された、「星岡窯主新作展」に、北大路魯山人様と一緒に出席のため。
※2.当時は、名古屋の旧家・関戸家様が所蔵し、現在は、徳川美術館様が所蔵しています。
名古屋に訪れた2日後(※)、岐阜県可児郡久々利村の大萱牟田洞の古窯跡で、志野筍絵筒茶碗と同じ筍絵文様の陶片を見つける。
※同年4月11日になります。
この発見により、桃山時代(400年前)に作られた志野などの、古い焼き物は、美濃地方で焼かれていたことが証明されます。
1933(昭和8)年、39歳、志野の再現を目指すため、星岡窯を退職して、陶片を発見した場所で、窯を築きます。
築いてから、1940(昭和15)年頃まで、志野再現のために、各地の古窯を調査します。
桃山時代の技法と素材を見つけるためです。
粘土・釉薬・窯の構造・焚き方などを、古窯の遺跡や陶片から学ぶ、試行錯誤の日々が続いたそうです。
1940(昭和15)年、豊蔵様初となる個展を、大阪市にあります、阪急百貨店様でおこなったそうですが、不本意な内容と結果に。
下の写真は、資料館受付でいただいた、作品目録が印刷されたコピー用紙です。

この間、35歳の時に次女、40歳の時に三女が生まれています。
次回に続きます。
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