唯物論は事実を出発点にする理論であり、観念論は迷信を出発点にする理論である。つまり観念論とは、虚偽の別称である。虚偽に耐えられない人間は唯物論者になるべきである。
唯物論とは、論理の基礎を物質に置く思想であり、それに対し論理の基礎を意識に置く思想が観念論となる。ここでいう基礎とは、論理の出発点であるだけでなく、論理自体を含む論理の対象の出発点でもある。ここでいう出発点とは、根拠を指すと同時に原因をも指している。
唯物論も観念論も、哲学としての論理学の種類にすぎない。両者ともに目指すのは、論理の成り立ちそれ自体の解明である。両者の目的は同一なので、基礎部分を不問にする限り、双方にできあがる論理体系にも差異が発生しないかのように見える。この点で有効に見えるのが、現象学である。現象学は現象一元論として基礎部分を不問にするためである。ところが実際には現象学は、現実存在に基礎を措くと称しながら、自らを観念論の一潮流として位置付けている。ここで現象学が現象一元論の看板を捨てて観念論を自認するのは、観念論が唯物論を忌避する一般的理由に準じている。すなわちそれは、唯物論的土壌における人間的自由の困難にある。物質の規定的優位は、意識を物質の支配下に置き、人間的自由を物理に貶めるからである。そしてカントが認識と存在の間に断絶を持ち込んだのは、もちろんこの不都合に対抗するためであった。しかしカントの方法は、超越論的真理を手にする一方で、超越的真理を放棄するものである。それどころか存在への架け橋の喪失は、超越論的真理の真性までも損壊する。だからこそフッサールは、現存在を過去と断絶することにより意識の自由を可能にし、認識論と存在論の間におけるカント流の断絶を拒否した。このために現象学における意識は、毎分毎秒ごとに論理や論理対象を基礎づける神のような存在となるに至った。しかしこのような不自由を知らない現存在に対してハイデガー以後の実存主義は、意識を過去の影響下に再配置することになる。ハイデガーにとってフッサールによる存在論の回復は、過去の欠如において決意を要しない世俗的な判断停止に留まっていたからである。またフッサールにおける判断停止は、むしろ積極的に存在論を放棄するものでしかなかった。このハイデガーによる現象学の訂正は、一見すると軽い足場変更なのだが、かなり重大な訂正として現れざるを得ない。それにより現象学は、内実的な二元論へと変化したからである。と言うのも現象学は、過去として現象する物質と、未来もしくは現在として現象する意識の両者により構成されなければならなくなったからである。
このようにこっそりと唯物論に擦り寄るような観念論のブレ方は、現象学以前でもヒュームとカントの間の論争でも発生している。ヒュームが印象一元論へと突き進んだのに対し、カントは印象を基礎づける物自体を要求した。ここでのカントの要求は、ヒュームがもたらした因果律の死滅を救済することにある。と言うのも、カントにおいて因果律の救済と物自体の存立は、同義だったからである。そしてこの因果律の救済は、カントにおいて論理そのものの救済として現れている。ヒュームの独我論に対抗するためとは言え、「物自体」と言う字面だけを見るなら、ここで経験論の前に立ちはだかっているカントは、明らかに唯物論である。すなわちカントの発想における「物自体」は、唯物論における物質と変わらない。そのためにエンゲルスは、彼を唯物論者の一員にまで扱うこととなった。ただしカントが印象の基礎に置いた物自体は、物質ではなくイデアである。したがってカントは、彼自ら認めるように、厳密には観念論者でなければならない。しかしエンゲルスの勘違いは、カントの述べる「物自体」の二義性に呼応した勘違いにすぎない。その二義性は、カント自らが理論理性と実践理性の双方から物自体を抽出することで発生している。したがって責められるべきなのは、むしろカントの折衷的実体の方である。逆に言えば、カントの「物自体」が果たした役割に正当な評価を与えたエンゲルスに対して、むしろカントの方が感謝しても良いくらいである。ちなみにこの「物自体」の二義性は、現象と物自体の世界分裂と並んで、物質とイデアの折衷型二元論としてのカント哲学の性格を端的に表現している。
なおヒュームの印象一元論は、経験への盲目的信頼に落ち着くが、一方のカント的二元論は、ショーペンハウアーに継承され、印象世界とイデア世界の二元論、つまり物世界と物自体世界の二元論にまで展開した。ショーペンハウアーの目には、ヒュームとカントの対立がそのまま物質と観念の対立を表現しており、すなわちそれは俗世と理想世界の対立として映っている。この観点でのヒュームは、印象世界に拘泥する俗物であり、スピノザと少々種類が違うだけの唯物論者の仲間にすぎない。しかしヒュームに対するこのようなカント的分類は、経験論者と唯物論者の双方を憤慨させるものである。そして実際にこのカント的分類は、正当な評価に値しない。そのような評価に対して、おそらくヒューム本人が最初に反発するであろう。このカント的分類にあるのは、エンゲルスがカントを唯物論者に扱ったのと同様の、単なる自己都合である。しかし相手を擁護するための自己都合は、まだ救いがある。ところが相手を誹謗するための自己都合には、全く救いが無い。往々にしてそのような自己都合による思想分類は、単なる我田引水である以上に、宗教的烙印にすぎないからである。
このように観念論がこっそりと唯物論を導入する理由は簡単である。意識にとって所与は、もっぱら意のままにならない自らの他者である。カント流の発想では、意識にあらぬ意識の他者は単なる形式として現れる。しかしここで現象学流の形式乱造を避けるとすれば、意識にあらぬ意識の他者とは、すなわち物質を指すべきである。ところが物質が意識の外部にある一方で、論理思考は意識の上で構築されなければならない。このために究極の観念論では、論理は物質の影響を受け得ず、また意識は物質を認知し得ないとされる。しかしこの理屈は、意識の外部にある物質が意識に現れ出るという事実を謎として残す。つまり論理は物質の影響を受けなければならない。このために観念論の話題は、常に意識と物質の二元論へと回帰する運命にある。そこで今度は、それでは意識を二元論のままに理解することはできないのかという要求も、当然出てくることになる。しかし実体概念は、第一原因であることをアプリオリに要請される概念である。このために意識は自らの基盤を語る上で、常に意識と物質の二実体の取捨選択を迫られることになる。
意識は物質から生まれ出るべきなのか、それとも物質は意識から生まれ出るべきなのか? もともと唯物論と観念論の区別は、物質世界が人間を生み出したのか、理念としての神が人間を生み出したのか、という二つの対立する主張の区別であり、それが転じて物質出発論と意識出発論の形で、現在の両者がある。もちろんその理屈の代表格は、プラトンのイデア論である。古代の観念論は、神の無限性と意識の自由を類比し、意識の神性において自らを権威づけた。旧時代において観念論の風格を支えたのは、常に宗教的権威だったわけである。とくに神が被支配者の側に立っていた時代では、観念論はそれこそ神の名において人間を救済する論理として現れた。もちろんその神の後光は、時代を経て次第に支配者だけを照らすようになり、観念論の威光も最終的に物理の前に潰えることになる。このようなもともとの区別から見れば現代社会では、科学が神の代わりに全てを権威づけており、唯物論が観念論を凌駕しているように見える。ところがそれにもかかわらず実際には唯物論は、いまだに危険思想であり、神を冒涜する悪魔的立場に置かれている。理由は共産主義が唯物論だからである。このために観念論は、エネルギー保存法則を認知しても、不確定性原理が物質の恒常性を否定しているように見えれば、なぜか唯物論が誤りとみなす。同様に、個別の生物の生態環境の特殊性を認知しても、環境要因が遺伝子配列に作用しないので、環境決定論が誤りとみなす。物質がエネルギーに転換したところで、物質が意識や非物質に転化したわけではないし、遺伝子の有無に関わらず、環境は生物を補正してしまうのだが、反共知識人はあたかも観念論の勝利を確信する。なぜそうなるのかと言えば、観念論は富者が自らを正当化する思想的支柱だからである。富者は生まれついて得ていた自らの富が、神により与えられたものではないのを知っている。しかし富者は、周囲にその事実を知られたくないだけでなく、自分でも知りたくない。それでも富者には、自らの富が神に与えられたものである必要があるし、そのように周囲を欺いてきた。富者が周囲だけでなく自らを欺くための、疑いを許さない信仰こそが、観念論である。
世間的に唯物論には、共産主義的である唯物論、および共産主義的ではない唯物論があるようにみなされている。とくに自らの唯物論を自覚し、なおかつ自らの共産主義批判を自覚するような自称唯物論者は、そのように自らを理解せざるを得ない。しかし唯物論は、神の存在と無関係に真理の実在を認める思想である。真理の実在は倫理の実在へと連繋せざるを得ず、倫理の実在は一つの理想社会の実在へと帰結する。それらの実在の連繋に疑義を挟むような不可知論は、それ自身が既に唯物論ではない。したがって唯物論者は、唯物論者である限り、理想社会の実在を確信せざるを得ない。結論を言うなら、唯物論者は共産主義者になるべきである。ただし唯物論者は共産主義者になるべきであるが、共産主義者になるために共産党員になる必要は無い。自らを唯物論者とみなし、唯物論者として生きることが、唯物論者の唯一の資格だからである。
(2010/11/21初稿、2014/08/07改訂)
唯物論 ・・・ 総論
・・・ (物質と観念)
・・・ (素朴実在論)
・・・ (虚偽観念)
哲学史と唯物論
・・・ 対象の形式
・・・ (存在の意味)
・・・ 対象の質料
・・・ (唯名論と実在論)
・・・ (機械論と目的論)
・・・ カント超越論
・・・ (作用因と目的因)
・・・ (物理的幸福と道徳的満足)
・・・ ヘーゲル弁証法
・・・ (仮象と虚偽)
・・・ (本質と概念)
・・・ 現象学
・・・ (情念の復権)
・・・ (構造主義)
・・・ (直観主義と概念主義)
・・・ 弁証法的唯物論
・・・ (相対主義と絶対主義)
唯物論と意識
・・・ 関わりへの関わり
・・・ 意識の非物質性と汎神論
・・・ 意識独自の因果律
・・・ 自己原因化する意識
・・・ 作用主体と作用対象
唯物論と人間
・・・ 猿が人間になる条件としての自由
・・・ 性善説
・・・ 意識と自由
・・・ 人間の疎外
・・・ 状況と過去
・・・ 無化と無効化
・・・ 因果と動機(1)
・・・ 因果と動機(2)