刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その13)崇神紀四道将軍も景行天皇・ヤマトタケルの遠征も全て古墳時代初頭の出来事だった

2024-02-10 08:51:44 | 古代史
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2022-07-13 22:12:59に記事にしましたが、リンクが切れていたので修理しました。よろしければお付き合いください(#^.^#)

6.日本建国の謎
③崇神紀四道将軍も景行天皇・ヤマトタケルの遠征も全て古墳時代初頭の出来事だった
日本建国の戦いの様子は、三世紀後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況から判明しました。四道将軍は、崇神天皇十年にそれぞれ、北陸に大彦命(オオビコ)、東海に武渟川別(タケヌナカワワケ)、西道に吉備津彦命(キビツヒコ)、丹波に丹波道主命(タニワノミチヌシ)を派遣し、翌年には各地の敵を帰順させて凱旋したとありますが、それぞれの戦闘の痕跡が見つかりました。



三世紀後半の(弥生終末期から古墳時代初頭)の鉄鏃・銅鏃の出土状況をGoogleMap「終末期~古墳初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況(by 刮目天)」で公開していますので、それを参照しながら以下に説明しています。クリックして確認してください(^_-)-☆

大彦命は「第8代孝元天皇の第1皇子で、第11代垂仁天皇の外祖父である。また、阿倍臣(阿倍氏)を始めとする諸氏族の祖。」とあります。図の纏向遺跡から北陸への矢印が大彦命のルートということになります。石川県の戦跡は鉄鏃9個、銅鏃8個とあり、これらは集落戦が行われたことが分かります。北陸は大国主の傘下のムナカタ海人族息長宿禰王の一族の支配域と考えていますので、(その10)で示した高温鍛造遺構のある小松市の一針B遺跡もあることから、石川県内の戦跡は大国主側の集落への攻撃を示しています。鉄鏃9個は環濠内や防御用の溝ではなく、土坑や表土で出土していますから、全てが攻撃側のものではないようですが、倭国側は銅鏃を使用しないと考えられますから、銅鏃8個はすべて狗奴国勢のものです。尾張勢も含んでいるかも知れません。富山県では鉄鏃の戦跡は見られず、銅鏃1個だけですから、石川県の戦いに比べて激しいものではなかった模様です。

東海道を遠征したとされる武渟川別は大彦命の子ですが、静岡市内の方形周溝墓から銅鏃が2個、静岡県東部に銅鏃1個の戦跡と、戦跡とは明確になっていないその他に分類した銅鏃が2個見られます。小田原市の高温鍛冶遺構がありますが、戦跡は見られないので戦わずに降伏したと推理できます。さらに町田市から八王子市にかけて、あるいは南の三浦半島でもその他に分類した銅鏃が各1個みられますから、小規模な戦闘はあったようです。そして高温鍛冶遺構がある千葉県に入ると、武渟川別勢のものか不明ですが、墳墓の盛り土から鉄鏃が3個見つかっており、倭国側のものかも判定できません。市原市の二つの古墳の主体部から鉄鏃2個、銅鏃1個が見つかっていますので、一体は武渟川別勢によって殺された倭国側の人物だと分かりますが、残りは不明です。千葉市で銅鏃1個が見つかっていますが、その他に分類されるものですが、武渟川別勢のものです。茨城県ひたちなか市の遺跡でも銅鏃1個が溝から見つかっているようですので、戦闘が行われた模様です。さらに埼玉県と群馬県に倭国側の高温鍛冶遺構がありますが、戦跡が見られませんので、これらも武渟川別勢に降伏したのかも知れません。

そして武渟川別は北陸道を遠征した父の大彦命と猪苗代湖のほとりで落ち合ったので相津(会津)という地名の起こりとしています。しかし、武渟川別のルートは、後の年表で示していますが、計算上は200年以上後の景行天皇の皇子ヤマトタケルの遠征ルートと一致する部分があります。そして、尾張王建稲種命がヤマトタケルの副将として参加したという伝承が残っており、ヤマトタケルは建国の史実を隠すために創られた人物で建稲種命をモデルにした人物と考えられます。なので、武渟川別も実在人物ではなく、同様に建稲種命の史実を隠すために創作された人物かも知れないと考えています。

大彦命は埼玉県行田市で発掘された稲荷山鉄剣の銘文に「意富比垝(おほひこ)」という文字が見られ、大彦命のことであれば実在人物ではないかと考えられています。ただし、北陸道遠征を実際に行ったのかについては確実ではないと考えています。つまり、新潟県に入ると戦跡は見られないので大彦命勢とは戦わずの降伏したと考えられますが、弥彦村に尾張氏の祖神天香語山命を祀る弥彦神社があります。その土地は尾張氏が所領としたと考えられますので、尾張勢が北陸も遠征したことが分かりますから、大彦命も北陸道遠征していないかもしれないと考えています。

また、丹波道主命は「第9代開化天皇皇孫である[1]。父は開化天皇皇子の彦坐王(ひこいますのみこ)とするが、開化天皇の別皇子である彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)を父とする別伝も掲げている[1]。」とあり、少しだけ曖昧です。すでに(その11)で函石浜遺跡を建稲種命が攻撃したと推理しました。京丹後市の途中が丘遺跡の溝から鉄鏃1個が見つかっているだけで、丹後・丹波地区では他に多数の古墳群から鉄鏃が出土しているだけなので、丹波道主命が遠征したということは疑わしいと考えています。

後の話ですが、wiki「丹波国造」によれば、「丹波氏(たにわうじ、姓は直)で、後に宿禰を賜姓された。系図などから一般に尾張氏(尾張国造)の同族とされているが、(先代旧事本紀)「天孫本紀」の記述に従えば彦坐王後裔の但遅麻国造と同族とされる。
律令制以降は丹後国丹波郡に本拠を置いており、丹波直真養が国造に任命されたことが見える。
」とあり、尾張王建稲種命の子孫と考えられるので、丹波道主命のタニワ遠征も創作かも知れないと考えています。

さらに吉備津彦は「第7代孝霊天皇皇子である。」とあり、元の名は彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)で姉が箸墓の被葬者で大物主の妻倭迹迹日百襲媛命(ヤマトとトビももそひめ)です。

すでに【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?で明らかにしましたが、吉備津彦(イサセリヒコ)は、二世紀初頭の奴国が滅亡した宮廷楽師師升らの反乱を逃れたニギハヤヒ大王(殺されたスサノヲ大王の弟、楯築王墓の被葬者で人面蛇体の天皇伏羲の末裔)のことです。吉備を平定して奴国を再興し、ヤマト政権の基礎を築いた人物のことだったのです。だから、古事記では崇神紀で大吉備津彦という名前に変えていることからも虚構だというウインクだと思います。古事記では四道将軍という言葉も出てきませんよ(^_-)-☆

しかし、吉備や安芸で古墳時代初頭(三世紀後半)の鉄鏃や銅鏃の出土状況から、ここでも尾張勢が中心となって大国主勢と激しい攻防戦が行われたと考えられます。景行天皇の九州遠征へのルート上にありますから、尾張王建稲種命の軍勢との戦闘の跡ではないかと考えられます。

日本書紀の第十代崇神天皇から第十五代応神天皇までの日本書紀の記述を年表にしましたが、崇神紀の四道将軍の話は、その200年くらい後のはずの景行天皇の九州遠征やヤマトタケルの遠征と同じで、全て三世紀後半の尾張王建稲種命の史実を誤魔化すために、時代も人物も振り分けて創作された話だと考えられます。だって、この時代の前の弥生後期後半(二世紀末から三世紀初頭)の倭国大乱も「後期後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況(by 刮目天)」に示すように、福岡県・佐賀県・熊本県の九州三県でしか大きな戦闘は起こっていないのです。それまでは、各集落で小競り合いがあったことは否定しませんが、戦争のない実にのどかな日本列島だったのです。我々の祖先縄文人と江南の倭人は本来は争いの嫌いな、穏やかな気質の人々だと言えますね(^_-)-☆。

すべて、藤原氏に都合の悪い日本建国の史実を隠す目的だったのです!

このことに気付かないで、

神武天皇の東征だとか、記紀に基づいていくら日本建国の仮説を立てても、

史実に基づかないので、すべて古代妄想なのですよ!(´ω`*)




【関連記事】
【検証19】日本建国のための戦いだ!
鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有


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纏向遺跡は卑弥呼に敵対する狗奴国だった(^_-)-☆

2024-02-08 19:55:35 | 古代史

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2023-02-04 15:44:11に記事にしましたが現在図のリンクが切れていましたので修理しました。よろしければご確認ください(#^.^#)

2022-06-30 17:59:01に5.大国主と台与の謎
①纏向遺跡は卑弥呼の裏切りに対応するために造られた政治都市だった
という記事にしましたが、説明不足の個所に加筆して改訂しましたので、また、おつきあいください(#^.^#)


5.大国主と台与の謎
①纏向遺跡は卑弥呼の裏切りに対応するために造られた政治都市だった

玄界灘を支配する卑弥呼の父(先代)赤坂比古が狗(旧)奴国を裏切って倭国側についたために、狗奴国側への半島の鉄の流通が止められてしまったと推理しました。狗奴国勢は衰退・滅亡の危機を感じました。そこで卑弥弓呼大王は、後でまた述べますが、狗奴国王に従う東海や山陰・北陸などに分散している勢力を集めて対抗するために、祭祀施設を持つ広大な政治都市の纏向遺跡(桜井市)を建設したと推理しました(注1)。纏向遺跡は環濠は造られていませんが、西側の金剛・生駒山系によって防御されており、万一攻撃されても東側の山地を抜ければ東海方面へも逃げることができる安全と思われる場所に作られたわけです。周囲に水田はないので、食料は外部から調達したということで、祭祀を中心とする政治都市です。

下の図は纏向遺跡の築造と関わりある唐古・鍵遺跡と一緒に、纏向遺跡の遺構・遺物の変遷を示すものです。唐古・鍵遺跡の人々ですが、出土した絵画土器に鳥の羽を纏った巫(かんなぎ)や巫女が描かれており、銅鐸を祖霊・穀霊祭祀に用いていた縄文系の人々と考えられます。吉備で隆盛になって奴国を再興したニギハヤヒ大王の子孫が東に進出し、播磨・河内から大和盆地に移動してきたので、唐古・鍵遺跡の人々はニギハヤヒの子ウマシマジの子孫物部氏の祖の卑弥弓呼大王(記紀では開化天皇と崇神天皇)に従ったと考えています。纏向遺跡の構築や食料供給は唐古・鍵遺跡の人々が行ったのでしょう。



ニギハヤヒ大王の子天香久山命が葛城山麓の高尾張(御所市)を治め、さらにその子孫の乎止与命(ヲトヨノミコト)が、東海に進出しました。すでに弥生前期からアズミ族が遠賀川式土器を持って伊勢湾沿岸部に進出していましたが、海部氏系図によると彦火明命(ニギハヤヒ)を祖とする海部氏(あまうじ)が海部郡(蟹江町)などを開拓していたので、乎止与命が尾張王となったと考えています。

また、伊勢湾岸地域から濃尾平野は北側の関が原を越えると琵琶湖に繋がっていますので、北陸・上越などを活動域として琵琶湖東部・南部沿岸部を根拠地としていたムナカタ族息長氏の祖とも深いつながりがあったようです。記紀で乎止与命を仲哀天皇としていますが、息長宿禰王の姫巫女台与(トヨ)を神功皇后のモデルとしていますので、尾張氏と息長氏は血縁で結ばれていたようです。神功皇后の系図でも父の息長宿禰王は第9代開化天皇玄孫で、迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)の王子とされていますが、迦邇米雷王の迦邇(カニ)は尾張の代名詞で「米」は首長を意味しますので、「迦邇米(かにめ)」は尾張王という意味です。そして「雷王(いかずちのみこ)」は大国主に国譲りさせた「タケミカズチ」を連想させ、史実は乎止与命を大国主勢に殺されて仇討ちをした尾張王建稲種命(タケイナダネノミコト)を記紀では国譲り神話のタケミカズチとし、乎止与命が正体の仲哀天皇の祖父の景行天皇としています。乎止与命は神話ではタケミカズチの父で火の神カグツチとされ、イザナミが生んだために死んだので、怒ったイザナギに切り殺されたとあります。イザナギの子孫の大国主に殺されたということなのです。なので、この系図も藤原氏によって創られたものだと推理しています。しかし、血縁関係で結ばれてはいたとは考えています。

そして、前方後方墳は濃尾平野で盛行していますが、初期のものが清須市廻間SZ01墳丘墓に見られますので、wiki「前方後方墳」によれば、「伊勢湾沿岸で誕生し各地にもたらされたと考えられる」とあり、当時の伊勢湾は現在の内陸まで広がっていましたので息長氏の祖のムナカタ海人族のものと考えられます。東近江市神郷亀塚古墳は三世紀前半に作られた最古級の前方後方墳ですが、その近くに乎加神社(おかじんじゃ)があります。「豊遠迦比売命(豊岡姫命)を主祭神とし、白山比売(白山比咩神)を配祀する」とあり、伊勢神宮外宮の豊受大神として祀られている女王台与なのです。息長氏の祖が支配したと考えられる守山市から栗東市にかけて弥生後期の国内最大級の集落伊勢遺跡がありますが、「伊勢神宮の神明造りや出雲の大社作りとよく似た様式のものがあり、先駆的な建物として関連性が注目されます」とあります。伊勢神宮の地ももとは息長氏の祖のムナカタ海人族の支配地だったと考えています。

スサノヲ大王の子孫で、山陰から北陸などを活動域とするムナカタ海人族の王久々遅彦は、豊岡市竹野町鷹野神社を王宮としていました(「【大発見!】大国主命の生誕地か?」参照)。先代は魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗で、先代が戦死して跡目を継いだ王、豊岡市久々比神社祭神久々遅命で、スサノヲの子イタケルの子孫です。

これらの狗奴国と関係する地方の有力者やそれに次ぐクラスの人々が続々と纏向遺跡に集まってきたことは、下で示す外来土器の出土状況や首長クラスの人々が生活する掘立柱住居が多数造くられていることから分かっています。



纏向遺跡の狗奴国の勢力は、連日、祈祷を行い、スサノヲ大王を殺して倭国を奪った恨みのある師升(儺升)の一族の難升米(儺升王)と裏切り者の赤坂比古らを呪詛したと考えられます。大量に出土した桃の種はこのころの祈祷と関連していると考えられています。そして、238年8月に倭国の後ろ盾だった公孫氏が魏の司馬懿によって滅ぼされて、狗奴国勢は一時喜んだと思います。

ところが、前回述べたとおり、倭国王難升米の果敢な積極外交によって、表向き(先代)赤坂比古の姫巫女(卑弥呼)を女王に立て親魏倭王の金印が授けられ、魏を後ろ盾にして益々、隆盛になってしまいました。

これは纏向遺跡での200年頃から250年頃までの上の外来土器の変化の図から読み取れます。当初見られた四国東部や和歌山などの土器が纏向三式の時期には見られなくなりました。奴国の交易センターに集まり、華僑や半島南部の鉄を入手する交易をおこなって倭国側についたわけです。狗奴国側は半島との交易が停滞して相当苦境に陥ったと考えられます。

狗奴国の卑弥弓呼大王はようやく倭国遠征軍を送る決断をしました。各地から集まった狗奴国側の勢力も倭国追討軍に参加する決心をしたと推理しています。外来土器の構成から東海地方からのものが半分近く占めますので、上述のとおり卑弥弓呼大王と同じニギハヤヒの子孫尾張王が最有力者だと分かります。纏向三式の時期には、山陰・北陸・近江・関東のムナカタ海人族を率いる久々遅彦の勢力や卑弥弓呼大王がもとの根拠地の吉備から率いて移動してきたと思われる河内・播磨の勢力が増えています。

久々遅彦はすでに述べた通りスサノヲ大王の子イタケルの子孫ですので、代々半島南部とのつながりがあり、鉄の交易の元締めだったので、赤坂比古よりも久々遅彦と関係の深い各地のムナカタ族が傘下となっていたのだと考えています。つまり、歴代の久々遅彦が元締めとして運営する鉄交易ネットワークに参加するために、各地の部族長は妃を出して婚姻関係によって久々遅彦と関係を深めていたのだと推理しています。大国主命に数多くの妃が居るのは、各地の首長の政略なのでしょう(^_-)-☆



【関係記事】
【検証11】定説の根拠を疑え(^_-)-☆
【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ|д゚)
【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!
【検証17】狗奴国は纏向の旧奴国だよ

(注1)纏向遺跡の外来土器に九州の土器がほとんど見当たらないので、倭国の外交や内政の拠点として一大率を置いた伊都国や、列島最大の交易センターがあった奴国からも人々が纏向遺跡に来ていないと考えられます。三世紀に成立したヤマト王権のシンボルの前方後円墳が作られた纏向遺跡での祭祀に、倭国のあった北部九州の人々が参加してはいないのですから、纏向遺跡に集まった勢力と北部九州の倭国勢力とは対立していたと分かります。つまり、纏向遺跡の勢力は邪馬台国と対立する狗奴国の勢力であることが考古学の成果から明らかになっているのです。邪馬台国畿内説の根拠が考古学の成果から完全に否定されているのです(^_-)-☆。


つづきは「②卑弥呼の死後の千人死んだ殺し合いは倭国追討軍の内輪もめだった」です。ここまでお付き合い、ありがとうございます。次もよろしくお願いいたします( ^)o(^ )
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ヤマト王権のルーツは吉備そして奴国だった(^_-)-☆

2024-02-05 15:50:23 | 古代史

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2022-04-20 22:20:04に記事にしましたが、図の追加など若干追加して再掲載します。よろしければお付き合いください(#^.^#)


刮目天一
参考になる話題をありがとうございます。たしかに伊勢遺跡というのは大和王権成立においてひとつの重要な役割を果たした女王台与(神功皇后のモデル)の父(息長宿禰王)の一族が支配した大規模集落だと推理しています。息長宿禰王は近江だけでなく、ヒスイの産地の糸魚川流域を支配下に置いた縄文海人ムナカタ族の一支族の長と推理しました。



この勢力と交流のあった、ヤマト王権成立の中心勢力であった尾張氏が支配下に置いたのが朝日遺跡です。先代旧事本紀から吉備で奴国を再興したニギハヤヒ大王の一族です。弥生終末期から古墳初頭(3世紀後半)の鉄鏃・銅鏃の出土状況からも分かります。当時日本列島の中心部のほとんどでは鉄鏃が使われていますが、朝日遺跡には鉄器はほとんど出土せず、鉄鏃は全く出土していませんので、尾張の勢力だけが銅鏃を使っていたことが分かります。そして東海の特徴的なS字甕が各地で出土しており、尾張氏が九州や北陸・東海などで活躍した日本建国の中心的な氏族だったことが分かりました(詳細は拙ブログ「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)。日本書紀は日本建国の父として景行天皇の九州遠征やヤマトタケルの遠征の話にしましたが、実は尾張王建稲種命が正体であることを隠したと分かりました(「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)~(その4)」「抹殺された尾張氏の謎(その1)、(その2)」「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」「尾張と言えばカニだ~わ!」参照)。



纏向遺跡の初期前方後円墳のルーツを調べるとやはり吉備にたどり着きます。楯築遺跡は双方中円墳という形式の古墳とされていますが、間違いなく前方後円墳のルーツです。それは特殊器台とその表面に描かれた弧帯文が証拠です(「弧帯文は龍蛇神(ナーガ)の文様だった!(^_-)-☆」参照)。



これはヘビを象ったものです。奴国の初代王は紀元前4世紀初頭の吉武高木遺跡に半島南部から移り住んだ天御中主です。中は奴(ナーガ=龍蛇神)であり、ナーガを信奉する部族の長を意味します。記紀神話でも高天原に最初に現れた神としていますが、10世紀に宋の太宗に献上された日本の王年代紀に神武天皇の前に北部九州の倭国を支配していた23代の王名が記されています。実際は18代奴国王スサノヲが奴国宮廷楽師師升らの反乱によって殺され(「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)」「【検証22】難升米という人物は?(その1)」参照)、それを逃れた弟がニギハヤヒ大王だと突き止めました。第19代王天照大神尊とあり、倉敷市の楯築王墓の被葬者です。

何故わかるかというと、王墓の墳丘の上の神社の御神体が亀石と呼ばれる弧帯文石なのです。ヘビを象った蛇の目のある弧帯文が描かれた石に被葬者の顔が彫られていました。つまり人面蛇体なのです。これは中国神話の人類の始祖神である天皇伏羲氏と同じなのです。長江文明の担い手で、後に黄河流域で夏王朝を建て、さらに夏王朝を滅ぼした殷(商)王朝を滅ぼし周王朝を建てた姫氏と同族の呉の太伯の流れを汲むものです。魏略にかかれたとおり「倭人は太伯の後」の物証がこの亀石だったのです。八世紀にヤマトの大王が天皇と呼ばれた理由がハッキリと分かりました。そしてこのことを日本書紀は完全に隠ぺいしたことが分かりました(「【大発見だろう】天皇家のルーツの証拠!(*^▽^*)」参照)。



日本書紀ではニギハヤヒ大王を吉備の鬼退治をした吉備津彦として隠しましたが、貞観元年(859年)1月27日に特別な神階である二品を贈っていることから、吉備津彦の正体がばれてしまいました。普通の神は最高正一位ですが四柱だけがその上の品位なのですから、大和朝廷にとっていかに重要な神なのかが分かります。ちなみに残り三柱は、淡路国一宮伊弉諾尊、宇佐神宮八幡大神・八幡比売神が一品です。伊弉諾尊はスサノヲとニギハヤヒの父で第17代奴国王ですから皇祖神ですので分かります。八幡大神は応神天皇となっていますが、最初は八幡比売神卑弥呼を隠すために宇佐神宮で祀られた大国主久々遅彦(応神天皇の本当の父)でした。神宮寺の弥勒寺の御本尊でした(「卑弥呼は何故隠された?(´・ω・`)」参照)。これらのことからも吉備津彦は第7代孝霊天皇皇子イサセリヒコで、四道将軍の1人であると日本書紀は誤魔化しましたが、その正体がばれてしまいました(^_-)-☆

ちなみに中大兄(天智天皇としてヤマトの大王に即位していませんが、その名は奴国王の正統な後継者であることを意味します)の孫の光仁天皇(桓武天皇の父)から今上天皇までニギハヤヒ大王の子孫であることも分かりました(渡辺康則「万葉集があばく 捏造された天皇・天智  上」「聖徳太子は天皇だった」大空出版)。

ということでヤマト王権のルーツは奴国でした。日本は古の倭の奴国というのが正しいことが様々な証拠から分かりました。詳しくは拙ブログ「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*)」などを参照してください。どうもお邪魔しました( ^)o(^ )

【関連記事】
【検証18】倭国大乱の痕跡だ!弥生後期後半の鉄鏃・銅族の出土状況の調査結果から分かりました(^_-)-☆

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆神話は藤原不比等が創作したのですよ( ^)o(^ )







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東北弁のルーツは出雲弁だった?(^_-)-☆

2024-02-04 14:11:12 | 古代史
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とてもいい動画を見つけましたので、例によってコメントしました。ご興味があればぜひ動画も見て、お付き合いください(#^.^#)


刮目天
とても参考になるいい動画をありがとうございます。日高見国は出雲神八束水臣津野命こと海神豊玉彦が開発した国だと分かりました。日高見国は北上川流域だったのです。北上川は「来た神川」のことだったのです。詳細は「国引き神話は史実だった?(その4)徹底的に隠された神だった?」、「大谷さんは日高見国の王子だったの?」をご参照ください(;^ω^)

今、上で紹介した拙ブログ記事を見直してみると、北上川流域の日高見国は、奥州市日高神社が通称日高妙見とされているので、神仏習合して妙見さんとされた八束命を祀っています。出雲国風土記の国引きの神八束水臣津野神の略称です。この神を祭神とする出雲市長浜神社の元の名称が妙見さんです。また、釜石市長浜町で浜大明神が祀られていますので、日高見国は八束命が最初に開発した地域だとは思います。八束命は「古事記」で淤美豆奴神(おみづぬのかみ)とされており、その子天之冬衣神が多いに関わっていることも分かりました。

つまり、天之冬衣神は穂高見命(ほだかみのみこと)から、古事記を創作した多人長(おおのひとなが)が連想してあてた神名なのです(詳細は「日本の古代史が謎な理由?(@_@)?」参照)。すでに上掲記事で指摘していますが穂高は「ほだ・ほた」のことで、 デジタル大辞泉 によれば
ほた【×榾/榾=柮】
読み方:ほた
《「ほだ」とも》炉やかまどでたくたきぎ。小枝や木切れなど。
《季 冬》「おとろへや—折りかねる膝頭/一茶」

です。そして「み」は古文の神・霊の意味と見ると、格助詞「か」は「助詞(じょし)の種類(しゅるい)の1つ。おもに体言について,その体言と下にくる語との関係(かんけい)を示(しめ)す。」とありますので、「ほだ」の霊、つまり木霊とされる五十猛命(第十八代奴国王スサノヲの子)の霊を纏った、霊的につながった子孫という意味と考えられます(注1)。

ということで八束命の後継者の天之冬衣神・穂高見命は穂高彦あるいは日高彦ということになります。宋史王年代紀では第二十二代奴国王炎尊とされていますが、「日(ひ)」を「火・炎」としたのでしょう。そうすると、日高彦(先代久々遅彦、魏志倭人伝の狗古智卑狗)の御子が高野御子(たかのみこ)大国主命のことですが、「日高の御子」の「日」が省略されたのだとわかります。これは藤原政権に遠慮したためかも知れません(;^ω^)



ですから卑弥呼の死後の内戦に勝利した大国主久々遅彦(高野御子)が狗奴国を裏切って、13歳の台与を女王に立てて魏を後ろ盾にして卑弥弓呼大王(ニギハヤヒ大王の子孫、記紀の崇神天皇)と対立できたのです。大国主の祖父や父の代から多くの人々から鉄のネットワークの元締めとして尊敬され、各地の首長は自らの娘を妃として差し出し血縁関係を築いたことが背景にあったと思います。大国主も、当時の先端技術を惜しげもなく各地に渡したことにより人気を得たので、現代でも全国的に各地の神社で名前を変えて祀られているのでしょう。別名や分身が限りなく存在するのは、これも藤原政権に遠慮してのことだったようです。



(注1)勿論スサノヲ大王の霊も纏っているわけです。これを米神(首長霊)信仰と呼びましたが、偉大な祖先の霊魂を纏うことで更に大業をなすことができるという信仰です。これが基になって古墳を造成して、その上で先代を葬り、遠隔地で死亡したなどのように、遺骸がない場合は遺品などを主体部に埋葬し)、首長継承の儀礼を行ったものと考えています(詳細は「国引き神話は史実だった?(その5)西谷墳墓群の被葬者は?(^_-)-☆」参照)。

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆神話は藤原不比等が創作したのですよ( ^)o(^ )





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日本ピラミッドの謎?(@_@)?

2024-02-02 20:20:02 | 古代史
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2020-09-28 00:00:14に掲載しましたが、タイトルが似たようなものになっていて混乱するかもしれませんのでオリジナルのタイトルとして再掲いたします。よろしければお付き合いください(;^ω^)

2018-06-12 22:37:32 に掲載した記事に新たな知見を加えて(鬼叫山の後の部分)、全体を整え改訂します。
最後までお付き合いください。

葦嶽山ピラミッド
Report 2010.11.13 平津 豊  Hiratsu Yutaka

「日本ピラミッド」葦嶽山の謎

今回のトピックは題名の日本ピラミッドの話だが、ムー度100%の超古代文明の話ではなく、日本の古代史の謎に関係しているのではないかというヒントがそこにあったので、飛びついた。少し長めの取材旅行だった(いつものようにGoogleMapやネットサーフィンなので、旅費がかからない。でも現場を見てないので思い違いがあったら、是非指摘してくださいね)(*^▽^*)

昭和9年(1934年)に酒井勝軍(1874-1940)という人が書いた「太古日本のピラミッド」の写しを見ることができる。葦嶽山を見て、その山頂に在るとする複様内宮(ふくようないぐう)式のストーン・サークルを持つピラミッドだと叫んだ(口絵参照)(*^▽^*)。その成立年代を「竹内文書」から何と二万三千年前と断定しているようだが、根拠はよく分からない(五九頁)。



ストーンサークルはイギリスのストーンヘンジなどに見られるが、日本では縄文後期(4千年から3千5百年前)の大湯環状列石が知られている。日本にも実は178ヶ所ある、ストーンサークル。しかもその4割があるのは…秋田県ということだが、酒井勝軍も秋田県出身なので、多分小さいころから親しんできたので、オカルトの世界にはまったようだね(*^-^*)

酒井が言うピラミッドの条件の一つである葦嶽山の山頂に置かれた列石はかなり風化して、太陽石も現在は存在しないようなので、複様内宮式の磐境(いわさか)は本当にあったのかちょっと心配だ( ^)o(^ )

もう一つのピラミッドの条件として、ドルメン(供物台)のある拝殿が在ることなのだが、下の案内図にある通り、葦嶽山の北側に巨石群が置かれていて、ピラミッドを遥拝する場所なのだろう。一体どうやって持ってきたのだろうか?大変な作業のようだが。

奥に方位石というのがあって東西の溝が正確に置かれているようなので、どうやって設置したんだろうか?(*^。^*)

そして古代史解明のヒントその1!

その拝殿がある場所が、鬼叫山(ききょうざん)というからムー度満点なんだ( ^)o(^ )

自然物を、精霊が宿る聖なるモノとして祭祀の対象とするのは縄文時代からだが、富士山のような秀麗な山は信仰の対象になるのは分かる。しかし、815mの葦嶽山が祭祀の対象となるには何かがなければならない。頂上を何処から見ても三角形というのは少しだけいいかなと思うが、周辺には同じような山、もっと高い山があって、小さいながらピラミッドだからといって信仰の対象になるはずない!というのが一番の疑問だった!

そこに現れたもう一つのヒントが、何と、登山道の途中のピラミッドを遥拝できる鳥居があって、その神額に、驚くことに「奴国大王」と書かれていることなんだ!そんなに古い神額ではなさそうだが、誰が作ったのだろうか?(*^▽^*)
日本ピラミッド空撮映像

奴国の大王がこの庄原市とどういう関わりがあるというのか?

庄原といえば、その北部の奥出雲・伯耆との境に『古事記』「国生み神話」で伊弉冉(イザナミ)尊が火の神カグツチを生んだために亡くなられて葬られたという比婆山があった(注1)(^_-)-☆

いや、それだけでなく庄原市は西隣の三次市と同様に、出雲と瀬戸内を繋ぐ要衝であり、三次市は、弥生中期から見られる四隅突出型墳丘墓の発祥地じゃないか?弥生後期には、庄原市にも営まれるようになった。その地の首長墓として大型化し、出雲市の西谷墳墓群の出現に繋がっている。そして、重要な点は、吉備に特有の特殊器台・特殊壺が発見され、吉備との強い繋がりを示していることなのだ。

庄原は日本海の出雲と、後のヤマト王権成立に大きな役割を果たす瀬戸内海の吉備とを結ぶ重要な場所。

ということは?
倭王帥升(すいしょう)は何者だ?で見たように、第18代奴国王スサノヲが帥升(正しくは師升)によって追放された後に、半島南東部の鉄素材を沖ノ島ルートで、出雲から東国の首長間のつながりによって供給して次第に力を蓄えたのが、出雲・吉備を含む東国の旧奴国の勢力だ。首長の権力が強大化することにより、首長墓にそれが反映され古墳時代が起こったと考えている。吉備がヤマト王権成立に指導的役割を果たしたのは、スサノヲの死後、奴国王を引き継いだ弟の天照大神尊(ニギハヤヒ)なのだ。

スサノヲの高天原追放については、例によって「日本書紀」では幾つも説を並べて立て、何が本当なのか分からなくしているが、「古事記」と一致する話が信ぴょう性があるのだと思う(実は「古事記」の方が後に作られたものなのだ、日本神話の正体は?(その1))。

高天原から神々によってスサノヲが「神やらひ」される時の様子だ。たくさんの捧げものをすること、つまり全財産の没収。加えて、髪の毛や手足の爪を剥がされる残酷な刑罰を受けたとある。

「日本書紀」ではスサノヲが高天原を追放された後に、子のイタケルとともに一旦半島に渡り、その後出雲に降り立ち、そこでヤマタノオロチ退治の話になる。しかし、できるだけ真相を暴露したい「古事記」では、スサノヲが半島に行く話は消えているので、直接出雲に降り立ったことになっているのが正解だ。果たして、生きて奴国を脱出できたのだろうか?

しかし、それまで悪事ばかりのスサノヲの唯一の武勇伝が「出雲国風土記」に無いことから、オロチ退治の話はフィクションと考えられる。状況から考えて、スサノヲが生きて脱出できる可能性は低いので殺されたと考えてよいと思う。「日本書紀」の中では、母が死んで葬られた根の国、つまり出雲と伯耆の境の比婆山に行きたいと父イザナギ大王に泣きつき、勝手にしろと追いやられたという話もあり、スサノヲが本当は、殺されたことを示唆するものだったのかも知れない。

スサノヲが師升らに捕まったことを知り、スサノヲの部下のアヅミ族のひとりが脱出する際に「漢委奴国王」の金印を宮殿の保管場所からこっそり取り出して、志賀島に埋めたようだ。イタケル王子とニギハヤヒはムナカタ族の手引きで命からがら逃亡し、ようやく出雲に落ち着き、そこで今後のことを相談したのだと思われる。

まだ若いイタケル王子はムナカタ族とともに、父スサノヲが開発した半島南部の鉄を確保するために、沖ノ島経由で玄界灘を渡ったと思われる。そして入手した鉄素材から農具・漁具や武器を製造する冶金工房を丹後半島で整備し、上述のとおり取り敢えず、奴国再興を決心したニギハヤヒに鉄製武器を供給した模様だ。瀬戸内海航路の重要な潮待ちの場所で、弥生中期後半には塩田が造られている吉備を手に入れようと、鉄製武器の軍団を整えて向かったようだ。吉備を襲撃するに先立ち、葦嶽山に立ち寄って、山頂にストーンサークルを築き、葦嶽山のすぐ横の鬼叫山に巨石を運び祭壇を築き、スサノヲの死を悼み、奴国再興を誓ったのだろう。

鬼叫山で、ニギハヤヒらが泣き叫びながら、師升らを呪い、大声で喚きながら復讐を誓った様子が瞼に浮かんでくる( `ー´)ノ

ニギハヤヒは吉備の在地の豪族との抗争の末、吉備を平定し、支配権を握ったのだろう。その伝承が桃太郎の鬼退治の元ネタになったようだ。どうも藤原不比等がニギハヤヒの痕跡を消す工作をしたと思われる。葦嶽山の麓の蘇羅比古神社(庄原市本村町)の名前蘇羅比古(そらひこ)は「そらみつヤマト」と謳ったニギハヤヒを連想させるものなのだ。しかし「日本書紀」に合わせて、地元とどういう関係があるのか分からない日向三代の神話のホオリノミコト(山幸彦)と孫の神武天皇が祭神とされて、さらに十三柱もの配神もオールスターの顔ぶれだから、如何にも本当の祭神蘇羅比古ニギハヤヒを隠すために配祀したようだ(注2)。

さらに、備中国一之宮吉備津神社(岡山市北区吉備津)に残された本当はニギハヤヒの伝承を、凶悪な百済王子温羅(うら)を破った、第七代孝霊天皇の皇子イサセリヒコ(大吉備津彦)の話を創作して書き変えたのだと推理している(【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?)。孝霊天皇は欠史八代の天皇で、実在人物ではないことはすでに明らかにした(古代史の謎を推理する)。

吉備津彦に名前を変えられたニギハヤヒが備後国一之宮吉備津神社(福山市)でも祀られていることから、葦嶽山で祭祀を行って吉備入りしたニギハヤヒの移動ルートが想像できる。ニギハヤヒは出雲の斐伊川を上って奥出雲から西条川で比婆山を経由して庄原に入り、中山峠を通った模様だ。中山という地名は奴国と同じナーガ(龍蛇)神に因む名前の山なのだ。さらに帝釈峡に出て、一気に高梁川方面に向かわず、南下して備後国一之宮(福山)に入ったのだろう。そこで軍勢を一旦整えて海岸沿いで倉敷に出て、足守川上流の鬼ノ城(総社市奥坂)付近の在地豪族を襲撃したのだろう。当時は福山から倉敷は海だったようだから、夜陰に紛れて奇襲したのだろう。温羅との戦闘の模様は備中国一之宮吉備津神社の伝承があるから、大体想像できるよ(【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*))。



そういえば、古墳が多数あることでも知られている吉備中山の西麓に鎮座する備中国一之宮吉備津神社。同じ中山の北麓に備前国一之宮吉備津彦神社が寄り添うように造られている。両社の祭神の吉備津彦は奴国大王ニギハヤヒだということが分かるのだ。


御領の古代ロマンを蘇らせる会 吉備ドライブ② より


そして備前一之宮は実は吉備津彦神社の他にも二社もあるようで、その一つがなんと、石上布津魂(いそのかみふつのみたま)神社だから吉備津彦の正体が物部氏と関係あることが直ぐに分かる。「日本書紀」にスサノヲがオロチを退治した天十握剣(あめのとつかのつるぎ)がこの神社から奈良県の石上(いそのかみ)神宮に遷され主祭神のひとつ布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)となったという話があり、吉備津彦がニギハヤヒだとばれてしまう。なので、もう一社安仁(あに)神社が後で作られたのだろう。祭神を神武の兄の五瀬命として唯一名神大社とされているからニギハヤヒの話を誤魔化すためだと直ぐに分かるんだ。そういえば鬼叫山の巨石群にも神武岩というのがあるが、これもカモフラージュだよ(^_-)-☆

葦嶽山に日本ピラミッドを作って祭祀を行ったのは奴国の大王ニギハヤヒに決定だ(^◇^)

皇祖神天照大神は女神ではなく物部氏の祖ニギハヤヒのことだった!


【参考記事】
「日本ピラミッド」葦嶽山の巨石探索1-12
2015年12月7日から2016年1月12日まで12回連載されています。日付はトビトビで辛いですが、内容豊富です(#^.^#)

日本の葦獄山のピラミッドはオーパーツ?古代文明の名残りか?
2016/2/10 2017/5/27 世界の不思議


陸の孤島・吉備の中山~鬼気迫るパワー全開の旅(2020.10.2 追加)
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(注1)もう一か所、安来市伯太町に比婆山に比定される場所がある。その隣の米子には宗形神社があり、九州の宗像大社の本家だという説があるようだ。

刮目天は宗像大社の伝承「ムナカタの子はスミヨシ。その子はウサ」から、住吉大神(スミヨシ)は海を治める奴国の大王スサノヲと同一であり、スサノヲの母イザナミは卑弥呼と同族の宗像海人族と考えている。したがって、庄原市の比婆山よりも水運の便の良い比婆山久米神社奥宮がイザナミの陵墓である可能性が高いと考えている。しかし、九州の宗像大社か伯耆の宗形神社のどっちが本家かは分からないが、発祥地、つまり元祖は九州の鐘ヶ崎だろう。卑弥呼は元祖宗像のイチキシマ姫かな(^_-)-☆

(注2)蘇羅比古神社(そらひこじんじゃ)の御祭神は、天津日高日子穗穗手見命と神倭伊波禮毘古命。品陀和気尊・倭健命・大倭根子日子賦斗邇命・志那都比古神・志那都比賣神・宇迦之御魂神・大山祇神・手力男神・須佐之男神・奧津比古神・奧津比女神・大国主神・陣具大神を配祀する。神社と古事記 より)

奧津比古神は山神社の祭神ですから、大山祇神のこと。大山祇も大山咋も正体は大国主でしたでみたとおり、奧津比古神は大国主の分身です。ですからペアの奧津比女神は、稲荷神社の祭神宇迦之御魂神の正体の台与ということです。

志那都比古神・志那都比賣神もペアですから大国主と台与のことだと思います。『古事記』において、イザナギとイザナミによる国産み、島産みが終わった後、神産みの十番目に生まれた風の神。神名の「シナ」は「息が長い」という意味。風は神の息から起きると考えれら、風は稲作に欠かせないものであるが、台風などの暴風は人に大きな被害をもたらす。そのため、各地で暴風を鎮めるために風の神が祀られるようになった。「神社と古事記 シナツヒコ」にありました。息長氏は台与の実家です。縄文海人ムナカタ族の一族ですよ。

庄原にニギハヤヒの足跡として吉備津彦神社(庄原市川西町977)や吉備津彦を祀る意加美神社(庄原市総領町稲草179)と備後国二之宮吉備津神社(庄原市東城町久代1749)がありました。帝釈峡の南にも吉備津神社(神石郡神石高原町永野2563)を見つけました。ニギハヤヒが根拠地とした可能性もあります。イタケルらから鉄素材の供給を受けて、葦嶽山付近の谷で冶金工房を造り、鉄製武器を製造したのかも知れません。付近に鍛冶屋床やタタラ原という地名も残っているようです。
(2020.10.2 追加)

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆神話は藤原不比等が創作したのですよ( ^)o(^ )





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