斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

平和ボケのただの日本人が、中央アジアのネタと、日本に残る遊牧遺構の記事など書いた。

カナダオボー(金田鄂博)についての考察🪨🔱🔴🔵🟡🟢⚪️🎽

2024年06月08日 | 自己満

カナダオボーについての考察🪨🔱🔴🔵🟡🟢⚪️❤️💙💛💚🤍🎽

 

この記事は、遊牧アディクト(addict:中毒)が裏目に出て、在倭国蒙古族遊牧遺構に真摯に向き合う余り、不覚にも、読者の労力と時間を削る長大な物になってしまいました。これは単なる忘備録です。

 

よほどの遊牧民、遊牧国家好きな人でない限り、読むのが苦痛に感じる記事なので、読む事を強いるなどは致しません。

 

 

・カナダオボー🐦‍🔥とは?

 

カナダオボー🐦‍🔥とは、倭国の関東圏の南部、丹沢山塊のよく見える小集落にある、天神祠と云われる天ざらしの一角を指す。この一角は、テングリ(テンゲル)という遊牧民が信仰する天神だと考えられる神と、菅原道真とが相殿にされ、祀られている。この天神祠が元はオボー(Овоо)だったのではないかと読んでいる。オボー(Овоо)とはモンゴルで建てられる一種の標柱である。オボーはおもにチベット仏教の祭礼が行われる場所であるとともに、山岳信仰、テングリ(天神) といった宗教的意味を示す役割を持つが、同時に境界標識や道標としての役割も持つ。オボーが建てられる主な場所は、平原や平原にある小高い丘、あるいは山頂や峠のような高所に建てられることが多い。川や湖や湧水地の近くにも建てられることが多い。

《引用: Wikipedia》

 

 

 

モンゴル本国にあるオボー

 

 

“カナダ”という、この奇妙な名称の成り立ちは、この小集落の名に由来する。この小集落の名称は金田(カネダ)というが、これをモンゴル語の発音に直したら“カナダ”という奇妙な音になってしまった。

《モンゴル語の母音の法則によれば、男性母音(a,o)と女性母音(e,u)は同じ語に共存出来ない。中性母音(i)はどちらとも共存出来るという。島村一平先生が文春の記事で教えてくれた。》

 

この天神祠をモンゴルオボーとして扱う以上は、モンゴル語の読みを充てる。金田(カネダ)地区にあるオボーを、カネダオボーとするよりカナダオボー🐦‍🔥とする方が適切である。

 

カネダとカナダとは、感覚的にはキエフとキーウ、チェルノブイリ原発とチョルノービリ原発のようなものである。

 

両者は“金田”という共通の漢字表記を持つが、言語による棲み分けを意識した為、カネダとカナダとを分けた。モンゴル人らのフィールドでの話に関しては、この記事では金田(カネダ)村ではなくカナダ村🎪と書かせて頂く。

 

 

 

・テングリ(テンゲル)について

 

テングリ信仰では蒼天そのものに対する崇敬から天の神格化が行われた。テングリとは、トルコ、モンゴル族などの北方遊牧民における天の神である。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

トルコ族、モンゴル族における物質的実在としての天。およびシャマニズム神観上の精神的実在としての天神,または天神の下にいる神々をいう。モンゴル語ではtengri,tenggeri とも表記されtängriは古代トルコ語のローマ字表記である。蒼天そのものに対する崇敬から天の神格化が行われた。

《引用:コトバンク 吉田順一著》

 

アジア北方の遊牧民族に共通な、「天上世界」もしくは「天上神」「運命神」「創造神」を意味する概念。中国史の史料上はしばしば「天」と訳されている。

 

「テングリ」は中国史における「天」概念と非常に類似しており、天上世界を指すとともに運命神であることも共通している。ただし中国史において天の人格神である天帝が北極星と同一視されているのに対し、テングリは澄みきった青空のことであると考えられており、その点で相違する。「テングリ」崇拝は匈奴時代から確認されている。また、人格神としての「テングリ」はモンゴルの宇宙創造神話において「テングリ・ハイラハン」という地上を作った創造神として現れ、これも中国には見られない。テングリは男性神であり、女性神である大地に対応する。

 

今日においては、カムチャッカ半島からマルマラ海に至るまで遊牧民の間で、シャーマニズムに基づいてテングリへの祭祀(テングリズム、テングリ信仰、テングリ崇拝)が行われている。

《引用: Wikipedia》

 

 

・何故これが、モンゴルのオボーではないかと考えるに至ってしまったのか。

 

⭐︎カナダオボー🐦‍🔥の立地。大きな川に近い場所にある。

 

⭐︎カナダオボー🐦‍🔥には、カナダ村🎪の人による手記の、この祠についての説明立札がある。その始まりの一文に「国土を守護する天乃神」とある。その信仰観が、ソーハン・ゲレルト氏の論文によると蒙古人のものであるように思えた。

 

⭐︎このオボーがある場所の近くにある神社の、中世に行われていたとされる10km超の長距離競馬神事の記述。

 

この神社は倭人が建てたが、不思議な事に何故か長距離競馬神事がかつて存在した。長距離競馬神事というのがモンゴルのナーダムという夏祭りに行われる競技の一つにある。本番モンゴルでのナーダムは30km強を走る。ナーダムは別名「オボー祭り」とも云われる。

 

 

・カナダオボー🐦‍🔥と出会った経緯

 

2023年始に遡るが、寺社仏閣巡りが流行った。自分も流行りに乗ろうとして、手当たり次第寺社巡りに赴いた。ただ拝むよりは寺社の由来を調べてから巡る方が良いと考えた。その頃行きつけの喫茶店で勉強などをしていた。暗く危険な為バスを利用して駅まで帰る途中の、ある神社が気になっていた。それが金田神社。金田神社についてググルと色々なサイトが出て来たがその中の一つに「中世に“長距離競馬神事”が催されていた」とあった。

上依知から金田までの10km強の競馬。これにはナーダムを連想させられた。それが気になって気になって仕方がなかった。

神社というのは集落毎にあるものなので、金田集落はもしかして…..

 

 

金田、頭文字が「金」、アルタンである。

モンゴルには「アルタン〜」という地名が多数あって、頭文字「金」地名が目についた。

アルタン地名とナーダム的な祭り。それだけで、実踏しよう。となった。それが全ての始まり。

 

以前から、この川の左岸の台地には、昔、牧民が暮らしていたのではなかろうか?という気がなんとなくしていた。牧民が暮らしやすそうな環境であるような気はしていた。川の両岸の台地は、良馬の産地であると聞いていたので、余計にそういうふうに思えていた。金田村(カナダ村🎪)は意外にも川の右岸だった。

 

カナダ村🎪に足を踏み入れる。穀倉地帯の端の方に、松を植えた「天神」を祀る一角があった。天ざらしで、床部分は円形(正確な円ではないが、大体円)であった。

 

 

 

 

カナダ村🎪人民によるテンゲルオボーの説明

 

「天乃神」と学問を奉ずる「天神」とを別々のものとして扱い、相殿にしているという点について違和感を覚えた。

 

何故この天神杜を、テングリ信仰と結びつけられたのかは自分でもよく解らない。多分だが、菅原道真を指す天神以外の天神が出てきたので、違和感を覚え、これはもしかしたら、テングリ信仰の可能性もあるのではないか?と考えたのかもしれない。お天道様説も考えたが、あれは太陽を指すので天乃神ではない。

 

テングリ信仰とは国土を守護するという要素があるのか?という疑問が湧いたので

「テングリとは?」でググった。

 

「モンゴル帝国時代における ハーンたちの世界観について」早稲田大学モンゴル研究所客員研究員 ソーハン・ゲレルト氏の論文に出会う。

 

その中でモンゴル人の宇宙三界観で、天神は地上界に保護と善と幸福をもたらすという。

天神の子とされる英雄は、悪魔を退治し、理想的な国を立て、自らハーンとなって人間社会の秩序を保護し、人びとの幸せな生活を保障する。

 

地上界=人間界=黄金の世界(Altan delkei)の概念しかなかったものが、チンギス・ハーンの即位以降、地上界は、天神の子、ハーンが立てた理想的な国になったと解釈しても良いのだろうか?

 

その国はハーンと天神によって守護される。このオボーは少なくとも、チンギス・ハーン即位からこっちの時代に出来たものと思われる。

 

 

 

・天神祠にある“国土”について

 

「国土を守護する天乃神」と表記されているが、「国土」の概念は、殆どのモンゴル帝国のウルス(属領)に当てはまらない。ほとんどのウルスは、国土や国境と言うよりは縄張りという程であった。国境もくっきり引いたのではなく、大体ここら辺ぐらいの認識であった。言語統制や宗教統制などはせず、ウルス内の人民は、納税だけしてればよかった。納税が出来なくなると非常にやばい事になった。

 

これは現代の事だが、遊牧国家のウルス、ハンの影響の強かった国在住の人民に「あなたは何人ですか?」との問いに、定住者であれば町や村などの名前で答え、遊牧民であれば部族名で答える。国の名前で、日本人、アメリカ人などとは言わない。国民国家への帰属意識が希薄である。

 

しかし例外的に、元帝国(大元ウルス)だけは、国土の概念を持ち、国民国家への帰属意識があったらしい。現在のカナダ村人民🎪の手書きの立札には「国土」というワードがある。これは日本(倭国)の国土ではなく、「元帝国」の国土を意味するのではないかと自分は考えている。

元帝国は、モンゴル人君主が中華を倣った専制君主統治をしていたため、このような国民国家の概念が生じたのではないかとも考えている。カナダ村人民🎪の言う”国土“とは“元帝国の国土”を指すのではないか?“元帝国”!”元寇“の“元”である。

 

大元帝国は、漢人の明帝国によって滅亡。その後中原(漢民族の定住農耕地域)より北のモンゴル高原に退いた“元”の残党勢力を北元と称する。北元の首都はカラコルム。黒砂礫という意味の都市。*カネディアン🔱らは、「北元」の後の、ドチン・ドルベンの時代に倭国に渡航したのではないかと考えている。

《カネディアン🔱: 約400前に日本に渡航して来た蒙古系遊牧民。現在、金田(カネダ)地区に定住している人民の祖先だと考えられる 》

 

ウルスでも、国の概念というのはあったのかも知れない。ハーンが存在する以上、国は存在するし、単に縄張り程度の認識でも、ハーンの支配地域である以上、そこは国土であるとも考えられる。天神の子、ハーンが建てた理想的な「国」の「国土」を指すとも考えられる。

 

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元帝国=大元ウルス[モンゴルの国家]

元朝、ダイオン・ウルス、大元大蒙古国とも呼ばれる。第5代皇帝クビライが東アジアに建てた政権であり、以後モンゴル皇帝の称号はクビライの末裔が継承することになる。

 

大元ウルスの「大元」は易経の「大いなるかな、乾元」から採用したもので、乾元は「天、宇宙」を表しモンゴル系、テュルク系が崇める「テングリ」にあたる。

《引用:AIでウマ娘と化したオゴディのX》

 

 

前述したようにカナダオボー🐦‍🔥はモンゴル系遊牧民が作ったものだと考えられる。カネディアン🔱は大元蒙古国に於ける*主流民族であるモンゴル系遊牧民である。他のウルスの被支配民とは認識が異なる。自分は大元蒙古国の国民であり、土地は大元蒙古国の国土であると考えていてもおかしくはないと思うが。

《主流民族: 政権を担う民族》

このスマートフォンで元帝国の国旗の絵文字が出て来たら面白いものである。

 

 

・倭国で信仰されている天神について

 

カナダオボー🐦‍🔥の天神は、倭人の「天神」のひとつではないか?という疑問も持った。自分の勘違いで、倭人の天神信仰と、全く関係のない金田神社の長距離競馬神事を一緒くたにしている可能性もあるとも考えられる。この神事も、倭人の神事かも知れない。当時は武士もいたし、相撲神事と同じで、稲作民族の五穀豊穣を祈願する長距離競馬神事だった可能性もある。

 

これだけモンゴルの事ばかり考えていると、思い込みによる勘違いが生じる場合がある。自分は遊牧アディクトなのでそういう傾向にある。

 

倭人には「国土」を憂うという風習はないと考えられる。何故なら、倭国は「国土」の守護を祈願するほど、倭国国土全体が危機に瀕した事は歴史上あまりにも少なかった。倭国は長い歴史の中でたったの2回しか侵攻された事が無かった。

 

一度目は元寇(紛らわしくて大変申し訳ない)。しかしそれは、壱岐、対馬と九州北部の一部だけであり、倭国全土ではない。結果的に失敗に終わった。

 

もしこれが九州で、国土の守護を祈願する天神を祀る一角があるとすれば、元寇による侵攻からの守護祈願であっても不思議ではない。

 

もう一つの侵攻は第二次世界大戦の米軍による爆撃。これは日本国土が焦土と化した。カナダオボー🐦‍🔥がいつの時代に出来たのかは、正確には分からない。下手をすれば戦時中にただの日本人の村人が戦時中に、爆撃から日本国国土を守護する祈願をし、天神を祀り石を積み始めたのかも知れない。学問を奉ずる天神の方が古い可能性もある。

 

しかし、*金田村の人民の手書きによる天神祠の説明を読む限りではそのような事に起因するものでは無さそうである。

《*金田村(カネダ)と表記するのは、この一文では、倭人(日本人)目線のフィールドでこの村や祠を扱った為》

 

倭人の神観の天神は幾つか存在する。

 

⭐︎学問を奉ずる天神、菅原道真。

 

菅原道真の祟りを鎮める為に、「天の神」として祀った。「天満宮」というお社は、菅原道真を祀ったものである。

 

⭐︎高天原(タカマノハラ)の天の神

 

高天原とは、日本の最高神、天照皇大神(アマテラスオオミカミ)の統治する天界。

“天”の神の系統は高天原の神様。それに対して“地”の神の系統は、元々その土地におられ守護していた土着の神様、或いは、天の神の子孫で地にお住みになった神様を言う。

“天”の系統の神を天津神、“地”の系統の神を国津神という。天津神はヤマト王権の皇族や有力な氏族が信仰していた神。国津神はヤマト王権によって平定された人々(蝦夷・隼人など)が信仰していた神である。漢字で天津神を「天神」(テンジン)、国津神を「地祇」(チギ)とも言う。地祇は、*葦原の中つ国の国土の神とされる。天神は天界を守護し、地祇は国土を守護する。国土を守護するのは天の神などでは決してなく、地の神(地祇)である。

《葦原の中つ国: 高天原と黄泉の国の間にあるとされる世界》

《引用:Wikipedia》

 

⭐︎天照皇大神(アマテラスオオミカミ)

日本の最高神。これは「天」や「空」ではなく、太陽神である為、天神とは別物である。

 

⭐︎空の神、伊邪那岐命(イザナギノミコト)

 

空の神、伊邪那岐命(イザナギノミコト)、大地の神、伊邪那美命(イザナミノミコト)

イザナギノミコトとイザナミノミコトは夫婦で、イザナミノミコトは日本列島を産んでいる。

 

 

⭐︎十二天の「天部」

 

十二天(ジュウニテン)は、仏教の護法善神である。護法善神とは、仏法および仏教徒を守護する主に天部の神々のこと。護法神、あるいは諸天善神などともいう。仏教の法(ダルマ)を守護する者はダルマパーラ、漢訳では護法という。

仏教における「天」あるいは天部像とは、仏教流布以前の古代インド神話やバラモン教の神々が仏教に取り込まれ、護法善神となったものである。十二天とは、八方(東西南北の四方と東北・東南・西北・西南)を護る八方天に、天地の二天と日月の二天を加えて十二天としたものである。

 

帝釈天、火天、焔摩天、羅刹天、水天、風天、毘沙門天、伊舎那天、梵天、地天、日天、月天

《引用:Wikipedia》

 

⭐︎火雷天神(雷神)

 

日本における天神信仰は元々、雷神に対する信仰の事である。特に菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰のことをいう。本来、天神とは国津神に対する天津神のことであり特定の神の名ではなかったが、道真が没後すぐに、天満大自在天(テンマンダイジザイテン)という神格で祀られ、つづいて清涼殿落雷事件を契機に、道真の怨霊が北野の地に祀られていた火雷神と結びつけて考えられ、火雷天神と呼ばれるようになった。

《引用:Wikipedia》

 

⭐︎田神(火雷大神(ホノイカヅチノオオカミ)

 

田の神様、生産、生成の神様という色彩が強く、生産・生成や地域に貢献し生産の心の支えとなられた方が祀られている。

《引用: NPO法人 基山の歴史と文化を語り継ぐ会》

 

この田神というのも、日本における元々の天神である雷神(火雷大神)である。

雷の猛威に対する畏れや稲妻と共にもたらされる雨の恵みに対する農耕民族であった古代日本人の信仰から生まれた神と考えられている。

雷神、水の神、伊邪那美命の御子神、雨乞い、稲作の守護神。

《引用:Wikipedia》

 

ここでもう一度、金田村(カネダ)の天神祠の立札をおさらいしよう!

 

「この祠は国土を守護する天乃神と学問を奉ずる天神を祀り、五穀豊穣を祈念して創設された天神杜で*?に天神様という五穀豊穣の達?は天地の恵みと人々の英智努力によって稔るものである」

 

*読めなかった文字

 

この祠の天乃神は、この文章を読む限り、最後の田神=火雷大神=雷神と、菅原道真を祀った祠のようにも見えて来る。五穀豊穣を祈念して建てられた祠であれば、筋が通る。火雷天神(火雷大神)は、同時に学問を奉ずる神、菅原道真をも指す。しかし、もしそうであれば「相殿」という形にして、菅原道真と火雷天神をわざわざ分断する理由が解らないのである。

 

 

この天晒しの円形に形どられた範囲内には、2棟の石祠が建っている。一つは菅原道真で、もう一つは火雷天神なのだろうか?

 

火雷天神は、稲作の守護神である。国土の守護神の概念とは掛け離れている。

 

一つ、この文章から導き出せるのは、「……….学問を奉ずる天神…以下」は、筋が通る。「国土を守護する天乃神」をここから除けば、農耕民である倭人の信仰としての筋が通るのである。

 

問題の「国土を守護する天乃神」

 

これがもし、「国土を守護する地乃神(地祇)」であれば、倭人の神観に沿う。「天地の恵み」というのが、「菅原道真(火雷天神)」と「国土を守護する地乃神(地祇)」の神によるものとされれば、これも倭人の神観としての筋が通る。

 

金田村(カネダ)の人民は、「国土を守護する地乃神」と書くべき所を「天乃神」と誤って書いてしまったのではないか?とも考えた。

 

しかしこの円形の一角を、金田村の人民は「天神杜」と称する。「天地神杜」ではない。

 

「天神」同士を相殿にしてあるから「天神杜」である。だから誤って天乃神と書いたものではないという事がわかる。

 

 

金田村の「国土を守護するという天乃神」は、倭人の信仰する天神の神観のどれにも属さなかった。

 

倭人には天神が国土(地上世界・人間世界)を守護するという天神の概念は存在しない。

 

 

ところで、農民は天神ではなくて地神を信仰する。

 

 

「地神」とは大地を象徴する神様、十二天の一つと言われ、その信仰は神奈川県全域から静岡県東部にかけて顕著に見られます。

《引用:厚木市郷土博物館》

 

地神は農業の神でもある。

 

地神は十二天の地天だとされ、大地をつかさどる女神であって、これが仏教に取り入れられたものである。

《引用:Wikipedia》

 

金田村は神奈川県に存在する。金田村の人民が五穀豊穣を祈念するのであれば、地神を祀っていても良いと考えられる。

 

金田村の人民は、別の所で地祇や地神を祀っているのかも知れない。

 

 

・モンゴル国にあるカナダ型オボー

 

 廣田千恵子先生のインスタで、モンゴル国内で撮影されたオボー🦩がカナダオボー🐦‍🔥と似ていた。

 

 

廣田先生に、このオボー🦩はモンゴル国内の何処にあるのか質問をした。

 

オボーの形には、地域差があるとする文献があった為、カナダオボー🐦‍🔥に似た形状のこのオボー🦩のある場所が分かれば、*カネディアン🔱の出身地がどこだか分かる気がする。

 

《カネディアン🔱: 約400前に日本に渡航して来た蒙古系遊牧民。現在、金田(カネダ)地区に定住している人民の祖先だと考えられる 》

 

・廣田先生の答え

 

「実際この写真は、ウランバートルから車でゴビ方面へ向かい、アルタイ山脈を辿ってバヤン・ウルギーに行くという長旅のどこかで撮影しました。」というご回答を頂いた。

GPS機能がついているカメラではなかったので、正確にどこの場所で撮影したのか分からない状況にあったという。

 

偶然出会ったオボー🦩モンゴルの長旅では、今どこを走っているのか全然分からなくなりそうだが、この答えから推測出来る事は、旅の初めの方(ウランバートル近郊)と終わりの方(バヤン・ウルギー近郊)ではないと考えられる。それともう一つ、アルタイ山脈寄りでもないと考えられる。アルタイ山脈はランドマークになり得る。

 

写真を見る限りでは、ステップ(草原)地帯の、砂に覆われた丘の上にオボーがあるように見える。ステップの度合い(グラデーション)では*土漠よりやや緑の濃い所である。

《土漠: サラサラの砂ではなく、硬い土や石に低木や草が疎らに生える》

 

アバウトな分け方でモンゴル国の北の方か南の方かで分けると、南の方である。北は緑色のステップ地帯や緑に覆われた山岳、タイガ(針葉樹林)地帯。南は茶色寄りのステップ、土漠、ゴビ(砂漠)地帯。廣田先生の写真によれば、緑の濃い地域ではなく、比較的砂漠寄りの植生である。先生の通った道は、モンゴル国の北ゴビである。カネディアン🔱はこのような風土の故地を離れて倭国に渡航したと考えられなくもない。

 

 

・何故両者が似ていると感じるのか?

 

廣田先生が撮影されたモンゴル国内のカナダ型オボー🦩は、綺麗な円錐形ではなく、一番下の段の右端が長く見える。この写真はオボーの左端が切れているので、全貌が見えないが、それでも右端(片側の裾)が長く見える。

 

 

カナダ村🎪のオボー:カナダオボー🐦‍🔥は床部が円形で、直径約7m。スマホの計測アプリで計測。7月、8月に訪れた時、円形の周囲に雑草が生えているのに対して円の中には生えていない。見た限り、踏んだ限りだと、円の下には大きな石が多数埋まっている様子であった。円の中の土から直径15cm-20cm大ぐらいある石の一部がはみ出ていた。松とその他の木が植えられている。松は浅根性で、岩に直接生える事もある。寧ろ松は岩のような場所でなければ生きられない。という事はこの円形の下はどうなっているのか?この円形の下には砂利ではない大きな石がたくさん埋まっている。それも土深くまで。

周囲の雑草が枯れている。この枯れている範囲がこのオボーの本当の大きさだろうと考えられる。このオボーは、円からはみ出し、片側だけが長い。このような特徴から、元の形は廣田先生の撮影したオボーのようであったのではないかと考えた。インスタでたくさんのモンゴルオボー🦩を目にするが、カナダオボー🐦‍🔥の様に片裾だけが長いというものは見た事がなかった。カナダオボー🐦‍🔥は、何故これらの石堆が埋まった状態であるのか。それは長年に渡って川の氾濫により土砂が堆積しオボーの下の部分は土に埋まった。川は現在の水面の位置よりも高かったと考えられる。

川砂利の過剰採取とダム建設による砂利の供給力低下で、橋脚が剥き出しになるほど砂利が少なくなり、川の水位も低下した。

 

 

 

 

・カネディアン🔱が約400年前に倭国に渡航して来たと考えた理由

 

菅原道真が祀られた石祠と、もうひとつの国土を守護するという天乃神様が祀られた石祠。

菅原道真以外の天神の存在、それ自体が異国の神様だと考えられた。

 

何故、カネディアン🔱が約400年前の倭国に渡航したのかと考えられるのかというと、オボーに石堆を使うのはチベット仏教採用後から始まる。石堆を作るのは元々チベットの慣習だった。彼らが倭国に渡航したのは16世紀末から1641年(倭国の鎖国)ではないかと考えられる。元帝国滅亡後、北元の時代を経て、ドチン・ドルベンの時代(1388〜1691)に即位したアルタン・ハーンの在位中にオイラトに侵攻してカラコルムを支配下に置き、チベットやカザフスタン方面にも進出した。

 

1578年 アルタンはチベット仏教ゲルク派の高僧ソナムギャンツォと会見。16世紀末になると、シャマニズムに対するチベット仏教の排斥活動が進み、モンゴルのシャマニズムは衰微に向かった。とくに仏教受容が早かったのは、アルタンが統治した青海からオルドス、山西にかけての地域だった。16世紀の末から17世紀初頭。アルタンとソナムギャンツォとの会見からわずか20年程でモンゴルに仏教が広まった。

 

カネディアン🔱の中には、シャーマンはいなかったと自分は考えている。カネディアン🔱は仏教徒である。しかし、石堆形のオボーを作る。モンゴルの仏教受容後、オボーの祀り方にも仏教様式が取り入れられ、様々な制約が進んだ。テングリ信仰を依然続けながら仏教徒として生きていた。その時代、シャーマンが仏教から弾圧され、ついにいなくなってしまった。現代のカナダ村🎪にもシャーマンは存在しないであろうと思われる。

 

 

かつては石堆が高く積まれ、ルンタ(rungta)(風の馬)と言われる*五色の布が飾られ、木の枝などが刺してあり、そこには青い布が巻かれていたのかも知れない。

 

*⬜️🟦🟥🟩🟨

 

立札は、市の教育委員会ではなく、ここの村人が書いた。もし、市の教育委員会が説明書きを書いたら「国土を守護する天乃神」とは記さないだろうと思う。

 

祠や石祠の置いてある場所で、床の部分が円形になっている時点でそこは、石堆のオボーをどけた跡に見えた。通常そのような場所の床が円形である所は殆ど存在しない。

 

よってカナダオボー🐦‍🔥は、倭人によって建てられたものではない。カナダオボー🐦‍🔥にはモンゴル語の正式名称があるはず。

 

 

・まとめ

 

日本各地の集落には、独自の風習や神社祭祀がある。そのようなものをわざわざ突き詰めていくと、そこ独自のものではなく、日本発祥とも限らずユーラシア大陸の何処かと同じ事をやっている可能性があるという事が分かって来る。ユーラシア大陸から渡航して、ここに根付いている可能性もある、つまり、ユーラシア大陸にルーツがあるという事。日本人は単一民族・一枚岩ではないと私カルガリーは考えている。

 

例を挙げると、埼玉県新座市の新座とは、かつて半島に存在した“新羅”という国を意味する。同じく埼玉県の高麗郡の高麗とは、新羅と同じ時期存在した“高句麗”という国を意味する。古代朝鮮半島人ディアスポラ(オールドカマー)が倭国に存在するなら、中世モンゴル人ディアスポラ(ミドルカマー)が倭国に存在していても不思議ではない。カナダ村🎪も、“カナダ”とかいう珍妙な単語ではなくて、“蒙古”の国の名称を冠した地区名称にすべきかも知れません。新羅、高句麗が国なので、これも“蒙古村”に改名しようと考えている。カナダという単語はメルキト部族の言語で“村”を意味するので、外交問題に発展するのではないかと内心ヒヤヒヤ。幸いカナダと自称する部族などが現在では確認されていない。もしカナダ族なるものが存在したら、外交問題にも発展するだろうし何らかのトラブルが避けられなくなるだろう。

 

カナダオボー🐦‍🔥の説明が終わったので、以後はカナダ村🎪を蒙古村🎪と変更する。

 

 

非常に長い文章で申し訳ないと思いますが、こんな面倒くさい記事のご精読ありがとうございます😊

 

土地の主という意味のThe Delkhii bandの曲

 

 

《参考文献:特集◎モンゴルシャーマニズムの世界から モンゴル帝国時代におけるハーンたちの世界観について ソーハン・ゲレルト・早稲田大学モンゴル研究所客員研究員》

 

《参考文献:東海学院大学紀要 7(2013)  モンゴルのオボーの歴史 今井秀周。》

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宮ヶ瀬 清川村

2024年06月01日 | 自己満

だいぶ前に宮ヶ瀬湖畔園地に行った。

 

今日は本厚木駅5番乗り場から宮ヶ瀬行きのバスに乗り、終点の宮ヶ瀬湖まで行った。先日はその途中の「上飯山」で下車した。

 

牧民の遺構が見つかるか見つからないかは、天の采配が大きいという事で、遺構探しに凝らなくてもいいと思った。

 

*カネディアン🔱が倭人から略奪し、手に入れた和種馬や家畜の脚質は、日本の山勝ちな地形に適していて、山岳地帯を越える事も出来たのではないかと思う。

《カネディアン🔱: 約400前に日本に渡航して来た蒙古系遊牧民。現在、金田(カネダ)地区に定住している人民の祖先だと考えられる》

 

 

倭人は牧畜目的の家畜を飼育しておらず、農耕用か荷運び用の牛🐮や駄馬🐴非常食用の山羊🐐などを飼育していた。

 

峠を越えて、長野、山梨へ足を伸ばしていたのかも知れない。

 

山を登れど登れど更に高い山が現れる。終点の宮ヶ瀬に到着。

 

宮ヶ瀬ダム🦫は、中津川に完成した首都圏最大級の人造湖、ダムである。現在、神奈川県に欠かせない水源地となっている。

 

宮ヶ瀬のバス停を下車後すぐそこに宮ヶ瀬湖畔園地がある。ここは親水地で、芝生広場や、吊り橋、池のある庭園、カヌー🛶や焼き肉などが出来る場所も設けている。カヌー🛶は庭園の池で出来る。遊覧船に乗ってダムを航行する事も出来る。

 

バス停を降りて山と芝生を見渡す景色

なんて雄大な景色なんだろう!

 

宮ヶ瀬ダム🦫

 

宮ヶ瀬の未来を見つめるモミの木

 

説明書

群馬や長野のモミ🌲は、このような温暖で高温多湿な場所では難しいのかも知れない。

カネディアン🔱の家畜も、こんな高温多湿な相模國なんかより、長野・群馬など高原の方が快適なのかも知れない。

 

長野・群馬まで夏営地を求めて移動した年もあったのかも知れない。

牧民はその年の気候に合わせて営地を変更する。ある年はカナダ地区🏹🔥(ダルハン地区🏹🔥)、ある年は信濃國(長野)

 

庭園の池。この時期も良い。切り拓いて人工的に作った空間だが、それも良い。向こう側に見える疎に木がある所に馬を放牧したら絵になる。

 

吊り橋

 

池に浮かぶ島

 

吊り橋からのダム🦫

 

今日は、ダムの水が少ない。ダムの縁の薄い緑色の部分何だろう?鉱物にも見える。

 

吊り橋全景

 

この辺り一帯には元々、モミの木が自生していたらしい

 

自生していたモミの木🌲

ここ宮ヶ瀬は、長野のような寒冷地ではないがモミが自生するような植生であった。

先ほどのモミの木とは違う種類なのかも知れない。

 

モミの木の説明書

 

みやかぜみーや館に入る。ここは、クラフトなどの工房。

 

ネズミ🐭自分にはこのような個体同士の関係性が感じられるモノは作れない。

 

 

清川村・宮ヶ瀬水の郷交流館に入る。ここは歴史的な遺物や逸話などを展示している。

 

宮ヶ瀬の七不思議というコーナーがあった。そのひとつに、おとぼうが淵というものがある。

 

 

「オトボウよオトボウよテンゴボウが負われて連れていかれるぞい」

 

自分はこれを見て一瞬、何これ?と思った。*オトゴンテンゲル山🏔️(エンフ・タイワン)というものを連想してしまった。

《オトゴンテンゲル山🏔️: モンゴル国🇲🇳西部ザブハン県にあり、ハンガイ山脈に属する。標高4,008m。古くから神聖な山として信仰されている。》

 

考えられるのは、カネディアン🔱の父親と「オト坊」などと名付けられた息子との日本語での会話。「テンゴ坊」というのは別の息子ではないかと考えられる。

 

カネディアン🔱という蒙古人🇲🇳アイディンティティーを持ちながら、倭人と共存する複雑な立ち位置を表しているのではないかと考えられる。

家の外では日本語を話し、息子には蒙古名を残したいという想いがありながら、対外的には「倭人」として生きなければならない為、倭人男児にありふれた「坊」という呼称でよんでいると考えられなくもない。そして、山岳信仰のとても強い家族なのではないか?

 

或いは、倭人と共存するカネディアン🔱僧侶(チベット仏教僧(ラマ))は一般家庭よりも更に複雑な立ち位置であった。「〜坊」は僧侶の呼称。オトボウ、テンゴボウは、山岳信仰オトゴンテンゲル山🏔️信仰を彷彿とさせられるが、人名に坊をつけているのだろう。これは僧侶同士の会話という事が考えられる。状況と時代背景を考えると、平穏な話題ではない。彼らは外で日本語ではない言語を喋っているところを倭人に見つかると、身が危険である。江戸時代は異教徒と異民族に対する弾圧が苛烈だった。前者の親子でも、平穏な内容の話題とは限らない。

 

将軍徳川家と言われるが、正確には(征夷大)将軍徳川である。征夷大将軍は平安、鎌倉辺り迄で終わってしまい、蛮族が征服された時点でいなくなってしまったと勘違いする。

 

「征夷大将軍とは、東方の「蝦夷(蛮族)」を征討することを任とする大和朝廷の役職である。 権限の大きさから臨時にしか置かれなかった。 後に、武家の棟梁の称号となり、源頼朝の鎌倉幕府の頃より、武家政権の為政者としての意味を持つようになる。」

《引用: Yahoo JAPAN》

 

しかし、将軍とは、江戸時代になっても(征夷)の意味が含まれていた事が分かった。単にMilitary leaderを意味する武家政権の為政者ではない。

徳川家はMilitary Leaderであり、倭人以外の民族を討伐する役割もあった。倭人以外とは、外国人移住者、倭人化を拒む在倭異民族を意味する。徳川家は、有事の芽を摘む、紛争の芽を摘む為に、異民族を討伐していた。幕府としては天下平定の為、倭人一色にしたかった。

 

倭族とは、日本に於いて、時の主流民族を指した。日本の主流民族とは、戦で政権を勝ち取った民族を指す。邪馬台国の倭族と、大和政権(朝廷)の頃の倭族と、徳川時代の倭族はそれぞれ全く違う血統的種族であった。日本は昔から平和だったと言われるが、戦争ばかりをしている。

 

倭人というのは、ある郷土史資料によれば、倭族化した人を言う。元々血統的には異民族だが、倭族と同じ慣習で生きるようになり、日本語を話すようになり、倭族と同じ宗教に改宗し、倭族に吸収されてしまった人達をいう。

 

自民党一党独裁に通ずるような気もする。

 

オトボウ、テンゴボウの話に戻る

淵の近くで息子に語りかけている男の声が、偶然通りかかった漁師の耳に入り、漁師はこれを、淵の中の魚が、自分の悪口を言っていると勘違いして逃げ出したと解釈できる。

 

或いはそれと同様の会話を僧侶がしていた所を偶然漁師が通り掛かった。(以下同文)

 

淵の中の魚同士の会話で、ある魚が「オトボウ」という名の魚に話し掛けている。「テンゴボウ」という大魚が捕まえられ、背負われて運ばれていくと言う。漁師は、大魚を連れて行くと祟りなどが起きると思い、魚を置いて逃げ出してしまったのかも知れない。

 

昔の倭人には、自然界と密接に共存していると考える精神世界があった。

 

いずれにせよ、日常的に耳覚えが無い言葉なので不気味に聞こえたのであろう。

 

オトゴンテンゲルという言葉を知らなかったら、これを見ても反応できなかったのかも知れない。

 

 

 

昔の倭人は、現代では分かりずらい感覚の中で生きている。

 

遠くに見えるとうもろこし畑が、敵の槍に見えて自決した話などが書かれていた。

勝ち目がない戦だと思えば、敵を探る事や逃げる事を考えず自決する。

 

敵に囲まれた大将は、仲間の為に投降する。自分が犠牲になれば仲間の命を助けてくれると敵を信じる。投降した自身は殺されると分かっている。

自分が死んだ後、仲間がどうなるか責任が持てない。敵は敵だから裏切るに決まっていると思うが、敵も律儀に、自己犠牲の精神を重んじ、仲間を殺す事はなかった。

 

昔の倭人は、そのような精神で生きていた。

 

宮ヶ瀬の歴史

 

鎌倉から江戸の部分を抜き出す。

 

宮ヶ瀬を開墾したと伝承される人物は、井上角之承(イノウエカクノショウ)という。

 

鎌倉時代を過ぎた頃の宮ヶ瀬は足利の領地だった。今までに二度開墾されたという

 

宮ヶ瀬は江戸時代 天領(幕府直轄地)

その為、税収が安定していた。

 

歴史博物館の存在がとても有難い。オトボウ・テンゴボウに出会えた事もそうだが、歴史が調べてあるものがまとめてそこに置いてあるという状態がとても有り難かった。

 

清川村を経て帰る。

カネディアン🔱はこの辺りで狩猟をしていたのだろう。清川村は細長い構造の村である。山間部はどこもそう。

 

 

超越した者が、自分の注意を引こうとする力が働いているような気がする。

カネディアン🔱の行動範囲が限定されていない事や、営地をランダムに選定していた可能性のある事を考えると、どこでカネディアン🔱に出くわすか分からない。

 

普通、点が先に現れてそれを繋ぐ線を考えるものだが、自分には線が先に見えていたが「点」が見つからなかった。最近になって、線上に「点」が現れ始めた。

 

オトボウ、テンゴボウのおとぼうが淵の逸話は、今に伝える暗示を含んでいる。オトゴンテンゲル🏔️に関するメッセージ性がある気がする。

煤ヶ谷や宮ヶ瀬は山岳地帯である。

 

オトゴンテンゲルと直接関係が無くても何かありそうである。

 

この逸話で、自分たちの存在を後世に伝えたかったのでしょうか?

 

実際には謎の声も漁師も無かったのかも知れないけど。オトボウとテンゴボウを連呼する事で人々の注意を引く意図が垣間見える。

 

全く関係ない場所で込み上げて来て、堪えるのが大変だった。他人がいて恥ずかしかった。

 

江戸時代にはこういう話がめちゃくちゃ多い。

 

テンゴボウはどこに連れて行かれてしまったのか?

 

オトボウ、テンゴボウは多岐に渡る解釈が出来る。

 

「オトボウよオトボウよテンゴボウが負われて連れていかれるぞい」

 

韻踏みをしている。ラップの一文にも聞こえる。この歌詞の続きが知りたい。

 

ここ(宮ヶ瀬)迄来て再度カネディアン🔱に真正面から遭遇した。

 

以前、歩き回る事は無駄で馬鹿馬鹿しいと書いたが、歩き回る、出掛けるなどしないと得られない情報もある。これが貴重であったりする。

 

決してネットには載ってない事も多々ある。

 

ここ最近カネディアン🔱🇲🇳が出現する。

 

カネディアン🔱出現事例

 

・厚18系統 飯山行き路線沿線で出会った謎の石群を後で見返したところで、カネディアン🇲🇳は実在したと確信出来た事から始まる。石囲いの跡ではないかと確信。

 

・廣田千恵子先生が上げたインスタで、モンゴル国内🇲🇳で撮影したカナダ型🏹🔥かと考えられるオボー☸️🕉️を上げていた。

 

・ブルーオーシャンというラジオ番組のパーソナリティ住吉美紀氏が、自称「カネーディアン🔱」と連呼していた。

 

・清川村 宮ヶ瀬の観光地の歴史博物館で見た宮ヶ瀬の七不思議のひとつに「オトボウ オトボウ テンゴボウ」という声が聞こえたという話。

 

宮ヶ瀬湖畔園地は、連れや相棒など懇意にしている人と来る事を勧める。宮ヶ瀬界隈はバスより車での移動が良い。

 

オトゴン・テンゲル山。インスタからの引用であるが、その美しさがよくわかる。

長文のご精読ありがとうございます😊

 

《カナダ地区🏹🔥: 倭国にある地区名称。金田地区(カネダ)というものが倭人が定めた行政区画である。カナダ地区というものはモンゴル牧民目線でなんとなく定めた地区のひとつ》

 

*「カナダ(金田)🏹🔥」と使うのは、牧民が鏃などを盛んに鍛造していた事を意味するが、幕府軍や奉行などの火縄銃と牧民らの弓矢🏹と戦ったら戦果は一目瞭然、牧民らは火器の餌食。恐らく牧民らが幕府軍と相対し紛争が起きた時、彼らの約半数は戦死しただろうと考えられる。元寇の頃は「てつはう💥」という火薬型の火器を使ったが、西洋人の開発した銃は持っていなかった。これはモンゴル本国にいる人も同じであった。

 

ロシアのコサック軍とモンゴル軍が戦った時と同じでロシア軍の火縄銃が弓矢のモンゴル軍を打ち破った時のように、鉄器は火器には勝てなかった。

 

ご精読ありがとうございます。

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厚18系統 上飯山行き

2024年04月19日 | 自己満

少し昔にボルシチがロシア料理かウクライナ料理かで揉めて、料理屋のアカウントを袋叩きにして、削除に追い込み、店名まで変えさせるというナンセンスな事態が起きた。

 

元は「ロシア料理とパンの店 ××」だったものが「スラヴ料理とパンの店 ××」に変わっていた。

この料理店は、スタローヴァヤ(食堂)を意識したという。

 

これは、自分だったら店名について以下のように提案する。

 

特定の国や民族名を出さずに、そこの地名+××(店舗名)にすればいいんです。

 

「西武東伏見 ××食堂」

そうすれば円くおさまると思います。

 

地名というのはそういう意味ではとっても便利である。スタローヴァヤは食堂を意味するので、何の遜色もない。(*伏見というと京都と勘違いする人も出てきて、別の意味でボコされる)

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先日は、厚木市の中津川と荻野川にある台地を走る国道412号沿いを実踏してきた。

 

この台地は、冬営に適する場所が幾つかありそうであった。しかし400年前の*カネディアン🔱に直接聞き取り調査した訳ではないので妄想でしかない。

 

《カネディアン🔱: 金田(カネダ)地区という蒙古集落に定住する人達の祖先。》

 

 

牧民は基本的に世帯単位で勝手勝手に動き、定住村落などを作らず、離散した形で生活をしている。営地は各世帯主が決めるものである。

 

厚木市内は地図で見た限り冬営地に適した箇所が非常に多く見える。

 

北西の風を防げる山と、その近くに河川などが多い。

 

 

 

バス会社のバスルートを表示して遊んでいた。バス会社の地図を見ると何をどう解釈したら良いのか解らない。

 

iPhone の地図は、高低差は全く描かれていないが、山と川と緑地が省略される事がなく書かれている。

 

バス会社のバスルートマップは、主要な川以外は重要視されておらず、荻野川などは灌漑農業用水並みに細く描かれている。

何処が山なのか解らないほど、山に色が塗っていない。主要な山には山を表す記号と名称が書かれている。緑色の土地は、公園かゴルフ場か墓地などである。しかし、拡大すると等高線があるのが分かる。そして、ランドマーク的なものや目的地が目立つように書かれている。

 

自分は、山と川などを基準に見ており、何の川と何の川の間に何番の国道や県道が走っているのか?道の行き止まりはどこか?地形はどうなっているのか?という目線で地図を見ている。

 

バス会社の等高線は有難い。

 

厚木のバスは面白い。本厚木駅前では様々な行き先のバスがあり何処へ向かうのか。

 

今日は厚18系統の上飯山行きに乗る。小鮎川沿いの県道60号を行くバス🚌。終点、上飯山迄行く。地形などを見てみたいからである。

上飯山は温泉地♨️である。この路線の地域も、田地などではなく、平地、台地である。戸室周辺には小山があり、ここの山陰も冬営出来そうである。橋場のバス停辺りから山勝ちになっていく。

 

 

この道をそのまま行くと清川村に行く。

 

 

猿🐒だの熊🐻だの亥🐽だの、獣被害が凄い地域だ。

 

小鮎川が流れている。鮎が獲れるのだろう。

 

 

 

小山付近の開けた地。ここは小鮎川からも近く、これも冬営には良いような気がする。

 

 

この開けた地から、横断歩道を渡ったすぐ近くに、石がゴロゴロ置いてある。かつて*石囲いだったものの残骸だろうか?

 

《石囲い: 遊牧民の冬営地にあると云われる石囲い。この石囲いは家畜の糞や薪を囲うものである。糞や薪は家畜の防寒用の燃料になる。》

 

 

道祖神の石碑を写真に収めていないが、道祖神があった。道祖神があるという事は「古道」。いつの時代からあるのかは解らないが、近年新規開拓された道ではない。ここには人の往来があった。県道60号は古道だったのか?

 

以前実踏した「上三増」に行く県道65号も道祖神があり、古道である。

 

「道祖神がある道は古道」というのは「アキドチャンネル」のアキド氏から得た情報。

 

牛はどのくらいの勾配迄耐えられるのだろうか?山羊はどんな急斜面でも選り好みせず、歩行出来る。馬は、日本馬(和種馬)は、山岳地帯向きの脚質の種の骨格があれば、山岳地帯も乗り越えられる。モンゴルのモウコウマよりも遥かに日本に適した馬だ。

 

家畜がある程度の勾配に耐えられて、古道というものが有れば、カネディアン🔱は何処にでも行ける。厚木近郊の、水菜(もみじクッキー)の左半分の山のどん詰まりから抜け出る事が出来る。

 

家畜は機関車ではないのでそこまで難しく考えなくて良いのではないか。彼らは、自分が考えるよりも遥かに日本の地形に適している。

木曽馬などは蒙古草原馬だけではなく、*タルバン系高原馬のルーツもあると言われている。

 

《タルバン系高原馬: 現在の中国西部に存在していたと言われる馬で、漢の武帝の頃、汗血馬、千里馬、天馬などの駿馬を得た頃に中国に入ってきたとされている。》

 

高台に登る急な坂を見つけて登る。

 

 

畜舎発見。匂いからして牛。

 

 

敷地内の犬が吠える。大丈夫。犬は繋いである。言いたい事は沢山あるのだろうが、人間(主)に密告したりはしない。自分は牛を泥棒するつもりはない。

 

ここは北西の風を防げるような気はする。この日は南風が強かった。高台に開けた地が広がる。

 

 

 

近くに小鮎川がある。

 

 

高台に広がる土地

 

 

この高台にも石囲いの残骸を妄想させられる石群がある。

 

 

少し高台に神社を見つける。赤いので稲荷神社だと思うが、登って見てみた。狐が祀られていたので稲荷神社だった。

 

ファミマを見つけた。遠出先で出会した自販機やコンビニの存在は本当に嬉しい。

 

しかしこの店良い景観立地にある。

 

 

 

 

これでは太る街道まっしぐらだ。健診で空腹時血糖値が高く糖尿病一歩手前だと言われた。普段から甘いものや穀物をそんなに食べないのに。歳もあるし体質もあるな。

 

 

 

遺構の話に戻る。遊牧遺構との出会いは、超越者による采配が大き過ぎる為、自分の思い通りには行かない。

 

遊牧民もそれと同じで、自分で計画して放牧地、営地を選択するが、モンゴルとは違う日本の自然環境下や社会環境下では自分の思い通りにならない事の方が多かった。以前の記事ではカネディアン🔱牧民の気まぐれに振り回されているように感じていた。しかし、それは逆で、牧民自体が日本の自然環境の気まぐれに振り回されていたのではないかと思える。

 

モンゴルの環境に於ける牧民について書かれた文献は、ほとんどアテにならない。牧民自体がモンゴルと同じにしようとしても、それが叶わなかった事が伺える。

 

だから、遊牧遺構を敢えて探そうとはせずに、そこら辺を散策して、運良く遺構が見つかれば良いという程度にする。カネディアン🔱牧民の判断で全てを決めた事である。

 

自分が考えて、当てられる事などはほとんど無い。

 

言い方を変えると、個人の考えている事を言い当てるのと同じくらい難しい。

 

カネディアン🔱個々人の家庭の事情により、違うのである。

 

カネディアン🔱は一括りに出来る集団ではない。一括りにした方が幕府とか行政にしたら扱い易かっただろう。

 

 

 

ここは「宮の里」という場所に近い。そこへ行ってみる。

 

定牧場がよく見える。牛舎から、牛の声が聞こえた。

 

 

 

普段、ここで牛を放牧しているのだろうか?

 

水が溜まっている所がある。牛が飲む水だろう。

 

宮の里地区は高台にある。こんな事はスマホの地図には書いてない。宮の里は、飯盛山(メシモリヤマ)⛰️と言われた山であった。これは江戸時代から言われ始めた。平安時代には印山と言われていたようである。石碑に書いてあった。

 

飯盛山にしても印山にしても倭人がつけた名前だ。これでは、この世にはまるで倭人しか存在しなかったかのように思える。しかし、カネディアン🔱牧民も実在していて、この山と関わりがあったのかも知れない。

 

まずは公園へ。公園などに入る時、不審者に見られるのではないかと気になる。

 

公園に*テングリ(天神)を祀るオボーがあるだろうと安易に考えている。

《テングリ: 遊牧民が信仰する天の神》

 

 

 

確かに公園のある場所と、テングリを祀るオボーは必ずしも同じではない。寧ろ神社仏閣の方がテングリを祀るオボーがあるに相応しい所だ。

 

この地区(飯盛山)のいちばん高い所を目指す。

 

高い場所からの景色。

 

 

それでも自分は遊牧遺構を探そうとする。無駄な努力。

 

 

 

ここが徒歩で行かれる範囲内での宮の里地区で最も高い場所。先日行ったまつかげ台よりも標高が高そうである。

 

 

 

もしテングリを祀るオボーがあるとすれば、この崖の上である。

 

熊野神社⛩️があった。必ずしも神社仏閣というのは山の一番上にあるとは限らない。

 

 

鳥居の位置。

 

 

参道ではなく、駐車場に面している。

 

すぐ隣の稲荷神社⛩️。由来などが書かれている。

 

 

宮の里地区の山を降りて、荻野運動公園の脇を通る道を通って、荻野川を渡り、国道412号に辿り着く。

 

荻野川を渡る前に、石囲いの残骸のような石群があった。

 

 

国道412号沿いにはこのような石群が全く見当たらなかった。

 

以前訪問した、上三増(カミミマセ)地区にも石がたくさん転がっていた。

 

上三増訪問の記事

冬営地 - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

上三増での石は、かつて庭石🪨として使われていたが、住む人がいなくなり、家が解体されて無くなってしまったが庭石だけが残って端に寄せられているという印象を受ける。

 

しかし、この県道60号線にたまにある石群は、敷地のような場所ではなく、ランダムに、そこらへんに転がっているので庭石🪨ではなさそうである。

 

本当にカネディアン🔱が使った、冬営用の燃料を囲う石だったのでは?と思えてしまう。石群がある場所が、冬営に適した、風が避けられて水の近い場所が多かった。

 

今更ながら、カネディアン🔱は本当にここに存在したとしか思えない。

 

石は何百年でもそこに在り続ける。この辺りは、開発が進んでいない地域で、爆撃機の戦火も免れている。

 

かつては綺麗な囲いだったのかも知れないが、他人が持って行ってしまったのだろう。

 

他の場所にも妙な石群があったのかも知れないが、宅地開発などで撤去されてしまった。

 

この石の成分などを調べれば、何処から持ってきた石なのか解るかも知れない。そういう事が出来るのが研究機関である。自分にはどうする事も出来ない。

 

家に帰って一日の散策を振り返った。

 

遊牧遺構は偶然出逢えればそれでいい。と考えていたが、写真を見直して、石群を見て、遊牧遺構に出逢ってたやん。と初めて気がつく。

 

 

 

この散策と何も関係がないが、モンゴルに*カナダ型🏹🔥ではないか?と思われるオボーがあった🇲🇳

(カナダ型オボー:倭国カナダ地区🏹🔥にあるものと同じ型のオボー)

 

 

(🐫本当はダルハン型🏹🔥と書きたいが、このオボーも“ダルハン🏹🔥”という都市も互いにモンゴル国🇲🇳に存在する。紛らわしさを回避する為、“カナダ🏹🔥”という倭国にある地区名称を使う。倭人が作ったわけではないので“カネダ”とはいわない。倭語読み→カネダ、蒙古語読み→カナダ)

 

*カナダ:モンゴル国領土内にこの地名があれば、更に紛らわしさ回避する為に別の名称を考えなければならない。”カナダ(Kanada)”或いは”カナタ(Kanata)”という地名は、ロシアの沿海州に実在する。ネットで得た情報なので信憑性に欠くが、”カナタorカナダ”は、メルキト部族の言語でいう、一時的な近隣共同体、一時的な村落共同体、モンゴル語でいうところの”ホト”と似たような意味である。

 

ホトもカナタも、ゲルなどの移動式住居がある特定の季節に於いて、集中する傾向にある場所を意味する。メルキト部族は、チンギス・ハーンの時代が始まる頃のモンゴル族の怨讐部族である為、自分としてはこの”カナダ”という名称に少なからず抵抗を覚えてきた。

 

金田(カネダ)という倭語名称を、モンゴル語に変えたが、それが怨讐メルキト部族のところの言う”村”のような意味になってしまう事が何とも遺憾である。だから早くカナダというメルキト語に替わる意味の語を見つけたかった。蒙古族も敵が多い。

 

メルキト部族の残党が沿海州にいるような気がしてならない。メルキト語のような地名が残っているということは、その可能性が高い。

 

カナダホトを読みで訳すると、村村という意味になってしまう。

色々とねじれが起こる為、自分も頭の中がごちゃごちゃになる。自分が遊牧民の戦争に巻き込まれているような錯覚に陥る。

 

廣田千恵子先生の続き文章。

 

《引用: chieko_hirotaインスタ》

 

廣田千恵子先生は、『カザフ刺繍』の著者であり、モンゴルのバヤン・ウルギー県などをフィールドワークする。モンゴル国在住のカザフ人と主に関わる。

 

廣田千恵子先生、このオボーと出会ってくれて、撮影してインスタに掲載して頂きありがとうございます。

 

オボーの形にはある程度の地域性があるらしい。

だから“ダルハン型オボー”と言ってしまうと、ダルハン地域型のオボーという解釈が出来る為、問題になる。

 

このオボーのある場所が分かれば、カネディアン🔱の故郷がある程度特定出来るかも知れない。

 

 

床部が円形で、周囲に雑草が生えているのに円の中には生えていない。実際円の下には大きな石が複数埋まっている様であった。

 

松とその他の木が植えられているが、松は浅根性で、岩に直接生える事もある。寧ろ松は岩のような場所でなければ生きられない。

周囲の雑草が枯れている。この枯れている範囲がこのオボーの本当の大きさ。

 

往時は石堆が高く積まれていたのかも知れない。

 

廣田千恵子先生が撮影したオボーを見た瞬間、カナダオボーと似てると直感した。

 

似ていると考えた理由を後日書くつもりである。先生は自分とは違い、モンゴルをフィールドワークしている研究者である。

 

自分は廣田先生のインスタの文章をモンゴルを知る手がかりとしている。

 

しかしこのオボーが”カナダ”などというメルキト部族の言葉と丸被りする名前で呼ばれてしまう事は不憫である。

カネディアンという名称も考えものである。まるでメルキト人のように思えなくもない。

 

長文のご精読ありがとうございました😊

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半原線 厚01系統の散歩

2024年03月29日 | 自己満

小林製薬製の紅麹入りのサプリメント服用による健康被害の件で、小林製薬が「未知の成分が検出された。」と発表した。

 

この“未知の成分”というワードに、不穏なものを感じてしまうのは、自分だけだろうか?

 

直感的に人為的なものを感じてしまった。

 

ファミマにも紅麹を使用した製品を販売していたが、健康被害は報告されていない。

 

いずれにせよ、これは小林製薬の原料の管理責任問題である。

 

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前回は厚木バスセンターから半原バスセンター迄行き、服部牧場で多大な時間を費やした。

 

今回は前回と同じバス路線に乗り、上荻野、まつかげ台、みはる野、鳶尾などの諸地区を歩き回る予定だった。

 

実際に歩き回ったのは、荻野川より東の上荻野地区。荻野川付近、まつかげ台、泉バス停付近。

 

半原線 厚01系統は国道412号を走るバス。

ここは、中津川と荻野川の間にある台地である。バスの車窓から見た限りでは、このコースの地域は冬季の風を避けられる山陰があり、川が遠くない場所に流れている。川迄の段丘が緩やかで、足労がキツく無さそうに見える。冬営地としては適切な場所だと思える場所である。

 

「上荻野」という地区は広大である。

 

相州病院の脇の緩い降り坂があり、低い場所を目指して歩く。

 

護岸が決して高くはない小川が流れていた。

 

 

荻野川

 

バスの車窓からの予想通りで、この川は崖っぷちではなく、台地から川迄の勾配がなだらかで、家畜の足にも優しく、冬営地からここ迄の足労も楽である。現在は護岸工事の為、川位置が下がっているかのように見えるが、400年前は川の水面の位置が今よりも高かったのであろう。

 

以前散策した角田(スミダ)地区とは違い、荻野川の両岸は田地ではなかった。川の東側は台地であった。この地域に400年前、定住農耕民はいたのであろうか?いたら非常に厄介である。

 

*カネディアン🔱は定住農耕民とは棲み分けていたと考えられる。

《カネディアン: 約400前に日本に渡航して来た蒙古系遊牧民。現在、金田(カネダ)地区に定住している人民の祖先だと考えられる》

 

先日テレビでイラン🇮🇷の遊牧民の事が放映されていた。この牧民一家は家畜を数百頭擁し、幾つもの中継地点を経て目的地へと移動する。

その途中、家畜が定住農耕民の村に立ち入ってしまい、夜中に牧民一家の主が、農民のおっさんにボコされるという事件が起きる。最終的に目的地に辿り着くが、今後も伝統的な長距離畜群移動を自分の力で行いたいという意志を固くする。

昨今主流になったトラックや列車での家畜移送は行わない方針とする。

 

このような事例から、カネディアン🔱牧民もイラン牧民と似たような経験をしていると考えた。

 

江戸時代中期以降の、倭人(大和民族)の田人(稲作農耕民)による入植(新田開発)が行われるよりも前の時代、どこが定住農耕民の居住地であったかをどのようにして調べたら良いのか?

 

カネディアン🔱は、倭人の入植期から自由を奪われ夏営地のひとつ、*カナダ地区(ダルハン地区)が彼らの抑留地となり土地に縛りつけられ、農業従事、つまり年貢搾取(奴隷搾取)されるようになった。

《カナダ地区: 金田地区(カネダ)というものが倭人が定めた行政区画である。カナダ地区というものはモンゴル牧民目線でなんとなく定めた地区のひとつ》【ダルハンの意味はモンゴル語で鍛冶屋といい、金田と同じ意味】

 

厚木市郷土博物館にもう一度足を運んで、どの地区からの寄贈品があるのかをもう一度調べる。郷土博物館は倭人農耕民の歴史しか相手にしていない。昨年は、「金、鉄展」をやってたので、武士の鎧兜や刀剣などの展示もあったが、通常は武士に関する展示は、非常に数少ない。

 

大半は、土器や農民に関する物、近代の生活に関するものなどである。

 

金田地区からの寄贈品は探したが、一つも無かった。金田地区は、本間重連が封建領主を務めていた時期があったが、室町時代頃には消滅していた。その後、江戸中期の倭人入植までの空白期間がある。人の定住が無かったのではないか?と考えられる。

 

厚木市内の地区の郷土史を全て読み、人の定住の無い空白期間などがある地区をピックアップし、後で検証する。

 

 

上荻野地区で、冬営地候補として可能性のある場所を散歩する。

 

 

 

冬営地は、世帯毎に持っている。遊牧民は、部族全員で移動するのではなく、世帯毎で勝手勝手に移動する。

 

ここは現在、宅地&畑地となっているが、昔は何もない草地だったのだろうか?

この金色(冬枯れ)の小山の麓に畜舎を建て、そこでひたすら冬籠りをする。宅地になっているので当然、石囲いの跡は無かった。

 

 

この辺りの民家では、庭に薪を所有している。

 

 

金色の小山の麓は冬の北風や北西の寒風は防げるが、この辺りは東に小山の連山がある。反対側に聳える高い連山は荻野川の向こうであるが、この連山は冬の北風や北西の風を防げられるのか、逆に吹き下ろしが厳しいのか、その日には解らなかった。

 

金色の丘の上に登ってみたい。この丘の上は まつかげ台という。

 

まつかげ台辺りに、*オボーがあればいいなと思っている。

《オボー: モンゴル人が天神や先祖霊を祀る祠のような場所》

 

オボーは、丘の一番高い所などにあるという。オボーは永遠に定着するものではないが、よほど運が良ければ天神を祀るものが見つかるかも知れない。

 

一番高い所を目指そう。

 

 

まつかげ台は、山を切り拓いて作った閑静な住宅街。おおよそ碁盤の目状に作られている。

 

 

登り切った。

 

 

これよりももっと高い丘がある。

 

オボーがあるとしたら、ここから行くことはできないが、あの辺りだろうか?

 

 

ショベルカーの場所にオボーがあってもおかしくはない。

 

 

まつかげ台宅地群は、憶測だが山一つを崩して傾斜を緩く均されている気がする。この山体の上にもかつて祭祀オボーがあったかも知れない。

 

宅地開拓よりもっと昔にオボーやチベット仏教関連のものは江戸幕府によって、全て破壊し尽くされてしまったのかも知れない。

 

日本中、どこを探し歩いても、異民族が築いたオボー跡が今だに大切に祀られている所は金田地区以外には無いのではないか?とも思えた。

 

徳川幕府は大々的な戦を起こさなかったが、異教徒と異民族に対する粛清、弾圧を激しくやっていた。

 

金田地区のオボーに出くわせた事は、一生のうちにあるかどうかの幸運である。

 

遊牧遺構を、幾ら探し歩いても、不毛である。

 

テングリを祀るオボー跡の発見にしても、長距離競馬神事(ナーダム神事的なもの)の記述の発見にしても、ダルハンは鍛治地名だという情報にしても、石囲いの画像にしても

 

他から与えられた偶然だった。カネディアン🔱という牧民の祖霊から与えられているようにも感じられる。

 

これなら家でゴロゴロしながらネットでも弄って遊んでた方が、偶然得られる情報が多いのではないか?

 

自分がこれらを探して、歩き回る意味はあるのだろうか。

 

自分で実踏して得られたものとは、地図では解らない地形の確認やGoogleマップで見れない場所の確認など。それに基づいて妄想を膨らませるだけである。実際目の前に居ない家畜の脚を気遣うなどをするしかなかった。

 

遺構を探して見つけて「あった!」というものは未だひとつもない。

 

それでも諦めずにより高い所へ。

(馬鹿となんとかは高い所を好むという)

 

 

ここは本来、こんな感じだった。隅々まで祀られているものがないか探したが何も無かった。

 

隣はオセアンボールパークアリーナ厚木の駐車場。隈なく探したが、あるはずも無かった。しかしとても素晴らしい場所にある競技場である。

 

隣にはまつかげ台山の手公園。公園なら何か祀られているものがあるかも知れないと探したが、無かった。

 

その後、まつかげ台宅地群内にある公園という公園に行き、天神が祀られているものがあるか探した。結局何も無かった。

 

最後に訪れたまつかげ台丘公園を出た所に、土が高くなっている場所があり、蒙古オボーではないのは解るが、古墳か何かだったのではと思える。昔、公園だったようだ。

 

 

登った。右端にこぶのような土盛りがある。

これは怪しい。

 

 

まつかげ台から下に降りる。長い階段の途中から、貯水池が見える。

 

 

いつもカネディアン🔱という牧民の気紛れに振り回されているようだ。

 

 

彼らは何故全滅せずに現在に至るまで、その痕跡を残し、生き残れたのだろうか?江戸時代には忽然と消えた村などが多数存在する。

 

多くは「疫病」という理由で片付けられている。実際には、幕府によって粛清されたり、強制的に離散させられたり、島流しにされたり、村全員が自害したりしていた。

 

その多くに倭人化を拒む異民族集落なども多数存在する。百姓一揆などを頻発させる集落や、反逆者を出した集落なども諸共、粛清や離散や流刑をさせられた。そもそも移民の多い日本列島に「倭人」しか存在しない事が不自然である。

 

カネディアン🔱は幕府から「離散」させられる事は問題ない。元々離散した形で生活している。

 

生き残れた理由の一つとして考えられるのは、蒙古人には自害という習慣がない事と、族長が交渉能力に長けており、藩の役人などとの交渉で手腕を発揮した。これが鍵を握るのではと考えた。

 

徳川幕府は、莫大な軍事力を背景に、幕府に抵抗する者と反逆する者、例え庶民であっても徹底的にぶっ潰していた。役人主義だが、武士とお江戸の町人という特権階級に対して非常に手厚く扱っていた。例え農民を全て餓死させても、武士と役人と江戸の町人という特権階級だけを潤していた。この幕府がもし隣国に大々的な戦を仕掛けたらあのハゲ爺と同じだろう。

 

 

 

気になるバス停「泉」

 

 

 

さっき見たまつかげ台の麓の貯水池は湧水だったのか?だから「泉」?

 

 

泉付近を歩いてみた。地図だけを見る限りだと、平地ではない。勾配や複雑な地形の為、このような入り組んだ道になっているのでは無いか?と考えていた。

 

しかし実際に訪れてみると、入り組んだ道は平地の上にある。

 

しかしこの地区を進み、水色の川のような所、図の右下のピン📍上荻野760に近づくにつれて谷になっていく。

 

 

これが泉⛲️であるようだ。

 

泉は、牧民が非常に喜ぶ。特に川などが殆ど無いゴビ砂漠地帯では貴重な存在である。ここはゴビ地帯とは違い、水が豊富である。先ほどの貯水池も湧水なのかも知れない。ここは小山の麓なので湧水があってもおかしくはない。

 

 

散歩して気づいた事は、川や湧水の近くではただの石や彫刻された石板などが祀られているという事。

 

荻野川付近の石1

 

 

荻野川付近の石2

 

 

 

貯水池付近の石

 

 

これらはカネディアン🔱と関係あるのかは不明だが、この辺りの人民は水を非常に大切にしている。

 

この日は長い距離を歩いていないにも関わらず、非常に疲弊してしまった。

 

 

ロシア情勢、ナワリヌイ氏の訃報以来、気分があまり優れない。

 

ロシアの反政権派指導者のアレクセイ・ナワリヌイ氏は収監されていたヤマロ・ネネツ自治管区の刑務所で2月16日に死亡した。

 

ナワリヌイ氏は、独裁体制を打倒する一縷の光であった。ナワリヌイ氏の妻ユリア氏は、「プーチン大統領が私の夫を殺害した。彼の命令で夫は3年間拷問を受けた。

 

プーチン氏はロシアに対してしたこと、平和な隣国だったウクライナにしたこと、そして、私の夫にしたすべてのことに答えなければならない」

 

と訴え、プーチン氏に対する責任追及の姿勢を明確にした。

 

欧州議会は29日、「ナワリヌイ氏の殺害はロシアでの弾圧の増大化と組織化を表す新たな兆候である」と指摘する決議を採択した。決議では、ナワリヌイ氏の死亡について、「刑事的・政治的責任はすべてロシアにあり、特に大統領であるプーチン氏が責任を負うべきである」として、独立性と透明性のある国際的な調査を要求した。

 

ユリア氏は「アレクセイ(ナワリヌイ氏)を殺すことで、プーチンは私の心と魂の半分を殺しましたが、まだ半分が残っており、諦めることは許されません。私はアレクセイ・ナワリヌイの仕事を続けます。国のために戦い続けます」夫・ナワリヌイ氏のユーチューブチャンネルで、プーチン政権と戦い続けたナワリヌイ氏の仕事を引き継ぐと決意を明かした。

 

 

プーチンは、アレクセイ・ナワリヌイを殺すことで、トゥバ共和国の人民の魂の半分を殺しました。

 

以前自分が投稿したトゥバ動画の中で、トゥバの公園の落書きに「ナワリヌイ」と書いてあったのを思い出した。トゥバの人民も、ナワリヌイ氏に一縷の光を見出していたという事だろう。

 

ウクライナ侵攻で多数のトゥバの人民が徴兵され、犠牲になった。

 

生活水準は後進国の中でも下の下の水準である。アル中、薬中、エイズなどで命を落とす者が多く、若者の自殺者も年々増加している。ロシア最凶の治安の悪さである。これを一日でも早く打開する為にも彼の力は必要だった。

 

ナワリヌイ氏の葬儀後暫くは、献花に訪れる人が後を絶たなかった。今も献花に訪れる人がいる。

 

 

ご冥福をお祈り致します。同時に、ユリア氏にはご健闘を祈ります。

 

🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷

 

モスクワ郊外のイスラム国(IS-K)による銃乱射と放火テロは143人以上の死者を出した。

 

自分はこれを他人事とは思えなかった。

 

これが起きたのはコンサート中の劇場だった。これは自分が犠牲になっていてもおかしくはないと思った。

 

先日、立て続けにライブに行ったその数日後の出来事だったから余計に気の毒に思える。

 

もし幕張メッセでテロが起きていたら…

 

もしZepp Yokohama でテロが起きていたら…

 

テロ組織は武装集団である。誰も食い止められない。

 

幕張もZeppも入場者に対する検査が甘いとは感じたものの、当初余り気にならなかったが、武装組織となれば、どうにもならない。

 

助かる道はあったのか?と考えて頭が痛くなった。

 

ボケ老人プ爺は、ウクライナの攻撃だと嘯いていたが、犯行はイスラム国。

 

専門家によると、これを機にプ爺政権は強権化しるのではないかという憶測。不安因子ばかりの情報を流す。

 

ロシアには敵が多い。このイスラム国武装組織は、シリア戦争の時からロシアに怨恨を持つという。

 

ロシアにはウクライナ、NATO、中共、イスラム国、その他数え切れない敵が潜んでいる。ウクライナの件は絶対的にロシアが悪い。

 

 

テロによる犠牲者にご冥福をお祈り致します。

 

日本も決して他人事ではないという事を肝に銘じなければならないと思う。

 

 

長文のご精読ありがとうございます😭

 

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蒙古斑Live

2024年03月19日 | 自己満

蒙古斑Live

 

先日15日、京葉線通勤快速がラストランだったらしい。

ありがとーって叫んでる人が沢山いた。あの人たちは普段京葉線などを利用しないニワカばかりなのだろうか?まるで自分と同じである。

 

自分はパンク春の祭典で、SUM41のライブに初めて参戦する。しかしSUM41の最期である。

 

日本での本当のSUM41の最期であるZepp Yokohamaのライブにも参戦する。

 

だからあの京葉線通勤快速にありがとう言っているニワカのことは笑えない。

 

SUM41のライブが終了する時は大声でありがとうと叫ぶつもりだ。

 

それにしてもパンク春の祭典と京葉線通勤快速が被らなくて幸いだ。どうせ海浜幕張駅にも大勢いただろう。

 

これからは、最期のライブをするアーティストを狙ってライブに参戦するというのもアリではないだろうか?ラストラン鉄と同じように。

 

・パンク春の祭典編

 

 

パンク春の祭典。どうやら自分が最年長の様に見える。昨年よりはアメリカ人が少ない。しかしフィリピン系やインドネシア系が多数見られる。

「もしかして、カルガリーさん?」と声を掛けられるインドネシア人などがいたのかもしれない。

 

蒙古斑(トゥバ41)のキャップ🧢

 

 

普段から仕事とかに被って行っても良い気がする。これは昨年ネットで購入した。カナダ嫌いだけどもみじ🍁かわいい😍から思わずポチッた。

 

 

何事も2度目以降の方が良い。場所は昨年と全く同じ場所。昨年は何も分からなかった。

 

パンク春の祭典の偉業を讃える歴代の広告群。

 

 

コークハイは美味かった。

 

小籠包

 

 

牛ハラミ串をまるでシャシリクのように喰らう。

 

 

今日は昨年とは違い、晴天☀️

 

YOU ME AT SIX格好良かった。

 

 

双眼鏡を持ってきて良かった。整理券なしの物販が14:30に解禁されたので、買いに行ったが、トゥバ41/蒙古斑(SUM41)のモノは完売していた。

 

 

NECK DEEPも格好良かった

 

モッシュダイブは基本禁止だが、禁止されても客はやるらしい。

 

「やるに決まってんだろー!!」と叫んでる客がいた。

 

多分熱烈なSUM勢。

 

蒙古斑(トゥバ41)へ向けて書かれた色紙、まるで*ツォイ・ウォールのようだ。

 

 

《ツォイウォール:ソビエト連邦末期に一世を風靡したロックバンドKINOの歌い手であるヴィクトル・ツォイが早逝した。その追悼の言葉がモスクワ市内のとある壁一面に書かれた》

 

パレスチナの旗も書いてあった。

 

 

それなら自分は「ナワリヌイ」の件を書いてしまおうかとも思った。

 

SUM41(蒙古斑/トゥバ41)のノー・リーズンの歌詞は、プーチンに向けて書かれた曲の様に、見ようによっては見える。SUM41はロシアにとっての一縷の希望になれば良いと思っている。

 

トゥバ41の古参、激痛がする程羨ましい😭

 

自分はニワカに過ぎないので書くのは控えさせて頂こうか?どうしようか?

 

それにしてもヤバい!

 

日に当たりたくなったので、喫煙スペースのある外へ。

 

休憩☕︎

 

トゥバ41は、19:00からである。

 

SUM41(蒙古斑/トゥバ41)にお別れの言葉、書いてしまいました。

 

 

「ニワカ」って書いてもトゥバ人には理解出来ないか。

 

夕飯 黄金中華そば

 

 

とても美味しかった。何よりも玉ねぎ。

 

もうすぐで生の蒙古斑(SUM41)と会える!!

 

19:00丁度にSUM41が始まった。盛り上がり方が他とは全然違う。

 

 

SUM41ライブはモッシュダイブや、ライブ客のまんなかで羊の群れみたいに回るやつが盛んである。

 

誰が扇動するのか、以前から気になっていたが、扇動していたのがSUM側だった。

フロントマンのデリック氏が、回る曲だの跳ぶ曲だの言っていた。

 

客を羊の群れのように回すというライブは、他では見た事がない。羊の群れが実際に回る光景を多数目にした遊牧民の発想なのか?とふと思った。

 

しかし、客側がいつの間にか勝手に回り始める。

 

間を置かずいつの間にか紛争が起こる感じで、回る群れに加わってみたいと昔から考えていたので参加した。暴徒のようで非常に面白かった。自分も暴徒になり、この勢いでプーチン政権を打倒出来るような気がした。

 

SUMとプーチン政権を関連づけてばっかいるとSUMの身が危ないのでこれ以上は控える。SUM自身、ロシア政府非難の意図は微塵もない。

 

反プーチンバンドはロシアに実際にいる。

 

「プーチンは人殺し」 投票用紙に落書き、拘束 ロシア大統領選(時事通信) - Yahoo!ニュース

 15~17日投票のロシア大統領選では、保守派の組織票を固めるプーチン大統領に対し、投票用紙に落書きして静かな抗議を試みるリベラル派の有権者が相次いだ。 「プーチ...

Yahoo!ニュース

 

 

《引用: 「プーチンは人殺し」 投票用紙に落書き、拘束 ロシア大統領選》

 

羊の群れのように、走り回っていると途中何かに躓いた拍子にコケて、将棋倒しになる。こんな事してたら事故が起きるに決まっている。周囲の人間が起こしたが、起こしてくれた人には本当に感謝をしている。

 

SUMのライブ終わりに、一部の客がOne more timeと叫んだが、(自分も叫んだ)SUMはアンコールをやらない様子であった。まぁ、そこら辺が日本人と違うからしょうがないと思って諦めたところでSUMがアンコール演奏をやってくれた。

 

嬉しかった。これはサプライズの一種なのかと思っていたが、司会によると、SUM側としてはアンコールを叫ぶ客の数が少なかったので、やらなくて良いと判断したが、その後、やるべきかどうか悩んだ結果、アンコール演奏をやる事にしたという。

 

確かにアンコールを叫ぶ人はごく少数だった。

 

まぁトゥバ人の気質なんだろうかとふと思った。日本人だったら、アンコールの要求が一つでもあれば悩まずにアンコール演奏をやるだろうとふと思った。

 

SUMライブの本当の終わりに、自分はニワカだが「ありがとー」と大声で叫んだ。他の客でありがとーと叫ぶ客もごく少数だった。昨日の京葉線通勤快速への別れ以上にSUM41への「ありがとー」の嵐が起こると思っていたが、意外だった。

 

Still Waitingという曲は一番最後にやる慣習があるらしい。古参のような客がそう言っていた。

 

SUM41ライブ程面白いライブはない。客をあそこまでキ○ガイにさせるカリスマ性。

 

世界中のファンがキ○ガイ化している。この中毒性の強い音楽性は何だろうと思った。

 

Underclass Heroのイントロのメロディーの繰り返し繰り返しに、何となく懐かしさを覚えた。生演奏を聴いていて気付いた。自分前世トゥバ人だったのかな。

 

大いなる勘違い。

 

SUMライブどう振る舞って良いのか全然分からなかったが、何の違和感も無かった。SUM41自体にも何の違和感も無かった。

 

時々あるらしいのが、アーティストに対して「思ってたのと全然違った。YouTube で見たのと雰囲気が全然違った。」という声。

 

今年のパンクスプリングは、昨年より短かったように思える。

 

明後日はZepp Yokohama でSUM41の最後のライブがある。今度はSUM41に失礼がないようなアクションをすべきだと思った。(実際、一般的に「失礼」だとされる事は何もしていなかった。しかし、客側からのアクションの類とか、感謝の言葉がいまいち薄いというか、なんというか)

 

ライブ終了後、蘇我の健康ランド的な泊まれる風呂屋へ

 

Oh!ジェフ

 

 

ここは千葉だ。貨物もある。

 

 

翌朝、泊まれる風呂屋からの景色は、海に面していて良かった。昨夜、風呂屋までの道のりに気になる所があった。この辺り、製鉄所に思えた。高い煙突が数本あり、製鋼の炉を連想させられた。

 

帰り道、工業地帯のような場所を歩いて帰る。ビンゴ!!製鉄所だった。

 

JFEスチール(株) 東日本製鉄所。

 

 

工場見学も出来る。残念ながら今日は休みだった。

 

 

後日行きたいと思うそして、その日の夜はまたそこに泊まる。日本製鉄の方の君津に迄足を伸ばしたいと思う。

 

 

お土産

 

靴下とタオル

 

 

 

 

・Zepp Yokohama 「FINAL TOUR OF THE SETTING SUM」 編

 

着ていくTシャツ。そしてSUM41もみじ帽子。

 

 

実際のライブ中は帽子と双眼鏡が邪魔である。

 

Zepp Yokohamaの蒙古斑Liveは、ガチ勢ばっかである。雰囲気がパンク春の祭典とは全然違う。

 

自分のようなニワカはやはり場違いである。怖そうなガイジンがいる。英語喋るガイジンは怖い。近寄らんとこ。蒙古斑のSETTING SUM記念のTシャツを購入出来た。

 

NECK DEEPが蒙古斑と一緒に来ていた。

 

ここは幕張なんかと違い、会場が狭い。演者の姿が良く見える。NECK DEEPの曲は爽やかであった。まさかこの狭い会場内では、幕張のような馬鹿な事はしないだろう。Zepp内では柵が幾つか存在し、もし馬鹿な事が出来るとすれば、前の方の広い括り内にいる人限定だろう。

 

今日こそは蒙古斑の本当の最期。このライブは、抽選だ。当選した事に感謝している。

 

蒙古斑は更にガチモードで来るのだろうか。

 

本当にガチモードで来た!!!

 

感無量😍😍😍😍😍😍😍😍😍😍😍😍😍

 

SUM41の最期ライブは、本当に面白かった。素晴らしいライブをありがとうございました。

 

モッシュダイブや、サークル(羊の群れのように回る)はやらなかったが、ステージ上からデリック氏が何かを投げた。それを拾えた幸運な人がいるが、何を投げたのか異常に気になる。後でググって調べたいと思う。

 

蒙古斑の生きた音楽が聴けて本当に幸せだった。ライブの時間はあっという間に過ぎ去ってしまった。帰宅中の電車の中で、あの時間は本当にあったのだろうか?と思う程だった。夢だったのではないか?とも思える。

 

蒙古斑の生演奏の後、暫く余韻に浸りたいと思い、いかなる音楽も聴きたくはなかった。

 

幕張の時とはまた、違う味があった。演者の姿が見えると、心の距離が近くなる。自分はボッチ参戦だが、自分とSUMとの関係。ここでは、より音楽に傾聴出来た。デリック氏のフーメイ・ヴォイスが聴けてとても良かった。

 

古参とかニワカとか本当に関係なく楽しめた。SUMのファンには古参もニワカもない。自分の考え過ぎだった。しかし欲を言えば、自分もSUMも、もう少し若い時にライブに行きたかった。

 

幕張の時の客より遥かにリアクションが良かった。アンコールトラブルも無かった。気持ち良く終了してしまった。

 

後にはファンの熱烈な「SUM41」の連呼が続いていた。

 

本当に感無量である。これで終わりだとは信じられなかった。また来年あたりにもパンクスプリングに出て、SUMライブをやりそうな気がする。長年追いかけてきた人はより寂しいだろう。

 

ひとつの時代が去りゆく。非常に哀しい。

 

是非復活して欲しい。

 

 

😍🤟😍🤟😍🤟😍🤟😍🤟😍🤟😍🤟😍🤟

本当にとても短い期間でしたが、共に歩んだ(と思っている)楽しい時をありがとうございました。残りわずかですが、全力で走り、有終の美を飾って下さい。

 

自分はこのバンドと出会えた事自体に多大な感謝をする。念願だったライブにも行けて非常に嬉しい。

 

 

 

 

JR京葉線通勤快速の件

 

JR京葉線の通勤快速廃止、沿線の反発収まらず 新ダイヤ運行開始(毎日新聞) - Yahoo!ニュース

 JR東日本のダイヤ改正により16日、京葉線(東京―蘇我)で通勤快速を廃止した新ダイヤの運行が始まった。2023年12月のダイヤ改正発表以来、「市民生活に計り知れ...

Yahoo!ニュース

 

 

千葉民にとっては京葉線通勤快速とは痛恨の別れだった。千葉民にしてみれば、復活を切に願うであろう。

 

15日の通勤快速との別れのありがとうは、心底から悲痛なありがとうだった。

 

長文のご精読ありがとうございました😭

 

前の記事

蒙古斑Live参戦前に - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

 

この距離からでは演者の姿がよく映らない。演者の顔や姿がわずかに映っている。

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