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【魏志倭人伝】女王 卑弥呼の 使者は 魏の国に 着くと我は 呉の 太伯 の 末なり 位は 大夫なり!と 名乗った!
2021/10/27 歴史マニア@YouTube
「古公亶父」は、太伯の父ですから、二人とも皇室の祖先です(注1)。
魏略逸文に、例えば「従帯方至倭 循海岸水行 歴韓国、至拘邪韓国七千里」とあり、対応する魏志倭人伝の「従郡至倭 循海岸水行 歴韓国乍南乍東 到其北岸狗邪韓国七千余里」と全く同じではなく、いずれも簡潔になっており逸文を残した人物が意図的に削ったようです(塚田敬章「魏略逸文と魏志倭人伝」より)。しかし、特に七千里という里数が同じなので、魏略を撰した魚豢が宮廷の書庫に残っていた二人の魏使の報告書を見て、そこから引用した可能性が高いと思います。
西晋の史官陳寿は当然、魏使の報告書を閲覧できたはずですので、それらの報告書にあった内容をそのまま引用したようです。しかし、「倭人は太伯の後」という部分などはご指摘のとおり意図的に削った可能性が高いと思います。つまり、陳寿が魏志倭人伝を撰した目的は西晋の基礎を築き、宣帝と諡されて称えられる魏の司馬懿を称揚する目的だったので、その部分は不要だと判断したためと考えられます。そのように考える理由は長くなるので、続きを記事にしました。よろしければ拙ブログをご参照ください。失礼しました。
陳寿の意図を示す証拠はいくつかありますが、一番わかりやすいのは、たかが東夷の女王に過ぎない卑弥呼を絶賛する詔書のほぼ全文を魏志倭人伝に掲載していることです。極めて異例なことです。これは戦略上重要な位置にあった倭国に朝貢させた司馬懿が曹魏第一等の功労者だったと西晋の朝廷の人々にアピールするためです。司馬懿を持ち上げることによって陳寿のパトロンで西晋の実力者の張華の顔が立ち、陳寿の評価も上がるからです。張華は三国志の写本を部下に命じて作り、正史の資格を与えたと伝わっています。陳寿は歴史家の前に宮仕えなのです(^_-)-☆
曹操の甥の曹真が魏のライバルの蜀を抑え込むために西域の大国であった大月氏国王を朝貢させましたので、その功績が魏で最高のものでした。曹真は直ぐに病死して、その息子の曹爽が魏の実力ナンバーワンの大将軍となっていましたから、景初二年(238年)8月に公孫氏を滅ぼした太尉司馬懿は、曹真の功績を上回るものとしたいと考え、当時魏の最大のライバルだった呉の会稽郡東冶県の東の海上にあると考えられていた倭国を懐柔することにしました(注1)。
ですから、司馬懿は部下の劉夏を帯方郡太守として派遣し、それまで公孫氏に朝貢していた倭国を魏に朝貢させるように命じたと考えられます。劉夏は帯方郡に訪れた大夫難升米と談合して、邪馬台国へのデタラメな行程記事や、長引く戦乱で人口が十分の一に激減した魏の都洛陽が十万余戸で大月氏国も同じ十万余戸だったので、倭国を大月氏国を上回る合計十四万余戸の超大国としました(岡田英弘「日本史の誕生」弓立社 1994に詳しい)。
当時のシナでは、遠方の大国に、皇帝の徳を慕って朝貢させることによって皇帝に高い評価が与えられました。洛陽から大月氏国の都カーピシー(現在アフガニスタンのバグラーム)まで万六千三百七十余里と知られていました。ですから、帯方郡から女王国(邪馬台国)まで万二千余里ということにして、洛陽から楽浪郡までの約五千里を加え、合計万七千余里だとでっち上げました。九州の上陸地点末蘆国からの方角も南寄りになるように操作しています。
さらに魏の朝廷の人々に、倭国を南国のエキゾチックで不思議な島国と印象付けるために、鬼道で人々を支配する女王が統治者であって、女王は人前に出ないとして、男弟が政治を補佐していたということにしたわけです(「景初三年問題が謎を解く鍵でした!(^_-)-☆」参照)。
ですから、邪馬台国までの行程記事の方角や里数や戸数などは朝廷の人々が納得する程度のつじつま合わせのデタラメだったのです。里数を日数で記述するなどシナ人には考えられないと「隋書 倭国伝」にもありますから、魏使は男弟に面会すれば役割を果たしたことになるので、邪馬台国の卑弥呼には会っていないはずです。結局、倭国の大夫と帯方郡の太守が談合で決めた司馬懿に都合の良い内容になるように魏使に報告書を書かせ、それを陳寿が引用したというのが真相だったと推理しました。
二十一世紀になっても邪馬台国の位置が確定しないのは、多くの研究者がこのようないい加減な行程記事を、正しく解釈すれば正しい場所が定まると思い込んでいたからです。先に自分の思う場所があり、そうなるように理屈をつけて解釈するやり方だったから、万人が納得できないのです。
したがって、邪馬台国がどこにあったのかを知るには、行程記事を一旦横に置いて、考古学などの成果から三世紀の纏向遺跡におけるヤマト王権の成立過程を推理する必要があります。
そこで厄介なのは、現存する日本最古の正史は「日本書紀」ですが、多くの方は天武天皇が編纂を命じたので天皇の歴史書だと思い込んでいます。しかし崩御から約30年後の完成当時の権力者は藤原不比等でした。藤原氏にとって不都合な歴史の真実が改ざんされていることが古代史作家関裕二氏や万葉集研究者渡辺康則氏らによって指摘されています。
戦後の歴史学者の多くは津田左右吉が指摘した内容に拠って、「日本書紀」の早い時期の天皇の話は信用できないとして(注2)、「日本書紀」を全く無視して、考古学の成果だけを使って唯物史観で弥生時代を解釈しようとしました。しかし岡田前掲書で指摘されたように考古学は歴史学の代用にはならず、文献がないと書くことができないので、日本の歴史を正しく示すことができませんでした。なぜ倭国大乱が起こったのかという定説も間違いであったことも発見しました(「倭国大乱の原因が古代史解明のカギ!(^_-)-☆」参照)。
最近は、「日本書紀」に書かれていることは歴史の事実を反映した天皇の歴史書だと考える研究者が多いようです。しかし、上述のとおりですから考古学の成果と矛盾する内容になってしまいます。それでも魏志倭人伝と同様に「日本書紀」の解釈で乗り切ろうと努力されていますが、これもうまくいきません(「神武天皇はいつ即位した?」参照)。
「日本書紀」は藤原氏が権力を握り続けるために、不比等が歴史を捏造・改ざんしたインチキな正史なのですから当たり前です。詳しくは「権力者が歴史書を作る目的は何?」をご参照ください。
しかしいくつも藤原氏に都合の悪い証拠があるのですが、多くの研究者は正史は正しい歴史書・天皇の歴史書だと思い込んでいるので、その証拠を無視しています。例えば、推古天皇の時期に隋書にはアメノタリシヒコという男の大王(おおきみ)が朝貢したと記録されています。しかし、それを無視して推古天皇が実在したと考えているので、このような姿勢では歴史の真相に迫る可能性は絶望的でしょう(「初の女性天皇、推古天皇は「中継ぎ」だった? バイアス外し見えた姿」2022年3月18日 16時30分 朝日デジタル 参照)。間違った定説や権力者に都合の良いフェイク・ニュースをマスメディアの力で国民に拡散し、定着させようとしているようですので、日本の存続にかかわる大問題です。気づいた方はマスメディア離れを起こしていますが、古代史については気づいていない方が多いようです(詳細は「隠された倭王と創作された継体天皇?」参照)。
「日本書紀」で不比等が何を捏造し改ざんしたのかを知るためには、不比等の目的を考え、このような視点で「日本書紀」の内容を疑って、考古学などの成果によって明らかにできることに気づきました。これによって日本建国の真相が明らかとなり、邪馬台国や卑弥呼の謎も解けました。詳しくは拙ブログ「古代史の謎を推理する」をご参照ください。
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ほとんど国民は気づいていませんが、すべての女性天皇は不比等のフェイクだということを京都にある天皇家の菩提寺が教えてくれました。女系天皇を期待すると易姓革命が起こることになり、伝統国家の日本ではなくなりますよ(;´Д`)
(注1)「三国志 呉志呉主伝」に「会稽東(冶)県の人で、海に行き風にあい流れ移って亶洲に至ったものがあると言い伝えている」とあり、范曄「後漢書」に「会稽東冶県の人で海に入ってゆき風にあい流されて澶(亶)洲に至ったものがあると言い伝えているが、その所在はきわめて遠く往来することはできない」とあります(塚田敬章「徐福は日本に来たか?」より)。倭人の王(奴国王)が太伯の後裔なので、古公亶父も奴国王の父祖という意味です。そして日本は古の倭の奴国、つまり倭人の王(奴国王)が日本の皇祖神ですから、結局、当時のシナ人は亶洲を会稽郡東冶県の東の海上に位置する倭国(日本)と考えていたということです。
(注2)wiki「津田左右吉」によれば以下の通りです。
・古事記と日本書紀の元になったのは、皇室系譜の「帝紀」と、宮廷で伝わってきた説話の集合体の「旧辞」である。
・帝紀と旧辞が成立したのは、6世紀の継体天皇~欽明天皇の時期である。
・帝紀の系譜は全て史実ではなく、少なくとも15代応神天皇より以前(14代仲哀天皇や13代成務天皇以前)の天皇は創作された非実在の人物である。
・旧辞の大部分、特に神話の部分は、6世紀の宮廷官人が、上古より天皇が国土を治めていたことを説く為に造作されたもので、史実的な資料価値は全く無い。
最後までおつきあい、有難うございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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瀚海の件ですが、対馬と壱岐の対馬海流は流れが速くて、古代船では東に流されて、壱岐に辿り付けず、移動性高気圧が去る前に投馬國(出雲)に漂着するしかなかったのです。ただ、倭国大乱の後の卑弥呼の時代には、勒島から壱岐に直行する新コースがあったので、こちらを渡航したかもしれません。
考えられる2つのコース
①九州説 郡→狗邪韓國→対馬→投馬國(出雲)→Uターン→壱岐→伊都國→(曳舟)→邪馬壹國(甘木田川吉野ヶ里?)
②近畿説 郡→勒島→壱岐→伊都國→投馬國→網野→(曳舟)→阿蘇湾→邪馬壹國(奈良?) (復路 五島→対馬→狗邪韓國)
出雲→伊都國→対馬の航路は縄文から続く交易ルートだったのです。出雲で翡翠・丹・玉鋼など積み、途中の港でも特産物を積み、不弥国で貨物検査を受け、税を払い、五島から対馬・狗邪韓國に向かったのです。
五島からは春の穏やかな移動性高気圧があるうちに、対馬か勒島からは秋の高気圧があるうちに、年1度の集団移動だったのです。旧暦10月の神在月は、出雲に神が集まり交易品を分け合ったのです。
古代船は埴輪船でおなじみの準構造船で、楠木を掘抜いた丸木舟に、杉板で豪華に上部を盛付けたものです。漕手は6から10人、長さ20から30m、丸太の太さ2.5m位、推力は4から5km/h(持続1時間程度)、毎日浜揚げする必要があったため平底なのです。復元した古代船では波高50cmでも危なく、転覆しやすかったらしいです。
対馬海流の東方向は2.5km/h、場所によっては5km/hなので、5km/hの手漕ぎでは壱岐に辿り付きません。モタモタしていると、高気圧が去り海が荒れてきます。
地乗り航法は、引潮で沖に流され、潮目を変えて、満潮で南の浜に着き、浜揚げします、日に20から30km位しか進めません。これに合わせて20から30km置きに砂浜に湊があり、食料・休息・交代要員などが手当できたのです。この交易ルートを運営していたのが倭国連合だったのです。
新航路ができると対馬のように権益が減り、大騒動になります。後の大乱では、勒島も西端になり、五島も平戸に変わったのです。
郡から勒島まで400kmとすると日に40kmで10日、次に壱岐・伊都國を通り、10日かけて投馬國へとすると水行20日は妥当でしょ。
貴説の根拠となる資料が示されていないのですが、結論はあなた独自の意見のようですね。しかしあなたの現地調査と考えにくいので、もしも参考資料があるのならば念のために、後でご教示していただけると有り難いです。
さて、当方は海洋技術の専門家ではないので、主として手元にある資料を基に以下のように考えています。
遠沢 葆「魏志倭人伝の航海術と邪馬台国」(成山堂書店)– 2003/7/1
魏志倭人伝には狗邪韓国ー対馬と壱岐ー末盧国と同様に、対馬から壱岐までの瀚海(対馬海峡)が千余里とあるだけです。遠沢氏によれば海上の千里は1日(昼間一杯)に進む距離とあり、魏使はこれを記録したとしています(pp.100-107)。
それであなたが言及している点についてもいくつか異なります。
あなたは当時の倭人が通常使う櫂(かい)を使ってのみ走る、丸木舟ではない準構造船を想定しているようです。しかし、帯方郡の遣使が使った船は、当時の魏の船ですから、櫂走船もありますが、帆を降ろして櫂走も可能な帆走船と考えていいとしています(p.38)。ただし、三国時代の船の絵などは不明です。乗員数についても、記載が見当たりませんが、この時代よりもはるかに古い古代エジプトの帆船から考えて、中央にマストが1本あるタイプと考えているようです。
帯方郡から狗邪韓国までの七千余里についても、7日としていますので、帯方郡から末盧国まで一万里は10日かかったということです。そうすると残り二千里で邪馬台国まで行けるということです。
当方は邪馬台国を呉の東の海上で、帯方郡の東南方向に万二千余里にある戦略上重要な大国としたかったので、不弥国(ウミコク、新宮町から宗像市までの海辺の領域)から南に水行20日(本当は2日)で投馬国(遠賀川流域から周防灘に面した福岡県東部一体、中心地は京都郡みやこ町節丸字在馬・豊津付近)、さらに南に行くと邪馬台国(宇佐市安心院町三女神社が卑弥呼の宮室)で、豊津から水行10日(本当は1日)・陸行1月(本当は1日)と書かれたと推理しています。
あなたが、水行10日陸行1月を帯方郡から邪馬台国までの日数と考えておられるならば、水行10日は一万里になり、残り二千里を1月も歩くという馬鹿げた話になります。
邪馬台国まで郡から水行1月陸行1月というのであれば、水行だけで三万里となり万二千余里に矛盾します。
ですから、水行1月・陸行1月は不弥国から南にある邪馬台国までの実際の距離を10倍に膨らませて記載したということが当方の結論です。末盧国から不弥国まで陸を東方向に7百里行っていますので、邪馬台国が帯方郡から東南方向に万二千里という表現と余り矛盾もしないでしょう(^_-)-☆。
もしもあなたの説が正しいならば、そのようなコースを示唆する行程記事に何故しなかったのですか?誰の意図ですか?
物理現象を避けず、真摯に考えれば、堂々巡りの論争は終止できると思います。
最初は九州説のみでしたが、魏志倭人伝は対馬・投馬國・伊都国の交易圏がらみなので、北陸や近畿も視野に入れるべきとしました。
距離測定を解明し、関門海峡と瀚海が簡単に渡れないことを条件に入れれば、魏の行動範囲が絞れると思います。
過去説に囚われず、短里の意味、里程の測量方法、里程の説明、なぜ筑紫島だけ詳細なのか、投馬國と邪馬壹國が里程でなく日程表記なのかを考える。
1.先に貴殿説の疑問点を述べます。
a. 1日漕げば千里進めると記録したのは、信憑性はあるのでしょうか。海と陸を並走して距離を測るなどは、実現不可と思うのですが。
この場合の里程は、長里ですか、短里ですか。
長里なら日に430kmにもなります。短里なら、一寸千里法で直に測れば良いでしょう。
1日漕ぐ測量方法は、海流や風の影響も強く誤差を生じ非現実的です。
1日漕いだら1000里とする新規格なら、山岳を挟む陸地は測れないことになります。
b. 帯方郡から狗邪韓国の7日渡航は無理かもです、地乗り航法で1日千里は無理でしょう。黄海には黄海暖流が左巻きに流込んでおり、郡からは逆流につき地乗り航法となる。日40kmと多めの潮流としても狗邪韓国へは14日はかかるでしょう。
c. 御説では狗邪韓国から不弥国まで3日とありますが、対馬と壱岐は直行できなかったので、無理でしょう。
d. 末盧国からの、500里や100里などは、どのように測ったのでしょうか。1里のロープを使う手がありますが、短里76.6mのロープを作ること自体難しい上に、川や山・曲折道の直線距離は測れません。
不弥国が新宮か宗像としても、末盧国から、伊都國・奴国の距離は合わないようですが、伊都國と奴国の場所が分からないです。
e. 不弥国(宗像として)から豊津までは関門海峡廻りですか、又は仮遠賀湾経由で直方辺りから遡上する曳舟ですか。いずれにしろ2日では無理でしょう。
10倍説はよく聞きますが、戦略上の理由とは言え無理筋、何か根拠があると嬉しいです。
関門海峡が安全に通れるようになったのは明治からで、陸続きだったところが浸食によってできた海峡。大型船は無理、小型船も岩礁が見え隠れする穴門を通る危険航路だったのですが、それでも通過できたのでしょうか。
f. 安心院が邪馬台国ですか、魏にとっては舟は命、舟から離れたくなかったので、安心院までの陸行は曳舟とするのも一案かもしれません。
ただ、倭国連合は出雲の交易圏で、宇佐は瀬戸内海の交易圏かと思うのですが。単に卑弥呼の里ということだったのでしょうか。
g. 水行10日陸行1月を帯方郡から邪馬台国までの日数とは言っておらず、なにも示していません。
h.「呉の東の海上」ではなく、隋書には「会稽の東にあり儋耳と相近し」とあるので、紹興市の真東の種子島でしょう。一寸千里法で観測すると同緯度になります。
2.女王国の世界観
a. 女王国=筑紫島(九州本島)、女王=倭国連合の勢力圏、邪馬壹國=女王の都、女王≠卑弥呼
b. 「女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できるが、それ以外の辺傍の国は遠く隔たり、詳しく知ることができない国々」は女王の勢力圏なので、(斯馬國、已百支國などは)三丹あたりでしょう。知ることができない国は、瀬戸内海の国々でしょう。
c. 女王に属しない国(狗奴國)は近江あたりと推定。近江は財力・鉄器とも優れていた。
d. 女王国の東、海を渡ること千余里の国とは、四国と思われる。一寸千里法で、伊都國と臼杵辺りの南北距離から東1000里が四国に行かずとも算出できる。
e. 侏儒國は種子島と伊都国の南北距離から4000里が算出できる。種子島は行かねば測れない、方向は見えないので南とした、去ること女王とあるので、倭国連合の勢力圏外のはず。
f. 裸國、黒齒國はどこだか正直わかりません。
g. 倭の地は、一周五千餘里は、一寸千里法で測った狗邪韓国と青島の南北距離から、算出した東南斜めの距離であり、倭国のザックリとした大きさである。
h. 自郡より女王国までは萬二千餘里は、沙里院と青島(九州本島)の南北距離から、算出した東南斜めの距離である。
邪馬壹國の場所を求めて12000里に、500里や100里を足合わせるものではない。
3.倭国連合の交易について
縄文の時代より、出雲→宗像→伊都国→壱岐→五島→対馬→狗邪韓国→対馬→出雲の交易ルートが形成され、各湊で食料・休息・補修・交代要員などのサポートを受けていた。
この交易ルートを運営していたのが、倭国連合。
翡翠・丹・鉄加工品などが出雲に集められて輸出、狗邪韓国からの輸入品も出雲で、各国の神が分け合った。旧暦の10月は神在月と言われた。
季節は、秋に対馬から出雲へ、春に伊都国から五島そして対馬と狗邪韓国に、移動性高気圧あるうちに、たぶん何百隻もが一斉に出航した、年1回の交易。
倭国大乱の後の、卑弥呼の時代には、狗邪韓国の西の勒島から壱岐に直行する、つまり対馬をパスする新ルートもあった。
この新ルートも、200年後には、勒島が西南端に移り、五島も平戸に変わるなど、権益が変わりまた大乱。
倭国連合は武力だけでなく、敵意的に各湊でのサポートを中断できたと思われる。
出雲から五島までは、地乗り航法なので日に20から30km位しか進めない、これに合わせて20km置位に砂浜の湊(海の駅)があり、毎日浜揚げするのを現地人がサポートする。
伊都国は、税関の役目をしており、船荷の検品、税の徴収を行っていた。
倭国連合の対馬・壱岐・宗像・伊都国などは出雲の支配圏にあり、伊都国は交通の便、防波の観点から内海の今津浜かと思います。
4.私の自説(と言っても、皆さんの説を纏めただけですが)
(1)里程は観光ガイドの一部。
魏志倭人伝は、邪馬壹國(今は奈良とする)のことも記述したつもりが、実際には九州(女王国)だけを資料が多かったので詳しく書いてしまったのです。
九州(女王国)の部分は、紀行文というか、観光ガイド風になっており、魏が見ている地図を、読者にも描いて貰えるように書いている。
島の大きさ、距離、方向などが書いてあるが、道順は瀚海もあるので、決してその通りに進んでいない。
瀚海の距離は1000里だが、迂回して渡るしかなかった。
(2)九州は大陸との距離が測量できる唯一の場所であり、得意のピタゴラス三角形を使えば楽に計算できた。戦略上、距離感は重要な情報なのだ。
(3)投馬國(出雲)や邪馬壹國(奈良)は、東にあり過ぎて圏外なので測れない、よって里程は無理で、日程しか表記できない。
もし、邪馬壹國が九州なら、日程ではなく、里程表記ができたはず。12000里があると言われるが、女王国であって邪馬壹國ではない。
(4)里程は、一寸千里法で測定した短里での距離である。南北間の緯度(日陰長)の差で距離を割出すが、方向は始点から見た方向だ。
千里は、分析の結果76.6km相当、全て直線距離なので、Googlアースで実体と照合できる。
(5)末盧国の上陸点は呼子とした。他説引用だが、予め壱岐で役人が乗込み呼子での待機を指示した。役人は呼子で下船して、伊都国に走り、客人が入港するので失礼なく迎えるよう指示し、入港許可の合図を呼子に送った。役人に魏が同行したとも取れ、勝手に直行すると税金を取られ兼ねなかった。
(6)投馬國と邪馬壹國、狗奴国の方向
沙里院から見ると投馬國も邪馬壹國も、更に狗奴国も南にある。
(7)食料と財力
当時の九州の食料事情は、米が5%程度だったらしい。米以外の食料は、豚と犬などもあった。保存食は米が一番、遠賀や筑紫で取れる米だけは足りないので、近畿の財力で福井産も購入されたはず。
九州北部の交易品は絹ぐらい?、ボートピープルが多く、食料事情は良くなかった。北陸・信濃など交易品を扱うに財政は豊かではなく、交易ルートの運営は難しかったであろう。
(8)里程の測定地
一寸千里法は、計算が容易なためピタゴラス三角形を多用している。
沙里院から子午線対し36.8度線を青島まで線を引くと、狗邪韓国・対馬・壱岐・末盧国(呼子)、青島までが、ほぼ一直線に並ぶ。(航空写真を見たかのよう)
一寸千里法で、各箇所の日陰長(緯度)を測り、影長差が南北距離になる。1寸差なら1000里の意味、ピタゴラス定理より東西は3/4倍、東南斜めなら5/4倍すれば良い。
その結果で、沙里院・狗邪韓国の間が7000里(頂点は釜山近海)、沙里院・青島近海(又は宮崎神宮付近)の間が12000里である。つまり女王国(筑紫島)のザックリとした大きさを示している。
対馬と壱岐、末盧国は、正確には始点を巨済島東端に少しずれている、ピタゴラス三角形の36.8度線が、狗邪韓国・対馬・壱岐・末盧国(呼子)・唐津・天山と八幡岳・更に裏に廻って宇土までが一直線に並ぶ。これにより、狗邪韓韓国、対馬・壱岐の島の間が1000里、1000里と距離が測れる。なお末盧国(呼子)との距離は1000里だが、実際は概ね400里だ。
他説だが、西暦239年に魏使の中に距離測定の技術者が同行したと言う、が一応念頭に入れておく。
(9)比定地区のルート案(3点)
①九州説1(投馬國と邪馬壹國には行かなかった説)
往路 郡→勒島→壱岐→末盧国(呼子)→伊都國 (奴国・不弥国も訪問無し)
復路 伊都國→五島→対馬→狗邪韓國→郡
この場合、日程はなく単に里程での説明、投馬國と邪馬壹國の日程は倭からの伝聞であろう。
②九州説2(投馬國Uターン説)
(水行20日) 郡→狗邪韓國→対馬→投馬國(出雲)
(水行10日陸行1月) 投馬國→(Uターン)→壱岐→末盧国(呼子)→伊都國→(御笠川?遠賀川?曳舟)→邪馬壹國(甘木田川吉野ヶ里?)
日程は倭からの伝聞の可能性があるので、数日は異なると見た方がいいかもです。
③近畿説(奈良)
(水行20日) 郡→勒島→壱岐→末盧国(呼子)→伊都國→投馬國(出雲)
(水行10日陸行1月) 投馬國→宮津→(曳舟)→須磨→摂津→邪馬壹國(奈良?) (復路に五島→対馬→狗邪韓國に立寄り)
参考資料 (気が向いたら参考して下さい)
(1)古代船について
a. 準構造船の土台は丸木舟(刳舟)ですよ。(遠澤先生著にも記載あり) 楠木を刳り貫いた丸木舟、櫂や櫂は付いているが、基本は漂流航法である。
b. 魏の船は河用なので、外海は無理。恐らく和船をレンタルし、倭国連合が運営する交易ルートの湊で、食料・休息・交代要員のサポートを受けながら、瀚海は渡ったはず。
c. アジアでは準構造船しかなかった。地中海のジャンク船は内海用で、大勢の漕ぎ手で瞬間パワーで相手の船を壊す戦闘用で、長距離用ではないでしょう。
(準構造船の出土品としては、丸木船を再加工し井戸の縁にしたものが、発見されている)
f. 準構造船の帆は、横帆なので順風以外は殆ど役にたたない。縦帆があれば風上へも航走できたのだが・・・。タイトルは失念したが、連続12日間の航海で帆走は1回だけの使用と記録あり。恵比寿船は、1枚で横帆にも、縦帆にもなる優れもので江戸期中期に登場。
g. はにわ船と同じイメージ。漕ぎ手は6人か8人と程度、この人数でも4~5km/h、早く力尽きるので潮目を変えるときなどに踏力か。漕ぎ手は区間ごとに変えたと模様。
h. 準構造船は、砂浜に揚げやすいように平底だ、しかし転覆しやすいのが欠点、だが底に石を嵌めるなど工夫し、貨物をより多く載せられるようした。だが、それでも転覆しやすい。
i. 地乗り航法は、引潮で沖に出て、満潮で別の浜に接岸しながら進み、休息も兼ねて毎回浜揚げして、潮待ちする。航走速度は日20から30kmとされる、潮流からして妥当なのかも。
j. 余談、たしか9回目の朝鮮使が、上対馬から壱岐に向かったところ、全船が瀚海で転覆し、61名(内11名が溺死)の犠牲者が出たとの記録があるらしい。
参考資料:youtube「papaさん」チャンネルがおもしい。
(2)曳舟について
魏から学んだらしく、遡上するに川の両岸からロープで引っ張る。また、丹後半島など地乗りで廻りきれない所では、網野と宮津を、コロに乗せ人力で山を越える。歩くより遥かに遅い。日本海と瀬戸内海にも陸の航路があった模様。
(3)短里の制定
魏の時代はGooleアースも航空写真も、無線通信もなく・時計もなかった。当時を思い、どうやって距離を測ったかを調べてみた。
一寸千里法は、洛陽の夏至日に80寸の棒を垂直に立てると、南中時に16寸の日陰が出来る、北に17寸の影ができる場所があれば、そことは1000里離れていることにする。つまり、1寸(約24mm)の日陰長差を千里とした、無茶振りの机上の単位なのだ。1寸の影長を見て、1里の76.6mのロープを作るのは不可能で、天体観測のときにだけに見える数字なのだ。
Googlアースで見ると、沙里院と青島近海を結ぶ東南920kmが12000里、南北距離を5/4倍(1.25倍)した計算値である。魏は密かに宮崎まで出向き、女王國(九州本島・筑紫島)の大きさを測ったと思う。一寸千里法を模してみると、12000里は青島でないと出てこない数字である。
短里の制定。80:16比と80:17比から緯度角は0.69度となる、地球円周が4万kmですので、千里は76.666kmと算出できます。16寸は北回帰線までの距離を意味し、長里の1里300歩とは全く関係しない。
一寸千里法は、夏至日つまり年1回しか測れないし、お互い見えない場所なので、非実用的と言われるが、測定日が夏至と何日ずれているか記録が判れば補正は簡単だ。始点で測り、数日後に、次点を測れば、1人でも距離が測れるのだ。(一寸千里法の精度は、0.1寸として100里程度)
参考資料:伊能研究の野上先生2015の講演資料(古代中国における地の測り方と邪馬台国の位置 h27-autumn_01.pdf)
ほか(簡易日時計のシュミュレーション 41_230.pdf」)など。
(4)東西と斜め距離算出
一寸千里法では、東西は全く測れない。しかし周碑算経では、角度で見る導線法も併用すれば東西距離が計算でき、見えなければピタゴラス三角形(句股術)を使って、決め打ちで東西と東南斜め距離が割出せる。沙里院から36.8度先の宮崎など見えるわけがないので、九州が島であれば宮崎当たりで36.8度線が必ず海に接する。魏は丹念に南北と東西の距離を測りながら青島(又は宮崎神宮)を、探り当てた。(ピタゴラス三角形は、3:4:5比の辺と36.8度、53.2度、90度の角度を持つ)
余談、青島に到達する前に佐多岬から先の目標というかアテが見えなくなるので、一時的に種子島に南下したと思われる。
(5)壱岐から不弥国までの距離測定
末盧国の上陸点は呼子であったとする。呼子の真東の伊都国(井原)、奴国(吉武)、不弥国(岡田)は全て、日陰長が同じなので同緯度である。壱岐の岳ノ辻から、呼子と伊都国(可也山の裏)、更に大城山の角度が測れるので、三角関数で呼子と伊都国が500里、伊都国と大城山が300里と算出できる。大城山の300里は角度が東寄りすぎるので三等分して、伊都国と奴国、そして不弥国間を各々100里とした。細かい説明になったが、要するに500里、100里、100里は、呼子(末盧国)の線上だ、Googlアースでも確認できる。方向は、壱岐から見た角度で、伊都国が南東、奴国・不弥国が東と記されている。壱岐の対岸は、一面が松原で何処に上陸しても末盧国なので雑に1000里でも構わず、方向も示す必要がない。
(6)導線法の実施例
Googlアースで浜松市と春日部市を線で結ぶ。互いは見えないが、各々は富士山が見える。2点の南北距離を測り、これに3/4倍すると東西、5/4倍すれば南西距離が測れる。この2都市は、345比ピタゴラス三角の36.8度線上なので、計算は楽だ。
更に、藤沢市に立てば真西に富士山が見える。浜松市と藤沢市の南北距離を測ると、浜松市と富士山の距離が登らずに算出できる。富士山までの距離が判れば、春日部市以外の角度が異なる都市と浜松市との距離が三角関数で測れる。
(7)沙里院について
ソウルの中心地は漢江川の北側なので北に勢力地があり、イザというとき橋を落として逃げれる。また、平壌の中心も大同江(川)の北側なので概ね北の勢力地だろう。つまり楽浪郡は平壌とソウルの間の沙里院とされ、戦前に郡旗が発掘されたこともあって、ここを測量の原点だとした。通説では、楽浪郡から帯方郡を陸路で進み、仁川あたりから出航したらしい。
余談、洛陽と沙里院は5000里とある、恐らく長里であろう。googlアースで道を追うと1里430mで大体合致する。この長里の5000里に短里の7000里を足して12000里とする、ナンセンスな説も良く見受ける。なお、大陸の地図は一寸千里法で、まるで航空写真を見たかのように作成し、長里で実測した距離を当て嵌めたのであろう。
以上
魏志倭人伝の渡海ルートは間違い?
https://blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/98f7bd622f9bd73f38f5ee38856401b8
九州説の根拠はいくつかありますが、河村哲夫先生の動画に詳しくありますので是非、ご覧ください。一番支持されている説は、邪馬台国への行程記事で万二千里のうち末盧国まで一万里で、残りは二千里ですから、九州から出ることはないというものでしょうか。そして、安本美典先生も鉄その他の遺物の奈良県との比較から99%福岡県だとおっしゃるように、魏志倭人伝の記述にあるとおり考古学の成果が九州説を支持しています。
刮目天の見解ですが、行程記事は政治的な理由で作られていますので、これを頼りにしては誰もが納得する位置を探せないということで、このブログ記事では日本建国時代の考古学の成果から推理するのが大事だという主張です。でも、魏志倭人伝に邪馬台国あるいは女王国と記述されているわけですから、記事の内容と考古学の成果が一致する部分はウソではない可能性があります。そして金印などのように見つけた人が容易に持ち運べるような遺物は、発掘された場所が邪馬台国だという決め手にはならないかもしれないので、墓などの発見された遺構や遺跡から候補を探すのが良いという意見を前回のブログ記事で述べたのです。そして魏志倭人伝にある通りの卑弥呼の墓を発見していますので、これは有力な候補として考えられるということなのです。もしも、他にも条件に合う候補地が見つかれば、その他の証拠から優劣を決めることができるということなのです。
いかがでしょうか?
torachan208さんが邪馬台国は近畿にあったとする根拠は論理的に上で説明したものを上回るとお考えでしたら、詳しく教えて下さい。よろしくお願いします(#^.^#)
※逆に弥生時代の鉄製品、絹織物等の出土が無い事が、畿内説を弱めているかと思います。
このご質問の回答が長くなったので、次の記事にします。よろしくお願いいたします。