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#范曄後漢書 倭伝に書かれた内容が史実だということを示す国宝金印ですが、ニセモノという説が横行して困ります。漢代金印の金の純度が95%ということは現代になっていくつかの金印が発見されて判明したのですから、間違いなく本物だと言えます。ニセモノと主張するのならば、河村哲夫先生が主張するように、江戸時代にすでに漢代の金印の純度が95%とわかっていて、金印作成を依頼したことが分かる確かな証拠が必要です(河村哲夫「第2回志賀島の金印論争と奴国その2」)。
志賀島出土の金印は范曄後漢書の記述が正しいことを示す重要な物証なのです。
107年に後漢に朝貢した師升が下で示すように、奴国の宮廷楽師だという物証が125年と彫られた室見川銘板です(詳細は「【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆」参照)。57年と107年の倭国の朝貢は、文献と物証が一致しているので史実だと考えられます。以下の動画に、また金印の話題が出ていましたのでコメントしました。よろしければお付き合いください(#^.^#)
岡上佑の古代史研究室@YouTube
@katumoku10
いろいろ調べていただき有難うございます。
国宝金印が本物であることも、何故志賀島で発見されたかも分かっています。
伊都国の井原鑓溝王墓は帥升王のものだと推理しています。
シナ版wiki「帥姓」に「帥本姓師,避晉宣帝諱改帥氏」とあり、本当は師姓だったのを帥姓に書き換えさせたということです。師姓は「風俗通義」によると周王朝以前から宮廷祭祀の楽師の官位を表す姓だったのです。
また、通説では范曄後漢書の原本には倭面土国王師升とあったとされています。白鳥庫吉は魏志倭人伝の記述から男王は伊都国に居たので、面は回の俗字「 囬」の誤写として 囬土(ウィト)国王師升が正しいとしました。
つまり師升は奴国の宮廷楽師だった人物で、反乱を起こし奴国王を殺して倭国を乗っ取って伊都国に王都を遷した人物ということになります。
殺された奴国王は宋史 王年代紀18代奴国王素戔嗚尊だったのです。記紀神話で暴れん坊の神として高天原を追放される話になっていますが、史実は師升らのクーデターだったのです。スサノヲが拷問されて全財産を奪われて追放されたと古事記は伝えています。古事記は日本書紀が隠した史実をそれとなく暴露する暗号書だったのです。
高天原は奴国王が支配していた北部九州の倭国だったのです。
師升は金印を手に入れて奴国王に成りすます目的だったのですが、いち早くスサノヲの部下が金印を持ちだし、逃げる途中で志賀島に寄って土の中に隠したので、107年に160人ものスサノヲの部下を奴隷として後漢安帝に献上し倭国王に認められたのです。ですから金印は本物なのです。
そして日本書紀の中でも仲哀天皇四年に奴国を儺県(なのあがた)と記していますので、全部分かりました。儺は「追儺、鬼やらい」を意味します。囬土(ウィト)国を伊都国と書いて魏に教えた人物が景初三年(239年)に魏への朝貢のために帯方郡に行った倭大夫とされた難升米だったのです。難は儺のニンベンを省略した減筆だったのです。
つまり、師升が奴国王を追放した事績が殷(商)王朝初期の伝説の政治家伊尹(いいん)が放蕩者の王を追放した事績と一致することから、師升の王都を伊都国と書いて教えたのです。そして難升米は師升(儺升)王の子孫の本当の倭国王だったということです。米は「め」と呼んで頭目(かしら)の意味です。
卑弥呼は政治的に倭国の女王とされたムナカタ海人族の姫巫女です。
倭国の王都が伊都国では近すぎて都合が悪いので帯方郡から万二千里(洛陽から万七千里)にあって戦略的に重要な位置にある邪馬台国としたいためです。その他行程記事にある国名や人名(職名)などは全て難升米が書いて教えたと分かりました。そして、全て漢字に意味があることも分かりました。これによって邪馬台国問題は解決しました。詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)
@岡上佑の古代史研究室
コメント有難うございます! なかなか独特のお考えですが、金印は伊都国のもの、その点が共通しているなら面白いですね! 是非論考の参照にしていただければ嬉しいです。
@katumoku10
早速お返事をありがとうございます。
金印の印面は委奴国とあるので、イト国と解釈する説もありますが、申し訳ないですが
倭の奴(な)国というのが正しいことは、考古学の成果からも地名からも判明しています。
つまり、当時の日本で一番繁栄した場所が、比恵・那珂遺跡群です。奴国の時代に列島最大の交易センターがあり、列島各地の人々が品物を運んでここで取引していた大都会だったのです。最盛期は吉野ヶ里遺跡の4倍の広さになっています。奴国王は南の春日丘陵の須玖遺跡群に王都と青銅器製造の官営工場を置いて、奴国に集まる人々から税を徴収して、さらに伊都国には王族を派遣して楽浪郡などからの華僑との取引を任せて、隆盛になったのです。
三雲遺跡の番上地区から楽浪土器が集中して出土していますので、華僑を滞在させ、注文を聞いて奴国から仕入れて取引していたのです。だから、57年に後漢光武帝は華僑の権益を奴国王に保護してもらうために冊封体制に取り込んだのです。
奴はナーガ=龍蛇神を表す漢字で、中や長も同じ意味です。那珂、那賀、長柄、中山などはナーガ=龍蛇神を意味する地名です。
新唐書・宋史 日本伝にある初代奴国王は天御中主とあり、天はアメ・アマつまり海を意味し、ナーガを信奉する海人族(江南の倭人)の王という意味なのです。三雲南小路遺跡からガラス璧の破片が出土しており、奴国王墓須玖岡本遺跡D地区王墓からも出ており、周王朝の子爵の王標なのです(賀川光夫「再生鏡の配分と弥生後期の社会」別府大学 史学論叢22 1992 p.14) 。つまり奴国王も伊都国王も同じ出自、呉王族なのです。あと筑前町峯遺跡からもガラス璧が出ていますので、奴国王が筑紫平野の支配を任せた奴国の王族だったと推理しています。
そして、師升王のクーデターを逃れた奴国王族が出雲と吉備を根拠地として倭国と対立したのです。半島の情勢が混乱して楽浪郡との交易が衰退したので、出雲王の勢力が大野川沿岸から阿蘇山麓にかけて半島南部の鉄を持ち込み鉄製武器の製造コンビナートを作りました。さらに菊池川沿岸に前線基地(方保田東原遺跡など)を築いて山陰や畿内の兵士を呼び寄せて筑紫平野の倭国側の集落を攻撃して倭国王を苦しめました。倭国大乱を指揮したのが狗奴国の官狗古智卑狗です(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。
吉備に根拠地を作ったのがヤマト王権の基礎を築いたニギハヤヒ大王です。倉敷市楯築王墓の被葬者です。楯築神社のご神体が人面蛇体の亀石です。シナの神話の天皇伏羲と同じ人首蛇身だったので天皇のルーツとわかりました(詳細は「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*)」参照)。纏向遺跡はニギハヤヒの子孫が王都としたので、難升米は旧奴国を狗奴国と呼んだのです。纏向遺跡にみられる弧帯文はナーガのデザインです。
出雲や吉備を中国地方と呼んでいますが、中国はナーガの国、「なかつくに」なのですよ(^^;)
ですから新唐書・宋史に「委奴国」ではなく「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」と記されてますよ。
【関連記事】
【邪馬台国問題】女王卑弥呼は宗像女神?(@_@)
不弥国(ウミ国、つまり宗像市田熊遺跡群)で生まれた卑弥呼は、倭国大乱期は物騒でしたので、ヤマ国(宇佐市安心院町宮ノ原遺跡、三女神社)に疎開していたのです。ヤマ国を難升米は台(女王)の居たヤマ国という意味で邪馬台国と書いたのです。卑弥呼の居た三女神社を基にして、行程記事を水増しして書いたので、研究者が自分の思う場所を邪馬台国として、行程記事を解釈しても、他の人は納得できないので解決しなかったのです。ですから行程記事だけでは邪馬台国を見つけられないのです。卑弥呼の墓「径百余歩の冢(ちょう)」を探せば候補が見つかりますので、その他の条件を精査すれば邪馬台国がどこか分かるのです(^_-)-☆
卑弥呼の墓の有力な候補が宇佐市安心院町「三柱山古墳」と分かりましたので、邪馬台国への行程記事のトリックが分かったのです。
魏の大型船が長期停泊可能な場所が末盧国の伊万里湾なので、上陸地点で方角を、北を東に変更し、不弥国まではほぼ正しい比率の距離になっています。そこから先を、呉の東の海上に邪馬台国を持っていきたいので、水行三十日・陸行ひと月としましたが、実際の日数の10倍に水増ししたようです。赤丸が宿泊を想定した場所を示しています。
最初の魏使梯儁(ていしゅん)は、出発前に帯方郡太守から伊都国で倭国王難升米に面会するように指示されていたので、伊都国より先へは行っていないと考えられます。二人目の魏使張政は、卑弥呼の死後の内戦が終わった後に、勝利者の大国主と女王台与と一緒に邪馬台国まで行って、卑弥呼の墓を確認したと考えられます。
日本神話は藤原不比等が創作したのですよ( ^)o(^ )
日本人の本当の神話は「中国(なかつくに)神話は日本人の神話だった?」にありますよ(^_-)-☆
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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