刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

権力者の歴史書は政治文書だよ!(^_-)-☆

2023-10-12 10:47:29 | 古代史
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とてもいい動画を見つけましたので、お邪魔して以下のコメントを書きました。わたしの読者には、「またかア!もう飽きた」と言われるかもしれませんが、よろしければおつきあいください(#^.^#)



権力者が作った歴史書とは、権力の根源が正統であることを示す政治文書だという理解をすれば、西晋の史官陳寿が編纂した三国志、そして三世紀の倭のことが書かれた魏志倭人伝の内容を正確に解釈できます。

この観点から、魏志倭人伝の版本に倭大夫難升米が帯方郡に行ったのは景初二年(238年)六月とありますが、景初三年の誤写であることは明らかですよ。難升米が面会した太守は劉夏だと明記されており、先に明帝が送った太守とは異なる人物なのです。

魏志倭人伝には卑弥呼の朝貢を絶賛する詔書がほぼ全文掲載されており、司馬懿が尚書省を把握したので司馬懿が書かせたものですから、陳寿は司馬懿の功績を当時の西晋の朝廷の人々に明示するために書いたのです。(2023.10.12 赤字修正)

倭が朝貢したのは明帝の功績ではなく西晋の宣帝と諡された司馬懿の功績だと晋書にもあります。西晋が魏から帝位を禅譲されたので、三国志では魏を正統な王朝とし、西晋の朝廷の人々に対して司馬懿の功績を称揚するために書いたのだと分かります。



魏志倭人伝の行程記事や倭の風俗記事は、難升米が朝貢のために約半年滞在して劉夏と司馬懿を持ち上げるために談合して作られたのです。これは、伊都国の国名の意味から判明し、孟子を読む教養人の難升米が漢字で書いて魏に教えたものであることが判明しています(詳細は「刮目天の古代史 伊都国の意味がヒントだった?」参照)。

これによって邪馬台国の位置も、卑弥呼の正体も、卑弥呼の墓が日本最大の円墳の宇佐市安心院町「三柱山古墳」であることも発見しました(詳細「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」参照)。


古代史に謎が多いのは、政治的な理由から文献に真実が書かれていないからなのです。

同時代史の三国志に懲りたシナは、それ以降、ずっと後の時代に歴史書を編纂する習慣が定着したので改善されましたが、原本が残っておらず、残された写本にも誤字などがあるために様々な解釈が出るという問題があります。

日本の場合は、現存する最古の正史「日本書紀」以下の六国史は藤原政権下で編纂されたものですので、天皇の歴史書ではなく藤原氏の権力維持のための政治文書だったということに気付けば謎の古代史はどんどん解明できますよ。

詳しくは「【刮目天の古代史】古代史を推理する」などをご参照ください!お邪魔しました(^^;)

【参考記事】
魏志倭人伝の真相「空白の150年」に何があったのか?(その2)


【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!
卑弥呼についてはこちらにたくさん情報がありますよ( ^)o(^ )



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邪馬台国問題解決のカギは伊都国でした(^_-)-☆

2023-10-11 10:00:22 | 古代史
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とてもいい動画を見つけました。たくさん意見交換されていました。よろしければ、あらかじめこの動画といろいろコメントを見られると、邪馬台国問題の浸透を実感できますので、お時間の許す限りお楽しみください。そして、いつものように、この問題を解決に導く一つの考え方をかいつまんでコメントしましたので、是非お付き合いください( ^)o(^ )




とてもいい動画をありがとうございます。多くの皆さんからコメントが寄せられていますが、なぜこうも意見が百出し、結局邪馬台国は一体どこなのかも分からない現状を分析すると、考古学や民俗学などの成果をつまみ食いして自分の好きな場所に邪馬台国を持って行けると考える人が多いのだと思います。タイトルの通りなのです。だから、この伊都国に着目するのは正しい発想です。なぜならば、伊都国には考古学の成果などからたくさんの情報が詰まっている当時の倭国にとって一番重要な国のひとつだからです。逆に伊都国を無視するような意見は考古学の成果を無視することになり、採用しにくいのです。

それで邪馬台国の女王とされる卑弥呼が登場する経緯は現実離れして、とても怪しいのです。なぜならば、卑弥呼の死後に登場する新しい女王は13歳ですから、千人ほど死ぬような争いを治められるはずありません。抗争の勝者が卑弥呼の後継(宗女)として立てたことが分かります。だから、13歳以上の卑弥呼であっても倭国大乱を自ら終結させるだけの政治力があるとはとても考えられません。そこには何らかの政治力学があったはずです。

そこで、二世紀末の倭国大乱の実態が気になります。どういう勢力が何故、争ったのか?従来、弥生時代は大陸から人を殺傷するための武器を持ち込んで、稲作で生まれた食料を互いに奪うような戦乱の時代だという意見がありましたが、弥生時代は紀元前十世紀後半から北部九州で始まり、水田稲作は時間をかけて東に普及していったことが分かってきましたので、弥生中期の甕棺墓の分布と殺傷人骨の例を調べると、水や土地や食料の争いなどが頻発したとは言えない結果が得られています(「弥生人は戦争好き?ウソですよ」参照)。

弥生後期になって、倭国大乱が起こっているのですが、これも鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べると、主に筑紫平野・佐賀平野・福岡平野などで、環濠などの溝から出土する矢戦の痕跡が見られ、南九州や中国・四国地方やその東の地方にはこのような痕跡は皆目見られませんでした(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。




だから倭国大乱の状況は主に北部九州で起こった限定されたもので、ここが倭国だったと考えられます。そして、敵対する勢力は菊池川沿いの方保田東原遺跡・うてな遺跡に、山陰から畿内の土器が数多く見られ、これらの地域から兵を集めて前線基地にして倭国側を襲ったと分かります。だから狗奴国の王卑弥呼よりも先に登場する狗奴国の官狗古智卑狗は指揮官だったのです。

この時点ではまだ卑弥呼は登場しません。そして、阿蘇山麓から大分県大野川流域に数多くの鍛冶集落がありますので、ここに半島南部の板状鉄素材を持ち込んで武器を生産し、狗古智卑狗勢に供給していたと推理できます。ということは半島南部の鉄資源を支配していた勢力が狗奴国側だと分かります。倭国と敵対勢力ですから、糸島市の伊都国から壱岐経由で狗邪韓国に渡ることができませんから、沖ノ島経由で渡ったと推理できます。玄界灘を活動域とする縄文海人ムナカタ族が狗奴国側だったと分かります。



ということで、狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコの誤記)はどこにいたのかも推理できますね。3世紀に突然生まれた大型の宗教・政治都市の纏向遺跡には列島内のほとんどの地域から首長クラスの人々が集まって祭祀・祈祷を盛んに行っていたのです。外来土器から分かります。しかし、北部九州の倭国の人はほとんど来ていないことが分かりますから、狗奴国の正体は纏向遺跡だったと推理できます。



それではなぜ、倭国と狗奴国が戦争するようになったのかですが、これが伊都国という国名から推理できてしまうのです。

107年に後漢安帝に160人もの生口(奴隷)を献上した倭国王帥升の史実が范曄「後漢書」にありますが、原本は残っておらず、後の文献から倭の面土国王師升が正しいと分かりますが、面は回の俗字を誤写したもので回土(ウィト)国だと白鳥庫吉先生が指摘しました。

糸島市三雲遺跡に伊都国王の王宮がありました。その番上地区からは楽浪土器が集中して出土していますから、シナの外交使節や華僑などが居住していたと分かります。伊都国王は彼らと交流し漢字の読み書きもできたはずです。福岡市雀居遺跡から木製の組み机が丸ごと出土していますし、硯石の欠片は北部九州を中心に出土していますから、当時の倭人の中には文字を読み書きする人間が居たのです。倭人の中に通訳も居たはずです。ですから57年には後漢光武帝から金印を賜うことができたのです。この当時は回土国と書かれたのを伊都国と書いた人物が特定できました。この字は倭国の他の国々や人名にない、歴史的に意味のある好い字だったのです。女王卑弥呼の居た邪馬台国への行程記事を書いたのもこの人物だと推理できました(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。

ということで、邪馬台国の場所も発見し、卑弥呼の正体も分かりました(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」参照)。ですから、逆に行程記事のなぞも解けたのです。



従来の研究者も含めて、多くの方は文献に書かれたことをある程度信じて、後は想像を膨らまして文献を解釈してつじつま合わせの作業に没頭するだけで、何が正しいのかさえ分からなくなっていたのです。

文献に真実が書かれていたら謎など存在しません。

だから真実を見つけ出すには事実との食い違いを分析すれば分かります。そこから真相に導く仮説が生まれ、事実で検証を重ねて真相を解明する科学的な推論手法が必要なのです。詳しくは「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をご参照ください。お邪魔しました(^^;)





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日本列島に集まった人々とは?(^_-)-☆

2023-10-09 13:25:52 | 古代史
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2023-10-08 00:00:10の記事に、本考察を裏付ける最新のゲノム解析結果の図と解説を文末の【参考文献】に追加しましたので、よろしければお付き合いください( ^)o(^ )

2022-06-08 02:00:13に記事にしましたが、その後分かったことを追加しました。お付き合いください(#^.^#)

wiki「日本人」に「核DNA解析によって推定される日本列島への人類集団の移住の歴史という項目が加えられていました(青字で示す)。すでにwiki「日本人」のY染色体DNAのデータに基づき、文献や考古学から分かった事実から推論した結果を記事にしていますが、核DNA解析の結果と合わせて、日本列島への人々の移住の歴史を考えてみたいと思います。まだよくわからないところもありますが、疑問点などを教えて下さい。どうぞ最後までお付き合いください(*^▽^*)

第一段階(狩猟採集民)(約4万年前から約4400年前、旧石器時代から縄文時代の中期)
第一波の渡来民が、ユーラシアの各地からさまざまなルートで日本に流入した。特に1万2000年前まで日本は大陸と陸続きであったため流入は容易であった。この集団は狩猟採集を主とし、現在の大半の東アジア人とは大きくDNAの異なる集団だった。この旧石器時代の日本人がそのまま縄文人へと発展したと考えられる
(斎藤成也「日本人の源流」河出書房新社2017 pp.165-168)。

上述のとおり日本列島に旧石器時代から人々が列島に流入します。5万年前に中央アジアに居た人々がオホーツクあるいは華北・朝鮮半島(この頃は大陸の一部で半島は形成されていない)を経由してほぼ地続きの日本列島に到達した祖先から(D型)縄文人系(D1a2、旧D1b)の人々が生まれました。また、4・5万年前にイランで祖先と別れてチベットを経由して日本列島にやって来た人々から発生したC型縄文人系(C-M8、C1a1))が日本列島で生まれています。古墳時代初頭(3世紀後半)と推定できる青谷上寺地遺跡で出土した人骨に見られました(「【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?」参照)。

紀元前1万年から前五千年ころの朝鮮半島には遺跡が見られず、多くの人々は半島を通過して日本列島にやって来た模様です。紀元前4千年頃に櫛目文土器時代が始まっています。日本本土の現代男性の約40%が(D型)縄文人系で、一般的には縄文人といえばこの系統を指します。アイヌ人で約80%、沖縄人で約60%と高頻度です(「日本民族の父系のルーツと地域性について!」参照)。またC型縄文人系は本土日本人男性の2.3%とわずかですので、区別する必要がない場合には(D型)を省略して縄文人系とします。



第二段階(漁撈・園耕民)(約4400年前-3000年前)
縄文時代後期になって、第二の渡来民が流入した。これは縄文人とDNAを大きく異にしていたが、後述の第三期渡来民とも若干異なっていた。斎藤はこの集団を黄海沿岸に住む「海の民」と推定し、漁労を主とする狩猟採集民もしくは狩猟採集と農耕をともに生業とする園耕民であったとした。この集団は日本列島中心部において縄文人と混血したが、北海道、南西諸島、東北地方にはほとんど影響を及ぼさなかった
(斎藤p.168)。また、ABO式血液型の分布から、この集団はO型を主とし、シベリアもしくは東南アジアの集団と近縁である可能性がある(斎藤pp.184-186)。

遼河人系(N1)の人々は8,200年前ころに遼河文明を開いたが、その一部が日本列島に進出し、三内丸山遺跡(5,900年前~4,200年前)を営んだものと考えられています。園耕民というのは農耕だけでなく、採集狩猟も生業としている人々で遼河人がその生活スタイルでした。



玄界灘に面した北部九州(宗像)から山陰(出雲・伯耆など)などの日本海沿岸部を活動拠点として、列島全域・南西諸島から半島沿岸部を主な活動域として黒曜石や貝輪などの交易をおこなう縄文海人ムナカタ族が遼河人とも交流して蛇の文化を導入したと考えられます。女性は海女(あま)としてアワビなどの採取を行い、塩漬けにして男性の海人族が丸木舟で列島周辺の各地に移動して交易を行っています。この頃半島の東岸・南岸部も日本海沿岸の縄文海人の活動域だった模様です。その痕跡として、鹿角製アワビオコシ、石棒や宗像女神「卑弥呼」の原形となる海娘神を祀るお堂などが残っています(「【検証3】『神宿る島』宗像・沖ノ島の謎」参照)。

ムナカタ海人族の集落と考えられる、3世紀後半の青谷上寺地遺跡の無差別大量殺害現場に残された11体の人骨から採取したミトコンドリアDNAで母系のルーツがわかります。列島固有の縄文系M7a1が1体だけでした。残りは全て渡来系でしたが、列島や半島に見られるD4群が6体で(すでに縄文時代の人骨に見られます)、越南辺りから南西諸島経由で列島に来たと考えられるF群が2体でした。また、遠く中東から半島経由で列島に来たと考えられるN群が2体でした。ムナカタ海人族の男性は出張した先で妻をもらい、根拠地に連れてきたようです。だから日本民族はいろいろな地域の文化を受け入れることのできる柔軟な民族なのです(「【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その11)」参照)〕

第三段階前期(農耕民)(約3000年前-1700年前)
朝鮮半島から稲作を主とする渡来民が流入し、水田稲作を導入した。この集団は主に北九州、畿内、関東を結ぶ日本の中心軸に広がり、その他の場所では比較的影響を及ぼさなかった。特に北海道や南西諸島、東北への影響は引き続きほとんどなかった
(斎藤p.168)。

周の成王(前1042~前1021年)の時代に倭人(O-47z)と越人(O-M95)が朝貢した記事が「論衡」に見られます。倭人が周王に献上した薬草ウコンは海南島の北広西チワン族自治区の特産ですから列島に4.4~6.6%見られるmtDNAのF群は倭人のものかも知れません(青谷上寺地遺跡の人骨の中にY-DNAのOタイプがあるという情報はありましたが、倭人O-47zだったかもしれません)。

倭人はもともと長江河口で水田稲作と漁労を行う人々でしたが、主として半島南部に展開しました。倭人の中で、半島と済州島の間の暖流と寒流がぶつかるチェジェ島付近でナマズではなくカタクチイワシを採っていた人々が東鯷人と呼ばれたと考えています。(「東鯷人(とうていじん)って?」参照)。

越人系の人は日本人男性の0.8%程度ですのでほとんどいませんが、出雲・伯耆地方のムナカタ海人族は越人の文化と考えられる鳥信仰を取り入れています。頭に鳥の羽を付けて舟を漕ぐ羽人の絵画土器が米子市の角田遺跡で見つかっています。ムナカタ海人族の一部が作ったと推理している唐古・鍵遺跡で出土した土器に羽を手や頭に付けた巫女や巫(かんなぎ)の絵が描かれています(「弥生文化はインドのタミル人と縄文人の邂逅で生まれたのか?」参照)。

【検証25】水田稲作が日本へ伝来したルートは?(*^-^*)で述べましたが、半島から文化が伝わってきた事実を嫌悪する日本人がいます。でもその当時の半島人と現在の半島の人々とは違いますので、事実は事実として受け入れてくださいね(「半島の古代史だ!(漢四郡まで)」参照)

夏王朝の王族は姫氏(O1a)ですが、その一族が後に殷周革命によって周王朝を建てました。周の先王「古公亶父」の末子季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、「わが家を興すのは昌であろうか」という父の意を量った長男太伯とその弟虞仲が、季歴に後を継がせるため荊蛮の地(長江下流域)へと自ら出奔し、そこで呉を興したと伝わっています。呉王族のハプロタイプは原始夏人系O1aです。被支配民が倭人O-47zの集団です。倭人が太伯の後(太伯には子がなかったので、虞仲の末裔)と『魏略』逸文(『翰苑』巻30)や『梁書』東夷伝に記されていますが、倭人の支配層である呉王族のことです。越人O-M95の王族も同様に原始夏人系と知られています。

紀元前473年に越によって滅ぼされた呉の王族が半島南部を経由して、前4世紀初頭に福岡県早良平野に集落(吉武高木遺跡)を築きました。弥生中期から後期前葉にかけて列島内の交易と対外交易を支配して隆盛になったと考えています。57年後漢光武帝から金印を賜った奴国の王の祖先です。初代王が天御中主(あめのみなかぬし)として『宋史』「王年代紀」に記載されています。これによると23代の王が筑紫日向の宮に居て、最後の王の4男が大和州橿原宮に遷り、神武天皇に即位したとあります。「日本は古の倭の奴国」つまり天皇家のルーツは呉王族というこの仮説が正しければ、万世一系の天皇家は、現代日本人男性の3.4%を占める原始夏人系O1aのハプロタイプとなります(注)。

史記によれば、紀元前219年 徐福が「始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出しました。平原広沢(広い平野と湿地)を得て王になった」との話があります。徐福は海神から貢物を持ってこいと言われていますので、奴(ナーガ=龍蛇神)国王の要請で来日したと考えられます。一行が大船団を組んで列島に渡ろうとしましたが、一部は船団から外れて、列島にばらばらにたどり着いたようです。日本の約二十カ所に徐福の伝承が残っています。

各五百人の男女という伝承もありますが、かなりの規模の人数が北部九州に居住し、徐福は佐賀平野を領地として奴国王から認められたと推理しています。青銅器の冶金技術者は須玖岡本遺跡にある王宮の隣の須玖タカウタ遺跡などの官営工場で青銅鏡(多鈕鏡、たちゅうきょう)や武器形青銅器の製造に携わったと考えています。また徐福一行の中の楽師が奴国の宮中祭祀などを行うようになったと考えています。その末裔が107年に後漢安帝に朝貢した師升らで、クーデターにより奴国王スサノヲを殺し、奴国が滅亡したと推理しています。徐福は斉国の琅邪郡(現在の山東省臨沂市周辺)の出身ですので、一行はシナ人系だけでなく、山東・龍山文化の担い手だった殷(商)人系の男女も来ていた可能性があります。

弥生中期中葉から後期前葉にかけて楽浪郡から華僑が来日し、伊都国三雲遺跡番上地区に居住していると考えられるので、シナ人と倭人との混血はこの頃から起こったと考えています。楽浪郡ですから殷(商)人系の華僑もいたのかも知れませんが、多くはシナ人系と考えています。

第三段階後期(約1700年前-現在)
政治の中心が畿内に移り、朝鮮半島に加え、現在の上海周辺からも若干の渡来民が流入するようになった。古墳時代に入ると、東北地方に居住していた第一段階(旧石器・縄文人)の子孫の大半が北海道へ移り、替わって第二段階(漁労民もしくは園耕民)の子孫を中心とする人々が住み着いた。南西諸島では、グスク時代に南九州から第二段階の子孫を中心する集団が移住・混血し、江戸時代には第三段階の集団との混血も進んだ。北海道では古墳時代から平安時代にかけてオホーツク文化人と縄文人の子孫との交流があり、江戸時代以降は本土日本人との混血も進んだ
(斎藤p.169)。

景初三年(239)卑弥呼が親魏倭王となったので、狗(旧)奴国(纏向遺跡)が呉と同盟して、呉の支援を受けたと推理しています。呉の紀年銘の鏡が二面出土しています。呉鏡を製作をする人たちが列島にやって来たと考えられます。

280年、西晋により呉が滅ぶと、倭人を頼って呉人(倭人O-47z)が列島に流入してきたと見られます。7-8世紀に漢音(長安付近の音韻)が伝わるより前にすでに日本に定着していた漢字の読みは呉音と言われるものですから、前10世紀ごろから列島に来た倭人(呉人)が漢字のもとになった文字(西周・春秋時代の金文)の発音を伝えたものではないでしょうか?(「「呉音」はいつ日本に入って来た?」参照)

西晋に朝貢していた大国主久々遅彦と女王台与の倭国を狗奴国が滅ぼしてしまったので、狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)は西晋に討たれるのではないかと心配しました。そこで大国主と台与の子供(記紀のオオタタネコ)を探して纏向に連れてきて祭祀王にしました。狗奴国を卑弥呼と台与を受け継いだヤマト(邪馬台)国と呼ぶことにしたと推理しています。この頃に景初三年銘の三角縁神獣鏡などを作って卑弥呼が魏の皇帝から貰った鏡としたのかも知れませんね(*´Д`)

663年白村江の戦いで百済復興軍と倭国軍が唐・新羅軍に敗北し、新羅が半島を統一したので、半島南部のほとんどの倭人は列島に移住しました。新羅人・高句麗人・百済人などと呼ばれる人々は異民族と勘違いされますが、当時は出身地で区別して言っているだけなので、現在の半島人とは異なると推理しています。つまり、ほとんどが倭人でしょう(「渡来人は異民族とは限らない?」「天皇家が高麗にゆかりがあるのか?」参照)。

現在の日本人男性の約8%の殷(商)人系の一部は徐福由来などかも知れませんが、多くは明治時代の日韓併合以降に列島に来た人々ではないかと考えています(^◇^)

三世紀の日本建国で大活躍した縄文系のムナカタ海人族は、ただ海の民として交易と漁労で生きていたわけではなく、水田稲作を受け入れて生活の基盤にしていたようです。水田稲作技術を持った第三段階前期の倭人とも半島南部で友好関係を保ち、混血しました。非常に柔軟で進取の気質のある生き生きした活動的な人々で、現代日本人にも受け継がれています。日本民族は古墳時代初頭(第三段階前期)にはほぼ形成され、七世紀には半島から渡来人と呼ばれる人々が、多くは列島に戻って来て、現在の日本民族となったと考えられます。つまり渡来人というのは、第一段階から半島に渡った縄文系の人々と半島南部の倭人(呉の人々)とが混血し、第二段階で列島にやって来た倭人が半島から遅れてやって来た人々ですから、日本民族のルーツとなる人々だったのです(「古墳人が現代日本人に近いの?」参照)。

(注)このタイプが日本人男性の頻度としては少なすぎるという意見があります。人類の始祖神の天皇伏羲から約4千年もの気の遠くなる長い時間の中で倭人系や縄文人系などのハプログループに置き換わっている可能性も否定できませんし、仮説検証のために天皇陛下のDNA解析を行うなど不敬極まりない話ですので、たとえそうであっても、Y染色体だけがこの仮説の成否を判定する材料ではありません。その他の圧倒的多数の考古学や民俗学などの成果によって仮説が検証されます。

ご存じのとおり、ヒトの遺伝情報は細胞核の中の1対の性染色体だけではなく、残りの22対の常染色体も父親と母親から半分づつ受け継ぐのです。常染色体によって体質、性格、顔つきなどが遺伝されます。

三世紀の日本建国から千七百年もの長い歴史を生き抜いた皇室の伝統文化を現代までご皇族が継承してきたことはとても重たいものがあります。一つのY染色体を持つアダムは、およそ 236,000年前にアフリカに住んでいたと推定されていますが、現在まで無数のハプロタイプに分岐しています。一つのY染色体の継承も形式的には大切ではありますが、伝統的な宮中祭祀を継承していただいて、日本民族の統合の象徴となっていただいていることの方が日本民族にとってはるかに重要だと思います。

【参考記事】
【刮目天の古代史】倭人とは?
古代日本は海人国家だった
【参考文献】
藤尾慎一郎「数値年代とDNAがもたらすこれからの弥生文化研究」
考古学雑誌Vol.105No.2、2023,pp.89-103

上図にある愛知県朝日遺跡の人骨は紀元前6世紀後半(弥生時代前期)のもので、「篠田(謙一)氏によれば、これまで分析した弥生時代人の中ではもっとも中国北部西遼河流域の新石器人に由来する遺伝的要素を多く持っている」とのことです(p.100)。2体について篠田氏らによるミトコンドリアDNAの解析結果はありましたが、「弥生時代以降に大陸からもたらされたものであると考えられる。」とありました。Y染色体DNAのハプログループの情報は分かりません。約5千年前の三内丸山遺跡の遼河人系(N1)の人々は、現代日本人男性の1%以下ですが、彼らの子孫との弥生時代の縄文人または倭人との混血が考えられます。

また上図の説明(最終段落)にある、現代日本人(ヤマト人)に近いDNA解析結果が出た獐項遺跡(約5,000年前)の人骨は韓国加徳島です。篠田氏らによって2019年に発表されています(「ゲノム配列を核としたヤポネシア人の起源と成立の解明」令和2年度科研費事業中間報告書)。その中に「縄文人のゲノムが現代ヤマト人と同程度(~10%)含まれていることを発見した。これは現代韓国人に含まれる縄文ゲノムの割合(ほとんど0%)と比べて明らかに異なっている。」とあります(p.10)。

上の図から分かるように、獐項遺跡の人骨は、翌2020年に同グループでDNA解析結果が報告されている青谷上寺地遺跡の人骨とほぼ同じ縄文人の人骨です(「鳥取県鳥取市青谷上寺地遺跡出土 弥生後期人骨のDNA分析」)。青谷上寺地遺跡の性別が明記された5体の男性人骨のY染色体DNAのうちC型縄文人系C1a1(C-M8)が2体あったのは分かりました。1体は不明ですが、DタイプとOタイプまでしか記載されていないものが各1体もありましたので、それぞれD型縄文人系D1a2a(D-M55)と倭人系O-47zではないかと推測しています。獐項遺跡の縄文人のものも含めて、これらの詳しいハプロタイプも知りたいところです。

(左クリックで拡大)






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半島の古代史だ!(漢四郡まで)

2023-10-07 07:10:39 | 古代史
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2023-10-06 00:10:25に記事にしましたが、櫛目文土器以前の半島の様子について分かり易い記事を見つけましたので、該当する内容を注記して改訂します(紫色文字部分)。改めて、コメントしていただいた方に感謝します。

2020-07-11 13:51:34 に記事にしたものに、紀元前3世紀末から前2世紀初頭に韓半島に流入した人々について新たに分かったことを付け加えて改訂しました。初版:2017-03-04 06:50:58ですが、勉強しながらですので独自の見解があります。疑問点など遠慮なくコメントください!最後までお付き合いください(#^.^#)

前回、【検証9】奴国時代の話(その1)で三韓のうち馬韓・辰韓が大陸からの戦争難民で生まれたことを述べた。今回は紀元前206年に秦帝国が滅び、前漢が成立して、武帝によって半島が支配された漢四郡の時代前後までを考えたい。

紀元前11世紀ごろ江南系倭人(呉人)が半島南部に、それ以前は縄文海人が列島から海岸部にやって来ており、呉の人々に混ざって生活していた。下図は半島の有文土器時代から三国時代までの主な集落と稲作や雑穀の痕跡のある遺跡の分布を示したものだ。(後藤 直「朝鮮半島原始時代農耕集落の立地」第四紀研究/33 巻 (1994) 5 号



有文土器時代紀元前5000年から1500年の頃に及ぶ。新石器時代に対応し、日本の縄文時早期から晩期までに併行する。磨製石器を使って主に狩猟や漁労を行って、イネ(陸稲)・アワ・キビなど穀類も栽培して生活していた模様で、紀元前4000年頃の前期から中期にかけての土器に櫛の歯のようなもので模様がつけられた土器が出現するので櫛目文土器時代とも言われる(注1)「これはユーラシア北部一帯(フィンランド、ロシア、シベリア、中国東北部など)にみられる土器だが、最古のものは遼河文明から発見されており[1]、当時の朝鮮半島はウラル系民族(ハプログループN (Y染色体))が担う遼河文明圏[2]にあったことが示唆される。朝鮮民族の基層はウラル系民族の可能性が高い」とWikiにある。縄文時代前期中頃から中期末葉(約5900-4200年前)の三内丸山遺跡も遼河人系が生活したといわれている。(20023.10.7 改訂)

紀元前12世紀ごろ殷(商)最後の第30代紂王のころ、王族の箕子が平壌付近に箕子朝鮮(紀元前12世紀頃 - 前194年)を建国していたと「史記」にあり、大同江付近一帯の有文土器時代の集落は箕子朝鮮の先住民が生活していたものだろう。

無文土器時代紀元前1400年から300年頃なので、箕子朝鮮は無文土器時代前期から始まるということになる。しかし、上で述べたように、紀元前11世紀ごろから半島南部の領域は江南系倭人(呉人)が住み、水田稲作を始めたと考えられる(注2)。沿岸部では漁労がメインだ。寒冷な半島北部では水田は見られない。列島では少し遅れて紀元前10世紀に九州の玄界灘沿岸部で始められるのでここから日本は弥生時代だ。(20023.10.7 改訂)

紀元前8世紀ころ半島に青銅器が出現したといわれており、無文土器時代後期の金属器の時代のはじまりだ。紀元前5世紀頃に支石墓が見られるようになる。発祥地と考えられている西ヨーロッパでは紀元前4000年-3000年頃であり、巨石文化が起こっている。東アジアでは紀元前1500年頃に遼東半島付近で発生し、その周辺(現在の中国吉林省付近)へ広まった、とある。「半島遺構は半島のほぼ全域で見られ(約4-6万基とされる)、世界の支石墓の半数が朝鮮半島にあるといわれている。北方式と南方式のおおよその境界は全羅北道付近とされる。また、天井石が碁盤状を呈するなど多様な類型を示していることも、朝鮮半島の支石墓の特徴である。紀元前後になると、銅剣(細型銅剣)が副葬されるようになった。 朝鮮半島において、分布が特に顕著なのは半島南西地域(現在の全羅南道)である。同地域ではもっとも多い場所で500-600基の支石墓が群集している。」Wiki「支石墓」より)

そして、紀元前3世紀末から前2世紀初頭に、【検証9】奴国時代の話(その1)で見たように馬韓や辰韓と呼ばれる地域に①から④の4段階に分けて多くの難民が押し寄せてきた。

①紀元前220年に戦国七雄の「」が「秦」に滅ぼされたので、韓人の一部が楚の領土を通って黄海に出て半島の馬韓の地に逃亡したと考えている。漢江付近は列島の縄文系の人々が居たので、恐らく同居させてもらったのだろう。上図の遺跡番号を緑字の〇印で囲った集落が原三国(三韓)時代のものだ。「韓半島」の名称はこの事件に由来すると考えられる。

②紀元前223年に楚が秦に滅ぼされ、紀元前221年に秦が統一を果たした。秦始皇帝は匈奴などの北方民族の侵入を防ぐために紀元前214年から万里の長城の建設を始めた。すでに銅・鉄の鉱山と優れた金属器の生産地とされていた堂谿(どうけい)の地を「」より得ていた呉の夫概呉王闔閭(こうりょ)の弟、初代呉王太伯の末裔、原始夏人系O1a)の一族は、紀元前四世紀には韓に属しても「楚」が滅ぶまで堂谿公となっていたが、その後長城建設に従事させられたようだ。紀元前210年に始皇帝が崩御すると、その後の混乱によって遼東に逃げて濊(かい)を建国した(楚人はシナ人系O2,熊をトーテムとする民族なので、檀君神話の人々)。後に前漢の武帝が東夷に進出すると、濊の主力(北扶余)は北に逃げ、解慕漱(かいぼそ)が先住民を吸収して扶余(北扶余)を建国したとの伝説がある。扶余の祖先は呉公子夫概という伝承がある(紀元前1世紀ころ高句麗が扶余から分かれた)。濊王之印を持つ。濊(東扶余)に属す堂谿出身の製鉄・冶金技術者はその場にとどまり鉄器の生産を行った。濊の一部(後の百済人)は馬韓に合流した。同様に倭人系(O-47z)の堂谿出身者は辰韓や弁辰の倭人と混ざって鉄器の生産に従事し、倭人を指導した。

③紀元前194年に燕人衛満が建てた衛氏朝鮮(紀元前194 - 前108年)によって、すでに殷王朝末期に建国された箕子朝鮮が滅んだ。現代半島人の父系のルーツを見ると殷(商)人系(O1b2から倭人系O-47zを除く)が全体の1/3だ。

④衛満に追われた準王は馬韓に侵入して、韓王を名乗る。紀元前17年まで九代の韓王が馬韓に居たという説があるが、何故滅んだかがよく分からないから、多分紀元前2世紀末に前漢武帝によって滅んだのかも知れない。



「朝鮮半島の中・西北部にあった衛氏朝鮮を滅ぼした前漢の武帝が紀元前108年に設置した楽浪郡・真番郡・臨屯郡、紀元前107年に設置した玄菟郡の郡(植民地との見方も存在する[1])のことである。各郡の位置については諸説ある。」Wiki「漢四郡」より)

楽浪郡は平壌付近と分かっているが、楽浪郡の南側の真番郡の位置を、ソウルよりも北という説があり、三韓(馬韓・辰韓・弁韓)はそのまま存続したという説がコリアの教科書に在るようだが、三韓は地域名でしかなく、三国時代(百済・新羅・高句麗)になるまで馬韓も含め地域に集落があるだけで、国家の形は出来ていない。従って、始皇帝にはじまる郡県制度の本質を考えると(岡田英弘「日本史の誕生」(弓立舎)1994,p.28-32)、図のとおり楽浪郡は平壌から漢江まで及び、真番郡は半島南部を覆うという、岡田説に説得力があると思う。



郡県制度を説明すると、シナの皇帝は貿易商社のオーナー社長だ。城壁の中に常設市場を設けて、組合員だけが取引できる場所が県だ。組合員になるために組合費として租税を皇帝に支払う。郡内の物流ルートを強力な軍隊で護衛して交易を確保するのだ。だからシナの領土は点と点を線で結ぶ感じのものなのだ。その外は蛮人というのが領土意識だ。科学技術によって近代化されても基本的には人民は平等でもなく、人権も主権もないが、蛮人は人間牧場に収容されて内臓を盗まれる。並みのホラー映画では絶対敗ける世界だ(;´Д`)

話を元に戻して、漢の武帝は、当時は比較的人口が多く、珍しい物品(倭錦や海産物など)がある日本列島をターゲットとしてシナ人の商人(華僑)を、人件費のかからない、給料は勝手に取る非正規社員として派遣したのだ。一帯一路のシルクロードの終着駅なのだ(^_-)-☆

しかし、武帝が急激に領土拡張したのでそれを維持管理することで財政的に前漢王朝は疲弊したようで、すぐに漢四郡を縮小することになった。紀元前82年には真番郡、臨屯郡を廃した。紀元前75年 には玄菟郡を西に移し、半島には平壌付近に楽浪郡だけ残した。

従って、弥生時代中期末葉に楽浪郡と倭国との交易では半島南部の江南系・縄文系の倭人が活躍した。倭国では対外交易センターを伊都国に奴国王族を配置し、奴国王が管理した。先述のとおり半島南部の製鉄は、製鉄・冶金技術を持つ辰韓の倭人らが作業を行っており、鉄素材を列島に供給した。「中期末葉に誕生する冶金工人は三韓人による直接技術指導を受けたとしても、その内容を厳密に維持することはできず、みずから趣向を反映させた、いわば弥生的鍛冶技術を生み出したことになる。」(村上恭通「古代国家成立過程と鉄器生産」(青木書店)2007, pp.291-292)。

弥生時代後期になると奴国王スサノヲ(宋史 王年代紀第18代)が半島南部に直接乗り込み鉄生産を独占したと考えている。倭国の東北千里の多婆那国(たばなこく、丹波)で生まれた倭人で、新羅第四代脱解尼師今(だっかい にしきん)のモデルになった人物と考えている(「新羅の脱解王が奴国大王?」参照)。

北部九州などでは紀元前219年に徐福が連れてきた冶金工人の弟子が奴国大王に派遣されて、半島の技術を見学して列島に導入したのではないかと想像している。「史記」に徐福は龍王に不老不死の薬が欲しけりゃ、若い男女や種々の技術をもった工人を貢物として寄越せと言われたとあり、奴国大王(龍蛇神)が招へいしたのだ。【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ|д゚)にも述べたが、阿蘇山ろくなどでは褐鉄鉱(リモナイト)による小規模な製鉄が行われた模様だが、メインは半島南部の板状鉄斧の形で入手した鉄素材から列島各地で鉄器を製造していた。

(注1)朝鮮半島の旧石器時代から有文土器時代にかけて詳しい記事「日本の歴史アップデート 日本国の領域と朝鮮半島:先史時代」を見つけました。とても分かり易いので旧石器時代から縄文時代の年表をお借りします。


5万年前に中央アジアに居た人々がオホーツクあるいは華北・朝鮮半島(この頃は大陸の一部で半島は形成されていない)を経由して地続きの日本列島に到達した祖先から縄文人系(D1a2、旧D1b)の人々が生まれた。また、4・5万年前にイランで祖先と別れてチベットを経由して日本列島にやって来た人々から発生したC型縄文人系(C-M8)が日本列島で生まれた。紀元前1万年から前五千年ころの朝鮮半島には遺跡が見られず、多くの人々は半島を通過して日本列島にやって来た模様だ。紀元前4千年頃に櫛目文土器時代が始まるようだ。その頃から半島の東岸・南岸部では日本海沿岸の縄文海人がやって来ていた模様だ。その痕跡として、鹿角製アワビオコシ、石棒や海娘神を祀るお堂などが残っている。
日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!(^_-)-☆(20023.10.7 改訂)



(注2)Wiki「倭・倭人関連の中国文献#『論衡』」によれば、
『論衡』倭人について、

「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず

「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず

「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)
周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。

とみえる。

周代は日本の縄文時代晩期から弥生時代前期にあたり、成王の在位は前1042年~前1021年とされるが、『論衡』自体は1世紀に書かれたものである。白雉は食用に、暢草(ちょうそう)は服用に、それぞれ供されたされたようで、暢草は酒に浸す薬草と思われていた。


「倭人が献じた鬯草(暢草)とは何か、周の成王の時。」によれば鬯草とは?

江上波夫氏は、
「鬯(ちょう)。黒黍(くろきび)を醸(かも)して酒と為す、鬯と曰(い)う。芳草を築き以て煮(に)る、鬱と曰う。鬱を以て鬯に合し、鬱鬯と為す。之(これ)に因(よ)りて草を鬱金(うっこん)と曰い、亦(また)鬯草と曰う」

この草は、中国の鬱林(うつりん)郡の名産の鬱金(うっこん)草だ、という解釈から、この「倭人」とは、鬱林郡に遠からぬ江南近辺に住んでいた種族だろう、と推定され、“そのあと、この種族が日本列島へ民族移動したのではないか”と続ける。「日本列島→中国本土」という、貢献ルートではないわけです(『続日本古代史の謎』朝日新聞社刊、所収講演)。

王充の弁論の方法は実証を重視しているので、列挙した史料は確かな根拠のある歴史的事実であろう。

鬱林(うつりん)郡は唐代から民国初年にかけて、現在の広西チワン族自治区玉林市一帯に設置されたとあり、倭人と呼ばれる人々が活動していたことを示している。「漢書 地理誌」に「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」とあるので、倭人(呉の人々)は江南を中心に活発に活動していたと考えられる。この江南出身の倭人によってもたらされる水田稲作は直接日本列島に伝達されたと考えるよりも、長江河口から東へ海流に乗って済州島に到達し、北上して韓半島に渡るルートが考えられます。地理的に韓半島南部で日本列島よりも先に始められたと考えるのが自然です(「【検証25】水田稲作が日本へ伝来したルートは?」参照)。


ここまでの話は結構、目からウロコの意外な内容だと思いますけど、いかがですか? 従来、文化的に遅れた日本人に半島人の祖先が先進文化を伝えてやったんだという主張があって、半島の歴史をしっかりと勉強していない日本人はへこんでいたと思います。というか日本の歴史学者が半島人に阿っているようなので、教科書でもあの国のイデオロギー歴史観になってたということです。しかし、現代の半島人の祖先と、古代日本に文化を伝えた半島人は違うのですよ!日本に文化を伝えた古代の半島人=渡来人のほとんどは日本民族のルーツの倭人(長江下流域の呉の人々あるいは縄文人との混血)なのですから、現代日本人の祖先だったのですよね。だから水田稲作が半島経由か江南から直接か?で熱くなる必要もありません。いや最近では水田稲作は日本発祥だなんて胸張っていう方も居ますが、どうでもいい話だと思いますよ(^_-)-☆

ここまでお付き合い感謝します。これから先が厄介なのです。通説では12世紀に成立した「三国史記」を拠り所としているのですが、政治文書の「日本書紀」を参照していますので、信ぴょう性がいまいちです。したがって、できるだけ考古学などの成果をもとに科学的に独自の見解を展開したいので今回改訂したのです。かなり見通し良くなりました。疑問点などを是非お寄せください。新たに書き起こす部分も多いので、ミスがあります。チェックしていただくと嬉しいです。今までの記事でも、気付いたらその都度、訂正していますので、時々巡回して頂ければ幸いです。また、どうぞよろしくお願いします。

通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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