5)事物の真
自己の必然と他者の必然の癒合が善を擁立する。そして意識の究極の他者は、物体である。それゆえに意識の必然と物体の必然の癒合は、究極の善を擁立する。もっぱらこの癒合は、日常生活において意識の物体への譲歩で実現する。単純にそれは物体の必然が意識の必然を凌駕することに従う。ところがそのような譲歩は、二つの必然の癒合ではなく、単なる意識の必然の完敗である。そしてその意識の完敗は、もっぱら意識の必然の無力に従う。当然ながらそこに善が現れる余地は無い。しかし意識が物体の必然を自己の必然とするなら、そのときに究極の善が可能となる。そして意識が物理的真に対して自らの私的快を自覚するなら、その善は無条件に真となる。ただしその自然との一体化をただの思い込みにより実現するなら、それが実現するのは自然崇拝の土着宗教である。その行動主体における善は、神が恵む自然の恩寵に等しい。しかしその一体化がただの思い込みに過ぎないのであれば、その仙人式の達観にも関わらず、意識と物体の対立は自ずと再燃する。したがって思い込みにより物体の必然を自己の必然に代置するのは、自己欺瞞を超えない。そして物体の必然が意識の私的快に対立する限り、その物体の真はやはり善ではない。それゆえに行動主体が物体の必然を自己の必然にしようとするなら、あらかじめそれに先行して意識の必然と物体の必然の対立を抑止する必要がある。もちろん先の自己欺瞞な仙人式達観もそのような対立の抑止の一つの方法である。しかしそれは意識を根拠に擁立する観念論にすぎない。そもそもその仙人式達観は、既に二つの必然の対立を抑止した或る一つの幸福な状態を出発点にする。したがってそれは、現在の幸福の後追い是認である。その幸福な状態とは、生命体が既に享受してきた仕事と労働の日々である。
5.1)仕事と労働
自らを目的とする自己は、手段としての自己自身を媒介にして、目的の自己を実現する。この同じ運動は自己自身を始点にして、自己ではなく自己自身を媒介にする形で進行する。すなわち自らを目的とする自己自身は、手段としての自己を媒介にして、目的の自己自身を実現する。しかしここでの自己自身は、自己の他者である。したがって自己が意識なら、自己自身は物体である。ここで物体が意識ならぬものとして現れるのは、自己意識の勝手な都合である。そこでの自己意識は、単純に意識とは私であり、私でないものは自己自身を含めて全て他者であり、すなわち物体である、と決め込んでいる。さしあたり意識を始点にするか、物体を始点にするかを無視してその全体を眺めると、それが前提するのは自己と他者、目的と手段、主と従の分裂である。もしその分裂が無く、全てが自己または目的または主であるなら、そこには自己も無く、目的も無く、主も無い。要するに従者がいなければ、主人もいない。言い換えれば主人は、従者を前提する。そして逆に従者は、主人を必要としない。したがって先行するのは主人ではなく、従者である。意識の独断が主を意識とし、従を物体とした以上、意識に先行するのは物体となる。したがってこのヘーゲルの主人と奴隷の弁証法が示すのは、あからさまな唯物論である。ただしヘーゲルは、その点を敢えて無視して、その全体を始点に据える。要するに意識と物体のどちらが始点であるかはどうでも良いとする。その全体とは仕事の循環であり、そしてその主人または従者は労働である。この仕事において自己と他者、目的と手段、主と従の対立は抑止されている。
5.2)唯物論の排撃
仕事において主人と従者に区別は無く、都度にそれぞれが主人であり従者であり、さらに目的であり手段である。しかしこの原始共産制は主人における所有の一方的蓄積に伴って変化する。その変化は所有の不均衡を根拠にして、権力構造の不均衡に連携する。またそれゆえに主人と従者の分裂が生じる。その最大の問題は、真理の分裂である。すなわち真理は、権力関係に応じて主人の真理と従者の真理に分裂する。もちろん真理が二通りあるのは、真理にとって矛盾である。そしてこのときに虚偽が生じるのは、主人の側である。従者の使命は、主人と従者を含めた全体の生活維持であり、その仕事に継続にある。そしてその使命は、仕事から遊離した主人の恣意的な出鱈目を拒否する。このときに従者が自らの仕事の根拠にするのは、恣意的出鱈目ではなく物理事実である。またそうでなければ従者の仕事は、無根拠な恣意的出鱈目に振り回されて、不成功に終わる。そしてその従者の真の対極に、主人の真がある。それは物理事実の対極なので、最初から真ではなく虚偽である。しかし恣意的出鱈目を振り撒く主人にとって、仕事の不成功と虚偽は不名誉な事態である。それゆえに独裁者は古今東西を問わず、物理事実の排撃にいそしむ。ここで排撃される物理事実は、端的に言えば唯物論である。一方で所有の頂点に立ち、権力の中心にいる主人の出鱈目は、物理事実の敵対者である。それは往々にして自らの出鱈目を自覚し、それを神託と称する。例えばそれは、天災に対して人身御供を捧げるような主人の気まぐれとして現れる。その迷信は物理事実に根拠を持たず、主人の意識にだけ根拠を持つ。しかもその主人の意識は、従者の意識をそもそも意識として認めない。それゆえに意識は常にそもそも観念論として始まる。
5.3)観念論と唯物論の癒合
仕事において従者の役割があるように、主人にも役割がある。主人の恣意的出鱈目は、物理事実の他者である。それは物理事実の他者として物理事実に対自する。言い換えればそれは客観である。このときに主人の無根拠な出鱈目は、その無根拠において効を奏する。それと言うのも従者の唯物論は、往々にして単なる経験論であり、やはり出鱈目だからである。しかも逆にその経験的真が、むしろ仕事の成就を阻害することさえある。もちろんその出鱈目は、直接的客観との近さにおいて、やはり主人の出鱈目よりましである。しかしこの出鱈目同士の対立は、共同体の維持のために調停されなければいけない。このときに所有の頂点に立ち、権力の中心にいる主人の出鱈目の決済が、全体の客観として全ての対立を廃棄する。このときに主人の出鱈目が本当に真であるなら、それは理想的な結末である。ただし旧世界におけるその調停は、やはり出鱈目である。この出鱈目は、観念論が唯物論と違い、その始まりにおいて既に無根拠な出鱈目であることに従う。ところが主人における所有の一方的蓄積は、同時に物理的真の蓄積でもある。加えて物理の対自者として主人は、従者に対する客観の役割を果たす。それゆえに観念論は観念論の姿のまま、その内実の要所を唯物論で固めながら真に転じる。ここで観念論が唯物論を必要とするのは、そうしないと自らが物理事実と乖離するからである。しかしこの観念論の青息吐息にうんざりすると、観念論は次第に唯物論に転じる。なぜなら虚偽を物理事実で装飾して語るくらいなら、最初から物理事実を語る方が楽で簡単だからである。
5.4)唯物論の反撃
物理事実に準じる観念論の唯物論化において最も重要な役割を果たすのは、情報手段と媒体および技術の物理的進歩である。旧時代において人間世界を支配したのは虚言や妄想の虚偽意識である。その世界では隣接する地域でさえ、そこで何が起きていて、その地域の人々が何を考えているのかを伝聞と類推で判断せざるを得なかった。その他者は同じ人間であるのに、あからさまに自己の他者であり、よそ者や異国人であり、場合によって排除すべき未開人であり、教化すべき奴隷であり、さらには人間ならぬ妖怪か怪物であり、血の通わぬ物体であった。他者が物体であるのは、それが単純に慣れ親しんだ自己と異なると言うだけの理屈に従う。すなわち物体は自己の異物であり、端的に言えば信用できない敵なのである。その物体に対する不信は、物体の移ろい易い現象的変転に従う。またそのように信頼し難いからこそ物体は他者である。ところがその信頼し難い他者である物体は、観察を通じて理解可能である。その理解は物体の信頼回復に等しく、意識と物体の癒合を実現する。その癒合の仕方は、人間同士の間でも変わらない。もともと地域の癒合は、生産物交換が部分的に実現していた。情報技術の進展は、その一体化をさらに加速する。その旧時代の意識世界における意識の他者、すなわち物理事実の流入は、意識世界にはびこる迷信と疑心暗鬼を追放する。それは自己と他者の癒合を実現し、物理因果において対立する二者を、目的論因果において一体化する。そして意識の独断による人間支配が物理に置き換えられると、その情報の精度と速度の進化がさらに人間生活全体を豊かにする。これらの事態は、自己の異物である物体、または意識の敵である物体の扱いを反転させる。その反転は意識に対る信頼を動揺させる。今では移ろい易い現象的変転をするのは物体ではなく、むしろ意識となる。物理事実に準じる観念論の唯物論化は、宗教世界の科学世界への変化、独断専制の実証法治への変化、さらに神託政治の民主政治への変化などの形で社会生活の随所に浸透する。
(2022/11/06) 続く⇒自由の生成 前の記事⇒ヘーゲル的真の瓦解
ヘーゲル大論理学 概念論 解題
1.存在論・本質論・概念論の各章の対応
(1)第一章 即自的質
(2)第二章 対自的量
(3)第三章 復帰した質
2.民主主義の哲学的規定
(1)独断と対話
(2)カント不可知論と弁証法
3.独断と媒介
(1)媒介的真の弁証法
(2)目的論的価値
(3)ヘーゲル的真の瓦解
(4)唯物論の反撃
(5)自由の生成
ヘーゲル大論理学 概念論 要約 ・・・ 概念論の論理展開全体 第一篇 主観性 第二篇 客観性 第三篇 理念
冒頭部位 前半 ・・・ 本質論第三篇の概括
後半 ・・・ 概念論の必然性
1編 主観性 1章A・B ・・・ 普遍概念・特殊概念
B注・C・・・ 特殊概念注釈・具体
2章A ・・・ 限定存在の判断
B ・・・ 反省の判断
C ・・・ 無条件判断
D ・・・ 概念の判断
3章A ・・・ 限定存在の推論
B ・・・ 反省の推論
C ・・・ 必然の推論
2編 客観性 1章 ・・・ 機械観
2章 ・・・ 化合観
3章 ・・・ 目的観
3編 理念 1章 ・・・ 生命
2章Aa ・・・ 分析
2章Ab ・・・ 綜合
2章B ・・・ 善
3章 ・・・ 絶対理念
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