夢色

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基本ネタバレ注意。
火月 神の気まぐれ よろずメモ。

<いつも見えるは、貴方の背中だけ~笠間・水戸旅行 1日目 その1.>

2017-03-11 | Travel

以前からずーっと行きたいと思っていた場所へ行くため、この週末は茨城へと飛びました!

 朝早くから、ママンが送ってくれたよ~ 人工のサバンナ。キリンがいっぱい。

初めて来た神戸空港で、朝ご飯に「黒レンガ倉庫CAFE」でフレンチトーストとコーヒー。 

ゆっくりしてたら、すぐに最終案内って言われた(笑)あれ?
もともと飛行機あまり乗らないし、JAL/ANA以外はあまり乗ったことないから~ なんとなく遅刻生な雰囲気(笑)

 行ってくるよ~。 滑走路途中に見えた「Move&Challenge」の文字。

座席指定するときに、右左のどちらに取ろうかさんざん悩んだけど(笑)  えいやっ!と右側に挑戦。
 大きな川に  大きな山脈。雪が残ってる。
そしたら・・・大正解!グッジョブ!私(笑)  富士山が見えてきた( ´艸`)
    日本ってほんとに山がいっぱいなんだな~って感動した。山脈って本当に脈なんだな~って(笑)
    ずーっと見てても飽きない富士山。
今日はいい日になるね


 無事に茨城空港に到着~。   
空港の外には、戦闘機と偵察機が展示してありました。
   地図みたいなアルファベットがたくさん。奥に見えるのは百里基地。


今回の旅行は、水戸の友達がエスコートしてくれました( ´艸`)
ピックアップしてくれて、まず最初に、今回の旅のメインイベント。
 とうとう来ることが出来ました。念願の「筑波海軍航空隊記念館」。
最初に知ったのは「永遠のゼロ」のロケ地になった建物があるってこと。
毎年、行きたいってずーっと思ってたのになかなかチャンスがなくて、でも今年も公開継続になるかは分からないというので、急いで今回の旅行を決めました。

現在は敷地内に県立こころの医療センターが新しく建てられてますが、以前は旧筑波海軍航空隊の司令部庁舎、号令台、地下戦闘指揮所、滑走路などがあり、終戦後は友部病院として利用されていました。
今全国でも、これだけの規模の戦争史跡が現存している場所は珍しく、貴重な場所です。
この筑波海軍航空隊で教官をされていた角田和男さんと 永遠のゼロの宮部の経歴が似ていたり、ゼロのロケ地であったり、と縁があるとのことで特別に公開されています。

敷地はとても広く、今は司令部庁舎の公開にとどまっています。
 号令台。 
 さっそく司令部庁舎にお邪魔します。  
 永遠のゼロに絡めた案内もありますが、戦時中のいろいろな資料や、遺族の方から寄贈された遺品が展示されています。
ちなみに、ガラスケースなので、私のジャケットや靴が映りこんでてすみません。。。
あと、説明が間違ってたらごめんなさい。耳学問も多いので・・・。
でも、現場に行けない方や、知らない方にもこういうものがあるんだって言うのを知っててほしいから、少しだけ書いときます。見たくない方は飛ばしてください。

 四式戦闘機「疾風」の車輪、零戦の燃料タンク。   偵察員席の風防、エンジンマウント。
 水上機のフロート。そうか、この時代は木だったんだね。
 少し順路を前後しますが、、、 建物自体も歴史のある貴重なものだと思います。この時代の建物はハイカラでアーティスティックな曲線美が見られるから好き。
 ここ、大事なシーン。宮部が上官に殴られたあと、司令室から戻ってくるための階段。
実際には司令室は2階にあるんだけど、映画の設定は下だったから階段を上がってきて、大石たちが迎えて敬礼をする場所。 
ちなみに、この司令部庁舎はジョーカーゲームのロケ地でもあり、この階段は22段の階段。
こちらが9段目のヒビ。 ・・・・・・実はヒビじゃないのよ、スタッフさんの手書きなのよ。
 この汚しもスタッフさん作。素晴らしい

 水筒や、ラバウルなどで使われた蚊取り線香。

他の資料館よりも、寄贈が多いためか 日常のスナップショットがたくさんありました。
少し胸が痛くて、あまりカメラは向けられなかった・・・  同期と雪合戦して楽しそうに笑ってたり、犬と一緒に映ったり、基地の一般公開で地元の方と一緒に映ってたり。
上に吊るされてるのが、練習機「赤とんぼ」の模型。

 海軍飛行帽・眼鏡と手袋。戦争後期にはまだ革製だったものが、戦争末期には布製になっています。
 戦機の模型や、「桜花」の主翼の一部。

そして、こちらも大事なシーン。
命を懸けて宮部を助けるために敵機に体当たりをして怪我をした大石と、お見舞いに来た宮部のシーンの再現部屋になります。
 
一瞬ドキッとするわこのナースマネキン(笑)   スタッフさんがいろんなところから集めたり、手作りした小物がたくさんあり、当時が偲ばれます。
    
軍人としての心構えが書かれている張り紙も撮影時は手書きだったのですが、日が経ったのでワープロで作り直してくれてます。

 本棚には密かに講談社文庫が(笑)

 二人で語り合ってたベッド。
  整頓・・・できてないわ・・・耳が痛い・・・(笑)

隣には旧副官室。 大石の同期たちが宮部の悪口を言っていた場所。かつ、海賊で國村さんが座ってたお部屋。
 この机は実際に戦時中に使われていたもの・・・らしいけど、戦後近くの地元の人のところに行ったりしてちょっと由来不確実。

 その隣に、旧司令室があります。
この奥の扉から外に出ると、訓練の様子などが見渡せるバルコニーに出られます。さすが司令(笑)
ちなみに、ジョーカーゲームの 

 バルコニーから滑走路の方角を見る。
 重厚な扉・・・ と思ったら、書架になってました。司令が使ってたのか、戦後の院長が使ってたのか・・・。
 院長室として使われていたので、このタンスは実は・・・洗面台や配管を隠すためのスタッフさんの手作り(`・ω・´)笑。
錨マークも手彫りされて、全く違和感ない!
微妙に壁とサイズが合ってなかったり、スタッフさんたちの苦労の跡が見え隠れ(笑)
 訓練中に亡くなった部下の名誉を守るため、上官にぼこぼこに殴られてた宮部・・・が立ってた場所に立つ。笑。

 宮部が登ってきた階段。規格が現在のものと違うので、人ひとりの幅だけになっているため、一般客は通行禁止になってます。 
この旧司令室前の廊下が、   怪我をした大石をストレッチャーで運んで行ったシーン。
 この廊下の床は、コンクリートに小石を混ぜ込んで、大理石様に作っているんだって。今はその技術を使える人もほとんど居ないらしい。

 戦艦「金剛」 の砲撃手だった関口富坂さんが、射撃競技で優秀な成績を収めたときにもらったグラスとアルバム。
錨のマークに「賞」の文字。
金剛は沈没しているから、こういった所縁の品が残っているのは貴重だそうです。
 軍艦「愛宕」「瑞穂」搭乗員 岡田正一さん の遺品と、手作りされた愛宕の模型・スケッチブック。
海軍は、軍隊の中でもエリート。パイロットは更にエリート。中でも特攻隊員はエリート中のエリート。
という若者のプライドをくすぐる戦略で人出を集めていたのもあったのかな。  戦時中のポスター。
 教科書や精神教育の資料と日の丸。  
 お手紙や遺影、眼鏡など。
  「電熱航空被服」という、高度が高いところを飛ぶ戦機の機内は極寒なので、接続して温めることのできるコードがついた手袋や服など。
軍刀や、電熱被服をしまう箱など。
 寄せ書きや、遺品の軍服など。
この寄せ書きには、ミッキーマウスが描かれてます。
軍人さんは高学歴な方も多かったので、寄せ書きを英語で書いたりする人も居たんだって。敵国の言葉ということで、公的機関では言い換えの日本語を作り出してたりしてたと思うけど、実際にはやっぱり外来語を使っていたんだろうね。
「元気で行ってくるのよ 母ちゃんの健坊」という一文。
息子を送り出さないと行けなかったお母さんの気持ちを思うと、辛い。
でも、この時代、本当のところ一般の人たちはどんな認識で、どんな気持ちでいたんだろう。
非日常が普通になりすぎて、戦地に送り出すのと、例えば現代での会社に送り出すのと、そんなに変わらない状況だったんだろうか。
正しいとか間違ってるとかじゃなくて、今の時代の自分たちには計り知れない状況や感情があったんだろうと思うと、言葉にできない想いでいっぱいになる。
でも今後、非日常が日常になってしまうような有事は二度と起こしてはならない。

 寄せ書きや、寄付金に対する感謝状。
 遺書や家族へ宛てた手紙、短剣など。
 特攻訓練命令書。 特攻盃。

前に、「名前を失くした父~人間爆弾“桜花”発案者の素顔~」 って番組をたまたま観たことがある。
この筑波海軍航空隊の士官室で、後の「桜花」を作戦として行うべきか、検討されたそうです。
つまり、筑波海軍航空隊は、「特攻」という作戦の実行が決められた地。
いつも、『どうして?』っていう答えの出ない問いだけが、ぐるぐると当てもなく回ってしまう。
でも、他の人間が何かを言えるものではないし、その人たちにしか感じえないものがある。
何とかその一部でも推し量ることができればと思うけれど、何を言っても噓になる気がして。
だからせめて、どれだけ辛くてもこういう記憶の場所に足を運んで、たとえ忘れてしまうとしても 何度でも知るということが大事なんじゃないかなと。
人は2度死ぬって言われてる。
肉体的に死んだ後、誰からも忘れ去られることで2度 死ぬ。
だから、私たち一人ずつが 少しずつでいいから、こういう『記憶』ってものを、見て学び続けることが大事なのかなって。

 筑波海軍航空隊記念館が公開されたときに、一番最初の展示品が、このガラスのペンダントでした。
兵隊さんを元気づけるために女学生さんが出した手紙が届いた先が、筑波海軍航空隊にいた金井正夫さんでした。
以降200通以上の文通をされたそうですが、結局一度も会うこと叶わず、特攻で亡くなられたそうです。
最後の手紙とともに送られてきたのが、この戦闘機の風防で作られたペンダントだった。
ハートにイニシャルだなんて、本当にスマート。


写真がお好きだった方の 写真とイラスト入りの一言日記が、パネル展示されています。 
  
上)出撃せん!!の文字とともに、コクピットでポーズを取った写真。
「得意のポーズです。大尉くらいには見えるでしょう」だって(笑)
「やはり、海軍士官はスマートですね」と軍服姿の写真もあります。

下)祈冥福 今は亡し 懐かしき教官達。
「この教官たちは全部、ハート、ナイスでした。しかし、全部戦死しました。惜しい人を殺しました。瞑目すれば・・・色々と想い出されます。」
同期の櫻。仲良しとのお写真。

 M 
右)「戦斗機乗りには娘はやれぬ。やれぬ娘が嫁ぎたがる。腰の短剣にすがりつき 連れて行きゃんせアメリカへ。連れて行くのは易けれど 女は乗せない戦斗機」 と唄のようです。

左)「筑波戦斗機隊は鬼より怖い 柳井少尉の目が光る」だって(笑)
「戦斗機乗りはあまりスマートではありません。野人的ですが然しMです。」と。
注釈が付いていて、「Mとは、女性からもてる意味です」 って書いちゃってるよ~(笑)

なんというか、頭の良い人なんだなって感心した。字もキレイで、本当にスマートなエリートなんだね。

  でも、最後には特攻を掛ける戦闘機のイラストと戦闘服の写真とともに、遺書がありました。
右)「花は櫻木 戦斗機乗りは若い生命を惜しみやせぬ 花の蕾の廿四で散るも 何で惜かろ國の為」 
左)「戦斗機乗りは攻撃精神の権化です 最も男性的な仕事です  戦斗機無きところ制空権は望めません」「此の顔を見て下さい そして眼を 口を  ご安心下さい 必ず目的を達成しますゾ お母さん サヨウナラ」

親にさようならって書かなければならなかった。
まだ皆 子供なのに。


 ラバウル海軍旗や、表彰状など。
角田和男さんの経歴や、お話についてなども展示されています。

 司令部庁舎から見えた空。静かでまるで時が止まったような色。

 戦艦の模型など。
 昔の手押しのポンプ車や弾薬箱。  戦意高揚のうちわ、千人針。
 零戦21型後部胴体。
データを取るために当時 外国の軍が回収したもので、ラバウル航空隊所属と思われるとのこと。
戦後必要なくなって捨てられる前に、大阪の個人が購入されたそうです。
 だもんで、翼には、日本の蔑称「JAP」の文字。「ZERO」「TAIL」とも。
軽さを追求するため、ジェラルミン一枚で作られて、もうぺらっぺら。
 これでよく飛べるなとびっくりした。
海外の戦闘機は、これにもう1層入ってるし、コクピットの背中にも鉄板を入れてる。弾が当たったときに、乗組員を守るため、機が墜ちないために。
でも日本軍は、弾が当たらなければ墜ちない死なない、という考えがベースにあるので、軽さが最優先され、しかも零戦は帰還を想定していないのでこういったつくりになったそうです。

まぁ・・・そりゃ当たらなけりゃ墜ちないけどさぁ・・・。
でも、手術技術の進歩も同じだけど、こういうところにも日本と欧米の考え方の違いが出てるよな~って思った。
いつも欧米は、画一的な技術が誰でも使えるように大量生産する技術を開発する。
頭が良い人も そうでない人も、腕がある人も それほどでない人も、大体が同じ手術ができるような技法を開発していく。
でも日本人は昔から器用な人が多いから、繊細な職人技を伝達することで技術向上を図るから。
昔っから、軍事面でもベースはそういう違いがあるんだなって、これは単純に面白かった。
同じ人間という生き物なのに、こんなに違う。

 極限まで空気抵抗を減らすために、鉄板を接続するためのねじ1個1個の頭を叩いて潰して平らにしたんだって。

 練習機の機体の枠組み。  引き上げられて保管されていたエンジン。
 水戸歩兵第二連隊の短剣付きの銃や旗。ペリリュー島に行ったらしい。
 練習機「赤とんぼ」のプロペラは木製なんだって。  ほんとに木だった・・・。
プロペラの端っこだけ、空気抵抗を減らすために金属が使われてるけど。


残念ながら、じっくり見るには時間が足りず、心残しつつ駆け足ながら見させてもらいました。
 こんなに良い天気。同じ青空が広がってたこともあるだろうな。
 もう少ししたら桜並木が一斉に色づくのでしょうか。
特攻直前の隊員たちだけが入っていた宿舎「神風舎」も取り壊されており、お参りするための神社は、戦後GHQの報復を恐れた地元の人たちによって壊されたそうです。
お国の人たちを守るために戦った隊員さんの心のよりどころが、守ろうとした人たちの手によって壊されるというのも、また哀しく、それぞれに対してやるせない気持ちになります。 

 私が居た時間は、私たちだけだったので、独り占めでした。
 滑走路の方角を臨むと、広がる青空。

  もともとの正門には、うっすらと友部病院の文字があります。
 頑丈な塀が張り巡らされていたらしい。

 司令部庁舎の裏手に、訓練中に亡くなった隊員たちのために、司令を務めた古瀬貴季中佐の命で建てられた供養塔があります。
そもそも、数多くの特攻隊員を育てる目的で短期間の訓練しかできなかったそうで、訓練自体が命がけだったんだろうね。
ゼロでも訓練中に宮部の部下が事故で亡くなってたけど。。。
中佐は戦後、フィリピンで戦犯として死刑判決を受けたそうですが、女性歌手の助命嘆願が通り、特赦で帰国することが出来たそうです。 

 どの時代の記憶も、徐々に世の中の興味が薄くなっていく。だから、気を付けないといけないと思う。
若い子たちの、とっかかりが岡田くんであれ、艦これであれ、なんだったって良いから、少しでもこういうことがあったんだって言うことを知ってほしいな。
こういう自分の命と引き換えに国を守ろうとした人たちが居てくれたから、今の自分があるんだってことは、善悪とは別の次元の事実だから。
そこだけは、どこの誰からも批判される筋合いはないし、日本は譲らなくていい、そう思う。
アメリカはこれまで本土攻撃をされたことがない国だから、空襲で殺された一般市民のことなんか忘れた振りしてるし、当時の日本軍の隊員さんたちの、何をしてでも自分の家族を、国を守らなければという悲壮な思いが、どこまで理解できるのか。
でも、どの国であっても、自分の大切な人や物、場所を守りたいと思う気持ちは立場は違っても変わらないものだと思うから。
殺し合うのがこの狭い地球で生きる人間たちの生存本能なんだとしても、なんとか折り合えるラインを探し続けることが出来たらと思います。

今の私たちと違わない、日常を生きて 青春を生きて でも命を懸けて守ってくれた人たちの記憶。
それを失わないために、今後もこの筑波海軍航空隊記念館の公開が続けられるように、たくさんの人に足を運んでもらいたいと思いました。 



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