早いもので、小正月。
なので(?)、正月を振り返ってみようかなと思います。
放っておくと、ついつい右方向へ傾いていってしまう私。
そこで、時々心を洗い、左へ引っ張ってもらうために、
選挙や、何か大きな事件があると朝日新聞を買います。
1月1日は、毎年買っているんです。
で、平成27年元旦の朝日新聞社説は、
〈グローバル時代の歴史「自虐」や「自尊」を超えて〉というものでした。
以下、導入部と結論部分を引用します。
引用
歴史の節目を意識する新年を迎えた。
戦後70年。植民地支配をした日本と、された韓国があらためて関係を結びなおした基本条約から50年という節目でもある。
しかし今、そこに青空が広がっているわけではない。頭上を覆う雲は流れ去るどころか、近年、厚みを増してきた感さえある。歴史認識という暗雲だ。
それぞれの国で「自虐」と非難されたり「自尊」の役割を担わされたり。しかし、問題は「虐」や「尊」よりも「自」にあるのではないか。歴史を前にさげすまれていると感じたり、誇りに思ったりする「自分」とはだれか。
(中略)
東アジアに垂れ込めた雲が晴れないのも、日本人や韓国人、中国人としての「自分」の歴史、ナショナル・ヒストリーから離れられないからだろう。日本だけの問題ではない。むしろ隣国はもっとこだわりが強いようにさえ見える。
しかし、人と人の国境を超えた交流が急速に広がりつつあるグローバル時代にふさわしい歴史を考えようとすれば、歴史は国の数だけあっていい、という考えに同調はできない。
自国の歴史を相対化し、グローバル・ヒストリーとして過去を振り返る。難しい挑戦だ。だが、節目の年にどうやって実りをもたらすか、考えていく支えにしたい。
引用、終わり
えーっと、
いつものように、いつもの如く、
すごく高尚なことを言っているような、何も言っていないような・・・
要するに、自分を捨てろってこと?
歴史を相対化するっていうと、例えば、
日本の半島「植民地支配」は、
英国がインドで、仏国がインドシナで、オランダがインドネシアでヤラかしていたことと比較して、
はるかにマシなもので、併合、合邦と呼ぶにふさわしいものだった、と知ること?
当の韓国にしてみれば余計なお世話だったかもしれないけれど、
社会資本整備、教育の充実、陋習の打破など、
総督府の日本人は、統治者として内地と同等かそれ以上に頑張ってしまった、
というような見方のこと?
朝日新聞がず~っと熱心に報道してきた日本の「従軍慰安婦」にしても、
日本占領中の米軍や、ベトナム戦争中の韓国軍が仕出かしたことと比べれば、
よほど人道的だったよなぁ、と考えてしまうこと?
こういう歴史事実の相対化を、
朝日新聞やニューヨークタイムズなんかは「歴史修正主義」だって言って、
怒ってらしたんでは?
いや、そんなことより、
そもそも「自分」がなければ相対化もあり得ないんでないの?
「ナショナル・ヒストリー」から、というか、
「日本そのもの」から離れた気分でモノを言うのが朝日の方々ですが、
そこからの眺めは、さぞ晴れ渡っているのでしょうねぇ。
二週間考えたんですけど、
「グローバル・ヒストリーとして過去を振り返る」って、
「自国の歴史」を捨てろっていうことなんですね、としか読めないなあ。やっぱり。
なるほど、私にとっては「難しい挑戦」です。
って言うか、無理だし!
なので(?)、正月を振り返ってみようかなと思います。
放っておくと、ついつい右方向へ傾いていってしまう私。
そこで、時々心を洗い、左へ引っ張ってもらうために、
選挙や、何か大きな事件があると朝日新聞を買います。
1月1日は、毎年買っているんです。
で、平成27年元旦の朝日新聞社説は、
〈グローバル時代の歴史「自虐」や「自尊」を超えて〉というものでした。
以下、導入部と結論部分を引用します。
引用
歴史の節目を意識する新年を迎えた。
戦後70年。植民地支配をした日本と、された韓国があらためて関係を結びなおした基本条約から50年という節目でもある。
しかし今、そこに青空が広がっているわけではない。頭上を覆う雲は流れ去るどころか、近年、厚みを増してきた感さえある。歴史認識という暗雲だ。
それぞれの国で「自虐」と非難されたり「自尊」の役割を担わされたり。しかし、問題は「虐」や「尊」よりも「自」にあるのではないか。歴史を前にさげすまれていると感じたり、誇りに思ったりする「自分」とはだれか。
(中略)
東アジアに垂れ込めた雲が晴れないのも、日本人や韓国人、中国人としての「自分」の歴史、ナショナル・ヒストリーから離れられないからだろう。日本だけの問題ではない。むしろ隣国はもっとこだわりが強いようにさえ見える。
しかし、人と人の国境を超えた交流が急速に広がりつつあるグローバル時代にふさわしい歴史を考えようとすれば、歴史は国の数だけあっていい、という考えに同調はできない。
自国の歴史を相対化し、グローバル・ヒストリーとして過去を振り返る。難しい挑戦だ。だが、節目の年にどうやって実りをもたらすか、考えていく支えにしたい。
引用、終わり
えーっと、
いつものように、いつもの如く、
すごく高尚なことを言っているような、何も言っていないような・・・
要するに、自分を捨てろってこと?
歴史を相対化するっていうと、例えば、
日本の半島「植民地支配」は、
英国がインドで、仏国がインドシナで、オランダがインドネシアでヤラかしていたことと比較して、
はるかにマシなもので、併合、合邦と呼ぶにふさわしいものだった、と知ること?
当の韓国にしてみれば余計なお世話だったかもしれないけれど、
社会資本整備、教育の充実、陋習の打破など、
総督府の日本人は、統治者として内地と同等かそれ以上に頑張ってしまった、
というような見方のこと?
朝日新聞がず~っと熱心に報道してきた日本の「従軍慰安婦」にしても、
日本占領中の米軍や、ベトナム戦争中の韓国軍が仕出かしたことと比べれば、
よほど人道的だったよなぁ、と考えてしまうこと?
こういう歴史事実の相対化を、
朝日新聞やニューヨークタイムズなんかは「歴史修正主義」だって言って、
怒ってらしたんでは?
いや、そんなことより、
そもそも「自分」がなければ相対化もあり得ないんでないの?
「ナショナル・ヒストリー」から、というか、
「日本そのもの」から離れた気分でモノを言うのが朝日の方々ですが、
そこからの眺めは、さぞ晴れ渡っているのでしょうねぇ。
二週間考えたんですけど、
「グローバル・ヒストリーとして過去を振り返る」って、
「自国の歴史」を捨てろっていうことなんですね、としか読めないなあ。やっぱり。
なるほど、私にとっては「難しい挑戦」です。
って言うか、無理だし!
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