いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング
最近、立て続けに大きな事件があり、どうも不自然な状況なので、気になってずっとYouTubeのニュースなどを見ていました。古代史ブログから離れていましたが、本日いい動画を見つけましたので、以下のようなコメントをしました。どうぞ、おつきあいください(#^.^#)
参考になる、とてもいい情報をありがとうございます。本当の新羅建国は4世紀で、それまでは半島南部は倭国王が支配していたと考えていました。ですから朴氏も倭人である可能性が高いと思います。
また、百済建国も4世紀前半のようです。高句麗と同じツングース族の国だったのですが、6世紀初頭に馬韓伯済国の王が東城王を殺して百済王に成りすましたと推理しました。BC473年に滅亡した呉王夫差の父闔閭(こうろ)王の弟夫概(ふがい)の一族が伯済国を支配しており、その王だった人物が百済武寧王(在位:501年 - 523年)を名乗ったということです。ですから、660年に滅んで日本に帰化した百済人はすべて倭人だったと推理しています。
続きが長くなったので、よろしければ拙ブログをご参照ください。どうもお邪魔しました。
ご存じのとおり、日本の最初の王墓は、福岡市吉武高木遺跡にあります。呉が滅んだ時に王族の一部が、その支配民の倭人(江南の呉人)に助けられて半島南部に逃亡し、紀元前4世紀初頭にそこから南下して移住しました。「魏略」にあるとおり、呉の太伯の後裔が日本の最初の王天御中主(あめのみなかぬし)です。記紀神話では高天原に最初に降り立った天御中主神とされています。天は海を意味し、中は奴(ナーガ)、つまり龍蛇神ですから、ナーガを信奉する海人族(倭人)の王という名前なのです。ご指摘のように、那珂、那賀、長柄、中山・・・という地名は江南出身の倭人が列島内で開発した場所を示しています。天御中主神は各地の水天宮で龍神として祀られており、水神様でもあります。
雍熙元年(九八四年)、東大寺の僧奝然(ちょうねん)が宋の太宗に献上した「王年代紀(宋史)」にも筑紫日向宮を王宮とする初代王とあり、2代王天村雲尊、3代王天八重雲尊までの奴国王が住んでいましたが、手狭になったようで、4代王天聞禰尊(あめのににぎのみこと)が福岡平野に進出して、王宮を春日市須玖岡本遺跡に遷しました。祖父天村雲尊から三種の神器を授けられて比恵・那珂遺跡に交易センターを作り、後漢光武帝から金印を賜るまでになった奴国の隆盛の基礎を築いた伝承が7世紀末にも残っていたのです。この史実から連想して「日本書紀」で天孫降臨神話が創作されたのです。(2023.4.20 赤字訂正)
多くの日本人は、天武天皇が歴史書編纂を命じたので、「日本書紀」と「古事記」が天皇の歴史書だと習っています。しかし、正史「日本書紀」が完成したのは崩御の34年後です。当時の権力者は藤原不比等でした。天武天皇の妃鵜野讃良(うののさらら、天智天皇皇女)と組んで皇位を奪ったので、その正統性のために鵜野讃良をモデルとする高天原神話の最高女神アマテラスを創作し、孫の文武天皇を15歳で即位させ、その妃に不比等の娘宮子とし、外戚として実権を振るったのです。唐の律令制度に倣って、藤原氏に都合がよい太政官と神祇官を置く制度とし、3世紀のヤマト建国時代の豪族が活躍した史実を隠すために神話を創作して宮中祭祀を握りました。そして建国に貢献した豪族を謀略によって次々に没落させて、平安時代の藤原氏の全盛期の基礎を築いたのです。
「古事記」は9世紀に宮廷で「日本書紀」を講義していた学者多人長(おおのひとなが)が突然表に出したものです。序文に712年の完成とありますが、「日本書紀」と次の正史「続日本紀」にも、どこにも「古事記」のことが記録されておらず、その他の理由からも人長の創作だと分かります。「日本書紀」に添いながら所どころ違えていますので、「日本書紀」が隠した歴史をそれとなく正すための暗号書だと分かりました。
ですから、不比等が何を隠したのかを考えて、物証によって仮説を検証すると、建国から奈良時代までの不比等に隠された史実が浮かび上がってきました。
先日豪華な副葬品で話題になった富雄丸山古墳の被葬者も、鵜野が持統天皇に即位したことにするために隠された天皇のひとり、初代応神天皇の皇太子とされた菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)宇治天皇だと分かりました。その他にも「古事記」の崩年干支と倭の五王の朝貢年から、空白の世紀に隠された二人の天皇と倭の五王の系譜が判明しました。
さらに、天皇を隠した理由が持統天皇として即位したことにするためだと分かったので、推古天皇と皇極(斉明)天皇は皇后から皇位についた前例として「日本書紀」で創作したことも分かりました。ですから、江戸時代の二人の女性天皇までの、すべての女性天皇がフェイクだということだと分かりました。
これは京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺で、天智天皇から飛んで、その孫光仁天皇から歴代の天皇を祀っていますが、明治になるまで女性天皇は誰一人祀られていないことが分かりました。また、江戸時代の二人の女性天皇の仏事に掲げる肖像画も、明治になって作られたものと分かりました。
ということで、「王年代紀」によって、記紀神話が正され、「新唐書」でやっと倭国から日本という国号に認めてもらい、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」という正しい認識になったのです。天御中主が日本における最初の皇祖神です。そして、中国神話の人類の始祖神である人面蛇体の天皇伏羲・人皇女媧そして中国最初の夏王朝を建てた禹王が呉の太伯の祖神ですから、日本の天皇はその末裔なのです。本当の日本人の神話は中国(なかつくに)神話だったのです(^_-)-☆
詳しくは以下の記事をご参照ください。(#^.^#)
【関連記事】
中国神話は日本人の神話だった?【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その19)
丹波はスサノヲ・大国主の故郷だった(^_-)-☆
新羅の脱解王が奴国大王?(^_-)-☆
【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?
富雄丸山古墳に隠された大きな秘密?(;^ω^)
富雄丸山古墳の被葬者は?(^_-)-☆
最後までお付き合い、有難うございました。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング
最近、立て続けに大きな事件があり、どうも不自然な状況なので、気になってずっとYouTubeのニュースなどを見ていました。古代史ブログから離れていましたが、本日いい動画を見つけましたので、以下のようなコメントをしました。どうぞ、おつきあいください(#^.^#)
参考になる、とてもいい情報をありがとうございます。本当の新羅建国は4世紀で、それまでは半島南部は倭国王が支配していたと考えていました。ですから朴氏も倭人である可能性が高いと思います。
また、百済建国も4世紀前半のようです。高句麗と同じツングース族の国だったのですが、6世紀初頭に馬韓伯済国の王が東城王を殺して百済王に成りすましたと推理しました。BC473年に滅亡した呉王夫差の父闔閭(こうろ)王の弟夫概(ふがい)の一族が伯済国を支配しており、その王だった人物が百済武寧王(在位:501年 - 523年)を名乗ったということです。ですから、660年に滅んで日本に帰化した百済人はすべて倭人だったと推理しています。
続きが長くなったので、よろしければ拙ブログをご参照ください。どうもお邪魔しました。
ご存じのとおり、日本の最初の王墓は、福岡市吉武高木遺跡にあります。呉が滅んだ時に王族の一部が、その支配民の倭人(江南の呉人)に助けられて半島南部に逃亡し、紀元前4世紀初頭にそこから南下して移住しました。「魏略」にあるとおり、呉の太伯の後裔が日本の最初の王天御中主(あめのみなかぬし)です。記紀神話では高天原に最初に降り立った天御中主神とされています。天は海を意味し、中は奴(ナーガ)、つまり龍蛇神ですから、ナーガを信奉する海人族(倭人)の王という名前なのです。ご指摘のように、那珂、那賀、長柄、中山・・・という地名は江南出身の倭人が列島内で開発した場所を示しています。天御中主神は各地の水天宮で龍神として祀られており、水神様でもあります。
雍熙元年(九八四年)、東大寺の僧奝然(ちょうねん)が宋の太宗に献上した「王年代紀(宋史)」にも筑紫日向宮を王宮とする初代王とあり、2代王天村雲尊、3代王天八重雲尊までの奴国王が住んでいましたが、手狭になったようで、4代王天聞禰尊(あめのににぎのみこと)が福岡平野に進出して、王宮を春日市須玖岡本遺跡に遷しました。祖父天村雲尊から三種の神器を授けられて比恵・那珂遺跡に交易センターを作り、後漢光武帝から金印を賜るまでになった奴国の隆盛の基礎を築いた伝承が7世紀末にも残っていたのです。この史実から連想して「日本書紀」で天孫降臨神話が創作されたのです。(2023.4.20 赤字訂正)
多くの日本人は、天武天皇が歴史書編纂を命じたので、「日本書紀」と「古事記」が天皇の歴史書だと習っています。しかし、正史「日本書紀」が完成したのは崩御の34年後です。当時の権力者は藤原不比等でした。天武天皇の妃鵜野讃良(うののさらら、天智天皇皇女)と組んで皇位を奪ったので、その正統性のために鵜野讃良をモデルとする高天原神話の最高女神アマテラスを創作し、孫の文武天皇を15歳で即位させ、その妃に不比等の娘宮子とし、外戚として実権を振るったのです。唐の律令制度に倣って、藤原氏に都合がよい太政官と神祇官を置く制度とし、3世紀のヤマト建国時代の豪族が活躍した史実を隠すために神話を創作して宮中祭祀を握りました。そして建国に貢献した豪族を謀略によって次々に没落させて、平安時代の藤原氏の全盛期の基礎を築いたのです。
「古事記」は9世紀に宮廷で「日本書紀」を講義していた学者多人長(おおのひとなが)が突然表に出したものです。序文に712年の完成とありますが、「日本書紀」と次の正史「続日本紀」にも、どこにも「古事記」のことが記録されておらず、その他の理由からも人長の創作だと分かります。「日本書紀」に添いながら所どころ違えていますので、「日本書紀」が隠した歴史をそれとなく正すための暗号書だと分かりました。
ですから、不比等が何を隠したのかを考えて、物証によって仮説を検証すると、建国から奈良時代までの不比等に隠された史実が浮かび上がってきました。
先日豪華な副葬品で話題になった富雄丸山古墳の被葬者も、鵜野が持統天皇に即位したことにするために隠された天皇のひとり、初代応神天皇の皇太子とされた菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)宇治天皇だと分かりました。その他にも「古事記」の崩年干支と倭の五王の朝貢年から、空白の世紀に隠された二人の天皇と倭の五王の系譜が判明しました。
さらに、天皇を隠した理由が持統天皇として即位したことにするためだと分かったので、推古天皇と皇極(斉明)天皇は皇后から皇位についた前例として「日本書紀」で創作したことも分かりました。ですから、江戸時代の二人の女性天皇までの、すべての女性天皇がフェイクだということだと分かりました。
これは京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺で、天智天皇から飛んで、その孫光仁天皇から歴代の天皇を祀っていますが、明治になるまで女性天皇は誰一人祀られていないことが分かりました。また、江戸時代の二人の女性天皇の仏事に掲げる肖像画も、明治になって作られたものと分かりました。
ということで、「王年代紀」によって、記紀神話が正され、「新唐書」でやっと倭国から日本という国号に認めてもらい、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」という正しい認識になったのです。天御中主が日本における最初の皇祖神です。そして、中国神話の人類の始祖神である人面蛇体の天皇伏羲・人皇女媧そして中国最初の夏王朝を建てた禹王が呉の太伯の祖神ですから、日本の天皇はその末裔なのです。本当の日本人の神話は中国(なかつくに)神話だったのです(^_-)-☆
詳しくは以下の記事をご参照ください。(#^.^#)
【関連記事】
中国神話は日本人の神話だった?【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その19)
丹波はスサノヲ・大国主の故郷だった(^_-)-☆
新羅の脱解王が奴国大王?(^_-)-☆
【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?
富雄丸山古墳に隠された大きな秘密?(;^ω^)
富雄丸山古墳の被葬者は?(^_-)-☆
最後までお付き合い、有難うございました。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング