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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*)

2024-02-18 06:37:57 | 古代史
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2022-03-05 11:13:47に掲載しましたが図のリンクが切れていましたので修理しました。よろしければまたお付き合いください(#^.^#)

2018-11-25 22:11:21に掲載しましたが、その後分かったことなども入れて少しだけ改訂します。お付き合いください(*^▽^*)

むかしむかし、ある処にお爺さんとお婆さんが住んでいました。
お婆さんは川へ洗濯に、お爺さんは山へ柴刈りに!

お婆さんが川上から流れてくる大きな桃に驚いて、
ヨイショと持ち上げた拍子に、プッとこいたので、
お爺さんは柴を刈らずに草刈った?( ^)o(^ )


すんまへん、どこかで聞いたくさいギャグだった(*´ω`*)

いや、どうも桃太郎の話そのものは古代まで遡れず、中世後期に細川幽斎が創作したのではないかと言う説がある(前田晴人「桃太郎と邪馬台国」講談社現代新書,2004,pp.132-136)。でも桃太郎の話の下地になったと思われるものが、吉備に伝わる以下の鬼退治の伝承のようだ(pp.137-139)。

第11代垂仁天皇の頃、半島から飛んできて備中新山に住みついた百済王子「温羅(うら)」の身長が何と一丈四尺(約4.24m)。ランランとした虎のような眼で、髪は真っ赤に燃えるような鬼の風貌。体力も絶倫、性格は凶悪。西国から都に貢物を乗せた船を襲い、婦女子まで略奪するので、人々は温羅の住処の岩屋山を鬼ノ城(きのじょう)と呼んだ。
鬼ノ城(きのじょう)(岡山観光Webより)

朝廷は武勇で知られた第7代孝霊天皇の皇子イサセリヒコを派遣した。皇子はまず吉備の中山(備中一之宮吉備津神社)に陣を布き、防戦のために楯築山(倉敷市矢部の双方中円形墳丘墓)の山頂に石の楯を置いた。温羅は皇子と矢戦をするのだが、両者の矢はすべて空中で当たってしまい中々勝負がつかなかった(吉備郡生石村の矢喰宮でその矢を祀っている)。だが、温羅が油断したところ、その左目に矢が当たって川が血で真っ赤になった(その川を血吸川という)。そこで雉に変身して逃げたので、皇子は鷹となって追いかけたら、今度は鯉に変身して川に隠れた。皇子は鵜になって、鯉を噛んで捕まえた(その場所に鯉喰宮がある)。温羅は「吉備の冠者」という自分の名前を皇子に献上したので「吉備津彦」と名乗ることにしたとのことだ。皇子は温羅の首を刎ねて備前の首村に晒したが、何年も大声で呻くので、犬飼武に命じて犬に喰わせたのだが、髑髏になっても泣き止まず釜殿(吉備津神社)の竈の下に埋めても十三年間も唸り声が近くの里に鳴り響いたそうな
(詳しくは吉備津神社の温羅退治の伝説鳴釜神事を参照)。

この伝説に出てくる吉備津彦だが、「日本書紀」では崇神天皇十年九月に四道将軍の一人として西海に派遣され、翌十一年四月に地方の敵を平らげた様子を天皇に報告したとある。四道将軍の話は卑弥呼の跡を継いだ女王台与と大国主(狗古智卑狗=久々遅彦)の倭国をヤマト政権が滅ぼして、出雲から越などの大国主傘下の国々をヤマト政権が鎮撫し平定した時の話だ。だから、女王が西晋に朝貢した266年以降で、呉が西晋に滅ぼされる280年の後にヤマト政権が西晋の追討を怖れて台与と久々遅彦(大国主命)の子ホムダワケを応神天皇として即位させたころの話なのだ(【付録】参照)

「鬼ノ城」築造に関する史料は全く出てこないとのことだが、出土する遺物から7世紀中ごろの朝鮮式山城だとわかっている(葛原克人「古代を考える 吉備」吉川弘文館、2005,pp163-166)。この温羅伝説はヤマト政権による最初の吉備平定という設定になってはいるが、あり得ない話だ。どういうことかと言うと、ヤマト王権は吉備の影響が色濃いのだ。例えば、三世紀頃の築造と言われている箸墓古墳(全長280メートル)では吉備をルーツとする「宮山型特殊器台を出土しており、<中略>他に、西殿塚古墳(219メートル)、天理市の中山大塚古墳(120メートル)、橿原市の弁天塚古墳(およそ100メートル以上)などの比較的大型で前方部が撥形で最古式の前方後円墳から宮山型特殊器台が出土している。」とあることから分かる(Wiki「特殊器台・特殊壺」より)。

その「箸墓古墳」の被葬者は、邪馬台国大和説での卑弥呼とされる大物主の妻「倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメ)」だが、「日本書紀」ではイサセリヒコ(吉備津彦)と異母姉弟と言う設定になっている。しかし、ヤマト政権が攻め滅ぼしたはずの吉備に発祥の円筒型特殊器台が纏向に存在するのは全く説明できない話なのだ。むしろ、祭祀が吉備のモノであることから、上で述べた通り吉備の支配者の子孫が三世紀に纏向でヤマト王権を打ち立てた大王、つまり開化天皇と崇神天皇だと考えるのが自然なのだ。第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの、いわゆる欠史八代は通説では架空と考えられているから、イサセリヒコやモモソヒメの話も創作だと直ぐわかる。しかし、全く白紙からの創作ではなく吉備の支配者の子孫の史実に基づくものなのだ。

何故、こういう話が作られたのかについて疑問に思われるかもしれないが、日本建国前夜(二世紀前半)の饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)の吉備平定の話が、吉備津彦の鬼退治の話にすり替えられたのだ。そしてニギハヤヒの話から、卑弥呼が旧奴国王族を裏切って、沖ノ島経由の半島の鉄素材が旧奴国王族の国に全く供給されなくなったために、ニギハヤヒ直系の子孫の開化天皇・崇神天皇や出雲や越や尾張などの旧奴国の王族らが大和(纏向=狗奴国)に集まった三世紀初頭の話を隠す目的で作られたものなのだ。初代神武天皇よりも前に天磐船(あめのいわふね)でヤマトに降臨したニギハヤヒの話は日本書紀の創作なのだと分かる。「日本書紀」の編纂には百済の史官が入っていたらしく、四世紀に建国された百済の王子である温羅を吉備津彦の伝承に登場させているのだ。わざと時代が合わないようにして、ニギハヤヒを祖とする物部氏・尾張氏の日本建国で活躍した話を抹殺するために作られたのだと分かる(注1)。日本書紀編纂の大きな目的のひとつが、藤原氏が建国時代に活躍した祖先をもつ有力氏族を中央政権から排除して、権力を独占するためなのだ(注2)。

すでに「日本ピラミッドの謎?( ^)o(^ )」で述べたが、二世紀初頭の奴国宮廷楽師師升らの反乱で殺されたスサノヲ大王「王年代紀」第18代王素戔嗚尊の弟で、奴国を脱出したニギハヤヒが出雲から庄原市を経由して吉備(倉敷市付近)に入り、在地の勢力を平定して、奴国を再興して第19代王天照大神尊とされた人物なのだ(注3)。当時は海岸線はかなり内陸部まで入り込んでおり、高地性集落が築かれていたが、その築造目的は「温羅伝説」から、近海の船舶の往来を見張るためだとわかる。吉備の近海の豊富な海洋資源や瀬戸内海航路をニギハヤヒが支配することにより、一大勢力を築いたものと考えられる(注4)。吉備は瀬戸内中央部の潮流が変化する場所なので、潮待の人々が集まる場所でもある。弥生中期頃から土器製塩が西日本に先駆けて行われていた(近藤義郎「吉備考古点描」河出書房新社1990、p.11)。

古代吉備の推定海岸線 - 弥生中期~古墳期を想定 -☆岡山 古代吉備の地勢復元 より)

またヤマト王権発祥の纏向遺跡では、倉敷市の楯築墳丘墓の亀石に施された模様と同様の「弧文と呼ばれる文様をもつ石板、土器片、木製品、板状製品(弧文円板・弧文板)など五点がこれまでに発見されている。<中略>家ツラ地区出土の弧文板は、三世紀後半の三輪山の祭祀に用いられたと考えられているが、もうひとつの弧文円板は石塚古墳の周溝から発見されており、葬送儀礼に用いられたとする見方もある。」とある(大和王権発祥の地─纒向 より)

そして、首長霊が宿るモノが神社の御神体だから、楯築神社の御神体の亀石に彫られた人面はニギハヤヒであるはずだ(注1)。重さ30㎏を超える辰砂(朱)が木棺の底に敷き詰められ(上掲書、P.11)、ひと振りの鉄剣と27個の碧玉の管玉、ヒスイの勾玉、メノウの管玉、数百個の碧玉製の小形細身の管玉、ガラスの大小の小玉などが副葬品として棺に入れられ、手篤く葬られた模様だ(上掲書、P.115)。



楯築王墓の「主墳の頂上には木棺を取り囲むように5個の巨石が立てられ、また、斜面にも2列に地表の露出分だけでも高さ・幅とも1メートルあまりで20個ほどの列石がめぐらされ」ている(Wiki「楯築遺跡」)。「その立石群のほぼ中心に主埋葬があることを考えると、やはり外の世界から画する役割を二重にも三重にも持った石列の一種であろうと私どもは考えています。」(上掲書、P.110)これは大国主命(久々遅彦)が祭祀を行った安心院町の「佐田京石」と同様のストーン・サークルだ。さらに備前一宮「吉備津彦神社」の境内の池の中の小島にもすこし小ぶりだがストーン・サークルがあった(注5)。

吉備津彦神社のストーン・サークル(吉備津神社・吉備津彦神社・吉備中山を貫く謎の古代祭祀線 より)

ニギハヤヒの子孫たちが使用した首長霊祭祀場だろう(^_-)-☆

新天皇の即位の礼の後に初めて行われる新嘗祭を大嘗祭と呼び、宮中祭祀で最も重要な儀式なのだが、『吉野裕子氏は、「大嘗祭」(弘文堂)のなかで、大嘗祭が“蛇の呪文”に彩られていること、この信仰の原型が物部氏のものに似ていて、しかも物部氏が重用されていることについて、「物部氏の祭祀そのものが天皇家によって踏襲されたことも考えられる。この場合も、祖神の蛇の呪力を担うものとしての物部氏に対する記憶は、そのまま祭祀における物部氏の重用につながるのである」とされるが、残念ながら、これだけで大嘗祭と物部氏の関係のすべてを語ったことにはならないと思う。(注6)
というのも、天皇が物部氏の祖・ニギハヤヒを祀ることこそが、大嘗祭の本質であった気配が濃厚だからである
』(関祐二「消された王権・物部氏の謎 オニの系譜から解く古代史」 (PHP文庫)2002,pp.106-107)。

日本書紀では本当の皇祖神(真)天照大神ニギハヤヒを吉備津彦の話で隠してしまったが、実は列島に天変地異が起こるたびに大和朝廷は皇祖神天照大神尊ニギハヤヒ大王やヤマトを怨んで不幸な死に方をした高貴な方々の祟りを畏れ、丁重に神階を上げて、所領も捧げて謝っているから、歴史の真相が分かってしまう(^^)/。通常の神社の祭神に対しては、最高位である正一位までの位階だが、4柱だけが特別扱いで、一品、二品という品位を授与している。その4柱の一人が備中一之宮の吉備津彦だから、いかに朝廷にとって重要人物かが分かるのだ。吉備津彦こそ吉備を平定してヤマト王権の基礎を築いた皇祖神(真)天照大神ニギハヤヒだと大和朝廷が白状していることになるのだ(注7)。

【参考記事】
日本ピラミッドの謎?( ^)o(^ )


【関連記事】
弧帯文は龍蛇神(ナーガ)の文様だった!(^_-)-☆

(注1)その翌年の崇神天皇十二年九月には天皇に背く者どもをすべて平定し、人民の戸数を調べる役を吉備津彦に仰せつけて、百穀も良く実り、家々に人や物が充たされ、天神地祇ともに天下が平穏になったので、崇神天皇はハツクニシラススメラミコトとして誉められたとある。纏向遺跡でヤマト政権を樹立した、吉備で奴国を再興した天照大神尊ニギハヤヒ大王の直系の子孫が崇神天皇ということなのだ。崇神天皇の父開化天皇が纏向遺跡に王都を遷した人物で、210年頃築造された最初の前方後円墳の纏向石塚古墳の被葬者かと推理している。しかし、Wiki「纏向石塚古墳」によれば、「墳頂部は太平洋戦争末期に削平され、そこに高射砲か対空機銃の砲台の基礎部分の跡が検出された。その際、埋葬施設の検出や遺物の出土がなかったことから、後円部の埋葬ではないか、あるいは削平のおよばない深淵部に埋葬施設があるものと考えられる。」とあり、3世紀末まで活躍した崇神天皇との間がかなりあるので、あるいは開化天皇が一旦吉備楯築王墓で埋葬したニギハヤヒ大王を纏向の地で改葬したのかも知れないと考えている。移った地で祖先を改葬し、元の墓を「捨て墓」とすることは縄文時代からの祖霊信仰で見られる風習らしい。

(注2)日本書紀よりも早く完成したと言われる古事記も、実際は古事記の序文を書いたと考えられている多人長によって日本書紀の後に作られたと考えている(詳細は「日本の神話だけ他の国と何かが違う…?(@_@)!」参照)。

(注3)広島県庄原市本村にある「蘇羅比古神社」の御祭神は火遠理命(ホオリのミコト)=山彦、別名空津彦とあるが、天磐船(あまのいわふね)で大空を駆け巡り、虚空(そら)見つ(大空から見て良い国だと選び定めた)日本(やまと)の国とおっしゃって降臨したニギハヤヒのことばから考えると、ニギハヤヒが逗留した場所と推理している(志村裕子、「先代旧事本紀(現代語訳)」批評社、2013,p.145)。

また、【検証6】倭国大乱の実相は?(*^-^*)の表1で見たように、弥生後期(二世紀前半から三世紀初頭)に岡山市・赤磐市に鉄鏃が比較的多く見つかっている。ニギハヤヒと在地の豪族との戦闘が行われたことを示すものと考えられる。

(注4)弥生中期に見られる瀬戸内海沿岸部の高地性集落は、倭国大乱の前だから、戦争と言うのではなく、慣れない海に迷い込んだ舟を監視して、温羅のような連中が海賊仕事をしていたのだろう。上の図のとおり現在の吉備児島湾は島だったと言われており、吉備の内陸部まで海だった模様だ。

(注5)吉備津神社と吉備津彦神社のある吉備中山の岩石群について吉備中山(吉備津神社、吉備津彦神社)に調査結果が示されている。山全体に磐座が見られ両神社の奥宮とされている。

吉備津彦神社のストーン・サークルの小島の隣の小島にも外周を岩で囲んだ中に亀島神社(かめしまじんじゃ)があった。何と御祭神が市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)となっている。卑弥呼がこんなところに居た。下の図に示したように「先代旧事本紀」と「海部氏勘注系図」に依れば、ニギハヤヒと市寸島比売命が夫婦のようだ(志村裕子「物部氏と尾張氏の系譜(4)」季刊邪馬台国123号、2017、p.161)。でも三女神多紀津姫と大国主との間の天道日女命と饒速日から生まれた天香山命が、市寸島比売とニギハヤヒの間の姫と結婚して尾張氏祖になっていると異母兄弟どうしの近親婚の話だが、実際にはあり得ない話だろう。日向三代の系図でも鸕鶿草葺不合(ウガヤフキアエズ)尊が母親の妹(叔母さん)と結婚して神武天皇が生まれたという「日本書紀」の話もそうだけど、スサノヲ直系の大国主(久々遅彦)と台与との間の子が応神天皇=神武天皇と関祐二さんによって突き止められているので、宗像三女神と饒速日尊の話も歴史改ざんということだね。政治的な思惑で作られた古代史の歴史書をそのまま信じると訳が分からない話になってしまうということでしょう。つまり、考古学・民俗学・技術史などの知見に加えて、記紀に反する伝承なども考慮して、歴史書のどこがウソで、どこまでが事実を反映したものかを考えないと、史書編纂当時の権力者の罠に陥ることになるということだね。(*^▽^*)


(注6)以下の考察から分かるように亀石は頭が人間で体が蛇を表している。弧帯紋は蛇のようだ。古代中国神話に登場する神または伝説上の帝王伏羲(ふっき・ふくぎ)と一致する。(人面考察)
 顔の法量タテ 17.5㎝×ヨコ 15.0㎝
 この施帯文石には頭部すなわちヒトの顔らしきものが浮き彫りにされている。【写 10】もちろん誰の顔なのかは分かろうはずがない。この顔も当初はもっとはっきりしていたことであろう。意識的にであろうか、後のいたずらなのか、目の部分が最もダメージを受けるように叩き壊されている。さらに「頭」の反対側は常識的な意味で「尻」としなければならないが、実はここだけはおり、「帯」が描かれておらず、意識的に空白として残されているのが注目される。【写11】【註3】
顔の下部、つまり顎下はまるで前垂れのような表現になっている。つまり帯と理解するのなら、それはここから始まっているし、そうであれば顔を持つ蛇神か龍神の化身のようでもある。その線の数は12本の線刻である。帯を含めて蛇神と理解するならここは首と云うことになろうか。 尻の左右の蛇へびの目(40 年ほど前のテレビのチャンネル切り替えロータリーつまみのようなものをここでは一応蛇の目と呼んでおく)の周辺の渦巻きだけは何故か中央線の描き方が違って、片切刃の刃物で刻んでいる。
(臼井洋輔「施帯文石(亀石)展開図作成と考察」)

古墳時代前夜弥生最大の王墓 楯築弥生墳丘墓  松木武彦 国立歴史民族博物館教授 50,877 回視聴 2014/12/07
松木さんは楯築王墓の被葬者と北部九州の王墓(須玖岡本・三雲南小路)の関係について以下のような見解を出していました(「ヤマト王権はいかにして始まったか」学生社、2011、pp.141-144)。

「まず、楯築には鏡がありません。紀元前1世紀の北部九州の人たちの間では、鏡が権威を象徴するものだったようですが、楯築ではあえて鏡を入れていません。だから、楯築に葬られた人は、北部九州の王たちとは系譜が異なる権威を持っていた人物と考えられます。
 楯築のもう一つの特徴は墳丘が大きいことです。<途中省略>このように見たこともないような飾りというか、墳丘の装飾物が楯築で初めて生み出されるのです。<途中省略>その被葬者の権威は、北部九州の王の系譜はどうも引いていないようです。楯築の被葬者は王とよんでいいと思いますが、王には必ず王の物語があります。その王がどれだけ偉いか、どこで生まれてどのような系譜を引き、どんなことをしたかという物語や神話が必ずあるのですが、北部九州の王たちとは別の物語の中にこの楯築の王は位置づけられたと考えられます。楯築から始まる王の由来が出てきたように思います。」


まさに松木さんがご指摘の通り、楯築の王墓はヤマト王権の偉大な始祖王にふさわしい墳丘墓と言えます。北部九州の王墓に副葬された破砕された璧は周王朝の子爵呉王の系譜を、また破砕された鏡は呉王に繋がる地位を表すと考えられます。また3世紀から4・5世紀にかけて古墳に副葬される鏡も、ヤマトの始祖王に繋がる系譜かヤマト王権への従属を表すものでしょう。

そして、楯築神社の御神体の亀石が人面蛇体であることから、楯築王墓の被葬者が、一度滅んだ奴国大王の系譜をもち、吉備を平定して新たにヤマト王権を興した始祖王であって、周の先王朝「夏王朝」の人面蛇体の始祖神「天皇伏羲」に匹敵する偉大な始祖王だということでしょう。ですから鏡が副葬されていないからと言って北部九州の王とは別の系譜ということではないと言うことです。逆に北部九州の王と関係がないないのならば、この吉備の楯築王墓の被葬者が「天皇伏羲」とどうして繋がるのか、その関係を全く説明できません。

「日本書紀」が必死に隠した日本建国の真相が1300年後にようやく明らかになったということになります(^_-)-☆

(注7)Wiki神階に依る、六国史終了時点の品位の一覧。神名は神階授与時の表記で、括弧内は『延喜式』神名帳での鎮座国と現神社名。
一品
伊佐奈岐命 (淡路国 伊弉諾神宮)
八幡神、八幡比咩神 (豊前国 宇佐神宮)
二品
吉備都彦命 (備中国 吉備津神社)


天平勝宝元年(749年)東大寺大仏建立への八幡大神の託宣により朝廷が贈呈した神階が宇佐神宮の応神天皇に一品、比売大神に二品(応神天皇の一之御殿、神功皇后の三之御殿より中央の比売大神の二之御殿の方が立派ですけど)だったが、後に一品に格上げされた模様だ。この八幡比咩神(比売大神=宗像女神)こそ卑弥呼(ひめこ)なんだと大和朝廷が告白しているんだ(^_-)-☆

【付録】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆




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伊都国が古代史解明のカギだった?( ^)o(^ )

2024-02-17 00:00:04 | 古代史
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いい動画を見つけたので早速コメントしました。よろしければ、お付き合いください(#^.^#)

【ゆっくり解説 】魏志倭人伝にも登場する「伊都国」とは?

いい話題をありがとうございます。伊都国という国名は殷王朝初期の有名な政治家伊尹(いいん)に因む嘉字です。伊尹は放蕩者の王を追放したことでその評価が議論される人物です。そのような事績と同じことが倭国内で起こったことが示唆されます。


范曄後漢書にある107年に160人の奴隷を連れて後漢安帝に朝貢した倭国王帥升です。原本が残っていないのですが、原本を引いたと思われる後続の史書の内容から、倭面土国王師升のようなのですが、魏志倭人伝に7・80年は男王が倭国を統治していたとあり、師升の時期と合いますので、白鳥庫吉は面を回の俗字の誤写と見て回土国(ウィトコク)だとしました。そして師姓を調べると周王朝の前から宮廷祭祀を行う楽師の官位を表す姓だと分かります。つまり師升は57年に後漢光武帝から金印を賜った倭の奴国王から倭国を奪って回土国に都を置いた人物だったのです。師升らの反乱で殺された最後の奴国王が宋史王年代紀第18代王素戔嗚尊、記紀の高天原から追放された暴れん坊の神スサノヲだったのです。

その回土国が魏志倭人伝では伊都国とされましたので、そのような政変を示唆する国名を書ける人物が特定できました。景初三年六月、魏への朝貢のために帯方郡に出かけた大夫難升米です。当時、三雲遺跡の番上地区に楽浪土器が集中して出土していますので、華僑たちの居住区だと分かります。彼らと交流して孟子や史記を読む教養人です。難は儺、つまり「追儺=鬼やらい」を意味する文字なので、師升の子孫の伊都国男王だと分かります。日本書紀仲哀紀にも奴国のあった博多を儺県(なのあがた)とあります。編纂者も史実を知りながら高天原神話にしたのです。

これらのことから、魏志倭人伝の邪馬台国へのデタラメな行程記事は本当の倭国王難升米が書いて教えたことが分かります。

これによって記紀神話と邪馬台国の謎が解けました。


詳しくは「伊都国の意味がヒントだった?(@_@)」をご参照ください。お邪魔しました(#^.^#)

【関連記事】もっと知りたい方はどうぞ!
倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)
【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆
やっぱり師升は奴国の司祭だった証拠ですよ(^_-)-☆

伊都国が鬼払いの発祥地か?(^_-)-☆


魏志倭人伝の真実?(^_-)-☆


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【新唐書・宋史】日本は古の倭の奴国!(@_@)!

2024-02-13 14:11:49 | 古代史
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いい動画を見つけましたので、コメントさせていただきました。よろしければお付き合いください(#^.^#)



興味ある話題をありがとうございます。

倭奴国は「いぬ」国や「いと」国と読むと古代史の真相が理解できなくなります。

日本の最初の王墓が福岡市吉武・高木遺跡にあります。弥生前期末から中期初頭の三代の王と王族が葬られています。この中の一番古い王墓が新唐書 王年代紀にある初代奴国王天御中主のものです。天は「あま(海)」を意味し、中は奴(ナーガ、龍蛇神)のことですから、ナーガを信奉する海人族の王という意味です。地名も、那珂、那賀、長柄、中山などすべて江南の海人族(アズミ族)が入植した場所の地名を意味します。

ですから倭奴国は倭の奴(な)国なのです。

宋史王年代紀には23代の奴国王の名前だけありますが、第4代王天聞爾尊(あめのににぎのみこと)が隣の伊都国や福岡平野に進出して王宮を須玖岡本遺跡に作り、その子孫らが比恵・那珂遺跡群に交易都市を作り隆盛になりました(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?(;´Д`)」参照)。

57年には後漢光武帝から金印を賜っていますが、後漢の華僑が楽浪郡などから倭国に珍しい品物を求めてやってきますので、その権益を守らせるために冊封体制に組み込んだのです。シルクロードの最東端になります(詳細は「【検証9】奴国時代の話(その2)」参照)。

第18代奴国王スサノヲが奴国宮廷楽師らの反乱で殺され、奴国が滅ぼされます。奴国を逃れた弟ニギハヤヒと王子イタケルの子孫が縄文海人ムナカタ族(イザナミの実家が米子市宗形神社)の支援を受けて伊都国を王都とした帥升(師升が正しい)の子孫の倭国を、少し経緯がありますが滅ぼして日本が建国されます。ですから日本は古の倭の奴国が正しいのですよ。



藤原不比等は不都合な史実を隠したので、遣唐使粟田真人が説明しても金印の話ができないので信用されなかったのです。

ですから、天御中主から二十三代の王の4男が筑紫日向宮から大和州橿原宮に都を遷したと説明してようやく理解されたのです。

日本神話は藤原不比等が創作したものだったのですよ。

これが分かると古代史の謎はほとんど解けますよ(^_-)-☆

詳しくは「日本国」へ、八百年も掛かったのか?(;´Д`)をご参照ください。

【関連記事】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆





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古代史を科学的に解明するアブダクションとは?(その4)

2024-02-12 00:00:02 | 古代史
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2020-08-21 14:54:31にこのシリーズ最後の記事の図のリンクなどが切れていたのでその他若干の修正を行って再掲いたします。シリーズを(その1)から読み直すと高柴昭様の鋭い疑問に対してかなり込み入った話になっていますが、古代史にアブダクションを適用する手法をかなり細かく記述しましたので、ご興味があれば最初から読み直していただけると理解が深まるかと思います。その上で、更なる疑問点が生じたならば遠慮なくお教えください。よろしければまた、お付き合いください(#^.^#)

高柴昭様の最後の疑問への回答です。

3)「古事記の神話は、基本的に日本書紀に倣って作られている」との仮説が提示されていますが、史書記載の通りとした場合、古事記の成立(712年)は日本書紀成立(720年)よりも古いため、日本書紀成立以降に古事記が成立したとするか、或いは採録された説話は古事記の方が新しいと論証されない限り、貴説は一気に確率ゼロまで陥落することになってしまいます。

先に完成していた「古事記」が、後にできた「日本書紀」に倣って作られる、というご意見はまさにSFの世界であり、独り善がりという感想を贈らせて頂きます。


これは以前にも書いてますが、ご紹介した日本神話の正体は?をお読みになってませんね。
「日本書紀」よりも先に「古事記」が完成したということは、古事記の序以外にどこにもないのですよ(#^.^#)

そして、その序については、古事記が完成したと書かれている712年ではなく、ずっと後の時代に書かれたものだということが分かっています。「古事記」偽書説の詳細は、岡田英弘「日本史の誕生」(弓立舎1994、pp.162-166)にあり、さらに詳しい論証は岡田英弘「倭国の時代」(ちくま文庫2009,pp.196-214)にありますが、ここではさらに簡略して説明します。

太安万侶の墓誌が見つかって、実在人物と分かり話題になりましたが、天武天皇が舎人の稗田阿礼に史料を誦習させ、元明天皇(在位707-715年)が太安万侶に命じてその史料を一書にまとめ上げたと序にあります。

しかし、その話は眉唾ものです。古代の氏(うじ)は姓(かばね)によるランク付けがあります。太安万侶の姓は朝臣ですが、稗田阿礼には姓がないですから、天皇のお側に仕える舎人でもないし、天皇から命ぜられる身分ではないのです。また、二人ともそれまでに歴史書編纂に関わった何ら実績がありません。そのような人物に歴史書の編纂が命じられることなどあり得ないのです。

「続日本紀」に太安万侶の事績は登場するのですが、古事記が勅撰の史書であるならば、元明天皇から古事記編纂を命じられたことも、完成したことも書かれねばならないのですが、「続日本紀」だけでなく、奈良時代のどの資料にも、万葉集のひとつの例外を除き、どこにも「古事記」が引用されていないのです。

そしてその「ひとつの例外」は万葉集で「古事記」からの引用として軽大郎女(かるのおおいらつめ)の歌が載せてあるのですが、両者の歌の書き方を比べると、「古事記」の方が「万葉集」のものより新しい年代の書き方になっているので、別の古い「古事記」が存在することが分かりますが、現存する「古事記」とは別物ということになります。

岡田先生によれば、現存する「古事記」は、朝鮮最古の歴史書「三国史記」と以下のような不思議な共通点が見られるという結論です(「倭国の時代」p.196)。

「まず第一に、両方とも、それが扱う時代よりもはるかに後世にできたこと。
 
第二に、どちらもオリジナルな内容のものではなく、それ以前に存在したもっと確実な材料を勝手に書き直したものであること。

第三に、そうした改作の目的が著者の家柄を持ち上げることだったこと。

従って、六世紀やそれ以前の古代史の資料としては、全く役に立たないか、多少は役に立っても、信用度が極めて低いこと、の四つである。」


現存するこの古事記の作者は、太安万侶の後裔である九世紀の多朝臣人長(おおのひとなが)です。人長は「日本書紀」を朝廷の高官や下級役人にまで幅広く講義する役目の学者でしたが、人長の書いた「弘仁私記」の序に太安万侶が「古事記」を書いたと初めて登場しますから分かります。平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑「新撰姓氏録」で多(おおの)氏の身分が低く扱われていることに直接の動機があったようです。嵯峨天皇の父の桓武天皇は、生母が百済武寧王の子孫で、嵯峨天皇の生母藤原氏も百済系のようです(関裕二さんが鎌足を百済王子と推理しています)。つまり、百済と対立していた新羅の土地から来た渡来人には冷淡だったようですから、多氏も新羅系渡来氏族だったのではないかと想像できます。

しかし、人長の「古事記」の内容ですが、「日本書紀」が隠した歴史が書かれていると思われる「原古事記」の内容をその一部だけでも何とかして伝えたいという気持ちが伝わってきます。たとえば、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を最初の神とする別天神を、日本書紀の本伝の神代七代が現れる前に登場させています。

つまり、「(日本書紀は歴史を誤魔化しているけれども、)天御中主神が日本の最初の神ですよ」と正しているわけです。「王年代紀」の倭国の初代王なのですから、無視するなどもってのほかということなのです。

弥生中期前葉(前4世紀初頭)、半島南部から福岡市早良平野の吉武高木遺跡に旧呉王族の天御中主が移りました。そこで見られる特定集団墓の中の副葬品から王であることが分かるので、日本の初代王から数代はそこに葬られていると推定できます。下の写真のとおり、三種の神器(鏡・剣・玉)が見られます。つまり、古事記や王年代紀のその部分は真実に近いことを述べていると判定できるのです。しかし残念ながら「原古事記」と「古事記」は万葉集の歌がひとつ共通という情報しかないので、原古事記の内容はほとんど不詳ということになります。しかし、古事記で大国主の神話をまとめて載せていることから、「原古事記」にも書かれていた内容ではないかと思われます。


吉武高木遺跡3号木棺の出土品(福岡市博物館アーカイブズより)


太安万侶と新羅系渡来氏族の代表格である秦氏との関係も指摘され、古事記の編纂に秦氏も参画したのではないかという説もあります(注1)。そういえば前回見たとおり、「王年代紀」を宋に献上した東大寺の僧奝然(ちょうねん)も俗姓は秦氏です。「日本書紀」で改ざんされた歴史を正そうという氏族的な意思を感じます。「古事記」に大国主の神話を沢山盛り込みました。国譲りをした大国主こそ建国時代の主役だということを主張したいためでしょう。秦氏には建国時代の真相を伝える伝承が伝わっているようです。秦氏の研究はいろいろとやられていますが、あまりこの点を追求したものはないようです。猿楽の祖と言われる秦河勝ですが、観阿弥・世阿弥も秦氏の一族のようです。能を通じて歴史の真相を伝えているようです。これについては、改めてまた考えていきたいと思います。


さて、今回のシリーズのテーマ「アブダクション」に話を戻しましょう。この推論法についてはネットでも非常に分かり易く紹介されている記事がいくつかありますので(例えば、「アブダクション」の意味とは?事例と演繹法・帰納法との違い)、ここでは古代史解明に適用した科学的な手法を具体的に示し、その重要な特徴を述べましょう。

論理学で演繹法(deduction)と帰納法(induction)はよく知られています。このアブダクション(abduction/ retroduction)は思い付きやつじつま合わせのいい加減な推論というイメージを持たれ、誤解される向きもあるようですが、それはあらゆる分野の理論構築で使われる手法です。その経験のない一般の人の日常生活でも、身の回りの驚くべきを現象などを見て、その原因を推理することはよくあります。推理した結果が正しかったのかどうかを、関連する事象を探して検証する作業が加わると、科学的で有用な推論法になるのです。

この手法が、古代史の一連の流れを科学的に解明するのに有効と考えました。従来は古代史に関する事象を個別的に見て問題の考察を行って結論を述べるのですが、その事象の原因を考察すると、普通いくつもの原因が可能性として現れます。しかし決定的な証拠はありませんから、多数の説をあげるだけに留まり、可能性の高いものはあげるでしょうが、唯一つの原因に絞ることはできないのです。ですから、よそからこの分野を見るとそういう個別の問題が氾濫しているだけで、未だよく分からないという印象です。時代を俯瞰した歴史の真相を解明することが十分に出来ていないのが現状だと思います。

そこで、時系列的に史実群を眺めてみると、それぞれの史実で思いつく複数の原因を睨んで、想像力を発揮して、全体を矛盾なく説明できるストーリーを仮説として出すことが出来ます。それは一連の史実の中の個々の史実の原因を一つに絞ったことに相当します。ですから、この段階は仮説(仮のストーリー)なのです(最終的な一般化理論に対して途中の段階であるので作業仮説ともいわれる。しかし一般化理論も新たな事実が発見されると見直されることになるので仮説であることには変わらないが、定説となりうる仮説のこと)。(2024.2.11 赤字追加)

もしもその仮説(ストーリー)が正しいとすれば、起こるはず、起こっているはずの事象を考古学や民俗学などの科学的な成果の中から探し出して逐一検証する作業が次の段階です。

その検証で矛盾が生じるようなことがあれば仮説を修正することになります。その部分の修正によって、それまでの仮説も書き変える必要があれば、全体に矛盾のないように仮設(ストーリー)を書き変えなければなりません。現在得られる事象を探して仮説(ストーリー)を検証するこのような作業を何度も繰り返すことにより、かなり確信を持てる仮説(ストーリー)になります。この検証作業において同時に、アブダクションによって仮説(ストーリー)の詳細化や拡張も行われます。

この段階で検証する事象においても、事象に対する解釈が複数あって、確定的なことが言えない場合には、仮説と矛盾のない解釈を選択できるのならば、それを適用したらいいのです。例えば、古墳の築造時期を特定するにしても、どの出土物を重視するかによって推定が変わります。ですから、逆に仮説が正しいと考えたときに、その事象に妥当な解釈を与えることが出来るなら、それでいいのですが、それを恣意的な検証として嫌うのならば、その事象による検証を保留にしても構いません。他に検証すべき事象を探せばいいだけです。そして仮説が妥当だという確信に近いものになれば、一旦保留にした事象を改めて解釈することが出来ます。

要するに、全体として見た時に取り上げた事象のすべてを矛盾なく説明できる妥当な仮説(ストーリー)を見つけるのが目的なのですから。

【古代史問題の科学的解決手法


刮目天は最初の仮説を「新唐書」・「宋史」に書かれている「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として以下のような一連の史実を見て、それらを矛盾なく説明できる仮設(ストーリー)を設定しました。従来の通説や定説まで見直し、何故通説が生まれているのかを考えていくと、色々と疑問点がでてきます。ですから、通説よりもより合理的な推論をすることが出来るようになります。解明を妨げる固定概念があるとその推論は不合理に思えるので、それを乗り越える自由な発想がとても重要です。事実とそれ以外の解説者の意見や推理を区別できるようになれば、通説に惑わされることはなくなると思います。そして、そこで生まれた仮説(ストーリー)を検証していくことによって今まで謎であったことが解明されるようになる訳です。

107年 倭国王帥升ら後漢へ朝貢
204年 公孫氏、帯方郡設置
    この頃、纏向遺跡の出現
238年 公孫氏滅亡
    女王卑弥呼、魏へ朝貢
247年 北部九州で日食
    卑弥呼の死
    内戦後、台与が13歳で女王
265年 魏から晋へ帝位禅譲
266年 女王台与、晋へ朝貢
280年 呉の滅亡


実際に行った検証は以下のとおりで、個々の史実に関する事象による仮説(ストーリー)の検証の順序はバラバラですが問題はありません。ただ仮説を修正した場合は、すでに行った検証結果も矛盾ないか見直す必要が出てきますが、今のところ全体を見直すまでの大幅な修正や変更はありませんでした。今後、新事実などが発見されたら大幅な修正が必要になるのかも知れませんが、今のところ関連する事象を矛盾なく説明でき、数多くの謎が解明されていますので、自信を深めることが出来ます。

ここで示したような手法は科学技術の分野で日常的に行われているものですが、通常、成果論文ではこのような手法で得られた途中の推論は表に出ませんから、経験のない方はおかしな手法だとの印象を受けるのかもしれません。しかし、仮説が一般化理論として格上げされても、厳密にいうと「確からしいと思われる仮説」でしかなく、科学的な検証が常に行われるのだということを理解していただけると、納得していただけるのではないかと思います(^_-)-☆

【刮目天が実施した検証】

<奴国時代から邪馬台国時代の検証>
【検証9】奴国時代の話(その1)(その2)従来の奴国に対する考えが変わるはず
【検証13】奴国~邪馬台国時代の北部九州は?
【検証14】奴国~邪馬台国時代のつづきだよ
【検証16】3世紀後半の伊都国だよ

<第一次大乱前夜の検証>
【検証3】『神宿る島』宗像・沖ノ島の謎 何で沖ノ島で祭祀をしなければならなかったのか?
【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?子供向けの昔話に古代史解明のヒントがあった

<日本建国時代の第一次から三次の倭国大乱期の検証>
【検証6】倭国大乱の実相は?ヤマト王権が成立するまでの百年間に三回の大乱があったのだ!
【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!定説は根拠を疑いましょう!
【検証11】定説の根拠を疑え【検証5】を深堀り!
【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ通説ではヤマト王権の成立を説明できないぞ!
【検証17】狗奴国は纏向の旧奴国だよ

<第一次大乱期の検証>
【検証2】前方後円墳のルーツ?纏向遺跡の最初の前方後円墳はどこがルーツ?

<第二次大乱後の大国主・台与時代の検証>
【検証1】佐賀に近江の土器が?前方後方墳がなぜ?
【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?大国主が魏使張政の進言を却下すれば虐殺の悲劇は起こらなかった!

<大国主・台与時代からヤマト時代の検証>
【検証15】台与からヤマト時代の北部九州だよ/
【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?割竹形木棺の底の朱が決め手だった!
【検証10】ヤマトはなぜ伊都国を捨てた?ヤマトは誰の祟りにおびえたのか?

謎を解く段階でも推論によって仮説(ストーリー)の拡張などは行っていますので、詳しくは「古代史の謎を推理する」をご参照ください(^◇^)

【科学的な手法で得られた一般化理論】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆神話は藤原不比等が創作したのですよ( ^)o(^ )





古代史を科学的に解明するアブダクションとは?(その1)2020-08-14 18:35:42
古代史を科学的に解明するアブダクションとは?(その2)2020-08-17 19:33:16
古代史を科学的に解明するアブダクションとは?(その3) 2020-08-18 19:52:47


(注1)秦氏と深いかかわりのあると言われる松尾大社について、古事記で関連記事を挿入していることから太安万侶と関わりがあり、秦氏も編纂に参加しているという説が大和岩雄氏「秦氏の研究」大和書房 1993、p520~553にあるという記事を見つけた(「松尾大社の祭神 秦氏本系帳の謎」イワクラ(磐座)学会会報32号2014年10月23日掲載(電子版))

松尾大社の主祭神は、大山咋神(おおやまぐいのかみ)と中津島姫命(なかつしまひめのみこと)です。比叡山の麓の日吉大社(滋賀県大津市)が大山咋神を祀る全国の日枝神社の総本社である。Wiki「大山咋神」によれば、日吉大社には後に大物主神が勧請されており、大物主神を大比叡、大山咋神を小比叡と呼ぶ。山王は二神の総称である。」とありますから、大山咋は大物主(大国主)のことです。また、中津島姫命は市杵島姫命の別名とありますから卑弥呼が祀られているのです。秦氏は建国に関わった氏族だと思います。


最後まで面倒な話にお付き合いありがとうございました(*^▽^*)
今後も検証は続くと思いますので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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卑弥呼が正史から消された理由?(^_-)-☆

2024-02-11 07:36:14 | 古代史
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2024-02-07 06:38:07に記事にしましたが、その後「たぬ」さんからコメントいただいたので何度かやり取りしました。本文の末尾に追加して再掲いたします。よろしければお付き合いください( ^)o(^ )

とてもいい内容の動画を見つけましたので、早速コメントしました。込み入った話なので長くなって恐縮です。よろしければお付き合いください(#^.^#)


とてもいい話題をありがとうございます。日本の古代史が謎な理由は簡単です。残された文献が事実、つまり考古学や民俗学などの成果と整合性がないからなのです。多くの方は、現存する最古の歴史書「古事記」や正史「日本書紀」が天皇が編纂を命じたから天皇の歴史書だと学校でも教わり、頭に染みついています。しかし、日本書紀はご指摘のとおり天皇の外戚として朝廷の実権を握っていた藤原不比等が編纂させたものですので、不比等にとって都合の悪い建国時代の史実を歪曲し、ねつ造していたからです。神話も藤原氏・中臣氏の祖神を登場させて活躍させるだけでなく、建国時代の史実を神話に閉じ込めて誤魔化すためにほとんど不比等が創作したものです。実際に筆を執ったわけではないですが、舎人親王の編纂チームに作らせたはずです。ですから、日本書紀の内容から仮説を作っても謎が残るのです。不比等の意図を事実から推理して仮説を作り何度も検証する必要があります(^_-)-☆


(「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」参照)

また、日本書紀の前に完成したとされる古事記ですが、9世紀の朝廷で日本書紀を講義した学者多人長(おおのひとなが)が突然表に出してきたもので、その存在を裏付ける記事が正史に書かれていません。日本書紀も古事記を引用したり参照したと分かる痕跡もなく、人長が書いた偽書と見るのが正しいのです。不比等によって隠された史実を藤原氏に悟られないように暴露する目的だったことが、古事記が残した空白の4・5世紀の天皇の崩年干支から分かりました。卑弥呼の系譜の天皇が二人も隠されていました(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)~(その3)」参照)。先日豪華な副葬品で話題になった富雄丸山古墳の被葬者もその一人です。(2024.8.29 赤字追加)



魏志倭人伝にある邪馬台国への行程記事から邪馬台国の位置が確定しませんが、これも魏の実力者で西晋の建国の基礎を築いた司馬懿が東夷の大国の倭国女王の都をライバルの呉を東方海上から挟み撃ちにする戦略上重要な位置にあるとしたかったことと、司馬懿が権力を握るために魏最大の功労者に持ち上げるためです。司馬懿自身が帯方郡太守劉夏に命じて倭大夫難升米を朝貢のために帯方郡に呼び寄せて、洛陽に登るまでの約半年かけて談合して作られました(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?(@_@)」参照)。



難升米は帥升王の子孫で本当の倭国王ですが、卑弥呼(姫巫女)を女王ということにして、その居城の実際の位置から上のとおりの場所に持っていったためだったのです。径百余歩の冢と奴婢百余名を殉葬したと思われる地名なども発見しました(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!(^_-)-☆」参照)。



西晋の著作郎陳寿も創業者の功績を称賛する目的で魏志倭人伝を作ったので司馬懿が作らせた行程記事などが記載された郡使の報告書や詔勅をほとんどそのまま引用したと思われます。ただし、陳寿も本当の邪馬台国の位置を正確には知らないので、陳寿が想定した場所に後世の史家が気づくような手を打っています。孫栄建氏が指摘した「春秋の筆法」と呼ばれるものです(孫栄健「決定版 邪馬台国の全解決」言視舎 2018年 pp.227-302 参照)。現代まで邪馬台国の論争が続いていますが、陳寿の意図を読めば、文献的には北部九州にあったというのが有力な説になっています。

しかし、考古学の成果によって二世紀末の倭国大乱の痕跡を見つけ、卑弥呼の死後の三世紀後半の建国の戦いの痕跡を発見しました。卑弥呼の正体が、日本書紀の神話で暴れん坊の神スサノヲと女神アマテラスの契約(うけい)で生まれた三女神だと判明しました。宇佐神宮で祀られている比売大神イチキシマヒメが卑弥呼です。当時、玄界灘を支配し、半島南部の鉄素材を反倭国の狗奴国(旧奴国)勢に供給していた縄文海人ムナカタ族の族長赤坂比古(魏志倭人伝の正使伊声耆)が卑弥呼の父です。日本書紀で和邇氏の祖とされましたが、宗像・宗形氏だということが天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神から判明しました。日本書紀が隠した初代応神天皇の皇太子で、宇治天皇として即位していた菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は卑弥呼の弟赤坂比古(倭大夫率善中郎將掖邪狗、日触使主、愛宕権現)の孫でした。何故、日本書紀が隠したのかを考えると、不比等の大きな秘密が分かりました。日本史がひっくり返るくらいの大きな秘密でした。よろしければ詳細は「【刮目天の古代史】今年の大発見第1位!(^_-)-☆」をご参照ください。長々と失礼しました(;^ω^)

(卑弥呼の一族は巨大円墳を作っています。日本三大円墳は「卑弥呼の巨大円墳が日本最大だよ!」を参照。富雄丸山古墳は第4位です(^_-)-☆)

たぬさんのコメント
でも記紀に書かれてる初代から代々の天皇の都のあった場所に、ちゃんと遺跡が存在してるんだよね

たぬ さん 神武天皇はいつ即位したの?初代から代々の天皇の都のあった場所にあった遺跡というのは本当に大王の宮殿の遺跡なのか?
大和盆地に王墓が見られるのは3世紀からなのよ?それまで大王も王も居なかったことは考古学的に明らかになっているんですよ。神武の陵墓だって江戸時代に決められたんだよね!

上で述べたように日本の古代史が謎なのは文献と事実が合致していないからなのだから、文献に虚偽があると見るのが常識でしょう!なぜ当たり前のことが分からないのかな?答えは簡単ですよ。文献が正しいと思い込んでいるということなのですよ(^_-)-☆

けっこう一致してることこもありますよ
広開土王碑に書かれてることは記紀と一致してるし


たぬさん
広開土王碑っていつの話?
神武天皇のこと書いてあるの?

4世紀ですよ
記紀には半島から人質が来たこと書いてありますけど、半島の正史にも記録されてます


たぬさん
だから記紀の話は全てうそと言う訳ではないと思うが、嘘が書いてあるのも事実でしょう!
一つでもウソがあれば、何のためにウソつくのか考えてみないといけませんよ。
不比等は3世紀の日本建国の史実が邪魔だったのです。
ですから神話まで創作して2世紀から3世紀の内容を誤魔化したってことが分かったのです。
詳しくは刮目天の古代史を参照してください。疑問があれば教えて下さい。よろしくお願いします( ^)o(^ )

【関連記事】
卑弥呼の墓の遥拝所に何がある?

卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?(^_-)-☆

投馬国へ水行してみませんか?( ^)o(^ )倭国王難升米はパートナー赤坂比古の居城(宮ノ原遺跡)を邪馬台国(女王が住むヤマ国という意味)としました。そこへの実際の行程を基にして、戦略上重要な位置(呉の都の建業の東方海上)に持って行くために東を南に方角変更し、水行・陸行の日数を実際の10倍などにした行程だったと分かるのですよ(^_-)-☆


鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有
当時の戦争は矢戦さですので鉄鏃・銅鏃がどこから出土したかで推定できますよ。MyMapをご覧いただき、いろいろと想像してみてください(^_-)-☆

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆神話は藤原不比等が創作したのですよ( ^)o(^ )







通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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