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【総集編】邪馬台国が日本の歴史書から消え、場所すら見つからない本当の理由古代ずんだミステリー@YouTube
2:14:26 吉野ヶ里遺跡で発見された石棺墓の驚きの真実
@katumoku10
吉野ケ里遺跡の謎の石棺について詳しい解説をありがとうございます。
被葬者は、大国主神話の国造りのパートナーの少彦名命です。これは史実だったことがこの墓のサイズから分かりました。玉類がないので女性のものではないと分かりますから。
そしてこの神様ですが、米原市日撫神社で祀られています。一緒に祀られているのが息長宿禰王で神功皇后の父親です。つまり大国主に外交上、13歳で卑弥呼の後の女王に立てられた台与の父なのですよ。もうひと柱は応神天皇ですので、台与の子です。でもこれは宇佐八幡宮と同様に後で応神天皇にされていますが、元はその本当の父大国主高野御子なのです。ムナカタ海人族を束ねる王で、最後の奴国王スサノヲの子孫です(詳細は「【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!(@_@)」参照)。
石棺のあった場所には日吉神社があって、現在は近くに新築されています。そこで発見しました。
少彦名命は常世の神、医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神など多様な性質を持つとwikiにあります。
ご神体が何と石仏だったのです。
近くで見れないのですが、左手に薬壺とも宝珠ともいわれるものを持っている薬師如来像だったのですよ。
少彦名命の本地仏でしょう。
社殿の周りに4つ石祠があり、その一つに薬師如来の十二神将のひとつ因達羅大将の石像が彫られていましたので確信しました。
詳しくは「【吉野ヶ里遺跡】え?日吉神社ご神体が仏像なの?(@_@)?」をご参照ください(;^ω^)
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下の図は卑弥呼の死の直前の様子ですが、247年3月24日の日没頃に北九州で皆既日食がありました。伊都国に居た倭国王難升米が、狗奴国軍が倭国に向かっている情報を聞いたタイミングで日食が起こりました。伊都国では太陽が欠けながら海に沈む、珍しい日没帯食を見て、太陽神を祀る卑弥呼が不謹慎のために起こった不吉な現象と考えて、卑弥呼を暗殺する命令を出しました。通常の皆既日食は欠け始めて元に戻るのに10分程度ですので不安は一時的ですが、日没帯食は次の朝日が昇るまで不安になりますので刺客を送ったと推理しました(詳細は「卑弥呼の日食のはなし?!(@_@)」参照)。
狗奴国軍が奴国に到着しましたが、卑弥呼の死を知った弟赤坂比古はおなり神を喪って戦意を喪失したと考えられ、倭国王難升米は勝ち目がないと考えて親魏倭王の金印を持って、魏の協力で再起を図るために帯方郡に逃げたと推理しました(注)。
無傷で倭国を手に入れた狗奴国軍の大将の尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト、記紀の仲哀天皇)は捕らえた魏使張政の甘言によって倭国王に立ったのです。副将のムナカタ海人族を束ねる王久々遅彦(王の襲名、大国主高野御子のこと、記紀の武内宿禰、応神天皇の本当の父)が尾張王に不服で争いになりました。卑弥呼の弟赤坂比古は、かつての主筋で従弟の久々遅彦に味方して尾張勢を攻撃したので、乎止与命は南に敗走しましたが、鳥栖市付近で赤坂比古勢に討たれて戦死しました。鳥栖市永吉町赤坂にある九州最古級の前方後方墳赤坂古墳に葬られたと推理しています。
魏志倭人伝では千人が死んだとありますが、戦死者が多数出たということです。この戦いの勝者久々遅彦は再び捕らえた張政の進言で、卑弥呼の宗女台与を外交上女王に立てて魏を後ろ盾にして、狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)を裏切って倭国王に立ちました。列島に展開していたムナカタ海人族が久々遅彦の傘下になり、倭国は楽浪郡や半島南部との交易で隆盛になりましたので記紀で大国主と呼ばれたと推理しました。
新しい女王台与の父息長宿禰王(おきながすくねのみこ、記紀の神功皇后の父)が吉野ヶ里遺跡に入って大国主の国づくりに協力したのです。とても小柄なシャーマン王でしたので大国主神話で少彦名命とされたのでしょう。吉野ヶ里遺跡で近江の武将が使用する手あぶり土器が出土しています。
また、上の内戦で戦死した部下のものと思われる前方後方墳が吉野ヶ里遺跡の南内郭で4基見られます。最初の前方後方墳は220年頃の東近江市神郷亀塚古墳と考えられています。上で述べた尾張王が葬られたと推理している赤坂古墳も前方後方墳ですが、近江から尾張に伝えられたようです。尾張王乎止与命は息長宿禰王と近い関係だったので、姫巫女の台与を記紀で、仲哀天皇の皇后気長足姫尊(神功皇后)としたと考えています(詳細は「天香山のひみつ(#^.^#)」参照)。
<近江の武将が使用する手あぶり型土器>
(注)倭国王難升米が魏使張政を伴って帯方郡に入っていたら、この後の狗奴国王(記紀の崇神天皇)が大国主や台与・赤坂比古を討つこともなかったので(記紀の大国主の国譲り神話)、4世紀から次第にエスカレートして8世紀までつづいた天皇家の血みどろの殺し合いはなかったはずです。日本の歴史の悲劇は3世紀後半のこの事件が原因でしたので、とても残念!元を質せば、奴国王スサノヲが師升らに反乱されなければよかったので、史実を知っていた平安時代の人々はスサノヲを疫病神の元締めと考えたのでしょう。
難升米も、たとえ帯方郡に無事に到着しても、後で張政の報告を聞いた帯方郡太守は司馬懿の命令で難升米を用済みとして抹殺したと考えられますので、大失敗でしょう(合掌)。
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