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古代史ランキング
2023-10-06 00:10:25に記事にしましたが、櫛目文土器以前の半島の様子について分かり易い記事を見つけましたので、該当する内容を注記して改訂します(紫色文字部分)。改めて、コメントしていただいた方に感謝します。
2020-07-11 13:51:34 に記事にしたものに、紀元前3世紀末から前2世紀初頭に韓半島に流入した人々について新たに分かったことを付け加えて改訂しました。初版:2017-03-04 06:50:58ですが、勉強しながらですので独自の見解があります。疑問点など遠慮なくコメントください!最後までお付き合いください(#^.^#)
前回、【検証9】奴国時代の話(その1)で三韓のうち馬韓・辰韓が大陸からの戦争難民で生まれたことを述べた。今回は紀元前206年に秦帝国が滅び、前漢が成立して、武帝によって半島が支配された漢四郡の時代前後までを考えたい。
紀元前11世紀ごろ江南系倭人(呉人)が半島南部に、それ以前は縄文海人が列島から海岸部にやって来ており、呉の人々に混ざって生活していた。下図は半島の有文土器時代から三国時代までの主な集落と稲作や雑穀の痕跡のある遺跡の分布を示したものだ。(後藤 直「朝鮮半島原始時代農耕集落の立地」第四紀研究/33 巻 (1994) 5 号)
有文土器時代は紀元前5000年から1500年の頃に及ぶ。新石器時代に対応し、日本の縄文時早期から晩期までに併行する。磨製石器を使って主に狩猟や漁労を行って、イネ(陸稲)・アワ・キビなど穀類も栽培して生活していた模様で、紀元前4000年頃の前期から中期にかけての土器に櫛の歯のようなもので模様がつけられた土器が出現するので櫛目文土器時代とも言われる(注1)。「これはユーラシア北部一帯(フィンランド、ロシア、シベリア、中国東北部など)にみられる土器だが、最古のものは遼河文明から発見されており[1]、当時の朝鮮半島はウラル系民族(ハプログループN (Y染色体))が担う遼河文明圏[2]にあったことが示唆される。朝鮮民族の基層はウラル系民族の可能性が高い」とWikiにある。縄文時代前期中頃から中期末葉(約5900-4200年前)の三内丸山遺跡も遼河人系が生活したといわれている。(20023.10.7 改訂)
紀元前12世紀ごろ殷(商)最後の第30代紂王のころ、王族の箕子が平壌付近に箕子朝鮮(紀元前12世紀頃 - 前194年)を建国していたと「史記」にあり、大同江付近一帯の有文土器時代の集落は箕子朝鮮の先住民が生活していたものだろう。
無文土器時代は紀元前1400年から300年頃なので、箕子朝鮮は無文土器時代前期から始まるということになる。しかし、上で述べたように、紀元前11世紀ごろから半島南部の領域は江南系倭人(呉人)が住み、水田稲作を始めたと考えられる(注2)。沿岸部では漁労がメインだ。寒冷な半島北部では水田は見られない。列島では少し遅れて紀元前10世紀に九州の玄界灘沿岸部で始められるのでここから日本は弥生時代だ。(20023.10.7 改訂)
紀元前8世紀ころ半島に青銅器が出現したといわれており、無文土器時代後期の金属器の時代のはじまりだ。紀元前5世紀頃に支石墓が見られるようになる。発祥地と考えられている西ヨーロッパでは紀元前4000年-3000年頃であり、巨石文化が起こっている。東アジアでは紀元前1500年頃に遼東半島付近で発生し、その周辺(現在の中国吉林省付近)へ広まった、とある。「半島遺構は半島のほぼ全域で見られ(約4-6万基とされる)、世界の支石墓の半数が朝鮮半島にあるといわれている。北方式と南方式のおおよその境界は全羅北道付近とされる。また、天井石が碁盤状を呈するなど多様な類型を示していることも、朝鮮半島の支石墓の特徴である。紀元前後になると、銅剣(細型銅剣)が副葬されるようになった。 朝鮮半島において、分布が特に顕著なのは半島南西地域(現在の全羅南道)である。同地域ではもっとも多い場所で500-600基の支石墓が群集している。」(Wiki「支石墓」より)
そして、紀元前3世紀末から前2世紀初頭に、【検証9】奴国時代の話(その1)で見たように馬韓や辰韓と呼ばれる地域に①から④の4段階に分けて多くの難民が押し寄せてきた。
①紀元前220年に戦国七雄の「韓」が「秦」に滅ぼされたので、韓人の一部が楚の領土を通って黄海に出て半島の馬韓の地に逃亡したと考えている。漢江付近は列島の縄文系の人々が居たので、恐らく同居させてもらったのだろう。上図の遺跡番号を緑字の〇印で囲った集落が原三国(三韓)時代のものだ。「韓半島」の名称はこの事件に由来すると考えられる。
②紀元前223年に楚が秦に滅ぼされ、紀元前221年に秦が統一を果たした。秦始皇帝は匈奴などの北方民族の侵入を防ぐために紀元前214年から万里の長城の建設を始めた。すでに銅・鉄の鉱山と優れた金属器の生産地とされていた堂谿(どうけい)の地を「楚」より得ていた呉の夫概(呉王闔閭(こうりょ)の弟、初代呉王太伯の末裔、原始夏人系O1a)の一族は、紀元前四世紀には韓に属しても「楚」が滅ぶまで堂谿公となっていたが、その後長城建設に従事させられたようだ。紀元前210年に始皇帝が崩御すると、その後の混乱によって遼東に逃げて濊(かい)を建国した(楚人はシナ人系O2,熊をトーテムとする民族なので、檀君神話の人々)。後に前漢の武帝が東夷に進出すると、濊の主力(北扶余)は北に逃げ、解慕漱(かいぼそ)が先住民を吸収して扶余(北扶余)を建国したとの伝説がある。扶余の祖先は呉公子夫概という伝承がある(紀元前1世紀ころ高句麗が扶余から分かれた)。濊王之印を持つ。濊(東扶余)に属す堂谿出身の製鉄・冶金技術者はその場にとどまり鉄器の生産を行った。濊の一部(後の百済人)は馬韓に合流した。同様に倭人系(O-47z)の堂谿出身者は辰韓や弁辰の倭人と混ざって鉄器の生産に従事し、倭人を指導した。
③紀元前194年に燕人衛満が建てた衛氏朝鮮(紀元前194 - 前108年)によって、すでに殷王朝末期に建国された箕子朝鮮が滅んだ。現代半島人の父系のルーツを見ると殷(商)人系(O1b2から倭人系O-47zを除く)が全体の1/3だ。
④衛満に追われた準王は馬韓に侵入して、韓王を名乗る。紀元前17年まで九代の韓王が馬韓に居たという説があるが、何故滅んだかがよく分からないから、多分紀元前2世紀末に前漢武帝によって滅んだのかも知れない。
「朝鮮半島の中・西北部にあった衛氏朝鮮を滅ぼした前漢の武帝が紀元前108年に設置した楽浪郡・真番郡・臨屯郡、紀元前107年に設置した玄菟郡の郡(植民地との見方も存在する[1])のことである。各郡の位置については諸説ある。」(Wiki「漢四郡」より)
楽浪郡は平壌付近と分かっているが、楽浪郡の南側の真番郡の位置を、ソウルよりも北という説があり、三韓(馬韓・辰韓・弁韓)はそのまま存続したという説がコリアの教科書に在るようだが、三韓は地域名でしかなく、三国時代(百済・新羅・高句麗)になるまで馬韓も含め地域に集落があるだけで、国家の形は出来ていない。従って、始皇帝にはじまる郡県制度の本質を考えると(岡田英弘「日本史の誕生」(弓立舎)1994,p.28-32)、図のとおり楽浪郡は平壌から漢江まで及び、真番郡は半島南部を覆うという、岡田説に説得力があると思う。
郡県制度を説明すると、シナの皇帝は貿易商社のオーナー社長だ。城壁の中に常設市場を設けて、組合員だけが取引できる場所が県だ。組合員になるために組合費として租税を皇帝に支払う。郡内の物流ルートを強力な軍隊で護衛して交易を確保するのだ。だからシナの領土は点と点を線で結ぶ感じのものなのだ。その外は蛮人というのが領土意識だ。科学技術によって近代化されても基本的には人民は平等でもなく、人権も主権もないが、蛮人は人間牧場に収容されて内臓を盗まれる。並みのホラー映画では絶対敗ける世界だ(;´Д`)
話を元に戻して、漢の武帝は、当時は比較的人口が多く、珍しい物品(倭錦や海産物など)がある日本列島をターゲットとしてシナ人の商人(華僑)を、人件費のかからない、給料は勝手に取る非正規社員として派遣したのだ。一帯一路のシルクロードの終着駅なのだ(^_-)-☆
しかし、武帝が急激に領土拡張したのでそれを維持管理することで財政的に前漢王朝は疲弊したようで、すぐに漢四郡を縮小することになった。紀元前82年には真番郡、臨屯郡を廃した。紀元前75年 には玄菟郡を西に移し、半島には平壌付近に楽浪郡だけ残した。
従って、弥生時代中期末葉に楽浪郡と倭国との交易では半島南部の江南系・縄文系の倭人が活躍した。倭国では対外交易センターを伊都国に奴国王族を配置し、奴国王が管理した。先述のとおり半島南部の製鉄は、製鉄・冶金技術を持つ辰韓の倭人らが作業を行っており、鉄素材を列島に供給した。「中期末葉に誕生する冶金工人は三韓人による直接技術指導を受けたとしても、その内容を厳密に維持することはできず、みずから趣向を反映させた、いわば弥生的鍛冶技術を生み出したことになる。」(村上恭通「古代国家成立過程と鉄器生産」(青木書店)2007, pp.291-292)。
弥生時代後期になると奴国王スサノヲ(宋史 王年代紀第18代)が半島南部に直接乗り込み鉄生産を独占したと考えている。倭国の東北千里の多婆那国(たばなこく、丹波)で生まれた倭人で、新羅第四代脱解尼師今(だっかい にしきん)のモデルになった人物と考えている(「新羅の脱解王が奴国大王?」参照)。
北部九州などでは紀元前219年に徐福が連れてきた冶金工人の弟子が奴国大王に派遣されて、半島の技術を見学して列島に導入したのではないかと想像している。「史記」に徐福は龍王に不老不死の薬が欲しけりゃ、若い男女や種々の技術をもった工人を貢物として寄越せと言われたとあり、奴国大王(龍蛇神)が招へいしたのだ。【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ|д゚)にも述べたが、阿蘇山ろくなどでは褐鉄鉱(リモナイト)による小規模な製鉄が行われた模様だが、メインは半島南部の板状鉄斧の形で入手した鉄素材から列島各地で鉄器を製造していた。
(注1)朝鮮半島の旧石器時代から有文土器時代にかけて詳しい記事「日本の歴史アップデート 日本国の領域と朝鮮半島:先史時代」を見つけました。とても分かり易いので旧石器時代から縄文時代の年表をお借りします。
5万年前に中央アジアに居た人々がオホーツクあるいは華北・朝鮮半島(この頃は大陸の一部で半島は形成されていない)を経由して地続きの日本列島に到達した祖先から縄文人系(D1a2、旧D1b)の人々が生まれた。また、4・5万年前にイランで祖先と別れてチベットを経由して日本列島にやって来た人々から発生したC型縄文人系(C-M8)が日本列島で生まれた。紀元前1万年から前五千年ころの朝鮮半島には遺跡が見られず、多くの人々は半島を通過して日本列島にやって来た模様だ。紀元前4千年頃に櫛目文土器時代が始まるようだ。その頃から半島の東岸・南岸部では日本海沿岸の縄文海人がやって来ていた模様だ。その痕跡として、鹿角製アワビオコシ、石棒や海娘神を祀るお堂などが残っている。(日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!(^_-)-☆)(20023.10.7 改訂)
(注2)Wiki「倭・倭人関連の中国文献#『論衡』」によれば、
『論衡』倭人について、
「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず
「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず
「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)
周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。
とみえる。
周代は日本の縄文時代晩期から弥生時代前期にあたり、成王の在位は前1042年~前1021年とされるが、『論衡』自体は1世紀に書かれたものである。白雉は食用に、暢草(ちょうそう)は服用に、それぞれ供されたされたようで、暢草は酒に浸す薬草と思われていた。
「倭人が献じた鬯草(暢草)とは何か、周の成王の時。」によれば鬯草とは?
江上波夫氏は、
「鬯(ちょう)。黒黍(くろきび)を醸(かも)して酒と為す、鬯と曰(い)う。芳草を築き以て煮(に)る、鬱と曰う。鬱を以て鬯に合し、鬱鬯と為す。之(これ)に因(よ)りて草を鬱金(うっこん)と曰い、亦(また)鬯草と曰う」
この草は、中国の鬱林(うつりん)郡の名産の鬱金(うっこん)草だ、という解釈から、この「倭人」とは、鬱林郡に遠からぬ江南近辺に住んでいた種族だろう、と推定され、“そのあと、この種族が日本列島へ民族移動したのではないか”と続ける。「日本列島→中国本土」という、貢献ルートではないわけです(『続日本古代史の謎』朝日新聞社刊、所収講演)。
王充の弁論の方法は実証を重視しているので、列挙した史料は確かな根拠のある歴史的事実であろう。
鬱林(うつりん)郡は唐代から民国初年にかけて、現在の広西チワン族自治区玉林市一帯に設置されたとあり、倭人と呼ばれる人々が活動していたことを示している。「漢書 地理誌」に「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」とあるので、倭人(呉の人々)は江南を中心に活発に活動していたと考えられる。この江南出身の倭人によってもたらされる水田稲作は直接日本列島に伝達されたと考えるよりも、長江河口から東へ海流に乗って済州島に到達し、北上して韓半島に渡るルートが考えられます。地理的に韓半島南部で日本列島よりも先に始められたと考えるのが自然です(「【検証25】水田稲作が日本へ伝来したルートは?」参照)。
ここまでの話は結構、目からウロコの意外な内容だと思いますけど、いかがですか? 従来、文化的に遅れた日本人に半島人の祖先が先進文化を伝えてやったんだという主張があって、半島の歴史をしっかりと勉強していない日本人はへこんでいたと思います。というか日本の歴史学者が半島人に阿っているようなので、教科書でもあの国のイデオロギー歴史観になってたということです。
しかし、現代の半島人の祖先と、古代日本に文化を伝えた半島人は違うのですよ!日本に文化を伝えた古代の半島人=渡来人のほとんどは日本民族のルーツの倭人(長江下流域の呉の人々あるいは縄文人との混血)なのですから、現代日本人の祖先だったのですよね。だから水田稲作が半島経由か江南から直接か?で熱くなる必要もありません。いや最近では水田稲作は日本発祥だなんて胸張っていう方も居ますが、どうでもいい話だと思いますよ(^_-)-☆
ここまでお付き合い感謝します。これから先が厄介なのです。通説では12世紀に成立した「三国史記」を拠り所としているのですが、政治文書の「日本書紀」を参照していますので、信ぴょう性がいまいちです。したがって、できるだけ考古学などの成果をもとに科学的に独自の見解を展開したいので今回改訂したのです。かなり見通し良くなりました。疑問点などを是非お寄せください。新たに書き起こす部分も多いので、ミスがあります。チェックしていただくと嬉しいです。今までの記事でも、気付いたらその都度、訂正していますので、時々巡回して頂ければ幸いです。また、どうぞよろしくお願いします。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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