⋆金鎧集落。訂正。
⋆金鎧とは金田を意味する
2023/1/23の記事
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で、“アルタン神社(金鎧神社)”は”遊牧神社“として説明したが、訂正する。
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アルタン神社(金鎧神社)の説明書きで、元々の祭神が解らない、神号は「舶来」
祭神を知らない民がこの地に舶で来て定住
祭神を知らないという事は倭人ではないという仮説。
舶という大型船舶で来日という事は家畜、一族郎党を載せた船舶が倭国日本海側に着いたという仮説。
そして船田という地名を舶来牧民が金鎧に改変。
という事はここには家畜を飼育している状態の牧民が来日し定住したという仮説。
舶来牧民が倭国のそこに辿りついたのは平安から鎌倉。
金鎧神社は元は船来田明神といった。
金鎧神社と呼ぶのは明治以降。
船来田神社の祭神は、牧民集落のシャーマンや族長の先祖霊。
船来田明神は“遊牧神社”
明治以降、海神の”豊玉姫“が祀られる。
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これを訂正する。
訂正後
🌊金鎧神社は“海賊神社”であった可能性が高い🌊
🌊船来田明神は“遊牧神社”と書いたが、船田郷に住んでいた民は海洋民族「海賊」だった可能性がある。
「金鎧という地名・姓の由来」の記事の金鎧を経由し、大永年間(1521-1528)に愛知県西尾市一色町に移住した民。
この民が、金鎧の由来。
参照記事 2023/3/18の記事
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によると、鎌倉時代かそれ以前から船田郷に住む、船来田明神を鎮守として祀る集落の民と、戦国時代にこの地に現れ大永年間に愛知県西尾市に移住した民とは別々の民ではないかと思う。
船田郷に住む、船来田明神を祀る民を“船田人”と呼ぶ。
戦国時代にこの地に現れ現在の金鎧の由来となった民を“金鎧人”と呼ぶ。
人のブログ記事によれば、船来田明神の祭神は元々解らなかったのではなく、元から“海神”を祀っていたという説があった。思うに、“船田人”は海洋民族(海賊)の可能性がある。神号は「舶来」
船来田明神を”海賊神社“と捉える方が収まる。
訂正その2
2023/2/25の記事
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テングリ信仰の跡地だと思える場所を発見!! - カルガリーちゃんねる
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本間氏とは、金鎧神社(当時船来田神社)を建てた地頭という役人である。金鎧に750年間も代々居住し続けている本間氏という者がいるらしい。
おそらくそれが、それだと思う。
地頭は鎌倉時代の警察のような暴力機関と言われていたが、この本間という人物は集落の人民の敵ではなかったようだ。
定住生活を始め、時を経るに従って定住の知恵がついてくるようで、本間氏宅を衛る為に複雑な道が作られたらしい。城下町のように。
本間氏はここらへんの領主だったらしい。
本間氏という人物は多分、金鎧牧民の首長であったのではないかと思われる。遊牧首長は、世襲制なのか?役人などのように一代限りで終わりなのか?
遊牧社会の首長と、倭国の領主と、非常によく似ていると言っても過言ではないようです。
遊牧してれば首長。定住してれば領主。
鎌倉幕府は、船田地区の一画に遊牧民を集積しただけだろう。その為か首長制が途絶えず、長年続いたのではないかと思われた。
もしも本間氏が遊牧民首長で、強制移民後金鎧地区の領主だったとしたら?!厚木市金鎧という部落は、日本の定住社会におけるガチの遊牧部落である。
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これを訂正する。
先日、金鎧の健徳寺を実踏した時、本間氏の墓の横の看板に書いてあった。
・健徳寺の“本間氏累代の墓”
本間氏は蒙古から舶来した金鎧人(遊牧民)の首長などではなく、鎌倉時代から室町時代にかけて相模国に勢力を誇っていた武士。先祖は海老名に住んだ海老原源八季定の次男・能忠とされ、依知郷に本拠を移し活躍したと考えられています。
との事。
大いなる勘違いだった。
鎌倉時代になって、幕府は船田郷の有力豪族(武士)本間重連をこの地に派遣し、本間氏は領主となる。そこでは倭人と海洋民族(海賊)の領民を統治している。
以上