刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

邪馬台国論争を徹底考察?(^_-)-☆

2023-11-16 21:11:13 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

なかなか良い邪馬台国問題の動画を見つけましたので、いつものように早速コメントしました。よろしければおつきあいください(#^.^#)



魏志倭人伝は政治的な理由で邪馬台国への行程記事などが作られたので、いくらまじめに解釈してもこれだけでは邪馬台国へはたどり着けません。詳しくは「伊都国の意味がヒントだった?」にあります。

ですから、書かれた文献の信ぴょう性は事実、つまり考古学や民俗学などの成果から分かりますので、何故ウソが書かれたのかを推理すると仮説が生まれます。その仮説をさらに事実で検証すると正解が得られます。詳しくは「【刮目天の古代史】古代史を推理する」を参照してください。

ちなみに、ヤマト王権の成立過程もわかりましたし、日本最大の円墳「三柱山古墳」が卑弥呼の墓だと発見しました。周辺には数々の伝承や遺物がありますから面白いですよ(詳細は「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」参照)。


投馬国へ水行してみませんか?( ^)o(^ )




【参考記事】

権力者の歴史書は政治文書だよ!
あ、「躓き石先生」どうもありがとうございます!(;^ω^)
景初三年問題が謎を解く鍵でした!(^_-)-☆






通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

【検証9】奴国時代の話(その2)

2023-11-12 10:29:05 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。!
よろしければ二つともポチっと応援、よろしくお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

2020-07-04 15:17:09にアップしましたが、(その1)の改定に伴い少しだけ見直しましたので、よろしければおつきあいください(#^.^#)

前置きが長くなったが、いよいよ奴国の話だ。話は少し遡る紀元前473年、呉王夫差が越王勾践に敗れて自害し、西周に繋がる呉が滅亡した。呉王族の一部が半島の南部に逃げ、倭人に助けられて生活していた模様だ。紀元前4世紀中頃には厳しい寒冷化となったのだろう(原遥平「徹底検証 日本古代史と考古学の謎」彩流社2001,p.76 の「民族移動と気候の関係」の図によれば、気候700年周期曲線に従って紀元前5世紀初頭から寒冷化し始め前3世紀中頃に最も寒くなり、再び後1世紀にかけて回復する。)。 恐らくその影響で早良平野に南下し、弥生前期末から中期初頭の吉武遺跡群の形成期に造られたと言われている北のむらに住んだ模様だ(注1)。



宋史 王年代紀」に記載される最初の王が天御中主(あめのみなかぬし)であり、「古事記」では高天原の最初の神とされる人物なのだ(【付録】参照)。王墓は吉武遺跡群の高木地区の特定集団墓が該当し、中期末の展開期が終わる前1世紀以降に遺跡が衰退している。吉武遺跡が発展したために手狭になったので王宮などの拠点を東側の奴国に移したと考えられる。遷都する前までの歴代の王たちは高木地区に葬られていると思われる。

奴国と推定される領域はかなり大きく、王宮や王墓などと祭祀施設は須玖・岡本遺跡に置き、列島各地の産品を集める交易センターを比恵・那珂遺跡に置いて都市を形成した模様だ。

「比恵・那珂の範囲は、南北 2.5km、東西の広いところで 1.0km前後の広がりを有している。さらに南に接する五十川遺跡北部や、段丘東側の山王遺跡も段丘地形および遺構分布は連続しており、これらも実質的に同一の遺跡群と捉えてもよい。」最盛期は吉野ヶ里遺跡の広さの約4倍はある巨大遺跡だった。(2023.2.23 赤字訂正)
「比恵・那珂遺跡は旧石器時代から縄文・弥生中期まで人々が生活していたが、弥生中期後半以降に遺構が計画的に作られるようになり、大溝(集落内の区画の明示となる条溝)が比恵・那珂双方の段丘中央を区画するように掘削され、溝に沿った形で掘立柱建物(倉庫・平地建物)が配置されたり、高床倉庫群が両側に配置される区域があるように(大溝沿いには竪穴住居が少ない)、溝は集落のレイアウト(区画)の基軸になっていた。」魏志倭人伝にある奴国の長官クラスの居館跡は、周囲を溝で囲っている。
「大溝の掘削時期は須玖Ⅱ式古相とみられ、中層以上に中期末~後期前半の土器群の大量廃棄があり埋没するが、溝が存在した部分は区画溝としては古墳時代前期前半までラインとして残り、後代までの遺構配置に影響している。また終始一貫、溝の両側に遺構が展開し、この大溝は「環濠」とは異なる。」
「比恵・那珂では中期中頃から鋳造関係遺物が多く出土し、青銅器以外にガラス製品(玉類)も生産している。中期後半から後期初頭にかけては、複数の鋳型が出土したり、中子や取瓶(坩堝)が出土し、生産が行われた。」(上のカギ括弧内の青字久住猛雄 「比恵・那珂遺跡群」埋蔵文化財研究集会2009資料集から引用)



後期前半(2世紀初頭)に宮廷楽師の師升らのクーデターが起きたので、奴国の隣の不弥国(うみこく、新宮から宗像の領域に比定)から東側の国が倭国と敵対することになり交易センターとして機能を果たせなくなって一時廃れたようだ。だが、卑弥呼の時代(3世紀前半)になってかなり整備したようなので、都市機能が復活し、上の図のとおり、邪馬台国支配下の地方の人々が交易で集まる日本最大規模の大都会になった模様だ。鉄素材の供給を止められた狗奴国は纏向遺跡に旧奴国王族を集めて倭国攻略策を練り、祈祷を行って、卑弥呼が死亡する247年ごろにようやく倭国討伐軍を差し向けることになった。これが第二次倭国大乱だ。

時代を戻して、那珂遺跡群のさらに南の春日丘陵上を中心に南北2キロメートルほどにわたって、弥生時代中期~後期の大集落「須玖遺跡群」が形成されている。そのうち、丘陵北端部一帯では、多くの甕棺(かめかん)墓など、王墓、王族墓や祭祀遺構・住居跡が見つかっており、更に比恵・那珂遺跡を上回る規模の青銅器などの工房が集中している地区が見られ、奴国の中枢部と考えられている。奴国王直営の工場を持っていたということだ。ここで製造された銅矛などが四国などに分布している。祭祀様式が奴国のものを踏襲しているので、奴国王の配下のアズミ族が開発したものと考えられる。つまり、奴国の支配圏ということになろう。(注2)

最も傑出した王墓は巨石下甕棺墓で、その中から、
銅剣 2・銅矛 4・銅戈 1
銅鏡(前漢鏡) 32面以上(方格四星草葉文鏡 1、重圏四星葉文鏡 2、蟠螭(ばんち)鏡 1、星雲文鏡 5面以上、重圏文銘帯鏡 5面以上、内行花文銘帯鏡 13面以上、不明 5面)
ガラス璧(瑠璃璧) 2個片以上・ガラス勾玉・ガラス管玉

が見つかっている。吉武・高木遺跡などと同様にヤマト王権の三種の神器(剣・鏡・勾玉)が見つかっているのは、「日本は古の倭の奴国」であることを示す重要な物証のひとつだ。


甕棺の中の奴国大王 奴国の丘歴史資料館 (奴国の丘歴史公園)より




また、ガラス璧片が複数個見つかっている。玉璧は周時代の王標(王を示すもの)で、周の爵制の子爵に相当する。奴国大王が呉王に繋がる血筋で「太伯の後」との伝承どおりであることを示している。朝倉市夜須町峯遺跡からも璧片が見つかっており、奴国大王が中国に倣って峯遺跡の王(地方首長)に与えたもので、鏡と共に奴国大王が地方の王・首長との間に爵封制を採っていたことを示すものなのだ。(王金林「邪馬台国と古代中国」学生社1992.p.99)。

糸島市の三雲南小路遺跡からもガラス璧片が8個も出土しており、同様に伊都国王に奴国大王が与えた王標だと考えられる。また、吉野ヶ里遺跡からは中国製銅鏡片3点が見つかっており、奴国大王の支配領域に入ると考えられる。つまり最盛期の奴国大王は福岡平野・筑紫平野・佐賀平野さらに伊都国王の糸島地区を束ねていた模様だ。璧を下賜された峯遺跡の王や対外交易の中心地の伊都国王には奴国王族を配したと考えられる。


「玉璧は文政元年(1818)、串間市で掘り出した石棺から鉄製品や玉類とともに出土したという。直径33.3センチ、軟玉でできた薄い円盤で、中央部には丸く孔があけられ、周囲には獣文、渦巻文、獣文の三重の文様帯を刻む。中国の玉器に詳しい岡村秀典京都大学教授は”王侯クラスに賜与するために漢王朝の工房で紀元前2世紀につくられた優品の一つだったと考えられる”とみる。」「串間市、王の山古墳出土の玉璧とその由来」より(注4)

奴国王に光武帝が金印を与えたのは、伊都国まで船でやって来る華僑が求める列島の珍しい産品を、倭人が産地から持ってきて間違いなく取引させることのできる権威と権力がある大王だと認められたからであり、光武帝が華僑の商売を保証する倭国における領事の役割を奴国王に期待したからに他ならない(岡田英弘「日本史の誕生」弓立舎)。

その他須玖・岡本遺跡の南西側にある安徳台遺跡や朝倉市の約17ヘクタールの範囲に多重の環濠を設けた平塚川添遺跡や峯遺跡は奴国の拠点集落に食糧を供給する衛星集落だったと考えられる。福岡平野と筑紫平野の地名が大和の地名と位置関係まで一致することが見つかっている。これもまたヤマトの人々が古の奴国の時代を偲び命名したものだと分かるのだ。高天原は奴国だったのだ!

(2020.3.1 朝倉卑弥呼伝説より図差し替)


以上見たとおり、通説では奴国王は他の国の王と同等くらいと見られていたが、刮目天の仮説を検証すれば明らかに倭国内の他の地方首長・王らを束ねる権威と実力のある大王だったことが分かる。

弥生前期末か中期初頭、前4世紀に初代倭国王天御中主が早良平野の地を踏んでから、吉武遺跡群を拠点に対外交易で徐々に富と権力を蓄えて、57年に後漢から金印を貰うまでに発展し、最盛期を迎えた。そして第17代王伊弉諾尊が列島各地の産品を円滑に入手するために、日本海沿岸部などの流通を抑えていた縄文海人ムナカタ族の姫伊弉冉尊(イザナミ)と結婚し、本格的な異種文化の融合が始まったようだ。しかし、二人から生まれた、多分縄文系の風貌の第18代王素戔嗚尊(スサノヲ)が奴国の伝統祭祀を担う宮中楽師師升らと宗教対立を起こし、クーデターで殺されたと推理した。約400年続いた奴国大王が支配する倭国が消滅したのだ。

その後に奴国王族が纏向の地で再興したヤマト王権の成立までのすべての混乱の原因は、列島内の文明の衝突だったのだと思う(縄文文明と長江文明)。それまでは列島の中に諸民族が独自の文化を保持しつつ、縄文系の人々は長江文明の影響を受けながら発展させて生活していたが、この大混乱を経てようやく日本列島に江南の倭人系と縄文系が完全に混ざったヤマト民族日本人が誕生することになったのだと考えられる。その物語の始まりがイザナギ・イザナミの国生み神話なんだ( ^)o(^ )

(注1)ちなみに呉王は呉の人々と同じ民族ではなく、西周の先王古公亶父を祖とする姫氏だ。Y染色体ハプロタイプがO1aの人々で、中国最古の夏王朝を建てた夏人だ。長江下流域でに28,500年前に発生した人々で、約4千年前の大洪水の被害を受けて、黄河下流域の山東龍山文化の人々と交流があったので、黄河中流域に移動し二里頭文化の担い手となった。(中田力「科学者が読み解く日本建国史」PHP新書943、2014,pp.61-65)

夏王朝を滅ぼして殷(商)を建国した山東龍山文化の人々(O1b2)から分かれたのが江南の呉人でO-47zのハプロタイプを持つ人々で、現代日本人男性の約1/4を占める。

ちなみに、前述のとおり現代コリアン男性の約1/3は、殷(商)王朝が西周に滅ぼされる頃、王族の箕子が民を連れて平壌付近に建国した箕子朝鮮の人々の末裔なので殷(商)人と同じハプロタイプO1b2だ。
日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!

(注2)中細形・中広形銅矛や細形銅剣が出雲や吉備にも分布している。これについてもアズミ族が関与していると思われる。

(注3)文氏、漢氏が朝鮮半島を経由して日本に渡来し「邪馬壱国」を建国したという説だが、「邪馬壱国」そのものが存在しないことは倭人語で母音が連続するのが避けられたことから分かる(安本美典「倭人語の解読」(勉誠出版)平成15年,p.15)。

倭の奴国王が「呉の太伯の後」であるとして、前漢末期の哀帝か平帝から下賜されたのかもしれない(奴国・伊都国が活躍していた紀元前の世紀末ころ「中国正史には現れない外交関係が実在した、と推定される」とある(寺沢薫「王権誕生」日本の歴史第02巻、講談社、2000、p.159) 。 もしもそうであれば倭国大乱の過程でたまたま王の山古墳の被葬者に渡ったものだったかも知れない(*^▽^*)


【参考記事】奴国は周の青銅器文明を引き継ぎ、独自に深化させた。そして現代にもその痕跡をとどめていることからも、日本は古の倭の奴国で間違いない。「周王朝から邪馬壹国へ、そして現代へ」正木裕(古田史学の会)






【付録】王年代紀(宋史)
藤堂明保ら「倭国伝」(講談社学術文庫2010,pp.278-279)

 其の年代紀に記す所に云う。
 初めの主は天御中主(あめのみなかぬし)と号す。
 次は天村雲尊(あめのむらくものみこと)と曰い、其の後は皆な尊を以って号と爲す。
 次は天八重雲尊(あめのやえくものみこと)。
 次は天彌聞尊(あめのににぎのみこと)。
 次は天忍勝尊(あめのおしかつのみこと)。
 次は贍波尊(みなみのみこと)。
 次は萬魂尊(よろずむすひのみこと)。
 次は利利魂尊(ととむすひのみこと)。
 次は國狭槌尊(くにさづちのみこと)。
 次は角龔魂尊(つのそむすひのみこと)。
 次は汲津丹尊(くみつにのみこと)。
 次は面垂見尊(おもだるみのみこと)。
 次は國常立尊(くにとこたちのみこと)。
 次は天鑑尊(あめのかがみのみこと)。
 次は天萬尊(あめのよろずのみこと)。
 次は沫名杵尊(あわなぎのみこと)。
 次は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)。
 次は素戔烏尊(すさのおのみこと)。
 次は天照大神尊(あまてらすおおみかみのみこと)。
 次は正哉吾勝速日天押穂耳尊(まさかあかつはやひあめのおしほみみのみこと)。
 次は天彦尊(あまつひこのみこと)。
 次は炎尊(ほむらのみこと)。
 次は彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)。 凡そ二十三世、並びに筑紫の日向宮に都す。
 彦瀲の第四子を神武天皇と号す。 筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す。 即位の元年甲寅は周の僖王の時に當る也。 次は綏靖天皇。・・・・・(2020.5.30 王の読みを『日本書紀が伝える「筑豊百余国の王たち」【連載 新説・日本書紀②】2018年02月07日』により追加)



983年(永観元年、第64代円融天皇)に東大寺の僧奝然(ちょうねん)が宋に渡り、太宗に「王年代紀」を献上した。これによって、神話の高天原が奴国の時代だと了解し、その後のシナの史書に「日本は古の倭の奴国」と記載されたのだ。
「日本国」へ、八百年も掛かったのか?(;´Д`)

19代の天照大神尊はスサノヲの弟ニギハヤヒ。クーデターから逃れて出雲に落ち延び、ムナカタ海人族の支援を受けて吉備に進出し、ヤマト王権の基礎を築いた人物。「日本書紀」では建国の真相を隠すために、桃太郎の元ネタの吉備津彦の鬼退治の話にしている。さらに持統天皇を皇祖神アマテラス女神としてすり替えたと推理した。従って、王年代紀の19代以降23代までの天孫降臨・日向三代などの神話も創作なのだ(*´ω`*)(2019.9.26 追加)
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆



最後までお付き合い、ありがとうございます。
よろしければポチ、ポチ、ポチっと応援、よろしくお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

【検証9】奴国時代の話(その1)

2023-11-12 08:47:20 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

2020-07-03 17:35:47に記事にしましたが、図のリンクが切れていたので修理し、関連記事のリストも付けました。よろしければお付き合いください(#^.^#)

今回は2019-09-25 08:09:59 にタイトル「奴国の時代は凄かった」として掲載した記事に対して、内容を増やしたので改めて2回に分けて掲載します。金印の奴国に対する従来の見方とは異なるこの認識は、その後の歴史を解明する上でとても重要です。物事の最初を見誤ると後々まで間違いを引きずり、謎が解けないということになります。通説と異なるので、疑問点などがありましたら遠慮なくお寄せ下さい。

西暦57年に後漢に朝貢し光武帝より「漢委奴国王」の金印を賜ったが、江戸時代に志賀島の石の下から偶然金印が発見されたことより、范曄(はんよう、398年 - 445年)の「後漢書」に書かれたこの内容が史実だったと認められた。刮目天は「新唐書」「宋史」の「日本は古(いにしえ)の倭の奴国(なこく)」という記述を最初の仮説としたが、今回はその奴国の時代にスポット・ライトを当てて検証したい。

漢王朝などが周辺諸国に与えた金印などの紐(つまみ)のデザインはそれぞれの民族の特徴を表すもので、ラクダや羊など色々とあることが知られている。倭人の奴国王に与えた金印は蛇紐だった。当時の奴国の人々は蛇をナーガ(nag)と呼び、神として祀っていたことから、倭の奴(ナ)国と書かれた(本当は那国と書いてくれたら問題なかったのだが、卑字をあてられたのは面白くないので、誰も日本は奴国だったとは考えにくかったのだろう。印面の委奴国を「いとこく」と間違って読む説まで登場し、いまだに混乱しているようだ)。蛇を神とするのは長江下流域で水田稲作・漁労を行っていた呉や越の人々なのだが、越人は「大国主はトビヘビだった(^◇^)」で述べたように蛇を「トビ・トベ」と呼んでいた模様だから、奴国の人々は江南の呉に由来する倭人と呼ばれる海人アズミ族と考えられる(古代日本は海人国家だった(^_-)-☆)

倭人について最初に書かれた中国文献『論衡』によれば、周の成王(紀元前1042~前1021年)の時代に「越裳(えつしょう)は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず」とあり、呉人のことだと思われる(越裳は越人のこと)。

倭人は当初は江南を根拠地として半島南部や列島だけでなく、遠く西の方ではマダガスカル島あたりまで活動していた痕跡が見つかっている(「東鯷人(とうていじん)って?(^^)/ (注)」参照)。半島南半分から九州玄界灘沿岸地域では倭人語が話されていたので、この時代は半島南部は倭人と越人と列島の縄文海人が住む領域だったようだ(後に、半島や列島の縄文人と混血して、縄文系も含めて江南系と同様に倭人と呼ばれた模様だ)。

この江南出身の呉の人々である倭人によって韓半島南部で水田稲作が行われたようだ。紀元前10世紀には九州の玄界灘沿岸へも入植し、唐津や板付で水田跡が見つかっている。縄文人もそれ以前から稲作は行っていたが、主として陸稲(熱帯ジャポニカ種)を畑で栽培していた(注1)。半島の縄文人に江南出身の倭人が水田稲作技術を教えたと考えられる。倭人や半島の縄文人が温帯ジャポニカ種を北部九州に持ち込んで水田で栽培したのが弥生時代のはじまりだと考えられる。

よく韓半島の人々が半島経由で日本に数多くの文化をもたらしたように言われるが、この時代の半島人が韓人だというのは全く誤りだ。主として倭人や半島に進出していた縄文海人が列島に文化を持ち込んだのが本当だ。前4世紀から後2世紀には北は京畿道から南は慶南・全羅道までの30カ所以上の遺跡で九州北部の弥生土器が見つかっている(藤尾慎一郎「弥生時代の歴史」講談社現代新書、2015、p.121)。韓半島へは、以下で述べるとおり戦国時代に大陸からの戦争難民が後から居住するようになった。



戦国七雄のひとつである(紀元前403 - 前230年)が最初に秦によって滅ぼされ、難民が馬韓の地(現在のソウル付近)に居住したことから韓人と呼ばれるようになったと考えられる。秦が紀元前221年に史上初めて全土を統一するも、秦人らは始皇帝の圧政から逃れるために韓半島南東部への入植が続いた模様だ。その地を辰(秦)韓と呼んだが、秦人は辰韓の王にはならず、常に馬韓から王を迎えたと「晋書」にある。

すでに半島北部(平壌付近)に殷(商)から分かれた箕子朝鮮(紀元前12世紀? - 前194年)があったが、現在の北京付近を都にしていた燕(紀元前11世紀 ー 前222年)が秦に滅ぼされたので、燕から亡命した衛満が燕・斉・趙からの亡命者を誘いいれ、亡命者コロニーの指導者となり、箕子朝鮮を滅ぼし、衛氏朝鮮(紀元前194 - 前108年)を建てた。そのため箕子朝鮮の準王が南へ逃げて馬韓の地を占領し、韓王と名乗ったと「後漢書」にある。(2020.7.9 追加・訂正)

朝鮮民族の男系のルーツをY染色体DNAで調べると、主として紀元前三世紀から前二世紀に大陸から来たと考えられるシナ人が全体の4割になっている。上で述べた箕子朝鮮の殷(商)人が約1/3で、その他越人などを入れると8割以上がシナ大陸出身で、満州などツングース系の北方民族は1割以下となっていることからも確かのようだ。

従ってそれ以前の半島南部は江南系と縄文系の倭人の世界だった。

だから、繰り返すがそこで話された言語も日本語祖語の倭人語だった。六世紀初頭に辰韓の地に建国された新羅によって(注2)、七世紀中頃までに倭人は半島からほとんど追い出されたが、現代コリアンは、当時の倭人文化の影響をかなり受けているのだ。

また、念のため言っておくと、日本に帰化した百済人のほとんどは倭人だろう。新羅からの帰化人というのも、ほとんど新羅・伽耶付近に住んでいた倭人だと考えている。彼らは新羅(辰韓)人に混ざって生活していたので秦人が話していた陝西地方の方言を話すことができたようだ。七世紀初頭に九州東部や中国西部に移住したこれらの人々(帰化人)を隋使が見て秦王国と呼んだようだ。渡来人は異民族とは限らない?( ^)o(^ ))。



【関連記事】日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!
Wiki「日本人」の「日本人および周辺(日本からおよそ5000km以内)の諸民族のY染色体ハプログループの割合」より作成。ゲノム・ワイドな分析は遺伝子の混合を分析するものだが、民族のルーツを調べる上では、古代文献との関係が理解しやすいこのY染色体DNA分析が非常に有用。上の記事で下図の各ハプログループの解説をしていますので参照ください。


(左クリックで拡大します!)

(注1)Wiki「稲作」によると、日本では陸稲栽培の可能性を示すものとして岡山の朝寝鼻貝塚から約6000年前のプラント・オパールが見つかっており、また南溝手遺跡からは約3500年前の籾の痕がついた土器がみつかっている。半島でのイネは他の穀類と同様に列島から来た縄文人が畑で耕作していたのだろう。
遼東半島で約3000年前の炭化米が見つかっているが、朝鮮半島では稲作の痕跡は見つかっていない。水田稲作に関しては約2500年前の水田跡が松菊里遺跡などで見つかっている。研究者の甲元は、最古の稲作の痕跡とされる前七世紀の欣岩里遺跡のイネは陸稲の可能性が高いと指摘している。
( 甲元眞之、「東アジアの先史農耕」『青驪』 No.5 2008-2-29 p.30-33, hdl:2298/22921)
箕子朝鮮の殷(商)人系の人々は農耕・牧畜を行う民族だったから、韓半島南部に水田稲作技術を持ち込んだのは江南系の倭人(呉人)だ。

(注2)Wiki「新羅」によれば、『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。
また、「当初は「斯蘆」(しろ、サロ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした[1]」とある。

ここまでお付き合い、ありがとうございます。
次回(その2)に続きますので、よろしくお願いします。

【関連記事】
半島の古代史だ!(漢四郡まで)
日本列島に集まった人々とは?(^_-)-☆


よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

【邪馬台国朝倉説】卑弥呼の墓の正体は?(@_@)

2023-11-10 22:16:21 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

半年前に下の良い動画を見つけコメント差し上げて記事にもしました(詳細は卑弥呼の墓の候補はたった一つ!参照)。その中でいろいろな方とコメントのやり取りをさせていただきましたが、邪馬台国朝倉説の卑弥呼の墓と言われる巨大円墳長田大塚古墳の話題が印象深かったので、今年の夏に見学する予定でした。しかし最初の米神山登山でその後の予定が狂ってしまい、結局行けなかったので残念でした。今回また読み直してみて、さらに別の方のブログ記事にあった墳頂の秋葉宮を改めて見つめ直して新たな推理がひらめきましたので記事にします。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)

【卑弥呼】解明せよ!卑弥呼はどこに眠る?卑弥呼の墓と呼ばれる場所5選【ゆっくり解説】

レイの謎解き日本史ミステリー【ゆっくり解説】


@user-Godai_Yoshio
6 か月前
朝倉市山田の長田大塚古墳を忘れてはいけません。魏志倭人伝の「径百餘歩」に近い、直径140メートルを超える我が国最大の円墳です。661年、斉明天皇は百済救済のためにこの地を訪れ、ここにあった朝倉社を東の朝倉山に移したと記録されています。なぜ、斉明天皇はここに来たのか、それはここが卑弥呼(=天照大神)の墓と知っていたからです。また、伊能忠敬は朝倉山が現在の麻氐良山であると言っています。

刮目天
調査報告書が見当たらないのですが、長田古墳は3段築ですから6世紀ごろの築造ではないでしょうか?継体天皇陵墓説もあります。墳丁に秋葉神社を祀っていますので、カグツチの正体が尾張王ヲトヨノミコトだと突き止めていますが、後に置かれたもので、イザナミを母系とする一族のアマテラス女神のものだと思います。でも残念ながらアマテラス女神は実在人物ではないです。かなり大きな円墳ですが、卑弥呼は国内最大の直径約150mの円墳に葬られました。宇佐市安心院町三柱山古墳です。古墳マップでご覧ください。


@user-Godai_Yoshio
長田大塚古墳は、現在、個人の所有で柿畑となっています。発掘調査は行われたことがないと思います。また、柿畑にするため山体を削られたと思われるので、外形から年代を決めることはできないと思います。朝倉市内には斉明天皇ゆかりの史跡が多くあり、ここに来られたのは間違いないと思われます。なぜ朝倉に来られたのか、どうして朝倉を選ばれたのか、それを解明すると邪馬台国のこともわかってくると思います。

刮目天
@user-Godai_Yoshio さん 貴重な情報をありがとうございます。実は史実と考えている万葉史観によれば、日本書紀の斉明天皇は存在しておらず、宝皇女は中大兄の母ではなく、中大兄は天智天皇には即位していません(渡辺康則「捏造された天皇」大空出版)。用明天皇の後継の豊浦天皇(日本書紀の蘇我蝦夷であり聖徳太子ともされた万葉集の軍王)が、中大兄・鎌足(百済王子)のテロによって殺害されています。私の理解では、宝皇女との間の子が天武天皇と考えています。中大兄は宋史王年代紀19代(奴国)王天照大神尊ニギハヤヒの直系の子孫です。中大兄という名前は奴国王(龍蛇神)の正統な後継者という意味を表し、用明天皇に殺された敏達天皇の孫で、祖父が殺されたので、九州を支配していた物部氏に養育されて、地盤があったと考えています。父とされた田村(皇子ではない)も舒明天皇に即位していませんし実在人物ではないようです。

こういう、とんでもない歴史改ざんを日本書紀で行われていると推理しています。

麻氐良山(まてらさん)の山頂に鎮座する麻氐良布神社は最初に中大兄がニギハヤヒを祀ったものだと推理しています。後に藤原氏が日本書紀に合せて伊弉諾尊・伊弉冉尊他多数の祭神を祀らせて、史実を誤魔化そうとしたのだと推理しています。

ということで、長田古墳の墳丁のカグツチは日本書紀で創作された神で、上で述べた尾張王とその祖先であるニギハヤヒを意味しますから、この古墳で中大兄が尾張王の鎮魂とニギハヤヒの加護を祈った祭祀場だと示唆しているようです。三段築で周壕のある本格的な円墳のようですから7世紀の築造で、祭祀用ですから遺骸はないと考えていますが、果たしてどうかは発掘調査しないと分かりませんが(#^.^#)


【卑弥呼の墓】@「卑弥呼の墓」と言いきってる?「長田大塚古墳」は、山田SAから30秒で行けますよ🤩




以上のとおり書きましたが、魏志倭人伝から卑弥呼の墓は急造りの円墳だと分かりますので、時間をかけて作られた三段築の長田大塚古墳は該当しません。卑弥呼の一族のムナカタ海人族和邇氏は和珥・丸邇・丸とも書かれ、和邇氏の墓は卑弥呼や赤坂比古(父・弟)に見られる巨大円墳です。なので卑弥呼の弟赤坂比古が討った尾張王ヲトヨノミコト(記紀の仲哀天皇、秋葉宮祭神火の神カグツチ)の慰霊・鎮魂のために四世紀以降に和邇氏が築造したものではないかと考えています。

日本書紀で隠されていますが、応神天皇の皇太子ウジノワキノイラツコが宇治天皇として即位していると突き止めていますので、その頃に和邇氏の勢力はとても大きくなっています。沖ノ島祭祀もその頃(四世紀)に始められたものだと推理しています(詳細は「刮目天の古代史 空白の世紀と倭の五王の謎(その1)~(その3)」「富雄丸山古墳に隠された大きな秘密?」「富雄丸山古墳の被葬者は?」を参照してください。


宇治天皇は尾張王オトヨノミコトの女(むすめ)仲姫(なかつひめ、ナーガ奴国大王ニギハヤヒの子孫)が初代応神天皇の皇后となって生んだオオサザキ(第三代仁徳天皇)によって暗殺されたと推理しています。これは日本書紀を編纂した藤原不比等が「ムナカタ腹の高市皇子は身分が低いために即位できなかった」とウソをついたことを隠すためです。本当は皇太子だったと考えられる高市皇子が即位していた事実(宗形天皇)を隠さねばならなかったからです。そのために同じムナカタ腹の二人の天皇(第二代宇治天皇・第四代住吉天皇)を正史から抹殺したと突き止めました。高市皇子の息長屋王が皇子であったことの証拠「長屋親王」と墨書された木簡が長屋王邸から出土していました。

宗形天皇が即位していたということは、天武天皇の皇后とされた鵜野讃良(天智天皇皇女)が持統天皇として即位していないことを意味します。高市皇子の母宗形徳善女尼子娘(あまこのいらつめ)が皇后だったはずです(^_-)-☆

不比等は、持統天皇をアマテラス女神のモデルとして高天原神話・天孫降臨神話を創作し、鵜野の孫の軽(天武帝の皇子草壁の子)を異例の15歳の若さで即位させ(文武天皇)、不比等の女宮子を妃にして外戚として実権を握ったことを隠すためだったのです。これが天武天皇が編纂を命じ、崩御34年後に完成された正史「日本書紀」の最大の秘密だったのです。天皇の歴史書ではなく、藤原氏が権力を握り続けるための政治文書だったということです。

そのために、大王家だった蘇我蝦夷(渡辺康則氏の万葉史観で豊浦天皇)を暗殺した中大兄を天智天皇ということにしたのです。中大兄は大和で即位していないので、日本書紀と万葉集では中大兄皇子と書かれていないことを渡辺康則氏が指摘しています(「万葉集があばく 捏造された天皇・天智〈上〉〈下〉」青空出版2013)。

また、蘇我氏を大悪人にするために聖徳太子を大聖人に持ち上げて、蘇我入鹿という人物も創作したのです(渡辺康則「聖徳太子は天皇だった」青空出版2014)。常識的に考えると、大悪人の入鹿を祀る神社の存在を藤原氏が許しているのは、入鹿が架空の人物だった証拠でしょう。蘇我氏というのも、大王家ですので不比等の創作かも知れません。勿論、斉明天皇も推古天皇と同様に、皇后が即位する前例として創作したものなのです。

持統以降の5人の女帝もすべてフェイクです。藤原四家の権力争いで最終的に中大兄の孫光仁天皇が即位して、桓武天皇と続き、以後現代まで天智系の天皇が即位しています。スサノヲ・大国主一族の天武系とニギハヤヒ大王の子孫天智系(中大兄=ナーガの後継ぎ)の皇位継承問題を利用した藤原家内部の権力闘争だった考えています。日本書紀に続く正史「続日本紀」ではそれを隠すために女帝を登場させたのだと考えています。もう少し整理してまた記事にしたいと思います。大悪党と言われそうですが(*´Д`)

【関連記事】
日本の古代史が謎な理由?


王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆




通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

古代史解明は常識で判断しろってか?(;^ω^)

2023-11-08 21:11:16 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

前回の記事【刮目天の古代史】日本は古(いにしえ)の中国にコメントいただいた「躓き石先生」に対する返事が長くなったので記事にしました。関連して人気作家の倉山満氏の新作を入手したので、文献史学者の問題点を指摘させていただきました。よろしければお付き合いください(#^.^#)

「纏向遺跡」談義 (ToYourDay)
2023-11-08 14:59:51
二件目です。
「ヤマト王権の成立は、三世紀初頭に大和盆地の最初の宗教・政治都市纏向遺跡が作られて、210年頃に前方後円墳纏向石塚古墳が造成され、その後、日本列島に普及します。三世紀より前には大和盆地に王墓とよべるものが出土していません。」
と回答いただいたのですが、指摘の意味が通っていないようなので、蒸し直し傍ら、問い直します。
 「ヤマト王権の成立は」なる主語の述語はどこに行ったのでしょうか。「日本列島に普及します」なのでしょうか。
 「大和盆地の最初の宗教・政治都市」とは、何の意味でしょうか、三世紀時点、そのような言葉は存在しません。「都市」は、倭大夫「都市牛利」にしか現れません。
 「纏向遺跡」に、感嘆符、疑問符を付けた趣旨はご理解いただけなかったようです。三世紀に「遺跡」というと、当時の「権力者(?)」から、「わしはまだ生きとる」と叱られそうです。
 三世紀とか二百十年ごろとか確定的におっしゃいますが、どんな文献資料で、確定的に裏付けられているのでしょうか。
 貴兄の論考の「真の論敵」は、中国で厳密に編纂されていて、根拠も時代も明確な「倭人伝」です。余程、余程丁寧に論じなければ、それこそ、ごま粒ほどの「躓き石」で転けてしまいます。脚もとが固まっていてこその辻説法でしょう。
 くれぐれも、ご自愛いただきたいものです。
以上


「ヤマト王権の成立は」なる主語の述語はどこに行ったのでしょうか。「日本列島に普及します」なのでしょうか。

はい、すいません。ちょっとややこしいので、述語が飛んでしまいました。以下で説明します(^^;)

王権の成立という言葉は、一定の領域の中の民衆を統治する王の即位をもって成立するというように考えると、それに対する明確な証拠が必要です。その領域を大和盆地とするのでは日本を代表するヤマト王権というには狭すぎるので「日本列島に普及します」と書きましたが、そこで止めたために不明確な文章になってしまいました。

実際、ヤマト王権とは?との定義が必要です。

大和盆地の最初の支配者というのなら、三世紀初頭に纏向(当時の地名を知りませんが)に王都を築いた狗奴国王卑弥弓呼は、三世紀末にホムダワケ(本当の父は仲哀天皇ではなく、大国主久々遅彦)を纏向に呼び寄せて祭祀王にした人物(記紀の崇神天皇)の先代です(記紀の開化天皇)。ですから祭祀王の即位をもってヤマト王権の成立と考える立場と、狗奴国王(崇神天皇)が列島を統一した時期(記紀の崇神天皇の四道将軍の派遣)をいう立場がありますね。ですから記紀は応神天皇の分身として初代神武天皇を登場させていますが、崇神天皇というハツクニシラススメラミコトを登場させて、好きなように考えろと言っているのですかね(;^ω^)

日本の天皇の役割は大国主大神を祀るヤマトの祭祀王だと考える立場をとると、応神天皇の即位をもってヤマト王権の成立と考えてよいと思います。

「纏向遺跡」に、感嘆符、疑問符を付けた趣旨はご理解いただけなかったようです。三世紀に「遺跡」というと、当時の「権力者(?)」から、「わしはまだ生きとる」と叱られそうです。

なるほど、面白い指摘です。現代の人間が三世紀のことを述べたために、その時代の人々との間で起こる表現の齟齬ということだとしたら、これははっきりしています。つまり現代の人間が、過去の人間に説明しているわけではないのですから。先生は現代人ですよね(#^.^#)

三世紀とか二百十年ごろとか確定的におっしゃいますが、どんな文献資料で、確定的に裏付けられているのでしょうか。

すでに前記事のコメントで説明しましたが、ご理解いただけなかったようです(注)。日本の古代史を考える上での基本文献の日本書紀は政治的に史実を改ざんしたと証拠をあげて説明しています(詳細は「日本の古代史が謎な理由?」参照)。

つまり日本書紀の天皇紀から算出した年代は、事実(考古学や民俗学などの成果)と不整合です。文献史学者のみなさんは、書かれていることは基本文献などで史料批判することで解明できると考えているようです。そのような歴史解明スキームの前提は基本文献に事実が書いてあるはずということですので、前提が崩れているのですから、このようなスキームでは真相は永遠に得られないのです。

また記紀を全否定して、文献を用いずに考古学の成果だけで古代史を論じることも、いつ、だれが、何をしたという具体的な歴史の解明にならないことは容易に分かりますね。

貴兄の論考の「真の論敵」は、中国で厳密に編纂されていて、根拠も時代も明確な「倭人伝」です。余程、余程丁寧に論じなければ、それこそ、ごま粒ほどの「躓き石」で転けてしまいます。脚もとが固まっていてこその辻説法でしょう。

確かに魏志倭人伝など中国文献では時代が明確なことは分かりますが、これも政治文書だということをご理解していただかないと邪馬台国問題は解決できません。それは従来の研究方法の歴史を振り返れば、いまだに邪馬台国の場所も卑弥呼の墓も見つけられないことから証明されています。従来の歴史解明のスキームは見直す必要があります。

丁度、近現代史と皇室史学が専門の人気作家倉山満氏が最近出版された「噓だらけの日本古代史」(扶桑社2023年11月1日出版)を入手しました。文学部史学科の修士修了でその後の研鑽と軽快な語り口で、主に近現代史のウソを論破する「嘘だらけ」シリーズは45万部を突破しています。今回は古代史に挑戦ですのでどんなウソを暴露していただけるのか興味を持って拝見しました。
確かに面白いのですが、日本書紀の内容を基本的に肯定しているので、しばしばずっこけました。

「序章 古代史を学ぶ基本スキーム」に三つの方法論が詳しく解説されていました。
①「本当のことは分からないので仮説の積み重ね」
②「神話と史実を区別しないのが普通の国」
③「SFになりそうになったら常識に返る」


まず①ですが「残された史料に百%の正解も百%の不正解もあり得ないのだ、だから検証しなければならないとする態度が、時代に関係なく、歴史学の基本姿勢です。この検証する方法論を史料批判と言い、論理を重ねていきます。」とあります(p.21)。一次史料という言葉は出てきますが、事実という言葉が出てきません。仮説を積み重ねても、事実、つまり考古学や民俗学などの成果で検証しないとその仮説は妄想かも知れないのです。

②ノアの箱舟の残骸を発見した話が紹介され、『普通の国の考古学者は、神話が史実であると証明するのが仕事のようなものです。
ところが日本の考古学者どころか歴史学者までが、「神話や史料と違う事実を考古学で発見しようと」と血眼になる有様です。
』とあります(p.25)。一次史料の記紀に書かれていることは事実のはずだという前提ですから、あれこれあらさがしをしているのは悪党だと言われかねないです。
神話は民族の古来からの伝承なのだから、それを正しく解釈すれば歴史の真相に迫れるという思い込みなのです。でも、事実で検証すれば、記紀神話は8世紀の創作だったと分かったのです(*´Д`)

③が一番傑作です。「古代史研究は一文字ごとの解釈において、この三つの方法論を繰り返す、過酷な世界です。まじめにやっていればSF化する余地などありません。」(p.28)とあり、最後に「要するに、大事なのは常識です。」とこれらのスキームの説明を締めくくっています。

常識で考えればいいんだ!というのなら、あなた、武烈天皇がやったことなど、数多くのスキャンダルまみれの天皇の事績をその子孫が正史に残す理由がどこにあるの?と根本的な常識を疑いたくなります。

正史は権力者の正式見解なのですから、正史を実際に編纂した権力者は万世一系の天皇を貶めるような人物だから、天皇が編纂したものではないと気づくのが常識というものでしょう!

ということで、この本はとても役に立つものですので、是非一度お手に取ってみてください(#^.^#)


(注)前記事のコメント
日本建国に関する史料 (刮目天 一(はじめ))
2023-11-07 07:51:10
>因みに、貴説で纏向(遺跡?!?)で三世紀に「日本」が建国されたとの意見がありますが、根拠となる文献資料はあるのでしょうか、大変、不合理なご意見と思います。

ヤマト王権の成立は、三世紀初頭に大和盆地の最初の宗教・政治都市纏向遺跡が作られて、210年頃に前方後円墳纏向石塚古墳が造成され、その後、日本列島に普及します。三世紀より前には大和盆地に王墓とよべるものが出土していません。

根拠となる文献史料は記紀になります。ただし、政治的に創作されたので初代神武天皇から、初代大王と考えられる崇神天皇までは創作です。崇神天皇の四道将軍の遠征ルート上に三世紀後半の矢戦の跡が出土しています。また景行天皇の九州遠征のルートにも同じ時期の戦争の痕跡が見られ、考古学や民俗学の証拠から尾張王建稲種命の事績だと推理しました。日本建国の英雄ヤマトタケルのモデルとして記紀に記されていることが分かりました。そして崇神天皇紀に三輪山の大物主大神(大国主の和魂)の神託があり、初代大王として応神天皇がヤマトの最初の祭祀王として即位したことが判明しています。古代史解明において、文献は、書かれた内容が政治的なものですので考古学などの成果から推理する必要がありますが、文献が無ければ歴史を書くことができないのは明らかですね(^_-)-☆

【関連記事】【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆




通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング