金閣寺レポ、言葉ばっかで しかも長いです。笑。
でも今感じたことを 書き留めておきたかったので。
解釈が違っていたらすみません、でも今の私は こんな気分。
いつか もしかしたら また変わるのかもしれない。
四季のミュージカルやバレエ以外の舞台って、実は見に行ったの初めてかもしれない。
去年の1月にこけら落としから始まり、7月にはニューヨークに招聘、今回 凱旋公演となった「金閣寺」。
会場には英語のポスターも。
三島由紀夫の本って、なんだか、小難しくて鬱々とするイメージ。
それに結局、割腹自殺をした過激な人のイメージがあるから、今までどうも手に取る気にならなかった。
この「金閣寺」の舞台も、ものすごく気になってたのに、きっと難しいんだろうなぁって思って、ずっと観に行く事に踏み切れなかったのだけど。。。
昔の純文学とか、現代劇とか。
自分には理解らないものを読んで 観て、「・・・あ~ やっぱり分からんわぁ~・・・」って でも分からないまま そっと丸めて心に沈めるのって 実はきっと良い事なんだよなって ふと思い出した次第で。
その体験が、こんなに素晴らしいなんて 忘れてた。
昨日原作を読んでてまず思ったのは、情景描写がとても綺麗で 目の前に浮かんでくるような、詩のような小説だなってこと。
むしろ三島は こんな細やかで情景豊かに表現できる日本語というもの自体を、後世に残したかったんじゃないだろうかって思ってしまうくらい。
でも、溝口や柏木が話すことは哲学すぎて、いまいち良くわからなかった。
作者が溝口の姿を借りて 自分の言いたかったことを描いたんだろうなっていうのは分かるんだけど、だからこそ難しいなぁって。
溝口における金閣寺は、三島にとって日本国だったんだから。
大切に大切に思えば思うほど、応えてくれなくて 自分が消えるか相手が消えるかしないともう 耐えられなくて、その心を誰かに伝えたくて だから壊すしかなかったんだろうか。
そして小説の終り方。
最後に向けて 話を周到に盛り上げていったのに、「生きようと思った」で ぷつっと終わってしまって。。。
次のページを捲ったら・・・・・・あとがきじゃんっ!笑。
“ぅえ゛っ・・・その続きはないのっ?!ここからが知りたいのに!”って 宙に放り投げられたのに先がなくなって途方に暮れた気になった 当日午前2時半。笑。
分かるような 分からないような ごちゃごちゃしたままの想いが この舞台で、キャストが咀嚼して表現するのを観ることで 多少は整理されるかなぁと淡い期待を抱きながら行ってきました。
ぎりぎりに着席したら、舞台は教室みたいになってて すでに何人かが座ってて、空気がもう世界に入り込んでる。
最後に剛ちゃんが入ってきて、彼の 原作を朗読する声が始まった時に、鳥肌が立って きっとすごいものを観れるんだっていう予感がした。
現代劇って、ちゃんとした大道具の背景があるわけじゃなくて、例えば一つの台を次々に他のものに見立てたり、舞台の上を歩いているだけなのに場面は移動していたり、棚の上に寝そべってるけど それが芝生の高低差を示していたり。
それが今まで観てきたミュージカルとかと違ってたけど、逆にその方がすんなりと世界に入れて良かった。
今回びっくりしたのが、ホーメイを演出に使っていたこと。
最初は下手したら気が狂うんじゃないかってくらいの甲高い音が、叫び声みたいな音が、かなり心臓に悪かったけど(笑)
金閣寺自体はシルエットで一回出てきただけで、金閣寺の化身というか、溝口にとっての魅惑的な美の象徴みたいなものを擬人化してたのが逆に解り易くて、山川さんのホーメイは鳳凰の叫びと同じ。
美が破滅と紙一重なのを象徴してる気がした。
剛ちゃんは、京都の田舎の喋り方で 吃りっていうのを上手に喋ってて、いつもの剛ちゃんなんかじゃなくて 本物の溝口やった。
鶴川や柏木といると、ちっちゃくて 痩せっぽっちで おどおどした 溝口そのものやった。
大東君の鶴川は、原作で感じたそのままの 爽やかな明るい、少なくとも溝口にとっては光だった鶴川だったし。
高岡さんの柏木も、本当にすごいと思った。
内翻足の演技、障害がない人が無意識に いつもどおり普通に振舞ってしまうハズの癖とか 全然感じさせなくて、本当に生まれつきのもののように演じてた。
私、実は高岡さんってあまり良いイメージがなかったんだけど、演じることに関しては舞台人なんだなって、感動した。
3人は友達だけど 恋人のような そういう少し耽美な関係が、舞台の方が強く香り立ってると思った。
原作よりも舞台の方が時間に納めないといけないから、エピソードが前後したり 合わさって解説がセリフで入ったりしたところもあったけど、それよりも、溝口、鶴川、柏木の性格というか立ち位置を、ややはっきりさせてる気がした。
うまく言えないけど、より単純化したというか。
人間とか世界って 善と悪がはっきりと白黒つけられない 相反するものが一つの物の中に含まれてるもので、そういう曖昧さを、少しあえて強引に分離して キャラクターをそれぞれ立たせてるのかなぁと。
それは宮本さんの演出なのか、各キャストが自分の中に役柄を取り込んで外に表した結果なのかは 私には分からないけど。
だからかな、原作を読み終わった時よりも 溝口がもう少し近くに感じたというか、ある意味 強い人なんじゃないかって考えが変わった。
もともと世の中には「完璧」というものがあって、それは金閣寺であるべきであって、そういう理想が高い時点が出発点と言うか、定義だったというか。
そして普通の人は大概 理想と実際を何らかの折り合いをつけて人生を生きて行くから、その中には諦めや嘘や醜さや打算や無力さが在って、そこからは目を逸らして生きてる。
でも溝口はそれが出来なかった純粋な人間というか、自分の犯したことに対してぶつかって来て欲しかった ただそれだけで。
そのぶつかることから逃げることが出来ない愚直な人間だったという気がする。
そりゃ、反対の見方をすれば 相手に求めたのに応えてくれなかったと駄々をこねる子供だったとも言えるかもしれないけれど。
一回観ただけじゃ いろんな感想が走り去ってしまって、もう 上手に言えない。
そして、最後 剛ちゃんが真ん中で煙草を一服する時に 大東君と高岡さんが出てきて 剛ちゃんを見つめてて、それぞれが「生きよう」って言った時。
二人が去って 剛ちゃんの最後の「生きよう」というセリフが、どんなトーンで出てくるのか 息するの忘れるくらい見つめてしまった。
今日しか観てないから、他の日は知らないのだけど、訥々と、零れ出てきた感じで 「生き よう」って言ってた。
それは、私が想像していた温度とは 全然違っていて 少し戸惑ったのだけど。
舞台から降りて 客席に沈んだ剛ちゃん。
時が止まったと思った。
原作よりも この舞台は、全てに暖かさが満ちている。
再生の物語なのかなって そう思うくらい。
なんだろう。
どうしようもなく 私には理解できない人達なんだけど、悪とか狂人とか そう位置づけるのは簡単なんだけど。
金閣寺を燃やさないといけないと考える その結末に辿りつく思考回路は分からないし、むしろ分かろうと思っちゃいけないのかと普段なら考えるのだけど。
今日は 舞台の空気が果てしなく愛おしく感じた。
言葉では書けないけど、最後の3人の「生きよう」は、すべてを浄化する ひと雫のような気がして それは理解できないまま仕舞っておきたいと思った。
最後の最後で 生きようと思った展開は、ちょっとまだ 付いていけてないのだけど。。。
いつか理解れば いいな。
舞台が終わって、壇上に駆け上がる剛ちゃんは、一瞬で溝口から剛ちゃんに戻ってて、天才だと思った。
でも、V6の剛ちゃんじゃなくて、俳優としての森田剛 ちょっと口下手なシャイな そんな静かな佇まい。
キャストの皆が並んで、とても楽しそうで。
5回くらいカーテンコールしてくれたかな、会場全体がスタオべで。
目の前のおばちゃんが、キャストの方も苦笑するくらい 延々とブラボーって言いまくってたのが、ちょっと興醒めだったけど(笑)
やりすぎは、ちょっとね・・・
途中から何度も泣いてしまった舞台でした。
なんで泣いたのか 分からないけど、剛ちゃん演じる溝口の叫びが 心締めつけられる気がして 涙が止まらなかった。
いつも 分かりやすいものばかり手に取ってきた私なので、今日の経験は本当に収穫。
なんだかとっても 幸せだ
またゆっくりとパンフレット読んでみたいです。
キャストの方が何を感じとって、どう考えて 演じたのか それを知りたくて。
それが分かれば、「金閣寺」の理解に少しでも繋がるかなって。
キャストの方々、大阪千秋楽 お疲れ様でした
一息ついたら東京も 頑張ってください!